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磐田原の松並木 先を進み左の服部病院(西貝塚3781-2)を過ぎると下り坂になる。左の磐田学園・浜松養護学校磐田分校(西貝塚3577-1)を過ぎると再び登りになり少し先に松並木が左右合わせて十数本ある。左歩道に昭和62年建立の「見付の名木 松並木」角柱石碑がありその先に平成3年建立の「旧東海道松並木」石碑がある。松並木を過ぎると旧東海道は少し登って国道1号と合流する。 |
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{右}遠州鈴ヶ森 合流地点で東大久保歩道橋を渡り国道右側歩道を行くとすぐ石段があり「遠州鈴ヶ森」の白い看板がある。江戸の鈴ヶ森刑場と同じ刑場がここより西の三本松村にありここは首が晒された場所という。金谷宿の宅円庵に葬られている日本左衛門も延享4年(1747)江戸の伝馬町で処刑されたのちここで首が晒された。石段を登ると石碑が2基ある。左は「妙法無縁之萬霊」と刻まれており右は大正9年(1920)建立の題目塔。 |
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三本松橋(なみだ橋) 旧東海道は少し先で国道1号から右に分岐する。分岐し少し先の交差点を渡るとすぐ右が暗渠になっている小さな川があり左の川端に「三本松橋 別名なみだ橋」 の木製看板がある。江戸の鈴ヶ森刑場近くの浜川橋が泪橋(なみだばし)と呼ばれたのと同じくこの橋も遠州鈴ヶ森で処刑される者を肉親らが見送った場所と伝わりなみだ橋と呼ばれる。しばらく行くと変形十字路があり左には大正4年(1915)建立の秋葉山常夜燈と平成2年建立の「旧三本松」石碑がある。旧東海道は変形十字路をまっすぐ行く。 |
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{右・寄}元門(もとかど)跡 道は下りになり下り始めの右に少し入ったところに盛土された小山があり大正9年(1920)建立の石碑と平成11年設置の説明板がある。この細道は見付天神社への参道の一つであり入口にあたる元門には見付天神祭の神事「御斯葉下し(みしばおろし)」の際には2本の榊が立てられる。この神事では他に見付天神社の参集殿前、大鳥居、参道入口右(出口の井戸)、愛宕神社下、三本松御旅所、東坂の梅塚、淡海国玉神社入口角、西坂の梅塚、西坂町十字路(川原入口)、横町土橋、境松御旅所(天王入口)、庄屋虎屋跡前(中泉との境)の12箇所にも榊を立て町中を神聖な場とする。ここから続く参道は江戸時代には「天神道」「元天神道」と呼ばれ小山の裏には平成2年建立の「旧 元天神道」碑もある。 |
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{右}阿多古山一里塚(62) 東坂を下る途中右のアパート「ジュネスII」と民家の間に見える山の上に石柱が見える。こちらが右の塚になり左の塚は愛宕神社の裏山にある。両側の塚とも慶長9年(1604)に築かれたものと言われ市文化財指定。 |
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{右}見付宿東木戸跡 坂を下りきって別の道が合流してくる手前右に「東海道五十三次之内 遠州見付宿 木戸跡」の木製立札がある。見付宿は東木戸から東坂町、馬場町、西坂町、横町と続き東西11町40間(1.3km)。見付の名前の由来は京都から江戸に向かう人々が最初に富士山を見ることの出来た場所という事から「見つける」が転じて見付と呼ばれるようになったという説と当時入江になっていた今之浦の辺りが入海付之地(いりうみつきのち)と呼ばれていたところからという説がある。 |
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見付宿(見附宿) 本陣2脇本陣1旅籠56家数1029人口3935[天保14年(1843)] 古くは遠江国府が置かれ以降も守護所が置かれるなど遠江の中心として発展した。江戸から60里29町京都より64里27町と距離的には東海道のほぼ真ん中にあたる。天竜川の左岸にあり船渡しが行なわれない川止め時は賑わった。明治2年(1869)の大火で建物の大半が焼失し昔の面影は少ない。江戸時代に中泉代官所が置かれた中泉町と昭和17年(1942)合併して磐田町となり昭和23年に磐田市となった。宿場内の東海道を見付宿場通りと言い17の小路が分岐しており石碑や歩道に埋め込まれた説明石板などが分岐点にある。 |
