東海道ルートガイド
二川宿

{右}細谷一里塚(71)
国道を進み一里山交差点を渡ると右に小さな森があり石垣に説明プレートがある。この一里塚は江戸時代は化物塚などとも呼ばれ寂しい場所にあったが道中奉行の監督下で吉田藩により松並木とともに保護管理されていた。左塚は明治以降荒廃し破壊されて屋敷の一部となり大正末頃には全く消失したが右塚は東西11m南北14m高さ3mの楕円形の塚が現存し昭和50年市指定史跡となっている。右塚の麓には祠が2つあり右には石仏2体と小さな石塔が安置され左は津島神社、秋葉神社が祀られている。ここの地名が豊橋市東細谷町一里山であるため東細谷一里塚や一里山一里塚とも呼ぶ。この先は国道1号の三ツ坂と呼ばれる緩やかな下り坂を進む。北方の山に岩山「立岩」が見える。
源吾坂 分断された東海道
キャベツ畑の中の国道1号を3kmほど進むと籠田交差点から先は源吾坂と呼ばれる緩やかな下り坂となる。国道左が神鋼電機豊橋製作所(豊橋市三弥町元屋敷150)の工場となりしばらく進むと国道がやや左にカーブするところでまっすぐ進む東海道は新幹線により分断されている。迂回するにはそのまま国道を100m進み工場正門前の二川ガード南交差点で国道から分岐し右折し二川ガードで新幹線をくぐる。ガードをくぐってすぐ右から来る道が本来の道。少し先で梅田川を昭和40年竣工の筋違橋で渡る。梅田川はこの先で落合川と合流しておりこの二つの川が二川の由来となった。二川宿はもともと源吾坂付近にあり正保元年(1644)大岩村と接近させるために移転した。旧地付近の地名を元屋敷と呼ぶ。
{右}二川一里塚跡(72)
川を渡った少し先で今度は東海道線を第二東海道踏切で渡りすぐ先の十字路を左折するのが東海道。左折後少し先の煙草屋の川口屋前に平成3年建立の石柱がある。側面に「江戸日本橋より七十二里」と刻まれている。正徳3年(1713)「二川本宿 大岩加宿町絵図」には左は問口4間2尺(8m)、右は問口2間5尺7寸(5.4m)で両側とも榎が植えられていたと書かれている。
二川宿   本陣1脇本陣1旅籠38家数328人口1468[天保14年(1843)]
元は源吾坂付近にあった二川村に加宿として二川駅付近にあった大岩村が加えられ2村で人馬継立をしていたが正保元年(1644)両村を接近させるようにして現在地に移転し宿場町が形成された。長さは12町16間(1.3km)二川町側は6町36間(700m)大岩町側は5町40間(600m)。遠江から三河に入って最初の宿場だが小規模で経営は苦しく火災も多かった。宿場の機能は二川町が中心だったが鉄道敷設に際し二川駅は大岩町の西に開業し国道1号も南を通った為に二川町の江戸時代の町割はほぼそのままの状態で残り本陣の建物も現存する。明治期は玉糸製糸が盛んで海外へ輸出されていた。
{右・寄}十王院 [曹洞宗]
次の角を右折して細い路地をいくとある普通の家のような寺。天正13年(1585)一翁善得が阿弥陀如来を本尊として私庵としてに開き十王堂や念仏堂と呼ばれた。善得は二川宿開宿当時の江戸初期に本陣、問屋役をつとめた後藤源右衛門の祖先。後に二川村惣庵となり寺子屋も開設された。代々の住職の宗派も一定ではなく山号も無く明治11年(1878)には荒廃により一度廃寺になった。その後、薬師如来像を本尊として再興され昭和17年曹洞宗の布教所となり昭和29年に十王院として正式な寺となった。境内左に6地蔵の祠や石仏、卵型墓石群16基、境内右には寛永9年(1632)建立の寺の由来を刻んだ二川新町開山の石碑や100基ほどの無縁墓石群がある。
{右}延龍山 妙泉寺 [日蓮宗] 二川町東町101-1
