東海道ルートガイド
袋井宿

{右}花茣蓙(はなござ)公園
国道1号から左に分岐しそのまま原野谷川の土手を下りると小公園がある。公園内に明治16年(1883)建立の可睡三尺坊道標がある。側面に「従是西 東海道 御本躰可睡三尺坊大権現」とあり萬松山可睡斎[曹洞宗](久能2915-1)への道標。応永8年(1401)創建で明治5年(1872)秋葉山から三尺坊大権現の御真躰が遷座し日本唯一の御真躰を祀る火防霊場として秋葉総本殿三尺坊大権現鎮座道場と呼ばれる。他にも木造屋形の秋葉山常夜燈や「名栗の立場」の説明板、広重の袋井宿の絵もある。東海道中膝栗毛には「なくりのたてばにつく ここは花ござをおりてあきなふ」とありこの付近に立場があり花茣蓙が名産だった。北西一帯に広がる坂尻遺跡は奈良時代の佐野郡衙(郡役所)や日根駅家の跡。
{左}ごみ集積小屋
しばらく行くと駕籠の形をしたごみ集積小屋がある。小屋の壁には浮世絵からデザインした絵が描かれている。空にあがった唐獅子牡丹模様の袋井丸凧の絵は元は二代目歌川広重が安政6年(1859)から文久元年(1861)にかけて書いた諸国名所百景(大判85枚未完)のうちの1枚。初代広重も行書版東海道や隷書版東海道の袋井で凧を描いているが丸凧ばかりではなく隷書版ではメインの唐獅子牡丹の凧は四角で隣の小さい凧が丸凧になっている。袋井丸凧は長らく途絶えていたが昭和62年頃から復刻されどまん中宿場ギャラリーで見学できる。小屋には「名栗の花茣蓙」説明文も書かれ「観光案内処」の木札も立て掛けてあり横の簡素な台の上に袋井市の観光パンフレットも置かれている。
袋井松並木
この後すぐに松並木が始まり袋井宿まで断続的に松並木が残っている。両側に土塁を整え新しく植えられた松も多い。右側の並木の外側には歩道もある。東海道宿村大概帳の掛川宿には「宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記されている。この先は所々に袋井にまつわる浮世絵を大きく引き伸ばした高札風の説明板が地元企業の寄贈により設置されており松並木の途中にもNSKワーナー寄贈による「行書東海道 袋井」やひしだい製茶寄贈による歌川芳員の「東海道五十三次之内 袋井」がある。
{右}富士浅間宮 鳥居
松並木右に大和ハウス工業中部工場(国本841)があり過ぎたところに朱塗りの大鳥居がある。真下に「重要文化財 富士浅間宮」の大きな石碑があるが鳥居をくぐっても工場のフェンスにぶつかるだけで本来続いていた参道は工場建設でなくなっている。鳥居は延亨3年(1746)東海道巡覧記には「むかしは鳥居有。今は松木有」とあり文化3年(1806)東海道分間延絵図には描かれているためこの間に再建されたものとされ江戸時代には東海道から木々の間に浅間宮の社殿を見ることができた。現在はすぐ隣に新しい車道が出来ており「浅間神社へ800m」の標識がある。神社は大同年間(806-810)坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社より分霊を祀り創建し天正18年(1590)築の本殿は国重要文化財。
{左}貫名山 妙日寺 [日蓮宗] 広岡2340-1
松並木がなくなりしばらく行くとある。正慶元年(1332)身延山久遠寺4世大法阿闍梨日善が創建。日蓮の父の貫名次郎重忠の法名を寺号とし敷地は貫名氏の邸宅跡と伝えられ山号も貫名山としている。本尊は一塔両尊四士。本堂左の思親殿には日蓮と両親(妙日・妙蓮)の木像が安置され思親殿右奥の両親供養の五輪塔「妙日尊儀 妙蓮尊儀供養塔」は正保3年(1646)柳生但馬守宗矩の寄進による建立で昭和62年市文化財指定。塔の後ろには貫名氏歴代墓所の石野の正覚寺(廃寺)から明治時代に初代政直、2代行直、3代重実の供養塔も移された。4代にあたる重忠は源平の合戦で平家に味方したため鎌倉幕府から安房国小湊へ流され貞応元年(1222)日蓮が生まれたが正嘉2年(1258)に没した。
