東海道ルートガイド
亀山宿

{右}能褒野神社鳥居(二之鳥居)
少し行くとある。大正15年(1926)建立の石鳥居で亀山方面から能褒野神社(田村町1409)に向かう二之鳥居。神社は右折し3.5km先で日本武尊能褒野墓に隣接し明治16年(1883)に創建が決まり明治28年に造営完了した。祭神は日本武尊で明治41年(1908)妻の弟橘姫命、子の建貝児王を配祀し近隣の40社以上も合祀された。鳥居右側には平成15年設置の屋号札の掲示についての説明立札と手書き「従是西亀山宿」木札もある。足元には石柱が埋もれており「是ヨリ北」の文字のみ見える。一之鳥居も大正15年に亀山駅と亀山城跡の間の道路に建立されたが道路拡張工事のため現在は駅前ロータリーに移設されている。
亀山宿   本陣1脇本陣1旅籠21家数567人口1549[天保14年(1843)]
鎌倉時代より亀山城の城下集落があり江戸時代に宿場となったが宿場は幕府、城下町は亀山藩の管轄という面倒な宿場だったため参勤交代の大名は宿泊を避けたと言い石薬師宿や庄野宿と同じく伊勢神宮へ向かう道からも外れていることから旅籠も21と小規模だった。商家が多く江戸後期から北勢地域一帯で栽培された伊勢茶の流通拠点でもあった。宿内は2.5kmあり東町と西町の2町に大きく分かれ更に細かく9町に分かれていた。通りには平成13年より亀山市歴史博物館(若山町7-30)所蔵の文久3年(1863)宿内軒別書上帳を参考に屋号札を掲示したり舗装のカラーリングなどの整備が行われている。
{右}露心庵(友松庵)跡
すぐ先の東海通信サービス先に平成15年設置の説明立札がある。天正12年(1584)神戸城主・神戸正武(林与五郎)が亀山城を急襲し城主・関一政は不在だったが隠居した父の関盛信(万鉄)がわずか13騎で撃退し戦死者をこの付近に2つの塚を築き葬った。関氏の子孫の桑名藩士で善導寺で仏門に入った露心は慶安4年(1651)から寛文9年(1669)の間に古戦場跡で松林だったこの地に友松庵と言う寺を建立し戦死者の供養をした。寺は後に露心庵とも呼ばれていたが明治になって廃寺となった。
{左}巡見道分岐
しばらく行くとある交差点で右に巡見道が分岐する。江戸時代にこの道を巡見使が通ったことに由来し菰野を経て濃州道に出て伊勢国を通過し中山道に入ったと言う。巡見使は家康が考案した諸国見廻り役派遣を寛永10年(1633)3代家光が慶長日本図の校訂を理由に実施したのが最初とされ寛文7年(1867)4代家綱が諸藩の政情、民情などの査察する諸国巡見使として制度化した。以降は幼少で死去した7代家継を除き12代家慶まで新将軍が就任する度に派遣された。諸藩(大名知行地)を見回る諸国巡見使の他に天領や旗本知行地を見廻る御料巡見使もあった。交差点手前左にある小公園の本町広場内には平成16年設置の「巡見道」説明立札、ベンチ、「かごめ」などの童謡をプリントした石柱もある。
{右}衣城しもむら 本町3-12-3
交差点を渡りしばらく進み旧:茶屋町から旧:鍋町に入るとある。大正初期に初代が料理屋の土地を買取り創業したと言う呉服店。天守閣風の5階建の建物は昭和52年に4千万円(当時)をかけて造った。敷地前には「鍋町さかなや跡」の屋号立札もある。東海道は少し先で緩やかに左にカーブして行く。
{左}江戸口門跡
右に第三銀行亀山支店(東町2-2-8)がある交差点で広い道に出ると角に平成15年に設置された説明板がある。藩主・板倉重常が城下への出入口として前年の京口門に続き延宝元年(1673)に築いた。東西120m南北70mの敷地を土塁で囲んだ曲輪で北側と東側は堀があり橋を渡って曲輪に入った。曲輪内は3つの区画に分かれ枡形の経路で区画間の冠木門と棟門を通過するとその先に番所があって監視役の役人が詰めていた。曲輪の東端には平櫓もあった。築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ総計2万人が動員されたと言う。東海道はこの交差点を右折し建物の壁が白系で統一された東町商店街を進む。
{左}東町ふれあい広場(旧:佐川邸跡)