少し先に入口がある。右には谷口法春建立の題目塔。貞和元年(1345)身延山久遠寺5世鏡円阿闇梨日台が京に上る際に宿として東町のはずれに建てた小庵が起こり。荒廃後の寛永-明暦(1624-58)ごろ日意上人が再興して信龍山妙泉寺と称し身延山末から延兼山妙立寺(湖西市吉美2745)末となった。万治3年(1660)旧地より現在地に移転した際に現在の山号となった。寺子屋を開いたり大名などの通行時の休泊所にもなった。所蔵の鰐口は永享5年(1433)鋳造だが半面は慶長2年(1597)に再鋳されており市文化財に指定されている。ほうろく灸でも有名な寺で頭にほうろく(素焼の皿)を乗せその上に艾を乗せて祈祷を行う。参道左には東町公民館がある。
{右}紫陽花塚
妙泉寺の山門を入って左にある。寛政10年(1798)十王院に建立され明治12年(1879)移設された芭蕉句碑「阿じさゐや 藪を小庭の 別屋敷」があり「紫陽花塚」と呼ばれる。台座には世話人である南圭、一隠ら二川宿の俳人9人の名も刻まれている。右後ろには題目塔を安置した祠がある。句碑の近くの参道には安政6年(1859)建立の灯籠もある。本堂右前には妙泉寺前身の庵を建立した鏡円日台が身延山久遠寺から移植したという桜があり安政5年(1858)藤原説光が京から江戸へ行く途中に寺に立ち寄った際に「この寺の 御法の花の ひらくなる 桜は世世の 春をおとなう」と詠み日台の幼名「春乙丸」から「春乙桜」と名付けた。桜の隣には昭和34年建立の「中興22世日彦上人碑」もある。
{右}二川八幡神社 二川町東町85-1
少し先にある。永仁3年(1295)鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したと伝わる。祭神は応神天皇。昭和20年社殿を大改修し八幡社から八幡神社に改称した。拝殿は入母屋造、本殿は流造。社殿の右後ろに境内社の若宮社、稲荷社、津島社&三峰社、護国社、社殿左には神楽殿もある。参道左にある文化6年(1809)建立、昭和62年修復の秋葉山常夜燈は駒屋前の曲尺手左にあったもの。参道中ほどに文化9年(1812)灯籠があり他は大正13年(1924)が多く社殿前に平成14年銅製灯籠。社殿前鳥居は享和2年(1802)入口鳥居は大正13年でその間に赤鳥居もある。赤鳥居の手前右にある桜は「逆さ桜」と呼ばれ昭和15年の皇紀2600年奉祝のため榊を植樹した際に柵とした桜の杭が芽生えたものと言われる。
{右}駒屋(東駒屋・本駒屋) 二川町新橋町22
昭和4年(1929)竣工の新橋を渡ると右に外見では4棟に見える建物がある。元禄4年(1691)二川宿へ移住し当初は医者をしていたが後に質屋や米穀商を始め問屋役もつとめた田村家の駒屋で近年は東駒屋として味噌・醤油も製造販売していたが現在は廃業。駒屋9代当主田村善蔵苗政は幹皋と号し画家としても活躍。東京帝国大学医学部教授の田村憲造やその子で東京大学医学部名誉教授・田村善蔵も子孫にあたる。建物のうち主屋、通用門、離れ座敷、茶室、土蔵3棟、北倉の8棟は平成15年市有形文化財指定で豊橋市所有(非公開)。一番西の主屋は嘉永7年(1854)の地震で一部改修されているが文化11年(1814)築とされる。前の道は軽い曲尺手になっており高札場跡までが宿場の中心となる。
{右}二川宿まちなか公園
少し先の十字路手前に平成19年開園の新しい小公園がある。地域住民や豊橋技術科学大学の学生により計画が進められ豊橋市が設置したもの。250平方mの敷地に石畳や関所風の門、四阿、行灯風の照明灯などがある。
{右}東問屋場跡
十字路を挟んだ食料品店ニュージョイス日の出軒前に平成3年建立の石柱がある。二川宿は慶長6年(1601)東海道開設と同時に設けられた宿場だが問屋を二川村だけで負担するには大変だったため隣の大岩村を加宿とした。しかし両村は離れていたため正保元年(1644)二川村を西に大岩村を東に移動させて接近させ新しい宿場町を作りそれぞれに問屋場を作った。ここは二川町が運営する東問屋場で大岩町が運営する問屋場は西問屋場と言い寛政2年(1790)に一度統合されたが文化9年(1812)に再び2箇所に別れた。少し先右には寛政5年(1793)から文化3年(1806)まで本陣をつとめた紅林家の紅林醤油株式会社・紅林ビル株式会社(中町130)がある。