久津部一里塚(60)
すぐ先左の袋井東小学校(広岡2317-1)の街道に面した敷地に復元された小さな塚と説明板がある。両塚ともなくなっていたが昭和47年の創立百年記念で左塚があったと思われる位置に盛土をし一里塚碑が建てられ平成12年に丸石を積んで固め上に松を植える改修をした。向かいの民家横には鉄柱があり「江戸から六十里 久津部一里塚跡」とある。右の塚は鉄柱より3間(5.5m)奥にあった。両塚にあった松は明治10年(1877)に伐採された。少し先の小学校校門には「東海道五十三次 どまん中 東小学校」という大きな木製表札がかかっている。少し先右に大正4年(1915)建立「油山寺道標」と標柱があり少し先右には昭和28年建立の巨大な石造秋葉山常夜燈がある。
{右・寄}用行義塾跡
さらに少し行くと右から交差する広い道の左右に大正4年(1915)建立の「村松・宇刈道標」と「八幡入口道標」と標柱がある。この道を右折して少し行くと右に平成6年設置の「袋井近代教育発祥の地 用行義塾」の説明板がある。明治5年(1872)民間の有志が共同出資して設立した学校で袋井で最初の近代教育の場となり刮目学校を経て袋井東小学校となった。小学校には用行義塾の設立趣意書、学課、規則の版木が残り昭和56年市文化財に指定。久津部村の庄屋だった足立家の文書の一部とされる日誌并先生方御出席控(明治6年)、束修教授料覺(明治5年)、出席教授優生姓名簿(明治5年)などの塾関連の冊子は戦後に古書店を経由して現在国文学研究資料館に収蔵されている。
{左}法多山道標
少し先のスズキデンキ(国本2096-1)向かいには大正4年(1915)建立の「法多山道標」と標柱があり「従是 下貫名ヲ経テ法多山ニ通ス」と刻まれている。法多山尊永寺[高野山真言宗](豊沢2777)の本尊の観世音菩薩は厄除観音として知られる。さらに先に進むとJA遠州中央袋井東支店(国本2493-4)の少し先に明治37年(1904)建立の「油山寺道標」と標柱があり「あぶら山ミち 二十七丁」と刻まれている。医王山油山寺[真言宗智山派](村松1)は眼病治療に御利益があると言われる。法多山尊永寺医王山油山寺萬松山可睡斎[曹洞宗](久能2915-1)を合せて遠州三山と言う。十字路を渡った先左の城所医院(広岡1463-2)前に同院寄贈の「隷書東海道」の浮世絵説明板がありこの先は再び松並木が続く。
{右}七ツ森神社 国本2568
少し先の御食事処サガミ袋井店隣。創建年代は不明だが昔は郡辺神社と呼ばれ延喜式神名帳にも記載がある。祭神は大己貴命、久努国造で相殿に玉依姫命、別雷命を祀る賀茂神社がある。久努国造は古墳時代にこの地方を治めたとされる地方豪族で周辺に久努、久野、久能、国本などの地名も残る。神社名も久努神社、賀茂神社などと変化し昭和20年に現在名になった。七ツ森とは小夜之中山の怪鳥退治に京から遣わされ返り討ちにあい村人に葬られた7人の塚に由来し天明6年(1786)東街便覧図略には付近に塚が七つ描かれている。平成5年築の社殿前にシイノキ(幹周6.7m樹高14.7m)、社殿左奥には大日神社の小祠。境内右に明治7年(1874)移され昭和6年(1931)社殿再建の七ツ森稲荷社。
{右}油山寺道標
