東海道ルートガイド
原宿

{左・寄}普門山 正覚寺 [臨済宗妙心寺派]小諏訪518-1
中小諏訪バス停を少し過ぎるとある。延宝8年(1680)元日に見つかった薬師如来に堂がないのを憂いた松長村の廣瀬豊房が勧進にまわり元禄2年(1689)徳源寺9世方室玄策禅師を迎え自覚庵として開山。昭和20年に全焼したが本尊は難を逃れ昭和46年本堂再建時に正覚寺に改名。自覚庵薬師如来縁起を所蔵。本堂入口に賓頭廬尊者が安置され「なでぼとけ」として親しまれている。境内右に漁網に引き上げられた地蔵菩薩の小堂や天保8年(1873)近くの杉本家が行者より譲り受けた白衣観世音菩薩の小堂がある。他に境内左に壺日審大菩薩(文字碑)、右には石造水子地蔵、石造白衣観音、忠霊塔。
{左・寄}浮島山 清玄寺[高野山真言宗]大諏訪160
東大諏訪バス亭のすぐ先に駐車場があり左折し左にある。寛元2年(1244)清玄法印が金剛峯寺の末寺として開山し本尊は薬師如来。脇佛に弘法大師地蔵尊がある。貴族の信仰であった真言宗が地方では敬遠された頃にあたる安永年間(1772-81)に浄土宗に改宗し乗運寺の末寺となったが明治25年(1892)真言宗に戻った。昭和38年に現在の本堂や庫裏を新築した。境内左に平成5年に作られた祠(地蔵堂)があり年号不明の地蔵と天明8年(1788)青面金剛(庚申)石像がある。
{右}八幡神社(大諏訪八幡宮) 大諏訪229
清玄寺から250mほど行くと参道入口がある。創建は不明だが安政7年(1860)年以前とされる。本殿は江戸中期のもの。社殿前左に昭和2年と昭和30年〜36年この辺りの湿地を開発した際の記念碑がある。社殿左奥に春日大社、浜宮社などの境内社と宝永6年(1769)銘の石塔がある。鳥居は昭和44年、灯籠は文久元年(1861)。境内右奥には大諏訪集会所(公民館)、社殿裏には遊具がある。
{右}妙秀山 栄昌寺(榮昌寺) [日蓮宗] 大諏訪222
大諏訪バス停の手前にある。後に富士川町松野の永精寺19世となった珠光院日宝が慶長5年(1600)に開山。当初は草庵だったが享保2年(1717)第13世智眼院日光が客殿を建立した。明和3年(1766)四菩薩、四天王など12体の仏像が奉安され享和3年(1803)に庫裏、明治39年に本堂が建てられた。境内右には昭和17年に建てられた七面大明神、鬼子母尊神、清正公大神祇を祀る七面堂がある。その横奥には安永8年(1779)文政9年(1826)の日蓮大菩薩の文字碑や明治23年(1890)昭和56年の題目碑、境内左には日蓮像もある。他に樹齢300年以上と推定される蘇鉄がある。明治9年(1876)向かいの片浜小学校(大諏訪41)の前身である有斐館が置かれた。
{右}承光山 吉祥院 [本門法華宗] & 願満具足天満宮(大諏訪天満宮) 大諏訪212-1
しばらく行くと門がある。境内左に寺の本堂、右に神社の社殿がある。本堂前右に題目碑、水子地蔵、昭和56年梵鐘の鐘楼がある。社殿右に筆塚や明治35年願満具足天一千年祭の大きな石碑、昭和56年子育鬼子母神(文字碑)がある。天満宮と吉祥院の関係は菅原道真の祖父にあたる菅原清公が遣唐使として渡航するおり嵐に逢い吉祥天に航海の無事を祈ったところ難を逃れて以来菅原家において吉祥天信仰が伝統となったことに由来し清公の子是善は京都の邸中に吉祥院という名の氏寺を建立している。
{右}松長一里塚跡(30)
しばらくすると民家の塀の間にある。平成16年8月建立の新しい黒石碑で「松長一里塚跡碑」と刻まれている。大諏訪と松長の境にあったので大諏訪一里塚とも呼ばれ大諏訪側には3軒の茶屋が並んでいた。碑の横には「火之要心 西 松長 東 大諏訪」と刻まれた石柱もある。
