東海道ルートガイド
四日市宿

{右}祥雲山 法泉寺 [浄土真宗本願寺派] 京町2-24
茶色舗装になって少し先。創建年は不明だが開山したのは西善。本尊は阿弥陀如来。嘉永7年(1854)の地震で倒壊し明治元年(1868)本堂、鐘楼を再建。鳥羽伏見の戦いの敗戦後に新政府軍に降伏した桑名藩前藩主の遺児である万之助(後の松平定教)や家老らが3ヶ月間幽閉された。本堂左には昭和30年本堂再建記念に建立された一橋大学名誉教授・藤本幸太郎の撰文書による太田覚眠師頌徳碑がある。慶応2年(1866)13世諦念の次男として生まれた太田覚眠は明治34年(1901)16世となったが明治36年から日露戦争時の一時帰国を挟んで昭和6年(1931)までロシアにて布教につとめ昭和11年からはモンゴルに渡り昭和19年に没した。
{右・寄}宝光山 佛性院(仏性院) [浄土宗鎮西派] 川原町21-17
その先で橋北通りを渡り少し先左の川瀬金物店(川原町22-4)向かいの道を右折した正面。万治元年(1658)に三重山光運寺(中部3-12)の伴誉の弟子の恵心比丘が開山。本尊は阿弥陀如来立像。嘉永7年(1854)の地震で倒壊し再建。明治43年(1910)に山号が中濱山から宝光山となった。本堂前左に石仏の祠。文化13年(1816)巡業中の四日市宿で没した落語家の初代桂文治、明治11年(1878)没の四日市萬古焼の祖・山中忠左衛門の墓があったが昭和24年(1949)市内寺院の墓地を集積し開園した広大な泊山霊園へ移された。海蔵川と三滝川に挟まれたこの付近は水害などで困窮する農家が多かったため萬古焼作りが発展し近くには萬古神社(陶栄町3-21)やばんこの里会館(陶栄町4-8)などもある。
{左}嶋小餅店 川原町22-2
少し先で蒲の川を渡る蒲の川橋の先にある。文政年間(1818-29)に桑名郡から四日市に移住した初代小四郎が嶋紬(島紬)の反物を売っていたがうまくいかず江戸に出て団子作りの修行の末、戻って創業した。屋号は嶋紬の嶋と小四郎の小から。石臼で挽いた米粉を原料に醤油ダレをつけて2度焼きする江戸仕込みの団子は街道名物となったが大正末期にはさらに評判となり四日市名物となった。団子(1本5個80円)の他に蓬大福(1個100円)もある。9時-17時、火休。手前の蒲の川橋は江戸時代は土橋であり現在の東海道の右側の蒲の川は暗渠で道路となっており道路沿いには佛性院の南門がある。
{右}文蔵餅 三滝屋(三瀧屋) 川原町2-14
少し先にある民家のような造りの家。「創業元禄 文蔵餅 三滝屋」の看板がある。元禄年間(1688-1703)初代文蔵が創業し大福餅が名物で文蔵餅と呼ばれるようになった。白、赤、蓬入りの緑の3種類がある。文蔵餅(1個100円)。8時頃-18時頃(不定)、水曜他不定休。午前中の早い時間に売り切れる。
三滝橋
少し先で商店街を抜け三滝川を平成6年竣工の三滝橋で渡る。橋の中ほど左には橋の説明プレートがあり床面には四日市萬古陶芸協会の製作した郷土をモチーフにした絵タイルも埋め込まれている。川岸の堤防壁面には渡る前左に東海道分間絵図、渡った左に広重の四日市宿の絵があり萬古焼の陶板を貼り合わせて作られた巨大壁画となっている。三滝川は広重の四日市宿の絵に三重川として描かれており橋は江戸時代は土橋だったが明治10年(1877)に長さ42間(76m)幅2.5-3間(5m)の板橋となり大正3年(1914)長さ72m幅6.3mの鉄橋となった。現在は下流両岸の河原は三滝緑地という公園(散策路)としても整備されている。橋を渡ると四日市宿となる。
四日市宿   本陣2脇本陣1旅籠98家数1811人口7114[天保14年(1843)]