少し先左の天保8年(1837)創業の茶舗・村井冨士園(東町1-5-3)を過ぎるとある。広場入口右に平成13年設置の「屋号札の掲示」説明板、広場左奥に「旧佐川邸跡」石柱がある。佐川家は江戸時代は佐野屋の屋号で旅籠を営んでおり文化4年(1807)伊勢国鈴鹿郡亀山宿内之図には「佐野屋源治」とある。幕末には井尻村(現:井尻町)で製茶業も始め財を成し明治4年(1871)の遍照寺本堂再建にも関与した。亀山市歴史博物館(若山町7-30)には佐川家が所蔵していた絵画などの美術品が保管されている。広場内は他に噴水、藤棚の下のベンチなどもある。
{右・寄}松風山 福泉寺 [真宗高田派] 東町1-10-16
公園向かいを右折すると2叉路となり右に福泉寺、左に法因寺がある。慈覚大師が創建し天台宗だったが伊勢国布教中の高田派10世真慧に帰依して長禄4年(1460)に改宗した。元禄年間(1688-1703)に恵俊が中興。山門は寛政7年(1795)築で平成8年市指定文化財。軒唐破風が付いた瓦葺入母屋造の屋根には鯱が乗っている。山門右前に昭和43年寺名石柱。本堂は近代的なコンクリート造で境内には他に庫裏、鐘楼のほか遊具などが置かれ右に隣接する保育園の亀山愛児園の遊び場となっている。共に室町時代のもので平成8年市指定文化財の絹本著色聖徳太子孝養像・六臣像、絹本著色阿弥陀如来立像、真慧上人直筆紙本墨書九字名号も所蔵する。
{右・寄}宝亀山(寶亀山)法因寺 [真宗大谷派] 東町1-10-14
2叉路の左に「黒田孝富墓」標柱と昭和58年建立「天然記念物 法因寺の左巻榧」白柱があり山門向かいには昭和25年(1950)建立「蓮如上人御旧跡」石柱がある。寺の創建時期などは不明。山門入って左に昭和48年梵鐘がある鐘楼、井戸跡と手水石、左奥に鬼瓦。本堂前左にも「蓮如上人御舊跡」碑がある。本堂の裏の墓地に昭和26年市指定天然記念物の左巻榧(高さ25m樹齢300年)があり実の竪筋が左巻きで珍しい。その横には昭和26年市指定史跡の亀山藩士・黒田孝富の墓がある。孝富は戊辰戦争で旧幕府側に付こうとする藩と攻めてくる新政府軍を説得し亀山を戦火から救った功労者で明治元年(1868)郡代奉行に抜擢されたが8ヶ月後に佐幕派の残党に惨殺された。多門櫓近くにも孝富碑がある。
{左}椿屋脇本陣跡 東町1-3-4
アーケードの柱に屋号札が掲げられた商店街を進むと婦人服しぼりや前に木製立札がある。脇本陣があった場所で文久3年(1863)宿内乃軒別書上帳では脇本陣は椿屋弥次郎と記されている。
{左}樋口本陣跡  東町1-2-23
少し進むとシャープドキュメントシステム前に木製立札がある。文久3年(1863)宿内乃軒別書上帳では本陣は樋口太郎兵衛と記され椿屋脇本陣から3軒挟んだところにあった。樋口家は東問屋も兼務しており亀山宿では樋口本陣家と西問屋場である西町の米問屋・若林又右衛門家が10日あるいは20日程度で定期的に交替しながら問屋役をつとめた。少し先の右に亀山警察署江ケ室交番(東町1-8-1)がある交差点で東町商店街が終わる。
{右・寄}「史跡 大手門跡」白柱
交差点を右折し交番裏の駐車場奥に昭和55年建立の白柱がある。実際は交差点を渡った付近に堀がありその少し先右が亀山城大手門があった場所で堀を渡って右折して門をくぐり左折して城内に入った。大手門は高さ1丈(3m)の石垣の上に間口10間(18m)奥行3間(5.5m)の白壁塗の渡櫓を乗せており向かい側(現:交差点渡り少し先左付近)には脇櫓、門をくぐった右には番所があった。大手門の建物は明治6年(1873)以降に全て取り壊された。白柱左には風化した大正6年(1917)建立の木製里程標があり裏面に「距 鈴鹿郡庄野村 貮里貮町」と読める。その左には亀山町道路元標もある。
{右}高札場跡 東丸町527
東海道は交番がある交差点を左折するルートで交差点を渡った左の山形屋酒店前に平成14年設置の説明立札がある。高札場前の道は江戸時代は広場のように広くなっており高札を見る人が集まる他、他藩の大名が東海道を通過する際には「御馳走」と称する出迎えの儀式も行われた。高札場の後ろは堀であり現在のように建物はなかった。
{右・寄}亀山城東三之丸跡
