東海道ルートガイド
坂下宿

{右}ナガヲ薬局(現:綾羽) 関町中町420-1
少し先。大正時代創業の薬屋だったが平成17年から薬局の面影を残しつつアンティークの品々が置かれたギャラリー&カフェになっている。建物は文化9年(1812)の築。1階がギャラリーとカフェ、2階がカフェとなっている。店先には薬びん、計量に使用した天秤や分銅などがディスプレイ展示されている。メニューは20種類の薬草をブレンドした薬草茶の他、コーヒー、紅茶、ケーキセットなど。9-18時、火水休。
{左}志ら玉(現:前田屋製菓 関店) 関町中町407
少し先向かい。「志ら玉に 旅はるかなる 宿場まち」と謡われた関の銘菓・志ら玉は三宅菓子匠(三宅家)が創作したもので昭和59年から前田屋製菓(関町坂下98)が引き継いだ。建物は江戸末期の築とされ1階が店舗部で右側は出格子、2階右側には手摺が付いている。文久3年(1863)の記録ではこの付近には記載がなく誓正寺近くに白玉屋熊次郎とある。志ら玉は三種の神器のうちの勾玉をイメージして考案されたと伝わり米粉生地の皮で北海道十勝産小豆のこし餡を包んだ平らな団子餅で赤緑黄の彩り粒が乗せてある。1個85円6個入600円。店には他にも桃、栗、梅の3種の饅頭「関の小萬」(1個150-170円)ほか多くの菓子が並ぶ。10-18時、元旦休。
{右}清浄山 福蔵寺 [天台真盛宗] 関町木崎417
斜め向かいに入口があり右に寺名柱と「東海道 関宿」石柱がある。天正11年(1583)信長の3男の信孝が愛知で自害すると家臣・大塚俄左衛門長政は信孝がかつて城主だった神戸城に首を運び弔おうとしたが拒否されここに菩提寺を創建した。本尊は阿弥陀如来。境内左に信孝の墓がある。山門入ってすぐ右に大きな「関の小萬碑」碑。その左の側面に「妙證信女山田屋小萬 享和三年正月十六日」とある地蔵が小萬の墓石で明治40年(1907)別の墓地で発見されここに移された。昭和53年市指定史跡。山門手前右に薬師堂、その前に貞享5年(1688)手水石。本堂左に観音堂。境内左に安政5年(1858)灯籠や石仏石塔群、境内右に水子地蔵など。右奥の裏門は萩屋脇本陣の門。鈴鹿郡88ヶ所霊場第18番。
{右}片岡鍛冶屋(片岡家) 
少し進むと小さな川があり渡ると中町から新所町となる。渡った左に「はらや資生堂化粧品店」(関町新所1165)がありその隣に平成14年にオープンした関宿地蔵町散策拠点施設の地蔵町いっぷく亭がある。その向かいが片岡家。明治末期創業の鍛冶屋で鍬、鋤などの農具や山林伐採用の刃物を作り2代続いたが平成15年に廃業した。新所町の建物は仕舞屋風の平屋で地味なものが多いが格子や庇の幕板などの細部意匠がよく残されている。
{右}川音(現:尾崎米穀店西店) 関町新所1778
隣にある。米穀店で川音は川の水で米を撞いていた頃の水車の音に由来する屋号。文久3年(1863)の記録には米屋市蔵とある。建物は文久年間の築。間口7間半(13.6m)で右後ろに米を収蔵する土蔵がある。支店の尾崎米穀店東店(関町中町369-1)は川北本陣跡向かいにある。左隣の尾崎酒店(関町新所1777)は大正15年(1926)の創業。
{左}歴史の道碑
斜め向かいの地蔵院前にある。昭和61年に「道の日」制定を記念して選定された日本の道100選に東の追分から西の追分までの旧東海道1.8kmが選ばれたことを記念し翌年建立された。道の日は8月10日で近代的道路整備の先駆けとなった大正9年(1920)の第一次道路改良計画がスタートした日。碑の右には文久3年(1863)灯籠、左には大正3年(1914)田中音吉建立の「停車場道」道標(高さ76cm)もある。左に分岐する道は江戸時代からあったが明治23年(1890)四日市と草津を結ぶ関西鉄道(現:JR関西本線)が開通すると関停車場への道として整備され当時は「ステンショ道」と呼ばれた。文久3年の記録では碑の付近には人足会所があった。東海道はここで右へカーブする。
