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{右}延命地蔵堂&秋葉山常夜燈 分岐した旧道は少し行くと突き当たりとなり右折していくと東海道線の横砂踏切を越え再び国道に合流する。合流地点正面には堂があり左前には秋葉山常夜燈と袖師ふるさとの路20の看板がある。延命地蔵尊の建立は古文書の記録により300年ほど前と言われる。通称「横砂のお地蔵さん」と呼ばれ8体の石仏像が安置されている。袖師ふるさとの路は平成9年にまちづくり推進事業として地元の史跡41ヶ所をまとめたもので袖師公民館の駐車場に地図看板があってその近くの馬頭観世音菩薩を起点(1番)としている。ここから先は国道1号を歩いていく。 |
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{右}念仏供養塔 信号を1つ過ぎてしばらく行くと右から小道が交差してくる角にある。昭和35年建立で自然石に「念仏十二億萬遍供養」と刻まれている。袖師ふるさとの路22の看板もある。 |
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{右}医王山 東光寺 [臨済宗妙心寺派] 静岡市清水区横砂本町20-31 少し先にある。天文年間(1532-1554)温仲が現地より北方の地に創建。本尊の薬師如来(秘仏)は行基作と伝わる。その後衰退し慶長年間(1596-1615)一輪が現地に移し中興するも再び衰退、宝暦年間(1751-64)通天が堂宇を再建し安政年間(1854-60)松洲が庫裡を再建、9世共堂義範(明治41年没)の師が清見寺蓉嶺維禎だったためその頃に妙心寺派となった。山門は勅使が興津川の川止めで泊まる事になり急遽造られたとされ門扉から格子門と呼ばれる。書院は文久4年(1864)清見寺旧書院を移築。現本堂は平成5年築。本堂手前左に古い万霊塔や石仏など。門入って右に楠、左に水子地蔵尊、6地蔵、嘉永7年(1854)青面金剛童子字碑などがある。門前に袖師ふるさとの路23の看板もある。 |
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{右}旧東海道松並木の松 右の昭和シェル袖師東SS(横砂中町21-30)を過ぎると葉が枯れている松が1本あり幹に袖師ふるさとの路24の看板がある。この後は庵原(いはら)川にかかる庵原川橋を渡る。橋を渡り榊屋を過ぎた左にも枯れてはないか同様の松が1本あり同じく看板袖師ふるさとの路12がある。 |
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{左}榊屋 横砂西町6-15 庵原川橋を渡るとある。東海道の茶店として大正5年(1916)に創業し戦後に定食屋を経て現在のような和食ファミリーレストランになった。街道側の植込みには井上馨別荘「長寿荘」から移植したという小さな松が植えられ「井上候爵之松」の札が立てられている。11時-14時、17時-21時、火、第2水休。店の前には昭和28年まで静鉄清水市内線の庵原橋停留所があり電車は細井の松原跡がある辻町交差点の西久保停留所から庵原川橋手前まで旧東海道の中央を走っていた。昭和4年(1929)江尻新道から横砂まで開通した市内線は昭和28年(1953)に西久保から海側を走る路線に変更され旧東海道上は通らなくなり昭和49年の豪雨が原因で廃線となった。 |
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{右}延命地蔵 しばらく行くと赤い屋根に壁が白く塗られた堂がある。袖師ふるさとの路10の看板もある。 |
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{右}馬頭観世音菩薩 袖師交差点で県道338号を渡り少し行くと沢野茶店前(袖師町1081)に祠があり袖師ふるさとの路1の看板もある。昭和20年代頃までは石仏だけあったが地元の寄進で台座と祠が作られた。台座の「交通安全」の文字は場所が国道沿いの歩道(国有地)であるため設置許可を得るため刻んだという。少し先右の清水袖師公民館(袖師町1092)の駐車場に袖師ふるさとの路案内地図と夢舞台道標袖師ヶ浦がある。横砂東町・西町から袖師(そでし)町付近の浜は袖師ヶ浦といわれていた。公民館前は昭和28年まで静鉄清水市内線の嶺停留所があった。少し行くと平安時代に有度郡と庵原郡の境をなしたという愛染川を昭和26年竣工の愛染川橋で渡る。川は袖師ふるさとの路7に指定されているが看板はない。 |