{右}脇本陣跡
少し先の夢ハウス東海の看板手前の民家に説明板がある。二川宿の脇本陣は松坂家がつとめており当時ここには間口7間(13m)奥行19間(35m)畳数93畳の建物があった。文化4年(1807)以前は少し先向かいにありそれまでこの場所は後藤家、紅林家の本陣があった。本陣は宿場開設時より後藤五左衛門がつとめていたが再々の火災のため没落し寛政5年(1793)以降は紅林権左衛門がつとめていた。しかし文化3年(1806)の火災により再建できなかったため少し先向かいの穀物商・酒造業の伊勢屋彦十郎の馬場家が本陣に移行することになり本陣用に建物を増築しなければならなかったため伊勢屋隣の松坂脇本陣は向かいの紅林本陣跡地である現在地に移った。
{左}旅籠 清明屋
少し先向かい。その先の本陣に隣接しており二川宿本陣資料館の一部として管理、公開されているため見学は本陣資料館側から入る。寛政年間(1789-1801)創業の清明屋は代々倉橋八郎兵衛と名乗り文久年間(1861-63)には間口5間(9m)奥行24間半(44m)で主屋、次の間、座敷、土蔵、裏座敷があった。現存する建物は文化14年(1817)築で全面出格子の2階は街道に面する側だけあり1階は大戸、蔀の典型的な旅籠建築。明治前半まで旅籠を続け後に薬局となったが近年廃業し平成12年市に寄贈され平成14年より改修復原工事を行い平成17年から公開している。建物正面には板の間に人形が置かれ旅人が草鞋を脱ぐシーンが再現されている。9:30-17:00(入館は16:30)400円月休(本陣と共通)。
{左}二川宿本陣 馬場家
紅林家に代わり伊勢屋の馬場彦十郎が文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣をつとめた。文化年間間取図には間口17間半(32m)敷地面積は525坪(1733平方m)建坪181坪余(598平方m)その後も増改築し安政2年(1855)には建坪233坪半(770平方m)で宿内一の建物だった。主屋は宝暦3年(1753)築。文化4年本陣移行時に建築した表門は嘉永3年(1850)、玄関棟は嘉永7年の地震後の再建。敷地建物は昭和60年馬場家より市に寄付され昭和62年市史跡指定、昭和63年より現存部分の改修及び明治以降工場建設のため壊された書院棟を復元し平成3年完成した。東海道で本陣が残っているのは国史跡指定の草津宿本陣とここのみ。表門の両脇に「史跡 二川宿御本陣」の石碑と説明板がある。
{左}二川宿本陣資料館 二川町中町65
門の奥にあるチケット売場から入ると左が馬場家清明屋の建物で右が資料館。館内には「街道」「宿」「本陣」の各テーマで展示がある。入口には飯村の松の幹の輪切と往年の写真。2階「街道」コーナーには江戸時代の街道案内、「宿場」コーナーには二川宿の模型。1階「本陣」コーナーには旅籠の再現と大名行列風景のミニチュアがある。中庭には東海道にあった石標が何基か移設されている。隣接する土蔵のうち東土蔵は享保3年(1718)西土蔵は享保18年築で嘉永7年(1854)の大地震の翌年修理されている。駐車場には高札場が復元され駄賃、きりしたん禁令など高札5枚のレプリカが掲げられている。資料館の門向かいには駒屋の分家の醤油・味噌醸造業の西駒屋(中町148)がある。
{左}高札場跡 二川町道路元標