天然の良港がある東伊勢水運の拠点であり浜田城築城時に市場が整備されると永徳年間(1558-70)には毎月「4」の付く日に市が開かれるようになり四日市の名が付いた。江戸時代の宿場町は諏訪神社の手前までの6町20間(700m)と短かかったが伊勢神宮参詣への分岐点(日永の追分)手前の宿として賑わい湊からは宮宿まで10里の渡しと呼ばれる舟渡しもあった。戦時中9度の空襲を受け宿場の名残は殆ど焼失。戦後は海岸部に石油化学コンビナートが出来て中京工業地帯の核となるが四日市ぜんそくの発生地としても有名になった。現在も日本有数の重工業地帯で県下最大の都市となっている。
{左}なが餅 笹井屋 本店 北町5-13
少し先にある蔵造り白壁の建物。天文19年(1550)現在の大宮神明社の向かい付近の日永の里で創業し戦後に移転してきた。初代彦兵衛が日永の地名に因み作った細長い餅「なが餅」(7本入630円)が名物。餅の中に白ザラメを使用し甘さを抑えた小豆餡を入れ両面を焼いている。藤堂高虎が足軽時代に空腹一文無で訪れ出世払いで食べ「吾れ武運の長き餅を食うは幸先よし」と言ったとされ後に津藩主となると参勤交代の際には必ず立寄ったと言う。日永は東国から伊勢神宮参詣に行く分岐点で賑わい餅も評判となり永餅、笹餅、牛の舌などとも呼ばれ膝栗毛では「永餅重たいエッサッサ」と言って弥次さん喜多さんが歩いている。8:30-18:30無休。中部近鉄百貨店四日市店2階にも出店している。
{左・寄}東溟山 建福寺 [曹洞宗] 北町5-4
次の角を左折し北町公園を過ぎると左。応永年間(1394-1428)に諸国行脚中の竺堂了源が建てた草庵が起こりで浜田城城主田原(赤堀)氏の菩提寺となり繁栄した。本尊は釈迦牟尼仏。天正12年(1584)田原氏滅亡後も3万坪の敷地があったとされるが嘉永7年(1854)の地震で本堂、庫裏が倒壊し明治10年(1877)再建されたが明治38年(1905)年焼失、四日市空襲でも焼失した。現在の2階建コンクリート造の本堂は昭和52年の築で石段下右に観音石像、左に地蔵石像がある。山門前右に「不許葷酒入山門」石柱、山門入って左に明治36年(1903)建立「安政元年震災惨死者之碑」。境内には昭和35年市指定史跡の泗水の井戸もあるが見学不可。昭和35年指定市文化財で室町末期作の仏涅槃図も所蔵。
{右}帯屋脇本陣跡
少し先の近藤建材店(北町3-16)付近。標示はなく四日市宿には他の本陣、脇本陣、高札場などにも標示がない。文化8年(1811)黒川本陣が脇本陣から本陣になったことに伴い帯屋七郎右衛門が旅籠から脇本陣となった。天保14年(1843)東海道宿村大概帳の記述では建坪66坪(218平方m)門構なし玄関付とある。
{左・寄}四日市代官所(陣屋)跡 (現:中部西小学校) 北町2-23
少し先右の福生医院の斜向かいを左折して行くと左にある中部西小学校の門前に平成13年説明板がある。慶長8年(1603)水谷九左衛門光勝が四日市代官となり東西44間(80m)南北46間(84m)1826坪(6036平方m)の代官所を築き天領支配の拠点とした。享保9年(1724)天領から大和国郡山藩領となると藩の陣屋となり享和元年(1801)再び天領になると近江国信楽代官・多羅尾氏の四日市代官兼務となり代官所として幕末まで続いた。明治2年(1869)度会県支所、明治4年安濃津県支庁、明治5年三重県庁、明治6年三重県支庁が置かれたが明治9年の伊勢暴動(地租改正反対一揆)で焼失し跡地に明治18年に上新町にあった四日市学校が移転した。説明板の左には「旧町名 竪町」石柱もある。
札の辻(四ツ辻)
