東海道ルートガイド
由比宿

{左}水神の石碑
蒲原駅を過ぎ堰沢川橋、八木沢橋を過ぎ東名高速道路の高架をくぐると二叉路があり由比本陣公園・東海道広重美術館は歩行者は左、車は右と標示されているが旧東海道は左に行き県道から分岐する。昭和27年竣工の神沢川橋で神沢川を渡ると庵原郡由比町に入りすぐ左に夢舞台道標由比町由比がある。向かいには「正雪」を造っている神沢川酒造場(由比町由比181)がある。旧道を進むと由比区自主防災会第一第二町内会倉庫の横に用水路があり傍らに昭和32年建立の石碑がある。その先右には地蔵2体を安置する祠もある。
由比一里塚跡 (39)
地蔵の祠のすぐ先にある。道の左側に1本の木と平成6年設置の説明板、右側の民家横に昭和62年建立の石柱がある。もともと両側に松が植えられていた。寛文年間(1661-71)右側の松が枯れたので良用軒清心という僧が十王堂を建立し延命寺境外堂としたが明治の廃仏毀釈で堂は取り壊され祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移された。
{右}由比宿東桝形跡
一里塚からしばらく行くと道幅が一時的に膨らんだようになっており説明板がある。左折すぐ右折の桝型道路の形態を僅かにとどめていてここ昔は由比宿の東木戸があった。すぐ左には1階2階ともに格子が入っている商家の建物(志田家)があり説明板がある。志田家は屋号「こめや」を名乗っていて建物内部には帳場、箱階段等が残っている。
由比宿   本陣1脇本陣1旅籠32家数160人口713[天保14年(1843)]
蒲原宿から1里という近さであるが薩峠を控え鎌倉時代から湯居と呼ばれる古い宿場があり頼朝から地頭に任ぜられた大宅大五郎光高の子孫が由比氏を名乗り代々支配していた。慶長6年(1601)伝馬36匹の提供を命じられ江戸時代の宿場として本陣や問屋場などが整備された。天保14年(1843)の記録では東西8町56間(974m)うち町並5町半(600m)。昔は製塩が盛んだったが現在の名産は由比漁港で獲れる桜えびで至るところに看板やモニュメントがある。文字は油井、湯井、由居、由井と様々な書き方があるが明治22年(1889)町制施行以降由比に統一された。
{右}御七里役所の趾
少し行くと民家の白いコンクリート塀にはめ込まれた昭和46年の石プレートがある。元和5年(1619)家康の十男頼宣が駿府から紀州に国替えののち幕府の動向や江戸の情報をいち早く知るために設置した紀州徳川家専用飛脚の由比における役所跡で幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などと記述がある。主役をお七里役、飛脚をお七里衆と言いここの裏手には大正末期までお七里衆が住んだという長屋が残っていた。江戸・和歌山間146里(584km)に約7里(28km)ごとに役所を置いたため御七里役所と言い23箇所の役所ごとに5人1組の飛脚を配置していた。静岡県内では沼津、由比、丸子、金谷、見付、新居に設けられた。普通便は道中8日を要し特急便は4日足らずで到着した。
{右・寄}飯田八幡宮 庵原郡由比町由比671
東海道由比宿交流館の一本手前の道を右折し正面。由比氏が天正13年(1585)創建し祭神は誉田別命。後に下地景、矢崎、節井の八幡社が合祀され明治4年に今宿の山八幡大神を祀る山八幡社が遷座した。御神体の僧形八幡像は由比城主由比助四郎光教の持仏で大永8年(1528)の銘がある。正徳年間(1712)社殿を焼失、現在の本殿は享保12年(1727)岩邊郷右衛門光周他の再建で町最古の木造建築物。本殿の灯籠は享保14年(1729)、右に石祠、左に大正2年(1913)通路改修碑、日露戦役記念碑、嘉永2年(1849)灯籠が前に置かれた堂などがある。社殿前の石段途中に秋葉山常夜燈があり右が文化2年(1805)左が文化3年。入口から2番目の石鳥居は天保5年(1834)岩邊郷右衛門光端の建立