交差点を左折せずに直進した少し先右の駐車場に平成18年建立の標柱がある。大手門を入ると亀山城内の東三之丸(現:東丸町)で重臣の屋敷や藩蔵があった。標柱の土台や駐車場の端等に置かれている石は平成15年の発掘調査で出土した石で大手門の石垣のものとされる。少し先の向かいの岡電気工業社前には平成4年建立「家老 名川大右ヱ門氏家敷跡」石柱もある。亀山城は文永2年(1265)関実忠が若山(現:若山町)に築城したのが起こりで後に現在地に移され天正18年(1590)豊臣家臣・岡本宗憲(良勝)が入城する際に新築された。寛永13年(1636)本多俊次が藩主となり城の大改修を行い城郭がほぼ確定した。大きく本丸、二之丸、東三之丸、西出丸、西之丸(南三之丸)に分かれている。
{右・寄}姫垣外苑(太鼓櫓跡)
さらに直進して東丸町を過ぎると右の亀山西小学校手前に石碑がある。平成14年に道路脇の小公園として整備され亀山城が「姫垣城」とも呼ばれていたことに因み名付けられた。右折した奥に平成18年設置の太鼓櫓跡の説明板がある。三之丸と二之丸の間にある太鼓門の横にあった櫓で最上階に時を告げる太鼓があった。平成13年に櫓石垣の基底部が発掘されたが現在は埋戻されている。その先の小学校の位置には二之丸御殿、向かいの亀山市役所付近には向屋敷があった。上洛する家康などが本丸を利用したため二之丸御殿は亀山藩主の住居も兼ねた。文化9年(1812)焼失後に再建された御殿建物は明治初期に他の城郭建造物と共に解体されたが式台と玄関の1部は遍照寺本堂に移築された。
{右・寄}亀山城 天守台多門櫓 本丸町576‐1
さらにまっすぐ進み市役所の先の左にある。正保年間(1644-47)藩主本多俊次が築き天守閣の代わりとした。天守閣は天正18年(1590)岡本宗憲(良勝)が築城した頃にはあったが寛永9年(1632)幕府から城修復を命じられた松江藩主・堀尾忠晴が解体したと伝わる。明治になり城郭の大半は壊されたが多聞櫓は木綿緞通工場として使用されたため残り明治30年(1897)に公会堂に改装された際に外面が白塗壁から板張となった。昭和28年(1953)県指定史跡。天守台南面の石垣は直高14.5mで中くぼみの扇形勾配。手前左に「史跡 亀山城趾」石柱、近藤鐸山碑、「飯沼慾斎生誕之地」石柱。石段の道路挟んだ向かいに黒田孝富遺剣之碑、亀山城説明板、山崎雪柳翁遺剣之碑、「亀山城楠門跡」標柱もある。
{右・寄}二之丸広場&二之丸帯曲輪
その先右のますみ児童園に入り右奥の細道から亀山西小学校の裏手に周るとある。二之丸御殿跡の1部である広場から埋門跡の石段を降りると二之丸帯曲輪で復元土塀がある。帯曲輪(東西43m南北6.5m)は二之丸北側防備のための小曲輪で小学校改築を機に発掘調査され広場と供に平成18年に整備された。広場には発掘された瓦で作った築山、二之丸御殿の礎石や御殿玄関前の玉石もある。手前の本丸跡にあたる児童園内には遊具の他に軽飛行機セスナ170Bや蒸気機関車C58が野外展示され奥には「亀山城三重櫓跡」標柱もある。児童園は広大な亀山公園の1部でもあり三重櫓跡先を下り池の対岸の若山町側には亀山市歴史博物館(200円、9-17時、火曜、祝翌日休)、図書館などがある。
{右・寄}亀山神社 西丸町570
児童園の向かい。多門櫓の先。文永2年(1265)創建とされ祭神は伊邪那岐命など。明治41年(1908)式内社である柴垣神社(志婆加支神社)や真木尾神社、亀山藩主石川家の先祖・源義時から石川成徳まで歴代38人を祀る真澄神社など31社を合祀した。真澄神社は延享元年(1744)から藩主となった石川総慶が城内に建立したのが起こりで宝暦6年(1756)には功成社と称していた。境内に明治30年(1897)など田中音吉寄進の狛犬。灯籠は延享4年(1747)文政12年(1829)など。手水石は元禄14年(1701)。境内右に昭和27年市指定文化財の鎌倉時代の宝篋印塔基礎部。社殿前右に真澂天神の小祠、牛像、社殿右に稲荷神社。柴垣神社の神事「片角神事麦の強飯」も引継がれ昭和43年市指定無形文化財。
{右・寄}大久保神官邸宅門&亀山演武場 本丸町574