小学校入口のすぐ先の十字路。宿場の中心で左折すると湊へ向かう浜往還、右折すると三重郡菰野町へ向かう菰野街道だった。ここを境として北町、南町、西町などの町があった。左手前の角には高札場(現:小林たばこ店)、右手前角には清水本陣(現:駐車場)、渡った少し先右には問屋場があった。渡った左には高さ1mの道標があったが昭和11年(1936)にトラックが衝突して折損し撤去された。清水本陣は東海道宿村大概帳には建坪160坪(529平方m)門構玄関付とあり四日市市立博物館(安島1-3-16)が保管する本陣清水家文書が平成19年市指定文化財となっている。明治20年(1887)にはこの付近に宝暦8年(1758)創業の小間物商・篠原屋が移転し岡田屋となり現在のイオングループの前身となった。
{右}黒川本陣跡 (現:黒川農薬商会) 中部13-13
少し先。黒川彦兵衛家の本陣跡で本陣になる前は脇本陣で江戸屋と称していた。四日市宿の本陣は一番、二番の2つの本陣があり一番本陣は清水太兵衛家が江戸時代を通してつとめていたが二番本陣は何度か変更された。当初は吉田伝左衛門家がつとめ享保8年(1723)経営難のため廃業した後しばらくは二番本陣はなく御用宿という形で太田八左衛門家が継承し寛政8年(1796)より正式に二番本陣となった。文化8年(1811)に太田家も経営難となると脇本陣だった黒川家が二番本陣となった。宿村大概帳には建坪93坪(307平方m)門構玄関付とあり薬師寺[浄土宗](元町1-9)の山門は黒川本陣の門を明治末期に移設したもの。黒川本陣には明治元年(1868)9月24日など明治天皇が4回宿泊している。
{左・寄}紅屋 中部11-5
少し先で国道164号に出る。東海道は横断し直進するが渡らず左折するとすぐ左にある。宝暦年間(1752-65)創業の和菓子屋だが江戸時代には化粧の紅も扱っていたことから紅屋が屋号となった。代表銘菓「汐見」は落雁の中に餡を入れた干菓子で文化文政年間(1804-30)に3代目が海岸の白い波をイメージして考案したもの。他に同じく江戸時代から作っている羊羹や近年考案された黄肌餅がある。汐見(10個入840円)羊羹(各種1260円)黄肌餅(20枚入1155円)。8:30-19:00、火休。中部近鉄百貨店四日市店2階にも出店している。国道164号を横断すると道は田中佛檀店(中部4-11)を左に見て右へカーブして変形十字路に出るがここから東海道は100mほど消滅している。
{右}江戸の辻道標
変形十字路の角にある。文化7年(1810)建立の道標を昭和28年(1953)に複製したもの。本物は慶安年間(1648-52)に問屋役を務めていた吉田角左右衛門兼武の子孫の吉田邸中庭にあり戦災で破損し鉄枠で補強されている。高さ194cmで表に「すぐ江戸道」裏に「すぐ京いせ道」と刻まれ左面の「京いせ道 えどみち」には左右の指差しの絵もある。「すぐ〜道」は「まっすぐ」の意味。道標左には東海道を示した地図看板と小さな「旧町名 南町」石柱もある。本来の東海道はここからそのまま直進し右に平行する国道1号の反対側へ続いていたが現在は建物で遮られているため変形十字路を右折して国道1号を渡って左折するか左へ進み次の十字路を右折して国道1号を渡るかで迂回する。
{右}諏訪神社 諏訪栄町22-38
国道1号反対側の「八宝」とある赤いビル(諏訪栄町21-11)の右の道が東海道の続きで入って少し先。建仁2年(1202)加藤景廉が信州の諏訪大社上下両社を勧請し創建。あるいは文明年間(1469-86)浜田城城主田原忠秀の創建とされる。祭神は建御名方神、八坂刀売神。商業・漁業の神として「おすわさん」と呼ばれ祭礼「大四日市祭」が有名で東海道名所図会にも紹介された。入口右に広重の四日市宿の絵、境内入った右に平成14年神馬像。境内右に伊勢神宮遥拝所、山津見神社、政成稲荷大明神、社殿右に菅原神社(天神社)。狛犬は安政3年(1856)。1180坪(3900平方m)の広い敷地の社殿裏は諏訪公園で園内のすわ公園交流館(旧:市立図書館)の建物は昭和4年(1929)築で国登録有形文化財。