{右・寄}八幡山 大法寺 [臨済宗妙心寺派]由比676
東海道由比宿交流館手前を右折していくと正面。永禄3年(1560)主君今川義元とともに桶狭間の戦いで討死した由比城主由比助四郎光教の妻が天正13年(1585)開基し堅翁宗固和尚が開山した。本尊は如意輪観世音菩薩で天正5年(1577)海から拾い上げられたもの。馬頭観世観音菩薩もある。境内左に金比羅堂もある。石段上がって右に天保6年(1835)光教の子孫で由比本陣家の岩邊郷右衛門光瑞が建てた宝篋印塔、左に明和元年(1764)などの石仏2基がある。境内左に開創400年記念のやすらぎ観音や三界万霊塔がある。駿河一国33観音霊場25番札所。駿河・伊豆両国横道33観音霊場22番札所。東海道由比宿交流館は由比本陣公園敷地に建てられた町内観光案内施設、無料休憩所。
{右}由比本陣公園  由比297-1
東海道由比宿交流館の先に表門がある。由比宿唯一の本陣で由比助四郎光教の子である光廣がこの地に移り住み代々岩邊郷右衛門と名乗り本陣職・問屋職をつとめた。広さは間口33間(60m)奥行40間(73m)面積は1300坪(4300平方m)あり街道に家屋を直面させないで塀などで遮蔽した遮蔽型本陣形式が特徴。表門を入った正面に179坪(590平方m)の母屋があった。平成元年敷地を町が購入し公園として整備した。他に東屋、芝生広場、物見塔もある。門前には寛政11年(1799)常夜燈、昭和17年建立の明治天皇由比御小休所碑、平成13年美術館視察を記念して翌年建立の天皇陛下、皇后陛下行幸啓記念碑。塀の外側左には水路(幅1m東西20m)があり大名行列の馬の水呑み場や洗い場だった
{右}東海道広重美術館
由比本陣公園内にある。延べ床面積約1,341平方m、地上3階地下1階の規模をもち全国で最初の歌川広重の作品を中心にコレクションされた美術館で1300余点の版画が収集されている。中には世界に数点しか存在しないといわれる「木曽海道六十九次之内・中津川」やゴッホが模写した「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」も含まれている。館内に実際の版画が刷り上がるまでを版木と部分的に刷ったものを並べて展示しているコーナーや広重の浮世絵を紹介するビデオコーナーもある。一般500円、午前9時-午後5時、展示替日・年末年始休。美術館の場所は本陣の土蔵が4つあった場所で美術館手前には深さ3間(5.5m)の本陣井戸がある。
{右}御幸亭
由比本陣公園内にある。本陣には明治天皇が明治元年(1868)と明治11年(1878)に小休したが明治11年の休憩場所である離れ座敷(141平方m)を復元し記念館としている。茶室結仁斎や榧守稲荷も付設されている。一般500円茶菓子と抹茶付き。前の庭園は松榧園といい家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名した。お手植えの松は松食い虫で枯れたため今はなく公園内に昭和41年建立の碑がある。記念館北側の庭は小堀遠州作といわれており当時の石組などを修復しながら再整備されている。榧守稲荷は本陣家の屋敷神で屋敷にあった家康の馬つなぎの木である榧(かや)に由来する。木は落雷により枯れたがその根元から派生した若木が成長し残っている。
{左}正雪紺屋(しょうせつこうや) 由比68
本陣公園向かい。表に蔀戸を残す紺屋(染物屋)で江戸時代初期より続く老舗。屋内には4つ一組の藍甕が4列、職能神の愛染明王を祭った神棚、壁には色々な染物道具、天井には火事や水害など万一の時客から預かった品物をすぐに運び出すための用心篭が吊られている。昔は鹿島屋と言ったが明治以降に改称し現在は染物の他に土産物なども扱っている。9:00-17:00、不定休。慶安事件の由比正雪(1605-51)の生家とも言われ今でも裏庭の祠に正雪を祀ったといわれる五輪塔がある。慶安4年(1651)楠流軍学者であった正雪は尾張侯への仕官を餌に浪人を集め家光の死を機会に挙兵を計画したが事前に漏れ駿府梅屋町の旅籠梅屋に滞在中に町奉行所の捕り方に包囲され自害した。
