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{左・寄}石碑・庚申塔群 しばらく行くと駿河区に入り昭和52年竣工の東橋で吉田川を渡り少し先で東名高速道路をくぐる。しばらくするとお茶・糀味噌の末永園(国吉田4-12-6)の斜め向かいの右側民家横に寛政10年(1798)の秋葉山常夜燈がある。さらに行くと少し広い道路に突き当たる。この付近は小吉田の立場があったが現在東海道は再開発により失われており右折すると東海道の続きに行けるが左折して次を右折していくと正面の草薙球場脇に付近から移されてきた7基の石碑・庚申塔がある。一番左は上部が欠けておりその横に享保2年(1717)と延享4年(1747)の巡礼碑、少し間を置き昭和55年、大正9年(1920)、万延元年(1860)の文字のみの庚申塔、一番右に元文5年(1740)の青面金剛童子と刻まれた石碑がある。 |
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{左・寄}草薙総合運動場・沢村栄治とベーブ・ルースの銅像 駿河区栗原19-1 石碑群の後ろに像がある。草薙球場は昭和5年(1930)静岡電気鉄道(現:静岡鉄道)が建設。昭和9年(1934)六大学出身者中心の全日本とベーブ・ルースら大リーグ選抜の親善試合の第10戦が行われ沢村栄治(17歳)が9三振を奪ったがルー・ゲーリックの本塁打により0対1で敗れた。2人の銅像の間には試合のスコアや集合写真のプレート碑もある。球場は昭和14年(1939)県に移管、昭和32年(1957)国体開催を機にスポーツ施設が整備され県内屈指の総合運動公園となった。硬式野球場、軟式野球場、陸上競技場、補助競技場、庭球場、球技場、体育館、水泳場、児童プール、ユリノキ広場、エノキ広場があり園内樹木は3千本。ユリノキ広場は江戸時代の農業用溜池跡で昭和初期に埋立てられた。 |
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{左}旧東海道記念碑 突き当たりを右折し県道407号(南幹線)を横断し静岡鉄道県総合運動場駅手前を左折してしばらく行くと正面に東海道線の静岡貨物駅の広い敷地が見え正面線路脇に平成3年建立の石柱と説明碑がある。旧東海道が分断していることを示した碑で昭和37年(1962)国鉄操車場建設により分断された。手前の県総合運動場駅付近も静清土地区画整理事業により東海道が消滅している。碑の御影石は葵区追手町(現:静岡市役所付近)に明治33年(1900)建てられた静岡御用邸で使われていたもので昭和初年の改修の際に栗原町内会に払下げられたもの。 |
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{右・寄}迂回道(北村地下道) 記念碑のすぐ右にある地下道でJRの東海道線と新幹線の線路をくぐり迂回する。地下道の出口は車は右に行くが歩行者は階段を登り左に出るようになっておりそのまま左の線路沿いを進む。少し行くと静岡鉄道がJR線路を越える高架をくぐり三澤自動車工業の看板の少し先で斜め右へ入る道が旧東海道で記念碑のあった道の続きになる。少し先で平成7年竣工の後久橋で大谷川を渡ると葵区に入る。少し先右のマンション「ウィスティリア古庄」前の歩道と車道の間には夢舞台道標静岡市 古庄がある。 |
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{右}長沼山 久應院 [曹洞宗] 葵区長沼2-1-12 やがて古庄交差点で国道1号に合流し横断して右側歩道を100mほど進むと歩道が国道から逸れるようにふくらんでいき長沼交差点でそのまま国道の1本右側の道へ分岐する。交差点手前の歩道がふくらんだ部分は長沼仲良し花壇になっており「道行く人 差なきや」と刻まれた石碑がありこの地が望月屋敷の一部だったとある。旧道に入りしばらく歩いていくと寺がある。建物は新しく山門前左に石仏と庚申塔がある。 |
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{左}長沼一里塚跡(44) 少し先の民家前に50cm位の昭和8年(1933)の石棒碑「長沼一里塚趾」がある。碑は植木鉢の花に囲まれている。民家の一部は東海ブック(長沼848-1)という小さな本屋にもなっている。この先をしばらく行くと静岡鉄道長沼駅の横を過ぎ右側に線路が沿う道を歩いていく。線路の向こうには壁面がソーラーパネルになっているバンダイのプラモデル生産拠点バンダイホビーセンターの建物が見える。 |