スワマエライオン通り(表参道スワマエ商店街)
すぐ先で「表参道 スワマエ」のゲートがあり完全屋根付きで歩行者天国のアーケードの商店街に入る。国道164号、国道1号、近鉄の線路、中央大通りに囲まれた地域は戦後に発展した大規模な商店街で11の商店街振興組合、発展会に分かれている。旧東海道は表参道スワマエ発展会の商店街となっており途中には三番街発展会、すずらん通り発展会の商店街が右から交差している。
一番街商店街(旧:近鉄線路跡)
その先で一番街商店街振興組合の商店街と交差する。交差点の路面には浮世絵のタイル絵がある。交差している一番街商店街の道は昭和31年(1956)までは近鉄の線路だった。それまでは近鉄の四日市駅は国鉄(現:JR東海)四日市駅に隣接しておりこの付近には諏訪駅もあったが現在の近鉄四日市駅が出来て廃止となった。交差する手前の旧東海道の右側は平成19年に1900平方mに及ぶ火災があり11軒が全焼、8軒が部分焼、3軒が水浸した。横断した後は旧東海道は表参道スワマエ発展会から諏訪栄発展会の商店街となり途中右にはグリーンモール発展会の商店街が交差する。
中央通り
その先でアーケードを抜けると分離帯が緑地になった広い中央通りに出る。左折すると700mでJR四日市駅、右折すると300mで近鉄四日市駅。東海道は直進するが横断する手段がないため左右の横断歩道で迂回する。渡って東海道の続きに戻るとポスト横には平成13年建立の「東海道」黒石柱がある。この先は浜田町(旧:浜田村)で少し先で小さな阿瀬知川を渡る。手前右には「阿せちばし」と刻まれた円筒状の親柱もある。
{左}佛法山久遠院 崇顕寺(そうけんじ)[真宗高田派] 浜田町9-7
少し先の浜田保育園(浜田町10-15)前に「佛法山 崇顕精舎」と刻まれた平成8年建立寺名石柱があり左面に「丹羽文雄生誕之地」右面には「吉川英治先生梵鐘響流十方」とある。寺は保育園の敷地奥。創建時期は不明で元は天台宗だったが文亀2年(1502)に改宗した。元和元年(1615)焼失し再建。本尊は阿弥陀如来で聖徳太子作と伝わる。丹羽文雄は明治37年(1904)この寺の長男として生まれ早稲田大学在学中に「鮎」で評価を受け作家となり昭和52年文化勲章を受章し昭和53年には名誉市民にもなり平成17年100歳で没した。寺名石柱の「崇顕精舎」は文雄の揮毫で寺の梵鐘は吉川英治が鐘銘を書き文雄が幸せの鐘と命名した。四日市市立博物館には常設展示の丹羽文雄記念室がある。
{右・寄}鵜森神社(浜田城址) 鵜の森1-13-6
少し先の東海道の標示がある角を右折して近鉄名古屋線と内部線の線路を越えると正面。祭神は天照皇大御神、建速須佐之男命。文明2年(1470)田原(赤堀)忠秀が築城し藤綱、元綱、重綱(重信)と続いたが滝川一益に攻められ落城した浜田城があった場所でもあり田原家の先祖とされる藤原秀郷(俵藤太)も祀られ平成2年に田原家4代も合祀された。参道の灯籠は文政10年(1827)など。社殿右には田原稲荷。昭和30年指定国重要文化財の十六間四方白星兜鉢も所蔵。鳥居を入った左には昭和51年建立「浜田城址」石碑。境内の左と裏に広がる敷地21300平方mの鵜の森公園を含めた城跡一帯には土塁も残る。公園は昭和3年(1928)開園で和風庭園、せせらぎ池、遊具、茶室・泗翠庵などがある。