しばらく進むと大正7年(1918)創業の和菓子屋・中原屋(二川町中町87)前に平成3年建立の「高札場跡」石柱と「二川町道路元標」石柱があり祠、灯籠もある。二川宿本陣資料館駐車場にあった復元された高札場はここにあったもの。道路元標は大正11年(1922)道路法施行令で各市町村ごとに1つ設置が義務付けられたもので道路の起終点を示したり里程の基準になった。石柱の前の道は駒屋前に続き2箇所目の曲尺手になっておりここまでが宿場の中心。ここは本宿二川町と加宿大岩町の境でもあった。
{右・寄}亀見山 大岩寺 (だいがんじ) [曹洞宗] 大岩町東郷内65
すぐ先を右折していくと正面。元は岩屋山麓にあり岩屋観音堂に奉仕した六坊の1つで真言宗だったが元和8年(1622)藤谷山宿芦寺(浜松市西区庄内町721)の通山宗達が再興・改宗し正保元年(1644)二川宿が現在地に移転し新しく形成された際に移転した。本尊は千手観音。寺は本陣の避難所にも指定されていた。所蔵する岩屋堂観音経、黄金燈籠一対、狩野派の手法で描かれた絵馬4枚は共に元禄から宝永年間(1688-1710)にかけて備前岡山藩主池田綱政が岩屋観音堂へ奉納したもので昭和32年市指定文化財。境内左には延命地蔵尊を安置する地蔵堂、本堂左には馬頭観音や弘化3年(1846)延命子安地蔵などの8基の石仏・石塔群がある。本堂は陸屋根コンクリート造。本堂左裏は二川公園がある。
{右}西問屋場跡
少し先の豊橋商工信用組合二川支店(大岩町東郷内201)先の民家前に平成3年建立の石柱がある。大岩村は古くは岩屋山麓にあり保延元年(1135)現在の二川駅より南方の本郷に移転していたが天正11年(1583)にはそこから北の街道沿いの元屋敷に移転しており二川宿が開設されてまもなく加宿に指定され人馬継立も分担するようにななった。しかし本宿の二川村と離れていたため正保元年(1644)接近するように村は移転し宿内の町となり問屋場が作られた。ここは大岩町が運営する西問屋場で二川町が運営する問屋場は東問屋場と言い寛政2年(1790)に一度統合されたが文化9年(1812)に再び2箇所に別れた。
{左}大岩町郷蔵跡
しばらく進むと豊橋警察署二川交番(大岩町東郷内262)がある十字路の桜の木の前に平成3年建立の石柱がある。年貢米の保管、凶作に備える貯穀のための共同穀倉である郷蔵があった場所。大岩町は人馬継立の街道負担も行なったが幕府代官所や藩に年貢を納めていた農村でもあった。慶応元年(1865)には家数143人口531。明治には前橋から移住した小渕志ちが製糸業を始め明治18年(1885)糸徳製糸工場に発展し大岩は玉繭から糸を取り出す玉糸製糸発祥の地として栄えた。豊橋市二川地区市民館(大岩町東郷内111-1)前に「糸徳工場跡」標柱が、岩屋緑地入口から岩屋観音堂に登っていく途中右に戦争供出されたが昭和62年再建の小渕志ち銅像がある。
{右・寄}大岩神明宮 大岩町東郷内14
十字路を右折すると正面。文武天皇2年(698)岩屋山麓南に勧請したのが起こりで大岩村とともに保延元年(1135)本郷に移転、天正11年(1583)元屋敷に移転、正保元年(1644)現在地に移転した。社殿右に境内社が並び一番左の三峰社の祠の前に御神木トチノキがある。その右に秩父社、津島社、八王子社、若宮八幡宮が一緒になった祠がありその前には寛延4年(1751)灯籠。その右に金刀比羅社と明治25年(1892)灯籠、文政6年(1823)手水石。その右に御霊社。社殿左には神楽殿と社務所と牛像。狛犬は大正9年(1920)。鳥居は大正15年、明治32年。鳥居を入った右に文化4年(1807)秋葉山常夜燈。他にも昭和2年(1927)の手水石、参道に明治25年、大正15年、昭和2年、昭和15年などの灯籠がある。
{左}立場茶屋跡
しばらく行くとおざき化粧品店(大岩町西郷内10)前に平成3年建立の石柱がある。大岩町は二川町側より中町、茶屋町に分かれており茶屋町西から西見附土居にかけて茶店が並んでいた。広重は保栄堂版の他、行書東海道、隷書東海道、竪絵東海道などで二川宿の絵として茶屋を描いているが描いたのはここではなく白須賀宿の加宿である境宿の猿ヶ馬場とされる。絵には柏餅が描かれているが東海道中膝栗毛では強飯が二川の名物とされ「名物は いはねどしるき こはめしや これ重筥(じゅうばこ)の ふた川の宿」と詠われている。
