東海道ルートガイド
舞坂宿

{右・寄}熊野神社 南区高塚町4708
少し先の高塚歩道橋の先右に赤鳥居と神社名石柱があり右折し正面。祭神は伊佐奈岐命、事解男命、速玉男命。紀伊の熊野神社の神官が諸国遍歴の際に建立したと伝わる。安政大地震の大津波の被害者を弔うため神社に造った墳墓やそれより前に神主が夢のお告げで作った塚が地名「高塚」の由来になった。境内入口右に昭和40年の石造秋葉山常夜行燈。他にも享和4年(1804)昭和12年などの灯籠。境内右の石鳥居は慶応2年(1866)。社殿右に福神社、山住神社などの祠、社殿左に稲荷社。社殿左前には御神木の樹齢500年の雲竜椎があり平成8年御神木に指定。境内入口左の樹齢400年の黒松「昇天松」は切株のみ残る。境内左に鉄棒、右にブランコなど。向かいの道に「源十道路」木杭。
{右・寄}如法山 高蔵寺 [臨済宗方広寺派] 高塚町4706
すぐ先にある。参道左に石仏3基の祠と新しい6地蔵の祠がある。境内左に福徳稲荷と小祠。先を進むと高塚駅交差点の先左のマクドナルド浜松高塚町店(高塚町4860)前には松が4本ある。
{左}立場本陣跡 西区篠原町14111
少し先で旧東海道は国道257号から右に分岐し西区に入る。分岐の三角地に夢舞台道標浜松市 篠原がある。この先に篠原の立場があった。分岐してしばらく行くと左から県道316号が合流した先の民家が立場本陣跡で植込みには倒れて朽ちた木杭がある。現存する平屋の建物は安政年間(1854-59)の築で立場本陣の母屋だったもの。安政以前は2階建てだったが安政大地震で破損したため平屋で建て替えられた。立場本陣には明治初期に明治天皇が3回小休している。
{右・寄}天照山 萬松院(万松院) [曹洞宗] 篠原町1228
斜め向かいのリンナイの看板がある株式会社ハクト(篠原町1158-1)手前の砂利道を右折すると正面。門の右に寛政8年(1796)石灯籠入りの屋形秋葉山常夜燈と銀杏が1本ある。入って右には小祠がある。浜名湖岸88ケ所霊場第56番札所。
{右}神明宮 篠原町1166
少し先にある。建暦2年(1212)小島神明島に創建され永徳年間(1381-84)現在地に移転した。 祭神は天照大神、豊受姫大神。現在の社殿は昭和7年(1932)築の神明造で天正8年(1580)の棟札も残る。鳥居は大正元年(1912)。入口の灯籠は文政2年(1819)。他にも境内に明治35年(1902)、大正7年、昭和7年、昭和57年の灯籠がある。社殿左の境内社は八幡さまと呼ばれ大国主命、津島神社、東照宮、若宮八幡宮を祀る。境内左にはブランコ、ジャングルジム、鉄棒、すべり台もある。
{右}篠原一里塚跡(67)
しばらく行くと左のおのだ電器(篠原町12028-2)向かいの民家の庭先に説明板がある。東海道宿村大概帳には左に松、右に榎が植えられていたとある。 篠原の地名は昔は小笹(篠)が一面に生い茂る原野だったことから付いた。明応7年(1498)と永正7年(1510)の2度の大地震・大津波で水没した舞坂町弁天島北方の長里という村の生存者がここに避難して開拓し新しい村を作ったという。
{右}秋葉山・津島神社遥拝所
バス停「札木」や篠原郵便局を過ぎて左の森上接骨院(篠原町11979-2)を過ぎた十字路向かいのカーブミラー下に「高札跡」説明板がある。しばらく先に行くと鈴木米穀店(篠原町9506-1)の先に遥拝所がある。外見は屋形の秋葉山常夜燈を太くした造りになっている。
{右}秋葉山常夜燈
少し先左の篠原小学校(篠原町10300)前に上部が折れたような松があり小学校を過ぎ篠原川を昭和55年竣工の長里橋を渡った左にも松が1本ある。橋を渡りしばらく行くと屋形の秋葉山常夜燈がある。新しい欄間には飛翔する鶴の彫刻がある。この道は他にも屋形秋葉山常夜燈が多く設置されている。
{右}愛宕神社 坪井町1-7
