東海道ルートガイド
箱根西坂

{左}茨ヶ平の分岐
ハコPを過ぎるとそのまま国道から離れ右のアスファルトの細道を行くのが旧東海道。すぐに江戸時代に存在した茨ヶ平橋になるが現在はアスファルトの下に埋もれて川も涸れ暗渠になっており右にわずかに橋跡と思われる名残がある。しばらく一本道が続き少し登るとゆるやかな下り坂になりやがて左に分岐点が見えアスファルト道から分岐する。入口右には「是より京都百里、是より江戸25里」の石標、左には箱根旧街道茨ヶ平の説明板がある。このあたり一帯は茨が生い茂っていたので茨ヶ平(原ヶ平)と呼ばれた。古くは湿地が多く化膿しているようだったのでウミ平とも呼ばれた。秀吉が小田原攻めをした際にはここにかがり火を焚き小田原勢の夜襲を牽制したという。
{左}夢舞台東海道 道標
分岐に入ると右に仮設トイレがありその先右に高さ50cmの天保8年(1837)馬頭観音がある。手が8本あるので八ツ手観音とも呼ばれる。そのすぐ先には四阿があり前に夢舞台東海道の道標「兜石」がある。平成6年に静岡県が旧東海道の要所に設置した最初の1つで石柱に木目調のプレートが嵌められ現在のポイント名の他に前後のポイント名と距離が里、町などの単位で示されている。その後ろには兜石の地図付き説明板がある。その左の細道に入るとすぐに突き当たり井上靖の箱根八里記念碑と説明板があり碑には北極星が夜空に燦然と輝くという意味の「北斗闌干」とある。
{左}兜石跡碑
すぐに兜石坂(甲石坂)の下り坂と石畳道が始まりハコネダケに囲まれた笹トンネルの中を進む。トンネルを抜けると右にカーブしてしばらく行くと昭和43年建立の小さな碑がある。兜石が元あった場所でこの付近の手前には江戸時代には甲石橋があり甘酒茶屋もあった。兜石坂が終わると国道に出る。本来は横断して反対側に道があるはずだが現在は通行できないので右折し国道を歩くことになる。
{左}接待茶屋跡
すぐに道は大きく左にカーブしその内角付近に茶屋があった。東坂にあった接待茶屋のもう一軒がここになる。こちらは明治12年(1872)に大原幽学を創始とする性理教会により再開され門人の鈴木利喜三郎と子孫が維持し度々資金難になりながらも有志の援助で昭和45年まで続き建物は平成5年に国道拡幅工事のため撤去された。内角の草むらに入っていく歩道があり入ると正面に利喜三郎の跡を継いだ後妻とめと長男の力之助の胸像があり昭和49年建立で屋根が付けられている。左には昭和40年建立の跡碑もある。入口右には大正天皇が明治26年(1893)皇太子時代にここで休息した記念碑もある。
{左}山中新田一里塚(26) 
接待茶屋跡の向かいに右に分岐する細道が旧東海道。入口左に片側だけの一里塚があり国道側を向いて石碑と説明板もある。右側のものは国道拡張時に失われた。日本橋から26里目であるが記録される25番目の一里塚となっている。必ずしも等間隔ではないので誤差が生じ24里目の葭原久保の一里塚の次の25里目の一里塚がなく欠番になっているがその謎は解明されていない。旧道入口右には接待茶屋の説明板と夢舞台道標接待茶屋、入ってすぐ左に箱根旧街道の石柱と説名板がある。
{左}徳川有徳公遺跡碑
旧道に入ってすぐ先にある。大きな石碑で富士屋ホテルのコック長であった鈴木源内が観光名所を整備する目的で昭和10年(1935)に建立した。有徳公とは徳川吉宗のことで謚である有徳院から来ている。吉宗が将軍になるため江戸に向かう途中ここより少し下の石原坂にあった茶屋に立ち寄った際に主人の立派なふるまいに感心し永楽銭を与えた。主人は北条泰時の遺臣を先祖に持つ家柄とわかり以降紀州藩主が参勤交代のつど立ち寄って永楽銭を与えるのが慣習となり茶屋は永楽茶屋と呼ばれた。
{右}兜石(甲石)
