東海道ルートガイド
石薬師宿

{右}追分教会 [日蓮宗] 追分2-5-2
分岐して少し行くとある。昭和28年(1953)小川竜宣が創建。民家のような本堂の前に日蓮銅像、境内右には水子供碑の祠がある。少し先で近鉄内部線の線路を渡る。すぐ左には大正11年(1922)開業の追分駅がある。線路を渡ってすぐ先で2叉路となり東海道は洋風食堂モンヴェール(追分3-4-12)を右に見て左へ分岐する。
{右}追分まんじゅう岩嶋屋 追分3-4-5
少し先。菰野(現:三重郡菰野町)にあった天保8年(1837)創業の川北屋が起こりで明治になって廃業したが養女が嫁ぎ先の柴田家で明治中期に岩嶋屋(菰野町池底310)として再興し「うすかわ饅頭」の岩嶋屋(新々町3-7)などが分家独立しここは戦後にさらに分家独立した店舗。日永の追分では江戸時代から饅頭が名物で追分を描いた広重の行書版東海道には茶店・あたりやに「名物まんじゅう」の看板が描かれている。膝栗毛では弥次さんが追分の茶店・鍵屋で金比羅参りの男と饅頭の食べ比べをして騙された。追分の茶店は全て途絶えたため当時の饅頭の詳細は不明で岩嶋屋の追分まんじゅう(1個105円)は江戸時代の川北屋から受け継がれてきた酒素を使った酒饅頭となっている。8時-19時、無休。
{右}米田山 大蓮寺 [真宗高田派] 小古曽2-25-2
しばらく道なりに住宅街の細い道を進んで行くとある。小古曽にあって中世まで大伽藍を誇ったと伝わる真言宗の米田山法鎮寺の弟子の真蓮阿闍梨が現在地より北方に建立した大蓮寺が起こり。長禄年間(1457-60)に高田派10世真慧より恵心僧都真筆の阿弥陀尊像一幅を賜り改宗し寛正元年(1460)清順が現在地に移して再開基した。本尊は高さ1尺5寸(45cm)の阿弥陀如来立像で文化10年(1813)に諸堂を再建した9世順察の記録には快慶作と記されている。昭和32年寺名石柱の後ろには「三部妙典経石碑」丸石柱。山門入って左に昭和23年の梵鐘がある鐘楼。境内左に経石碑、その前に大正14年(1925)灯籠。本堂前の灯籠は昭和15年(1940)。境内右の庫裏前の庭園には平成元年などの灯籠。
{右}慈現山 観音寺 [黄檗宗] 小古曽2-25-5
少し先。創建は不明で信長の侵攻で焼失し後に再興し黄檗宗となった。本尊は村人により焼失を逃れ保存されてた千手観音像で頭と胴は11世紀頃作とされ養蚕観音とも呼ばれる。元文2年(1737)仏殿、庫裡、方丈が四日市湊の廻船問屋・森本長八忠雅の寄進で建立された。森本家の先祖は松阪市嬉野の嬉野城主で滝川一益に城を追われ廻船問屋となり本能寺の変では堺から三河に帰る家康を知多へ渡し手助けした。街道沿いの門柱から入り右折すると左に寛政12年(1800)築の山門。四脚門方式で屋根の両端に黄檗宗特有の魔除けの動物・マカラ(摩伽羅)がある。山門入って左に鐘楼堂。現在の本堂は文化3年(1806)築とされる。本堂前の灯籠は昭和12年(1937)。境内左に「不許葷酒入山門」石柱。
{右・寄}小古曽神社(小許曽神社) 小古曽2-28-2
すぐ隣に神社名石柱「小許曽神社」があり右折して観音寺の塀に沿って行くと正面が境内入口で左に神社名石柱「小古曽神社」がある。創建時期は不明だが延喜式神名帳に記載されている古社で江戸時代は五社神明と称した。小許曽神社は同じ小古曽村にあった別の神社で明治末期に合祀した。祭神は天宇受売命、大日霊貴尊、布刀玉命、豊宇気毘売神ほか。社殿左に白龍大神の祠、右に「愛宕大権現」石碑、その後ろに川原崎社、鈴森社、八幡社、米田社の「御舊蹟」石柱が並ぶ。境内左に橿原神宮遥拝所、右手前に明治神宮遥拝所。境内左奥に明治41年(1908)表忠碑、昭和36年「平和之礎」碑があり左に寛政9年(1797)などの「庚申」碑6基。その左に地蔵の祠。参道左右は広場と児童公園。