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{左・寄}曲金北(まがりがねきた)遺跡 少し先左の静岡トヨペット(長沼611)を左折していくとJR東静岡駅に出る。駅の反対側の静岡県コンベンションアーツセンター(グランシップ)と線路の間が約100mほど整備された歩道になっており平成10年設置の説明版が写真付きである。平成6年造成中に発見され3万平方mに及ぶ発掘調査で全国で初めて古代の東海道の遺構が350m確認された。8世紀初頭から10世紀初頭(奈良時代から平安時代)東海道の各国の国府を結んだ道(駅路)で清見寺からここまで一直線に延びていたとされ同時代の須恵器、木簡なども発見された。道幅9m側溝含め12mで現在は歩道の真下1.5mに埋められている。神奈川県の西友平塚店(東中原1-1-25)敷地にも建設中の平成16年に発見された古代東海道跡(再現)がある。 |
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{右}靜岡縣護國神社(静岡県護国神社) 葵区柚木366 線路沿いの道をしばらく行くと線路の向こうに東鳥居がある。明治32年(1899)静岡市北番町に創建された共祭招魂社を昭和14年(1939)に改称、昭和17年に現地に移転。明治維新から第二次大戦までの当県出身の戦没者7万6千人を祀る。昭和22年進駐軍の監視もあり静霊神社と改称したが昭和28年再び元の護國神社となった。昭和40年社殿を改修。社務所2階の遺品館には戦没者遺品や兵器など3800点がある。9:00-16:30無料。境内左には各部隊の鎮魂碑や駿府城跡(静岡歩兵第34聯隊)から移された岳南神社鳥居がある。境内右のつつじ会館別館前にも複数の碑がある。境内中央には昭和20年の巨大な狛犬、昭和17年の灯籠もある。境内は3万2千坪(10万6千平方m)と広く池や武道館もある。 |
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JR東海静岡車両区・静岡車両センター 少し先で国道1号を斜めに横切りしばらく行くと電車庫などがあるJR東海の敷地の金網に突き当たり旧東海道は完全に消滅する。敷地の向こうに行くには一旦国道1号まで戻って国道を静岡鉄道柚木駅前まで進み、駅前の交差点を左折、JRの線路を柚木架道橋でくぐり階段を登る。車道にかかる昭和38年竣工の黄金橋の先右には夢舞台道標静岡市 曲金がありここから先が旧東海道の続きとなる。 |
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{左・寄}軍神社 曲金2-7-15 旧道を進むと法蔵寺の石柱があり左折していくと右にある。創建は不明だが寛保4年(1744)再建の記録があり日本武尊が東国平定の際に戦勝祈願したという伝承もある。祭神は武甕槌命、経津主命、大山祗命。武甕槌命が軍神であるため軍神社と言われるようになり通称軍人坊とも呼ばれる。境内は1513坪(4993平方m)で社殿に向かって右に白髭社、社國社、金山社、稲崎社の祠、天日さんがあり左に浅間神社、大山佳乃命、日露戦争で戦死した地域出身者17名の砲弾型の忠魂碑がある。境内には楠の巨木も点々とある。法蔵寺に近いところに平成10年の道祖神と豊田交通観音堂がある。 |
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{左・寄}佛国山 法蔵寺 [曹洞宗] 曲金2-7-33 軍神社の奥。本尊は聖観世音菩薩。山門前左に寛延3年(1626)南無観世音菩薩の字碑。境内右に3観音と6地蔵、延宝4年(1676)人柱となった修験者を祀った千日地蔵、昭和初期に移された狐ヶ崎地蔵、幕末の江戸城大奥の御中臈で明治2年(1869)に駿府城で没した浜田の墓、鐘楼。左に弥勒堂、元文5年(1740)など庚申塔7基や宝永元年(1704)再建の禁葷酒塔の一部、掃除小僧。本堂左には駿河一国百地蔵第35番の延命地蔵と静岡新四国霊場14番の如意輪観音等を祀る観音堂、水子地蔵、寛保3年(1742)馬頭観音。本堂左墓地には大正14年(1925)没の童謡「背くらべ」の作者海野厚の墓がある。梅花観音霊場4番。山門前を左に進んだ正面に馬頭観音堂があり梶原景時一族を供養したとされる。 |