徳川有徳公遺跡碑の斜め向かいにある。元は兜石坂にあったが徳川有徳公遺跡碑を建てた鈴木源内の発案により同じく観光整備目的で昭和10年に根元で切り取られここに移された。兜の形をした石で秀吉が小田原城攻めの時に兜を置いて休んだとの伝説もある。少し先すぐに分岐があり旧東海道は左に行く。右を登っていくとすぐ施行平に突き当たり芝生のある展望エリアとなっていて晴れていれば富士山も見える。その眺望は明治天皇も褒め讃えたとされ大きな明治天皇宸賞之處碑もある。芝生の中央には東山魁夷揮毫の箱根八里記念碑「青山緑水」もある。施行平の施行とは接待のことで手前にあった接待茶屋に由来する。
{左}明治天皇御小休跡
旧道は石原坂(石荒坂)になりしばらく行くと左に少し入る道があり突き当たりに昭和3年(1928)建立の小さな碑が笹に囲まれてある。当時はビンカの茶屋と呼ばれた甘酒茶屋があり明治元年(1868)明治天皇が休息した。ビンカはイヌツゲのこの地方の呼び名で茶屋の脇に植えてあった。旧道は現在600mほどが残る石畳になりゆるいカーブが続き途中左には永楽茶屋があった。貞享4年(1687)三島で播州明石城主松平若狭守の行列の前を通り殺された6歳の娘小菊の父である猟師尾張屋源内が若狭守を待ち構え撃ったのがこのあたりと伝わる。しかし若狭守は死なず復讐は失敗し源内は自ら命を絶った。小菊の話は三島市の言成地蔵(東本町1-13-3)にも伝わる。
{右}念仏石
しばらく行くと右に「ふれあいの森」と刻まれた平成3年三島市制50周年記念植樹の記念碑がありさらに行くと大きな三角形の石が突き出しており念仏石と呼ばれ説明板がある。その前には「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻まれた小さな石碑もあり元は少し手前の街道沿い置かれていたものを念仏石の前に移されたもの。行き倒れの旅人を宗閑寺で弔ったものとされる。道が平坦になると左から国道1号からの細道が合流し周りが開け国道が眼下に見える見晴らしのよい場所となる。右には仮設トイレや街道の案内地図もある。
{左}民家の庭先
すぐに再び森の中の道に入り少し登ると下り坂の大枯木坂の石畳が始まる。芝で覆われた石畳になっており左の視界が開けると若い広葉樹の畑が広がる。平成13年東海道400年記念に植樹されたものでゆるやかな道を下っていくと民家の敷地内に出る。そのまま直進するのが東海道で小枯木坂となるが集落の中で宅地になり道が分断されているため直進できなくなったところで案内標示に従い左折し国道1号に出て迂回する。国道を歩いて行くと静岡県函南町から三島市内に入り国道上部には三島市の標示がある。
{左}願合寺石畳への分岐
少し行くと国道から分岐して降りる階段があり昭和47年と平成7年に発掘整備された石畳道と杉並木となる。階段を降りてすぐに石畳の説明と夢舞台道標願合寺石畳がある。願合寺は昔あった寺の名前で3間(3.6m)と敷き幅の広い石畳が721m続く。平成7年の整備では石畳がよく残っていた所約188mの間は江戸時代の石を元の位置に戻して復元し石畳の少なかった所や全くなかった所約278mの間は江戸時代の石に加え神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。発掘時に江戸時代の石畳の石材は街道周辺の沢や山から調達されていたことも確認された。東坂も合わせ最も状態が良い。
一本杉石橋