{左}大治田・追分道標
少し先の右に手羽の極(小古曽2-22-2)がある十字路のカーブミラー横にある。服部泰次郎の建立で「右 大治田」「左 追分」とあり高さ55cm。左折し近鉄内部線の小古曽駅や国道1号、伊勢参宮道を越えると大治田に通じる。道標横の電柱には「東海道」の矢印標識もあり東海道はこの十字路で右折し100m先を左にカーブするようになっている。中世に大伽藍を擁し源平の兵火で焼失した米田山法鎮寺の跡地を周り込むためこのような道筋になったとされ周辺からは弥生時代から中世にかけての土器、陶器、陶磁器、古銭、瓦、五輪塔、木製品なども大量に発掘されており米田遺跡と呼ばれている。
{右}米田山 願誓寺 [真宗高田派] 小古曽2-21-6
道標を右折し次に左にカーブする正面にある。 小古曽にあって中世まで大伽藍を誇ったと伝わる真言宗の米田山法鎮寺の弟子の法柳が養和元年(1181)現在地に創建した願誓寺が起こり。長禄年間(1457-60)に高田派10世真慧に帰依し改宗した。本尊の阿弥陀如来は法鎮寺の本尊だったとされ聖徳太子の作とされるが顔は後に補修されている。寺の建物は10世義道の頃に焼失したがすぐに再建され寛政4年(1792)築とされる現在の本堂と庫裡はこの時のものとされる。彫刻の才も優れた義道が刻んだ仏像も所蔵しており山門前右には義道による寺の由来を刻んだ天保7年(1836)建立石碑もある。山門前左には「本尊 聖徳皇太子御作」碑。山門入って左に鐘楼がある。
小古曽三丁目交差点
カーブを左折してしばらく進むと小古曽三丁目交差点で東海道は県道407号線(旧:国道1号)とX状に交差しており東海道は渡ってまっすぐ進む。交差手前右に距離付「東海道」標示板がある。渡らずに左に少し行くと左に近鉄内部線の終点の内部(うつべ)駅。渡った左の三角地には平成13年建立「東海道」茶石柱もある。少し進むと采女(うねめ)町で采女とは天皇に仕えた給仕などをする女官のこと。5世紀ごろ雄略天皇に仕えていた采女が天皇を怒らせてしまったが見事な歌を詠んだため許され褒美も与えられさらに女の出身地のこの地の地名が「采女」と呼ばれることになったと伝わる。
内部川
しばらく行くと内部川に突き当たる。江戸時代にはここに橋があったとされるが現在はないため50m下流の国道1号に架かる内部橋で迂回する。内部川は鈴鹿山脈の水沢谷を水源とし四日市市南部を通って伊勢湾に注ぐ。万葉集9巻収録の伊保麻呂(いほまろ)の歌「わが畳 三重の河原の 磯のうらに 斯くしもがもと 鳴くかはづかも」、伊勢名所和歌集成収録の雄興の歌「わがたたみ 三重の河原の 松のえに ほのかににほふ 朝彦のかげ」や貞元の歌「冠の 峯のふぶきや 寒からん 三重の河原に 千鳥鳴くなり」などの「三重の河原」は内部川のこととされる。川を渡った付近の東海道は少しの間消滅している。
平成内部の一里塚
内部橋を渡った右の土手下にある小公園。県が平成9年に東海道を行き交う歩行者やドライバーの目印にもなるポケットパークとして整備したもので江戸時代の一里塚とは関係ない。公園内には四阿、ベンチ、内部川の説明立札、平成20年設置の杖衝坂周辺の東海道案内図がある。公園前の道から国道1号をトンネルでくぐりすぐ右の石段を上がり歩行者専用橋で小さな川を渡りマックスバリュ釆女店(釆女町1865-1)の駐車場に沿って少し進むとある左に入る道が東海道の続きとなる。
{右・寄}米田山 成満寺 [真宗高田派] 釆女町2014