{左}光法山 蓮窓寺 [日蓮宗]沼津市松長137
しばらく進むと寺の駐車場があり手前を左折すると右に山門がある。寛文2年(1622)妙海寺(下河原町466)20世修善院日根が開山。開基は天照院殿三好松長将軍義観大居士。平成2年本堂、客殿、庫裡、七面堂、山門を新築。本堂にある日蓮聖人像は安政年間(1854-60)に造られたとされ他にも七面天女、鬼子母神、毘沙門天が祀られている。元禄2年(1689)の釈尊涅槃図もある。前代の山門は近くにあった荻野山中藩陣屋の裏門を移した四足門で沼津市文化財だったため解体後も市教育委員会が保管している。
{右・寄}神明塚古墳・神明宮 松長364
カメラの浜野の手前に看板があり右折していくと正面。前方部のまわりが崩れ周囲の堀も大半が埋没しているが全長54mある沼津市内最大の前方後円墳で3世紀から4世紀のものと推定されている。子ノ神古墳、長塚古墳とともに沼津市の三大古墳と呼ばれる。後円部頂上には天照大神を祀る神明宮がある。元和2年(1616)創建で明和9年(1772)老朽化により再建、大正8年(1919)焼失し再建したのが現在の社殿。右の平地には八幡宮や遊具などもある。旧東海道に戻り先に進むと左に若山牧水も愛飲した「田子乃富士」を造る明治6年(1873)創業の渡辺酒造(松長154)がある。
{右・寄}蓬莱山 祥雲寺[臨済宗妙心寺派]今沢307
昭和62年国鉄民営化の10日前に開業した片浜駅へ通じる片浜駅入口交差点を過ぎ今沢に入ってしばらく行くと入口がある。永禄元年(1558)久松和泉守が菩提寺として建立し鎌倉建長寺より秀江禅師が迎えられ開山した。本尊は釈迦牟尼如来。久松和泉守は菅原道真の末裔の家系で境内入ってすぐ左には天神社もある。薬師堂には承和3年(836)慈覚大師作の薬師如来を安置しておりもとは永延2年(989)源心僧都が創建した巨海寺の本尊だったが兵火で焼失し本像だけ逃れて今沢薬師として近在の人々に祀られていたものが移された。境内右には明治8年の六字名号碑や元禄や寛延などの石塔、石仏群がある。左には忠霊碑や平成18年建立の清浄行菩薩がある。
{右}三島神社 今沢214
祥雲寺の隣。創建は不明。このあたりの街道には椿林が点在し文化15年(1818)「駿河記」にはこの神社を「俗に椿明神と称す」と書かれている。 鳥居は大正3年、灯籠は昭和30年を平成16年に改修。境内右にはラカンマキの巨木がある。境内左に今沢集会場(公民館)がある。境内左右には鉄棒、すべり台などの遊具もある。
{右・寄}伊勢神明社  大塚520
大塚に入り鮮魚和食処あきよしの先を右折すると正面。享保14年(1729)創建。昭和12年の石鳥居左に風化した道祖神(塞神)がある。境内左に元禄6年(1693)庚申塔や石塔、境内社がある。奥の護国塔の横には寛政5年(1793)三界万霊塔もあり線路向こうのJRの変電所の所にあった清原庵という寺のもので僧侶が信者から宝銭を騙し取る悪行が行われたので廃寺になったという。狛犬は昭和58年灯籠は昭和55年、社殿前右には年号不明の灯籠が1基ある。社殿右奥に三本松集会場(公民館)、左奥にすべり台などの遊具がある。このあたりは三本松新田と呼ばれた地域で三本の老大松があったことに由来する。左の松原旅館(大塚102-2)を過ぎるとJR東海道線の線路を渡る。
{右}神明神社 大塚382
線路を渡ってしばらく行くとある。昭和45年の石鳥居の右に集落を守るための道祖神である塞神が2体祀られている。伊豆の多く見られる単体丸彫でかつては原宿入口にあり村人からは疱瘡の神様として親しまれていたもの。境内左に境内社が4つある。狛犬や灯籠もない。境内に大塚新田公民館と右奥に遊具がある。大塚新田集落は東西170間で東側90間は松並木で三本松集落との間を隔てていた。