石畳を少し進むとある。願合寺石畳が平成7年に発掘整備された際に見つかった一本杉石橋と村上石橋のうち保存状態が良い方がそのまま残された。石橋は長さ160cm幅60cm厚さ35cmの板状の石が6枚街道を横切るように斜め方向に敷き並べられており二段に組まれた40-50cmの間知石(けんちいし)に支えられている。中の長さ450cm幅80cm深さ75cmの石組み水路には20-30cmの平石がぎっしりと敷き並べられていた。もう一つの村上石橋の方は水路部分しか残っていなかった。先に進むとやがて左から砂利道が平行に沿うようになってくる。
{右}雲助徳利の墓
旧道が国道1号に合流する手前に盃と徳利を半肉彫にした墓石がある。元は石原坂にあったが後に鈴木源内が山中一里塚付近に移しさらにここに移された。酒好きのため仕えていた国を追放された剣道指南役の松谷久四郎が箱根の雲助宿に住み着き学があり剣の腕が立つため多くの雲助に慕われ死後仲間により建てられたもの。文字は所々判別不可能だが文化年間(1804-18)のものとされている。雲助は坂を登れない弱い女性や病人を見つけては駕篭かきや荷運びをして暮らしていた人足のことで由来はフンドシに尻尾をつけた姿が普通の人間とは違うため雲の上のものという意味で付けられた。横に平成10年建立の説明プレートが付いた碑と横に願合寺石畳の説明板もある。
{左}阿弥陀堂(願海庵)跡
国道に合流すると山中城跡歩道橋がある。歩道橋の足元に箱根旧街道の石柱があり右に天保9年(1838)の三界万霊塔と延宝8年(1680)六字名号碑が並んでいる。その後ろの竹林の前の土手下には中段に8基の石碑や供養塔がありこの地にあった阿弥陀堂の名残。山中新田の集落の上にあるため上の堂と呼ばれ同じく集落の下にある地蔵堂(芝切地蔵)は下の堂と呼ばれた。合流すると山中新田の集落に入る。これから笹原新田、三ツ谷新田、市ノ山新田、塚原新田と続き5つ合わせて五ヶ新田と呼ばれるがどこも水田はほとんどなく街道整備のために代官所が三島付近の農家の次男、三男を移住させて作った集落だった。
{右}諏訪駒形神社 山中新田40-1
向かいに石段と鳥居があり山中城跡歩道橋の足元には夢舞台道標山中城跡があり鳥居の左にも山中城阯の石柱と説明板がある。鳥居を入った右には貞享4年(1687)庚申塔と地蔵があり石段を登ると境内が山中城の一部としてある。城の守護神と祀られ元は駒形神社だったが鎌倉時代の東海道にある元山中から諏訪神社が合祀された。祭神は建御名方命と日本尊命。社殿右に八坂神社もある。左にはアカガシの老木があり県天然記念物。樹齢約500-600年で根廻り9.6m高さ25m幹は地上4mのところで七本の主枝に分かれ空洞もなく県内一、ニの大木。後には市天然記念物の矢立の杉があり樹齢500年高さ31.5m目通り4.37m。
{左}茶屋 竹屋 山中新田34
神社の斜め向かい。江戸時代には向かい側にあり平成8年に現地に復活した。白玉粉と米粉を1:1の割合で混ぜよもぎを加えて練った生地を蒸し上げた雲助だんご(2本300円)の他、道中山菜そば(600円)鴨つけざる(900円)などがある。10:00〜17:00木曜休。山中城跡の曲輪の中に東海道が通り集落となっていた山中新田は難所を控えた間の宿として栄え諏訪駒形神社石段から4軒先右には松屋、宗閑寺手前の山中公民館のあたりに水戸屋(脇本陣)その向かいに大和屋(脇本陣)など茶屋は40軒を越えていた。水戸屋の手前には茶屋本陣の笹屋があり間口8間奥行15間で冠木門と玄関があり昭和初期までは旅館業をしていたが現在は民家になっている。
{右}山中城阯