{左}九関山宝蔵寺 地蔵院  [真言宗御室派] 関町新所1173-2
天平11年(741)聖武天皇の勅願により建てられ天平13年に行基が高さ3尺6寸(1.09m)の地蔵を彫り安置したのが起こり。本尊の地蔵菩薩像は日本最古とされる。関の地蔵院として有名で「関の地蔵に振袖着せて 奈良の大仏婿に取ろ」と謡われた。本堂は元禄13年(1700)建立で天井の天井画174枚は狩野永敬が十年かけて描いたと言う。本堂右前に正徳2年(1712)手水石、左前に享保16年(1731)灯籠、古い地蔵石仏、本堂右奥に地蔵天神社、元禄6年灯籠。本堂と寛永21年(1644)建立の鐘楼は昭和63年指定国重要文化財で平成10年保存修理が行われた。梵鐘は寛文11年(1671)改鋳で知行付の鐘と呼ばれる。鈴鹿郡88ヶ所霊場第19番、三重四国88ヶ所霊場第28番、尼寺36所霊場第34番。
{左}地蔵院 愛染堂
本堂左にある。元は本尊の地蔵菩薩像が安置されていた本堂であり元禄13年(1700)に現本堂が建立されため愛染明王を安置し愛染堂となった。文応元年(1260)焼失後の文永4年(1267)建立で鎌倉時代の建築様式が見られ大正9年(1920)国指定重要文化財。鍔口は元和9年(1624)で大工藤原種幸三郎右衛門の銘がある。堂前の桜は大正5年北白川宮成久王の手植。愛染堂は享徳元年(1452)に改修、寛永7年(1630)再築、文政8年(1825)移築、昭和32年保存修理が行われ享徳改修時には法要供養を一休禅師が行ったとも伝わり境内には天保11年(1840)建立の一休石像がある。像の横には昭和41年銅製地蔵立像、鉄製鹿像がありその近くの塀などの地蔵院敷地を囲む塀裏側には木造座像が並ぶ。
{左・寄}地蔵院 藤原定家歌碑
鐘楼の背後にある倶了庵(くりょうあん)前を通り庭園奥の築山を登ると歌碑と説明立札がある。中納言・藤原定家が勅使の供としてこの寺を訪れた際に詠んだと言う「蝦夷過ぎぬ これや鈴鹿の 関ならん ふりすてがたき 花のかげかな」歌碑で歌は新後撰和歌集にも収録されている。「花」は蝦夷桜のこととされ蝦夷から桜の枝を杖にして参詣に来た人がここに杖を挿したまま帰ったところ根付いたと伝わる。東海道名所図会にもこの地に「えぞ桜」と書かれており現在も築山には小さいが桜の木がある。倶了庵横の庫裏は延享4年(1747)建立で寛政2年(1790)増築された客殿に明治天皇が明治13年(1880)巡幸の際に休憩した。鐘楼右には昭和14年(1939)建立「明治天皇關行在所」石柱もある。
{右}洋館屋(好見家)
地蔵院向かい。2階部分が薄青色の漆喰塗籠で煉瓦造を模してお3連アーチ窓が特徴。江戸時代の築で元は手前の小万茶屋(関町新所1774-1)と続いた1軒家で2階は階高が低い厨子2階だった。文久3年(1863)の記録には油屋徳次郎とある。現在は2階の階高は1階とほぼ同じの本2階となっており2軒に分かれて使用されている。大正初期に所有者となった会津屋が改造したもので昭和60年に修理された。
{右}会津屋(現:森元家) 関町新所1771-1
隣。「関で泊まるなら鶴屋玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた元旅籠。その前は山田屋と言う旅籠で関の小萬が養女となっていた。文久3年(1863)の記録には会津屋安五郎とある。大正時代は製糸業で財を成し現在は日高昆布と2種類の鰹節で出汁をとった蕎麦と竈で炊いたおこわをメインにした食事処で表には「街道そば」の木看板がある。街道そば680円山菜おこわ900円山菜御膳2000円白玉あんみつ580円コーヒー400円ほか。持ち帰り用やお土産品も販売している。10:30-17:00月休。会津屋を過ぎると道はゆるやかな上り坂となる。
{右}松葉屋(田中家)