{右・寄}佛法山 東漸寺 [真宗高田派] 中浜田町2-5
しばらく進むと浜田通りを横断し少し先右の千種薬房の先を右折すると正面。建仁元年(1201)観月律師の開基で天台宗の松庭山梅養寺と称していたが後に浜村山東漸寺となった。文亀3年(1503)6世の玄阿が真宗高田派に帰依し中興開山。元亀元年(1570)焼失し天正3年(1575)浜田城落城時に第8世玄性は城主田原元綱の子、重綱に従い落ち延びた。慶安4年(1651)再建され佛法山となった。本尊の阿弥陀如来立像は慈覚大師作と伝わる。山門入って左に鐘楼と蔵、手水石。童話作家で宮沢賢治研究家の東光敬は大正2年(1913)この寺の生まれ。しばらく進むと近鉄名古屋線の高架をくぐり古い町並を右に緩やかにカーブしながら進む。その先で左にカーブすると松本街道と交差し赤堀(旧:赤堀村)に入る。 
{右}鈴木薬局(旧:鈴木製薬所) 赤堀1-2-13
しばらく行くとある。江戸時代から薬商を営み代々鈴木勘三郎の名を名乗る。当初は販売だけだったが寛延3年(1750)4代勘三郎高春が長崎で漢方を伝授されてからは製薬も行うようになった。現存する連子格子の建物は6代勘三郎高光が嘉永5年(1852)に建てたもので約60kgの木製の上げ下げ戸がある玄関から6畳、12畳の部屋が続き近江八景の檜の1枚彫の欄間、製薬作業場や道具などが残る。隣の新しい建物の薬局店内には吹出物や灸の跡への膏薬「赤万能即治膏」胃腸薬「萬金丹」煎じ薬「真妙圓」などの薬の古い看板もある。近くには同じく漢方薬を作る元亀元年(1570)創業の翠松堂製薬(赤堀2-12-31)もある。しばらく進むと落合川を落合橋、その先で鹿化(かばけ)川を鹿化橋で渡る。
{右}大宮神明社 日永1-12-8
鹿化橋を渡り日永(旧:日永村)に入り緩やかな坂を下ると少し先。前身は現在四日市南高校(日永4917)がある南西1.5kmの岡山にあった舟付明神で焼失したため永禄5年(1562)に現在地に移転し再建された。永宮さんとも呼ばれ主祭神は天照大御神。岡山の麓は古くは海で伊勢神宮の創建の際に各地を転々とした倭姫命が海辺の舟付明神に一時逗留したとも伝わり境内左には「皇大神宮遥拝所」がある。鳥居前には昭和14年(1939)灯籠と右に大正5年(1916)神社名石柱。鳥居をくぐると大正6年の狛犬があり参道には明治6年(1873)などの灯籠が並ぶ。境内右には大己貴命、少彦名命を祭神とする境内社の二柱大神社もありセンキさんと呼ばれ病気を治すとされる。社殿右には稲荷神社もある。
{右}水沢(すいざわ)道標
しばらく進み右のジュニア模型店(日永2-11-3)先の角に自然石の道標(高さ64cm)と説明立札がある。寛政年間(1789-1800)建立とされ表面には江戸中期の大坂の地唄作詞家で貨幣研究家でもある流石庵(河村)羽積(羽津み)(本名:川村清兵衛)の句「水澤は 藍より出て 紅葉哉」裏面に「猿丸太夫名歌古跡水澤へ 是より三里」とある。水沢(現:水沢町)はここを右折し天白川に沿って上流へ進み途中から県道44号線を行くとある。水沢の楓谷(もみじだに)は紅葉の名所として知られ百人一首にもある猿丸太夫の「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」は水沢で詠まれたものとされる。模型店の外壁には「日永郷土史地図」も掲示されている。
{右・寄}無動山 大聖院 [真言宗醍醐派] 日永2-11-7