しばらく進み少し上り坂になった角を右折していくと正面。永承2年(1047)真言宗の長生寺として創建。采女城主・後藤藤勝が高田派10世真慧の弟子だった専察を迎え改宗し自分の法名:成満から米田山成満寺と改称し後藤家の菩提寺とした。本尊は阿弥陀如来。永録11年(1568)信長配下の滝川一益が采女城を攻め落城とともに寺も焼失。降伏し信長の配下となった藤勝は元亀3年(1572)戦死したが寺は後に再興された。昭和51年にも焼失し昭和57年再建。明治2年(1869)から旧:真観寺の本尊の大日如来も移されていたがこの時焼失した。山門入って左に昭和23年(1948)の梵鐘がある鐘楼。境内左の小さな手水石は宝暦13年(1763)。本堂前灯籠は昭和11年
{右}うつべ町かど博物館 采女町2030
寺入口の少し先にある。内部地区市民センター(采女町857-1)が計画した地域文化と歴史の保護・継承事業として平成19年に開館。ボランティア組織「うつべ町かど博物館運営委員会」により運営されている。建物は民家の提供を受けたもので3室計50平方mに「古代の歴史と文化」「中・近世の歴史と文化」「明治・大正と激動の昭和の文化」の3つをテーマに地区内の遺跡から出土した縄文土器や須恵器、各家庭に呼びかけ提供してもらった民具など500点を展示している。開館は水土日祝のみ、9時-12時、無料。東海道はその先でT字路に突当り右折し少し左の永辻屋酒店(釆女町1862)手前の十字路を左折する。十字路左の電柱には「杖衝坂」の矢印標示があり杖衝坂に向かう。
{右}金刀比羅宮
少し先で小さな川を渡ると道路がアスファルトからすべり止め対策のコンクリート舗装された上り坂となり少し先で左にカーブする突当たりに金刀比羅宮がある。社殿は石段上にあり右の神社名石柱は昭和17年(1942)左の手水石は明治20年(1887)。本殿の灯籠は昭和16年。東海道は坂をそのまま上り道なりに右カーブする。杖衝坂は杖突坂とも書き東国平定から戻った日本武尊が伊吹山で神の攻撃を受け病身となり大和へ帰る際にこの坂を腰の剣を杖にして上ったのが由来。この時に「我が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」と言ったのが県名の「三重」の語源とされる。
{左}杖衝坂石柱・2つの井戸跡
坂のちょうど中間あたりの石垣の上に昭和4年(1929)建立「史蹟 杖衝坂」石柱がありその先に大日の井戸、弘法の井戸がある。坂は大正末期頃まで急坂で自動車も登り切れず坂下の民家の牛を借りて引かせたという話も伝わり昭和初期に横にゆるやかな道(現:国道1号)が通された。大日の井戸は坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水を汲み上げた井戸とされ弘法の井戸は水に困っている村人に弘法大師が杖で指し示した場所に湧き出た井戸と伝わる。井戸は現在は両方とも鉄の蓋がされており2つの井戸の間には「永代常夜燈」と刻まれた石柱の上に切妻屋根の木製火袋が乗った文化8年(1811)常夜燈もある。井戸の近くには戦前まで大きな松2本もあった。
{左}芭蕉句碑
2つの井戸の間の常夜燈の隣に屋根付きであり前の箱には資料が置いてある。右には昭和51年建立の説明碑、杖衝坂と井戸の説明立札もある。碑には貞享4年(1687)芭蕉が江戸から伊賀に帰る途中にこの坂で鞍とともに落馬したことを詠んだ句「歩行ならば 杖つき坂を 落馬かな」が刻まれている。「笈の小文」に収録されており季語がない句でも有名でこの句により杖衝坂が有名になった。碑は宝暦6年(1756)村田鵤州(かくしゅう)が坂の中ほどに建立し明治初期に坂の下の永田精一郎宅の庭に移されたが現所有者の斉藤沢一郎により昭和51年に現在地に移された。碑の側面から裏面にかけては鵤州による句を解釈した撰文と句「花に雪に こころの杖の 道しるべ」も刻まれている。