少し行くとある。江戸時代は松葉屋と称し火縄を商っており明治以降は田中庄一商店として煙草、肥料販売をしていたが昭和59年廃業した。文久3年(1863)の記録には火縄屋彦四郎とある。関宿は火縄(火奴)が特産物で新所町を中心に数10軒の火縄屋があり火災に備えて町には火除け土手や火除松林が造られていたと言う。火縄は喫煙など庶民の生活に使う以外にも鉄砲にも使うため大名からの需要も高く田中家には「播州林田御用火縄所」看板が現存する。林田藩は現在の兵庫県姫路市林田町にあった藩で1万石の小藩ながら元和3年(1617)から幕末まで10代に渡り続いた。
{左}田中家
斜め向かいに同じ名字の民家・田中家がある。代々庄右衛門を名乗り関宿田中徳操家と呼ばれた名家で文久3年(1863)の記録には田中屋庄右衛門とある。6代目庄右衛門は亀甫と号し京都に遊学し有名文化人とも親交があった。建物は嘉永年間(1848-54)の築で表戸にはくぐり戸も付いている。隣の民家も田中家で文久3年の記録では田中屋庄十郎とある。その横には煉瓦塀がある。
{左}田中屋(田中家)
少し進むとまた同じ名字の田中家がある。代々庄太夫を名乗り江戸時代から醤油醸造業を営んでおり文久3年(1863)の記録にも田中屋庄太夫とある。平成元年に醸造をやめ販売のみとなったが平成3年に廃業。総格子の建物は大正初期の築で地元の名工・佐吉が7年がかりで建てた。間口は15間半(28m)と広く内部には30尺(9m)の欅の通し柱がある。裏には醸造用の煉瓦造の麹部屋や煙突などもある。
{右}旭照山 誓正寺 [真宗高田派] 
斜め向かいに山門がある。寛永16年(1645)俊教が開基した。本堂右の庫裏前に慶応4年(1868)灯籠がある。境内左には戦没者碑が並ぶ。
{右}福生山 長徳寺 [真宗佛光寺派] 関町新所1712
しばらく進むと山門がある。万治2年(1659)浄門が創建した。本堂左前に昭和57年建立の子育地蔵がある。少し進むとある十字路手前右の民家の2階塗壁の両端には鶴と亀の漆喰彫刻がある。その向かいの民家の2階塗壁の片端には鯉の滝昇りの漆喰彫刻がある。
{右}関西山 観音院 [天台真盛宗] 
しばらく行くとある。弘仁11年(820)少し南の城山の西方に創建されたと伝わり関西山福聚寺と言い関氏の祈願寺でもあった。本尊は11面観世音菩薩。秀吉の伊勢侵攻の兵火で焼失したが本尊は救出され少し北にある現在の観音山に一時安置されたため山が観音山と呼ばれるようになった。寛文5年(1665)関宿の守り仏としてこの地に寺が再興され関西山観音院となった。本堂は再興時の築で文政年間(1818-29)、昭和50年に改修されている。境内右に享保11年(1726)宝篋印塔、木製鳥居と新しい石祠、享保16年(1731)灯籠、石仏3体の祠がある。本堂前灯籠は貞享3年(1686)。本堂右に御旅町公民館、ブランコ、すべり台などの遊具もある。
{右}観音山道標(観音山公園入口)
観音院本堂左の街道に面したところにある。大正15年(1926)建立で「西国三十三所」「観音山」が縦に並んで刻まれその下に「公園道」とある。道標前には若い松1本と文化13年(1816)「大峯山上」碑もある。道標を右折して行くと観音山公園に通じる。公園内には嘉永7年(1854)から安政4年(1857)にかけて丹波国の石工・村上佐吉が刻んだ31体を含む33体の観世音菩薩石像群が安置されている。他にも機関車広場、新池、聖橋、鈴鹿海軍工廠地下工場跡、アスレチックコース、相撲場、展望台などがある。観音山(標高222m)は鈴鹿国定公園内に位置し昭和53年市指定名勝。観音山の向こうには羽黒山(標高290m)があり中腹に羽黒権現神社、山麓に昭和56年国指定史跡の正法寺山荘跡がある。
{右}南禅寺(井口家)
少し先にある。「南禅寺」は屋号で豆腐料理を名物とする料亭だった。建物は文久年間(1861-65)の築とされ1階には連子格子があり2階は塗籠で格子窓になっている。文久3年の記録には南禅寺の記載はなく観音院から8軒おいた先に宿の出口となる見附土居があった。
{右}関神社御旅所