道標を右折し少し先右。天平10年(738)行基が南西1.5kmの愛宕山(四日市南高校の南)に開山し大福院と称した。平安末期には第16代醍醐寺座主・定海の住坊だったともされ永禄8年(1565)大和源氏宇野一族の松井親蔵法印が家宝の不動明王像を持ち寺に入ったが永禄11年滝川一益の兵火で寺は焼失。親蔵は持って逃れた像を本尊とし寺を再興し中興1世となり元禄3年(1690)中興4世海養が現在地に移し大聖院とした。牙がない木造不動明王立像(高さ95cm)は大正4年(1915)国重要文化財で平安時代に源頼義が仏師・法橋定朝に造らせたとされる。山門入って右に弁天堂、庚申堂、地蔵堂が並ぶ。東海36不動尊霊場第29番札所、三重四国88ヶ所霊場第9番、伊勢七福神の福禄寿。
{右・寄}万松山(萬松山) 円楽寺(圓楽寺) [天台宗] 日永2-13-7
少し先左の斎木酒販(日永2-6-17)先の十字路を右折し少し行くと右。延暦年間(782-805)に伝教大師が創建したと伝わり比叡山延暦寺の末寺で延楽寺とも書いた。本尊は不動明王で脇仏に釈迦如来と薬師如来。歓喜双身天王(聖天さん)も安置され寺は日永聖天とも呼ばれる。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し再建、大正12年(1923)には水害で被災した。門を入って右に昭和63年建立「照千一隅 山則國寶」碑。境内左に観喜院阿闇梨性全和尚墓、観世堂、明治24年(1891)宝篋印塔、本堂前左に地蔵などの石仏、銅像4体。本堂左の堂の左に延命地蔵、子育地蔵など6石仏の祠、白龍稲荷、平成2年般若心経碑。寺では平成4年から長年親しんだ雛人形、縫いぐるみなどを供養する人形供養も行われる。
{右}日永山 興正寺 [真宗高田派] 日永2-9-6
少し先の上り坂になる手前。貞観6年(864)登城山(四日市南高校の南)に創建され天台宗だったが文暦元年(1234)親鸞が立寄り浄土真宗となった。寛正6年(1465)に無量寿院(現:専修寺)を創建した高田派10世真慧の布教により高田派となり天文13年(1544)高田派12世堯慧が訪れ日永千部という法要を行った。天正2年(1574)現在地に移転後は信長、秀吉、家康に保護された。天正3年滝川一益が出した「日永興正寺四至傍至の事」(寺領寄進・諸役免除の文書)や秀吉の寺内「禁制状」などを所蔵。現本堂は宝永5年(1708)築。本堂前の灯籠は天明6年(1786)。境内左には昭和23年(1948)梵鐘がある大きな鐘楼。市内最古とされる山門は寛文9年(1669)築で入って左に観音銅像、明治28年(1895)手水石。
天白橋
坂を上ると天白川を天白橋で渡る。天白川の上流側は興正寺を囲むようにカーブしており滝川一益が寺を守る堀の役目をするように築堤したと伝わり滝川堤と呼ばれた。大正12年(1923)集中豪雨で天白川の堤防が円楽寺西側ともう一箇所が決壊し鹿化川も大宮神明社の西で決壊したため両川に挟まれた地域は全半壊20棟浸水180棟という被害を受け三重鉄道(現:近鉄内部線)も不通となった。堤防が決壊した付近にある河川敷公園には同年建立の水害記念碑がある。
{右}林光山 両聖寺 [浄土宗] 日永3-6-7
川を渡って少し先。古くは天台宗で西教院と称したが住職が比叡山延暦寺で一緒に修業した浄土宗第3祖記主良忠を1世とし宝治2年(1248)改宗し自らは專阿(専阿弥)と名乗り2世となり3世道阿玄忍が良忠、專阿の両聖人に因み両聖寺とした。本尊は阿弥陀如来だったが焼失し寛永2年(1625)18世完誉月帚が新たに阿弥陀三尊仏を開眼。山門入って左に昭和24年(1949)梵鐘がある鐘楼、大正6年(1917)手水石。境内左に水子地蔵群や石仏2体。役行者倚像、弘法大師座像、延命地蔵立像が安置された祠もある。本堂前左には昭和62年「開山 浄土宗第三祖記主良忠上人」石柱。お盆に境内で行われる「つんつく踊り」は昭和31年市指定無形文化財。鎮守だった八幡社は明治40年(1907)大宮神明社へ合祀。