{右}原宿 東木戸(見附)跡
神明神社の横の通りを渡ったカーブミラーの下に金属の説明プレートが上面に貼られた黒石柱がある。ここから原宿に入り西木戸までの距離は660間(1.2km)で大塚町の大塚本田、原東町、原西町を宿内としていた。東木戸手前の大塚町の大塚新田と三本松新田や西木戸の外の六軒町も行政上は原宿に入っており合わせると24町42間(2.6km)だった。原という地名はこの地に接した浮島沼が作りだした浮島ヶ原に由来する原、吉原、蒲原、これを駿河の三原という。
原宿   本陣1脇本陣1旅籠25家数398人口1939[天保14年(1843)]
浮島ヶ原の東の駿河湾砂丘上に出来た宿で鎌倉時代にも浮島原の中にあるという意味の原中宿が存在した。江戸期の原宿は規模は沼津宿の半分以下で農業にはあまり適した土地でないため周辺の民は漁業で生計を立てていた。浮島沼を背景にした富士山の眺めは街道一と言われ広重はじめ多くの浮世絵師によって描かれている。寛政6年(1794)と天保9年(1838)には大火で宿全体が焼失している。明治22年(1889)に原町が誕生し昭和43年に沼津市と合併した。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで言われた白隠禅師の史跡が多くある。
{右・寄}秋葉神社
左の東海マンナンフーズを過ぎたら向かいを右折し正面。社殿前に天明2年(1782)と昭和55年の灯籠が1組ずつある。境内左に小祠がある。鳥居は木製。
{右}高木神社 大塚326
少し行くとオートガーデン手前にある。昭和42年石鳥居をくぐって右に風化した伊豆型道祖神(塞神)がある。境内右の欅の横に大正期の耕地整理を記念し昭和16年建立された碑がある。他に小祠や宝暦9年(1759)灯籠がある。狛犬は昭和50年。社殿右に大塚本田区公会堂、社殿裏にすべり台がある。
{左・寄}得萬山 清梵寺 [臨済宗妙心寺派] 大塚278
高木神社ななめ向かいに看板があり左折し正面。創建時不明で三栄が開山し文禄4年(1595)9世関翁の時に妙心寺派となった。本尊は十一面観世音菩薩と地蔵菩薩。地蔵菩薩は「原のお地蔵さん」として知られ平成12年修復時に文亀2年(1502)の銘が確認された。元は京都から安房国に帰国途中に近くで亡くなった得萬長者の持仏で行方がわからなくなっていたが梵貞尼となった得萬の妻が墓参に訪れた時、泊まった網元の網に地蔵がかかり戻った。これを聞いた網元は因縁を感じ自ら清信禅居士と号して梵貞尼と共に堂を建て地蔵を安置、山号を得萬山、寺号を清信、梵貞から一字ずつ取って清梵寺とした。平成14年書院を新築。また得萬が大きな塚に葬られたためこの地を大塚と呼ぶようになった。
{左・寄}海上山 長興寺 [臨済宗妙心寺派] 大塚299
ミニストップの少し先に看板と石柱があり左折して正面。康安年間に建長寺開山大覚禅師の弟子友嶽が通りかかった時海の響きに感銘し砂州の上に堂を建立し持仏の虚空蔵菩薩を安置したのが起こり。満潮時は海の上に浮かんでいるように見えたので山号を海上山とした。江戸中期に白隠禅師の道友の大義が中興し清見寺末寺の妙心寺派となった。境内左に海上の守護神金毘羅を祀る金毘羅堂もあり建立記念に赤ん坊による泣き相撲大会が毎年開かれ有名になった。金毘羅堂の前には平成3年の狛犬。 門前右には寛政10年(1798)大正11年などの石仏3基がある。門を入って境内右にも石仏群。昭和51年建立の茶室「静心庵」は京都大徳寺の国宝「密庵席」の複製。
{左・寄}鵠林山 松蔭寺  [臨済宗白隠派] 原128
