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{右}西倉沢一里塚跡(40) 望嶽亭藤屋を過ぎた向かいに昭和62年の石柱と平成4年の説明板がある。薩埵峠の東登り口に位置し塚には榎が植えられていた。脇には昭和48年設置の薩埵峠の説明板もあり峠を登る時に自由に借りれる竹の杖が置いてある。ここから先は二叉路になっており右の登坂に少し入ると左に夢舞台道標由比町倉沢がある。薩埵峠越えにはルートが3つあるいは4つあったとされその記述は資料、看板等で違っている。二叉路を右に行き坂を登っていくのが現在旧東海道歩行のルート(遊歩道)として整備されているポピュラーなルートであるが二叉路を左に下りるのも安政元年(1854)地震で海岸が1.5m隆起して以降道路として利用されるようになったルートである。 |
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{左・寄}安政元年以降の東海道 二叉路を左に下り倉沢踏切を渡り西倉沢信号で国道に合流するのが安政元年(1854)以降の東海道。国道は右には歩道がないため左に渡り左側歩道を進む。歩道は途中で広い自転車・歩行者専用の太平洋自転車道になり左は高い堤防でその向こうはテトラポットのため海は見えない。興津川に出てもそのまま国道を進むことになり旧東海道に復帰できないため途中左の小さな階段で海岸に出て興津川の河川敷を登り強引に興津川橋に合流する。安政元年の地震で海岸が隆起し道が出来る前も崖下の岩場を波が寄せる間合を見て駆け抜ける旅人がいた。危険なルートで親子でも互いにかえりみることが出来ない様子から親知らず子知らずと呼ばれた。看板や資料によっては下道とも書かれている。 |
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{右}東海道薩埵峠周辺絵図 西倉沢一里塚の二叉路を右に登っていくとしばらくして坂は緩やかになる。みかん農家の農道にもなっており両側にはみかん畑が広がり運搬用のモノレールが各所に敷かれている。だいぶ歩いて行くと大きな周辺絵図(地図)がある。この地図では地蔵道が上道、瑞泉寺経由が中道、海岸寺経由が下道になっている。薩埵峠は興津宿と由比宿の間に横たわる3km余の峠道で昔は箱根、宇津ノ谷、日坂などと共に街道の難所だった。 |
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{左}薩埵峠の碑 やがて峠を登りきると駿河湾を背に2基の古い石碑がある。真中で2つに折れたものを修復した大きい方は天保2年(1831)で「さったぢざう」と彫られてある。小さい方は延享元年(1744)で「さったぢざうミち」とある。石碑の隣に夢舞台道標由比町 薩埵峠、向かいには合戦の説明板がある。薩埵地蔵とは旧薩埵村の東勝院(現:静岡市清水区興津井上町796)の通称で地蔵道はこの先の車道をまっすぐ進む。文治元年(1185)の大波のとき海岸に打ち寄せられた地蔵菩薩を漁民が山に祀ったことから始まりそれまで磐城山と呼ばれていた山を薩埵山(244m)と呼ぶようになった。南北朝の頃には地蔵道を通って峠を越えるルートが開かれ正平6年/観応2年(1351)足利尊氏が布陣し弟直義の軍を撃破した。 |
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{左}薩埵峠山之神遺跡 先へ進むと駐車場への分岐がある。まっすぐ進むと古来の地蔵道、左折して駐車場に入るのが江戸時代の東海道で現在の遊歩道である。左折して駐車場奥の隅に碑がある。昭和7年(1932)山の神が鞍佐里神社に移転したため記念碑として建てたもの。右には平成17年地すべり対策事業の着工記念に建てた幸田文の文学碑があり昭和51年に幸田が訪れ執筆した「崩れ」の一節が刻んである。駐車場には案内地図やトイレ、蜜柑の無人販売もある。東海道は碑の脇にある舗装されていない山道(遊歩道)を下り蜜柑畑の中を進む。現在遊歩道として整備されている道は明暦元年(1655)4代家綱の将軍襲封を祝う第6回朝鮮通信使の通行にあたり開いた道で当初は道幅4mあり参勤交代の諸大名も通った。 |
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{右}薩埵峠 展望台 遊歩道を進んでいくと木造の簡単な展望台があり振り返るとパンフレットや旅行雑誌等で目にする有名な富士山の眺めが見れる。すぐ先左には「山の神」と刻まれた平成12年建立の黒石柱もある。しばらくすると右に薩埵峠の写真入りの石碑(夢舞台道標の特別バージョン)と四阿がある。万葉歌人山部赤人の有名な歌「田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり」はこの付近から詠まれたとも伝わる。他にも万葉集では薩埵峠は岩城山(磐城山)とも呼ばれ「岩城山 ただ越し来ませ 磯崎の 不来海(こぬみ)の浜に われ立ち待たむ」もある。 |
