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{右}「東海道 庄野宿」石柱 しばらく国道1号を進むと右に中日本コンクリート工業(日本コンクリート工業鈴鹿工場)(庄野町1900)があり工場を過ぎた庄野町北交差点で東海道は右折する。交差点には「庄野宿資料館」矢印標示もある。しばらく下り坂を進み次の信号を左折した角の空地に石柱と庄野宿の屋根付の説明板がある。石柱は平成12年建立で庄野小学校(庄野東2-5-35)の旧:門柱を流用したもの。説明板には「東海道宿場・伝馬制度400周年記念事業」と書かれ広重の絵も掲載されている。にわか雨に坂を走り急ぐ人物を描いた「庄野の白雨」は広重の作品の中でも傑作とされる。東海道はここから庄野宿へ入って行く。 |
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庄野宿 本陣1脇本陣1旅籠15家数211人口855[天保14年(1843)] 他宿に比べ寛永元年(1624)と最も遅くに宿場となった。石薬師宿との距離は25町(3km)で御油宿〜赤坂宿間に次いで2番目の短さ。開設当初は以前からこの地に住んでいた36戸に鈴鹿川東の古庄野からの移住が加わり70戸となり「草分け三十六戸 宿立て七十戸」と言われた。南北8町(873m)で加茂町、中町、上町からなる。伊勢神宮へ向かう旅人は手前の日永の追分か先の関宿の東の追分から伊勢街道に入ってしまうためここを通る事がなく宿泊者も通行者の3分の1と少ないこともあり経営は厳しかった。現在は国道1号とJR関西本線に挟まれた街道には狭い道幅がそのまま残り古い建物も多い。 |
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{左}筧口山 善照寺 [真宗高田派] 庄野町28-2 しばらく行くとある。長禄年間(1457-61)に善正が開基し天台宗だったが高田派10世真慧の布教により改宗した。嘉永7年(1854)の地震で倒壊し詳しい記録などは紛失している。寛政4年(1792)に鋳造した梵鐘は昭和18年に供出。昭和46年築の山門を入って右の昭和35年築の鐘楼には昭和36年に再鋳された梵鐘がある。昭和58年に本堂を改修した。 |
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{左}庄野宿資料館(旧:小林家住宅) 庄野町21-8 しばらく行くとある。江戸時代は油問屋だった小林家の建物を市が買取り平成10年に資料館として開館した。建物は現存棟札から嘉永7年(1854)築とされ土蔵と共に平成8年市指定文化財。江戸末期の大型町屋建築の典型で主屋の1部は資料館開館時に復元された。館内には本陣・脇本陣の間取図と模型、本陣宿帳、高札5枚、明治初期の諸藩朱印控帳など多くの宿場関係資料、小林家の子孫で大正・昭和期の日本画家・小林彦三郎の作品や遺品、地域に残る農機具、民具、生活用品などが展示されている。庄野宿の名物だった携帯食「焼米」を包む小さな俵を編む器具もある。10時-16時、月火第3水休、無料。建物前には広重の庄野宿の絵、玄関前右には市指定建造物を示す石柱もある。 |
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{左・寄}瑞雲山 妙法寺 [臨済宗東福寺派] 庄野町22-1 次の十字路を左折し少し先の十字路の先左。天澤山龍光寺(神戸2-20-8)を開山した悦臾大忻の高弟である養貌大心が寛正2年(1461)に創建。元は別の場所にあり平田城主の平田氏の加護を受けていたが永禄天正年間(1558-93)に焼失し承応3年(1654)に現在地に移転した。正徳元年(1711)に堂宇を再建したが享和3年(1803)大洪水、嘉永7年(1854)地震で被災。山門は楠脇本陣の門を明治11年(1878)に移築したものだが昭和59年にサイズを大きくするなど大改修された。本堂も昭和59年に改修。山門前右に「不許葷酒入山門」石碑、山門入って右に鐘楼。文化5年(1808)蝦夷地御用掛の一員としてエトロフ島に渡った国学者・児山紀成の実父・早川直記の墓がある。鈴鹿郡88ヶ所霊場第83番。 |