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{左}曲金観音堂 東海道を進み左から別の道(曲金商店街)が合流してくる変形十字路の左に堂があり昭和63年設置の説明板もある。この辺りは古くは狐ヶ崎と言い古戦場でもある。正治2年(1200)上洛途中の清見関で幕府の手先の地元武士団に襲撃された梶原景時一族は残り33騎で当地まで逃げたが西進不能と判断、反撃を決意し当町内合戦川周辺で戦った。景時は残者を率い再び敵中を突破し逃げたが夕日無山(梶原山)で全員自害した。堂には十一面観音菩薩が安置されこの時の戦死者の供養と有縁無縁の不成仏霊に対する慰霊と町内平和祈願、諸厄救済、広くには一般衆生済度を願い観音堂が建てられた。昔は観音堂の前に東海道の石橋がかかっていたという。この変形十字路は右に行きカーブしていく。 |
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{右}延命地蔵尊・下横田町石柱 新幹線の高架とその下に並走する東海道線の線路に突き当たると横田架道橋で線路をくぐる。すぐ先の春日一丁目交差点で国道1号を渡り少し行くと横田町三区公民館の左ガラスの中に延命地蔵尊がある。駿河一国百地蔵第22番。その前には下横田町と刻まれた石柱と横の歩道上に説明プレートが埋め込まれている。この辺りが府中宿の入口で駿府96ヶ町の一つである下横田町の東端に元禄5年(1692)東見附が設置され道を挟んで両側に枡形の石垣が築かれた。平安時代から東海道の駿河国の駅(中継地)に由来する横田の地名が使われており元禄5年の下横田町は家数47人口214。昭和20年に上横田町、院内町、下横田町が横田町となった。府中宿には旧町名を示した石柱が所々に建っている。 |
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府中宿 本陣2脇本陣2旅籠43家数3674人口14071[天保14年(1843)] 古代から政治の中心で駿河国の国府があり駿河の府中を略し駿府とも言った。大宝3年(703)には安倍の市(市場)が安倍川河畔に始まり商業の中心地にもなり浅間神社の門前町、今川氏以来の城下町としても栄えた。駿府城築城の際に家康は安倍川を町の西側に迂回させて外堀の役目を果たさせた。駿府城再建の時に京都から送られた牛車はその後も残り江戸初期に牛車があったのは他に京伏見、仙台だけで東海道では唯一の宿場だった。慶長14年(1609)町割りで駿府96ヶ町が定められ職人が集まった鍛冶町、研屋町、大工町など職業を表す町名も多く残る。十返舎一九の出身地でもある。 |
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{右・寄}音羽山 清水寺 [高野山真言宗] 音羽町27-8 少し先の十字路を右折し静岡鉄道音羽町駅踏切を越えしばらく行った右。永正年間(1504-20)印隔創建の壇林の地に今川氏輝の遺命で永禄2年(1559)重臣朝比奈元長が開基、尊寿院道因が開山し地形が京都清水寺に似ていたためこの寺名とした。入口に家康の下乗の松がある。石段登って右の本堂は日本様式に中国風外壁の折衷様式。家康も何度か訪れ慶長7年(1602)恵心僧都作の千手観音像を寄進し観音堂を建立した。静岡新四国霊場15番の薬師堂は浅間神社の護摩堂を移築したもの。梵鐘は供出後の昭和25年に復元。鐘楼向かいには聖天堂。境内左に明和7年(1770)芭蕉句碑があり他にも天明5年(1785)山村月巣句碑など句碑が多い。敷地一帯は清水山公園で山上には熊野神社もある。 |
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{右}西宮神社 横田町5-24 十字路を渡ってすぐ左の酒屋静浜屋(横田町7-13)にビールジョッキを持つ大きな人形のデイスプレイがあり右のグリーン&デリカそね(横田町8-16)前に猿屋町の石柱と説明プレートがある。それらを過ぎしばらく行くと神社がある。創建年代は不詳。毎年10月19日夜から20日朝のえびす講は商売繁昌、家内繁栄を祈願する人々で賑わう。売られる縁起物「祝い鯛」は静岡の郷土玩具で漁村での祝儀の際に2匹の鯛を飾る風習から発想された張子玩具。境内にはすべり台や鉄棒などの遊具もある。旧町名の猿屋町は疫病除け神事「猿舞」の猿ひきに由来している。 |
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{左}久能山東照宮道石柱(道標) 広いつつじ通りの中央分離帯は公園になっていてベンチがあり横断するとすぐ左に鋳物師町の石柱と説明プレートがあってしばらく行くと久能山東照宮道の石柱がある。ここから久能山の麓に通じる道が分岐している。久能山には家康が祀られる久能山東照宮(駿河区根古屋390)があり大名達はここで東海道を離れ東照宮参りに行った。昭和20年代までこの場所には「久能山東照宮道」と記した石碑があった。久能山東照宮道は元和3年(1617)東照宮創建以前は久能街道と呼ばれており久能海岸で作られた塩などの海産物を駿府に運ぶための古い街道の一つで駿府の北に伸びる安倍街道や藁科街道にも繋がっていた。 |