少し先で下り坂になると右にある。関神社の祭礼は山車の曳き回しの他に神輿の渡御も行われ神社からここまで周辺集落を周りながら2日かけて神輿が往復する。元は天太玉命を祭神とする笛吹大神社の祭礼行事だった。笛吹大神社は元は鈴鹿山麓の総社で加行山(現:関ヶ丘付近)にあり文明11年(1479)新所町の鎮守となり明治42年(1909)関神社に合祀された。少し先向かいには平成13年にオープンした関宿西の追分休憩施設があり中には鈴鹿関跡(西城壁築地)発掘の説明パネルがある。観音山公園の敷地内で平成17年に発見され奈良時代の瓦も出土した。休憩施設とすぐ先の駐車場との間には関宿総合観光案内図もある。
{左}西の追分
駐車場の先。東の追分とともに昭和57年県指定史跡。2叉路になっており左の細道を行くと歩道橋で国道1号を渡りその先の新所町交差点から大和街道(現:国道25号)に入る。古くは加太(かぶと)越道とも呼ばれ加太、柘植、佐那具、伊賀上野と進み島ヶ原から大和へ抜ける道で壬申の乱(672)には大海人皇子も通ったとされる。2叉路手前左に宿場地図付の木製屋根付説明板、三角地帯に平成18年「従是東 東海道関宿」石柱、元禄14年(1691)建立とされる題目塔、「関宿 西の追分」木製屋根付看板、広重の絵、四阿、ベンチがある。題目塔(高さ2.9m)は旅人の道中安全を祈願し谷口法悦が建立し題目下には「ひたりハいかやまとみち」とある。東海道は2叉路を右に進む。江戸時代には松並木が続いていた。
消滅した東海道
少し先の新所交差点横の角も国道1号に出ずに直進する。しばらく進むと道路は右折し突き当りは砂利道となる。本来の東海道はこの先も国道横を蛇行しながら進みしばらく進んだ先の市瀬交差点手前付近で国道と合流していたが消滅しているため正面の砂利道を抜け左折、右折で国道に出て国道沿いを進む。
{右}転び石
市瀬交差点を過ぎると左のオークワ関流通センター(関町市瀬1-1)手前に「東海道 関宿」の大きな看板。その向かいの駐車場内の国道側に直径1mほどの石がある。何度片付けても街道に転がり出てしまうと伝わる伝説の石で鈴鹿川に落ちても自力で戻ったという話もある。鈴鹿峠から当時畑だったこの地に転がり落ちてきたとされ「弁慶ころがし」とも呼ばれる。夜になると不気味な音を立て弘法大師が供養したところ静かになったと言う小夜之中山の夜泣石と似た話も伝わる。駐車場の右側の斜面の林の中にも同じく転び石と伝わる同じくらいの大きさの別の石がある。
消滅した東海道
その先の市瀬橋(いちのせばし)手前で東海道は国道1号から右に分岐する。橋手前右の川沿いのガードレールに矢印標示。分岐して少し先で左に分岐する土手道が東海道の名残だがその先は消滅しているためそのまま舗装道をまっすぐ進み鈴鹿川を昭和54年竣工の市瀬橋(いちせばし)で渡る。対岸にも消滅した東海道から続く名残が見られる。橋を渡って少し先の突当りを右折し立場だった市瀬の集落を進み少し上って国道1号を渡る。国道に出る手前右には「氏子中」と刻まれた自然石の大正9年(1920)常夜燈がある。
{左}龍玉山 西願寺 [浄土真宗本願寺派] 関町市瀬589
国道を渡った右に地蔵の石祠と市瀬バス停があり向かいに寺がある。寺の前には「門徒中」「報恩謝徳」と刻まれた自然石の大正7年(1918)常夜燈がある。亀山城主・関盛信が与えた寺地に天正3年(1575)に創建。創建時に本願寺11世顕如より書像本尊を下賜されたが後に木像本尊を下賜された際に返還した。山門入って左に銀杏。本堂右に小堂、あとは庫裏のみ。すぐ先左には市瀬公民館。しばらく進むと再び国道1号に合流し国道の緩やかな坂を少しずつ登って行く。少し先左に旧道跡らしき畦道のふくらみがある。その先でわずかに左にカーブすると右下には鈴鹿川が沿うようになる。
{右}「名勝 筆捨山」説明板