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{右}問屋場跡 少し先の民家の軒下の壁に立札風の説明板がある。幕末の頃にはここに問屋場があり明治5年(1872)に廃止された。問屋場には問屋2名、年寄4名、帳付4名、人馬差8名が半数ずつ交替で詰めており問屋役は森家、小林家などがつとめた。宿場の経営が厳しかったため幕府は定められていた人足百人伝馬百疋を宝暦8年(1758)には人足30人伝馬20疋とした。文化12年(1815)には石薬師宿に合わせ人足50人伝馬50疋としている。宝永4年(1707)人馬賃金の値上げに関する高札も現存し庄野宿資料館に展示されている。広重の行書版東海道の庄野宿は問屋場の様子を描いている。 |
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{右}庄野宿本陣跡(現:庄野集会所) 庄野町19-27 少し先の変形十字路の角。集会所前に昭和55年建立の石柱がある。本陣は寛永元年(1624)宿場開設時から江戸時代を通して沢田家がつとめた。文久3年(1863)の記録では間口14間1尺(25.8m)奥行21間1尺(38.5m)総面積229坪7合(759平方m)畳数197畳半、板敷44畳半で玄関門構付だった。間取図、宿帳、一時期浄福寺の門となっていた本陣の門の嘉永7年(1854)銘の瓦が庄野宿資料館に展示されている。集会所左前のポスト右には「距津市元標九里拾九町」石柱があり大正12年(1923)に建立されたものを平成元年に複製し再建。右面には「亀山へ貮里参町」「石薬師へ壹里壹町」とも刻まれている。 |
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{右}高札場跡&脇本陣跡 変形十字路を渡ってすぐの民家手前の電柱横に高札場跡の説明立札があり同じ民家の玄関上に脇本陣跡の説明立札が掲げられている。高札は庄野宿には天和2年(1682)「人馬賃金」「忠孝奨励」「毒薬偽金禁止」宝永4年(1707)「人馬賃金値上げ」慶応4年(1868)「強訴と逃散の禁止」の5枚が現存し大きいものは横幅8尺5寸(2.6m)ある。脇本陣は楠与兵衛が営む関屋がつとめ間口9間2尺(17m)奥行22間(40m)総面積205坪2合(678平方m)畳数153畳半、板敷23畳半で玄関門構付だった。現存する高札や脇本陣間取図は庄野宿資料館に展示されている。川俣神社には享保4年(1719)楠与兵衛寄進の灯籠もある。 |
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{右}郷会所跡(現:理容いとう) 庄野町14-22 少し先の理容いとうの建物の側壁に説明立札が掲げられている。助郷各村の庄屋などの代表者が待機する場所で江戸後期には助郷人馬の割当が多くなったため減免陳情のための会合が多く開かれたと言う。庄野宿資料館に陳情書の控え等が保管されている。 |
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{右・寄}法性山 常楽寺 [真宗佛光寺派] 少し先の変形十字路右奥にある。 永正年間(1504-20)の創建で本尊は阿弥陀如来。明和8年(1771)安永2年(1773)と豪雨で被災し明治24年(1897)には地震で倒壊した。昭和46年築の山門を入って左に昭和41年築の鐘楼があり同年鋳造の梵鐘がある。平成3年に本堂を新築した。 |
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{右}川俣神社 庄野町12-27 少し先。元は大国神社と称し明治40年(1907)川俣神社を含む近隣の10社が合祀され改称した。祭神は大国主神、高龗神、大彦命、健速須佐之男命、宇迦之御魂神、品陀和気命ほか8柱。合祀された旧:川俣神社は江戸時代は貴船神社とも称し西古屋敷と呼ばれる地にあり元禄16年(1703)以前は鈴鹿川の対岸にあった。境内右に昭和44年県指定天然記念物のスタジイ(高さ12m幹周5.78m樹齢300年)がある。鳥居前の灯籠は天保15年(1844)で他にも境内に文政9年(1826)享保4年(1719)などの灯籠がある。手水石は寛政6年(1794)と天保2年(1831)。社務所左奥に「山神」碑が3基ある。川俣神社は延喜式神名帳に鈴鹿郡鎮座として記載されているがここの他にも中冨田、西冨田など数箇所に現存する。 |