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{右}松原観音堂・津嶋神社 西久保原交差点の先に神社の小祠と奥に観音堂がある。袖師ふるさとの路6の看板もある。観音堂は創建は不詳だが江戸時代は庚申堂で天明年間(1781-89)に如意輪観音を合祀した。明治初期ごろ改築され昭和20年戦災焼失、翌年復興した。現在は簡易老人憩の家にもなっている。神社は天王様と呼ばれており明治時代には毎年麦藁で1m四方の神殿を造って祭りをし珍しい行事として知られていた。境内左には一等水準点もある。 |
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{左}細井の松原跡 すぐに辻町交差点の2叉路があり三角地帯に1本の松と石柱がある。古くはここから辻村の東あたりまで松並木だった。元禄16年(1703)駿府代官守屋助三郎の検地では辻村戸数110戸松原の全長199間2尺(約360m)松の本数206本とあり松原せんべいを売る茶店があった。松は昭和19年松根油(航空機燃料)の原料として伐採され現在の松は平成4年社団法人清水青年会議所から寄贈されたもの。手前には夢舞台道標細井乃松原や東海道で倒れた旅人を埋葬したと推察され松の伐採時に出土した大量の人骨を供養する平成13年建立の無縁さんの碑もある。2叉路手前左には昭和49年まで静鉄清水市内線の西久保停留所があった。東海道はここから右へ分岐ししばらくすると辻町商店街に入る。 |
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{右}秋葉道入口 商店街を進み広い道路を渡るとコーティングした紙を貼った木製立札がある。秋葉山栄松院(西久保1-2-28)に通じる参道が古くから秋葉道と呼ばれており入口には戦後まで「秋葉山五丁入」と刻まれた石道標があった。現在はレンガ敷きの道になっている。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世の東海道)にも接続し辻村の主要な道路でもあった。 |
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{左}辻一里塚跡(42) 若杉金物店(辻2-4-27)の斜め向かいの民家前に木製立札がある。一里塚は実際はここではなくすぐ先の十字路付近の両側にあった。 |
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{右}高札場跡 一里塚跡すぐ先の十字路を渡ると木製立札がある。高札場はこの付近にあった街道右側の一里塚の横にあった。 |
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{右}江尻宿 東木戸跡 その先の十字路を渡った居酒屋碓水(本郷町8-18)の前にに木製立札がある。辻村と本郷の境に江尻宿の東木戸(見附)があった。この付近は道路が枡形までにはなっていないが「く」の字形に曲がっており外から宿内を見通すことが出来ないようになっている。木戸の脇には番小屋もあったとされる。東木戸から本郷町、鍛冶町、鋳物師町、伝馬町、中心の宿通りである下町(志茂町)、中町(仲町)、上町(魚町)、巴川を渡って入江町の西木戸までおよそ2kmであった。 |
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{右・寄}示迹山 本要寺 [日蓮宗]辻4-3-1 東木戸跡の十字路を右折して行くと正面。寛永元年(1624)妙蓮寺第8世蓮行院日等上人が隠棲した草庵が起こりで江戸中期頃には寺として堂が整った。明治30年(1897)に台風で本堂が倒壊し昭和5年(1930)再建、昭和9年には庫裏を完成するが昭和20年の空襲で全焼。すぐに仮本堂を建て昭和32年に庫裏、昭和41年に本堂を再建、昭和51年に書院、昭和53年位牌堂、平成8年地蔵堂、水屋、無縁供養塔、平成14年永代供養塔を建立した。