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{右・寄}玉桂山府中寺 華陽院 [浄土宗] 鷹匠2-24-18 向かいの道を右折し次を左折すると右。家康は8才〜19才まで今川の人質として駿府におり当時知源院と呼ばれたこの寺の隣に住む外祖母の源応尼に預けられ寺の開山知短上人に学んだ。源応尼は永禄3年(1560)没し家康は駿府城に戻ると慶長14年(1609)50回忌法要を行い寺名を源応尼の院号の華陽院とした。源応尼の墓には家康手植えの蜜柑があり隣には慶長15年7歳で没した家康の5女市姫の墓と昭和23年徳川家正が植えた松がある。少し離れて元和元年(1616)48歳で没した側室阿久の方の墓もある。阿久は華陽院の末寺である宗閑寺に墓がある間宮康俊の娘。他にも駿府城の城代・御定番の墓がある。家康使用の団扇、市姫使用のひな屏風も所蔵。境内は日吉町保育園にもなっている。 |
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{左}下伝馬本陣・脇本陣跡 旧道に戻ると右に花陽院門前町の石柱と説明プレートがある。さらに行くと右に県内唯一のお灸用艾(もぐさ)屋である小山忠次郎商店(伝馬町20-5)がありその先の呉服まつ本(伝馬町10-9)前に碑と立札風の説明板がある。下伝馬町には本陣と脇本陣が1軒ずつありこのあたりが脇本陣平尾清三郎家があり手前ななめ向かいに本陣小倉平左衛門家があった。碑の上には江戸時代の宿場地図プレートが貼られ立札風の説明板は表裏に江戸時代の付近の地図と伝馬町の説明がある。伝馬町は上と下に分かれ問屋場や旅籠が43軒あった。 |
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{右}上伝馬本陣・脇本陣跡 静岡駅に通じるスルガ銀行伝馬町支店(伝馬町9-1)のある交差点を過ぎるとトップセンタービル(伝馬町8-6)前に碑と立札風の説明板がある。上伝馬町には本陣と脇本陣が1軒ずつあり本陣は望月家、脇本陣は松崎権左衛門家がつとめていた。脇本陣手前には問屋場(貫目改所)があった。碑の上には江戸時代の宿場地図プレートが貼られ立札風の説明板は表裏に江戸時代の付近の地図と伝馬町の説明がある。 |
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{左}伝馬町の由来碑 上伝馬本陣・脇本陣跡の斜め向かいのFIVE-J前に夢舞台道標府中宿 伝馬町がありすぐ先左に上下伝馬町の石柱と説明プレート、そのすぐ先の2叉路の左に昭和59年建立の小豆色の大きな伝馬町の由来碑がある。市街地再開発事業の竣工記念に建立されたもの。伝馬町の歴史は慶長14年(1609)駿府を町割して宿場と定めたことに始まり伝馬の機関(問屋場)が設けられていたため伝馬町となった。他にも本陣、脇本陣、荷物貫目改所が置かれる宿の中心地で昭和15年の静岡大火、昭和20年の空襲を経た後も商店街として栄えてきた。町には朝鮮通信使の休憩場所になった寶泰寺(伝馬町12-2)、法伝寺(伝馬町5-5)、新光明寺(伝馬町11-3)、怪力鬼彦の伝説のある珠賀美神社(伝馬町13-1)などもある。 |
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{右}西郷・山岡会見之史跡 パチンコラスベガス(伝馬町1-2)前にある「維新の歴史を変えた街」の説明板に会見について説明されておりその先のペガサート(御幸町3-21)の前に明治百年記念の昭和43年建立の2人のレリーフ付きの碑、平成16年設置の説明プレート、昭和42年建立の静岡市指定史跡碑がある。慶應4年(1868)西郷隆盛(南州)と幕臣山岡鉄舟(鉄太郎)が会見した松崎屋源兵衛宅跡でここで下交渉した5日後に江戸の薩摩藩蔵屋敷で西郷と勝海舟の会見が行われ江戸城の無血開城が決まった。ペガサート前には小梳神社(紺屋町7-13)の神職新谷右近が居住していたという新谷町の石柱と説明プレートもある。ペガサートの先の江川町交差点で東海道は左折するが横断歩道が無いため地下道を通って左折する。 |