しばらく国道を進んで行き右に下っていく分岐を過ぎるとその先で東海道は国道から右に分岐する。分岐した左に平成19年設置の説明板がある。正面の鈴鹿川対岸に見える山が筆捨山(標高289m)で楽岩と砂岩によって出来ており本来は岩根山と言った。室町時代に画聖と言われた狩野元信が山を描こうとしたが描けずに諦め途中で筆を捨てたことから筆捨山と呼ばれ東海道名所図会にもその由来が記載されている。諦めた理由はあまりにも美しい景色だったとも付近の天候が頻繁に変わったとも奇岩の岩肌が多かったからとも言われる。広重は保永堂版、狂歌入、行書版など殆どの五十三次の坂下宿の絵で筆捨山を題材にしている。山は昭和53年市指定名勝。
{左}市瀬一里塚跡(沓掛一里塚跡、弁天一里塚跡)(107)
東海道はそのまま分岐した道を進むがUターンするように戻り再び国道に合流する。その先の筆捨山バス停のすぐ先でも国道から右に分岐する旧道の名残があるがその先は民家となり通り抜けできない。国道を進むとすぐ先で左に大きくカーブししばらく進み右にカーブし少し先で鈴鹿川を弁天橋で渡る。橋手前を左折すると左に弁天社のコンクリート製小祠がある。橋手前右には昭和26年(1951)建立の国道改良紀念碑もある。昭和23年から3年かけて国道改良が行われた。橋を渡った後の民家手前の斜面上の電柱前に昭和48年「一里塚阯」石柱がある。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右は木はなく左が榎1と記録されている。少し先の矢印標示がいくつかある角で東海道は右折し国道から分岐する。
{右}観音山歩道案内図
緩やかな坂を上り10軒ほどの楢木集落を過ぎしばらく行くと左に東海自然歩道の方向・距離標示木柱がある。東海自然歩道は東京の「明治の森高尾国定公園」から大阪の「明治の森箕面国定公園」の間の自然・文化財を巡る計1697.2km の散策路で左折して行けば加太、柘植方面へ、直進すると旧東海道と合流し鈴鹿峠方面へ向かう。その先左の沓掛地区浄化センター(関町沓掛588-1)を過ぎると右に観音山歩道案内図がある。観音山歩道は観音山公園近くの国民宿舎関ロッジ(関町新所1574-1)を起点に観音山と関富士の間を抜け筆捨山の北を通りここで旧東海道と合流する4.4kmの自然探勝歩道。向かいには子供の木像と「東海道松並木復元 坂下宿第二号」木柱があるが隣の松は枯れている。
{右}神護山 超泉寺 [真宗大谷派] 関町沓掛41
しばらく進み50mほど右に膨らんだ道を過ぎると立場だった沓掛集落に入る。少し先右の沓掛公民館バス停手前の少し奥に平成10年築の山門がある。境内には本堂、庫裏のみ。寺の右奥の小高い広場の奥の石段上には明治42年(1909)建立の「神明社古跡」石塔がある。明治41年にここにあった神明社片山神社に合祀された。広場にはすべり台、シーソーなど遊具もある。先に進むと正面左にはダイダラボッチが富士山を作る際に土を3つ落としたため出来たと伝わる三子山(標高568m)が見える。しばらくして上り坂が少し急になり右に坂下簡易郵便局(関町沓掛80)を過ぎる。超泉寺から郵便局手前までの坂は起こしの坂と呼ばれる。郵便局少し先の2叉路は右に行く。
{右}「まなびの小径」入口
しばらく進むとある。平成6年度ふるさと・水と土保全モデル事業により平成7年に整備された。小径の先には溝ヶ谷親水水路に沿って遊歩道があり野鳥、昆虫、小動物などが生息するまなびの森に通じる。遊歩道途中では鈴鹿峠自然の家グラウンドから下りてくる道とも合流すする。「まなびの小径」入口を過ぎると少し先右の坂下防災センター手前に2叉路があり東海道は右のゆるやかな上り坂を行く。坂の左には「日本橋」「品川宿」から「三条大橋」までが刻まれた55本の木柱が並ぶ。昔の東海道は坂の途中から現在の鈴鹿馬子唄会館前の芝生を通り抜けていたとされ坂下尋常高等小学校(現:鈴鹿峠自然の家)の建築にあわせて今の道筋となった。
{左}鈴鹿馬子唄会館 関町沓掛234