しばらく行くと石柱があり左折し正面。弘安2年(1279)天祥和尚が鎌倉円覚寺の末寺として開山し慶安年間(1648年頃)に清見寺大瑞和尚が再興して妙心寺派となった。宝永4年(1707)富士山の大噴火で大破し享保2年(1717)白隠禅師が住職となり再建した。境内左奥の墓地内に県指定史跡になっている白隠の墓がある。その奥の松の木の根元には説明板もある。山門は108枚の石瓦で葺かれ白隠の設計によるもの。他にも境内左には四国88箇所霊場の石仏群や鐘楼、門を入って右に五社大社もある。本堂左には享保18年(1733)題目碑もある。白隠に関する書画・文物を収蔵した宝物館があり毎年4月29日に一般公開される。
{左・寄}松蔭寺 摺鉢松(擂鉢松)
松蔭寺の山門前を左に行った隣の民家との境にある幹周3.63m樹高21m樹齢300年の松の木。備前岡山藩主の池田継政が立寄った際に白隠禅師の話に感動して「何かご不自由なものがありましたら」と言うと「何も無いが今朝、小僧がただ一つのすり鉢を割ったっのが、何よりも不自由じゃ。」と言うので帰国後、備前焼のすり鉢を数個寄進した。ある時、台風で折れた松に白隠が雨よけにすり鉢の1つをかぶせたまま忘れていたところ松脂で貼り付きそのまま成長した。今も松のてっぺんにすり鉢が見えるが昭和60年に白隠生誕300年を記念して新しい清水焼の擂鉢に替えたもので本物は大切に保管されている。
{右}雲見浅間神社
少し行くとある。祭神は磐長姫之尊。瓊瓊杵尊に嫁入りした磐長姫之尊と木花開耶姫之尊の姉妹のうち姉である磐長姫之尊だけ別居することになり雲見(伊豆)に向かう途中にここに宿泊したと伝わる。後に木花開耶姫之尊と瓊瓊杵尊は富士山の浅間神社(富士宮市宮町1-1)に祀られ磐長姫之尊は雲見の浅間神社(賀茂郡松崎町雲見386-1)に祀られている。この地には長く民家に祀られていた稲荷の小祠があり昭和50年に雲見から勧請し雲見浅間神社となった。社殿は透明なガラス張りのガレージに覆われた下にある。
{左・寄}海源山映月院 西念寺 [時宗]原120
少し行くと看板があり左折し正面。弘安年間(1278-88)に一遍上人の弟子素現が創建した。本尊は阿弥陀如来。明治26年(1893)東海道線煤煙事故によって本堂などが類焼し現在の本堂は大正15年に建てられたもの。境内左に昭和58年再建された北野天満宮がある。天満宮は丑神であるため丑の年丑の日丑の刻に生まれた白隠禅師は母よりその因縁を聞かされ幼少の頃によく参拝に来ていたという。その横には寛文7年(1667)などの石塔3基がある。境内右には天神保育園もある。
{左}白隠禅師誕生地の石碑
西念寺入口すぐ先のセブンイレブンの手前に碑と黒石柱がある。手前の民家の庭には白隠禅師生湯井戸もある。貞享2年(1685)この地で旅籠沢瀉屋を営む長沢家の3男として生まれ幼名を岩次郎といい6才のときには法華経の講義を覚え人々に語って聞かせた。15才松蔭寺で出家し慧鶴(えかく)と名乗り19才で美濃、四国、京都など行脚の旅に出た。後に京都妙心寺の第一座となり500年に一人の名僧とか妙心寺派中興の祖と言われた。享保2年(1717)松蔭寺の住持となり翌年から白隠と号し明和5年(1768)84才で入寂、御桜町天皇より神機独妙禅師、明治天皇より正宗国師の諡号を贈られた。禅画にも堪能で釈迦、達磨、観音などを好んで描き丹田呼吸法を会得し予防医学も実践した。
{左・寄}帯笑園
すぐ先の信号を左折するとある。原宿の豪農であった植松家の庭園として造園され多くの大名や公家たちが立ち寄りその美しさは街道きっての名園と言われ幕末の博物学者シーボルトも絶賛した。明治以降は皇族や伊藤博文、大隈重信など政治家等の訪問もあり庭の中心に植えられた松は皇太子時代の大正天皇からいただいた種から育てたもの。当時の庭の在り方を示す貴重な歴史資料となっているが個人宅のため原則非公開。敷地の一角には全国の器を集めた個人ギャラリーうつわギャラリー紫音もある。信号を帯笑園と反対に右折・北進すると根方街道で興国寺城跡へ通じるため興国寺城通りとも呼ばれる。ここが原東町と西町の境になっている。