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江尻宿 本陣2脇本陣3旅籠50家数1340人口6498[天保14年(1843)] 川の尻(下流)の語源が示す通り巴川の砂州に出来た宿で元は現在より北(北街道沿い)にあって今川氏の頃から市場として栄え永禄12年(1569)江尻城築城以降は城下町として栄えた。江戸時代に入り家康は銀座通りを通る道を東海道とし現在の辺りを江尻宿とした。宿場の南にある清水湊は物資輸送、軍事の要衝で江戸と大坂を結ぶ拠点として栄えた。幕末以降最大の生産物である茶は横浜まで運び輸出していたが明治32年(1899)清水港も開港場として認められると茶の輸出量の8割のほか鮪や蜜柑の缶詰の輸出、木材の輸入も直接行った。大正13年(1924)清水市、平成15年静岡市になった。 |
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{右・寄}華生山 妙蓮寺 [日蓮宗]本郷町6-32 東木戸跡の次の角を右折すると正面。元は真言宗の寺だったが応永34年(1427)中山法華経寺(千葉県市川市中山2-10-1)から上洛する際に立ち寄った21歳の久遠成院日親上人が住職智善房と法論し日親が開山となり寺名を改め身延末寺とし改宗した。昭和20年戦災で本尊以外の建物、寺宝、文書類を焼失、昭和38年に本堂、位牌堂、昭和51年に梵鐘を鋳造し鐘楼などが再建された。平成9年大客殿、庫裡が改築、平成14年本堂、位牌堂の屋根瓦を総葺き替えした。本堂右に日蓮像、左に本堂の旧屋根瓦が置かれている。境内左に妙徳稲荷社や浄行菩薩もある。 東海道は少し行くとJR清水駅を左突き当たりに見る江尻東交差点で国道1号を渡る。
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{右}市中山 江浄寺 [浄土宗]江尻東3-6-6 小林銅鐵店の先に石柱がある。永正9年(1512)光明寺9世観誉祐崇が上洛の際に勝沢に創建し江尻宿開設時に現地に移転した。天正7年(1579)21歳で自害した家康の嫡男岡崎三郎信康の遺髪を埋葬供養したとされる供養塔が境内左にある。遺髪は信康の家臣榊原清政の侍女楓と平岩親吉が保管していたものを慶長11年(1606)清政が久能城主に任じられた際に譲り受けたとされる。家光により寺紋に葵の御紋が許され境内敷地は約3000坪(1万平方m)で善生庵、潮音院、観音堂など大伽藍となり大名らも立寄り朝鮮通信使一行も2回宿泊したが寛政の大火と安政地震で堂宇や記録類は焼失した。他に平成に再建された恋塚の碑もある。六地蔵や三観音、永代供養堂もある。梵鐘は昭和50年。 |
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{左}元脇本陣家 大ひさし屋旅館 銀座13-30 清水江尻郵便局(銀座10-6)を過ぎ次の交差点を右折しパル通り商店街を行く。すぐ右のテーラー雀荘(銀座10-8)の先が翁屋脇本陣があった辺りで少し先左の洋菓子喫茶富士(銀座11-24)の前に夢舞台道標江尻宿がある。少し先に旅館がある。脇本陣もつとめ江戸時代から旅籠業をやっており戦災で焼失したあと現地に再建されたが平成19年1月に廃業した。大ひさし屋の名前は大久保彦左衛門がよく泊まっておりある時「おお久しいのう」と言った事に由来する。少し行くと十字路の手前右が府中屋脇本陣、十字路の位置左が羽根本陣、その少し先左が大竹屋脇本陣があった位置となる。 |
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{左}江尻宿説明板 十字路を渡って少し行くとおもちゃの富岡屋(江尻町4-33)手前に昭和59年設置の説明板があり本陣や脇本陣の位置を示している。江尻宿の中心部は伝馬町と魚町で鈎の手に曲がり紺屋町・七軒町も警備のため袋小路になっていた。手前左の月極駐車場銀座ガレージあたりが寺尾与右衛門本陣があったあたりで敷地629坪(2075平方m)建坪390坪(1287平方m)の広大な敷地を擁しており家康手植えの松も2本あった。その斜め向かいには橋本本陣もあった。その付近には平成10年設置のクジラのモニュメント(縦2.4m横1.2m高1.6m)が設置されている。慶長16年(1611)久能浜に体長11間(20m)慶長19年(1614)三保の貝島御殿の近くに体長13間(23.6m)など江戸時代に鯨が流れ着いた記録が残っている。 |