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{左}呉服町通り(静岡呉服町名店街) しばらく行くと呉服町交差点で東海道は右折し呉服町通りに入る。商店街の両側には広重の東海道五十三次を行灯風に模した街灯が立ちしばらく行くと左のMACOU'S BAGEL CAFE(呉服町2-3-5)前に時計のオブジェがあり呉服町の説明板になっている。他にも通りにはかんざし、天秤棒、縁台など江戸時代の生活用具をイメージしたオブジェ風のベンチが並ぶ。呉服町は今川氏の時代から駿府の本町と言われ城下の主要地であり今川時代末期から徳川時代初期にかけて絹庄、木綿庄の長で町職を勤め慶長14年(1609)駿府96ヶ町町割りの際に奉行を補佐した伴野家春(友野宗全)が住んでいた。 呉服町の名も町割り以後使われるようになった。戦前まではその名の通り十数件の呉服店があった。
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{右}札之辻跡 呉服町が七間町と交わる交差点の静岡伊勢丹(呉服町1-7)前に石柱と説明プレート、札之辻町の石柱がある。交差点の手前右には里程元標跡碑と江戸時代の周辺地図もある。駿府城大手門正面の町口跡で城側に明治7年(1874)に取り払われるまで駿府町奉行所により設けられた高札場があり札之辻と呼ばれた。昭和20年まで札ノ辻町も存在し元禄5年(1692)駿府町数井家数人数覚帳によると家数11人口132。東海道はこの交差点を左折し七間町通りを行く。七間町通りはその名の通り道幅が7間(13m)で街道随一の広さだった。 |
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{右・寄}駿府町奉行所跡碑、静岡の名の由来碑(静岡市役所本館前) 追手町5-1 札之辻を右折し城方面に行くと交差点手前右の市役所の植込みに碑が2つある。寛永9年(1632)大手組町奉行所としてこの地に設置された奉行所には奉行以下与力8人同心60人がいて明治元年(1868)までに63人が歴代奉行を務めた。碑は昭和3年(1928)建立。静岡の名は徳川16代を継いだ田安亀之助(後の家達)が明治2年(1869)6歳で駿府藩知事になった際に府中が不忠に通ずるという意見から宿名改称が藩庁で協議され当初は賤機山に由来する賤ヶ丘となったが藩校の向山黄村頭取が提案し静岡宿となった。藩名も静岡藩となり明治4年廃藩置県でそのまま県名になった。碑は昭和54年建立。植込み反対側の市役所玄関にはガス灯もある。市役所本館は昭和9年築のスペイン風ドームを持つ建物。 |
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{右・寄}教導石 交差点左の静岡中央警察署(追手町6-1)の市役所側道路の植込みには明治12年(1879)第1回が開かれたという静岡県会議事堂跡碑もある。交差点を渡った警察署の向かいの堀沿いに教導石と説明石がある。「富や知識の有無 身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」趣旨に賛成した人々が明治19年(1886)建立した。正面の「教導石」は山岡鉄舟の書でその上部には札之辻にあった里程元標から日本橋、三条大橋、県内各地までの距離が示されている。右側面の尋ル方に相談ごとを貼付けておくと左側面の教ル方に誰かが答える使い方もされていた。堀の向こうには静岡県庁(追手町9-6)がある。本館は昭和12年築で懸賞設計の泰井武の案を市役所本館と同じ中村與資平が実施設計した。 |
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{右・寄}駿府城跡(駿府公園) 県庁本館の裏に二之丸橋があり堀を渡ると公園となる。家康が天正13年(1585)から築城し浜松城から移ったが天正18年(1590)関東移封となり秀吉配下の中村一氏が城主となった。将軍職を秀忠に譲った家康が慶長12年(1607)戻って城を拡張修築し3重の堀と本丸、二之丸、三之丸を擁する城とし元和2年(1616)没するまで住み大御所政治を行った。家康死後は頼宣、忠長が城主となったがその後は幕府番城となり城代が置かれた。5層7階の天守閣は寛永12年(1635)焼失、他も大火や安政大地震で殆ど焼失、崩壊し最後は石垣と堀だけとなった。明治29年(1896)より陸軍省が使用し昭和24年市の所有となり昭和26年公園となった。公園中央には家康立像があり手植えの蜜柑もある。他にテニスコートなど。 |