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{右}牛房坂の石柱 四阿を過ぎると一旦下りとなり平成12年建立の黒石柱がある。少し先でゆるやかな階段で登り坂となり畑の奥には道が道巾4m以上あった名残として石積みの跡が見られる。その先右には眺望地点として指定すると記載された平成13年建立のオブジェがある。河竹黙阿弥の元治元年(1864)初演の歌舞伎「処女翫浮名横櫛」(切られお富)は薄暗い峠の隠れ家に住む刀疵の女が巻き起こす恐ろしくも悲しい物語。お富の強請のセリフ「額をかけて七十五針、総身の疵に色恋も、薩埵峠の崖っぷち、打ち込む汐に濡れ手に粟、金は取ってもたかが強請、夜盗かっさき屋尻切り、盗みをしたことはねぇ。」も有名。薩埵峠には飛脚が蛸に襲われた猿を助けたらもらったという五郎正宗の名刀「猿正宗」の伝説もある。 |
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{左}薩埵峠の碑 オブジェのすぐ先に夢舞台道標清水市 薩埵峠、薩埵峠の黒石碑、「清水市指定名勝 薩埵峠」の平成元年設置の白い柱があり斜面に松が3本ほどある。右には峠の歴史と薩埵山の合戦の2枚の説明板がある。薩埵山はたびたび古戦場となっており正平6年/観応2年(1351)弟直義を追討する足利尊氏、永禄11年(1568)武田信玄を迎え討つ今川氏真、その翌年武田配下の穴山梅雪が守る横山城と対陣した今川救援の北条氏康が薩埵山に布陣した。興津川の対岸に古戦場跡碑がある。道はこのあと下りになりすぐに二叉路になるが右の上りの道はすぐ先で行き止まりのため左の道を下っていく。道は階段となり急激に下ると木に囲まれて暗いくぼみのような山道となりそれを抜けると墓地の脇道となる。 |
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2つの東海道の分岐点 墓地を過ぎると左に西倉沢一里塚にもあった竹の杖がありその先左に休憩所がある。道の両側には案内地図もあり右の地図では地蔵道が旧東海道になっておりこの先は瑞泉寺経由の道のみで海岸寺経由の道は記載されていない。左の地図は瑞泉寺経由が中道、海岸寺経由が下道になっている。その先の下り坂を下りる途中左には平成12年建立の往遠坂の黒石柱があり下りきると十字路に出る。まっすぐ行くと介護老人保健施設きよみの里で東海道は左の道と右の道に分かれる。左の道は明暦元年(1655)第6回朝鮮通信使の通行時に開いた道の続きで右の道は天和2年(1682)第7回朝鮮通信使の通行時に大波の危険があるとして陸側に回り込むように開かれた道とされる。 |
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(右の道){左}秋葉山常夜燈 瑞泉寺経由の(右の道)を進むなら右折する。最近造成された広いまっすぐな道でしばらく歩くと文政2年(1819)の常夜燈がある。竿石の正面に秋葉山、左面に常夜燈、右面に「文政二年卯年十一月上浣日健之」と刻まれ火袋は新しくなっている。手前には平成12年建立の「長山平」と刻まれた黒石柱もある。旧道はそのすぐ先のバックミラーがある角を左折し細い道を道なりに行く。 |
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(右の道){左・寄}龍光山 瑞泉寺 [日蓮宗] 静岡市清水区興津東町776 道なりに進むと寺名石柱と石垣の上に文政2年(1819)七面常夜燈があり左折していくと左にある。幽玄院日近が正保2年(1645)創建した漢学の道場が起こりで天保2年(1831)七面堂が建立されたが貧村の貧寺だったため次第に衰退した。昭和30年に位牌堂を新築した折にかつての七面堂の用材と彫刻物が発見され一部を新堂宇に活用した。昭和49年に本堂、昭和60年には庫裏を新築した。入って左の題目塔は薩埵峠で殉難した人々の追善供養に峠に建てられていたもので人と馬の安全通行を祈願した碑文が彫られ三段ある台座には近隣の各地域や甲州、伊豆、江尻などの講中の名前が200人分ほど刻まれており幕末にここに移された。本堂右には樹齢300年の蘇鉄がある。 |