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{右・寄}魚町稲荷神社(江尻城跡) 江尻町14-74 東海道は履き物西村屋前の交差点を左折するがまっすぐ行くとある。裏の清水江尻小学校を合わせた場所が永禄12年(1569)武田信玄が築いた江尻城(小芝城)跡。城主は武田信光、元亀元年(1570)山県昌景を経て天正6年(1578)穴山梅雪。梅雪は信心深く城にも鎮護が必要と考え神社を建立し天守閣(観国楼)も築いたが天正10年(1582)家康に降伏し慶長6年(1601)廃城。境内には右に明治天皇御東行御遺跡や左に大正6年(1917)稚児橋の親柱がある。社殿左には昭和31年小学校に赴任した新人教師堀田哲爾がサッカーをやらせたことに起源する日本少年サッカー発祥の碑(平成11年建立)もある。狛犬は明治39年(1906)燈籠は昭和15年。境内右に魚町自治会館、左はすべり台など遊具のある公園。 |
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稚児橋(河童橋) 履き物西村屋(江尻町4-28)前の交差点右には高札場・問屋場があった。左折するとすぐ稚児橋で巴川を渡る。慶長12年(1607)家康の命令で巴川に初めて橋が架けられた。江尻橋と命名される予定で地区最年長の老夫婦が渡り初めをしようと橋に足をかけようとすると突然川から現れた童子が橋上を渡り去ったためこの橋を稚児橋というようになった。それは稚児の格好をした河童の仕業という話もあり別名河童橋とも呼ばれる。現在の橋(長さ42.8m幅14.8m)は平成13年竣工で欄干には河童のレリーフ、4つの橋柱にも河童像があり右手前の橋柱には四つん這いの河童、左手前は肩から荷物を下げて立つ河童、渡って右は口に手を当てて立つ女河童、渡って左は膝立ちで頭に器を乗せた河童。 |
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{左}河童のこしかけ石 橋を渡ったところに石と平成4年建立の説明碑ある。平成3年台風の修復作業の時に発掘された石で河童橋に因んで河童のこしかけ石と呼ばれる。慶長12年(1607)家康が駿府城の大改修をする際に伊豆から運んでいて巴川に落ちたと推定される石で同様の石が慈雲寺や巴川製紙所清水事業所(入江1-3-6)にもある。河童の伝説は藁束に複数の武者の顔を付けた清水の郷土人形「いちろんさんのでっころぼう」にも影響している。橋を渡った右には平成2年設置の船高札の説明板もある。正徳元年(1711)から明治の初めまで船に関する定めを掲示していた高札場がここにあった。 |
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{左}紫雲山 法岸寺 [浄土宗] 入江南町3-33 少し先の交差点を過ぎしばらく行くとY字に似た変形十字路がある。左(直進)は久能道で右を進むのが東海道。少し先に寺の石柱がある。本堂左に浄瑠璃「生写朝顔話」の深雪のモデルで寛永8年(1641)に没した4代目清水船手奉行山下弥蔵周勝(旗本1700石)夫人の墓がある。日向国縣藩主高橋元種の娘お久として生まれ高鍋藩主秋月種長の養女になったが翌年に種長が没しお家騒動が起こり15歳-18歳の時に藩を出て身分を隠し旅を続け遠州の本郷(現:浜松市芳川町)に元和2年(1616)に辿り着いた。後に山田案山子(近松徳三)により浄瑠璃となり翠松園主人が増補し天保3年(1832)初演された。門入って右に延宝7年(1679)元禄11年(1698)などの石塔、石仏が並ぶ。他に6地蔵+1地蔵もある。 |
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{右・寄}金龍山 東明院 [臨済宗妙心寺派]入江2-1-18 理容三ツ井の先を右折すると正面。屋根に鯱がついている山門は慶長6年(1601)江尻城が廃城になる際に裏門を譲り受け移築したが焼失したため天保2年(1831)焼け残った南蛮鉄の武田菱をかたどった門扉の金具を使用して復元したもの。山門を入った左には修復時に使用するはずだった小芝神社(小芝町4-10)の旧裏山門の鬼瓦が置いてある。本堂の左前に文化元年(1804)の石仏や明治27年(1894)の供養塔、右前には蘇鉄がある。他にも境内には6地蔵がある。 |