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{左}愛宕神社(阿多古神社) 坂を下りきって別の道に合流する左に石段があり「東海道と愛宕山」の白い説明板、平成13年建立の「祝東海道400年祭」石碑がある。石段の上が境内で石段途中右には明治44年(1911)の灯籠、十数体の石仏群がある。鳥居は明治23年(1890)。小さな社殿左奥を登った愛宕山の最高地点に大正15年(1926)2月建立の一里塚の石柱がある。入口の石段を登らずに右に行くとすぐ左の東坂町自主防災倉庫の隣に街灯も兼ねた木戸をイメージしたモニュメントと「見付宿と阿多古山一里塚」「見付の文化財」の高札風説明板が設置されている。東海道は合流地点からそのまままっすぐ進み少し先には道の両脇に橋の形のモニュメントがある。今は暗渠になっているが昔は愛宕橋があった。 |
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{右・寄}見付天神社(矢奈比売神社) 見付1114-2 少し先に参道入口があり寛政元年(1789)の灯籠がある。参道は「あと押し坂」という急な坂を登る。創建は不明だが延喜式神名帳に載っており祭神は矢奈比売命。正暦4年(993)菅原道真も合祀し見付天神が通り名になった。古くは北東の元天神の地にあった。裸祭が有名で国重要無形民俗文化財。矢奈比売神社の神が神輿に移され遠江国総社の淡海国玉神社へ渡御する際の祭りで裸の群衆が町中を練り歩き拝殿で乱舞する。参道左には住吉神社、参道途中には昔あった楼門の礎石(六ツ石)もある。境内手前右に山神社と本館、境内左に氷室神社、大神宮(伊勢神宮)遥拝所と12世市川団十郎手植えの梅。狛犬は昭和11年(1936)、灯籠は大正4年(1915)など。社殿右奥には筆塚と印塚もある。 |
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{右・寄}霊犬悉平太郎 銅像 見付天神社参道の中ほどの赤鳥居右にある。昭和39年に再建されたもの。延慶年間(1308-11)町に怪物が現われ旅僧一実坊弁存が信州の光前寺(駒ヶ根市)から名犬悉平太郎を借り受け退治した。弁存は神社に留まり正和5年(1316)大般若経を奉納したが現在は光前寺に寄進され寺宝となっている。これが縁で昭和42年に駒ヶ根市と磐田市は姉妹都市になった。平成4年に駒ヶ根市から寄贈された犬を2代目悉平太郎とし現在その子供の3代目が天神社境内で飼われている。天神社の裏のつつじ公園の奥には犬を祀った日本唯一の神社である霊犬神社がありペット愛好家の参詣も多い。昭和8年(1933)開園の広大な公園内には五木ひろしが植えた5本のつつじほか約30種3千5百本のつつじがある。 |
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{右}和風レストラン 大孫 見付1294 見付天神社参道入口からすぐ先。寛政12年(1800)創業。創業当時は宿入口の「一膳めしや」だったという。現在はレストランがメインで宴会場や宿泊施設もある割烹料理旅館。関東風うなぎは注文が入ってから開く。宿場弁当ひざ栗毛(945円)が人気。竹を編んで作った弁当箱に海苔を巻いた梅、かつお、昆布のおむすび3個と小鉢に焼き魚、かぼちゃの種を砕いて衣にしたエビフライなどが入っているがテイクアウトは不可。他に日替りランチ787円など。11:00-13:30、17:00-21:00、月曜休。 |
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{右}天神の木 東之梅塚(東坂の梅塚) 見付1273-1 JA遠州中央見付支店前に見付宿の新旧地図が高札風になっている。その先の同じJA敷地内に標識と梅の木1本の植込みがある。延慶年間(1308-11)町に怪物が現われるようになり毎年8月には一筋の白羽の矢が飛んできて娘のいる家の棟に突き刺さり生贄が選ばれた。生贄となった娘の家には梅が植えられ梅塚が作られた。この風習を見かねた旅の僧一実坊弁存が怪物の様子を探ると悉平太郎を恐れていることがわかり信州の光前寺(駒ヶ根市)に居た同名の犬を探し当て寺から借り受け怪物を退治した。元門跡と同じく見付天神社の神事「御斯葉下し」の際には榊が立てられる。 |