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(右の道){右}興津川 川越遺跡 やがておきつ川通りと合流し左折、スーパーまるそうの前を通り興津川沿いに進むと左に牛頭観世音菩薩の祠がありその先の興津東町公園に川越遺跡の説明板がある。興津川は3月5日-10月5日は有料の渡しで越え冬は無料の仮橋で渡った。渡しは両岸の川会所で越し札を買い水深により異なる値段は天和3年(1683)時で太股川(水深42cm)12文、はさみ川(70cm)15文、横帯川(106cm)24文、若骨川(120cm)32文、脇水川(150cm)42文。肩車か蓮台で渡り蓮台は越し札が4枚必要だった。興津側には36人の人足が常備され大名行列時は近隣から250人以上が動員された。説明板隣に薩埵峠観光地図、公園内に戦没者慰霊塔、向かいに興津東町公民館。東海道線をくぐると(左の道)と合流する。 |
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(左の道){右}白髭神社 興津東町1504 2つの東海道の分岐点から海岸寺経由の(左の道)を進むなら十字路を左折する。道なりに右にカーブしていくと2つに折れた神社名石柱と鳥居があり石段がある。祭神は猿田彦命。延宝3年(1675)に再建された記録がある。大正6年(1917)に川端山にあった天明年間(1781-89)尾張より勧請したとされる津島神社を合祀した。本殿両脇には脇障子として日本武尊の東国平定の図が彫られており左側は大蛇を払っている図になっている。燈籠、狛犬は昭和12年(1937)、鳥居は大正7年(1918)。 |
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(左の道){右}観音山 海岸寺 [曹洞宗] 興津東町1330 少し行くとある。江戸初期建立の波除観音堂が起こり。寛永13年(1636)清見寺で休息するはずだった帰途中の第4回朝鮮通信使が興津川の川止めでしばらく逗留し一行の紫峰が書いた海岸菴の扁額から以降海岸庵と呼ばれた。後に龍河山宗徳院の末寺となり宗徳院7世田外重甫大和尚が寺として開山。本堂に本尊阿弥陀如来(波除如来)を囲み左右50体ずつ金色百体観世音がある。大正4、5年の大波で死者がなかったのは波除如来と百体観世音の御利益と伝わる。昭和17年海岸庵から現寺名に改称。駿河国百地蔵菩薩霊場第86番札所、東海88ヶ所霊場第49番札所。 大正元年(1914)梵鐘を鋳造したが昭和17年供出した。境内右に庚申塔2基を祀る祠、階段下右の新しい祠に6地蔵+1地蔵。
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(左の道)踏切のない線路 寺を出ると道はしばらくして右にカーブしまっすぐ行くと踏切のない東海道線の線路に出る。危険なため迂回を促す看板もあり少し手前の道を左折すれば洞踏切があり迂回もできる。旧道は国道1号から興津川橋へ行く道が分岐する地点に出るので右折して興津川橋へ行く道を進み橋の手前で右から来る(右の道)と合流する。合流地点には平成2年設置の文字がかすれた「薩埵峠街道の歴史」の説明板があり瑞泉寺経由(右の道)は上道、海岸寺経由(左の道)は中道、安政元年以降の東海道は下道になっている。 |
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興津川橋(浦安橋) (右の道)と(左の道)の合流地点からすぐ興津川を興津川橋で渡る。橋は明治8年(1875)木橋の浦安橋として開通し昭和7年(1932)コンクリート橋に架け替えられ興津川橋となった。興津川は昔は浦田川と言い高瀬、西河内を水源とし延長22km流域面積122平方km。東日本で一番早く鮎漁を解禁する川としても知られる。橋を渡ったらすぐに右に降りる小さな階段を下り右折して道なりに川の堤防まで回り込むと途中左に昭和24年建立の水難者供養塔がある。道は川沿いを少し行くと東海道線の線路に突き当たり左へ道なりに線路沿いを歩いていく。 |
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{右・寄}興津川渡し場・古戦場跡碑 線路の反対側の川沿いには「興津川渡し場跡 古戦場跡」と刻まれた昭和55年建立の碑がある。行く場合はそのまま線路沿いの旧道を進み県営興津団地を右折して川西踏切で線路を渡り迂回して川に出る。川渡しの制度は明治8年(1875)浦安橋が完成し廃止された。古戦場跡とは正平6年/観応2年(1351)足利尊氏が弟直義を破った戦い、永禄11年(1568)武田信玄が今川氏真を攻め興津宗鉄が守る横山城を落城させた戦い、その翌年薩埵山に布陣した今川氏救援の北条氏康と改修した横山城を守る武田配下の穴山梅雪が川を挟み対陣し4カ月後に武田方が甲斐に撤退した戦いのこと。少し陸側に入った駐車場の端にある大きな樹の下には水神社の石祠があり興津川鎮護の水神を祀る。 |