神社の横から奥に広がる。北条氏が永禄年間(1558-1570)石を使わず土だけで築いた珍しい山城で敵兵の行動を阻害するため空堀の底に畝を作った障子堀や畝堀は北条流築城術の特徴を示している。秀吉の小田原攻めの際に守兵4000人に対し豊臣秀次、丹羽長秀、堀秀政、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末・直盛兄弟ら7万人に攻められ半日で落城した。本丸、二ノ丸(北条丸)、三ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、岱崎出丸があり最高点の本丸天守台は標高586m。田尻池は一段高い箱井戸の湧き水を溜める山城の重要な貯水池だった。昭和9年(1934)国史跡に指定され昭和48年から発掘調査が行われ史跡公園に整備された。中世の城郭公園としては日本最大級。
{右}東月山普光院 宗閑寺 [浄土宗]
山中公民館の先にある。家康の愛妾阿久(お久)の方が元和元年(1615)葬られた華陽院(静岡市鷹匠2-24-18)の住職了的上人が後に山中城三ノ丸跡に開山した。阿久の方は山中城を守った松田康長の副将間宮康俊の娘で生前から寺の建立を嘆願していたという。本堂左の台地に康俊、康俊の弟監物信俊、信俊の息子源十郎などの墓石が並び奥右には松田康長の墓がある。さらに右には秀吉軍の一柳直末の墓もあり笹原新田の一柳庵に本墓があるが交通の便を考えここにも新墓が建てられた。入口には大きな昭和5年建立の山中城址記念之碑がある。現在は無住職。
{右}地蔵堂 芝切地蔵
やがて国道は左にカーブするが旧東海道は直進し当時の道幅のまま残る道を行きしばらくするとある。この地で亡くなった旅人が死に際に芝を高く積んで目印にしてくれればこの地の人々の健康を守ると言い残したことに由来し切芝を積んで拝むと病気が治るとされ堂左には芝が積まれている。江戸時代に供物として作った小麦まんじゅうが有名になり一般にも売られ賽銭と饅頭の利益で村の出費が賄えたという。堂内の地蔵の左にある手のない木造座像は鎌倉時代のもので韮山辻の水呑関に安置されていたものと伝わる。堂前に明治9年(1876)六字名号碑、堂左には虫歯地蔵をはじめ安永元年(1772)三界万霊塔、享保19年(1734)西国秩父巡礼供養塔など石仏、石塔が多くある。
{左・寄}山中城 岱崎出丸
地蔵堂を過ぎると再び国道に出るが旧東海道は向こう側に続くので横断歩道を渡り腰巻地区の石畳に入る。右には寒ざらし団子の茶屋が見え手前には角が丸い長方形の道標がある。すぐ先左に夢舞台道標山中城跡がありそこから左に分岐して岱崎出丸に登っていく階段がある。秀吉軍に備えて大軍を配置するため新たに作られた出城だが小田原城が籠城作戦になったため未完成のままで大軍を配置することもなかった。先鋒中村一氏、搦手・一柳兄弟が攻め兄直末は城兵の一斉射撃で絶命し一柳勢千人余りは一時混乱するが弟直盛が立て直し出丸内に突入、間宮康俊率いる百人余りの城兵は討ち死にし陥落した。今は一面の芝生の中に土塁と空堀が残る。
{右}箱根八里記念碑&馬頭観音
岱崎出丸の分岐階段の先左に腰巻地区石畳の説明板がある。平成6年発掘の石畳は付近で採石された扁平に剥離する安山岩が敷かれており良く残っていた60mの間は元のまま復元し石畳の少なかった所となかった所290mは神奈川県根府川町で採石した安山岩を加えて整備し斜め排水路も二カ所作られた。若い杉林の中に入ると右に再び石畳の説名板があり山中城駐車場へ降りていく階段の横に嘉永6年(1853)馬頭観音と北条早雲を描いた小説「箱根の坂」の著者司馬遼太郎の箱根八里記念碑がある。碑には「幾億の足音が 坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」とある。石畳道を下り国道に出ると夢舞台道標腰巻地区石畳とここにも石畳の説名板がある。
{左・寄}菊池千本槍の碑