少し先の篠原交番の隣にある。鳥居、灯籠は昭和3年(1928)。入口右に屋形秋葉山常夜燈がある。隣奥に愛宕山光雲寺[臨済宗妙心寺派](坪井町1)が隣接しておりコンクリート平屋の本堂左に稲荷社がある。
{右}稲荷神社 坪井町3456
しばらく行くと左の三立浜松営業所(坪井町2560)先に「仲山浜道」木杭があり斜め向かいには石灯籠入りの屋形秋葉山常夜燈、少し先に神社がある。祭神は稲荷大神、宇加之御魂之大神、佐田彦大神、大宮売大神。永享12年(1440)伏見稲荷より勧請。天正16年(1588)拝殿再建の棟札が現存する。現在の拝殿は大正11年(1922)築で境内の森を建築材としこの時に携わった村内の大工の名前が境内入口左の社名石柱に刻まれている。入口灯籠は文化2年(1805)、赤い鳥居の先の石鳥居は文化13年、手水石は文化3年、狛狐は昭和7年(1932)、社殿前灯籠は大正11年。社殿右はブランコ、すべり台、砂場、鉄棒などがある坪井児童遊園。神社を過ぎると再び石灯籠入りの屋形秋葉山常夜燈がある。
{右・寄}冨士山 東光寺 [臨済宗妙心寺派] 坪井町1739
少し先に浜名湖岸88ケ所霊場の石柱があり右折正面。本尊は東方薬師瑠璃光如来。曽我十郎の末裔が住み着き隣地に尼寺「冨士見庵」を建立し薬師如来を安置したのが起こりと言う。荒廃後に賢哉元玉禅師が開基し慶長6年(1601)には勢巌元育禅師が開山し臨済宗妙心寺派「冨士山東光寺」となった。山門入った左に6地蔵と石仏1基を安置する祠、庚申像を安置する祠。その先に亀の背に六角柱が乗った南海霊亀碑があり文化7年(1810)初秋の夜中に遠州灘が荒れ翌朝打ち上げられていた亀を村人が葬り翌年碑が建立された。本堂左には観音像がある堂、子授地蔵と4石仏が安置された祠、観音像の祠や古い石仏群などもある。東海49薬師霊場第41番札所。浜名湖岸88ケ所霊場第59番札所。
{右}引佐山(いなさやま)大悲院観音堂聖跡
しばらく行くと石灯籠入りの屋形秋葉常夜燈があり少し右に入った草地に石碑と説明板がある。敷地右には稲荷の祠、奥には児童遊園もある。馬郡観音堂とも呼ばれた堂があった場所で安置されていた高さ1尺2寸5分(38cm)の聖観世音菩薩立像は昭和42年から如意寺(馬郡町5315)に移されている。治安元年(1021)定朝法橋上人が諸国巡行中に神託を感じ引佐細江の里の老杉の根元で秘文を唱え七日七夜祈り続けると老杉が光輝き聖観世音菩薩が現れたため上人が老杉を切って彫った像と言われる。引佐細江に安置され「引佐細江の観世音」と呼ばれたが久安5年(1149)現在地に移された。東海道をしばらく進むと左の松並木クリニック(馬郡町3111)向かいに石灯籠入りの屋形秋葉常夜燈がある。
{右}長久山 東本徳寺 [日蓮宗]  馬郡町1383
しばらく進んでいくとある。東本徳寺と西本徳寺は元は1つの寺で本徳寺の「泉光坊」が改称されて東本徳寺となった。天保14年(1843)東海道宿村大概帳には「東西本徳寺弐ヶ寺有之」とある。入口には題目塔と大正元年(1912)建立の「清正公三百年祭紀念碑」がある。加藤清正は日蓮宗の篤信者として有名で慶長16年(1611)熊本で没した。境内左には清正公堂がある。朱塗りの山門を入って左には稲荷神社がある。境内は芝生が植えられ右には蘇鉄もある。
{右}西本徳寺 [日蓮宗] 馬郡町1557
少し先にある。永徳元年/弘和元年(1381)創建。西本徳寺と東本徳寺は元は1つの寺で本徳寺の「大泉坊」が改称されて西本徳寺となった。入口に題目塔と昭和17年(1942)建立の「海中出現釈迦牟尼仏安置」碑がある。釈迦牟尼仏像は宅円庵に首塚がある大盗賊・日本左衛門が盗み出し浜松方面に逃げたが気付いたら相変わらず寺の門前だったという伝説がある。本堂は新築工事中(平成25年完成予定)。本堂左には釈迦堂、裏には位牌堂がある。