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{右}「東海道 庄野宿」石柱 その先の十字路にある。庄野宿の入口にあった「東海道 庄野宿」石柱と同じく庄野小学校(庄野東2-5-35)の旧:門柱を流用し平成12年に建立された。この付近が庄野宿の出口にあたる。しばらく進むと左後ろから道が合流しそのまま右歩道を歩いて行くと市道庄野汲川原線の高架がある汲川原交差点で国道1号に合流する。東海道は国道に対し斜めに交差しているため高架をくぐり横断歩道で国道左側に横断する。横断すると左の今村ゴム(汲川原町337-1)の左側に東海道の続きが見えるがガードレールと雑草で分断されているため国道の左側歩道を少し進み左折して迂回する。 |
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{左}「平野道」道標 しばらく進み道なりに右折するように右カーブしたすぐ先の民家の横に大正3年(1914)田中音吉が建立した道標がある。現在の鈴鹿市平野町への道標で左折し鈴鹿川に突当ると対岸一帯が平野町となる。道標の向かいには江戸時代には高札場もあった。 |
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{左・寄}冨田山 真福寺 [浄土真宗本願寺派] 汲川原町240 少し進むと入口があり左折して正面に山門。一時は末寺200余を持つ大寺院だった南山照光寺(いなべ市大安町石榑南1418)から延宝元年(1673)に分寺した。1世は雲嶺。9世達立は佛教大学講師もつとめた。山門入って右に昭和43年梵鐘がある鐘楼。他に境内には本堂、庫裏、書院、蔵、手水石がある。 |
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{右}「山神」石碑&「従是東神戸領」傍示石 少し行くと小さな川を渡る手前にある。自然石に「山神」と刻まれた石碑の左に灯籠、右に文化10年(1813)手水石がある。石碑は江戸時代からここにあったもの。木材、薪、山菜などの恵みをもたらす山には古来より神が宿るとされていたが春には農村にも神が降りて来るとして山以外でも「山神」が信仰された。少し離れて傍示石があり神戸藩領だった汲川原村と亀山藩領だった中冨田村との境に建てられていたものがここに移設されている。茶色に変色しており3面に「従是東神戸領」と刻まれているが1面の「是」と1面の「領」の字は削られている。 |
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{左}女人堤防碑&「従是東神戸領」傍示石 向かいに昭和33年建立の碑、灯籠、向かいと同じだが少し新しい傍示石がある。堤防はすぐ先の小さな川に沿ってあり現在は左右に椿や竹が並ぶ並木道となっている。安楽川と鈴鹿川の合流点に近いこの地域は常に水害に苦しめられたが築堤は対岸が浸水する恐れがあるため神戸藩により禁止されていた。文政2年(1829)頃に耐えかねた菊女という女性が「男達が打ち首になったのでは村が全滅する」と先頭に立ち闇に紛れて女ばかり約200人で築堤を始め6年後に完成した。女達は捕らえられたが処刑直前に藩家老・松野清邦の諌めによって赦罪され逆に金一封を賜ったと言う。並木道を左折して少し先左は鈴鹿郡88ヶ所霊場第82番の薬王院跡で50基近くの古墓群、位牌が安置された地蔵堂がある。 |
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{左}川俣神社 中冨田町5 しばらく進み中冨田町に入ると少し先に2叉路があり東海道は右を直進する。少し先に神社。創建時期は不明で明治41年(1908)に和泉の川俣神社(和泉町213)に合祀されたが昭和23年に分祀され再興。祭神は大毘古命で天照大神、中臣神、須佐之男命、猿田毘古大神、玉依比売命を配祀。社殿は東海道と逆方向の鈴鹿川と安楽川が合流する「川の俣」を向く。鳥居左に大正15年(1926)灯籠。左横に大正3年田中音吉建立の道標2基が倒れたまま置かれている。1基は「右 西富田」「左 中冨田」の下に「道」、1基は「左」の下に「津賀」「ひろせ」「高神山」が並びその下に「道」。鳥居入って左には安政3年(1856)手水石。境内左に樹齢600年の大楠、「山神」碑。奥に石仏のコンクリート祠と昭和16年灯籠。 |