{左}血塚社
少し左カーブして杖衝坂を上りきるとコンクリート舗装も終わり集落となる。少し先で右カーブし左の黒塗りの古い家の先の石垣上に「血塚社」扁額が架かった白い鳥居がある。日本武尊が出血した足を洗い止血した後に血で染まった石を埋めた場所と伝わる。石段を登り鳥居をくぐると左右に明治4年(1871)灯籠、左の平成19年築の手水舎の下に文政3年(1820)手水石。さらに石段を登ると小祠2つと「山神」石碑、奥に大正2年(1913)建立「日本武尊御血塚」石柱がある。石柱左奥には1本の大木と手前には大きな切株もある。江戸時代には前に名物の饅頭屋があった。脇を杖衝川が流れていたという。近年まで大日堂もあった。少し進むと左の民家の玄関には浮彫の役行者石像がある。 
{右}采女(うねめ)一里塚跡(101)
道なりに進んで行くと途中で右側の民家がなくなり視界が開けブランコなどがある小公園となる。国道1号が右下に沿うようになり国道反対側の一号線ゴルフ練習場(釆女町1830)の向こうには滋賀県、岐阜県、三重県の境に位置する鈴鹿山脈が見える。そのまま進むと東海道は上ってきた国道1号と合流する。本来の東海道は少し手前で合流していた。少し国道を進むと右の出光丸栄石油采女SS(釆女町3207-1)とマルエイ四日市支店(采女町3210-12)の間に昭和62年建立の「史蹟 采女一里塚跡」碑がある。国道拡幅により本来の跡地が消滅したためマルエイ社長・澤田栄治の協力でここに再建された。元禄3年(1690)東海道分間絵図には両塚とも榎はなく右塚には松3本、左塚に松4本と記録されている。
{左}豊富稲荷神社 釆女町3267-3
少し先にある。昭和9年(1934)朱塗の石鳥居の扁額には「豊富明神」その手前右にある明治18年(1885)神社名石柱には「豊富神社」とある。寛治2年(1088)に京都の伏見稲荷大社を勧請して杖衝坂の上に創建され杖突稲荷大明神と呼ばれていた。祭神は宇迦之御魂神、菅原道真、平景清。境内には灯籠、手水石。社殿は東海道と反対側を向いて建てられている。神社近くには参勤交代で通行する大名行列を庶民が土下座をして迎える「土下座場」と呼ばれる石畳があったが国道1号の拡幅工事で消滅した。少し進むと左歩道が車道とともに100mほどふくらんだ旧道の名残があり中ほどで左へ鈴鹿市街へ通じる県道8号線が分岐している。
{右}地蔵堂
再び国道沿いに戻ってしばらく歩いて行くと国分町交差点手前で東海道は国道から左へ分岐し鈴鹿市に入る。分岐して少し先に2つの地蔵堂がある。左には地蔵立像と脇仏、右には延命地蔵が安置されている。2つの堂の左には天保12年(1841)六字名号碑もある。道なりに住宅街を進み右にカーブして坂を下ると木田町大谷交差点で国道1号に出る。本来の東海道は右にカーブせず交差点左のスーパーオークワ鈴鹿木田店(木田町1059-3)の駐車場付近を通り国道左に沿っていく道筋だったが消滅しているため下り坂途中の右から国道に出るとある地下道で国道を横断し国道の右側歩道を進み石薬師町北交差点と浪瀬川を渡り少し先で国道1号から右に分岐する。川を渡った付近から石薬師宿となる。
石薬師宿   本陣3脇本陣0旅籠15家数241人口991[天保14年(1843)]