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{右}樹林山 慈雲寺 [臨済宗妙心寺派]入江2-2-30 しばらく行くと看板と石柱がある。16世紀末に一安禅師により創建され本尊は聖観世音菩薩。宝永4年(1707)の震災でほとんど焼失し宝暦年間(1751-64)白隠禅師の弟子だった長泉智牛により再興された。豊後(現:大分)出身の長泉は飢饉救済のため薩摩芋の栽培法をこの地に教え普及させ芋和尚と呼ばれた。境内右に長泉をはじめとする歴代住職墓所がある。安政元年(1854)の大地震で全壊、第2次大戦の空襲でも全焼し現在の本堂、庫裏、山門等は戦後の再建。明治6年(1873)には清水入江小学校(追分2-3-1)の前身である入江学舎が置かれた。本堂前に平成13年建立の石造仁王像、境内右に三界万霊塔、左に納骨堂、6地蔵、中にお経を収められる平成13年建立の摩尼車もある。 |
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{右}西木戸跡 少し先の佐野米穀店(入江2-5-7)手前の緑の鉄柱の陰に平成3年建立の碑がある。江尻宿の京側の入口。この付近は漫画家さくらももこの実家の八百屋があった場所で自身の少女時代をモデルとした代表作ちびまる子ちゃんの舞台にもなっている。 |
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{左}志三づ道道標(谷口法春題目塔) 県道197号を横断ししばらく行くと追分羊かん本店の手前にある。御影石の題目塔(高さ1.4m幅40cm)で「是より志三づ道」とある。左に分岐する細道が志みづ道で清水入江小学校の校庭沿いから清水文化センター横を通り久能道と交差し清水方面へ通じた。道標は道の反対側にあったが昭和32年頃に現在の位置に正面に道標面、右に「七面大明神守護」裏に「実相院法入日中」「法春日陽寿位」の向きで置かれ松2本も植えられた。建立者の谷口法春は京出身で元禄年間(1688-1703)頃に妻や息子・法悦と共に全国を行脚し寺や刑場などに題目塔を建てた。東海道には他に品川宿近くの大経寺、由比宿近くの讃徳寺、二川宿の妙泉寺、庄野宿の先の川合、関宿の西の追分、瀬田の妙真寺などに現存する。 |
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{左}追分羊かん本店 追分2-13-21 元禄8年(1695)創業。江戸時代は庄屋だった府川家の新助が明の僧を助けた折に製造法を伝授されたのが起こりで明治に入って本業として羊羹屋になった。小豆のあんに餅米を混ぜ竹の皮に包んで蒸しており竹の香りが移って風味が増している。徳川慶喜や清水の次郎長も贔屓にしていた。店舗は戦災で焼けた後に昔通りに再現したもの。近隣の格子戸とは違い江戸格子と京格子の両方を使っている。店内の床間には慶喜や勝海舟、山岡鉄舟の書画が日替わりで掛けられる。追分羊かん(840円)一口羊羹(210円)の他きざみ栗入り、つぶ栗入り、詰め合わせなど各種ある。 黒ごまだれ入りの冷凍できる餅の姫こもち(525円) ヴィッケルン(1995円)イタリアンロール(1365円)もある。8:30-17:00無休。
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{右}明王山 延寿院 [真言宗醍醐派] 追分3-5-12 少し行くと石柱がある。醍醐寺三宝院の末寺で「追分の不動さん」として親しまれている。 寛文8年(1688)に霊山寺(大内597)の旧本堂を移築したと言われる不動堂は室町末期の建築様式の方三間堂で県指定文化財。昭和48年の解体復元工事で茅葺屋根から茅葺形銅板葺方形造になった。本堂右から隣接する追分公園に出ることができその裏には昭和44年に移転してきた春日神社がある。祭神は天兒屋根命、武甕槌命、経津主神、比売大神でもとは鎌倉時代に駿河国入江荘の地頭であった入江氏が先祖藤原維清(維サC)の祖神を勧請した神社。 |