松並木を進むと左の丸明建設(高尾町6-21)前に同社寄贈の「双筆東海道」の浮世絵説明板があり松並木が終わる少し手前右に平成12年設置の東海道松並木の高札風説明板がある。そのすぐ先右からは小路が分岐し文政11年(1828)再建された医王山油山寺への道標があり「従是油山道」と刻まれている。小路を渡った民家前には年号不明の萬松山可睡斎への道標があり「是より可睡三尺坊道」と刻まれている。松並木がなくなりしばらく行くと県道413号線(旧国道1号)と合流し合流点右には夢舞台道標袋井市 東新屋がある。県道を少し進んだ新屋交差点を渡って左折しすぐ先右の白畑ふとん店(新屋2-9-7)手前の細道を右折するのが旧東海道。細道入口に夢舞台道標袋井市 西新屋がある。
{左}新屋の秋葉山常夜燈
細道を進むと木造屋形の秋葉山常夜燈と説明板がある。常夜燈は上部が大きく重厚な瓦屋根で軒下の細かい彫刻とその下の格子と腰板部、土台の石垣から成る。その後ろには小さな祠もある。秋葉山常夜燈は街灯としての目的だけでなく火防の神への信仰(祠)として建てるものもあった。袋井市内には石造常夜燈と木造屋形常夜燈が合計14基現存している。道なりに進み広い通りに出た左に夢舞台道標袋井市 市役所前がある。正面右には袋井市役所(新屋1-1-1)が見える。ここを左折し右の袋井市総合センター(新屋1-2-1)を過ぎた十字路を右折し広岡川沿いの道に入る。そのまま右折せず新屋橋を渡りまっすぐ行くとJR袋井駅に通じる。
{左}天橋の橋柱
川沿いの道に入るとすぐ「これより袋井宿」の大きな石柱の手前に昔の橋柱と高札風説明板がある。広岡川にかかる天橋(阿麻橋)は袋井宿の東入口にあたり江戸時代は土橋だった。広重の袋井宿の絵「出茶屋の図」もこの付近と言われる。現在の天橋は橋上で道が2つに分かれているが東海道は左の道で江戸時代には右の道はなかった。橋を渡ると少し広く道が折れ曲がっており桝形があった名残で左には高札場があった。
袋井宿   本陣3脇本陣0旅籠50家数195人口843[天保14年(1843)]
鎌倉時代には存在し弘安年間(1278-88)の遺塵和歌集にも「なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の」と登場しているが江戸時代の宿場としては他に比べて遅い元和2年(1616)に設置された。掛川宿と見付宿の間が約4里と長かったため後から必要となったとされ掛川宿へ2里16町見付宿へ1里半。宿場の長さは5町15間(572m)しかなく東海道の宿場で最も短い。地名は袋に囲まれたように広がる地形からと言われる。京都からも江戸からも27番目の宿場で現在は「どまんなか」をキーワードに町興しが行われている。昔は鰻やすっぽんが名物で現在の袋井市はマスクメロンの生産が日本一。
{右}東海道どまん中茶屋 袋井339
天橋を渡った小公園の中にある。広重の袋井宿の絵にある出茶屋をコンセプトにして平成12年開設された無料休憩所。宿場の外れに臨時開業する茶屋を出茶屋と呼び浮世絵では榎の木の根元の木杭で囲んだ土盛りに筵(むしろ)を敷きその上を葦簀(よしず)張りの屋根で覆い榎の枝から吊り下げた薬缶で湯を沸かしている。庭には袋井ライオンズクラブ寄贈の浮世絵の説明板もあり木の下はこの出茶屋を模した感じになっている。奥の建物が実際の休憩所(茶屋)で観光案内所も兼ねている。無休、9時-17時。前には夢舞台道標袋井市 袋井宿もあり脇には「此処天橋 袋井丸凧発祥之地」と書かれている。茶屋の先で道は再び2つに分かれるが東海道は右を行く。
{右・寄}白髭神社 袋井363
洋品の村松屋(袋井35-1)を右折すると正面。祭神は猿田彦神。創建年代は不詳だが正徳5年(1715)現在地に移転した。銅の鳥居をくぐると大正5年(1916)建立の灯籠がありその先で道路を渡ったところが境内。嘉永元年(1848)築の一間社流造の本殿は間口5尺6寸(170cm)奥行4尺9寸(148cm)で彫刻は京都御所の建礼門などを手がけた立川和四郎富昌の娘婿である宮坂昌敬(立川常蔵昌敬)の手による。境内にある灯籠は大正4年建立。社殿右の祠に諏訪社、秋葉社、伊勢神宮、津島社、八幡社などの境内社がある。社殿左には明治27年(1894)と明治28年建立の戦没者塔、昭和34年建立の忠魂碑などがある。境内左にはブランコやすべり台もある。右には新町公会堂がある。