{右}日永神社 日永4-5-7
少し先で笹川通りを渡りさらに少し先。建仁年間(1201-04)登城山(四日市南高校の南)にあり南神明社と言ったが天正年間(1593-92)信長の侵攻で焼失し後に再建。主祭神は天照大御神。神戸藩主本多家が奉納した備品が現存する。明治40年(1907)近隣の岡山白髭社、日吉神社、追分神明社を合祀し日永神社となった。翌年には池鯉鮒社、山神社、天満社、事比羅社、土大神社、明治44年には稲荷社も合祀した。以前は社殿右に松の老木があり国難があると樹皮が変色し神木として崇められたが現在は切株となっている。切株横には明暦2年(1656)日永の追分に建てられた道標と説明立札もあり嘉永2年(1849)の新道標建立で追分神明社に移されていたもの。境内左に昭和57年「皇大神宮遥拝所」。
{右}長命山 薬師堂
すぐ先。街道に昭和52年建立の石柱と平成13年設置の説明立札がある。元は伊勢安国寺にあった薬師如来座像(高さ87.5cm)を文化13年(1816)から安置している。鎌倉中期の作と伝わる檜材の寄木造で胎内背面と底板には補修の記録を示す正保2年(1645)正徳3年(1713)慶応2年(1866)の墨書があり左前半身は大補修の跡がある。昭和31年市指定文化財。伊勢安国寺は大島村(現:西日野町)にあり総面積3千坪(1万平方m)に塔頭が十数院もある大伽藍だったが元亀3年(1572)滝川一益の兵火で焼失した。像は千種城主・千種忠治(忠房)が持ち出し以降は実蓮寺境内の小堂に安置されていた。安国寺は織田信雄が天正11年(1583)清洲に景陽山総見寺(現:名古屋市中区大須3-23-38)として再興した。
{右}表忠碑&稲垣末吉翁頌徳碑
少し先の四日市印刷工業日永工場(日永4-5-12)の駐車場にフェンスに囲まれてある。奥は日永小学校(日永4-5-13)で横には学校通用口もある。砲弾型の表忠碑は明治42年(1909)建立で大山巌の揮毫。碑の前には大正9年(1920)常夜燈もある。頌徳碑は昭和28年(1953)建立。末吉は明治10年(1877)泊村の瓦製造を営む家で生まれ28歳で上京し製錨工場を興していながき練鋼工場へ発展させ昭和28年77歳で没。軍需で富を得て日永地区にも消防施設や日永小学校に大正11年に講堂、昭和16年に木造2階建校舎2棟を寄贈した。この付近は稲垣姓が多い。駐車場の街道沿いには平成13年建立「東海道」の茶石柱、富田〜采女までの地図が載った「東海道総合案内」の高札風地図付説明板もある。
{左・寄}普光山証明院 実蓮寺 [浄土宗鎮西派]  日永4-4-19
しばらく進むと左の格子の民家を過ぎた駐車場手前に寺の説明立札があり左折して突当りを左折した正面にある。創建時期不明で元は登城山(四日市南高校の南)にあり承久2年(1220)現在地に移転。尼御所と称され大永2年(1522)には伏見宮王女今日姫が入寺したと伝わる。後に荒廃したが滝川一益が母の位牌と墓碑を安置し菩提寺として保護し墓碑と推定される五輪塔(高さ167cm)も現存する。本尊の阿弥陀仏は安阿弥の作と伝わる。慶長年間(1596-1625)にも皇族出身の尼僧が住んだとされ大正11年(1922)宮内省(現:宮内庁)が調査を行い皇室御内緒寺院となった。山門入って左奥に寛文2年(1662)六字名号碑、境内左に享保14年(1729)「庚申」石柱。本堂前右に昭和12年(1937)石造地蔵立像。
{右}雲祥山 西唱寺 [真宗高田派] 日永4-6-4