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{右・寄}珠玉山 宣光寺 [曹洞宗] 見付 1340-1 少し先で平成2年竣工の中川橋を渡るがその手前に入口。創建は不詳で慶長元年(1596)妙巌寺(豊川稲荷)25世大渕龍堂が曹洞宗の寺として開山した。本尊は遠州33観音17番札所の十一面観音。本堂左の延命堂には永暦元年(1160)銘がある木造地蔵菩薩坐像を中央に木造毘沙門天立像と不動明王像や木喰上人作と伝わる子育如来像と子育地蔵像がある。延命堂の左に豊川稲荷分院。境内右に弁天神社、「源家康」銘があるため供出を免れたと言う天正15年(1587)家康寄進の梵鐘。境内中央に銀杏の大木、境内左に平成16年水かけ地蔵もある。入口付近には宝暦4年(1754)などの石仏群21基。塀を挟んで隣に大正3年(1914)秋葉山常夜燈。明治6年(1873)見付学校の仮校舎が置かれた。 |
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{左}鳥人浮田幸吉住居跡 橋を渡り少し先の磐田見付郵便局手前に常夜燈風の標識がある。宝暦7年(1757)備前国で生まれ7歳で奉公に出ると表具技術を習得、鳥に興味を持ち鳩などを研究し竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。天明5年(1785)岡山城下で飛行し数m飛ぶも騒ぎとなり捕らえられ藩から追放。後に駿府に移り備前屋幸吉の名で木綿を扱う店や時計の修繕をしたり入れ歯師備考斎の名で義歯作りをしたが晩年は清水次郎長の兄貴分の見付の大和田友蔵に招かれここに居を構え弘化4年(1847)91歳で没した。駿府にて駿河凧を参考にグライダーを製作し店の者に引っ張らせて平地から飛び隠密の疑いをかけられ再び追放されたとも言われる。大見寺に墓と本堂に翼のレプリカがある。 |
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{右・寄}日照山 大見寺 [浄土宗] 見付2510-1 向かいに入口。右に平成5年東海道見付宿の石碑。その先の参道右に平成2年旧寺小路石碑、明治4年(1871)建立昭和3年(1928)再建の青銅製秋葉山常夜燈もある。本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代の作。門柱には成田山不動尊の名もある。本堂左の庫裡左に知恩院の初代門跡で家康の猶子でもあった良純法親王供養塔がある。甲斐へ流され万治2年(1659)赦免され京へ戻る際に滞在し11世住職が弟子となり親王の死後に建てた。本堂右に時打稲荷、境内左に地蔵の祠、石仏3体の祠。寺と裏の見付公民館、磐田北小学校にかけては明応8年(1499)遠江今川6代貞延が守護所として築城した見付端城跡でもあり境内南西の墓地奥に土塁の名残、見付公民館前に平成3年「見付端城跡」碑がある。 |
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{右}問屋場跡 寺入口隣の静岡銀行見付支店(見付2531-2)前に「東海道五十三次之内 遠州見付宿 問屋場跡」木製立札がある。向かいには栗餅を唯一年間を通じ売っている井口製菓(見付2663)がある。栗餅は古くから見付天神社の裸祭の際に作られ神前に献上され江戸時代の終り頃から神供の新粟で作られたものが土産として売られ始め見付天神名物となった。今では祭の時に近隣の菓子屋が製造販売している。磐田市の商業振興の一環である「いわたブランド」にも認定されている。 |
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{左・寄}御証文屋敷 安間平治弥邸跡 (現:片桐医院) 見付2689-2 問屋場隣の車道と歩道の間に案内標柱があり向かいの道を左折し少し先を右折して清水小路に入ると右の片桐医院前に常夜燈風の標識や説明板がある。元は弥平治と言い漢学や詩文に通じており家康から代官に任命され元亀3年(1572)武田軍に追われる家康を冷酒清兵衛と共に助けた。その功績により見付に屋敷を与えられ平治弥と改名し現在の磐田駅南方の二之宮、大池周辺にあった鷹狩場の管理もした。屋敷内には家康の鷹部屋を設け池には清水が流れ家康にも清水を献上したと言い清水がこの付近の地名にもなった。清水小路入口右には平成2年の旧清水小路石碑、片桐医院向かいには昭和4年(1929)建立のモダンな秋葉山常夜燈もある。 |