{右}袋井東本陣公園
少し先の冠木門がある小公園で東本陣跡に造られた。袋井宿の3本陣で最も大きく敷地1068坪(3524平方m)建坪288坪(950平方m)間口13間半(24.5m)奥行31間(56m)玄関門構付。問屋役もつとめた田代八郎左衛門が営み壱番御本陣とも呼ばれた。明治になり本陣を廃業すると伝馬所元締役となり郵便開始とともに取次所を始め建物は最初の袋井郵便局となった。平成3年の発掘調査で敷地内の最も東側の建物の一部や火災の跡が発見された。現在の公園は本陣家の住居部分にあたる。市文化財「本陣御宿帳」は参勤交代が制度化される以前の元和4年(1618)から寛永11年(1634)までの利用状況が記録されている。公園内に東本陣の説明の他にも東海道の本陣の説明などの説明板もある。
{左}袋井宿場公園
斜め向かいにある。瓦葺きの門を入ると塀の内側が説明板やイベント情報、ギャラリーの掲示場所として利用されている。芝生が植えられた公園内には四阿、池、噴水、宿場説明&イラスト地図、豊田肥料(高尾町1-2)の寄贈による北斎漫画と末広五十三次の浮世絵説明板もある。すぐ先の静橋北交差点で交差する道は江戸時代は左を法多小路、右を観福小路と言い狭い小路だった。左折するとJR袋井駅に通じる。
{右・寄}袋井山 観福寺 [曹洞宗] 袋井186-1
静橋北交差点を右折すると左にある。袋井宿のどまん中にあるので「へそ寺」と呼ばれる。 延暦12年(793)天台法華宗として建立された。本尊は聖観世音菩薩で江戸時代後期まで遠州三観音の1つだった。脇本尊は建久3年(1190)安置された頼朝の母の持仏の延命地蔵菩薩で遠州一姫29福地蔵第28番札所。天正15年(1587)家康の重臣坂部正定がこの寺で没し天正17年可睡斎11世仙麟等膳を迎え正定の供養を行い曹洞宗となり徳川家より葵の紋を拝領した。本堂右奥に元和2年(1616)勧請した袋井豊川稲荷こと豊川殿がある。本堂は平成13年改修。左に喜多向福地蔵もある。寺には「悪戯白狐と狐狩の物語」や義経千本桜の「子狐忠信」など狐や母子にまつわる話が伝わっている。
{左}問屋場跡
静橋北交差点を渡って少し先の民家の駐車場に標があり側面に説明が記載されている。 文化年間(1806-17)には向かいの中本陣の西側にあったと言われる。人足100馬100に問屋1人年寄2人帳付4人などが詰めていた。
{右}中本陣跡 袋井51
魚屋の魚源前に鉄柱がある。袋井宿の本陣は3軒ありそれぞれ東本陣、中本陣、西本陣と呼ばれていた。中本陣は大田家が営んでいた。しばらく行くと右に袋井宿の名所旧跡地図や松、街道の雰囲気のあるゴミ集積所がある。
{右}西本陣跡
すぐ先の民家に鉄柱がある。ここも大田本陣。文化10年(1813)升屋仙台下向日記には大阪の豪商の升屋平右衛門重芳が仙台に向かう途中に袋井宿の太田脇本陣に宿泊したとある。天保14年(1843)の記録には袋井宿に脇本陣は存在しないが朝食の膳に「たまごふわふわ」が出たと記されており平成18年観光協会の有志により再現された。鰹を中心としただし汁を煮立て泡立てた卵を入れ蓋をし少し蒸らすだけで市内の一部飲食店のメニューにもなっており他にもラーメン、アイスクリーム、和菓子になどにアレンジされ歌も作られ町興しになっている。江戸時代には袋井宿だけでなく将軍家の餐応料理でもあり東海道中膝栗毛の中にも登場する人気料理だったという。
{右}どまん中宿場ギャラリー  袋井291