東海道成立当初は宿場ではなかったが四日市宿と亀山宿間が5里半(21.6km)あったため元和2年(1616)に宿場となった。農村の高富村の33軒に南隣の上野村を合わせ近隣からも移住を募り180軒余りとし石薬師寺があることから宿場名は石薬師宿、村名も石薬師村となった。元は現在地よりも少し先にあり後に鈴鹿川の水害を避けるため移転した。宿泊客は少なく苦しい宿経営で弘化2年(1845)の記録でも全戸数の7割が農家とある。佐々木信綱生家があり信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因み昭和63年から地区をあげて卯の花の里づくりに取り組んでおり民家や道端などに卯の花が植えられている。
{左}信綱かるた道起点
分岐して少し先に説明板がある。かるた道は平成17年に信綱の短歌から50首を選んで佐佐木信綱顕彰会が作成した信綱かるたの中から28首を翌年ベニア板で街道に掲示したのが起こり。平成19年に36首に増やし十宮町在住の烙描画家・辻善衛の揮毫で関連の絵も描かれたアルミ製立札(横40cm縦60cm)に一新しここから石薬師一里塚跡までの東海道に設置された。説明板右には石薬師小学校(石薬師町1713)の旧門柱を流用した平成17年建立「東海道 石薬師宿」石柱、1枚目の立札「四日市(よかいち)の 時雨蛤(しぐれ)日永の 長餅の 家土産(いえづと)まつと 父は待ちにき」、全設置場所地図の配布箱、「歴史と文化のまち 石薬師」地図付案内板、付近の東海道案内図がある。
{左}北町の地蔵堂
すぐ先にある。江戸時代に旅の安全を願い宿場入口に建立されたとされる。堂は京側を向いて建てられており堂内には石造延命地蔵が安置されている。堂の右前に手水石と灯籠1基。境内にはベンチもある。道はここからゆるやかな上り坂となる。
{右・寄}大木神社 鈴鹿市石薬師町2127-3
しばらく行くと東海道沿いに鳥居と神社名石柱がある。鳥居をくぐって正面の赤鳥居は境内社の玉幸稲荷のもので赤鳥居右の大きな忠魂碑を挟んだ右が大木神社の参道。創建は不明だが延喜式記載の古社で元は別の場所にあり寛永年間(1624-44)に現在地に移転。主祭神は天照大神で他に須佐之男命、天児屋根命、大国主命、日本武尊など9柱。境内左に神宮遥拝所、右に宮城遥拝所、玉幸稲荷、山の神社。参道右に塞ノ神社。広さ1haの敷地には椎の巨木が群生しており昭和54年指定市天然記念物。忠魂碑右前に佐々木信綱が神社に詣でた際に詠んだ歌2首の昭和57年建立の歌碑、丸ポスト。向かいに大正3年(1914)までに近隣の70以上の木橋、土橋を石橋に架替えた川上元助の頌徳碑もある。
{右}小沢(小澤)本陣跡
先に進むと左の民家の塀に「東海道 石薬師宿」、広重の石薬師の絵、江戸時代の軒並図の陶板や信綱かるた道10枚目があり少し先右の鈴鹿警察署石薬師警察官駐在所(石薬師町1624)を過ぎると連子格子の民家前に平成2年建立「小沢本陣阯」石柱がある。天正6年(1578)信長により落城した萱生城城主・春日部実勝の4男の実義が初代小澤宗右衛門(惣右衛門)を名乗り宿場開設時に本陣となった。建坪は182坪半(603平方m)で玄関門構付。周りに松が多く「松本陣」とも呼ばれた。江戸中期の国学者で「伊勢譜」「三国地誌」などを著した萱生由章は5代秀実の子。格子の建物は明治初期の築で当時はもう少し大きかったと言い現在も子孫が住む。格子には説明板、信綱かるた道12枚目も掲げてある。
{右}旧小沢本陣跡休憩所