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{左}脇本陣跡 すぐ先の秀英予備校磐田本部校(見付2658-1)とPIZZA-LA磐田店(見付2657-2)の間に「東海道五十三次之内 遠州見付宿 脇本陣跡」木製立札がある。脇本陣の大三河屋は元は旅籠で文化2年(1805)に脇本陣となった。天保年間(1830-43)の修理の銘がある門が見付宿いこいの広場に移築復元されている。 |
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{右}御朱印屋敷 冷酒清兵衛邸 脇本陣跡ななめ向かい。大通り交差点の手前右側の屋敷。前に常夜燈風の標識がある。冷酒清兵衛は家康が付けたあだ名で本名は上村清兵衛。酒を造り家康が見付を訪れた時に献上したところ気に入り冷酒清兵衛と呼ばれるようになった。元亀3年(1572)武田軍に追われ清兵衛宅に逃げ込んだ家康を逃がすため見付宿の数箇所に火を放ち通行できないようにし追手を退去させたと言う。清兵衛の案内で妙恩寺に一泊し無事浜松城に戻った家康は清兵衛に名刀を贈りその後も見付を通る際には酒を飲みに訪れたと言う。清兵衛家は江戸時代も町人として続いたが弓道の日置流印西派の祖である吉田源八郎重氏の甥の重保(如玄)が上村清兵衛正敬に弓道を伝授したことで遠州系の祖にもなった。 |
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{右}本陣跡 その先の交差点を越えた少し先の立正佼成会浜松教会磐田法座所(見付2575-3)のビルの階段の下に「東海道五十三次之内 遠州見付宿 本陣跡」木製立札がある。ここが鈴木孫兵衛の北本陣があったところで向かいに神谷三郎右衛門の南本陣があった。両本陣家の墓所が西光寺にある。南本陣には江戸城中刃傷事件の2年前の元禄12年(1699)赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸より国へ返る途中に宿泊した。この時家老の大野九郎兵衛知房は旅籠飯田屋宗右衛門に泊まり片岡源五右衛門は旅籠筑前屋甚四郎に泊まった。 |
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{右・寄}淡海国玉神社(おうみくにたま)見付2452-2 すぐ先に入口があり「高札場之跡」看板と明治10年(1877)常夜燈がある。創建年代は不明だが見付に国府があった時の遠江国総社であり延喜式神名帳にも記載がある。元は岩井原という地にあった。祭神は大国主命で他にも20近くの神を相殿に祀る。昭和63年鳥居をくぐると右に弘化2年(1845)手水石が現役で使われている。その横には井戸跡。社殿は市指定文化財で本殿は明暦年間(1655-57)の再建で三間社流造(間口5m奥行5.14m)。拝殿と幣殿は文久年間(1861-63)宮坂昌敬(立川常蔵昌敬)の手による再建で拝殿は三棟入母屋造向拝付(間口10m奥行6.36m)幣殿は三棟入母屋造(間口4.54m奥行4.54m)。拝殿前に狛犬はなく祭神大国主命の因幡の白兎伝説から平成18年建立の兎がある。 |
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{右}旧見付学校 見付2452 神社の隣。明治6年(1873)宣光寺、省光寺[時宗](見付2423)を仮校舎として開校し明治8年校舎が建てられた。現存する日本最古の洋風木造小学校校舎で玄関は飾柱を配し3階2層の5階建て。当初は2階2層の4階建てだったが明治16年3階を増築。昭和44年国史跡に指定。明治14年の記録で生徒数は男300名女182名。大正11年(1922)まで小学校として使用され後に中学校、練武館、裁縫女学校、准教員養成所、病院等などに転用され昭和28年に磐田市立郷土資料館、平成4年から旧見付学校として公開。裏には元治元年(1864)淡海国玉神社神官大久保忠尚が開いた私塾・磐田文庫の建物もある。無料、9:00-16:30、月休。街道に面した所は小公園になっており夢舞台道標磐田市 見付宿もある。 |