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{左}中冨田一里塚跡(103)&「従是西亀山領」傍示石 鳥居右に玉垣で囲われて平成13年建立「史蹟 中冨田一里塚跡」石柱、傍示石がある。鳥居左に一里塚説明板、右に平成13年建立の一里塚説明碑もある。一里塚も傍示石も本来は少し手前にあり享保3年(1803)刊行の東海道亀山宿分間絵図には傍示石の西に一里塚、高札場、川俣神社の順で描かれている。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右が榎1左榎3と記録されており言い伝えでは大きな榎がある大規模な塚だった。高札場の前には大名や公家を接待する御馳走場もあった。一里塚跡石柱の土台は昭和10年(1935)竣工の旧:和泉橋の親柱の1つで他の3つは西冨田の川俣神社境内、現在の和泉橋を渡った和泉町公民館前、極楽山観音堂跡にある。 |
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{右・寄}恵日山 清光寺 [真宗高田派] 中冨田町654 少し先の変形十字路の次の角を右折した正面。元禄年間(1688-1703)に教雲が開基した。嘉永7年(1854)の地震により本堂が倒壊し後に仮堂が建立された。民家のような敷地に本堂があるのみ。 |
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{右}富光山 常念寺 [天台真盛宗] 中冨田町649-2 少し先。承応年間(1652-54)智詮の開基で本尊は阿弥陀如来。元は村内の別の場所にあり嘉永7年(1854)地震により倒壊したため倒壊を免れた現在地の白浪山平建寺[高野山真言宗]を買収して移転した。平建寺の本尊だった延命地蔵尊は本堂左の地蔵堂に安置。山門入って左に明和6年(1769)「不許魚肉五辛入門内」「白浪山 平建寺」と刻まれた石柱。横の大正6年(1917)寺名石柱の側面にも「真言宗 白浪山 平建寺」とある。梵鐘は戦争で供出し鐘楼堂は昭和19年(1944)の地震で倒壊。境内左端の駐車スペース奥には昭和27年「麻生はつ屋敷跡」碑があり寄進された土地を示す。昭和48年誓吽の代に現本堂が新築され平成3年に地蔵堂と山門も新築された。鈴鹿郡88ヶ所霊場第81番。 |
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{右}金光山 福萬寺 [真宗高田派] 西冨田町622 しばらく行くとある。文永11年(1274)常照が創建し常照寺と称して別の宗派だったが寛文元年(1661)に改宗し福萬寺となった。明和8年(1771)洪水で流失し住職らも溺死したが1人生き残った弟子が再興した。門左に昭和27年(1952)の梵鐘がある鐘楼。他は本堂、庫裏のみ。少し先の変形十字路の右には大正3年(1914)田中音吉建立の「ひろせ道」道標がある。「ひろせ」は西冨田町の北にある現在の鈴鹿市広瀬町のことで奈良時代には伊勢国の国府があったとされ政庁跡などが平成4年からの発掘調査を経て平成14年に国史跡に指定されている。 |
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{左}川俣神社 西冨田町709 しばらく行くとある。創建時期は不明で中冨田町の川俣神社と同じく明治41年(1908)に和泉の川俣神社(和泉町213)に合祀されたが昭和23年に分祀され再興。祭神は多紀理毘売命で経津主命、武甕槌神、玉依毘売命など11柱を配祀。社殿は東海道と逆方向の鈴鹿川と安楽川が合流する「川の俣」を向く。鳥居前の灯籠は享和3年(1803)。境内右に昭和10年(1935)竣工の旧:和泉橋の親柱「いづみはし」、慶応2年(1866)常夜燈、「無上冷水井跡」石柱、「右 ひろせ」「左 はたけ」の下に「道」とある大正3年(1914)田中音吉道標。境内右奥の倉庫裏に「宮司邸跡」石柱、「き 道」とある破損した道標残骸。入口右の石垣上に「山神」碑、「庚申」碑などの石碑石塔4基、石垣下に緯度経度を刻んだ昭和55年石柱。 |