格子の建物の隣。平成19年に老朽化した建物の1部を壊し新築した木造平屋建の無料休憩所。和室2部屋と洋室1部屋に本陣家の資料も展示しており3代将軍家光から拝領の掛軸、加賀藩主から拝領の九谷焼の食器などがある。本陣を利用した歴代大名の宿帳も現存し14代将軍家茂、赤穂藩主浅野内匠頭、伊勢山田奉行だった頃の大岡越前の宿泊記録がある。塀の前には平成18年設置説明板もある。石薬師宿は脇本陣はなく小沢本陣を主本陣とし建坪197坪(651平方m)の岡田市左衛門と建坪229坪(757平方m)の園田(薗田)庄兵衛の2軒が相本陣をつとめ共に玄関門構付で少し先の石薬師文庫付近に並んであった。小沢本陣の少し先向かいには園田(薗田)庄八郎がつとめていた問屋場もあった。
{右}天野記念館
本陣跡休憩所から1軒挟んだ先にある公民館で前に平成18年設置説明板がある。明治23年(1890)石薬師村で生まれた発明家でアマノの創業者・天野修一が故郷のために昭和39年建てて寄贈した。平成12年に改修。玄関前左に昭和39年建立の修一揮毫の「天野記念館」石碑もある。修一は大正元年(1911)23才の時に垣内清八が前年に発明した「自動紙綴器」(ホッチキス)よりも小型の「A式綴紙器」を発明し初めて特許を取得。昭和6年(1931)日本初の電気式時刻記録機(タイムレコーダー)と気象用計器の製造を目的として東京蒲田に天野製作所を設立。戦後は世界にも進出してタイムレコーダーの大手メーカーに育て昭和51年86歳で没した。鈴鹿市には遺族により設立された天野奨学金制度もある。
{右}石薬師文庫
隣の石薬師小学校(石薬師町1713)入口を過ぎるとある。赤屋根のコンクリート平屋で裏には土蔵(書庫)もある。佐佐木信綱が昭和7年(1932)還暦のとき国学に関する蔵書と共に村に寄贈した。開所式には元:宮内大臣・田中光顕伯爵や県知事・広瀬久忠も参列した。信綱が寄贈に際し詠んだの昭和40年建立歌碑が建物右にある。その前右に石薬師村道路元標と信綱の父「佐々木弘綱翁應居之碑」。建物の左前に信綱の歌と孫の幸綱の歌を並び刻んだ四角石碑、「距津市元標へ九里四町十七間」石柱、信綱かるた道17枚目がある。前庭には卯の花、弘綱と信綱の号「竹柏園」に因み竹柏(なぎ)も植えられている。建物は現在は主に児童向けの図書館となっている。開館は土曜13時-16時のみ。
{右}佐佐木信綱生家
文庫隣の連子格子の2階の木造家屋。信綱は江戸末期の国学者・弘綱を父として明治5年(1872)この家で生まれ明治10年一家で松坂に移住する6歳まで過ごした。父の教えで5歳の時には既に歌を詠んだと言う。建物は和泉町の藤田家に売却され移築されたが昭和45年に市に寄贈され現在地に戻されて記念館となった。現在は文庫、土蔵、生家、資料館を合わせ佐佐木信綱記念館と呼ぶ。裏庭には産湯の井戸もある。信綱は明治15年から東京に住んだが明治29年25歳の時「卯の花の匂う垣根に〜」で始まる唱歌「夏は来ぬ」を作詞。生家の庭の卯の花を思い出し作詞したとされる。門前左には孫の幸綱揮毫による生誕130年の平成14年建立の信綱の歌碑もある。生家の見学は資料館で受付する。
{右}佐佐木信綱資料館 石薬師町1707-3
生家の隣。昭和45年から生家を記念館として遺愛品、著書などを展示していたがより多くの展示と保管・保存ができる施設として昭和61年に建てられた。書簡、御下賜品、昭和12年(1937)受賞した第1回文化勲章、「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」歌集「おもい草」「山と水と」などの著書、原稿、作歌など2千点を展示、保管する。2階建だが展示室は1階のみ。建物の左前には卯の花や「佐佐木信綱と卯の花の里」と題した石薬師宿の説明板もある。無料。9:00-16:30。月、第3火休。信綱は昭和19年から静岡県熱海市の凌寒荘(西山町12-18)に住み昭和38年92歳で没。名字は元々は佐々木で明治36年(1903)上海旅行の際に名刺に「々」が印刷できなかったため佐佐木を用いるようになった。