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{右}伝酒井之太鼓 旧見付学校の1階にある。元は浜松城にあり元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いの際に家康家臣酒井忠次が打ち鳴らして武田軍を撤退させたと伝わる。明治元年(1868)浜松藩廃藩で城下の板屋町に払い下げられ祭囃子などに用いられ明治7年見付の花屋吉三郎らが買取り翌年の校舎落成時に寄贈され朝昼の時報として最上階で鳴らされた。現在の磐田北小学校(見付2352)の位置に移転した学校に昭和7年太鼓楼が増築されると太鼓も移された。昭和39年歌舞伎座で「酒井之太鼓」が上演された際には歌舞伎座ロビーに展示され以降は見付天神社に置かれていたが平成9年に戻った。市指定文化財。1階には他に人形が置かれ学校の教室や職員室が再現され2階は学校関係の資料等が展示されている。 |
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{右}見付宿いこいの広場 脇本陣「大三河屋」門 少し先にある平成19年に整備された広場。左に復元移築された市指定文化財の脇本陣門がある。天保年間(1830-43)に修理の銘があるもので中泉の民家の門として移築されていたが平成17年に市に寄贈され解体保存されていた。桟瓦葺切妻造の屋根を持つ薬医門形式で冠木、屋根上の鯱、獅子の飾り瓦の留蓋は新調された。横には説明板もあり広場奥にはいこい茶屋、四阿などもある。向かいの江戸中期創業という蕎麦屋三友庵(見付2625-1)店先の置かれたショーケースには江戸時代に実際に使われていた蕎麦せいろなどが展示されている。元は旅籠だったが5代目の三平と6代目の友蔵親子の頃に2人の名から1文字ずつとり三友庵とし蕎麦屋を始めた。 |
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{右・寄}本立山 玄妙寺 [日蓮宗] 見付2440-1 少し先に入口がある。本尊は久遠実成本師釈迦牟仏。日什門流(現:顕本法華宗)開祖日什が至徳2年/元中2年(1385)創建。寺号の玄妙は日什が19歳で比叡山で天台宗の僧として出家した時の名。康暦2年(1380)日蓮宗に改宗した日什が康応元年/元中6年(1389)起こした日什門流(妙満寺派)で玄妙寺は妙満寺(京都府)、妙法寺(福島県会津若松市馬場本町3-34)とともに三本山の1つに数えられていた。山門手前左に題目塔、境内右に昭和5年(1930)など2基の題目塔を含めた石碑群、その横に経蔵。本堂前左に水かけ地蔵がある。毎年行われる日蓮の命日の法要である御命講では子育て草履の風習があり1足を借りて子供に履かせると元気に育つと言われ翌年には2足にして返すというもの。 |
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{右・寄}大梅山 慈恩寺 [臨済宗妙心寺派] 見付2431-1 玄妙寺の隣奥。街道沿いには木看板もある。創建は応永年間(1394-1428)頃とされる。本尊は聖観世音菩薩。本堂内にある大黒天の木像は宮本武蔵の一刀彫りと伝えられる。応永26年(1419)の銘がある雲板(叩いて時を知らせる金銅製の板)もあり市指定文化財。山門手前右に大正6年(1917)秋葉山常夜燈とその前に平成2年建立の旧玄妙小路石碑がある。山門横にクロガネモチの木、本堂に続く参道にマキの木群がありそれぞれ昭和62年建立「見付の名木」石柱がある。平成14年本堂、書院、庫裡新築。遠江49薬師霊場第49番。境内左に6地蔵や大きな地蔵、石仏2体が集められている。その奥には2体の石仏が安置された祠や大正7年(1918)の手水石がある。裏は塔之壇公園になっている。 |
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{左}又一庵 見付本店 見付2808 東海道を少し進むとある。明治4年(1871)創業の菓子屋。又一きんつばが有名で今や磐田名物の代名詞。第20回全国菓子博覧会において名誉総裁賞を受賞。磐田市の商業振興の一環である「いわたブランド」にも認定されている。北海道十勝産大粒小豆と海水を天日で干した天然塩を使い添加物は使用していない。5個入650円。栗きんつば(5個入800円)、鶯きんつば(5個入650円)、黒糖まんじゅうの幸吉まんじゅう(6個入650円)国分寺最中(6個入770円)もある。9時-7時無休。