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{右・寄}駿府城二ノ丸 巽櫓・東御門 二之丸橋の手前の道は家康の散歩道と名付けられており右に行くと堀の向こうに平成元年復元の巽櫓と平成8年復元の東御門がある。巽櫓は二ノ丸の3層2重の隅櫓で東南(辰巳)の方角に位置するため巽櫓と呼ばれた。主に城下に住む重臣の出入口だった東御門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南と西の多聞櫓で構成される。巽櫓も東御門も寛永12年(1635)焼失後3年後には再建されたが安政大地震で全壊した。復元建物内は有料(200円)9:00-16:30。散歩道沿いの巽櫓が見える所にはベンチとセットになった弥次喜多像があり東海道中膝栗毛刊行200周年記念の平成14年建立。散歩道沿いには他にも昭和43年建立のわさび漬発祥の地碑、指人形像などもある。 |
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人宿町通り 札之辻から七間町通りを少し進むと両側に映画館が密集する地区となり道は「七ぶらシネマ通り」と愛称が名付けられ路上にいろいろな映画機材が展示してある。広い昭和通り(国道362号)を渡って二つ目の十字路まで進み右にSoccer Shop GOAL(七間町16)左にファミリーマート静岡七間町店がある角を右折するのが東海道で人宿町通りに入る。歩道が整備され左、左、右の3箇所に人宿町の説明板付きの石柱がある。人宿町通りは七間町通りに対し縦七間通りと呼ばれた事もある主要路で庶民の泊まる木賃宿が多くあった。 |
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{右}梅屋町由来石柱 人宿町を歩いていくと梅屋町の説明板付きの石柱もある。梅屋町の町名は町年寄もつとめていた梅屋太郎右衛門の旅籠梅屋からきており人宿町と同様旅籠が多い町だった。由比の正雪紺屋に生まれたとされ江戸で軍学塾張孔堂を開いていた由比正雪は慶安4年(1651)家光の死を機会に挙兵を計画したがこの梅屋に宿泊中に駿府町奉行所の奉行落合小平治らに囲まれその場で自害したとも捕縛されて安倍川河畔で斬首されたとも言われる。梅屋町由来石柱のすぐ先、文扇堂カメラ店(梅屋町3-6)のある十字路を左折した新通りが旧東海道。 |
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{右}元祖わさび漬「田尻屋」 新通1-3-2 新通りを進み広い通り(ときわ通り)を横断するとある。宝暦3年(1753)創業のわさび漬の老舗。味噌屋に奉公していた初代田尻屋利助が安部川上流の有東木村を行商で訪れた時、村人が糠味噌に漬けた山葵の茎と葉を食べているのを知り味噌漬、塩酒粕なども研究した結果甘口の酒粕漬が一番合うと思い商売を始めた。3代目の頃は江戸浅草まで行商し通る人に試食させながら売り広め諸国大名が土産に買うほど有名になった。田尻屋では今も有東木で栽培される山葵を使用し昔と変わらぬ製法でを手作りしている。作っているのはただ一種で他店のように甘口も辛口もない。78g300円、樽入142g600円10時-17時(売切次第閉店)休なし。 静岡にはわさび漬けの元祖・本家を名乗る店が百軒もある。 |
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{左}秋葉神社 しばらく行くと十字路の角にある。防災倉庫の上に境内があり石段の上に鳥居と境内、社殿がある。新通りは慶長14年(1609)駿府96ヶ町町割りからの東海道でそれ以前の数年間は右を平行して走る広い通り(県道208号)が東海道で札之辻を左折せずにまっすぐ行ってから左折して安倍川に向かっていた。慶長14年以前の東海道(県道208号)を本通り、以降の東海道を新通りと呼んだ。新通りを東海道としたのは駿府城天守閣が一番美しく見えたためという。 |
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{右・寄}府中一里塚跡(45) 秋葉神社の十字路を右折し本通りに出て反対側に渡りお仏壇のやまき(本通8-41-1)の少し先に石柱と説明碑がある。石柱は大正14年(1925)建立。東海道が定められ一里塚が築かれた慶長9年(1604)にはこの本通りが東海道だったため府中一里塚はこの付近にあったが天保13年(1842)の本通8・9丁目の地図には塚はなく新通りにも塚は新設されなかった。一里塚には大きな榎があったと伝わるが正確な位置ははっきりせず付近にあった3つの寺の寺伝にはそれぞれ自寺に一里塚があったと記されている。本通8丁目にあった修福寺は境内に、本通7丁目にあった極楽寺は墓地の一角に、本通9丁目の浄元寺(本通9-22-2)は一里塚の地に家康が寺地を寄進し建立され一里山浄元寺と称したという。 |
