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八ツ山橋 第一京浜から左に分かれてJR線路の上を通る八ツ山橋をわたる。八ツ山橋は明治5年(1872)鉄道敷設の際に東海道を渡すために架けられた陸橋で大正3年には我が国最初のブレースドタイドアーチ形式の鉄橋になった。現在の橋は昭和60年(1985)にかけられた。1954年の映画「ゴジラ」第1作目では海から日本に初上陸したゴジラが東海道線を振り回して八ツ山橋の鉄橋を一撃で粉砕する。八ツ山橋を渡り50mほど進んだ途中で左に分岐し京浜急行の線路を渡ると品川宿に入る。 |
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品川宿 本陣1脇本陣2旅籠93家数1561人口6890[天保14年(1843)] 品川宿は江戸四宿(えどししゅく:品川・内藤新宿・板橋・千住)の一つで東海道53次の第1番目の宿。 八ツ山から大井まで伸びる海沿いの宿場町で当初は江戸に近すぎ宿泊者も少なかったが飯盛女をかかえるようになって江戸吉原の北国に対して南国と呼ばれるほどの遊興地となる。当初は北宿(一心寺〜目黒川)、南宿(目黒川〜天妙国寺前)の2宿だったが享保7年に新町(八ツ山から一心寺)に新宿が設けられ計3宿の大所帯へと発展し旅籠の数は最盛期には180軒を数えた。「居残り佐平次」「品川心中」など古典落語の舞台で知られ昭和32年の喜劇映画「幕末太陽傳」にも描かれている。 |
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{左}問答河岸跡 北品川1-22-21 しばらく行くと問答河岸跡の碑がある。1640年現在の品川小学校のあたりにあった東海寺を訪れた三代将軍家光が帰りにここにあった河岸から船に乗ろうとした時に見送りの沢庵和尚に問答を交わした。家光が「海近くして如何か是東海寺(遠海寺)」と問うと沢庵がすかさず答えて「大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し」と言った。 |
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{右}桝翁軒(ますおうけん) 北品川1-2-8 問答河岸跡の右ななめ向かい。嘉永二年(1849) 創業以来同じ場所に店を構え続ける和菓子老舗。秘伝の甘辛の醤油だれをからめた焼だんごは品川宿の味として続いており午前中で売り切れてしまうことが多い。4個一串5本で350円。このあたりが北品川本通り商店会という商店街。今でも江戸時代と同じ道幅で道幅も狭く車は一方通行となっている。商店街はこの後連続して北品川商店街、品川宿場通り南会、青物横丁商店街と続いていく。 |
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{左}土蔵相模跡 北品川1-22-17 品川宿随一と言われた相模屋という旅籠の跡で幕末には高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文などが密議をした。外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だったので土蔵相模と呼ばれた。その後「さがみホテル」となり昭和57年に取り壊され現在はマンション「ニックハイム北品川」&1階がファミリーマート。万延元年(1860)桜田門外の変の水戸浪士らの、文久2年(1863)御殿山の英国公使館焼討ちで高杉晋作ら長州藩士の集合拠点になっている。相模屋の復元模型は品川歴史館(大井6-11-1)に展示されている。 |
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{右・寄}音響山 善福寺[時宗] 北品川1-28-9 街道の右側小道の正面に山門が見える。永仁2年(1294)に開かれた都内でも有数の古寺。墓地の入口には1658年造立の念仏供養塔がある。本堂に伊豆の長八(入江長八)の鏝絵(こてえ)がある。鏝絵とは土壁の上塗りの材料として使われる漆喰を鏝やヘラを使って盛り上げ花鳥風月や人物を半立体的に浮き上がらせる絵で長八は日本画の狩野派の技法を取り入れていた。寄木神社(東品川1-35-8)にも長八の鏝絵がある。 |
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{左}品海公園(ひんかい) 一里塚(2) 北品川1-30-9 江戸初期には一里塚があり現在は「日本橋より2里」の木柱が立てられている。その後ろの街道松は平成12年に改修記念に品川宿内から寄贈されたもの。公園手前の坂道の民家には江戸時代の護岸用の石垣の名残が残されている。 |