坂の途中にある。鈴鹿馬子唄や坂下宿についての資料を展示。鈴鹿馬子唄は鈴鹿峠で旅人を乗せた馬を引く馬子が鈴の音に合わせて口ずさんだのが発祥で1番から9番まであり馬子唄としては日本最南とされる。宿場ならではの情緒的なものを唄っているのが特徴で平成16年市指定無形文化財。文献では宝永元年(1704)「落葉集」に見られ宝永5年(1708)大阪竹本座で上演された近松門左衛門作の浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」にも登場し全国的に知られた。入って右の黒板に馬子唄の譜面が書かれている。建物は平成7年築で発表会などに使用されるホール部分は五角形と三角形を組み合わせた多球面型。会議室もある。9時-17時、月休、無料。建物左には昭和55年建立の戦没者慰霊碑もある。
{右}鈴鹿峠自然の家(坂下青少年研修センター) 関町沓掛123
斜め向かい。昭和13年(1938)坂下尋常高等小学校(後の坂下小学校)の校舎として建てられた建物で昭和54年廃校後は公民館を経て青少年向け宿泊研修施設となった。中庭を挟んだ校舎2棟を屋根付き廊下で繋いだ木造平屋建瓦葺の建物で平成11年国登録有形文化財。敷地内には地域の歴史民俗資料を展示した坂下民芸館、プール、グラウンド、炊事棟もある。先に進むと少し先で左後ろから道が合流しここに「三条大橋」木柱がある。左の鈴鹿馬子唄会館駐車場内には広重の絵。しばらく何もない道を進むと河原谷橋で鈴鹿川の支流である河原谷川を渡る。下乃橋とも呼ばれ渡ると坂下宿に入る。
坂下宿   本陣3脇本陣1旅籠48家数153人口564[天保14年(1843)]
室町時代から宿駅があったとされ慶安3年(1650)までは片山神社の手前付近にあったが水害で潰滅し現在の場所に移転した。阪之下宿、坂之下宿とも書く。気象の変化が激しく峻険な鈴鹿峠越えを控え本陣や旅籠が多く賑わったと言い近隣の村で生産された木製の櫛が名物だった。宿場は下中町、上中町、石倉から成り町並は長さ5町56間(647m)。文化2年(1805)大火で焼失し幕府から復旧費1300両の貸与を受けた。明治以降は交通量減で衰退し現在は数十件の民家があるだけで宿場の面影もなくなっている。水害で移転した際に再起と平安を願い始まったとされる獅子舞は平成3年市指定無形文化財。
{左}松屋本陣跡
民家が左右に続きしばらく行くと伊勢坂下バス停前の街道沿いに昭和51年建立の石柱がある。問屋役も兼務しており規模は建坪197坪(651平方m)。嘉永3年(1850)頃の町並図では松屋加兵衛とある。本陣の門は明治15年(1882)旧:坂下小学校を改築する際の資材として他の建物の1部とともに移築され昭和35年に法安寺の庫裡玄関に再転用され現存する。本陣建物のあった場所は現在はバス車庫、坂下集会所になっており集会所前には平成19年設置の坂下宿の説明板もある。集会所裏はブランコ、すべり台など遊具がある小公園になっている。バス停は亀山、関方面からの市営コミュニティバス(ワゴン車)の終点でありここから先は鈴鹿峠を越えるまで公共の交通機関はない。
{左}大竹屋本陣跡
その先の茶畑前に昭和51年石柱がある。東海道名所図会に「家広くして世に名高し」「海道第一の大家也」と称えられたほど名高く旅人が1度は泊まってみたいと願う宿であったと言う。石柱横には鈴鹿馬子唄「坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや 小竹屋に」が書かれた木製立札もある。規模は間口13間半(25m)奥行25間(45m)建坪189坪(625平方m)畳数201板敷71畳で建物は明治以降に取り壊された。庭にあった不断桜も有名で往来する公家や文化人の歌に詠まれた。嘉永3年(1850)頃の町並図では松屋本陣から1軒おいた隣で大竹屋伝右衛門とある。
{左}梅屋本陣跡
茶畑を過ぎると鈴鹿川の支流の若妻川に架かる中乃橋の手前に昭和51年石柱がある。建坪161坪(532平方m)。嘉永3年(1850)頃の町並図では大竹屋本陣から1軒おいた隣で梅屋孫九郎とある。石柱手前には「東海道松並木復元第一号」木柱があるが松はなく小さな切株がある。