国道をしばらく行くと東海道は右に分岐するがそのまま国道を少し行くと右にある。建武2年(1335)この付近であった水呑峠の合戦で後醍醐天皇の命を受けた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は槍の原型となる竹竿の先に短刀を括り付けた武器で足利勢に大勝利した。九州へ帰国したのち武重は刀工延壽に槍を作らせ後にこれが菊池千本槍と呼ばれた。碑は衆議院議員坂田道太の揮毫により平成3年に菊池氏の末裔関係者により建てられた。この辺りは水呑関の関所があったといわれ3里半先の韮山に抜ける古道と鎌倉時代の東海道沿いの元山中へ抜ける古道の分岐点で韮山辻と呼ばれた所だが現在は植林により古道は見られない。芝切地蔵の古い木造座像もこの辺りにあったと伝わる。
浅間平石畳
国道から分岐し旧道に入ると石畳となり案内板が右にある。浅間平地区330mの石畳は平成8年に発掘整備され石畳がよく残る部分のうち43mはそのままの状態で保存し石が抜けている箇所に神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填、135mは石が抜けている箇所に下部基礎を設けその上に安山岩を敷設した。152mは石畳が残っていなかったため全面に下部基礎を設けたあと安山岩を敷設した。途中開けたところから晴れていれば富士山が見えこの先にある芭蕉句碑にある句が詠まれた場所とされる。
{左}芭蕉句碑 富士見平
再び国道と交わる手前に道を塞ぐように巨大な句碑があり街道には背を向け国道を走る車から見えるように建ててある。昭和53年の建立で発起人は三島市長奥田吉郎で揮毫は明治神宮宮司伊達巽。「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」とあり貞享元年(1684)の旅の途中に詠んだもの。句碑の手前右にはと夢舞台道標富士見平とと浅間平石畳の説明板がある。左には富士見食堂がある。ここで国道を渡るが国道が急カーブしていて車を確認するのが困難なので「迂回してください」との立て札もある。横断歩道は左に進むとある。国道を渡り階段を降りると東海道の石畳が続くが少し右にコンクリート舗装の道への入口もある。この道は馬専用のバイパスの名残で石畳で馬が転倒するのを防ぐため作られた。
{左・寄}明治天皇御駐輦阯
国道を渡って階段を降りるとすぐ左に分岐する細道があり少し入ると突き当たりに小さな昭和2年建立の碑がある。明治元年明治天皇が初めて江戸に行く時に休憩を取った場所。隣には大正13年建立の「名勝地見晴」碑もある。街道に戻り少し先右には平成8年370mの区間を発掘整備した上長坂(別名:かみなり坂)石畳の説明板がある。勾配が急な区間は比較的細かな石材が用いられ滑りにくいよう工夫がなされ37mをそのまま保存し116mを一部補填、52mは下部基礎を造り補填、165mが全面補填。石畳を進むと途中で馬専用バイパスが一旦合流してすぐ離れ国道に合流する直前でまた合流する。合流地点手前には再び上長坂石畳の説明板があり国道に出ると左に夢舞台道標上長坂がある。
{右}馬頭観音
国道に出たら左折して進む。この辺りを笹原平と言い少し行くとホテル箱根路のピンクの看板から左に分岐し入口左に夢舞台道標笹原地区石畳、すぐ先左に石畳の説明板がある。平成9年に430mのうち380mを発掘整備し145mは一部にモルタルセメントで路盤強化し根府川の石を補填し保存、残りは全体に下部基礎を設け92.7mは元の石と根府川石で復元、83.3mは全面根府川石を敷設、59mは全面柿木石を敷設した。何度か補修された跡があり細かな石の長辺を地中深く埋め込み安定を図る珍しい工法も確認された。少し進むと小祠の中に4基の馬頭観音があり右から昭和14年文字のみ、昭和9年、明治20年文字のみ、三つに割れて年号不明で一番右は牛の文字もあり牛頭天王も兼ねている。