{左}二川駅  大岩町南元屋敷30
宿場の町並を抜けると道幅が広がりしばらく進むとある。東海道線の浜松駅〜大府駅間は明治21年(1888)開通していたが後から地元住民から請願がされ明治29年開業した。駅前には東海道二川宿の説明板、周辺マップ、平成15年に豊橋北ライオンズクラブが25周年で寄贈した時計台がある。ロータリーの中には弘化4年(1847)建立の岩屋八丁道道標がある。「是より岩屋江八丁」「当國三十三所ニ番」と刻まれている。
{左}渥美奥郡道 道標
駅を過ぎヤマモトスポーツ(大岩町佃19)すぐ先に大きな石柱の道標がある。「伊良胡阿志両神社道」「右 東海道 豊橋一里半」「左 渥美奥郡道」と刻まれており明治33年(1900)の建立。少し先で左折しJR東海道線のガードを潜る道が渥美奥郡道でその分岐点にあったもの。渥美奥郡道は渥美半島の中央部にある阿志神社(田原市芦町柿ノ木12)や先端にある伊良湖神社(田原市日出町骨山1407)に通じる。東海道は少し先の火打坂交差点で県道3号線と交差するが直角に交差するよう手前で不自然に曲げられている。
{左・寄}岩屋観音堂
交差点を横断するのが東海道だが左折ししばらく進み右の豊橋市地下資源館を過ぎた岩屋緑地入口から登っていくとある。行基が天平2年(730)諸国巡行の途中で1尺1寸(36cm)の11面千手観音像を刻んで岩穴に安置して開いたと伝わり亀見山観音堂とか岩屋堂と呼ばれていた。明治以降は大岩寺の境外仏堂となっている。境内に入ると左に瑠璃王龍神の祠とアベマキ(樹高21.6m樹齢200年)、右に「左よし田、右ふた川」や平成2年「岩屋道」の道標2基。正面は弘法大師を祀る大師堂があり参河准四國88ヶ所霊場第19番札所。その周りには鐘楼や鯖弘法大師像、多くの石仏がある。左折した正面が観音堂で三河西国33観音第2番札所。堂の前に文化13年(1816)灯籠と杉(樹高24.1m樹齢300年)。
{左・寄}岩屋観音銅像
岩屋観音堂の右には直立50mもある大岩があり下の岩窟には石仏があり頂上には聖観音銅像がある。吉田大橋の架替工事を請け負ったが難工事で困り果て観音堂に参詣した江戸下谷の大工・茂平と善右衛門が完成の礼として明和2年(1765)寄進した9尺6寸(2.9m)の像で現在あるのは戦争供出後の昭和25年(1950)に再建されたもの。付近からも良く見えたとされ吉田宿の俳人・古市木朶(もくだ)は「霞む日に 海道一の たち仏」と詠んだ。堂の右奥から岩山を登ると像まで行くことができ隣には昭和2年(1927)昭和天皇の来訪を記念した昭和4年建立「駐蹕之碑」があり陸軍大将尾野実信の揮毫。眼下には岩屋山麓の岩屋緑地が見渡せ緑地内にはパターゴルフ場、テニスコート、展望台などもある。
火打坂 消滅した東海道
火打坂交差点を横断すると緩やかな坂道の火打坂が始まる。岩屋山で火打石が採石されたため名が付いたとされ元文5年(1740)の風土記「三河二葉松」にも三河名物と記されている。この先の吉田宿の東の外れには火打石で打ち出した火花を移し取る火口(ほくち)を売るほくちや嘉右衛門もあり有名だった。火打坂の右上には「たいまつ峠」もあった。坂を登り左のそば屋信州庵大岩店(大岩町火打坂5-18)先の駐車場を左折し大岩町東山集会場の横を抜けて園芸店ガーデンガーデン(大岩町境目35-8)駐車場を通って八十八(はとや)米穀店(大岩町境目23-17)の前の道に合流するのが本来の東海道。しかし現在は私有地となっているためそのまま火打坂を進み150m先の次の交差点を左折して迂回する。
{左}飯村の松の切株