{左}脇本陣 饂飩屋四郎兵衛 (平野家)
正雪紺屋の隣の民家に説明札がある。平野家は饂飩屋四郎兵衛を屋号とした脇本陣をつとめ当時の歴史的美術品や文献も所蔵しているが非公開。現在の建物は百数十年程前に改築されたもので庭や梁等には江戸時代の名残りも見られる。由比宿の脇本陣をつとめたのは徳田屋羽根ノ屋、饂飩屋の3軒で江戸時代後期から幕末までつとめたのが饂飩屋である。天保12年(1841)幕府編集の東海道宿村大概帳に「脇本陣壱軒凡そ建坪九十坪、門構え、玄関付き」とあるのが饂飩屋のことであるとされる。
{左}明治の郵便局舎 (平野家)
饂飩屋四郎兵衛の隣。明治39年(1906)由比郵便局長となった平野義命が自宅があったここに洋風の局舎を新築し明治41年1月より郵便局を移転したもので局舎は昭和2年(1927)7月まで使用され現在は饂飩屋四郎兵衛跡とは別の平野家邸宅となっている。黒塀の中に寄せ棟、瓦葺、平屋、白塗り壁の建物がある。明治41年以前の由比郵便局は現在の由比薬局の位置にあり江戸時代はその位置に飛脚屋朝日麟一があって明治4年(1871)郵便制度の創設により由比郵便取扱所となり明治8年(1875)由比郵便局と改称された。
{右}光栄山 正法寺 [日蓮宗] 由比300
本陣隣の月極駐車場の隣に昭和49年建立の寺名石柱があり右折し正面。由比大五郎光高の孫五郎光時(浄円)が文保元年(1317)屋敷を割き法華の道場を開き開基となり六老僧日興が開山した。日興の母方は由比一族の出だった。本堂別座の霊鷲山曼陀羅は文化4年(1807)京都の仏師林如水作で町文化財。他にも身延山久遠寺22世日遠が慶長17年(1612)に書いた奥書木版法華経を所蔵。参道左の貞治元年(1362)題目塔は町内最古の石碑。他にも参道には右に安永9年(1780)と寛永5年(1628)題目塔、左に康永年間(1342-44)の堀川院百首和歌中の1つで由比の語源の句の昭和44年建立の碑などがある。境内には右に昭和44年由比氏初代領主由比大五郎大宅光高遺蹟地碑、左に鐘楼がある。
{右}加宿問屋場跡(現:松風堂)
正法寺の入口横(松風堂脇)に説明板がある。寛文5年(1655)隣接する北田、町屋原、今宿、元禄7年(1694)さらに8村が加宿とされ11村共同で加宿問屋場を設営し本宿と1カ月交代でつとめていた。由比宿は規模が小さく人馬の負担が困難でこれでも対応できない時は蒲原宿と興津宿の問屋が由比宿を素通りして対応していた。加宿問屋場を取り仕切った由比太郎左衛門家は今宿に広大な屋敷を持ち海岸で生産される塩を敵方の甲斐の国にも売る事のできる「半手商売」で財をなし繁栄した。延命寺に慶安3年(1650)に没した2代目由比太郎左衛門の墓がある。もう一軒の本宿の問屋場は本陣公園より手前左の位置にあった
{左}おもしろ宿場館 由比53
松風堂隣の和紙と錦織の館(由比306-1)の斜め向かい。門の脇に望嶽亭藤屋の先代当主松永宝蔵が描いた弥次さん喜多さんの絵の等身大の人形がある。1階奥と地下の有料エリアは本陣、旅籠、桶屋、寺小屋などのセットとセンサーに反応して由比弁で話す人形で由比宿の様子が再現され由比正雪や本陣などのパネル展示コーナーや本陣家の所蔵品展示もある。1階手前にはグッズ、松永宝蔵の画集、駄菓子などを売る土産処「弥次喜多屋」、2階には駿河湾を一望できる食事処「海の庭」もある。9:30-17:30、400円。松永宝蔵は画学校で少しデッサンを習ったことがあり趣味で弥次さん喜多さんを漫画風に描いていたらテレビ等にも取り上げられ有名になった。倉沢地域の看板や橋でも絵が見られる。
{右}脇本陣 羽根ノ屋