{右}浅間神社 原899
原交番の先にある。静岡銀行原町支店(原195-8)の向かい。慶長14年(1609)元武田家臣の植松平次右衛門季重が創建した。祭神は木花咲耶姫命、瓊瓊杵尊。創建した季重の子孫は現在も向かいに居住している。明治2年(1869)の火災で社殿を再建、大正2年(1913)境内を拡張し社殿を移築、昭和13年に本殿、拝殿を改築し幣殿を新築。鳥居は平成5年、灯籠は昭和54年、狛犬は平成10年。境内左に境内社(秋葉神社、天王社、稲荷社、塞神社)右には明治17年(1884)浅間大神や明治23年(1890)浅間神社などの文字碑が並び西町一区自治会館もある。社殿右奥には鉄棒や陸軍大将一戸兵衛書の忠魂碑もある。
{右}高札場跡
浅間神社の左前に夢舞台道標原宿と富士急バスのバス停「原警察前」がありその奥に金属の説明プレートが貼られた碑がある。江戸時代には高札場が神社前にあり高さ1丈(3m)幅2間5尺(5.2m)奥行1間(1.8m)だった。説明プレートが貼られている碑の上部は「原宿と浮島マップ」という周辺のイラストマップになっている。
{左・寄}龍守山 昌原寺 [日蓮宗] 原216
浅間神社向かいに寛政5年(1793)題目碑があり左折して行くと正面。元和元年(1615)渡辺本陣に家康の側室養珠院(お万の方)が宿泊した際に近くの小庵でお題目が唱えられているのを聞き寺とすることを庵主に提案、元和8年自ら開基となり大仙院日燿により開山した。後にお万の方が朝暮に敬拝してしていた日蓮聖人の自点眼尊影が駿府城を通じて寄進された。寛文11年(1671)に失火により全焼、明治26年(1893)東海道線煤煙事故により本堂、庫裡が焼失。明治33年に再建後、昭和7年に本堂改修、昭和51年に客殿、庫裡を再築した。境内左に七面大明神、本堂左に日蓮像と題目碑がある。江戸時代には寺の南に幕府に治める年貢米や凶作の為の備蓄米等を保管する原宿の郷蔵があった。
{左}原宿問屋場(西)跡
キタムラ手芸店前に黒石柱がある。原宿の問屋場はここ西町の西問屋場と東町の松蔭寺西念寺の間にあった東問屋場があり隔月交替で業務を行っていたが東問屋場が火災で焼失して以降は西問屋場だけで業務を行なった。問屋場には長たる問屋、年寄の宿役人の下に帳付、馬指等の下役人が働いていた。西問屋場隣には助郷会所があった。
{左}渡辺本陣跡  原198
問屋場の西数10mに黒石柱がある。渡邉平左衛門本陣のあった場所で後に玄関と茶室が松蔭寺に移築されたが現存せず懸魚のみ沼津市歴史民俗資料館(下香貫島郷2802-1)に保管されている。原宿には他に東町の松蔭寺向かいに高田脇本陣があったが天保9年(1838)の火災で焼失後再建されなかった。
{左・寄}安泰山 徳源寺 [臨済宗妙心寺派]原297
内海ふとん店の先に看板と石柱があり左折し正面。建久4年(1193)頼朝が行った富士の巻狩りの際に置かれた陣屋が起こりで後に今津寺という律宗の寺を経て鎌倉円覚寺開祖仏光国師の弟子賢宗禅師が弘安元年(1278)に徳源寺として創建した。賢宗は後光厳天皇から圓満護国禅師の諡号を贈られている。戦国時代には富士市今泉の善徳寺末寺だったが永禄12年(1569)に善徳寺が焼失、承応3年(1654)興津清見寺の松巖宗蜜老師を迎え再興し妙心寺派となった。門を入って右に子安地蔵堂とその前に平成18年建の摩尼車、その横に水子地蔵がある。鉄筋コンクリート製の本堂左には頼朝お手植えの松3代目とされる樹齢数百年の松や菩薩像がある。