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{左・寄}和泉橋 すぐ先で安楽川に突当たる。江戸時代にはここに土橋が架かっており洪水で橋が流れると舟渡しだった。現在は渡る手段がないため左に見える昭和56年竣工の和泉橋で迂回する。橋の下にはベンチなどもあり河原はグランドになっている。安楽川は鈴鹿川の支流でこの橋から左(下流)500mほどで鈴鹿川に合流する。橋を渡って右折し川沿いを少し進むと斜め左に入る道が東海道の続き。入った少し先左には桜の木が2本あり向かい奥の和泉町公民館(和泉町7)の右前には昭和10年(1935)竣工の旧:和泉橋の親柱「いづみはし」がある。他の3つの親柱は中冨田一里塚跡、西冨田の川俣神社境内、極楽山観音堂跡に1つずつ分散して置かれている。公民館左には地蔵を安置するブロック製の祠もある。 |
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{右}野登(ののぼり)道標 しばらく行くと左後方から道が合流し少し先で右に分岐する道を挟んで2基の道標がある。手前の小さな角柱は大正3年(1914)田中音吉の建立で「右 のヽぼり道」、もう1基は江戸時代からある自然石で「右 のヽぼ」とあり「ぼ」の下半分から下が埋もれている。右折し安楽川沿いの道を6km上流に進むと野登(現:亀山市両尾町)に至りさらに北方にある野登山には延喜10年(910)醍醐天皇の勅命で中興され亀山藩の祈願所でもあった鶏足山野登寺[真言宗御室派](亀山市安坂山町2033-1)がある。野登へ行く途中の安楽川右には日本武尊が没した地とされる日本武尊能褒野墓と能褒野神社もある。東海道を少し先に進むと右にカーブする手前左には石造観音座像が安置された堂がある。 |
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{右}極楽山観音堂跡 しばらく行くと白いフェンスが張られている一段高い空地の奥に鬼瓦や瓦を使用した平成9年建立のモニュメントがある。古くからあった観音堂は永禄11年(1568)信長の伊勢侵攻で焼失。延宝5年(1677)各誉が建立し阿弥陀如来を安置した地福寺常念仏堂に元禄12年(1699)江戸の鈴木市朗衛門が西国33観音を寄進し観音堂とし宝永3年(1706)寂純が再建、天保8年(1837)情房が中興したが平成7年に老朽化のために取り壊した。モニュメント右横には昭和15年(1940)建立の戦死した地福寺33世の碑。手前右には明治13年(1880)7月13日陸軍大演習の際に休憩したと言う「明治天皇御小休所」碑、昭和10年竣工の旧:和泉橋の親柱「和泉橋」、戦没者碑がある。 |
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{右}極楽山 地福寺 [浄土宗] 小田町635-1 すぐ先で2叉路となり右に昭和30年(1955)常夜燈、平成4年設置説明板、石段がある。古くは七堂伽藍があり多くの修行僧、出家信者がいる寺だったが永禄11年(1568)信長の伊勢侵攻で焼失し寛永元年(1624)得誉が再興した。本尊は阿弥陀如来。石段登った右に「海抜三十七米」手書き標柱、境内入って左に手水石、昭和60年百度石、五立明神の小祠。境内右に本堂、庫裏。境内正面の毘沙門堂には毘沙門銅像(高さ160cm)や鎌倉時代作とされる青面金剛石像を安置。毘沙門堂左には地蔵、宝篋印塔、墓石群がある。寺宝として江戸初期の25菩薩像も所蔵する。鈴鹿郡88ヶ所霊場第42番。付近には「道心垣内」「中堂」、修行者の風呂のあった場所とされる「風呂の谷」など寺の関連地名がある。 |
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消滅した東海道 東海道は地福寺前の2叉路を左に進み坂を下ると県道641号線に出る。横断歩道はないがそのまま直進し県道と斜めに交差して反対側に続くのが東海道で手前の植え込み左には手書きの道案内がある。渡って住宅街をしばらく進むと突当りとなり鈴鹿市から亀山市井田川町に入る。東海道は本来はまっすぐ進みJR関西本線の線路の反対側に続くが道が消滅しているため右折して井田川踏切で線路を渡りすぐ左折し少し先で右へカーブするところで復帰する。右カーブして少し進むと突当りで右から来る先ほどの県道に合流し左折する。少し先右の細い路地の角にはコンクリート祠に安置された地蔵があるが風化し丸い石になっている。 |