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{右}西坂の梅塚 少し先にある新しい小公園で梅の木が1本植わっている。東坂の梅塚同様、延慶年間(1308-11)の怪物に生贄を捧げた家に梅を植えたのが梅塚で西坂の梅塚はその最後に作られたものであった。元門跡と同じく見付天神社の神事「御斯葉下し」の際には榊が立てられる。宿場内の案内地図や塀には説明板もある。地図には見付17小路の名前も記入されており小公園の左の小路は梅屋小路と言い梅屋敷があった梅屋町に通じる小路だった。 |
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{右・寄}栗田家(旧栗田煙草合資会社)土蔵群 見付3528-1 梅屋小路をそのまま少し奥に行くとある。明治初期から30年ごろに建てられたとされる土蔵群で平成18年に市登録有形文化財の第1号となった。全部で5棟あり一番奥は3階建てとなっている。栗田煙草合資会社は明治創業の民営煙草製造・販売業で「日本一」「金時」「小倉山」などの銘柄を製造し蔵は煙草の収納・乾燥に使われていた。日清戦争後の財政収入を増やすため明治31年(1898)に煙草販売は国営(専売)となり販売部門は見付葉煙草専売所となり明治37年(1904)日露戦争の戦費調達のため煙草製造も国営になると見付煙草製造所として国(大蔵省専売局)の管轄下の私製造所となった。建物は損傷が激しく市では修復整備を検討している。 |
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{右}姫街道 東海道はすぐ先の十字路で左折するが十字路を渡った左に「遠州見付宿 これより姫街道 三州御油宿まで」という木製立札がある。古くは東海道はここからまっすぐ行ったが左折した先の中泉に天正12年(1584)中泉御殿、天正18年その東に代官陣屋が設置されると東海道は左折するルートになった。正面の道は江戸時代中も脇往還(迂回ルート)として利用され浜名湖北方の本坂峠を越え御油宿に通じるため正式名は本坂通と言うが浜名湖を渡る今切の渡しやその先にある女改めに厳しい新居関所を避けて旅する女性が主に通ったため姫街道の俗称が付いた。天竜川を渡る池田の渡しへの近道のためここからの道は池田道とも呼ばれ他にも東海道からは安間一里塚、浜松城大手門などからも分岐していた。 |
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{右}西木戸跡 左折して県道44号線を行くと中村眼鏡時計店(見付3324)の前に電柱に隠れて「東海道五十三次之内 遠州見付宿 木戸跡」の木製看板がある。見付宿の出口にあたる場所。先に進み加茂川を昭和55年竣工の加茂川橋で渡ってすぐの西光寺入口横には道路の両側に木戸をイメージしたモニュメントがある。街灯も兼ねており東木戸跡に近い愛宕神社のそばにも同様のものが設置されている。 |
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{右}東福山 西光寺 [時宗] 加茂川通3353-1 元は真言宗で文永2年(1265)傾木和尚が創建し建治・弘安年間(1275-87)訪れた一遍に傾木が教化され一遍を開山とし改宗した。本尊は阿弥陀如来。本堂にある東福門院が寄進したと言う日限地蔵尊は阿弥陀三尊とともに元和7年(1621)寺が全焼しても無事だったため有名になった。寺は2年後に再建し寛政3年(1791)には敷地が9160坪(3万平方m)になった。明治44年(1911)見付宿内にあった光堂山蓮光寺を合併。薬医門形式の総欅造の表門は中泉御殿の門を移築したと伝わり市指定文化財。寛政元年(1789)建立の山門を兼ねた鐘楼堂をくぐる手前右に一遍上人像、くぐって右に楠(樹齢500年樹高18m根周13.7m)があり隣のナギの大木と共に市指定天然記念物。遠江49薬師霊場第48番。 |