少し先の向かい。永禄2年(1559)玄聖が創建し浄土宗で安立院と称したが江戸初期に住職の誓宅が高田派14世堯秀に帰依し本尊を賜り改宗し寛文元年(1661)西唱寺となった。正徳2年(1712)中川十兵衛尉が持参した木造聖徳太子像は後に太子堂に安置された。昭和20年空襲で本堂、太子堂、庫裡、書院等が全焼。翌年に庫裡、昭和24年梵鐘、昭和26年本堂、昭和35年書院が再建。山門入って右に鐘楼がある。本堂右の墓地入口に小石仏3基を安置する小祠。境内右の一段高い所に六字名号碑、安政6年(1859)「水神」碑、明治36年(1903)水道記念碑。付近の井戸水などの水質が悪かったため村木四郎八、瀬古源蔵の呼びかけで遠方から水道を引いた記念で「水神」碑にも両名が発起人とある。
{右}日永一里塚跡(100) 日永5-3-7
少し先左のたばこ屋前のポストの向かいに建物の間に挟まれて「史蹟 日永一里塚阯 三重縣」石柱がある。昭和13年(1938)指定県史跡。元禄3年(1690)東海道分間絵図には両塚に榎が植えられ右塚には松も3本あったと記録されている。 日永は間宿で茶店では笹井屋が考案したなが餅、土産物では足袋やうちわが有名だった。足袋では円楽寺興正寺の間にあった「元祖日永足袋」の看板を掲げた藤屋がオーダーメイドで足袋を作ったため評判だった。うちわは付近に自生していた女竹(めだけ)を使い丸い柄と骨が一体となった作りが握りやすく喜ばれ農家の農閑期の大きな収入源となり明治に入っても10数軒の製造業者があったが現在は明治14年(1881)創業の稲藤1軒のみが残る。
{左}東海道名残りの一本松
しばらく歩いて行くと小さな川を渡った少し先にある。説明立札もある。この付近の東海道の街道両側は松並木だったが現在残るのはこの1本のみで市内に残る旧東海道松並木の名残松はここと八田のかわらづの松の2本のみ。松並木は泊村(現:泊町)の集落があるところまで続きそれまでは家が1軒もなく縄手と呼ばれていた。道幅は松が植えられていた土手も含め5間(9m)土手を含まないと3間(5.5m)で現在の道幅もほぼ同じになっている。先を進み県道44号線を渡ると泊町に入る。しばらく進むと右に近鉄内部線泊駅への入口があり距離付「東海道」標示板もある。
{右・寄}追分地蔵堂
しばらく進むと右には大正3年(1914)創業の醤油・味噌醸造販売の伊勢藏(泊町12-3)があり少し先で東海道は国道1号と合流する。右の三重銀行日永支店(日永4-1-44)前を過ぎ隣の駐車場との間の小道を右折し石段を数段登ると地蔵堂の境内。入口に灯籠、手水石があり正面に本堂。堂内には地蔵の他に弘法大師、大日如来、庚申、阿弥陀如来、釈迦如来、善光寺如来も安置されている。本堂左には古い石塔、墓石が4基ある。国道1号を少し進むと追分交差点で旧東海道と伊勢街道が分岐する。現在の国道1号が旧伊勢街道で右へ分岐する現在の県道407号(旧国道1号)が旧東海道。この付近には名物の追分まんじゅうを売る茶店などが並んでいた。
{左}日永の追分
分岐点の三角地帯に木製鳥居、左面「左 いせ参宮道」正面「右 京大坂道」右面「すぐ江戸道」とある大きな嘉永2年(1849)建立の道標、「ひだりさんぐう道」石柱の上に乗った木製常夜燈がある。鳥居は安永3年(1774)久居(現:津市)出身の渡辺六兵衛が七里の渡し舟着場伊勢神宮一之鳥居に続く二之鳥居として寄進したものが最初で文化6年(1809)に建替えられてから昭和4年(1929)の8代目まで神宮遷宮に合わせ20年ごとに建替えられ現在のは昭和50年建立の9代目。初めは伊勢街道を跨いでいたが道路拡張工事で現在のようになった。他に昭和4年「神宮遥拝御鳥居」石柱、昭和15年灯籠、鈴鹿山系からの湧き水、説明碑、説明立札がある。「史蹟 日永の追分 三重縣」石柱もあり昭和13年県指定史跡。