和紙と錦織の館の隣の民家の塀に説明板がある。由比宿の脇本陣をつとめたのは徳田屋、羽根ノ屋、饂飩屋の3軒で羽根ノ屋は江尻宿脇本陣の羽根ノ屋の分家であり寛政5年(1793)に羽根伴右衛門が幕府に脇本陣を願い出て徳田屋に代わってつとめるようになった。
{左}清水銀行本町特別出張所 由比41
少し行くとあり建物の前にステンレス製の案内板がある。平成9年に国有形文化財に登録。明治33年(1900)創業の庚子銀行の本店として大正14年(1925)竣工したが昭和3年(1928)金融恐慌で駿州銀行に吸収合併され、昭和23年に清水銀行由比本町支店に改称、現在は同行本町特別出張所となっている。正面から見るとイオニア式の柱頭を飾る4本の柱を高めの基壇の上に据え上部の屋根、梁と合わせ3層からなる様式で西洋の古典様式を基調としている。静岡県の銀行は明治末期には110行が設立され昭和20年末には200行を越えたが合併、改組、解散が繰り返されて現在はほとんどが静岡銀行駿河銀行清水銀行の3行に吸収合併されている。
{右}脇本陣 徳田屋 由比313
清水銀行の向かい。現在は文具店の徳田屋になっており説明板がある。由比宿の脇本陣をつとめたのは徳田屋、羽根ノ屋饂飩屋の3軒で羽根ノ屋の前につとめていたのが徳田屋だった。ただし文化3年(1806)の東海道分間延絵図にはまだこの徳田屋の位置に脇本陣が描かれている。
{右・寄}松石山 延命寺 [浄土宗] 由比315
和食処井筒屋(由比314)先を右折し正面。荒廃した東方寺[真言宗]の延命地蔵堂を天正7年(1579)改修し加宿問屋職由比太郎左衛門と本陣家岩邊郷右衛門寧廣が開基し良公上人が新寺として開山。本尊阿弥陀如来は明暦2年(1656)常陸国板久村浄国寺から由比平十郎(浄本)が譲り受けたもの。室町末期作の木造延命地蔵菩薩立像(像高172.5cm総高220cm)は町文化財。他に良公上人像、岩邊郷右衛門寧廣夫妻像、由比一里塚の旧十王堂の閻魔大王像を所蔵。門入って右に元文5年(1740)文字庚申塔、正保元年(1644)三界万霊塔、享保8年(1723)巡礼塔など石碑石仏5基、左に岩邊郷右衛門光瑞建立の天保4年(1834)宝篋印塔。境内右には新しい水子地蔵尊銅像、左に文政3年(1820)万霊塔。
{左}由比宿西木戸跡
しばらく進むと正面に由比川が見えるところで道は二叉になり塀に平成8年設置の説明パネルがある。街道の右には浦高札場もあった。西木戸跡の二叉を左に行くのが旧東海道で細道を進むと由比川に出る。由比川に出ると右に小祠がある。この付近には矢箭八幡社があったとされ元は前九年の役(1051-62)で東征に向かう源頼義が薩山の八幡平から戦捷を祈願して「この矢の落ちたところに八幡社を勧請し奉るべし」と放った矢が落ちて祀られたもので現在は飯田八幡宮に合祀されている。
{左}入上(いりあげ)地蔵
小祠の斜め向かいの川岸に堂があり6体の地蔵(5体+顔無し1)が安置されている。由比川の水難者を祀った川守地蔵。川はきちがい川と呼ばれ水難者が絶えず広重の狂歌入東海道の由比に書かれた結城亭雛機の狂歌「ふみ込めば 草臥(くたびれ)足も 直るかや 三里たけなる 由比川の水」も川が急流だったことを示している。入上はこの辺りの昔の地名でさらに昔は「ゆりあげ」と言った。由比助四郎光教の子で後に本陣家となる光廣が天正5年(1577)夢のお告げで由比浦浜に出てみると海上から金色まばゆい観音像が波にゆりあげられてきたという故事に由来する。像はもとは粉河寺(和歌山県紀の川市粉河2787)にあったものとされ現在大法寺の本尊として祀られている。
{右・寄}由比川橋