{左}笹原新田一里塚 (27)
石畳が雑草に覆われ周りが畑になり人家が見えて来ると左に農道が沿ってくるようになり左に昭和47年建立の史跡箱根旧街道の石柱の横に小さな一里塚入口の標示と階段があり登って農道を渡ったところに片側のみ現存している。周りはシイの林になっており塚の下には昭和44年の一里塚石碑と三島出身の詩人大岡信の箱根八里記念碑がある。碑には「森の谺を背に 此の径をゆく 次なる道に 出会うため」とある。先を進むとすぐ国道に出る。右には夢舞台道標笹原一里塚と延宝6年(1678)の庚申塔、笹原地区石畳の説明板もある。国道を右に行くと山神社(笹原新田224)もある。
{右}笹原の道祖神
国道を横断して向かいの旧東海道に入るとアスファルト道となりすぐにこわめし坂の説明板がある。少し先に小祠があり2基の単身道祖神がある。2つとも年号は不明で右側のは上部が割れている。笹原新田の集落の入口に祀られた塞神で江戸時代には隣に高札場があった。ここから笹原新田の集落に入り両側に民家が続く中、急坂を下る。正式には下長坂というが特にこの急坂のあたりをこわめし坂と言い急坂で汗と体の熱で背中に背負った米がおこわになったという言い伝えに由来する。この近辺の国道の最大勾配は12%だがこわめし坂は平均20%最大40%となっている。
{右・寄}一柳院(一柳庵) [浄土宗]
しばらく坂を下り老人憩いの家の先を右折するとある。山中城の岱崎出丸で銃弾を受け戦死した秀吉側の武将一柳直末を弔った寺で堂左に大きな墓石がある。ここに埋葬されたのは胴のみで胴塚と呼ばれ首は敵に奪われることを恐れ味方の手で長泉町の牧堰に埋められたと伝わりその地には首塚がある。のちに宗閑寺にも墓碑が建てられた。本堂左の手前には弘化2年(1845)西国33箇所巡礼塔や享保21年(1736)の観音座像、地蔵7体、馬頭観音、三界万霊塔など多くの石仏・石塔がある。坂を進むと民家もなくなり右には念仏石の説明板がある。昔この辺りの斜面にあった横90cm縦120cmの巨石で昭和20年代の大雨で埋まり平成8年に発掘しようとしたが発見できなかった。
{左・寄}天神社(山神社) 三ッ谷新田434-1
坂を下りきると県道(旧国道1号)に合流し手前左には夢舞台道標こわめし坂と坂の説明板がある。合流して少し行くと左に三ッ谷区公民館があり手前を左折するとすぐ左に鳥居と石段がある。明和3年(1766)の創建で昭和43年に山神社を合祀した。祭神は高皇産霊神、大山祇神で度々土砂崩れで流されたため流の天神とも呼ばれる。石段途中を左に入ると寛政7年(1795)など約10基の馬頭観音が並び昭和16年の大きな出征馬記念碑もある。コンクリート製の社殿右には稲荷社もある。狛犬は平成5年。公民館向かいの県道右側には三ッ谷新田発祥の地の説明板がある。この辺りは三軒の茶屋があり三ッ屋と言ったが元和4年(1619)街道奉行となった大久保長安が五ヶ新田成立時に転化し三ッ谷新田とした。
{右}覚源山 松雲寺 [日蓮宗] 三ッ谷新田7
県道のゆるやかな坂を下っていくとある。正保元年(1644)玉沢妙法華寺の松雲院日明が創建し宝暦13年(1763)朝鮮使節の江戸参府、文久3年(1863)家茂の上洛など通行する大名の休憩施設である寺本陣としても利用された。境内右の明治天皇御腰掛石は明治元年に休憩時に腰掛けた石という。その奥には樹齢350年のヤブツバキ、さらに奥には参杉明神の祠があり昭和34年狩野川台風のため樹齢400年の杉が3本折れ後に祀られたもの。本堂は昭和4年、庫裡は昭和28年の再建。本堂手前左には享保14年(7129)題目碑、本堂前左には浄行菩薩がある。寺の前には高札場があった。明治6年(1873)から43年まで勤有学校の4番支校三ッ谷学舎(現:坂小学校)が置かれた。