八十八米穀店を過ぎ左の岩屋緑地入口も過ぎて進んで行くと道幅が広くなり左の歩道が盛り上がっている部分に道路側に向いて「旧東海道 松並木」の木製札と松の切株が3つある。その先の左のヤマハ音楽教室岩屋センター(岩屋町岩屋下21-10)を過ぎた先にも歩道に松の切株が1つある。こちらは「とよはしの巨木・名木100選」で樹齢150年高11.5m幹周2.34mあったが松喰虫のため平成19年2月に伐採された。往年の姿の写真入りと説明板もある。二川宿本陣資料館にこの松の幹の輪切が展示されている。付近の街道には若い松もところどころ植えられている。
{右}日暁山 清晨寺(せいしんじ) [曹洞宗]  飯村南2-21-20
少し先で左後方から道が合流ししばらく行くと飯村南2丁目交差点で県道31号を渡ったすぐ先にある。永禄11年(1568)龍拈寺5世悟慶宗鶴が開山した盛辰庵が起こり。明治初期に一度廃寺になったが明治6年(1873)再興され寺号が清晨寺に改められ明治17年法地開山された。本尊は東方薬師如来坐像。天保13年(1842)住職春柳により寺子屋が開かれ明治まで続いた。昭和33年本堂改修、昭和53年開山堂、平成元年庫裏新築。境内左に庚申塔と地蔵菩薩が安置された祠がある。寺を過ぎてしばらく行くと右の民家前に「飯村町二軒茶屋ちびっこひろば」と書かれた空地がある。二軒茶屋には江戸時代には茶屋があったと言い東海道中膝栗毛にも登場する。
{右}悟慶院別院(旧:智光院) [曹洞宗]
しばらく行くと山門と平屋、わずかな石仏群が残る柵に囲われた更地がある。元は智光院と言い5代将軍綱吉の側用人牧野成貞に仕えていた茶道家土肥豊隆(二三)の側室が1子を失った後仏門に入り智光尼と称し享保8年(1723)智光庵を開基したのが起こり。本尊は阿弥陀如来座像。智光尼は吉田宿本陣山田新右衛門の娘でもあり寺地は山田家の別業地だった。智光尼以後代々尼僧が住し後に龍拈寺32世洞流巨川が中興し龍拈寺末寺となった。昭和17年(1942)智光院と改め昭和28年弁財天堂を再建。平成2年区画整理を契機に山門、弁財天堂以外の建物を取り壊し平成4年龍拈寺の塔頭だった悟慶院(新吉町15)に合併され別院となった。裏手には弁財天堂の他に殿田橋の旧親柱もある。
{左}飯村(いむれ)一里塚跡(73)
少し先で殿田川にかかる昭和54年竣工の殿田橋を渡る。その先で東海道は国道1号に合流するが合流地点の歩道の電柱横に平成6年建立の石柱がある。石柱の文字面は旧東海道側ではなく国道1号側を向いている。江戸時代は両側に榎が植えられていた。飯村は安政5年(1858)の記録では家数68人口294。かつては農耕地も多く小石の混ざった土壌が薩摩芋に適し特産地となっていたが現在は住宅地が増え農地が減少したためわずかに栽培される薩摩芋は「飯村甘藷」と呼ばれブランド化している。
{左}七冨士稲荷大明神
しばらく国道1号を進んで行くと山中川を昭和32年竣工の山中橋で渡りさらに進んだ三ノ輪町交差点手前のガスト豊橋三ノ輪店(三ノ輪町5-1)手前にある。
{左・寄}向山緑地
円六橋交差点を左折すると正面にある。大池公園と梅林園、緑地公園、墓地からなる面積19.33haの広大な公園で昭和41年開園。大池公園には向山大池があり承応3年(1654)吉田藩主小笠原忠知が郡代長谷川太郎左右衛門に命じて作らせた農業用溜池で当初は国道まであり吉田城の外堀の水源となっていた。噴水は昭和58年、橋は昭和51年に竣工し池の周りにはツツジ1万本がある。入ってすぐにピラミッド、万里の長城など世界遺産の石造モニュメントがある。敷地内には豊橋市民文化会館交通児童館もある。梅林園には樹齢約35年など27種類420本の梅がある。緑地公園は工兵隊の演習場跡で明治41年(1908)から大正14年(1925)まで工兵第15大隊、以降は工兵第3大隊などが置かれていた。