神社参道左にある。昭和30年市指定文化財の門は南崎権現社の神官邸宅の門として江戸時代に建立された切妻屋根の門で昭和30年に現在地に移築されるまでは亀山西小学校の裏門だった。門をくぐると演武場で心形刀流8代・伊庭秀業に入門し免許皆伝後に帰国した藩士・山崎雪柳軒が元治2年(1865)南野村(現:南野町)に設立したのが起こり。明治40年(1907)神社境内に移転したが昭和60年焼失し復元され現在も剣道場となっている。心形刀流の流儀は昭和50年県指定無形文化財。門前右に昭和43年建立鈴鹿野風呂句碑門左に昭和3年(1928)山崎翁。演武場左には明治天皇が休憩した建物があり昭和26年市指定文化財で前に昭和14年「史蹟 明治天皇亀山行在所遺構」石柱もある。
{左}延寿山地蔵院 遍照寺 [天台真盛宗] 西町524
高札場跡前を左折し東海道を進むと緩やかな人形坂を下る。この先は茶色のカラー舗装となっている。右カーブした左民家に平成13年「屋号札の掲示」説明板がありすぐ先で左カーブして再度右カーブした先に寺がある。室町末期の開基と伝わるが天保14年(1843)焼失した際に文書等も失い詳細は不詳。鐘楼門前右に平成5年建立の寺名石柱がありその後ろに座像石仏が安置されたコンクリート祠、石造地蔵、千手観音像が浮彫された自然石が並ぶ。門をくぐり石段を降りると境内で古くから「頭で鐘撞く遍照寺」と言われた。石段を降りた左に藩主・石川家ゆかりの寺院の元本尊とされる金毘羅権現や薬師如来を安置する堂、弘法大師石像21体を安置した堂、右に本堂がある。鈴鹿郡88ヶ所霊場第34番。
{左}遍照寺本堂(旧:亀山城二之丸御殿)
天保14年(1843)本堂が焼失したため18世園明の代の明治4年(1871)に亀山城二之丸御殿の玄関と式台の1部を移築し本堂が再建された。屋根には正面鬼瓦に藩主・石川家の笹竜胆の家紋があり千鳥破風には上り亀と下り亀の瓦が対峙した形で乗っている。本尊は鎌倉中期作の木造阿弥陀如来立像(高さ99.1cm)で快慶の弟子の行快作とされ平成11年県指定文化財。本堂内には平安前期の木造地蔵菩薩立像(高さ155cm)、共に建長4年(1252)作で平成13年県指定文化財の木造観音菩薩座像(30.8cm)と木造勢至菩薩立像(45.6cm)も安置されている。本堂前右には宝珠丸(幼少のの真盛上人)像。本堂奥の墓地右奥には幕末の亀山藩士で鹿島新当流の剣豪・大月関平の墓があり昭和26年市指定史跡。
{左}梅照山 誓昌院 [真宗高田派] 西町544
少し先にある。楠木正成の一族の楠木正家の末裔が出家し浄円となり永禄4年(1561)開基した。入口右に平成7年建立の寺名石柱。山門入って左に鐘楼、右に錦鯉が泳ぐ石製水槽がある。本堂前灯籠は明和5年(1768)の建立。
{右・寄}池の側の松並木
道なりに坂を下ると右に「池の側」と言う堀の名残の池があり信号のない十字路に出る。左折するとJR亀山駅に通じ 東海道は横断するが右折し池沿いの道を進むと左の田中病院(西丸町539)前に松が2本ある。昭和26年市指定天然記念物で大きな方の根元に「天然記念物 池の側の松並木」標柱がある。江戸時代はこの付近は松並木だった。少し進むと小さな松数本も植えられ植込みには平成元年「伊勢亀山 備中松山 藩主交替之碑」と説明板がある。延享元年(1744)亀山藩主・板倉勝澄と松山藩主・石川総慶が交換転封し昭和56年亀山と松山(現:高梁市)のライオンズクラブが姉妹提携した記念に建てられた。さらに先の亀山中学校グラウンドは江戸時代は堀でその先の石垣上には亀山城多門櫓がある。
{右・寄}亀山城石坂門跡&石井兄弟亀山敵討遺跡
中学校グラウンド向かいの池沿いにある。多門櫓を供えた石坂門は亀山城最大の城門とされ西之丸から二之丸へ通じる門だった。平成11年に石垣基礎の1部(積み石7個と石垣の裏込石)が発掘され亀山市歴史博物館前庭に移設展示されており博物館内には多門櫓の1部が復元されている。門跡の標柱脇に階段があり下に降りると池の畔に昭和7年(1932)建立の敵討遺跡碑がある。延宝元年(1673)大阪城代・青山宗俊の家臣・石井宇右衛門が友人の養子・赤堀源五右衛門に武術の遺恨から殺された。遺児4人のうち長男三之丞は返討ちに逢い次男彦七は海難死し三男源蔵と四男半蔵が29年後の元禄14年(1701)早朝、亀山藩板倉家に召抱えられ水之助と改名していた赤堀を石坂門外で討ち取った。
{右}お城見庭園(広場)