{右}春日神社 馬郡町1882-2
馬郡跨線橋南交差点を渡るとある。祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比賣神。永徳元年/弘和元年(1381)甲州行脚の沙門律師日朝が建立を請い応永2年(1395)春日大明神を勧請。延喜式神名帳にある津毛利神社とする説もある。入口の灯籠は右が元治元年(1864)左が文化5年(1808)だが両方とも竿部分は再建されたもの。鳥居は大正9年(1920)。昭和8年(1933)本殿、拝殿、幣殿改築。右入口の鳥居や境内の多くの灯籠も昭和8年。境内左に水の枯れた池があり中央に「水神」石碑。社殿前には狛犬の代わりに左右に銅製の雌雄の鹿。社殿右に若宮社、八幡社、山宮社、天王社を祀る境内社があり鳥居は昭和40年。境内奥はブランコ、すべり台など。東海道はここから県道49号線となる。
舞坂松並木
舞阪駅南入口交差点を越えると両側に松並木がある。始まり右に夢舞台道標舞阪町 東海道松並木。正徳2年(1712)の記録では舞坂宿の加宿だった馬郡村の境から舞坂宿の見付石垣までの8町40間(920m)の間に1420本あったという。現在は700mの間に両側で330本ある。昭和47年町文化財に指定。昭和13年(1938)国道付替工事の時に歩道を松並木の外側に設けるなどの整備を行った。右歩道には所々に「子の刻」から始まる昔の時刻表示が刻まれた十二支を型取った石像。左歩道には広重の絵銅板が嵌め込まれた石碑が日本橋から京都まで55個並ぶが舞坂宿だけ平成3年建立の大きな碑になっており絵は石彫レリーフで説明文付で裏は「東海道 五拾三次内 舞阪 三拾之宿」とある。
{右}舞坂橋跡
舞坂宿の石彫レリーフ碑の斜め向かいには裏面に東海道松並木の説明が彫られた平成3年建立「舞坂宿」碑があり少し先の羊の十二支像を過ぎると「舞坂橋跡」説明板がある。砂州に発展した舞坂には川は無かったが北にあった西長池という大きな池に南から松並木を横切って流れていく水路が昭和10年頃まであり橋が架けられていた。天保14年(1843)東海道宿村大概帳には寛政10年(1798)赤坂代官辻甚太郎により架けられた長さ7尺(2.1m)横3間(5.5m)橋杭4本立2組の土橋が文化14年(1817)に板橋に架け替えられたとある。
{左}浪小僧像
松並木が終わるとポケットパークがあり像と舞阪文化財案内地図、ベンチ、トイレなどがある。浪小僧は浜で地引網漁が行われていた頃に網にかかったという海底に住む真っ黒な小僧の伝説で助けて海に帰してやると天気の変わる時や荒れる時には波の音(海鳴り)がするようになり荒天が予測できるようになったという。波の音は遠州七不思議の1つにもなっている。遠州七不思議は静岡県西部地方の不思議な現象を集めたものだが確定されておらず10個以上の不思議候補が存在している。東海道はすぐに国道1号が左から接近し舞阪新町交差点でエックス状に交差する。
{右・寄}稲荷山神社
交差点から右奥に白い鳥居が見える。国道1号をそのまま行くか国道を横断して旧街道を少し進み右折して国道を横断すると行くことができる。創建は不明だが古くからこの地域に「いなり山」として祀られていた神社で平成11年に現在地に移転し翌年伏見稲荷の分霊を新たに勧請した。祭神は宇加之御魂大神、佐田彦大神、大宮能大神、田中大神、四之大神。「いなり山」は慶長9年(1604)の史料にも記述が見られる。境内右に大きな昭和51年建立の土地改良記念碑、ブランコ、すべり台などがある。境内左は灯籠が並ぶ参道奥に昭和25年建立の慰霊塔、その後ろに大正3〜9年戦役記念碑(陸軍中将井上幾太郎書)、征清表忠之碑(陸軍中将大島義昌書)、日露戦役表忠之碑(陸軍大将大島義昌書)。
見付石垣