{左・寄}カタバミ公園
徳源寺入口から80mほど先を左折すると角にある。原駅前地区まちづくり協議会により住宅地の中の細街路である「中道」沿いに平成15年できた公園。災害に強い原駅前地区まちづくりとして道路の拡幅工事とともに進められ完成時は沼津市最小(約85平方m)の公園。飲めないが防災用や手足を洗うために使われる井戸水を汲み上げる手押しポンプや足裏を刺激して健康促進する自然浴さんぽ路や四阿がある。名称は可憐に力強く咲いている活力のある花から取った。西の建物の隣には明徳稲荷がある。東海道を進むと少し先に原駅入口信号があり左折して行くと旅籠風の瓦葺きの屋根に白壁という駅舎の原駅がある。
{左}高嶋酒造(富士山の霊水) 原354-1
原駅入口信号からしばらく行くとある。文化元年(1804)創業の老舗の酒造で明治17年に山岡鉄舟が命名した白隠正宗を醸造している。街道沿いのナマコ壁の前に「富士山の霊水」説明板と蛇口があり通行人や近隣の人が飲んだり汲んで持ち帰ったりできるようにしてある。地下14.5mの自噴井戸にから湧き出る富士山からの水でアンモニア性N(-)亜硝酸N(-)鉄分0.005PPM。蛇口のある建物の隣の古い建物の前には小さな馬頭観音もある。
新田大橋
しばらく行くと185間(300m)の宿外の集落である六軒町で手前には西木戸があり原宿開設当初は家が6軒だったので名付いたという。六軒町の次は原新田で民家はなく松並木があった場所で左の永田自動車商会を過ぎると道幅が広がっているのは松並木の名残。まもなく昭和30年に完成した沼川第二放水路を昭和39年竣工の新田大橋で渡る。橋の左に平行して設置された水道管上には小便小僧がある。沼川は東海道とほぼ並行に流れている川で富士の田子の浦で駿河湾に流入している全長14.1kmの一級河川で海から逆流する海水により何度も新田に甚大な被害を与えていた。
{左}一本松一里塚(原一里塚)跡(32)
デイリーマートタカダの向かいの手前にあるレンガ色のブロック塀の民家の門の右に黒石柱がある。原新田と一本松新田との境付近にあった一里塚の跡で民家の背後(裏)にはコーポ一里山というアパートもある。この辺りは新田の地名が多いが江戸時代初期に原宿と吉原宿の間に人家が少なかったため幕府が街道の整備と農民の定着のため新田開発を奨励したことに由来する。ここには大きな1本の松があったので一本松新田と名付けられ大網を地引しての鰹漁も盛んで新田開発の功労者である名主大橋五郎左衛門は家康にその功を認められ元和元年(1615)に諸役御免の朱印を拝領した。助兵衛新田、植田新田を含め原の三新田と呼ぶ。一里塚跡の向かいには風化した道祖神もある。
{右}浅間神社(三社宮) 一本松562
一本松バス停を過ぎてすぐ。慶安3年(1650)創建。祭神は木花咲耶姫命、愛鷹大神、松尾大神。社殿は宝暦8年(1758)築。境内左には櫛摩知命、大己貴命、少名彦名命が祀られる境内社があり三社宮とも呼ばれる。境内入口右には天王社(須佐之男命)も祀られている。入口付近に古い石垣が残る。大正11年(1922)の鳥居の前には舟形道祖神がある。鳥居前の石灯籠は文化11年(1814)。境内には遊具もあり社殿裏には飛行機の遊具もある。少し手前の浜に出ると要石神社がありその昔一本松新田の浜辺に富士山の溶岩が露出している部分があって高潮を防いでくれたため要石と呼ばれていた名残。今ではこの辺りからは防潮堤や家が立ち並び海は見えない。
{左}海岸山 大通寺 [曹洞宗] 一本松62