昔の由比川は仮板橋で渡り水量が増すと仮橋は外され徒歩で渡った。明治8年(1875)望月幸平が初めて木橋を架け玉鉾橋と名付け無賃で渡していたが昭和8年(1933)コンクリートの由比川橋が横に架けられ玉鉾橋はとり壊された。今も対岸には松が1本植えられている小道が続いているが川を渡るには平成13年竣工の由比川橋(長さ76.1m幅12m)で迂回する。橋の手前左には常夜燈、右には昭和36年から52年に行われた左岸一万坪(15万平方m)の埋立て記念碑と小さな松がある。橋には橋柱が常夜燈風に作られ欄干には4ヶ所に金属板に刻み込んだ東海道の浮世絵とベンチがあり渡った右には四阿と由比宿案内図がある。対岸の本来の小道もすぐに由比川橋の道に合流してくる。
{右・寄}経塚山 妙栄寺 [日蓮宗] 由比町北田109
由比町役場(北田110-1)へ行く道を右折していくと正面に見える。天正12年(1584)蓮乗院日満が当地に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り土地の有志と議って石塔と草堂を建立し開山し久遠寺末寺とした。当初は3間4面の堂で無檀無禄、住職は名義のみだったが明治23年(1890)望月与平が堂を修繕して題目修業の道場とした。その後18世一妙院日久と一浄院日豊法尼によって現本堂が建立され20世真亮院日恩に至って境内地の整備が完了した。本堂には日蓮聖人像や鬼子母神が安置されている。山門入った左に銅製の中興碑、山門手前右には元禄5年(1692)大正10年(1921)題目塔など石塔・石碑が5基ある。
{右}春埜製菓  北田92
妙栄寺へ行く道を渡った角にある。「おはいりなさいやァせ。名物さとうもちよヲあがりやァせ。」と東海道中膝栗毛にも出てくる由比名物さとう餅はたまご餅に名前を変え江戸時代以降も売られていたが茶店や菓子屋は徐々に姿を消し最後の店だった由比川袂のもちやも昭和末期に廃業した。もちやの親戚筋だった大正15年(1926)創業の春埜製菓はその製法を引き継ぎ復刻し現在も売っている。見た目が白くつるんとした感じで特赤あずきを使用しているため餡も少し白い。10個\735。岩渕の栗ノ粉餅と府中の安倍川餅とともに静岡三大餅の一つ。桜えび最中や桜えびクッキーもある。8時-19時、月曜休。
{左}せがい造りと下り懸魚 (稲葉家)
JAするが路(北田82)を過ぎた先の民家に説明板がある。由比町の町並に多く見られる建築様式の民家。せがい(船コ竏造りは軒先を長く出した屋根を支えるため平軒桁(ひらのきげた)へ腕木を付け足して出桁とし垂木としたもので由比町では古い建物だけでなく新しい建物もこの造りになっているものがある。下り懸魚はせがい造りの平軒桁の両端を風雨による腐食から防ぐために覆う雲版型の板で若葉、花鳥、魚など装飾が施してある。
{右・寄}金谷山 桃源寺 [臨済宗妙心寺派] 由比町町屋原105-8
昭和31年竣工の共進橋で和瀬川を渡り町屋原ポケットパーク手前の細道を右折していくと左。今川の被官だった矢田淡路守が桃源と呼ばれる領内の砦内に創建し正保2年(1645)耽源和尚が現地に移し中興した。入口に安永10年(1781)南無観世音菩薩の字碑や馬頭観音、大日如来、巡礼塔、双体道祖神など石仏石塔が9基ほどある。境内入って左に文字庚申塔、その左に弘化3年(1846)明治11年(1878)の燈籠がある。その後ろに樹高30m目通3.3mの雌株の銀杏があり豊積神社と夫婦銀杏。本堂左の石仏七観音は左から不空羂索、如意輪、准胝、十一面、馬頭、聖、千手で文化12年(1815)信州高遠山室 北原佐吉の作銘がある。その左には同年銘の三界万霊塔。境内の随所には羅漢像がある。
{右}豊積神社(とよつみじんじゃ) 町屋原185
清水銀行由比支店先に神社名石柱とお太鼓祭りの説明板があり右折していくと正面。駿河国二之宮で白鳳年間に豊受姫を祀り創建され延暦10年(791)浅間信仰の普及から木花開耶姫を祭神とし豊受姫は境内社の稲荷社となった。延暦16年(797)坂上田村麻呂が東征の途中に戦勝祈願し平定後に立ち寄ったのが大晦日だったことから元旦より3日2晩祝賀の宴が催され大太鼓を繰り出し町内を練り歩いたのがお太鼓祭りの起源。平成9年1200回記念祭を行い境内左に太鼓石像が建立された。本殿は総欅銅板葺の流造本殿左に山宮社、日枝社、須賀社、稲荷社、磯前社。本殿後方の狭い参道奥に赤鳥居と大楠、白髭神社の祠。境内右に樹高27m幹周囲9.1mの雄株の銀杏があり桃源寺と夫婦銀杏。