交差点から国道1号を横断ししばらく進むと道の両側に石垣があり左側には説明板がある。ここが舞坂宿の東の入口となる。石垣は江戸時代中期頃の築造と考えられ宝永6年(1709)の古地図にも記載されている。石垣の石は浜名湖周辺から産出されたものでやや赤みを帯びており放散虫(プランクトン)の殻が堆積して固まった堆積岩の一種(チャート)。石垣は昭和の道路工事で左側の一部が削られたため右側の石垣が少し大きく高さ1.5m上辺部の長さ3.8m幅0.8m。昭和47年町文化財に指定。
舞阪宿   本陣2脇本陣1旅籠28家数541人口2475[天保14年(1843)]
古来からある宿だが家康は隣の新居宿に今切の渡船権を与え重用し舞坂宿には公用以外の伝馬、人足の使役を禁じたりもしたため渡船が欠航時以外は舞坂の宿泊客は少なかった。地震、津波などの災害や新居宿や近隣の村との漁業権などをめぐるトラブルも多発し困窮し江戸後期より海苔の養殖、明治33年(1900)以降は鰻、すっぽんの養殖を産業とした。た。弁天島も明治20年代から海水浴など観光地となっている。古くは象嶋、柴江、平安時代以降は廻沢、舞沢、前沢、前坂などとも呼ばれ江戸時代には舞坂と書いたが明治22年(1889)舞阪に統一された。平成17年浜松市に吸収合併された。
舞坂一里塚跡(68) 新町常夜燈
少し先左に昭和50年建立「一里塚跡」碑と文化12年(1815)建立の石造常夜燈、一里塚と常夜燈の説明板がある。右は町有地としてポケットパークになっており「東海道舞坂宿一里塚」碑と松、文久2年(1862)当時の舞坂宿住居図が刻まれた横長の碑、ベンチがある。天保14年(1843)東海道宿村大概帳には左右とも松が植えられていたとある。明治7年(1874)の調査では広さは左右ともに5歩(16.5平方m)で右の松は高さ2間半(4.5m)目通2尺(61��)。左の一里塚には大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木があったと言う。新町常夜燈は正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮と刻まれている。舞坂宿の東海道沿いには他に仲町常夜燈と西町常夜燈の2つ常夜燈がある。
{左・寄}浜松市舞阪郷土資料館 西区舞阪町舞阪2668-56
先に進むと左の新町自治会館(舞阪1722)の先の十字路を左折して500m先突き当たりを右折すると左にある。宮崎本陣の50分の1模型や舞坂宿のジオラマ、宿場資料が展示されている。他に弥生時代の弁天島遺跡出土品、江戸時代の和船型鰹船の模型、海苔養殖の道具、舞阪大太鼓祭りの大太鼓などもある。浜名湖の海苔養殖は文政3年(1820)海苔商人森田屋彦之丞と江戸大森の三次郎が当時大森で行なわれていた「ソダ養殖法」を宿泊先の舞坂宿角屋甚三郎に伝授し広まり後に大森と並ぶ産地となった。彦之丞と三次郎の墓が宝珠院にある。午前9:30-17:30、無料、月休。舞阪図書館も併設し南は海で昭和39年初点灯の舞阪灯台、西側には舞阪総合体育館「舞童夢」(舞阪2623-32)もある。
{左・寄}海福山 養泉寺 舞阪町舞阪1907-1
東海道をしばらく進むと丸吉堀江商店(舞阪1794-2)の先の変形十字路右に付近の名所地図や浮世絵が貼られた高札風案内板とベンチがある。左に行くと見本寺跡があり現在は墓地のみが残り西本徳寺が管理している。さらに街道を進むと仲町自治会館(舞阪1882-1)を過ぎた十字路を左折すると左に養泉寺がある。入って右に祠、左には大正9年(1920)灯籠。正門は街道と反対側の南側にあり正門を入って右には6地蔵がある。明治22年(1889)町制施行による舞阪町誕生時から明治42年(1909)茗荷屋に移転するまで町役場が置かれた。舞阪灯台にある詩句碑の中に浜松市出身の俳人原田濱人の門人で昭和期の住職だった櫻井道鑑(俳号:貞重)の句「潮ぬれの 風あり砂丘の 弥生かな」がある。