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{右}国道52号線起点標識 旧道はやがて国道1号と合流ししばらく国道を歩き興津中町交差点を渡るとある。現代の身延道である国道52号の起点を示すステンレス製の標識で三方向に国道1号と52号の方向を示しこの場所の緯度、経度、標高と身延、甲府までの距離が標示されている。国道52号はここから山梨県甲府市の甲府警察署(中央1-10-1)前までの100.1kmで昭和28年に指定された二級国道141号(静岡県清水市〜長野県上田市)の一部が昭和38年一級国道52号(清水市〜甲府市)となり昭和40年一般国道52号となった。国道52号方面に少し行くと身延道の歴史や塩の道の立役者たち(今川義元、北条氏康、武田信玄)の説明板もある。 |
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{左}興津の薄寒桜 清水商工会館の前で海側にある清水清見潟公園へ入る細道が分岐する地点にある。大正元年(1912)の尾崎行雄(咢堂)東京市長(当時)によるワシントンのポトマック河畔への桜寄贈に向け農水省果樹試験場(現:独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構果樹研究所、興津中町485-6)に苗木の育成依頼があり明治43年(1910)熊谷八十三主任技師(後に西園寺公望秘書)が荒川堤から収集した59種のうちの1種である薄寒桜が希少品種のためアメリカ行きに漏れたものを研究所内に定植した。興津の薄寒桜と呼ばれるようになり興津では町の花と定め町中にその子木を植えておりここにあるのもその1つで平成12年植樹されたもの。オオシマザクラとヒザクラとの雑種で1月下旬頃に開花する。 |
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{右}宗像神社 興津中町554 桜の向かいにある。創建年代は不詳だが平安中期に航海の守神である筑前(福岡県)の宗像大社を勧請したと伝わる。祭神は奥津島姫命、狭依比売命、多岐津比売命。江戸時代に弁天信仰と同化され弁才天宮、宗像弁才天の他、興津三女の宮、宗形大明神、盧原(よばら)神社などとも呼ばれていたが明治元年(1868)現社名に統一。社殿に一番近い鳥居は宝暦9年(1759)興津能登守藤原忠通と銘があるが昭和47年に再建されたもので初代の残骸が左にある。忠通は横山城主だった興津氏の子孫とされ徳川の旗本として大阪西町奉行となり赴任の途中に妻の安産を祈願し後に奉納したもの。興津の地名はここの祭神から奥津、息津、沖津などと呼ばれ興津になった。燈籠は昭和12年、狛犬は昭和8年。 |
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{右}宗像神社 松林 宗像神社境内の松の森は祭神が女神のため女体の森と称し駿河湾が霧に覆われてもこの森だけは浮かんでいるように見えたといいここを目標に舟人たちは船を進めた。境内右には巨木の松(樹齢450年以上樹高30m目通3.5m)もあり沖から見えると大漁とされ現在でも信仰の対象となっている。境内左には富三島幸水の松の短歌の看板もある。古くは境内も広く手前にある清水興津小学校(興津中町1478-10)校庭一帯も社地であり東海道沿いにも面していた。社殿右の石柱に囲まれた小祠は大祓人形特殊神事湯立の儀式の場で知らぬ間に犯した罪や穢れを祓い清め災いを取り除く神事で竹の葉を使用して熱湯を我が身に振りかける儀式。境内の右はずれには忠霊塔や忠魂碑がある。 |
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{右}身延道道標 (石塔寺[日蓮宗]跡) しずおか信金興津支店(興津中町274)のある交差点を渡ると石碑群があり元禄6年(1693)の道標のほか高さ3mの承応3年(1654)題目塔、七面常夜燈、石塔寺無縁供養塔、板碑などがある。旧身延道起点で横の道が旧身延道。駿河と甲斐を結ぶ身延道は鎌倉期には開かれており当初は興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったが戦国時代に駿河進攻を目論む武田信玄によって整備され重要な軍用路となった。江戸時代初期には身延山久遠寺参詣の道になり享保9年(1724)には甲府城に甲府勤番が設置されたため役人の往来も多くなった。この地には身延詣での旅人に身延道の入口を示す法華題目堂でもある石塔寺があったが明治時代に廃寺となった。 |
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{右}興津一里塚跡(41) 石碑群を過ぎしばらく行くとヤマト宅急便取り扱いの民家前に昭和53年建立の碑がある。一里塚は明治に至り道路の拡幅等により取り除かれた。一里塚を越えると興津宿に入っていく。このあとセブンイレブン清水興津店を過ぎ興津駅前交差点を通るがここを右折すると明治22年(1889)東海道線国府津〜静岡間の開通と同時に開業した興津駅。 |