十字路を渡ると左にあるポケットパーク。本来の東海道は十字路に出る手前からまっすぐ上り坂で進み庭園よりも左を通って上りきって右折していたが坂は交差する道路で削られ消滅しているため庭園の石段を登るか庭園右を周り込む上り坂の茶色の車道(県道647号)で迂回する。庭園は平成15年に整備され石段下には鈴鹿産自然石に杉田洋子が揮毫した「東海道 亀山宿」石碑、石段登口右の壁には享和3年(1803)亀山領内東海道分間絵図と説明プレートがある。この分間絵図は寺社や家並、木の種類にまで詳細に描かれており亀山領のうち中冨田から小野までの6巻22.8mが現存し昭和27年市指定文化財。庭園には黒松、茶木などが植えられ石段を登ると四阿もあり亀山城多門櫓が眺望できる。
{左}西町問屋場跡
四阿の奥左の削られた東海道の続きが始まる所に平成15年設置の説明板がある。西問屋場は米問屋・若林又右衛門家の手前にあり若林家が問屋役をつとめていた。享和3年(1803)亀山領内東海道中分間絵図や文化4年(1807)伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図からこの付近が問屋場跡と推定されている。若林家の敷地や問屋場などは元治2年(1865)に手前隣にあった嘉永元年(1848)創業の味噌醤油醸造業の日野屋に譲渡された。文久3年(1863)宿内乃軒別書上帳を参考にして設置された屋号札では少し先の民家に「西町 とんやば わかばやしけ跡」屋号札がある。
「東海道」道標
しばらく進むと十字路を渡った左右に道標がある。共に大正3年(1914)田中音吉が建立したもの。左の電柱横には「右 東海道」「左 停車場」と並んで刻まれ下に大きく「道」とある道標(高さ70cm)で左折して行くと亀山駅に通じていた。右のカーブミラー横には「右 郡役所」「左 東海道」と並んで刻まれた道標(高さ67cm)で右折して行くと鈴鹿郡役所があった。郡役所は明治12年(1879)から大正15年(1926)まであり明治28年から1年ほどは江戸川乱歩の父も書記官として勤めていた。
{右・寄}青木門址
十字路を右折すると左折、右折の枡形がある。左折する角右に昭和62年建立「史跡 青木門址」白柱がある。江戸時代には手前には堀があり渡って左折したところに門があり左側に多門櫓、くぐった左に番所があって番所前を通過し右折していた。元和元年(1615)大阪へ出陣する途中の家康が亀山に宿泊し翌日出発する際にこの門を通過し付近に繁茂した青木を見て「おお青木」と賞賛したため周辺の土地を青木、門も「青木門」と呼ぶようになったと言伝わる。門を入ると亀山城西之丸(南三之丸)で重臣の屋敷や藩校の明倫舎(現:亀山中学校校舎付近)があった。
{右・寄}加藤家屋敷跡(長屋門・土塀・土蔵) 西丸町545
青木門址の枡形をさらに進み十字路を渡った右にある。延享元年(1744)亀山藩に転封となった備中松山藩主・石川総慶に従って来た家老の加藤家の屋敷跡。文化9年(1812)二之丸御殿が焼失した際は代替の仮御殿にもなった。明治以降に建物の大半が他所に移築され残った長屋門(正門)、土塀、土蔵が昭和25年市指定文化財で屋敷跡は平成19年市指定史跡。入母屋造桟瓦葺の長屋門は延享年間(1744-48)以前の築とされ平面積91.8平方mで男部屋、若党部屋、物見、厩の4部屋に分かれる。昭和62年に市に寄贈された際に先に寄贈された土塀、土蔵と共に幕末当時の姿に修復整備された。裏に周ると門の内側に説明板もある。十字路渡った左は西の丸庭園城西地区コミュニティセンター
{左}飯沼慾斎(いいぬま よくさい)生家跡
「東海道」道標がある十字路の1軒先の民家前に平成15年建立の標柱がある。天明2年(1782)ここにあった西村源兵衛守城が営む鮫屋に身を寄せていた実兄で美濃大垣の商人・西村信左衛門守安の次男に生まれた慾斎は12歳で大垣に移り漢方医・飯沼長顕に学び後に長顕の長女・志保と結婚し飯沼家を継ぎ長順を名乗った。小野蘭山に本草学(薬学)を、宇田川榛斎に蘭学を学び蘭方医を開業し文政12年(1829)には人体解剖も行った。天保3年(1832)50歳で家督を義弟に譲ると慾斎と号し長松村(現:大垣市長松町)の平林荘で研究に没頭し嘉永3年(1850)に種痘を行うなどの傍ら植物研究も進め草木図説(全40巻)を執筆し慶応元年(1865)84歳で没。多聞櫓手前にも昭和59年「飯沼慾斎生誕之地」石柱がある。