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{左}駿河伏見稲荷神社 新通1-12-13 しばらく新通りを進むと静岡銀行新通支店(新通1-11-3)のななめ向かいに赤い鳥居がある。社殿は新通一丁目5区の集会所、老人いこいの家にもなっている。 |
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{左・寄}稲荷神社・双街の碑 駒形通5 右にたい焼き屋のある十字路を左折し右の平成元年開設の静岡県地震防災センターを過ぎたところの小道を少し入った左に小さな稲荷神社がある。境内左に明治27年(1894)県知事小松原英太郎(当時)揮毫の双街の碑と説明板がある。家康は駿府に入った頃に遊郭を京都から誘致して7町に配置し長年家康の鷹匠を務め老齢で引退した伊部勘右衛門に管轄させた。元和元年(1615)7町の内5町の遊廓が江戸吉原に移りこの辺りの2町が残ったため通称「二丁町」や「双街」と呼ばれ江戸時代以降も賑わったが昭和20年空襲で街は焼失し遊郭は昭和32年に廃止された。東海道中膝栗毛では三島宿で護摩の灰に金を盗られた弥次さんが府中宿で知り合いから金を借り喜多さんとともに二丁町へ繰り出した。 |
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{右}川会所跡(現:弥勒交番) 弥勒1-4-13 川越町を抜け弥勒町に入ると府中宿からも抜け少し進み広い通りを渡ると交番前に昭和60年設置の説明板がある。架橋や渡船が禁じられていた安倍川は川越人夫による渡しが行なわれ両岸の川会所が監督していた。弥勒側の川会所は当初は少し先の緑地中程にあったが江戸時代中期に移動した。間口6間奥行4間半の建物に毎日裃姿の川役人が5人ほど勤務し人夫の統括や越賃の取扱いをし駿府町奉行所からも川場係の同心2人が警備監督のため詰めていた。旅人は川会所で川札を買い人夫に渡し肩車か蓮台で渡った。越賃は脇下から乳通りまでは一人64文、へそ上は55文、へそ下は46文、股までは28文、股下は18文、膝下は16文などに分かれ現在の安倍川橋より少し下流で川越えした。 |
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{右}安倍川架橋の碑 すぐ先が小公園(弥勒緑地)になっており公園手前側(交番裏)にある。野邨素介書、黒田長成撰文、題字は徳川家達で安水橋架橋の功績を後世に残す目的で明治41年(1908)建立された。安倍川は戊辰戦争や明治元年(1868)明治天皇御東幸時には仮橋が架けられたが一般の人が渡る橋は明治7年(1874)弥勒村の戸長(村長)宮崎總吾により初めて架けられた。總吾は官費の補助を受けず工期半年工費7千万円で長さ280間(504m)幅2間(3.6m)の木橋「安水橋」を架け人夫による川越の半分程度の徒歩4厘、馬車4銭5厘の通行料を徴収し工費回収に充てる有料橋とした。後に橋は県に寄付され県は明治35年(1902)無料の2代目安水橋に架け替えた。碑の隣には昭和13年(1938)支那事変記念碑もある。 |
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{右}由比正雪公之墓趾碑 弥勒緑地中央を横切る道路を渡った先に昭和26年改修された碑がある。この地は慶安4年(1651)梅屋町で自害もしくは捕縛後斬首された正雪の首を晒した跡とも墓跡とも言われる。首は遠縁の者が寺町(現:常磐公園付近)にあった菩提樹院(現:沓谷1344-4)に埋めた。この緑地にあった正念寺には位牌があったが明治10年(1877)廃寺となり大用山来迎院(横内町102)の十三仏堂として位牌とともに移された。左には明治天皇御小休所阯の石柱や夢舞台道標静岡市 弥勒と弥勒町の説明板&地図もある。弥勒町一帯は古くは安倍川の河原で正保年間(1644-47)に開かれた。右の安倍川橋バス停前には平成12年静岡葵博の会場に建てた冠木門があり閉幕後の翌年東海道400年記念として移築した。 |