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興津宿 本陣2脇本陣2旅籠34家数316人口1668[天保14年(1843)] 東は興津川と薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから古代より関所(清見関)が設けられていた。興津郷と呼ばれる頃から地頭・長者だった興津氏が延文年間(1356-61)横山城(興津城)を築き永禄11年(1568)まで支配していた。身延、甲府へ通じる身延道が分岐するため交通の要衝にもなり江戸時代中〜後期には興津川流域で生産される和紙の集散地となった。明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地になった。東の由比宿には2里12町(9.2km)西の江尻宿には1里2町(4.2km)宿内は東西10町55間(1.2km)。 |
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{右}瑠璃山 龍興寺 [曹洞宗]興津中町224 興津駅前交差点を少し過ぎるとある。永平寺末。燈籠は平成2年。境内右には天明3年(1783)の界万霊塔、昭和50年建立の交通安全地蔵尊がある。境内左には六地蔵もある。 |
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{右}祥瑞山 理源寺 [日蓮宗]興津中町193 少し先にある。江戸時代初期に疫病で多数の死者が出たが村の長が身延の七面山を信仰し難を逃れたことから裏に流れる澤端川とその向こうの七面山を身延の春木川と七面山になぞらえ寺が建立された。開山は身延山久遠寺26世知見院日暹。安政の地震で倒壊し20世日修が再建、昭和10年(1935)には本堂と位牌堂、戦後に七面堂と庫裡が新築され山門を修復、昭和60年に本堂及び境内を改修。山門前右に安永5年(1776)題目塔、左に昭和33年建立の東海道行路病死無縁各霊供養塔。山門入って左にも延享元年(1744)などの題目塔が並び本堂左に稲荷堂、昭和61年日蓮像、さかさ銀杏がある。銀杏前の祠には目の神様として信仰のある意眼さんの墓があり元禄10年(1697)29歳でこの地で没した。 |
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{左}割烹旅館 岡屋 興津本町6 昭和13年竣工の澤端川橋を渡り少し先にある。慶応年間(1865-68)茶店として創業。明治元年(1868)の興津宿町割図では岡屋弥左衛門と記録され明治期に旅館となり現在は料亭にもなっている。道中弁当(2000円)は静岡おでんや黒はんぺん、桜海老やしらすの揚物、茶飯、しらす飯、まぐろ角煮、興津鯛など静岡名物を一度に味わえる。興津鯛は最高級の白甘鯛に塩を振り軽く日干しにした名物で享和2年(1802)刊行の滝沢馬琴の羇旅漫録(馬琴道中記)にも「このあたり もみじめずらし 興津鯛」とある。他に醤油漬鮑を贅沢に使ったあわびめしなど。11:30-19:00月休、宿泊1泊2食付9450円-。斜め向かいには交番があり交番手前に旧型の円筒の郵便ポストと夢舞台道標興津宿、興津文化財地図がある。 |
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{右}興津宿東本陣址 清水銀行興津支店(興津本町211-1)の隣の隣の民家前に石柱がある。興津宿には本陣が2軒あった。東本陣は教敬山耀海寺(興津本町223)を開いた市川法清を祖にもつ市川家がつとめ延宝8年(1680)興津宿の大火では自分のところも焼けたというのに300両以上の大金を宿の人々に無利息で融通した。現在敷地は人手に渡り建物はは残ってないが市川家には宿帳が伝わり寛永10年(1634)から嘉永2年(1850)の間167回も行われたオランダ商館長の幕府拝謁のうち商館長一行が40数回宿泊した記録や元禄10年(1697)吉良上野介と浅野内匠頭が前後して宿泊したという記録も残っている。手前右の民家か銀行のあたりには問屋場があった。 |
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{左}潮屋 興津本町27-1 東本陣跡向かい。明治30年(1897)創業の菓子屋。有栖川宮が清見寺を訪れた時に献上したのが起こりという宮様まんじゅう(1コ21円、27コ525円)が有名。米麹の甘酒を使って昔ながらの製法で作られる酒蒸し饅頭で皮は薄めながらほのかに酒の香りがしてしっとりとした漉し餡とよくなじみ酒成分が餡に染みるためかすかに酸味をおびた餡が独特の風味を出す。サイズは500円玉くらいと小さく元は常宮(明治天皇第6皇女)・周宮(同第7皇女)の両内親王のために小さく作らせたと言われる。昭和32年国体で静岡を訪れた昭和天皇も食べ常陸宮(昭和天皇第2皇子)には特に贔屓にされたびたび御用邸に届けていたという。他に宮様まんじゅうを油で揚げたあげまんじゅう(7コ200円)もある。8時-19時、火休。 |