{右}鈴鹿山 法安寺 [曹洞宗] 関町坂下91
向かい。永正2年(1505)薩摩から来たという祐傳が創建し鈴鹿山観音院と称したのが起こり。慶安3年(1650)の水害で流出し承応2年(1653)大道密旨が現在地に再建した。塔世山四天王寺(津市栄町1-892)の末寺。本尊は善光寺分身如来。石段下右に嘉永7年(1854)建立「當山内 当西國三十三所順拝寫」碑、年号不明の「不許葷酒入山門」碑。石段下左に側面に「当寺本尊 信濃善光寺分身如来」とある享保4年(1719)大きな六字名号碑、「庚申」手水石、名残松の切株。石段を上った山門左に庚申堂、その前に「三界万霊」碑。山門前右に戦没者の墓6基。本堂はコンクリート製。本堂右の庫裏の玄関は元は松屋本陣の門で平成6年市指定文化財。境内左には宝篋印塔。鈴鹿郡88ヶ所霊場第27番。
{右}小竹屋脇本陣跡
中乃橋を渡ったすぐ先の柵で囲われた畑の前に昭和51年石柱がある。坂下宿の脇本陣は当初は松屋本陣斜め向かいの鶴屋だったが明和2年(1765)から大竹屋本陣の分家が小竹屋として交替した。嘉永3年(1850)頃の町並図では小竹屋市左衛門とある。鶴屋の隣には問屋場、小竹屋の手前には高札場もあった。鈴鹿馬子唄の「坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや 小竹屋に」は大竹屋は本陣のため一般人は泊まれないのでせめて小竹屋に泊って贅沢してみたいという気持ちをあらわしている。小竹屋の建物は明治24年(1891)に亀山宿の善導寺に庫裏として移築されたが平成20年取り壊された。少し進むと鈴鹿川の支流の亀居谷川を渡る。
{右}金蔵院跡
少し先の角で左折し50mほどで再び元の車道に戻る細道が東海道の名残。車道が通っているところやその右一帯は金蔵院の敷地跡で車道右には石垣が残る。仁寿年間(851-53)創建の天台宗の寺で鈴鹿山護国寺とも言った。江戸初期には旧坂下宿にあり将軍家の御殿が境内にあって大坂の陣へ向かう家康や寛永11年(1634)上洛時の家光も休息したと言う。慶安3年(1650)の水害で流出し現在地に移転した後も将軍家庇護の寺として格式を持ち参勤交代の大名は山門前で駕籠から降りたとも伝わるが明治初期に廃寺となった。
{右}身代地蔵尊
旧道の名残が再び車道に合流した少し先の石垣の下にある。祠の中に1体の石地蔵と風化した石が複数安置されている。大名行列を横切り処罰されかけた子供の身代わりとなったと伝わる。地蔵尊すぐ先で鈴鹿川の支流の如来堂川に架かる如来堂橋を渡る。上乃橋とも呼ばれ渡ると坂下宿が終わる。少し先右の土蔵と民家の間に3体の石地蔵と風化した五輪塔2基があり櫛屋の地蔵と呼ばれる。旧坂下宿にあったが明治以降に移された。民家が移転する際に夢に現れ「わしも一緒に連れてってくれ」と言ったと伝わる。民家左には井戸跡もある。少し進むと鈴鹿川の支流のへノ字谷川を渡る。しばらく行くと右に比較的新しい等身大の老爺と老婆の像がある。
{右}岩屋観音(清瀧山 観音寺) 関町坂下494
少し先の国道1号(亀山方面車線)に出る手前。万治年間(1658-60)に法安寺の実参が旅人の安全を願い創建し元禄年間(1688-1703)に2世密湛が再建した。石段を上った奥にある高さ18mの岩窟に11面観音、阿弥陀如来、延命地蔵の石像が安置され観音堂に覆われている。左には病気が治ると伝わる清滝という小さな滝が流れ石段手前左で滝の水が飲めるようになっている。昭和53年市指定名勝。伊勢街道名所図会の坂下宿の中にも崖下の観音堂と横の滝の絵が描かれている。境内には他にも石仏、石塔がある。道路脇には昭和49年建立「大道場 岩家十一面観世音菩薩」石柱。その左に門があり無住のため通常は閉まっており立入禁止。毎月3日18日のみ開扉。法安寺が管理している。