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{左}都田の吉兵衛供養塔 少し先の民家の塀前にある。旅籠青木屋の跡で文久元年(1861)泊まっていた都田(現:浜松市都田)の吉兵衛(通称都鳥)が押し入った次郎長一家により討ち取られた。次郎長の子分森の石松が四国の金刀比羅宮参りの帰路に遠州笠井の寺島の常吉を訪れた際に持っていた香典25両を狙った都鳥は石松を騙し殺したと講談などで語られている。しかし実際は殺したのは保下田の久六の残党の布橋の兼吉で都鳥は兼吉に頼まれ次郎長に侘びを入れに行く途中だったと言われ長い間悪者とされ供養塔がないのを憐れんだ追分羊かん本店14代目府川松太郎が昭和38年に供養碑を建立した。 |
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金谷橋 しばらく行くと大澤川を渡る。平成11年竣工の橋(長さ11.463m幅11m)の左手前には説明板があり昔は土橋で牛馬は通れず土手を下って川を渡ったとある。その手前には昭和9年建立の清水市長(当時)大石惠直揮毫の大澤川改修之碑や夢舞台道標元追分もある。 |
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{右・寄}姥が池・弁財天 橋から2つ先の信号を右折し広い歩道の道を少し行くと右に柵に囲まれた池と弁財天の社がある。延暦年間(782-805)付近に住む金谷長者にやっと男児が産まれたが病にかかり乳母がここの弁財天に祈願し身代わりとなり池に入水して死んだという伝説がある。池のほとりに立って「姥かいな」と呼べば答えるかのように泡が出ては消えていき姥ヶ池と呼ばれるようになり咳に病む子供達がお参りすると治ると言われた。また文禄2年(1593)亀屋九左衛門の妻が嫉妬により身投げしたとも伝わる。池の脇には古い石塔や石仏もある。東海道を先に進むと東海道線と静岡鉄道を追分踏切で渡り手前左には清水市が設置した木製の道標「追分」があって江尻宿と府中宿の方向を示している。 |
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{左}久能寺観音道道標 踏切を渡りゆるやかな坂を上りきると交差点手前に安永7年(1778)の道標と説明板がある。久能寺は明治初期に廃寺となり明治16年(1883)に山岡鉄舟が再興した現在の鉄舟寺(村松2188)のことでここを左折し有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺を通り久能寺へ至る道を久能寺観音道と呼んだ。久能寺は推古天皇の時代(592-628)に国主久能忠仁または秦久能が久能山に創建したと言われ奈良時代に行基が中興し栄え一時は330もの建物があった。武田信玄が久能山に久能城を築城したため天正3年(1575)寺は現在の鉄舟寺の地に移転した。交差点を渡った正面には昭和59年設置の東海道の説明板があり日本書紀の頃に既に東海道という言葉があったことなどが説明されている。 |
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{左・寄}上原堤 道はここから上原堤を迂回するように右にカーブしていく。上原堤は元は農業用溜池だったが現在は緑に囲まれたレジャー(釣り)向けの池になっている。別名宗丹池と言い今川氏に仕えていた頃に宗丹と名乗っていた北条早雲が池を作ったとも伝わる。池の向こうのジャスコ清水店がある場所は昭和2年(1927)から平成5年(1993)まで狐ヶ崎遊園地(昭和43年から狐ヶ崎ヤングランドに改称)があった。 |
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{右}旧上原跨線橋のモニュメント 狐ヶ崎駅を少し過ぎたところで静岡鉄道の線路を跨ぐ道路との交差点にある。線路を跨ぐための橋は平成16年に新しい橋がかけられたため旧橋の部材がモニュメントととして設置された。昭和2年(1927)竣工の旧橋(長さ22.5m幅4.2m)は鉄道のレールを部材に使用した橋で太鼓橋と呼ばれていた。右にある鉄道レールには「DICK. KEER. SANDBERG. D. K. 1911」とメーカー名や年号が刻印されておりドイツのドイチェカイザー社で明治44年(1911)に製造され橋桁として使用されていた。旧橋は幅員が狭く一方通行などの規制があったため新しい橋は幅が旧橋の2倍以上(8.5m)で2mの片側歩道がある。 |