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{右}新宿お休み処 品海公園向かいには「旧東海道品川周辺まちづくり協議会」が設置したお休み処(駄菓子屋またあした)がある。昔の宿場の写真が展示されベンチが置いてありお茶も無料で飲むことができる。「東海道品川宿まち歩きマップ」が10円で入手できる。他にも街道沿いにいくつかベンチが設置されておりお休み処となっている。 |
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{右・寄}臨海山光照院 法禅寺 [浄土宗]北品川2-2-14
右側小道の先に山門が見える。芝増上寺の末寺で至徳元年(1384)創建。本尊は阿弥陀如来で宝永2年(1705)に鎌倉時代の快慶の系統の仏師が制作。法然上人自作の法然上人坐像もある。明治4年(1871)に建てられた高さ1m21cmの流民叢塚碑がある。天保4年(1833)に始まった飢饉で流浪したのち品川宿で死亡した900余人が法禅寺と海蔵寺に埋葬されうち500余りが法禅寺に埋葬された。昭和9年(1934)に納骨堂が建てられその上に移動。幹囲3m40cm樹高25m樹齢約400年のイチョウが本堂に向かって左側にある。門前に品川小学校発祥の記念碑がある。明治5、6年の頃、都築幾三郎 (つづきいくさぶろう) が善福寺で始めた塾が法禅寺に移り明治7年(1874)東京府に認可された。 |
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北品川商店街 やがて北品川商店街に入る。街路灯も統一され全ての柱には旧東海道と書かれ慶応元年(1865)創業の下駄の丸屋や東海道に相応しい屋号の店が並ぶ。店のシャッターには浮世絵や江戸から明治への文明開化時期をかたどった絵が描かれている。
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{左}豊盛山延命院 一心寺[真言宗]北品川2-4-18 安政2年(1855)に創建。江戸三十三観音の一つで聖観世音菩薩を祀る。現在のお堂は明治になってから再建されたもの。 昭和になって成田山分身の不動明王を本尊とするようになり品川成田山不動尊とも呼ばれ「品川の不動さま」として知られた。東海七福神の寿老人でもある。昭和7年品川が大東京に編入された記念に定められ他に養願寺(布袋尊)、品川神社(大黒天・北品川3-7-15)、荏原神社(恵比須・北品川2-4-18)、品川寺(毘沙門天)、天祖諏訪神社(福禄寿)、磐井神社(弁財天)。以前は法禅寺(布袋尊)、浜川神社(福禄寿)、海晏寺(寿老人・南品川5-16-22)となっていた。 |
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{右・寄}明鏡山善光院 養願寺[天台宗]北品川2-3-12 一心寺の向かいの小道を少し入っていくといきなり本堂がある。正安元年(1299)の創建で「品川の虚空蔵さま」と親しまれる虚空蔵尊(こくうぞうそん)を安置している。また鎌倉時代制作の善光寺分身銅造阿弥陀如来立像(高さ47.5cm)や万治元年(1658)仏師春達が制作した木造不動三尊像(高さ1m12cm)がありともに品川有形文化財になっている。東海七福神の布袋尊。近くには元徳元年(1329)年開創で幕末の住職日記55冊が保存されてる日夜山正徳寺(しょうとくじ)[真宗](北品川2-9-26)がある。 |
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{左}聖蹟公園 品川宿本陣跡 北品川2-7-21 入口が街道沿いにあり土山宿寄贈の街道松が左側にある。ここにあった品川宿鳥山本陣は明治5年(1872)宿駅制度が廃止されたあと警視庁品川病院となり昭和13年(1938)聖蹟公園となった。公園内には瓦屋根付のブランコなど江戸時代をイメージした遊具や井戸跡の他、御聖蹟の碑、由来碑、夜明けの像などの石碑がある。本陣は当初南北両宿におかれていたが北品川のみとなり脇本陣は幕末には南品川宿と新宿に各1軒あった。本陣復元模型(1/30)が品川歴史館に展示されている。「聖蹟」とは明治天皇が行幸された土地という意味。 |
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品川橋 交通量が激しい山手通りを横断するとまもなく目黒川にかかる品川橋となる。戦国時代から川を境に南北に村があり元禄のころ明確に品川橋が北宿と南宿の境となり別名境橋、中ノ橋、行合橋とも呼ばれた。江戸時代は木橋で目黒川が今の位置より北にあり橋もそこにかかっていたが昭和3年(1928)に目黒川の河道が変更されて橋も現在地に移動した。これにより近くの荏原神社は南品川宿の鎮守なのに住所は北品川になった。現在の橋上は左側歩道が広くベンチ等がある。 |
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街道松の広場 品川橋を渡ると街道松の広場がある。平成4年旧東海道の縁で浜松宿から寄贈された樹齢80年の黒松。同じ時に三島宿から寄贈された松は150m先の南品川二丁目児童遊園にある。その後平成9年に聖蹟公園入口に土山宿、同年釜屋跡の案内板横に保土ヶ谷宿、平成13年南品川二丁目マンション「サンクタス品川」に袋井宿から寄贈された松がある。品海公園には平成12年品川宿内から寄贈された松がある。 |