{右・寄}北田山 地持院 [臨済宗妙心寺派] 町屋原183-3
神社の右隣。昔は地持院山の麓か西山寺にあったと言われ天正年間(1573-91)暗室和尚が現地に移し開山再興した。本尊は鎌倉時代初期の運慶、快慶の流れを汲む慶派仏師の作の木造地蔵菩薩座像(像高142.5cm総高100cm)で町文化財。左手に宝珠、右手に錫杖を執り左足踏み下げて座っている。他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている代かき地蔵や寺領から掘り出された掘り出し地蔵もある。本堂は大正10年(1921)客殿庫裏は平成7年の建立。本堂、客殿を飾る襖絵は女流画家杉山侃子(なおこ)によるもの。静岡県内では最大規模の永代供養塔がある。梵鐘は昭和39年。
{左}いちうろこ  由比町今宿13
創業文政元年(1818)の老舗蒲鉾屋。創業時から駿河湾で漁れたキス、イサキ等の地魚で蒲鉾を作りすり身、副原料に合成保存料、化学調味料、その他添加物も一切使用しないで製造している。かまぼこ「うろこちゃん」150g250円、贈答品5本セット3300円、バラエティセット4200円、桜海老釜揚げ・しらす釜揚げ・黒はんぺんが入った由比からの贈り物2700円など。「きす板かまぼこ」は平成17年度優良ふるさと食品コンクールの国産畜水産品利用部門で農林水産大臣賞を受賞した。
{左・寄}由比漁港
いちうろこ向かいの道を左折していくと漁港に出る。明治27年(1894)鯵の夜曳き漁に出かけた由比今宿の望月平七と渡辺忠兵衛は網を浮かせておく浮樽(カンタ)を忘れてきたためそのまま網を沈めたところ一石以上もの桜えびが偶然がかかった。現在では由比港の桜えびの水揚高は日本一で由比の名産になっている。駿河湾にだけ生息する体長が4-5cm程度の桜えびはほぼ透明に近い桜色で浜で干す風景は冬の風物詩。漁期は春と秋の2回で由比や蒲原では自発的に出漁日を制限するなどして資源保護を図っている。毎年5月には桜えび祭りが開かれる。漁港内には食事処「浜のかきあげや」もある。
{右・寄}天満大自在天神
漁港入口から少し行くと道は左に少しずつカーブしていくが本来の東海道は直進し県道396号に重なる道筋になっていた。その道筋は殆ど残ってないが釣具の桑原商店の少し先の横断歩道があるところで右折しすぐ左折した細い路地が僅かに残っている。右折した正面には県道396号の向こうに天満大自在天神が見える。祭神は菅原道真で大正2年(1913)鳥居の左に嘉永6年(1853)秋葉山常夜燈がある。旧道の細い路地をしばらく行くと突き当たりになるので右折し県道に合流するが左折すると大正5年(1916)4月15日開業の由比駅で駅手前の公園には夢舞台道標由比町今宿がある。
{右}今宿の六地蔵
県道に出て西に向かうと斜面の少し高い所に堂がある。左から登って中に入ると六地蔵と三界万霊塔が安置されている。中の地蔵は赤ではなく白色の涎掛けを付けている。その先右の由比駅上バス停横には馬頭観音や稲荷社が祀られている赤い屋根の小堂もある。さらに先に行くと右の斜面に石祠もある。やがて寺尾歩道橋の所を右斜め前に入って行くのが東海道で県道から分岐し寺尾集落に入る。寺尾の昔の家並みは海沿いにあったが津波の被害により天和2年(1682)高台に新道を通し東海道とした。南方寺という真言宗の寺があったのが地名の起源となっている。少し行くと平成6年竣工の寺尾澤橋を渡る。木目調の欄干の小さな橋でこの後も同様の橋がある。
{右・寄}宗像神社 由比町寺尾785