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{右・寄}駿府キリシタン殉教之碑 冠木門の斜め向かいの本通り反対側に碑と説明石板がある。慶長17年(1612)キリシタン禁教令を出した幕府は駿府からもジョアン原主水、ディオゴ小笠原、おたあジュリアらの武士、侍女など14人を追放し駿府の教会2つも破壊した。追放後も江戸で布教し捕らえられた原主水は駿府で捕らえられた町人7名のうち棄教を拒んだ5名と共に慶長19年安倍川河原で額に十字の焼印を捺され手足の筋を切られ市中引き廻し後追放された。主水は再び江戸に出たが安倍川千日堂(正念寺)に放置されたジョアン道寿は同夜、ペドロ角助は翌朝没した。壊された教会の1つは静岡県地震防災センターの横の昭和27年開園の安倍川町公園付近にあり公園内に平成3年建立「この附近 駿府キリシタン聖堂跡」碑もある。 |
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{右・寄}水神社 弥勒二丁目 キリシタン殉教碑の先の砂利道を右折すると正面。祭神は瀬織津姫命。創建は不明だが平成3年上棟札に正保年号(1644-47)の記述が見つかった。この地は安倍川の川越人夫が住む町があり三川越町(新通川越町・本通川越町・堤添え川越町)と呼ばれていた。境内の左に天明元年(1781)と右に天保6年(1835)の手水鉢があり右には奉納者に三川の字が見られる。他には大正15年(1926)灯籠、昭和3年(1928)の鳥居など。神社前の道を川側に行くと石段を登った右に首地蔵の堂があり中には地蔵菩薩と首のない小さな地蔵が5体、その右に平石に浮き彫りされた石仏が安置さている。昭和の初め頃にはこの土手の草むらにそのまま置かれていたが昭和12年(1937)頃地蔵堂が建立された。 |
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{左}あべかわ餅元祖石部屋 弥勒2-5-24 弥勒緑地の先で旧東海道が本通りと合流しすぐ。安倍川餅に砂糖が使われ始めた文化元年(1804)に初代吉五郎が創業。建物は空襲で焼けたため雰囲気のある建物を見つけ戦後に移築した。餅米100%で餅を搗いておく以外は注文を受けてから作る。一皿600円。10時-17時、木休。安倍川餅は慶長年間(1596-1615)に弥勒院という山伏が河原で餅を売ったのが起こりで茶店も多く出来て安倍川名物になった。また上流の金山の検分に来た家康に亀屋五郎右衛門が砂金に見立てきな粉をまぶした餅を献上すると家康が「安倍川餅」と名付けたという。一般的な餅が2、3文の時代に安倍川餅は5文したため通称「五文取」とも呼ばれた。現在は川までの間に他に2軒(かごや、橋本屋)の餅屋がある。 |
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{左}安倍川義夫の碑 石部屋隣にある。正直な川越人夫を顕彰した碑で昭和4年(1929)和歌山県と静岡県の学童や有志の募金により建立された。揮毫は県知事長谷川久一。元文3年(1738)仲間と貯めた150両を持ち帰る紀州の漁夫が安倍川を渡った際に財布を落とし偶然その近くにいた人夫の喜兵衛(川原町彦右衛門の子)が拾い追いかけ宇津ノ谷峠で財布を返した。漁夫は礼金を払おうとしたが「拾ったものを落し主に返すのは当り前だ」と言って受取らないので駿府町奉行所に礼金を届けた。町奉行が礼金を渡そうとしても受取らないので奉行は礼金を漁夫に返し代わりに奉行所からの褒美金を喜兵衛に渡した。話は白隠禅師の「荊叢毒葱」にもあり末尾の文言「不臨難不見忠臣志 不臨財不知義士心」が碑文になっている。 |
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安倍川橋 明治7年(1874)宮崎總吾が安水橋を架けて以来何回かの架け替えの末、大正12年(1923)に完成した中部地方では最古の部類に入る歴史的建造物。全長490mでボーストリングトラス構造の橋としては最大級の橋長を誇る。橋の手前右には安倍川の変遷の説明板がある。もう少し右に行くと宮崎總吾頌徳碑、関東震災横死者供養塔、溺死劔難者慰霊碑もある。安倍川は静岡県境の安倍峠を源とし藁科川と合流し駿河湾に注ぐ川で延長53.3km流域面積567平方km。渡り終えるとすぐ左折し少し先右に降りる石段が旧道で旧家の前を通りすぐにもとの道(本通り)に合流する。この辺りは鎌倉時代に手越宿があった手越で橋を渡って左折せずに本通りを行くと左に「千手の里手越」の案内地図もある。 |
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