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{左}問屋場跡 ジョージ秋山の漫画「浮浪雲」では品川宿の問屋場「夢屋」の頭・雲と家族の庶民の姿を描いている。物流博物館(高輪4-7-15)に品川宿問屋場の模型がある。このあたりの一本海側の路地には品海公園と同じく海岸の護岸石垣の名残が民家の石垣に見られる。 |
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{右}南品川二丁目児童遊園 南品川2-11 児童遊園になっておりここにも三島市から寄贈された街道松がある。品川宿の昔を語る「むかしボックス」(藤棚の下のボックスのスイッチを押すとテープで昔の品川を教えてくれる)がある。 |
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{右}泰敬山 長徳寺 [時宗]南品川2-8-16
寛正4年(1463)の開創。本堂に隣接して閻魔堂があり鎌倉時代のものとされる木造の閻魔王座像がまつられている珍しいお寺で「南品川の閻魔さま」と呼ばれた。鍵のかかっている扉に一箇所ガラスがはめてあり覗ける堂内に5枚の地獄絵図(紙本着色六道絵)がある。昔はこんにゃくを舌の代わりにお供えし自分の舌を抜かれるのを免れようとしたといわれている。以前は大イチョウ(幹周3.8m)があったが枯れてしまって今は僅かに根幹が残っている。 |
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{右}鳳凰山 天妙国寺(てんみょうこくじ)[顕本法華宗] 南品川2-8-23
京都妙満寺の末寺で弘安8年(1285)に日蓮の直弟子の天目上人が開き以前は妙国寺といった。室町時代には七堂伽藍を持つ壮大なもので1590年に徳川家康が江戸入りをする際に宿泊した。江戸触頭(ふれがしら)二ヵ寺の一つ。江戸湊の船が入港の目印にしたという文安3年(1446)建立の五重の塔は慶長19年(1614)に大風で倒壊。本堂は18世紀中ごろに再建されたもの。本堂裏の墓地には一刀流の開祖伊藤一刀斎、明治時代の浪曲師桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)、鳶頭のお祭り佐七、歌舞伎で有名な斬られ与三郎とお富のモデルとなった四代目芳村伊三郎・お政の墓がある。 寺宝の曼荼羅は至徳2年(1385)に開祖の日什(1314〜92)が玄恵坊に授けたもの。 |
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{左}釜屋跡 マンション「ガーデンホーム南品川」前に案内板がある。釜屋は品川宿の脇本陣で旅籠兼お茶屋だった。慶応3年釜屋半右衛門当主の頃は永井尚志ほか幕府関係者が連日訪れ土方歳三や新撰組隊士も江戸に帰ってくるとここを利用していた。慶応4年鳥羽・伏見の戦いで敗れ海路江戸に到着した際もここに立ち寄っている。案内板の「誠」の文字は土方家の子孫土方康氏による。隣に平成9年保土ヶ谷宿から寄贈された街道松がある。 |
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{右}海照山普門院 品川寺(ほんせんじ)[真言宗]南品川3-5-17 釜屋跡の斜め向かいにある。品川区内でもっとも古い寺で大同年間(806〜809)に開創された。山城国醍醐三宝院の末寺で本尊は観世音菩薩。入口にある大きな地蔵(高さ2.75m)は街道を旅する人々の安全を祈って宝永5年(1708)に建てられたもので江戸六地蔵の一つで品川大仏とも呼ばれた。境内には樹齢600年の大イチョウ(幹周5.35m、高さ25m)や2mの自然石に彫り込んだ庚申塔、金生七福神 (かのうしちふくじん)がある。大梵鐘は幕末に行方不明になり遥かジュネーブから帰って来た。東海七福神の毘沙門天。 |
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{右}龍吟山 海雲寺 [曹洞宗]南品川3-5-21 建長3年(1251)創建。当初は海晏寺の塔頭で臨済宗であったが慶長元年(1596)曹洞宗に改めた。山門を入り右側が本堂で創建時に仏師春日が作ったといわれる本尊十一面観音菩薩がある。本堂の左側が千躰荒神堂でインドで作られたと伝わる千躰荒神像を祀る。火と水を守る竃(かまど)の神なので台所の神でもある。「品川の荒神さま」と親しまれ堂内に架けられた二十七面の扁額は信徒の奉納。寛永14年(1637)島原の乱の討伐を命じられた佐賀藩主鍋島勝茂の五男直澄が天草の荒神宮に祈願し勝利を収めたので江戸下屋敷に荒神宮を祀りのち明和7年(1770)に海雲寺の境内に移された。その後江戸や品川付近で火事がおきても海雲寺には不思議と火がおよばなかったことから鎮火防火の神として一層の信仰を集めた。 |