{左}仲町常夜燈
十字路少し先の宝珠院前に文化10年(1813)建立の石造常夜燈と説明板がある。前面に両皇大神宮、西面に秋葉大権現、東面に津嶋牛頭天王のと刻まれ高さは台座と合わせ2.7m。西側に明治25年(1892)の秋葉山の石祠がある。江戸時代の舞阪は火災が多く特に文化6年(1809)には宿場の大半を焼き秋葉信仰が高まった。舞坂宿の東海道沿いには他に新町常夜燈と西町常夜燈の2つ常夜燈がある。斜め向かいには七里役所があった。
{左}宝珠院 [臨済宗方広寺派] 舞阪町舞阪1927
山門手前左の6地蔵は1体は平成8年の再建だが元禄6年(1693)などの年号が見れる。本堂右の墓地入口に舞阪に海苔養殖を伝えた海苔商人森田屋彦之丞と江戸大森の三次郎の墓がある。彦之丞は天保2年(1831)57才で没し故郷の信濃に葬られたが明治20年(1887)頃に分骨を譲り受け指月院に埋葬、後に廃寺になり宝珠院に移された。大正14年(1925)改修し昭和42年三次郎の墓も隣に建立した。墓地奥には次郎長一家28人衆の1人「舞坂の冨五郎」の墓もある。山門入って右の小堂には北野天神、波切不動明王、観世音菩薩、薬師如来、弘法大師、妙見菩薩、大森三次郎位牌、森田屋海苔祖神を祀る。明治6年(1873)舞阪小学校(舞阪76)の前身が置かれた。浜名湖岸88ケ所霊場第61番札所。
{左・寄}岐佐神社 舞阪町舞阪1973
茶舗常楽園(舞阪1976-1)向かいの小道を左折すると裏鳥居がある。正面入口(鳥居)は街道と反対側の南側にある。延喜式神名帳にも記載される古社だが明応7年(1498)地震で浜名湖が海と繋がりこの付近の集落は水没し消失。この地の柳の古木の根元に小祠が漂着したためこの地に社殿を建立した。祭神は赤貝の神・蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)と蛤の神・蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)。天正2年(1574)以来何度か社殿が再建され棟札が残る。現在の社殿は大正元年(1912)築。狛犬は大正13年。灯籠は昭和17年、昭和37年、昭和40年や正面鳥居に一番近い文政11年(1828)などがあり昭和31年の銅製灯籠もある。正面鳥居入って左に祠が2つある。二之鳥居は昭和11年(1936)。
{左・寄}赤石
岐佐神社社殿右に御神木の松があり社殿左に古事記に登場した神話の赤石と説明板がある。八上比亮と婚約した大国主命に恋争いで敗れた兄達は大国主命を呼び出すと「山の上から猪を追い落とすから下で捕まえよ」と騙し真っ赤に焼けた赤石を落とした。石を受けた大国主命は大火傷を負い命を落としたが母神から命乞いを受けた天上の神皇産霊神が娘神で岐佐神社の祭神である蚶貝比売命・蛤貝比売命に命じ大国主命の治療をさせた。蚶貝比売命は貝殻を削って白い粉末を作り蛤貝比売命は粘液を出し2つを練り合わせ全身に塗ると火傷は治り大国主命は蘇って八上比売と結婚し国作りを始めた。赤石は水産・漁業の神であると共に火傷・病気の神として信仰を集めている。
{右}宮崎伝左衛門本陣跡 舞坂2089-1
しばらく行くと前に浜名湖が見えてきた辺りの民家前に「舞坂宿 本陣跡」石柱がある。天保14年(1843)東海道宿村大概帳には建坪158坪(521平方m)門構玄関付。文久2年(1862)宿内軒別絵図面には間口11間2尺(21m)奥行20間3尺(37m)建坪130坪(429平方m)畳敷160畳とある。明治初期に明治天皇が4回小休したが後に土地の大半を売却。昭和10年頃まで建物が一部残ってたが現在は遺構はない。1軒おいて隣には源馬徳右衛門本陣があった。大概帳には建坪90坪(297平方m)門構玄関付、文久2年絵図面では間口8間半(15m)奥行14間5分(26m)建坪100坪5分(332平方m)畳敷86畳半。舞阪宿は初め宮崎本陣のみだったが今切の渡しが航行中止時に大名の宿争いが起こり源馬本陣が追加された。