しばらく歩いていくとある。江戸初期に紹外舜隆が開山し本尊は南無釈迦尼佛。火災、津波、大風などの天災で文書や資料が消失しており現在の本堂は平成7年築。幕末に徳川の藩士が寺小屋を開き明治6年(1873)初学舎となり現在の原小学校(原1200)の基となった。スルガ銀行の創設者で沼津市名誉市民である岡野喜太郎もここで学び山門前左にはそれを示した昭和50年建立の碑もある。境内右に忠霊塔、おそうじ小僧、鐘楼。左に羅漢像、釈尊三尊佛、六地蔵など。
{右}浅間愛鷹神社 桃里508
大通寺の300mほど先。延享2年(1745)創建で祭神は木花咲耶姫命、愛鷹大神。現社殿は昭和44年築。境内社に山神社と天王社。入口右にある大きな碑は地名が明治41年(1908)桃里に改称された記念碑。それ以前は鈴木助兵衛父子により元和元年(1615)から当地が開拓されたため助兵衛新田と呼ばれていた。文政7年(1824)村民が鈴木父子に「開闢地神」の号を贈り建てた碑は現在所在不明。灯籠は大正8年(1919)社殿前の灯籠は大正元年(1912)狛犬は平成19年。社殿左に樹齢300年の松が昭和7年に雨で倒れたため2世を植えたと記された昭和8年建立の御神木之碑がある。明治42年(1909)の鳥居前に形が崩れた古い道祖神がありこの先を少し進んだ桃里中町のバス停にも似たものがある。
{右}鈴木和太郎銅像
桃里中町バス停の先にある胸像。明治27年(1894)生まれで第一次大戦後、茄子、西瓜、白桃など野菜、果樹の栽培をこの地で始めた人物。農産物は後に全国的に有名になったため助兵衛新田の地名改称の際に新地名「桃里」の由来にもなった。銅像の下には新聞紙面をデザインした石版もあり日本経済新聞を愛読していたことから経済にも通じ株式運用により鈴和観光(日乃出町38)設立のための財も成した。昭和57年没。隣には一等水準点もある。次のバス停桃里の先左には桜地蔵尊の案内矢印があるが左折していくと堂は踏切のない線路の向こうにある。
{左・寄}植田三十郎墓所(石塔・石仏群)
植田に入ると踏切で東海道線を渡り右に行くのが東海道だが左に少し行くとある。一番右の大乗妙典石経塔は嘉永3年(1850)村の安全祈願のために建てられた。左に天保5年(1834)の単体舟形道祖神、その隣に年代不明の風化した道祖神もある。さらに左に江戸初期に植田新田の開拓を始めた遠州浪人植田三十郎親忠の墓所があり墓石は三十郎が開基し幕末に廃寺となった神護寺[臨済宗妙心寺派]に死後100年以上経った安永7年(1778)に子孫が建てたもの。左には神護寺歴代住職の墓碑もある。横に植田新田開拓の由来が記された平成14年建立の碑もある。更に左に行くと奥に清正公社と天神社が祀られている建物もある。
{左}八幡神社(植田八幡宮) 植田48
踏切からしばらく行くと道路上部に富士市の境界標識が見え標識を越える手前にある。社殿はコンクリート製。境内にはブランコや鉄棒など遊具もある。灯籠は昭和53年、狛犬は平成10年。植田新田の鎮守。植田新田は植田三十郎が開拓を始めたためその名が付いたが三十郎は土砂や泥の浮動の為開拓に失敗、後に今井六左衛門昌先が開拓に成功した。原から吉原にかけての一帯は富士山や愛鷹山麓から流れ出た土砂と駿河湾から押し寄せる砂に阻まれて排水されない水が浮島沼など広範囲な湿地帯を形成していた。
{右・寄}山ノ神古墳 富士市東柏原新田137
左より県道380号線(富士清水線)が合流してくる東柏原交差点の手前の東柏原バス停を右折していくと鳥居がありその先の線路の向こう側にある6世紀頃の前方後円墳。長軸41.6m後円部直径21m高さ3m前方部の長さ18m幅15mだが前方部は古くから開墾されて畑となっており全体の約3分の1は鉄道で切り取られているため原型は定かではない。階段を登ると頂上に山神社(山ノ神神社)がある。150mほど西の同じく線路の向こうに方墳(四角形)の墳丘に台形の墳丘を前後双方につなぎ合わせた形をしている全国的に珍しい双方中方墳の庚申塚古墳(長さ40m幅20m中央部高さ3.5m)もある。県道380号線に合流すると少し先右に富士市の標柱がある。