{左}旧:舘家住宅(枡屋跡) 西町410
少し先の街道に面して「西町 ますや」の屋号札がかかる木造2階建の主屋と上部白壁の土蔵が並ぶ。舘家は近くにあった本家から幕末に分家し大正期まで2代に渡り呉服商を営んでいた。3代目の舘逸雄は社会心理学者で埼玉県に移住し明治学院大学名誉教授などを歴任し没後の平成18年に建物が市に寄贈された。主屋、土蔵2棟、茶室、庭園など10棟が平成19年市指定文化財。亀山宿の町家の特徴を残す明治6年(1873)築の主屋(間口11.8m奥行15.5m)は1、2階とも前面が格子で軒は梁を建物から突出して桁を受ける出桁造。街道に面していない奥の土蔵は江戸末期の築。
{左・寄}終南山光明院 善導寺 [浄土宗] 西町327
旧:舘家土蔵の角を左折した突当り右にある。始めは真言宗で亀山城本丸付近にあったが天正18年(1590)岡本宗憲(良勝)が新城を築く際に現在地に移転しその頃に改宗した。本堂前左に旧寺地より出土した石塔などの石造物がある。本尊は阿弥陀如来で賢聞子の作。入口左に享保9年(1724)から延享元年(1744)まで藩主だった板倉勝澄の寄進と伝わる灯籠。右の寺名柱は昭和56年。境内入って左に梵鐘がない鐘楼。境内左に町内にあった地蔵を廃藩後に移したと言う地蔵堂と「磯部年乃師之碑」。江戸中期の崎門学派の朱子学者・柴田右仲墓があり昭和26年市指定史跡。鈴鹿郡88ヶ所霊場第33番。明治24年(1891)坂下宿の小竹屋脇本陣の建物を庫裏として移築したが平成20年に取り壊された。
{右}京口門跡
少し先で突当たって右折しその少し先でも突当たって左折し少し行くと県道647号が右に分岐していく。東海道は直進し少し先で左にカーブし下り坂となり少し先の梅厳寺入口前に平成20年設置の写真付説明板がある。この付近の東海道は本来は手前で左カーブせずに直進しすぐ左折して棟門をくぐりすぐ右折、冠木門をくぐって急坂をS字に下り竜川を渡っていた。京口門は寛文12年(1672)藩主・板倉重常が築き棟門の横には番所もあった。京方面から来る旅人には竜川を渡り深い谷から急坂を登る難所であり「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」とも謡われ広重は亀山宿の絵でここを描いた。旅籠・伊勢屋の蘇鉄は昭和59年市に寄贈され亀山文化会館(東御幸町63)玄関前に移された。
{右}純一山常寿院 梅巌寺(ばいげんじ) [浄土宗] 市ヶ坂町671
入口から参道を進むと境内。慶長12年(1607)から14年まで大垣藩主だった石川家成が大垣に開基。以後石川家の移封とともに元和2年(1616)豊後日田、寛永10年(1633)下総佐倉、11年近江膳所、慶安4年(1651)亀山、寛文9年(1669)山城淀、宝永8年(1711)備中松山、延享元年(1744)亀山と移転した。本尊は阿弥陀如来。入口左の昭和5年(1930)「柳谷十一面千手千眼観世音菩薩」石柱の側面に「西國三十三所観世音菩薩安置」とあり参道から境内には観音石像が安置された石祠が33並ぶ。入口入って右に昭和6年浮彫の不動明王、山門左前に子育観音、本堂前左に地蔵、右に慈母観音、境内右に善光寺阿弥陀3尊、境内左の墓地入口左に6地蔵などの石仏もある。鈴鹿郡88ヶ所霊場第32番。
{右}妙亀山 照光寺 [日蓮宗] 野村3-1-4
坂を下り京口坂橋で竜川を渡ると右下にある。創建時は宗英寺で改宗し玉泉院となり藩主・板倉重常の正室・筆子が復興し元禄2年(1689)その院号・照光院から照光寺となった。明治なって末寺の旛間山慈眼寺を併合。境内左に慈眼寺の元禄13年(1700)と文化10年(1813)灯籠や手水石がある。山門前に広重の絵、入った右に銀杏、鐘のない鐘楼、妙徳稲荷の祠。本堂右前に日蓮銅像。境内左に明治4年「痔疾救護 秋山自雲尊霊」碑、文化元年如意輪観音石像、元治元年(1864)題目碑、貞享元年(1684)照光院墓、平成元年「史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑」など。本堂左奥の墓地に石井兄弟に討たれた赤堀水之助墓、天保8年(1837)没した儒学者・山木善太墓があり共に昭和26年市指定史跡。