{左}脇本陣 茗荷屋  舞坂2091
本陣跡の斜向かい。東海道で唯一建物が現存する脇本陣。堀江清兵衛が営み天保14年(1843)東海道宿村大概帳には建坪84坪(277平方m)門構無し玄関付。文久2年(1862)宿内軒別絵図面には間口5間(9m)奥行15間(27m)総坪数75坪(248平方m)の2階建てで部屋数14室総畳数76畳半。建物は主屋、繋ぎ棟、書院棟で構成され明治42年(1909)から10年間町役場に使用された。平成3年舞阪町所有となり天保9年(1838)築の書院棟を解体保存後平成9年に他棟も合わせ復元した。同年町文化財指定。通常の旅籠と同じく2階部屋があり本陣と同じく上段の間がある。唐破風柿葺屋根で「丸に抱き茗荷」の家紋を染めた幕が軒下にある。主屋棟と書院棟の間には中庭もある。9時-16時、無料、月休。
{左}西町常夜燈
少し先で湖沿いの道と交差する手前角に文化10年(1807)建立の常夜燈と説明板、夢舞台道標舞坂宿がある。常夜燈正面には両皇大神宮、西面に秋葉大権現、東面に津嶋牛頭天王と刻まれている。舞坂宿の東海道沿いには他に新町常夜燈と仲町常夜燈の2つ常夜燈がある。西町常夜燈向かいには昔は高札場があった。
{左}本雁木(ほんがんげ)跡
湖沿いの道に出た正面左に説明板、右に新しい屋形常夜燈がある。江戸時代に渡船場があった場所。雁木とは階段状になっている渡船場のことで本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」と言った。渡船場はここの他に南雁木、北雁木と計3ヶ所あり本雁木は主に一般武士が利用し東西15間(27m)南北20間(36m)の石畳が街道から湖の水際まで坂になって敷かれていた。現在は遺構もなく漁港の船着場になっており直進すると防波堤がありその先には舞阪漁港魚市場がある。渡船時間は季節により変更があったが午前4時〜午後4時の間の1日3往復で1.5里(6km)を2時間かけて渡った。渡船権利は新居宿のみに与えられていた。
浜名湖
太古の浜名湖は遠淡海や遠江と書かれた淡水湖で海とは分離しており浜名川が遠州灘に注いでいた。貞観4年(862)川に浜名橋が架けられ古東海道はこの橋で新居側へ渡っており枕草紙にも橋が登場する。明応7年(1498)大地震と津波により陸地部分が決壊し海とつながり明応8年の暴風雨、永正7年(1510)の暴風雨と地震により湖口部はさらに拡大し淡水と海水が混ざる汽水湖となった。当時の人は陸地が今切れたので今切と呼びその後の横断手段である渡船も「今切の渡し」と呼んだ。湖口部は昭和29年(1954)開始の築堤工事で幅200mに固定された。湖岸からは遠くに湖上の赤鳥居が見える。現在は渡船はないため弁天橋を渡り弁天島上を通る国道1号や東海道線で新居まで行く。
{右}水神社 南雁木(渡荷場)跡
本雁木前を左折し湖沿いの道を少し行くとある。石鳥居と小さな社殿、灯籠一対がある。神社は元は30m東の地点にあったが漁港工事に伴い現在の場所に移された。神社前には南雁木である渡荷場(とうかば)跡の説明板があり簡単な昔の位置関係を示した地図も記されている。南雁木、本雁木、北雁木と3ヶ所あった渡船場のうち南雁木は輸送用荷物の積下ろしや一般庶民の乗降に使用され渡荷場と呼ばれた。遺構は残っておらず石垣は昭和25年(1950)から始まった漁港改築工事により姿を消した。
{右・寄}指月院跡