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{左}上原子安地蔵堂 少し先にある。創建は不明だが焼失した旧本尊は行基作(奈良時代)と伝わる。天正10年(1582)家康が武田勝頼を攻める前に江尻城主穴山梅雪とこの地蔵堂で会見し梅雪は寝返った。後に荒廃したが元和元年(1615)大坂夏の陣直後に福聚院(吉川267)明眼和尚の尽力と付近住民の協力により再建。明治24年(1891)木像の本尊と堂が焼失して以来地蔵堂は間口1.2m奥行1.8m程の仮堂だったが昭和7年(1932)再建された。境内にはすべり台などの遊具もあり左には高さ10.7m目通2.2m樹齢200年以上の槙、社殿前には蘇鉄もある。付近は鎌倉時代以前から地蔵原と呼ばれ室町後期から上原となり永禄11年(1568)武田信玄が今川氏真を攻める時には信玄配下の山県昌景が上原に宿営した記録がある。 |
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{左・寄}十七夜山 千手寺[黄檗宗]&十七夜宮 上原2-4-50 有度十七夜山保育園の手前に十七夜宮の説明板と「千手寺」「十七夜宮」の小さな石柱があり間の石段を登り左折して行った正面にある。山門入って左に馬頭観音の小堂、その隣に元文5年(1740)と昭和55年の庚申塔が祀られている祠がある。境内には左に古井戸、右に五郎松と呼ばれる松や6地蔵+1地蔵もある。燈籠は文化15年(1818)。境内には白秋庵という茶室もあり昭和2年(1927)北原白秋がちゃっきり節を作詩した際に立ち寄り狐音頭を作詩したことに因む。昭和35年建立の狐音頭の碑や上田千石の句碑もある。 寺の本堂の裏には不動尊を祀る十七夜宮がある。 少し先で東海道は右に清水有度第一小学校を過ぎ県道407号(南幹線)に合流しすぐ先の交差点右には夢舞台道標有度がある。 |
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{右}草薙一里塚跡(43) 合流した少し先に大きな信楽狸の像がありその横に碑が3つある。手前が自然石に「一里塚之址」と刻まれた碑でその横に説明碑、その横に平成元年建立の「史跡東海道草薙一里塚」石柱があり裏に道路拡張により移設されたことが刻まれている。塚は5間(9m)四方、高さ1間(1.8m)で塚の脇には高札所があり左は榎2本杉1本、右は榎1本が植えられ付近では一里山と呼ばれていた。後ろは清水銀行草薙支店の新築工事中。 |
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{左・寄}草薙神社への参道 しばらく行くと左の生ロール菓子のTOUEIDOU(草薙3-9-1)手前を少し入った右に平成15年設置の説明板がある。江戸時代はここに草薙神社(草薙349)の東鳥居があり参道は松並木になっていた。この場所に寛政7年(1795)に建てられた石鳥居は現在草薙神社に移されている。道筋の現在の清水第七中学校(草薙3-9-20)の校庭あたりには御茶小屋と呼ばれる小屋やお茶を沸かすために釜を置いた茶臼塚があって寛永年間(1624-44)に将軍が上洛の折にはお茶小屋にて御茶を献上しその後もこの付近を釜の段と呼んだ。草薙神社の鳥居は江戸時代には草薙村と谷田村の境にも寛政5年に建立された西鳥居があった。県道はこの先右にカーブししばらく行くと昭和51年竣工の柳橋を渡る。 |
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{左}草薙神社 鳥居 しばらく行くと昭和50年の大きな鳥居がある。鳥居左には元禄12年(1699)の神社への道標「此奥有草薙大明神」右には昭和6年(1931)神社名の石柱がある。草薙神社(草薙349)は左折し1.2km先にある。東国平定中に逆賊が原野に放った火に襲われた日本武尊は「遠かたや しけきかもと をやい鎌の」と唱え天叢雲剣で草を薙ぎ払い難を逃れた。景行天皇53年(西暦123)に日本武尊の父である景行天皇がこの地を尋ね日本武尊を祀る社を建立し草薙の剣と名を変えた天叢雲剣を奉納したと言い朱鳥元年(686)剣は天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたと伝わる。この地は草薙、焼けた原野は焼津と呼ぶようになった。神社境内には日本武尊像もある。 |