{右}六王子神社 中柏原新田172
県道と合流ししばらく行くとある。祭神は六王子神。三股と呼ばれた沼川と和田川と潤井川とが合流する深い渕に龍が住んでいるとされ天正15年(1587)下総国下河辺から来た巫女7人のうち一番若いおあじが生贄にされた。他の6人は江戸へ引き返したが悲しみのあまりこの付近の浮島沼へ身を投げ村人が6人を祀ったのが神社の起こりと言う。境内にはブランコ、すべり台など遊具がある。灯籠は昭和12年。クロガネモチ、スダジイ、タブノキが富士市保存樹林になっている。右折していくと駅舎に富士山のタイル画のある東田子ノ浦駅。昭和24年開駅で神社との間に大きな昭和33年建立の開駅記念碑があり題字は吉原市長金子彦太郎の揮毫。
{左・寄}延命地蔵尊
六王子神社向かいの道を少し入ると右にある。明治までは浮島山延命寺だったが廃寺となり本尊の木造地蔵尊(高さ40cm)を祀るための小堂が建てられた。堂の扁額は比叡山黒谷から運ばれて来たと伝わる。堂の右に寛延4年(1751)天明8年(1788)大正2年(1913)など8基の石仏・石塔群が一列に並んでおりその奥にも2基ある。六王子神社に祀られた6人の巫女が葬られたのは延命寺境内西側の大きな塚と言われるが現存しない。おあじは三股に近い阿字神社(鈴川町621-7)に祀られており一説には保寿寺(伝法1661)2世芝源和尚が龍を改心させ助かったが6人の後を追って自害したという。三股付近の日本食品化工富士工場(田島30)内には龍神供養塔がある。
{左}間宿・柏原本陣跡(現:ビジネス旅館柏屋) 西柏原新田1-1
しばらく行くと旅館の前に富士市の標柱がある。茶屋本陣だった柏屋があったところで現在は通りに面してスナックナイスディと駐車場がありその奥に転業したビジネス旅館の建物があって当時のものと言われる小さな築山が残る。柏原の名は平安時代にこのあたりにあったとされる柏原宿に由来し柏原新田は東、中、西に分かれており西柏原新田のあたりが間の宿だった。柏屋の他に酒惣、松屋、江戸屋などの茶屋が並び浮島沼の鰻の蒲焼が有名で明治になっても9軒が残っていたが鉄道が開通すると次々に閉鎖・転業し酒惣のみ大正の頃まで続いた。広重の原宿の絵はこの辺りから描いたとされる。
{右}正法山 立円寺(立圓寺)(りゅうえんじ)[日蓮宗]西柏原新田72
少し先にある。寛文3年(1663)日審が開山し慶応3年(1867)と昭和7年に全焼したが再建した。山門の両側に題目塔、山門内には仁王像がある。本堂右に日蓮像、昭和59年建立の明治6年(1873)境内に設置された柏原尋常小学校(現:元吉原小学校)跡碑。その横に富士を模した三角形の望嶽碑がある。尾張藩侍医柴田景浩(字は子博、龍渓)が文化5年(1808)建てた碑で裏に富士を称賛した漢文が刻まれている。その隣にはインドネシア船籍のゲラテック号(155m6320t)の赤く塗られた錨(重さ4t)と碑がある。昭和54年清水港より救援米を運ぶ途中に台風20号で柏原海岸に打ちあげられ2人が死亡、船体は直立し6カ月間を要して解体処理された。本堂左には戦没者碑、平成19年奉納の願満大菩薩の石祠
{右・寄}道祖神
立円寺を出て直ぐの柏原二丁目交差点渡って少し右に入ったところにある。男女一体の道祖神だが女の方は平成7年のもの。その奥にはさらに新しい石祠もある。柏原二丁目交差点から4軒先の右には大正3年(1914)の常夜燈もある。