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{左}脇本陣 水口(みなぐちや)屋跡 (現:水口屋ギャラリー)興津本町36 少し先にある。門を入ってすぐ左に石柱が2本ある。元武田家臣の望月氏がこの地に移住し商人をしていたが天正10(1582)年に初めて旅人を泊め江戸時代には脇本陣として宿屋になった。明治以降は政治家、皇族、財界人、小説家、画家など著名人の別荘旅館として有名になり昭和32年には昭和天皇・皇后が御幸の間に宿泊した。戦後一時接収されてた際に来日していたアメリカ人オリバー・スタットラーが「JAPANESE INN〜東海道の宿 水口屋ものがたり」を昭和36年に出版したため多くの外国人観光客も訪れたが客足が減り始め後継者もなく昭和60年廃業。施設は鈴与が譲り受け研修センターとなり平成11年から一部を資料を展示する水口屋ギャラリーとして公開している。10時-16時。月休、無料。 |
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{右}興津宿西本陣址 その先の山梨自転車商会手前に石柱がある。西本陣は手塚家がつとめ寛永12年(1635)から明治3年(1870)まで東本陣の市川家と月番で営んでいた。明治元年(1867)には明治天皇が小休した。その後、敷地は人手に渡り建物は残っていないが門だけは一時水口屋の敷地内に移され現在は元県知事(1951-1967)斎藤寿夫邸(富士市)に移され現存している。手前右のたばこ屋のあたりに脇本陣の落合家、向かいの市川製作所あたりに脇本陣大黒屋、少し先の左に脇本陣身延屋があった。 |
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{右}東海道の案内板 マックスバリュー清水興津店を過ぎると道はゆるやかに右へカーブしやがて立派な東海道の案内板がある。 夢舞台道標と同じロゴが入っており興津イラストマップ、興津の歴史、東海道五十三次、清見寺、坐魚荘などを写真や図入りで紹介している。江戸時代の興津宿の旅館分布図もあり明治5年(1872)、明治18年(1885)の時点で旅館が存続していたかどうかも示してある。東海道中膝栗毛では弥次さん喜多さんは興津宿内であやしげなる茶屋に立ち寄りきな粉団子もどきの糠(ぬか)団子を食べてしまう。 |
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{右}清見関跡・榜示杭礎石 すぐ隣に木抗が2本と礎石がある。清見関は天武天皇により白鳳時代の680年頃に設置され警護の兵が往来を監視したが永禄年間(1158-80)に廃止された。この辺りはその地形から昔から要衝とされていた。更級日記にも長元元年(1028)清見関の記述がある。頼朝死後の正治2年(1200)梶原景時一族が京へ向かう途中に幕府の手先の地元の武士に襲われ関所の板に血がかかりその板は清見寺大玄関の天井板に転用され残っている。梶原一族は関から逃れたものの追手により滅亡した。礎石は江戸時代の清見寺領 と興津代官領の境を示す榜示杭礎石で角状の石の上面に榜示杭の立てる四角い穴がある。清見寺領は興津代官領と濁沢秋山領に挟まれており両側の境界に榜示杭があったとされる。 |
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{右}巨龜山 清見寺 [臨済宗妙心寺派]興津清見寺町418-1 街道に面した駐車場の横に総門があり門を潜って左折、右折してJR東海道線を陸橋で横断すると山門がある。清見関が設けられた際にその守護として仏堂が建てられたのが始まりで天台宗だった平安時代を経て弘長元年(1261)関聖明元が開山。康永元年(1342)足利尊氏が十刹の官刹に奏請したが戦国時代に荒廃し今川義元軍師の太原崇孚が天文8年(1539)妙心寺派として再興し第1世となった。山門は釘を一本も使っておらず慶安4年(1651)築で明治22年(1889)に瓦葺になった。家康の三女静照院が釋迦弁尼仏を安置する天保13年(1844)建立の仏殿や元和2年(1616)建立の大玄関を寄進した。 宋版石林先生尚書伝、白隠禅師筆の達磨像などの指定文化財を始め多くの文化財を所蔵する。