{左}浄福寺 [真宗高田派] 石薬師町1840
道は下り坂となり少し先の交差点を渡った少し先にある。永正年間(1504-20)の創建とされ本尊は阿弥陀如来。山門入って左に鐘楼がありあとは本堂のみ。寺に隣接して石薬師保育園(石薬師町1735-1)があり山門の塀にも看板がある。江戸時代から学者であった佐々木家の菩提寺であり山門前左には信綱の父である弘綱の歌「わかの浦に 老いを屋しなふ 阿し堂徒盤 雲の宇辺越も よそに見類か薙」が刻まれた明治41年(1908)建立の大きな「佐々木弘綱翁記念碑」がある。横には信綱かるた道18枚目もある。弘綱は明治15年(1882)東京大学文科大学(現:文学部)附属古典講習科講師となり佐々木家は東京に移住したため弘綱、信綱や佐佐木家の墓は都営谷中霊園(台東区谷中7-5-24)にある。
{右}田中音吉の道標
少し先左に南町橋の親柱2基がありその向かいの角にある。「上田 加佐登」とあり田中音吉が大正3年(1914)に建立した。現在の鈴鹿市上田町と鈴鹿市加佐登への道標。音吉は亀山宿西町に嘉永6年(1853)に生まれ父の営む牛馬仲買商を継ぐ傍ら米穀製茶の仲買もした。30歳頃より生繭仲買業も開始し生糸の将来性に着目し明治20年(1887)に田中製糸場を設立し明治44年(1911)には亀山製絲(現:亀山市東御幸町130)となった。小学校の奨学金や道路改修など地域にも貢献し大正3年に現在の亀山市、鈴鹿市などの道路分岐点に高さ60cm程の花崗岩の道標を多数建立し大正5年没。大正7年には夫人の田中はるも現在の鈴鹿市、津市などに道標を建立している。
瑠璃光橋
しばらく進むと右に「東海道 石薬師宿」の陶板が置かれた民家がありやがて街道はやや上り坂になりしばらく行くと国道1号を瑠璃光橋で渡る。橋の手前左に信綱かるた道27枚目。橋は薄青の欄干で金色の擬宝珠がある。橋を渡ると右に「高富山 石薬師寺」「2001年東海道 街道400年祭 石薬師宿」と書かれた大きな標識、信綱かるた道28枚目があり右に少し入ると石薬師寺の裏門がある。裏門から入ると石段を降り本堂の左に通じる。
{右}高富山 瑠璃光院 石薬師寺 [真言宗] 石薬師町1
橋を渡ってそのまま進み右にカーブしながら坂を下ると正門。神亀3年(726)泰澄がこの地で霊感を得て堂を建て薬師如来を祀ったのが起こり。本尊は弘仁3年(812)弘法大師が自然石に線刻したと言う薬師如来(高さ190cm)で昭和59年市指定文化財。元は西福寺と称し嵯峨天皇の勅願所として塔頭12寺院、寺域1万坪(3.3ha)まで発展したが天正3年(1575)信長により全焼。住職・円賢がすぐに仮堂を建て焼失を逃れた本尊を安置し慶長6年(1601)から神戸城主・一柳直盛が再建。元和2年(1616)石薬師寺に改称。総檜造の本堂(薬師堂)は寛永6年(1629)築とされ市内最古の寺院建築で寛政元年(1789)と寛政6年の棟札と共に平成19年県指定文化財。西国49薬師霊場第33番。鈴鹿郡88ヶ所霊場第88番。
{右}西行歌碑(石薬師寺歌碑)
正門から入って右折した参道右に梅の木の下にある。西行歌碑「柴の庵に よるよる梅の匂い 手やさしき方も ある住いかな」。他にも境内には参道右に佐佐木信綱が昭和7年(1932)に詠んだ「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも」の平成17年建立の歌碑、昭和55年建立森白象句碑、参道左に平成元年建立芭蕉句碑もある。参道右の鐘楼の付近には一休歌碑。本堂右の身代わり不動の手前に森白象句碑がある。参道中央に昭和55年百度石。参道には灯籠が並び狛犬もある。本堂右には弘法大師銅像、石仏の祠などが並ぶ。本堂前左に広重の絵、本堂左に石仏の祠。本堂左後ろに天満宮、正門に近い参道左には延命子安地蔵と鈴鹿七福神の恵比寿を安置する地蔵堂がある。