{右}県道から分岐
松雲寺から2軒先に8畳敷きの上段の間も備えた茶屋本陣の富士見屋があった。昭和7年(1932)このあたり右の尾根の畑から表面に「三河守藤原顕長」の名を含む14行の銘文が刻まれた素焼きの陶器が発見された。顕長は経の書写とその富士山への埋納を信仰していた鳥羽法皇に近い人物で1136〜1145年と1149〜1155の2度三河守を勤めており富士信仰の一環で埋めたと推測される。三ッ谷下バス停を過ぎ集落から出ると小時雨坂になり少し行くと車道が左に大きくカーブをする手前に右へ分岐し降りていく細い歩道がある。
{右}法善寺旧址碑
細い道を行くと右に坂公民館がありその先の一画に平成5年建立の史跡法善寺旧址と刻まれた石碑と寺誌の石碑がある。法善寺は明治36年まで坂公民館や向かいの坂小学校(市山新田163-2)の校庭のあたりにあった。もとは貞享4年(1687)に経王山妙法華寺(三島市玉沢1)25世となった境妙院日宗が翌年に妙法華寺への道標を兼ねた題目碑を街道沿いに建てたのが起こりで元禄6年(1693)にその隣地に寺を建立した。建長5年(1253)日蓮の弟子日昭によって鎌倉に創建された妙法華寺は元和7年(1621)には家康の側室お万の方(養珠院)によりここから13町(1.4km)の所に移転し塔頭を含め240の建物が並ぶ大寺院となったが寛永3年(1791)にそのほとんどは焼失した。
{左}七面堂旧址碑
坂幼稚園(市山新田153-1)の手前を右に分岐し下りていくのが東海道で短いが急な階段となる。江戸初期は大時雨坂と言ったが貞享5年(1688)妙法華寺の題目碑が建てられてからは題目坂、または法華坂と呼ばれた。坂の入口には平成5年建立の七面堂旧址碑があり側面には「あしがわの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いうべかりける」という東海道中膝栗毛の中の歌が刻まれている。「武将・七面堂」と「不精・七面倒」をかけた狂歌で七面堂は足利尊氏が建てたと伝わる堂で旧法善寺が隣地に建てられてからは法善寺の管轄になった。碑の隣には題目坂の説明板もある。坂を降りて行くと途中右に小祠があり文化3年(1806)の馬頭観音が祀られている。
{右}山神社 市山新田172
坂を下り車道に出たら左折しすぐ先の信号で県道と再び合流し右折する。合流地点左には夢舞台道標題目坂があり反対側には昭和12年の出征馬記念碑がある。県道を少し先に進むと神社がある。祭神は大山祇命で創建は不明だが社殿には享保14年(1729)の棟札が確認されている。現在の社殿は昭和57年の台風で大破し翌年に新改築され左には水神と刻まれた石碑もある。鳥居右の大きなシイの根元にある単体道祖神は市ノ山新田の集落入口にあったもので参道入口前には高札場もあった。市ノ山の由来は箱根登山の一つ目の山と言う説や鎌倉時代に山と海の産物を交換する市があったためという説があり東海道中膝栗毛ではこの辺りで弥次さんが子供たちから24文でスッポンを買っている。
{右}境妙山 法善寺 [日蓮宗] 市山新田206
山神社の隣。元禄6年(1693)妙法華寺25世境妙院日宗が貫首の隠居寺として開山し本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏。明治36年(1903)に旧地から移転した。昭和20年には失火により全焼。境内入口右に題目石が2基あり左が寛永18年(1641)右が貞享5年(1688)。その裏側には天保9年(1838)の題目碑や坂幼児園旧跡碑などの石塔がある。入って左にある石灯籠も貞享5年(1688)のもの。妙法華寺の鬼門の方角に創建されたため鬼門除けの帝釈天も祀られている。