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{右・寄}飯嶽山 海善寺 [曹洞宗] 亀山市井田川町69 地蔵がある路地を右折すると境内の右に出る。賢明萬懸の創建で西方の現:みどり町付近の飯嶽山、茶臼山に広大な敷地を持ち七堂伽藍を擁していたされるが永禄年間(1558-69)に信長の侵攻で焼失。明治45年(1912)皇太子(大正天皇)の茶臼山行幸時に道路整備した際に寺の遺物が発掘されている。寛永年間(1624-43)に卓門が再建し中興の祖となった。明治7年(1874)に焼失し明治9年に再建。本堂玄関の向拝部分は亀山藩家老・加藤家(西丸町545)の母屋の1部で明治初期に鈴鹿市南若松の伊坂家に売却されたもの。本堂左に石仏のコンクリート祠、堂、石経塔。鈴鹿郡88ヶ所霊場第41番。海善寺の名は付近の古い地名や永享7年(1434)頃に平田喜国が亀山に築いたと言う海善寺城にも見られる。 |
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{左}井田川駅 少し行くとある。JR関西本線の駅で昭和4年(1929)開業。無人駅で駅舎もなくホームと自転車置場のみがある。駅を中心とした井田川町と西隣のみどり町の1部は江戸時代は海善寺村と称していた。明治22年(1889)町村制施行時に海善寺村は井尻村、和田村、川合村、小田村、和泉村、西冨田村、中冨田村と合併し井尻の「井」和田、小田、西冨田、中冨田の「田」川合の「川」から鈴鹿郡井田川村となった。昭和29年(1954)亀山町などと合併し亀山市が誕生し旧:海善寺村一帯は亀山市井田川町となり2カ月後には境界変更で小田町、和泉町、西冨田町、中冨田町が亀山市から鈴鹿市に編入された。駅前右にある墓地には一本松があったが枯れたため平成14年に伐採された。 |
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{右}海善寺休憩所(井田川小学校跡) 少し先に旧:門柱の片方を利用した「旧井田川小学校跡」碑、二宮金次郎像、時計、ベンチ、「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」説明板があり時計支柱に「海善寺休憩所」とある。井田川小学校(みどり町52)は大正4年(1915)小田町(現:鈴鹿市)よりここに移転し昭和54年にみどり町に再移転した。跡地のほとんどは昭和61年からジプロ亀山商品センターになっている。「江戸の道」は亀山市が井田川町から小野町に至る約11kmの東海道を整備し名付けたもので案内板や休憩所などが設置されている。説明板には日本武尊能褒野墓の説明もある。墓は北西2.5km先にあり丁字塚と呼ばれていた4世紀頃の前方後円墳(全長90m高さ9m)で明治12年(1879)内務省により特定され現在も宮内庁が管理している。 |
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国道1号交差点 道なりにしばらく進むと国道1号に交差するが横断歩道がないため右の川合歩道橋で渡る。歩道橋の床面には蝋燭を背負った亀の絵のタイルが何枚かあり亀山市は蝋燭で有名なカメヤマの創業地として知られる。渡って少し先の十字路を左折するのが東海道。十字路には谷口法悦題目塔への方角を示す「法悦題目塔」標示もあり江戸時代にはこの角には高札があった。本来の東海道は国道1号に出たあたりで左に沿っている川を左折して渡り右折して川の左側を進み高札のところで左折していた。 |
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{右}廻向山 西信寺 [真宗高田派] 川合町119 左折した少し先にある。創建時期などは不明。市内に現存する樋田清砂家文書では延享元年(1744)の文書に寺名が確認でき文久2年(1862)の文書に現在地にあって山門、本堂、庫裏があったことが確認できる。入口左に平成6年寺名石柱、境内左の庭園に灯籠と手水石がある。他には本堂、庫裏のみ。 |