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{右}平蔵地蔵 海雲寺の本堂前にある。1860年頃多額のお金を拾って落とし主に返した正直者の乞食平蔵がそれを知った仲間に「山分けすればよかった」と宿を追い出され凍死してしまった。落とし主の侍がそれを知り地蔵を建てたが明治32年その場所に電車(京浜急行)が通ることになり海雲寺の住職が引き取った。後ろに力石、すぐそばにトイレの神様として有名な烏瑟沙摩明王を祭ったお堂がある。他にも境内には橘右近による筆塚や大日本帝国議会原始紀念之碑がある。 |
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{右・寄}坂本龍馬像 海雲寺がある青物横丁駅付近から鮫洲、立会川と2駅分くらい歩き右折して立合川駅に行くと駅前に坂本龍馬像がある。台座を除いて高さは約2.2mの強化プラスチック製。高知市の生家跡にあるホテル南水に飾られていたものを2004年に高知市経由で寄贈された。近くに土佐藩下屋敷があり龍馬も若き日に滞在していたという縁による。下屋敷があった浜川中学校の敷地に旧土佐高知藩山内家下屋敷跡の案内板(当時の地図付)がある。万治元年(1685)に土佐藩が拝領した下屋敷は1万6千8百坪あり他に東海道を挟んで海側に抱屋敷もあった。幕末に土佐藩が立会川河口付近に築いた浜川砲台の敷石も横に置かれている。明治になってから下屋敷跡には品川県のビール工場が建てられた。 |
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浜川橋(泪橋) 勝島運河に流れ込む立会川(別名浜川・濱川)に架かる浜川橋を渡る。1600年頃に架けられたとされ現在の橋は昭和9年に改架された。泪(なみだ)橋とも呼ばれる。慶長4年(1651)に鈴ヶ森刑場が出来て罪人は裸馬に乗せられて護送されてきたが親族らがひそかに見送りに来てここで涙を流して別れたという事から涙橋と呼ばれるようになった。映画化もされた村松友硯の小説「泪橋」の舞台にもなった。 |
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{右}天祖諏訪神社(てんそすわ)南大井1-4-1 浜川橋を渡ってすぐにある。天照大御神、豊受大神、建御名方刀美神、小碓命を祭神とする。以前は立会川を挟み南の鎮守神明宮(天祖社)と北の鎮守諏訪社に分かれていたが昭和40年に合祀された。神明宮の創建は鎌倉幕府以前の1100〜1190年ごろ、諏訪社は江戸時代の土佐藩下屋敷の庭内社に起源している。東海七福神の福禄寿で幸福、高禄、人望、長寿の神として信仰され高給を願うサラリーマン参拝が多い。 |
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{左}しながわ区民公園 浜川橋を渡ってしばらくして左に並ぶマンション群の裏側に細長い公園が平行し中央口が街道沿いの一角にある。運河を埋め立てて作られたもので野球場、テニスコート、プール、フィールドアスレチック、キャンプ場、道路を挟んで海水を利用した人工湖「勝島の海」、レストラン・ドルフィン、しながわ水族館などがある。トイレ、ベンチも多数あり木陰も多い。
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{右}浜川神社 南大井1-4-1 ビルの2階(屋上)にある。天明期(1781〜1789)に福島三右衛門(修験者・教光院了善)が厄神大権現を祀り鈴ヶ森厄神と呼ばれた。明治以降に浜川神社となり現在は須佐之男命・大物主命・少彦名命が祭神となっている。地域の鎮守社ではないため氏子はない。伝わる古文書類は保存状態も良く貴重な資料として品川区有形文化財に指定されている。 |
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{右}鈴森山大経寺[日蓮宗] 鈴ヶ森刑場跡 第一京浜との合流点の三角地帯に近代的な建物の大経寺がある。文久2年(1862)創建。敷地内に鈴ヶ森刑場跡がある。見せしめのため街道沿いにあった刑場は慶安4年(1651)に開設され明治4年まで存続。間口40間(74m)奥行9間(16.2m)で丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七たちが処刑された。普通は伝馬町の獄内で処刑(打ち首)され獄門の場合鈴ヶ森か小塚原(日光道沿い)で3日間首を晒した。磔、火炙りの場合は江戸市中引き回しの上ここで処刑された。首洗い井戸跡や火焙り用柱の台石と磔柱の台石、供養塔などがある。大経寺は文久2年(1862)処刑者供養のために建立された。ここから東海道は第一京浜(国道15号)を歩く。 |
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