{右}市ノ山地蔵堂
市山新田を過ぎるあたりに小さな地蔵堂とその左側に13体の石造地蔵立像が並んでいる。江戸時代はここが市ノ山新田集落の端にあたり堂内に安置されている木造地蔵立像は左手が欠損しているが室町時代のものと伝わる。外の石像は6地蔵が2組と少し離れて1体、その横に元禄12年(1699)三界万霊塔がある。後列の6体の一番右に寛政6年(1794)とあり前列はそれよりも古いが年号は不明。
{右}臼転坂(うすころげざか)分岐
市の山区公民館の先で東海道は県道から右に分岐し細い道に入る。入口に坂の説明板があり少しすると石畳となり臼転坂となる。臼を転がしたという言われがあるが別名牛ころげ坂、恋し坂(小石坂)とも呼び牛が転がったとか石畳の間に小石が敷かれているところからという話もある。暗い森のような道に入り坂を進むと途中左に3基の馬頭観音がある。左の高さ150cm文字のみのは文政3年(1820)中央の高さ50cmのは立像だが年号不明、右の高さ50cmのは座像で昭和33年。森から出ると左に再び坂の説明板があり県道に合流する手前左に夢舞台道標臼転坂がある。
{左}道照山 普門院  [天台宗]  塚原新田43-1
県道を進むとある。創建は不明だが寺の東北にある道照山の岩穴に夜な夜な五光を発する1寸8分の観音像がありこれを安置したの起こりと伝わる。現在の本尊は聖観世音菩薩で元禄14年(1701)木造聖観音座像でその昔鉄牛という僧がこの像を背負い通りかかったところ仏像が重くなって動けなくなったのでここに安置したという。脇には室町時代の作と伝わる不動明王と毘沙門天がある。堂の左には大きな宝暦4年(1754)西国33所巡礼供養塔をはじめ他の巡礼供養塔2基、観音座像2体、馬頭観音3体、地蔵立像2体など多数の石像、石塔がある。家々の戸口に貼られて魔除けとされた角大師・元三大師良源の護符版木(縦34.3cm横12.5cm厚さ4.5cm)も所蔵する。
{左・寄}山神社 塚原新田308-1
すぐに左折する道があり正面に石段と鳥居が見える。祭神は大山祇命で創建は定かではないが延宝2年(1674)ではないかと言われる。境内左に陸軍大将一戸兵衛揮毫の忠魂碑がありその奥の方には3つの石祠が並ぶ。狛犬はないが石灯籠が平成3年など3組ある。塚原新田の鎮守であり塚原の名はこの付近に奈良・平安時代の円墳が多く存在したことに由来する。円墳はまとめて塚原古墳群と呼ばれているが開発などによりほとんどが失われている。
{右}泉龍山 宗福寺 [曹洞宗] 塚原新田69-1
しばらく行くとある。延宝元年(1673)三島山法華寺3世の明州が創建した。本尊は阿弥陀如来。街道からの入口左に辯財天女尊と刻む石碑と地蔵がある。山門左には享保9年(1724)の三界万霊塔と地蔵、山門をくぐると右に六地蔵、後ろに弘化2年(1845)西国33所巡礼供養塔がある。境内左には明治12年(1879)六字名号碑などのほか巡礼塔3基や地蔵2体がある。明治6年(1873)三島の小学校教育の原型となった勤有学校の3番支校函山学舎が置かれた。伊豆四国88ヶ所霊場22番札所。
{左}箱根路の碑
やがて右に登りの細道が分岐するところの間の土手に光背を持つ単立僧形座像の半肉彫りの珍しい型の道祖神がありさらに行くと国道1号に合流する。合流地点には山田隆三書による箱根路と書かれた石碑があり昭和43年に三島の倉島延三氏が旧東海道を示すために建てたもの。隣には寛政3年(1791)万霊塔があり少し先の所にあったものを国道バイパス(現:国道1号)の工事時に移転した。その横には高さ40cmくらいの小さな石造地蔵もある。