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{右}遠江国分寺跡公園 見付3046 旧東海道は国道1号を渡ると緩やかな登り坂の県道56号線となる。少し先で左に分岐ししばらく先でまた元の県道に合流し少し進むと公園。旧東門跡にあたる入口右に昭和28年「遠江国分寺」石柱、左には遠江49薬師霊場の説明板があり入ると右に旧閻魔堂。その先右に発掘された礎石の1つをくり抜いた手水石がありその隣に参慶山延命院国分寺[新義真言宗]がある。中世ごろの創建で本尊薬師如来を安置し遠江49薬師霊場第1番。向かいには石仏8基の祠、石仏2基の祠。その先は広い草地となっており金堂跡、講堂跡、七重の塔跡などがある。国分寺は弘仁10年(819)に焼失したと言われ昭和26年発掘調査が行われ翌年国史跡指定。昭和58年作の復元模型がすぐ南の磐田市役所1階にある。 |
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{左}府八幡宮 中泉112-1 国分寺跡向かい。天武天皇の曽孫にあたる遠江国司の桜井王が天平年間(729-48)に創建。祭神は足仲彦命、誉田別命、気長足姫命。大鳥居をくぐり参道を行くと左に寛永12年(1635)建立の楼門がある。入母屋造の随身門で昭和30年県指定文化財で昭和58年に屋根を建立当時の柿葺に改修した。楼門をくぐると寛永12年(1635)建立で文化年間(1804-17)再建の中門がありその奥に拝殿付きの幣殿と本殿がある。幣殿は寛永12年(1635)建立で正徳4年(1714)再建、本殿は秀忠の娘で後水尾天皇妃の東福門院が寄進し元和3年(1617)建立で寛永12年(1635)再建、その後も改修跡がある。中門、本殿、幣殿は市指定文化財。本殿裏には3つの祠に山口社、住吉社、稲荷社など12社が祀られている。 |
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{左}神宮寺跡 府八幡宮の参道突き当たりの社務所左に古い土塀の名残がありその下に平成3年建立「神宮寺跡」石碑がある。社務所の場所には明治の廃仏毀釈まで阿弥陀如来像を祀っていた新義真言宗の神宮寺があった。跡地には寛文年間(1661-72)中泉の御殿山に建立された東照宮が明治6年(1873)移転したが明治45年(1912)社殿左奥の現在地に移されている。社務所裏のワークピア磐田(見付2989-3)の駐車場を入って左には万葉集巻8収録の桜井王の歌と聖武天皇の返歌の昭和38年建立の歌碑がある。府八幡宮は社宝として瑞花鳳鸞八稜鏡や平安時代の作である僧形八幡像、女神像を所蔵し4万平方mの敷地は自然林に恵まれ昭和60年県の「ふるさと自然(お宮の森・お寺の森)百選」にも選ばれた。 |
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{右}旧救院跡 左のNTT西日本磐田ビル(中泉112-6)を過ぎた植込みに平成5年建立の旧東海道石碑があり少し行くとジュビロードと呼ばれるアーケード付き商店街に入る。少し先のミニストップ磐田中泉店(中泉269)と鈴木小児科医院(中泉270-1)の境に平成3年建立の石碑がある。中泉御殿の東に建てられた中泉陣屋は江戸時代は幕府代官所となり明治に入ると静岡藩の奉行所(中泉奉行所)となった。初代奉行となった前島来輔(前島密)は明治元年(1868)の水害などにより困窮していた人々を救済するため寺院等に呼びかけボランティア組織である救院をここに設置した。他にも前島は管内に移住した士族の世話やその師弟の教育を行い後に明治政府に出仕し郵便制度を創設した。磐田駅南口に前嶋密像がある。 |
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{右}蚊帳の博物館 中泉235 サッカーボールをデザインした街灯と両側歩道にジュビロ磐田の選手の足形、手形があるジュビロードを進んで行くとある。寝具店である菊屋(中泉243)が平成17年にオープンさせた日本初の蚊帳の博物館。蚊帳の歴史、蚊帳のある暮らしの紹介、昔の蚊帳から現代の蚊帳、世界の蚊帳の展示の他に体験コーナーや販売コーナーもある。ムカデ対策蚊帳ムカデントや平成17年ムーブル・パリ(パリ国際家具見本市)に出展されたKACOON(カクーン)など最新の蚊帳もある。2階はイベント催事向けの貸しスペースになっている。 蚊帳は応仁天皇が播磨の国を巡幸の際に賀野の里(かやのさと)という所で初めて使ったという記録がある。無料、水休。