少し行くと由比町観光案内板(地図)がある町営プールの十字路を右折し坂を登っていくと正面。海上航海の守護神である福岡の宗像大社の宗像三女神を勧請した。拝殿が神社というよりお寺の本堂に似ている。石段途中の灯籠は明治33年(1900)、境内の狛犬は昭和3年(1928)、灯籠、手水石、鳥居は昭和45年。拝殿後ろの本殿の灯籠は昭和17年、本殿右には石祠が2基ある。境内右は相撲場もあり広場になっている。相撲場は近年東関部屋の出稽古に使われており期間中は相撲大会や交流イベントなどもある。
{右}海上山 讃徳寺 [日蓮宗] 寺尾549
中ノ沢川を平成4年竣工の中の沢二号橋で渡ってすぐ。地元の長者河西六郎右衛門勝長が寛文9年(1669)自邸を提供して開基した。開山は慈雲院日覚上人、本尊は一塔両尊四士曼陀羅。石段上左に元禄4年(1691)谷口法悦建立の大きな題目塔がある。境内左の七面堂には安隠寺(清水区伊佐布)から移されたとされる木彫極彩色の木造七面天女像像(高34cm)のが祀られており当山5世の阿闍梨本光坊日恕の元禄3年(1690)銘がある。近隣の村々に悪疫が流行した正徳6年(1716)七面堂を建立し安置した。客殿と庫裏は平成11年築。境内左に元禄6年(1693)石塔、安永6年(1777)南無日蓮大菩薩字碑、忠魂碑があり灯籠も明治26年(1893)、大正14年(1925)皇太子結婚記念、年号不明2基がある。
{右}名主の館 小池邸 寺尾464
しばらく歩いていくと右に昭和5年(1930)建立の時計台付き掲示板がありその少し先にある。小池家は武田家臣小池主水が武田家没落後当地に移住し江戸時代には寺尾村の名主をつとめ代々小池文右衛門を名乗った。建物は明治期の築で低い軒の瓦葺き、正面の潜り戸付きの大戸、格子など当時の寺尾地域の民家の特徴が見られ大戸の脇にはなまこ壁があり軒先は出桁造り。内部はたたき土間と6畳4間からなる田の字形4つ目取り平成8年町が譲り受け整備し資料館&休憩所とした。平成10年国有形文化財登録。庭園は池の石組みは当時のままだが庭石や灯籠を利用し江戸中期の庭師が考案した音響装置水琴窟を新設した。9:30-15:30、10:00-14:30(11月-2月)、無料(寄付箱あり)、月休。
{左}東海道あかりの博物館 寺尾473-8
小池邸のななめ向かいにある。東部電機工業(葵区竜南3-8-27)社長でもある片山光男館長が個人的に収集した提灯、油あんどん、なたね油、ローソクなど日本の灯具1000点以上を展示、火おこし体験コーナーもある。大正8年(1919)築の小さな民家を利用し平成8年開館した。10:00-16:00(土日祝9:00-16:30)無休、500円。東海道は平成8年の秋葉山石柱が右手前にある平成5年竣工の大澤橋で大沢川を渡りしばらくすると少し下り坂になりその先左の丸太のイスが並ぶ休憩スペース先の2叉路を右に登っていく。
{右}題目塔
2叉路からしばらく行くとある。正面には法界万霊供養とあり年号は不明で讃徳寺29世日亮の銘がある。街道の左は視界が開け海と東名高速、国道1号、東海道線が見渡せ少し先には古いベンチと「空き缶をすてないで持ちかえり」の錆びた看板がある。看板の絵は望嶽亭藤屋の先代の松永宝蔵によるもの。この先は少し下っていく。右にはみかん運搬用のモノレールがあり斜面の墓地には古い墓石が並ぶ。すぐ先左には昭和25年(1950)創業で平成15年にリニューアルオープンした桜えび、磯料理の有名店くらさわやがある。その先にも右に墓地があり古い墓石群がある。
{右}八阪神社 由比町東倉澤143
しばらく行くと神社名石柱が2つ並んでいる。右(昭和52年)が八阪神社のもので祭神は素盞鳴尊。石段下の鳥居は明治45年(1912)狛犬は昭和3年(1928)。急坂の石段を登った社殿左には石祠があるが以前はいぼとり観音菩薩の堂があった。現在は堂はなく元禄年間(1688-1704)作の菩薩像は平成7年から東倉沢集会場2階に安置されている。左の神社名石柱(昭和54年)は中峯神社のもので坂を登っていく道はあるが社殿は1kmほど先の山中にある。寛政年間(1789-1801)に没した藤八が後に火防の神として祀られ藤八権現と呼ばれていたのが前身で安政5年(1858)山崩れで崩壊後に木花之開耶姫命を祭神とする富士浅間大菩薩として再建し明治に東倉沢と西倉沢の間にあるので中峰神社となった。