その先にある「袋井丸凧」の看板のある建物。天野製材所の工場の一部を間借りして平成14年開館。大正時代等の昔と現在の風景を比較した写真パネルや袋井名物「丸凧」を展示している。開館は主に土日の10時-17時。袋井丸凧は現物が残っておらず浮世絵に見られるのみで長年途絶えていたが昭和62年頃袋井丸凧保存会が発足し復刻された。2代広重の「諸国名所百景 袋井」に描かれた丸凧の唐獅子牡丹の図柄などは版木を新たに作り往時そのままの姿で再現できるようになった。骨は淡竹(はちく)で回し骨を使うのが特徴。この付近には江戸時代には御普請所があった。
{左}本町宿場公園(枡形・高札場跡)
少し先の御幸橋の手前にある。江戸時代は袋井宿の西の枡形があった場所で現在は公園として整備されている。街道右には高札場があったため公園を入った左に高札場が復元され土手(土塁)、高札場、秋葉山常夜燈の平成11年設置の説明板が高札として掲げられている。その先にある石段の両脇は枡形をイメージして石垣土塁に竹垣が復元され「従是袋井宿」の傍示杭もある。公園内には四阿もある。公園入口には昭和42年再建された秋葉山常夜燈がありもとは寛政年間(1789-1800)の建立で街道右にあったもの。南方約50mにある円信寺跡には寛政12年(1800)建立の常夜燈が残っている。
御幸橋(中川橋)
すぐに宇刈川(中川)にかかる御幸橋(中川橋)を渡る。平成9年竣工で長さ26.3m幅は車道7m歩道2.5m×2。橋柱は常夜燈をイメージしたデザイン。袋井宿は東入口が天橋で西入口は御幸橋だった。袋井宿は川に囲まれた地にあり古くから治水のための土手に囲まれていたと言われ大正時代に撮影された写真には石垣で補強された高さ2mを越える土手が写っている。
{左}御料傍示杭
橋を渡り少し行くと交差する道の中央分離帯にある。側面には「従是東天領袋井宿」「従是西掛川藩川井村」と書かれ裏には「万葉歌碑110m(袋井中学校正門内)」の標識板が取り付けられている。領地的にはここまでが袋井宿だった。江戸時代の川井村は12町(1310m)で家並は3町(330m)。享保12年(1727)山名郡川井村差出明細帳では家数121人口527だった。掛川藩とともに川井村を治めていた旗本米津氏の陣屋が澤野医院記念館の向かいあたりにあり川井代官所が袋井中学校裏の睦美橋の西側河川敷付近にあった。
{左・寄}万葉歌碑 川井701
そのまま左折し突き当たると袋井中学校で左折すると正門があり入って右に昭和40年建立の碑がある。万葉集巻20に収録の防人の歌でこのあたりの出身者が詠んだと思われる2首が刻まれている。「時々の 花は咲けども 何すれそ 母とふ花の 先出来ずけむ(丈部真麿)」(季節季節に花は咲くのにどうして母という花は咲かないのだろうか。咲けば手で折ってでも持っていくのに。)「遠江 白羽の磯の 贄の浦と あひてしあらば 言も通はむ(丈部川相)」(遠江の白羽の磯と贄の浦のようにここと故郷が向かいあっていれば言葉も通じるだろうに。)平成12年設置の説明板もある。正門入って正面に昭和52年建立の創立30周年記念の立志碑、門左に平成7年増田幸雄作の乙女像「素敵な夢もちたいな」もある。
{右}法多山別院 (高野山真言宗袋井教会)
東海道を少し進むと十字路右にあり民家のような敷地に祠などがある。大正4年(1915)創建で「川井のお弘法さま」と呼ばれている。その対角には長谷川葬儀(川井3)の寄贈による香蝶楼(歌川)国貞と葛飾北斎の袋井浮世絵説明板もある。この浮世絵説明板のある付近には昔は切戸池と呼ばれた大きな池があり東海道には切戸橋という橋がかけられていた。その斜め向かい付近には川井地区を代表する江戸時代の商家だった萬屋があった。少し先右の寺田理容室(川井15)手前からは秋葉道が分岐しており道路に説明プレートが埋め込まれている。
{右}一木喜徳郎宅跡