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{右・寄}三世山淨業院 正福寺 [浄土宗鎮西派] 川合町236 少し先の右に「川合町公民館 この奥」標示がある角を右折し公民館を過ぎると正面。永禄年間(1558-69)に魯念が開基した。本尊は阿弥陀如来。本堂前左に石仏が安置された小祠2つ。本堂左に石仏・墓石群。鈴鹿郡88ヶ所霊場第39番。しばらく進むと鈴鹿川の支流の椋川を昭和48年竣工の川合椋川橋で渡る。橋には歩道がないため左に歩行者専用橋がある。椋川は昔は時々氾濫していたが安永年間(1624-44)に亀山藩士・生田理左衛門が流路を改修し橋を架け替えたため橋は理左衛門橋と呼ばれていた。 |
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{右}谷口法悦題目塔(東海道刑場供養塔) 少し先で国道1号の高架をくぐりしばらく行くと左の川合消防庫向かいに高さ2.59mの題目塔、昭和61年「民俗資料 法悦の供養塔」白柱、平成16年設置の説明立札がある。法悦は本名は谷口長右衛門自栄、法号は妙信院法悦日隨で元禄年間(1688-1703)父の法春や母と共に東海道の刑場に題目塔を建立しておりそのうち1つ。左に「後百歳中廣宣流布」右に「天長地久国土安穏」とあり付近では「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼び昭和63年市指定文化財。谷口一族は他にも全国に題目塔を建立しており東海道には他に品川宿近くの大経寺、由比宿近くの讃徳寺、江尻宿近くの追分、二川宿の妙泉寺、関宿の西の追分、瀬田の妙真寺などに現存する。近畿では「谷口長四良」名のものもある。 |
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{左}和田の道標 その先のコンビストアーわたなべ(和田町780)が右にある交差点を渡り少し先の細道が交差する角に鉄枠で補強された高さ137cmの道標と平成3年説明立札がある。元禄3年(1690)度會益保による建立で市内にある最古の道標で昭和42年市指定文化財。江戸方面から見ると裏に「従是 神戸 白子 若松道」とあり左折すると神戸藩領の神戸城下、紀州藩領の白子、亀山藩領の若松へ向かった。東海道分間延絵図には「神戸城下町へ三里半、白子村へ三里、若松村へ三里三十四丁」とある。白子も若松も港町で若松港は亀山藩の藩米積出港だった。白子港は天明2年(1782)若松出身の大黒屋光太夫ら18名が紀州藩の年貢米を積み神昌丸で出港した地で遭難後ロシアに漂着し10年後に2名が帰国した。 |
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{左}シャングリさんの祠 少し先の県道28号線(旧:国道1号)に合流する手前の2叉路で右に入り少し行くと左から来る県道41号線に合流する。合流点右には「東海道」標識もある。合流点手前左のブロック塀内側には木製鳥居とコンクリート屋根に木扉の祠があり地元ではシャングリさん(サングリさん)と呼ばれている。通行人による悪疫から子供を守るために安置されたもので東海道分間延絵図には「叉具神」とある。祠左前には竿部分が折れ修復された慶応元年(1865)灯籠があり左にその灯籠の竿の古い残骸「丑 八月」や東の鈴鹿川対岸の現在の鈴鹿市国府町への道標の残骸「こふ」が転がっている。 |
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{左・寄}富修山 幸福寺 [真宗高田派] 和田町1560 道は緩やかな上り坂となり右の和田町公民館を過ぎた向かい角に「井尻道」道標があり左折した少し先左に寺がある。寺の創建時期などは不明。山門入ると木々が繁る境内で左に本堂、右奥に昭和38年(1963)の梵鐘がある鐘楼。山門入った右に墓石2基や戦没者碑がある。「井尻道」道標(高さ84cm)は大正3年(1914)田中音吉建立で寺よりさらに南のJR関西本線の線路の向こう側が現在の亀山市井尻町となる。 |