{右}鞍佐里神社 西倉澤313
を平成4年竣工の権現橋で渡り少し先。峠で焼討ちにあった東国平定中の日本武尊が鞍の下で祈ると鞍が身代わりに焼け落ちた故事から峠の開墾時に山上に創建され長い間「山の神」と呼ばれていたが昭和7年(1932)現地に移された。大田南畝(蜀山人)も享和元年(1801)山の神前の茶店に休息し狂歌「山の神 薩峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ」を詠んだ。石段を登り始めると左に明治19年(1886)常夜燈。拝殿の蟇股彫刻は野火を払う日本武尊。社殿右には磯部海龍王、稲荷社などの境内社がある。その横には大正14年(1925)神社新築記念碑。境内左には昭和7年の大きな西倉澤漁業組合記念碑があり右斜面には石祠4基がある。鞍佐里は「鞍去り」が語源で地名の倉沢にも転じた。
{右}倉沢山 宝積寺 [曹洞宗] 西倉澤332
しばらく行くと石段がある。永平寺の末寺。安政5年(1858)大雨による山崩れで本堂庫裡が埋没しその後建てられた仮寺も慶応4年(1868)山崩れで埋没したという記録がある。境内左に石仏や六地蔵、平成3年建立の13重の石塔がある。裏の階段を登った墓地には西倉澤漁場殉難者之碑がある。街道はすぐ寺沢を寺沢橋で渡る。橋の手前右の電柱の影には大正13年(1924)昭和天皇の御成婚記念碑があり橋の欄干には望嶽亭藤屋の先代の松永宝蔵によるイラストが描かれている。
{左}倉沢間宿 本陣跡 川島家
しばらくすると旧家の密集した西倉沢間宿に入り1軒の民家の軒下に説明板がある。川島家は慶長(1596-)から天保(-1844)にかけて川島勘兵衛を名乗り西倉沢村名主もつとめた旧家で大名もここで休憩したため本陣と呼ばれた。薩峠を控えた西倉沢には旅人が休める休み茶屋が十軒ほどあり東海道中膝栗毛にも「爰(ここ)もとに 賈うはさゞゐの 壷焼や 見どころおほき 倉沢の宿」と詠まれており栄螺や鮑が名物で宝暦10年(1760)土御門泰邦の旅行記「東行話説」や寛政9年(1797)東海道名所図会にもとりあげられた。薩峠からは駿河湾で栄螺漁をする海女の姿が見えたという。
{左}茶屋 柏屋跡
宝積寺下の寺沢橋と同じ絵入り欄干がある倉沢橋を渡ると白壁の蔵の隣にある。今は普通の民家(こちらも川島家)になっており軒の下に説明板もある。柏屋は間宿の休み茶屋の一つで明治元年(1868)柏屋幸七の代に明治天皇御東幸の小休所となった。後に明治11年(1878)の東海北陸巡幸の際も小休している。明治15,6年頃には薩摩出身の静岡県令大迫貞清が療養のため逗留し気候が郷里に似ていることから田中枇杷の種子をとりよせ当主幸平に栽培を勧めた。これにより倉沢は以前からの細く小振りの茂木枇杷に代わり大振りの田中枇杷が広く普及した。現在の田中枇杷の主要産地も静岡と千葉になっている。
{左}茶屋 藤屋(望嶽亭)
少し先にある。松永家が代々茶店を営み峠の登り口に位置しているところから坂口屋、富士山の眺望がよいため望嶽亭とも呼ばれ文人墨客が好んで休憩した。明治元年(1868)山岡鉄舟は西郷隆盛に会うため夜に薩峠を単独突破し駿府に行こうとしたが見つかり藤屋に逃げ込んだ。当主は土蔵に匿い漁師の服装に着替えさせて土蔵の隅に今もある抜け口から当時はすぐ裏にあった海岸へ出て舟で清水の次郎長の所へ送り鉄舟は次郎長の所で服装を整えて西郷との会見に臨むことが出来た。鉄舟が漁師の服装に着替えた時に置いていったフランス式十連発ピストルが今も残されている。興津の水口屋に昭和天皇と皇后が宿泊されたときの寝具もあり水口屋が廃業するときにその一部を預かったもの。