本雁木前を右折し湖沿いの道を少し進み酒処伊とうの先の小路を右折し道なりに行くと左の佐々木モータープールの横に堂がある。初山宝林寺[黄檗宗](北区細江町中川65-2)を開いた独湛禅師の法孫である龍雲和尚が中風病で半身不随となり50余才にして故郷舞坂に帰り以前から十王堂があった場所に正徳2年(1712)指月院を建立した。文久2年(1862)の絵図には境内に本堂、十王堂、金比羅堂が記載されている。明治の終り頃に廃寺となったが昭和14年(1939)地元住民により元の境内の一隅である現在地に小堂が建てられ本尊であった十一面観世音や金比羅大権現などが安置された。堂前右には石仏が1体置かれている。
{左}北雁木
湖沿いの道をさらに進むとある。道から幅10間(18m)の石畳が湖の水際まで敷きつめられており右に新しい屋形常夜燈と石碑、説明板がある。南雁木、本雁木、北雁木と3ヶ所あった渡船場のうち北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用した。雁木は3ヶ所とも新居宿の松山新田を開発した野口休可(甚九郎)が約3万両で請負い明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて築造した。3ヶ所のうち遺構が現存するのは北雁木のみで昭和49年に町文化財に指定されている。両側には石垣も残るが白い石の部分は昭和28年(1953)台風13号により破損し修復した部分。石畳や石垣の赤みを帯びた石は見付石垣と同じもので堆積岩の一種(チャート)。
{右・寄}那須田又七顕彰碑
斜め向かいの西町老人憩いの家の横の空地奥にある。那須田家の先祖は豊臣氏に仕え大阪の陣ののち舞阪で農業を営み天明4年(1784)生まれの又七は勉学に励み16歳で問屋場の書記となり後に問屋役、名主を務めた。浜名湖に海苔養殖の基盤をつくり飢饉の時には私費を投じて救済事業を行った。その功績により天保14年(1843)帯刀を許され「袱刀爺爺」と呼ばれ嘉永3年(1850)66歳で病没、安政5年(1858)顕彰碑が建立された。脇本陣 茗荷屋には又七が使用したとされる駕籠が展示されている。孫で同名の那須田又七は舞阪を代表する事業家で明治14年(1881)金原明善らとともに舞阪〜新居間の渡船に代わる有料木橋の浜名橋を架けたり明治20年頃から弁天島の観光開発事業を行なった。
{右・寄}弁天橋
そのまま湖岸沿いの道を進んで行くとある弁天島へ渡る橋。手前左には本雁木や北雁木にもあった屋形常夜燈がある。弁天橋は明治44年(1911)初代の橋が架けられ現在の橋は昭和47年の竣工。弁天島は明応7年(1498)大地震で隆起した小島に渡船の航路確保のために度々浚渫した土砂が積まれ形成されたと言い現在は8つの人工島から成り大きく蓬来園、千鳥園、渚園、乙女園、観月園に分かれている。橋を渡ると右の児童公園には昭和天皇が巡幸の際に船に乗った跡地を示す昭和11年建立「今上天皇陛下御乗船場記念碑」がある。左は昭和44年に整備された弁天島海浜公園で明治22年東海道線開通の頃に開かれた海水浴場や昭和35年の開湯という温泉なども隣接している。
{右・寄}弁天神社 舞阪町弁天島3775-2
橋を渡り少し先で国道1号に合流した左。宝永6年(1709)江戸白銀町の松葉屋が今切の渡しの安全を祈願し創建した。祭神は市杵島姫命。境内に松の大木が何本かあり昔、天女が舞い降りたが後に駿河の三保の松原へ去ってしまったと言う伝説がある。松に祈願すると子宝に恵まれるとも言われ子宝の松とも呼ばれる。社殿右に社会評論家・茅原崋山が大正15年(1926)に詠んだ昭和5年(1930)建立の漢詩碑。社殿左前には正岡子規が明治28年(1895)上京時に汽車車窓から浜名湖を眺め詠んだ大正14年建立の句碑と浜松市出身の俳人・松島十湖が明治41年詠んだ大正初期建立の句碑がある。手水石は明治44年、鳥居は大正5年。社殿前灯籠は昭和14年。 国道1号をしばらく行くと右にJR弁天島駅。