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{右}多宝山 福善寺 [天台真盛宗] 和田町1643 幸福寺入口の少し先。元は石山寺の寺坊として創建された。本尊は阿弥陀如来。入口右に平成3年建立の寺名碑。現在の堂宇は明和3年(1766)の再建。境内左に半浮彫の観音石像、明治28年(1895)半浮彫の地蔵、石塔群がある。鈴鹿郡88ヶ所霊場第37番。少し先へ進むと住宅街から抜け小さな川を渡ると桜並木となる。 |
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{右}那智山松寿院 石上寺(せきじょうじ)[高野山真言宗] 和田町1185 少し先の石垣上にある。延暦15年(796)熊野権現社に弘法大師が訪れ神宮寺として創建した。承平年間(931-38)朱雀天皇の勅願寺となり長徳3年(997)には尾張・津島神社の牛頭天王を勧請。建久3年(1192)頼朝から寺領社殿の寄進を受け2年後に将軍家祈願所となるなど大伽藍を有した。永禄年間(1567-69)信長の侵攻で殆どを焼失し正保元年(1644)に再興。正徳2年(1712)是幻が中興した。本尊は子安延命地蔵菩薩で本堂には釈迦三尊なども安置。本堂右の山門をくぐった左奥の聖天堂(客殿)には大聖歓喜天、不動明王などを安置。山門右には地蔵堂。境内に弘法大師銅像、水子地蔵。鈴鹿郡88ヶ所霊場第38番、三重四国88ヶ所霊場第26番、東海近畿地蔵霊場第5番、伊勢七福神の布袋尊。 |
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{右}熊野権現社 石上寺の本堂よりさらに石段を登った上にある。大和国布留郷(現:奈良県天理市)の紀真龍(きのまたつ)が石上神宮(天理市布留町384)の夢告によりこの地へ移住し那智山熊野権現(現:熊野那智大社)を勧請し延暦15年(796)に創建。和泉式部が訪れたとも伝わる。石段途中には元治2年(1865)「仁王護国般若経石塚」石柱。境内の灯籠は延享2年(1745)、狛犬は昭和60年。社殿右の小祠前の灯籠は宝暦10年(1760)。社殿右前に信徒会館、左前に昭和44年梵鐘がある鐘楼。鐘楼左より6地蔵が並ぶ道を社殿の裏に抜けると駐車場の向こうに近代的な建物の弥陀堂がある。寺・神社敷地には四国88ヶ所霊場の石仏の祠も点在。寺には昭和31年市指定文化財の鎌倉時代の熊野山大権現扁額も現存する。 |
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{右}和田一里塚(104) 少し先の坂を上りきった付近にある。平成5年に復元された塚で本来の位置は少し先で昭和59年までは1部が残っていたが道路拡幅により消滅した。野村一里塚とともに亀山藩の領内にある一里塚で慶長9年(1604)藩主・関一政が築造した。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも松少々と記録されており復元された現在は榎が植えられている。左前には平成13年設置の説明立札、右前には和田の道標と石山寺古文書の説明と地図が付いた「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」説明板もある。塚の奥は小公園になっており四阿、ベンチがある。道はこの付近は2車線だがしばらく進み栄町交差点で国道306号を渡った少し先で再び狭くなる。 |
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{左}カメヤマ 本社工場 栄町1504-1 栄町交差点からしばらく行くとある。伊勢神宮の宮大工の棟梁だった谷川兵三郎が引退後も神様につながる仕事をしたいと昭和2年(1927)に創業した谷川蝋燭製造所が前身。神仏用の蝋燭を製造し昭和12年跡を継いだ息子の正士が美術蝋燭の製造を始め海外へ輸出、昭和21年法人化し亀山蝋燭株式会社となり世界的企業となった。昭和52年亀山ローソク、昭和58年カメヤマローソク、平成5年カメヤマに社名変更。国内一のシェアで結婚式等のスパイラル型キャンドルもカメヤマが元祖。昭和62年から線香の製造も始め平成14年に本社を大阪市に移転し創業地の現在地は本社工場となった。 工場を過ぎる敷地隅のフェンス内には木製祠、向かいの民家庭に地蔵が安置されたブロック製小祠がある。
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