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{右}清見寺 総門の扁額「東海名區」 正徳元年(1711)第8回朝鮮通信使の上判事だった玄徳潤(錦谷)の筆によるもの。錦谷は潮音閣の扁額も書いた。清見寺は朝鮮通信使の遺跡が多く平成6年に境内全域が通信使関係史跡として国史跡に指定。慶長12年(1607)第1回朝鮮通信使の帰国時に宿泊し4回目以降は宿泊は江尻宿に変更されたが休憩訪問はその後も続き寛永20年(1643)第5回製述官の朴安期(螺山)書の鐘楼の扁額「瓊瑤世界」明暦元年(1655)年第6回正使の趙王行(翆屏)書の仏殿の扁額「興国」の他多くの懸板、詩文集、墨跡、屏風絵などが残る。慶長15年(1610)琉球王国の中山王尚寧の弟具志頭王子が駿府で急死し清見寺に葬られ境内左の墓地奥にある墓石は初期のものとその前に寛政2年(1790)再建のものがある。 |
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{右}清見寺 本殿大方丈 文政11年(1828)建立で十一面観世音菩薩坐像を安置する。正面に寛政2年(1790)琉球王子筆「永世孝亨」の扁額、両側に朝鮮通信使の詩文、明治33年(1900)室蘭から清水に向かい駿河湾で沈没した練習船月島丸の遭難者船長以下122人(うち学生79人)のうち109人の肖像額がある。家康は今川の人質時代に太原崇孚から教えを受けており裏に3畳程の家康手習いの間がある。裏には江戸初期に山本道斎が築庭したと伝えられる庭園があり家康は駿府城より虎石、亀石、牛石を移し柏樹を手植えした。拝観料300円。表には梅の古木「臥龍梅」があり家康が清見関所の庭の梅枝を取り接木したもので与謝野晶子が昭和12年来訪し詠んだ梅の歌の立札もある。大方丈右には潮音閣、庫裏、書院がある。 |
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{右}清見寺 鐘楼 大方丈の前の文久2年(1862)建立の鐘楼には正和3年(1314)鋳造の梵鐘(総高140.2cm鐘身高113cm口径80.7cm)があり天正18年(1590)秀吉の韮山城攻めで陣鐘として持ち出され傷がある。謡曲「三井寺」にも登場し人買にさらわれて行方不明になった浄見長者の一人娘を探す母親が近江の三井寺に辿り着いた際に梵鐘が鳴り「この寺の鐘の音は故郷清見寺の鐘を思い出させる」と呟くと偶然にも娘が寺に来ており故郷の名を言う者に気付き再会できた。鐘楼付近には昭和13年建立の高山樗牛の清見寺鐘声の文学碑、句碑「秋晴や 三保の 松原一文字」、山下清の「清見寺スケッチの思い出」の抜粋文立札、明治20年(1887)榎本武揚が揮毫建立の咸臨丸乗組員殉難碑「食人之食者死人之事」もある。 |
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{右}清見寺 五百羅漢像 境内左奥に進むと小山の斜面に天明8年(1788)作者不詳の五百羅漢があり島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」ではこの五百羅漢像の中に知人の面影を見つける場面がある。入口右には後生車もある。手前にある聖観世音金銅像は昭和10年(1935)新西国観音霊場第1番指定記念と日華事変戦死者供養の為に昭和12年20代住持古川大航が東京美術学校教授北村西望に作成依頼して建立したが戦争供出し昭和24年に再建。他に境内左に大正4年(1915)東京の実業家町田徳之助が建立した納骨堂の海會塔、安永5年(1776)庵原の素封家山梨惟亮が父治重のために建立した五重石塔があり白隠禅師による治重の賛辞も刻まれている。石段を登ると足利尊氏が国ごとに建てた利生塔の旧址がある。 |
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{右}巌腰山 瑞雲院 [臨済宗妙心寺派] 興津清見寺町420 清見寺の山門前を左に行くとある。延文元年(1356)足利尊氏が堂を建立し開基となり翌年佛満禅師大喜法忻(今川範国の兄)を招き開山し瑞雲庵と称した。本尊は如意輪観世音菩薩で延暦年間(805年頃)伝教大師(最澄)の作と伝わる。天正11年(1583)清見寺廣済慈照禅師東谷宗杲が中興開山し巌腰山瑞雲院とした。室町時代に水墨画家・雪舟が東国を行脚した際にしばらく住んだとも伝わり慶長7年(1602)家康が紀州蜜柑を手植えしたとの記録もある。境内には東海道の名水と言われた性海庵の湧水の説明板や平成5年植樹の興津の薄寒桜、平成8年建立の与謝野晶子の歌碑、昭和55年建立の富安風生の句碑もある。駿河一国33ヶ所観音霊場23番札所、駿河伊豆両国横道33観音霊場24番札所。 |
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{左}大正天皇在東宮海水浴御成道 清見寺の総門の真向かいの交差点角に昭和5年(1930)建立の石柱がある。東海道線が静岡まで開通し興津駅ができた明治22年(1889)皇太子だった大正天皇が清見寺に約4週間滞在し海水浴をした。翌年も約3週間滞在しこれがきっかけで興津が有名になり伊藤博文、松方正義、西園寺公望などがこの地に別荘を建てた。往時は庵原川の河口から興津川の河口まで砂浜が続き三保の松原や伊豆、富士も見える絶好の保養地だったが現在は当時の海岸線あたりが清見潟公園となっている。 |