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{右・寄}弘誓山 西願寺 [真宗大谷派] 中泉250-1 しばらく行くとアーケードが一旦切れ花屋ときわ(中泉400東)先を右折していくと右にある。本尊は阿弥陀如来。表門は天正12年(1585)造営の中泉御殿の裏門を移築したもので市指定文化財。御殿は現在の磐田駅南付近に浜松城主の家康の別荘として造営され家康が関東に移封された後も秀吉より所有が認められ東海道の往来時の宿泊施設や鷹狩り時の休息所として利用された。江戸時代に入り大阪の陣の際も家康が滞在し寛文10年(1670)御殿は廃止され建物は周りの寺院に払い下げられ主殿と裏門が西願寺に移された。主殿は本堂として使用されたが現存せず現在の本堂は教会風の建物になっている。本堂左に平成2年鋳造の鐘がある鐘楼がある。 |
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{左・寄}磐田駅 中泉633-1 東海道を進んで行くと左に天平のまち(中泉497-1)がある磐田駅南交差点で東海道は右折するが正面に駅が見える。明治22年(1889)開業時の名は中泉駅で昭和17年に改称した。駅舎は大正4年(1915)、昭和32年に建て直し現在は平成12年の築で天平をイメージしたデザイン。駅舎前には遠江国分寺七重の塔の1/30模型(高さ2.5m)や明治44年製造され大正4年から昭和62年まで使用された跨線橋の支柱がある。駅前の植込みには約1500年前の堂山古墳から出土した鞆(とも)の埴輪を形どった「ともはにわの碑」。駅舎に向かって右手前には昭和34年県指定天然記念物の楠(樹齢700年樹高18.3m根周32.9m)がありここにあった善導寺[浄土宗](現:見付1-10)は昭和42年に移転したが楠だけ残された。 |
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{右・寄}浅間神社 磐田駅南交差点で右折するとゆるやかな登り坂となり少し先に入口がある。明治44年(1911)鳥居前の灯籠は慶応3年(1867)。その横の手水石は昭和3年(1928)。社殿右奥に小さな祠があり隆鞆社と刻まれた平成3年石碑がある。その横には明治29年(1896)建立を昭和35年再建した浅間講中記念碑。社殿左は西町公民館。境内には大きな松が数本あり境内左にはブランコもある。東海道をさらに進むと「弘法大師堂 磐田郡 新四国 二十五番札所」石柱があり右折した左の空地に祠があり座像と立像の石仏2体が安置されている。横には石仏群もあり空地内には大正13年(1924)建立の日魯大菩薩石像を安置する祠もある。 |
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{右}磐田市立中泉公民館 (磐田市立中泉国民体育館) 中泉2404-1 磐田駅南交差点で右折ししばらく行くとある。体育館を併設する公民館で前の植込みに「江戸時代の中泉絵図」「大正時代の中泉」の地図板がある。その先の植込みには平成3年建立の旧東海道石碑と夢舞台道標磐田市 中泉もある。公民館を過ぎるとすぐに江戸時代は立場だった旧:大乗院村に入り磐田ライスランド(中泉2937)がある交差点を渡って少し先右のコーポはなみずき駐車場の植込みに平成3年建立の「大乗院坂」石碑がある。東海道から少し北の県道261号沿いの千寿酒造(中泉2914-6)の位置には明治時代は煉瓦工場があり明治22年(1889)開業の中泉駅(現:磐田駅)ホームはそこで作られた赤煉瓦で築造された。 |
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{左}黒坊大権現 少し先で右後ろより県道261号が合流する手前にある金網フェンスで囲まれた祠。咳や熱病の神とされ現在地から約100m西の田んぼ(現:磐田化学工業正門)の中にあった祠を移したもの。くろんぼ坊様とも呼ばれ元は強盗殺人にあったインド人の旅僧を土地の人々が葬ったものと言われている。金網フェンスには説明板と「大乗院坂界隈」説明板もある。ここから県道261号を行く。人力鉄道の中泉軌道の跡でもあり明治42年(1909)開通し昭和に入って経営が傾き昭和5年(1930)休止となり昭和7年(1932)廃止となった。中泉駅(現:磐田駅)から田中神社(中泉1689-1)の近くを通り北上し県道261号線に出て左折し東海道に合流し天竜川の池田橋までの5.9kmで主に天竜川上流で産出される鉱石を運んでいた。 |
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