{左・寄}護念山攝取院 心光寺 [浄土宗] 野村3-6-44
しばらく進むと左の和風カフェ「アンティーク森」(野村町3-2-11)を過ぎた角に「左 東海道」道標がありその2軒先の角を左折すると右にある。天正18年(1590)に焼失しそれ以前の記録を失い創建年代などは不明。慶長18年(1613)に法相宗の寺として再建され元和6年(1620)改宗し護念山攝取院心光寺となった。本尊は阿弥陀如来。本堂左の観音堂には室町時代作の11面観音座像(高さ120cm)がある。元は関町の笛吹神社(現:関神社)の別当寺にあったとされ荒廃しているとの夢告を受けた亀山藩士・芦川権之助が南野村の自宅に持ち帰り寛文年間(1661-72)になって寺に安置された。山門入って右に観音像の説明白柱もある。境内左には梵鐘のない鐘楼、その横に無縁墓石群。鈴鹿郡88ヶ所霊場第30番。
{左・寄}無量山 永信寺 [真宗高田派] 野村3-6-38
心光寺前を通過して進むと隣にある。寛正年間(1460-66)に高田派10世真慧が開基し弟子の浄堪に与え1世としたのが起こりで慶長11年(1606)に永信寺となった。入口には鐘楼門がある。門をくぐり境内に入って右が本堂で本堂前には昭和4年(1929)灯籠が1対ある。
{右}究竟山 光明寺 [浄土真宗本願寺派] 野村3-5-5-1
東海道を少し進むとヤマザキショップおかもと(野村3-6-6)斜め向かいにある。創建年は不明だが服部伝左衛門が出家して元祖釈宗法師となり創建した。6世随教の代に本尊を造り7世恵雲の代の享保2年(1717)に本堂を建立した。現在の本堂と鐘楼門は平成13年の再建。鐘楼門前右の寺名石柱も平成13年の建立。境内には銀杏などの大木がある。
{左}亀鶴山無量院 慈恩寺 [浄土宗] 野村3-18-1
しばらく進むと変形十字路にある。神亀5年(728)行基が自作の薬師如来を安置し忍山神社の神宮寺として創建した法相宗の寺が起こり。神福寺、長福寺と称し七堂伽藍もあったが文明4年(1472)の戦火で焼失し永正8年(1511)再建。天正3年(1575)改宗し本尊の薬師如来を阿弥陀如来に改造したとされる。高さ161.9cmの立像で昭和12年(1937)指定国宝(現:重要文化財)。正徳6年(1716)現寺名になった。山門、鐘楼以外の建物は新しく本堂、庫裏は平成17年築。室町時代の忍山神宮寺版木を所蔵し昭和27年市指定文化財。本堂左前の墓地には幕末の藩家老で明治23年(1890)没の近藤鐸山、和算家で天保12年(1841)没の堀池衡山(敬久)の墓もあり共に昭和26年市指定史跡鈴鹿郡88ヶ所霊場第29番。
{右・寄}秀吉伊勢征伐陣地跡
変形十字路を右折して行くと遊具がある広場があり入口左の植込み奥に昭和57年建立「史跡 秀吉伊勢征伐陣地跡」白柱がある。秀吉配下の亀山城城主・関盛信が留守中に滝川一益に城を奪われ一益を討つ好機と見た秀吉は天正11年(1583)総勢7万5千を3手に分け伊勢に侵攻した。秀吉が率いる羽柴秀勝、蒲生氏郷、細川忠興、山内一豊、黒田官兵衛、浅野長勝、掘秀政ら本隊3万は亀山城を守る一益配下の佐治新助を攻めるためここに本陣を置いたと言う。新助は敗れ盛信が再び城主となり秀吉は賤ヶ岳の戦い後に桑名城の一益を降伏させ北伊勢を制圧した。入口右角の民家のブロック塀には石仏があり右折して行くと左に大正6年(1917)「能牟良神社旧蹟」石柱、安政3年(1856)常夜燈などある。
{左}忍山(おしやま)神社石柱
しばらく進むと格子の民家前にある。大正14年(1925)建立で「天照皇太神御鎮座跡 忍山神社参」とあり「道」の字は埋まっている。神社(野村4-4-65)は横の細道を左折して進み坂を下って県道565号線(旧国道1号)に出たら右の忍山高架橋で県道を渡りそのまま直進すると右にある。延喜式記載の古社で伊勢神宮創建時に倭姫命が天照皇太神の鎮座地を求め訪れた地に創建された。日本武尊の妻である弟橘媛は忍山神社の神官・忍山宿禰の娘と伝わる。鈴鹿小山の宮とも言い主祭神は猿田比古命で天照皇大神を配祀。他に22柱を祀る。後に現在の慈恩寺の付近に移ったが文明4年(1472)の戦火で焼失。その後、転々とし江戸時代に再興され白髭大明神とも称したが明治41年(1908)忍山神社に名称統一。