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{左・寄}「天皇原と古宮」説明板 鳥居を過ぎ静清信用金庫草薙支店(草薙1-18-20)とファミリーマート間の通路を抜けると裏道に平成16年設置の説明板がある。日本武尊の没後の景行天皇53年(西暦123)景行天皇がこの地を訪れ息子の日本武尊を偲んだとされ後に草薙川西側一帯の地が天皇原と呼ばれるようになった。その時に天皇が建立した草薙神社は元はこの付近にあり天正18年(1590)家康が社地を寄進した現在の地に移転した。ファミリーマート先の交差点を右に行くと草薙駅がある。交差点から旧東海道は本来は左にカーブしていくはずが道が消滅しているためこの交差点を左折しすぐ右折して県道の一本南の細道を迂回する。1ブロック行くと道にセンターラインが引かれた旧東海道に戻れる。 |
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{右・寄}月光山 鳳林寺 [曹洞宗] 中之郷1-10-23 旧道に入り250m先の十字路を右折し右。元は真言宗で慶安年間(1648-51)生岸宗誕和尚が開基し桃原寺(駿河区国吉田6-10-87)2世龍岸詳呑が開山し改宗。本尊は延命地蔵菩薩。元は法林寺と書き北にあったが火災で移転し鳳輪寺と改め更に安永2年(1773)現地に移転し鳳林寺となった。大正10年(1921)本堂を改修し瓦葺にし昭和52年開山堂を再建、庫裏は文久3年(1836)で昭和38年改修、山門は文化9年(1812)で平成18年改修。梅花観音霊場35番の観世音菩薩も本堂に安置。門前右に嘉永2(1849)延命地蔵の祠、昭和54年水子地蔵、延享4年(1747)などの巡礼塔2基、左の祠に6地蔵、 正徳3(1713)庚申塔、如意輪観音石像。境内に昭和11年(1936)三界万霊塔、不動明王堂や榧と楠。
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{右}閻王寺跡 しばらくするとカンコー学生服の看板がある服部商店の先の駐車場に平成12年設置の説明板がある。ここには閻魔大王を本尊とする慈雲山閻王寺があり子宝に恵まれ代々繁栄すると伝えられたため多くの人々から信仰されたが明治10年(1877)焼失し廃寺となった。閻魔大王像はその後鳳林寺に移され昭和52年中之郷2丁目の熊野神社境内にある鳳林寺薬師堂に移された。閻王寺の門前の東海道を閻魔坂といい傾斜が急だったため馬から落ちる人が多く難所と言われた。閻魔大王の仕業と考えられ住職が閻魔大王像の胎内仏を後ろ向きにして法要を行ったところ事故は無くなったと伝わる。閻魔大王像は竜爪山近くの平山村から切り出した1本の大木から造られた3体の仏像のうちの1体とされる。 |
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{左}谷田山 東光寺 [曹洞宗] 谷田9-15 少し先ににある。入口右に「日本一石仏だるま」と称する葦葉達磨大師像がある。山門入って左に平成14年道元禅師像や6地蔵があり境内にはともだち小僧、おそうじ小僧、見合いだるま、七転八起だるまなど石像がいくつかあり中国の友人から贈られたという再見かえるもある。本堂左に昭和55年など文字のみの庚申塔が5基、他に石造13重の塔、水車の庭、慈恵の滝など。境内左には江戸時代の画家神戸麗山(1802-62)の墓がある。庵原三山の1人と言われ庵原郡松野村(現:富士川町)に医師の長男として生まれ特に富岳図を好み富士が最も美しく見える地としてここに草庵を建て絵を描き安政4年(1857)孝明天皇に作品を献上し天覧の印を授かった。寺には麗山の掛軸も残る。梅花観音霊場34番。 |
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