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{左・寄}万葉の歌碑 交差点を左折していくと右に昭和9年(1934)建立の皇太子殿下御海水浴跡碑と常夜燈や平成16年の狛犬がある津島神社があり向かい側の植え込みに歌碑がある。田口益人が上野の国司に任ぜられた時に駿河国の清見の崎で詠んだとされる歌「庵原の清見の崎の三保の浦の 寛けき見つつ もの思ひもなし」で和銅元年(708)万葉集巻3に収められた。この奥は明治政府の重鎮たちが別荘を構えた清見潟の名を残す清見潟公園が広がる。清見寺前から庵原川までの海岸沿いに続く細長い公園でスポーツ広場、親水公園、遊歩道、港の見える丘、プールなどがある。 |
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{右}高山樗牛(ちょぎゅう)仮住居跡 少し行くと石垣前に昭和44年建立の石柱「高山樗牛假寓居之處」がある。明治時代の文豪である樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し明治33年(1900)ここから20mほど南にあった三清館に仮住まいし病気療養した。そこで樗牛は清見寺の鐘の音を聞き名文「清見寺の鐘声」を残したという。清見寺鐘楼前に尾上柴舟の筆による「清見寺の鐘声」の一節が刻まれた碑がある。樗牛は2年後の明治35年平塚の杏雲堂病院で31歳で死去したが墓は遺言により清見潟を見渡す観富山龍華寺(清水区村松2085)に建てられた。石柱の後ろには明治20年(1887)の屋根付きの小さな高札場がある。 |
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{左}坐漁荘(西園寺公望別荘) 興津清見寺町115 しばらく行くとある。別荘跡地に平成16年静岡市が忠実に建物を復元した。元の別荘は大正8年(1919)築で敷地1255.96平方m建物総面積460.27平方m、2階建の和風建築で昭和4年(1929)には座敷の横に洋間や洋式便所、テラスも増築された。昭和15年に没後、昭和46年主要部分が明治村(愛知県犬山市)に移築された。名称は子爵渡辺千冬が周の文王が呂尚(太公望)が坐漁している時に出会い軍師とした故事に因み太公望を公望の名に、坐漁を前庭を隔てて清見潟を見渡す景勝地に、天皇補佐の地位を軍師呂尚に見立て命名した。平日10:00-17:00土日祝日9:30-17:30月休、無料。玄関前には昭和46年建立の住友銀行頭取堀田庄三揮毫、東京大学名誉教授岡義武撰文の坐漁荘址碑もある。 |
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{左・寄}井上馨の像 波多打川が左に沿いはじめるところを左折し少し行くと左に説明板があり公園に入ってすぐに2つの石碑に囲まれ坐像がある。長州出身で維新後に初代外務大臣や農商務、内務、大蔵大臣を歴任した井上馨が76歳の明治43年(1910)ここより北西にあった別荘(長者荘)に高さ5m重さ8tの立像と2つの石碑が建てられた。立像は戦争で供出し別荘は昭和20年空襲で焼失し石碑は別の場所に放置されていたが井上家から立像と同作者による坐像を譲り受け石碑とともに昭和53年ここに設置された。坐像台座の「井上馨候之像」は清水市長稲名嘉男の書。左の碑は渋沢栄一、右の碑は杉孫七郎(聴雨)の碑文による。大昔に清見長者の屋敷があったという米糠山の長者荘の敷地は5万坪あったと言われる。 |
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{左}波多打川 道は高架の国道1号静清バイパスと平行する波多打川沿いを行く。川は元は角田川と言ったが正平6年/観応2年(1351)弟直義の討伐に向かう足利尊氏が河原に旗を打ち立て軍の目印としたため旗打川と呼ばれ転じて波多打川になった。やがてバイパスをくぐると同時に波多打川橋で川を渡り左側の歩道が自然に国道から左に分岐しその道を進む。分岐点右にある東海道線の線路を覗くと片側が少し高台になっている。長者荘で何度か催された大園会のために臨時停車したホームの名残で皇太子時代の大正天皇をはじめ全国より賓客が集まった。長者荘は鹿鳴館から移した西洋間、両国橋の橋脚を床柱にした応接間など豪華なもので跡地には現在平成16年開館の静岡市埋蔵文化財センターがある。 |
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