{右}野村一里塚(105)
少し先の交差点でカラー舗装が終わり渡った左には四阿がある小公園があり「亀山宿・江戸の道(東海道)」説明板がある。しばらく進むと一里塚がある。和田一里塚とともに亀山藩の領内にある一里塚で慶長9年(1604)藩主・関一政が築造した。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右椋左榎3と記録されており右塚のみが現存し昭和9年(1934)国指定史跡。一辺が9mの石垣で囲まれた高さ3mの盛土上に幹周6m(5m)樹齢400年の椋も残る。木の高さは現在は20mだが以前は33mあったと言う。塚の前には説明碑、昭和36年「史跡 野村一里塚」石柱、手前の道を少し入ると裏側には石仏の祠もある。左塚は大正3年(1914)に撤去された。塚前の道は2車線で一時的に広くなっているが少し先で再び1車線となる。
{左}大庄屋 打田権四郎昌克宅跡
左の視界が開け再び左に民家が並ぶようになってさらに進むと空地前に昭和61年建立の白柱がある。亀山では村内の行政にあたった家を庄屋と言いその庄屋をまとめ藩行政の一端を担った家を大庄屋と呼んだ。当時は野尻村だったこの地に大庄屋の打田家があり17代当主の昌克は元禄15年(1702)亀山の見聞記「九々五集」を著した。「九々五」とは9×9+5=86で亀山藩領の村数を示す。現存する全9巻と総目録、別冊は国立公文書館が所蔵。写本も多く作られ亀山藩士・半田忠敬が天保3年(1831)から3年かけて書き写した半田写本「九々五集」は亀山市歴史博物館が所蔵し昭和63年市指定文化財。打田家を含む主な大庄屋は明和5年(1768)農民が庄屋や商家を襲った亀山農民一揆後に解任された。
{左}毘沙門堂
少し先の右に「東海道」の矢印標示がある角で東海道は右折する。直進する道は大正紀念道清福寺の手前で再び旧東海道に合流するバイパスとなっている。右折した左角に毘沙門堂があり毘沙門天が安置されている。堂の左隣には野尻公民館がありそのさらに左には戦没者の墓塔18基、五輪塔、風化した石仏3体が安置された祠、「庚申」碑がある。そのさらに左には役行者石像が安置された祠があり地元では「山上さん」と呼ばれている。
{左}布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社(布気神社) 布気町1663
少し先。延喜式に小布氣神社と記載される古社で文永2年(1265)亀山城を築いた関実忠が氏神としたが文明年間(1469-86)に兵火で衰退し後に現在地へ移転した。江戸時代は高野大神宮、皇舘多賀ノ宮と称し明治41年(1908)近隣の小社を合祀し布気皇館太神社とした。皇館とは倭姫命が忍山神社の旧地に訪れた際にこの地方の豪族・大比古命が献上した土地に由来する。祭神は天照大御神、豊受大神、伊吹戸主神。他に20柱が合祀。参道には平成12年灯籠が25組以上並ぶが入口の寛保4年(1744)途中や境内の享和3年(1803)享保7年(1722)文化8年(1811)など古い灯籠もある。平成17年新築の社殿左に戦没者を祀る境内社。境内左に「富士山大権現」碑。獅子舞は昭和31年市指定無形文化財。
{右}能古(のんこ)茶屋跡
斜め向かいを右折すると民家敷地内の玄関前に昭和58年建立「史跡 能古茶屋趾(茶室遺構)」白柱がある。大庄屋・打田権四郎に招かれてこの地に住んだ禅僧・道心坊能古が元禄3年(1690)開いた茶屋の跡で昭和37年市指定史跡。茶屋は能古茶屋(納古茶屋)と呼ばれここから見える山々の景色が素晴らしく奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆でのもてなしも好評だった。庶民から公卿、大名、僧侶までが立寄ったとされ能古の友人だった芭蕉も立寄ったと言う。この茶屋の評判がきっかけで他の亀山領内にも10軒ほどの茶屋ができたとされる。