{左・寄}蒲冠者範頼之社(御曹子社・御曹司社)
石薬師寺正門向かいに昭和5年(1930)「蒲冠者範頼之社」神社名石柱があり左折して東海道から離れ少し行くと左にある。頼朝の弟で義経の兄である源範頼を祀った神社。範頼は源義朝の第6子で遠江国池田宿の遊女を母として遠江国蒲御厨で生れたことから蒲冠者あるいは蒲御曹司と呼ばれた。寿永3年(1184)平家追討のため西へ向かう途中に石薬師寺で武運を祈願したと伝わる。武道、学問に優れており武道、学問の神とされ昔は弓矢を奉納し文武の向上を祈願する風習があった。鳥居は昭和14年と昭和6年。鳥居左に昭和36年「蒲冠者範頼之社」神社名石柱。鳥居右には椎の巨木、明治35年(1902)手水石、神馬舎がある。境内右に昭和16年宮城遥拝所。本殿前灯籠は昭和56年。
{左・寄}石薬師の蒲桜 上野町68
神社正面の道を南に進み少し先右。源範頼が寿永3年(1184)石薬師寺で武運を祈願した際に鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに刺して「我が願い叶いなば、汝、地に生きよ」と言って去りそれが後に根付いたものとされ「逆さ桜」とも呼ばれる。3株が昭和14年(1939)県指定天然記念物。いずれも株元から幹が数本に分かれ樹高5m程。ヤマザクラの1変種であり赤茶芽で白色から淡紅色の一重の五弁の花(直径5cm)が特徴。木の周辺には「石薬師の蒲桜」石柱、昭和51年建立の佐佐木信綱歌碑「ますらをの 其名とゞむる 蒲ざくら 更にかをらむ 八千年の春に」、小祠、平成14年設置説明板、古い石碑がある。埼玉県北本市の東光寺(石戸宿3-119)にも国天然記念物「石戸の蒲桜」があり同じく範頼伝説がある。
{左}石薬師一里塚跡(102) 上野町83
石薬師寺前から緩やかな下り坂をしばらく進むと2叉路となる。東海道は左のまっすぐ進む方だが現在は少し先で蒲川に突当り行止まりとなっているため右の上り坂を行く。江戸時代には蒲川の東海道には土橋の蒲川橋がかかっていた。坂を上り昭和43年竣工の現在の蒲川橋を渡るとすぐ左に昭和57年常夜燈、平成4年設置の説明板、「史蹟 石薬師の一里塚阯」石柱がある。昭和12年(1937)県指定史跡。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右に榎3本、左に榎2本と記録されている。榎は昭和34年の伊勢湾台風で倒れたと言う。向かいには信綱かるた道起点と同様に平成17年「東海道 石薬師宿」石柱、信綱かるた道説明板と36枚目の立札、「歴史と文化のまち 石薬師」地図付案内板もある。
消滅した東海道
東海道はそのまま直進し途中で舗装道から左に分岐し農道を進みJR関西本線の線路に突当るがここで行止まりとなる。線路の反対側は田圃となっており東海道は消滅している。この辺りは戦前までは松並木だった。迂回するには石薬師一里塚跡がある十字路を左折しガードをくぐって線路の反対側に出て線路沿いの道を進む。道なりに左カーブし国道1号に沿って少し進み右折し国道をガードでくぐるあたりで東海道に一時復帰するがくぐってすぐに直進できずまた消滅。左折してすぐ右折して椎山川を左に見て進み少し先で左折し橋を渡った付近で東海道に復帰する。少し先で県道27号線の高架をくぐり道なりにしばらく進むとサンケイ(上野町48)手前で国道1号に合流しこの先は1.3kmほど国道を進む。