その先右のヤマジ酒店倉庫を過ぎた隣に小公園がありベンチや川井地区史跡一覧の案内板(地図)が設置されている。ここが明治から昭和にかけて貴族院議員、文部、内務、宮内大臣、枢密院議長などを歴任した一木喜徳郎の邸宅跡で南梁園と呼ばれ明治11年(1878)には北陸東海道巡幸の折りに明治天皇が休憩した。酒店倉庫手前の小路の角には金属プレートを嵌め込んだ「明治天皇御小休所跡」の門柱があり小路を右折し2本先を左折すると左に大きな「明治天皇駐蹕之所」碑がある。昭和9年(1934)建立で一木喜徳郎の謹識、吉田増蔵の敬書。東海道は少し先の交差点で県道41号線を横断する。
{左}澤野医院記念館 川井444-1
しばらく進むと左の袋井西小学校校門には「東海道どまんなか西小学校」の木製表札がある。福田湊へと通じ塩の道とも呼ばれた福田湊道を挟んで隣に記念館があり説明板もある。街道側に昭和9年(1934)築の洋風2階建の病棟、これに接続する安政元年(1854)和風平屋の居宅、裏に突出した炊事場、風呂場などの建物、その奥に渡り廊下によって繋がれている大正5年(1916)洋館と庭から成る。平成11年市指定文化財。袋井市が整備し無料公開。土日祝のみ、4-10月9時-17時、11-3月10時-16時。病棟には大きなレントゲン、小さな手術台、2階に板張りの病室などがある。享保12年(1727)山名郡川井村差出明細帳には澤野家は内科医で間口10間半(19m)奥行29間(53m)と記されている。
{右}寺澤家長屋門
しばらく進むと右に明治元年(1868)築の黒塗り板壁の長屋門と標柱がある。長屋門は自分の屋敷の周りに家臣や家来を住まわせていた大名の武家屋敷門として始まり門の両側が長屋となっていて門番や家臣、使用人の居所などに利用されていた。有力武士の武家住宅の表門として広く利用されるようになったが江戸時代は門が持てる家柄は限られ自由には作れなかった。明治になると富裕層の民家、農家でも作られるようになり両側の部屋は米倉、物置、馬小屋、作業所などにも用いられるようになった。
{右}津島神社
すぐ先に津島神社の小さな祠と標柱がある。その昔、付近にあった松並木にお札が降ったため祀られた。今の社殿は大正14年(1925)年の築。昭和9年(1934)の灯籠もある。東海道はその先の川井交差点で県道413号線(旧国道1号)と合流する。合流手前左に夢舞台道標袋井市 川井があり交差点を渡って左の袋井消防署(川井996)前には株式会社佐野(川井865-4)の寄贈による「狂歌入東海道」と2代広重の「諸国名所百景」の浮世絵説明板もある。県道413号線を進み昭和30年竣工の松橋を渡ると旧東海道は右へ分岐する。分岐右に夢舞台道標袋井市 木原松橋があり分岐してすぐ左には静岡製機(山名町4-1)とコジマヤ興業(葵町2-1-2)共同寄贈による「蔦屋版東海道」の浮世絵説明板がある。
木原一里塚跡(61)
少し先右の民家前に平成9年設置の鉄柱がある。その先左に復元された塚があるが本来の場所は鉄柱の場所にあった。復元された塚は多くの一里塚に習い直径5間(9m)高さ1間半(2.6m)で地元で地面を保護するため良く用いられる常緑多年草ジャガヒゲ(リュウノヒゲ)で覆われ榎が植えられている。前には平成11年の説明碑もある。横にあるベンチは復元一里塚の東隣を流れる磐田用水に昭和30年代後半まであった石橋の欄干を再利用して作られた。塚の木は東海道宿村大概帳には松、東海道分間延絵図や東海道分間絵図には松と榎となっている。江戸時代には右塚の西隣には袋井駅前の五太夫きくや(高尾町25-7)の先祖が住んでおり明治22年(1889)駅開業時に移住し後に菓子屋となった。
{左・寄}木原畷古戦場&らん塔の地蔵
復元一里塚の手前十字路を右折し住宅地を抜けると田んぼの中の墓地に「木原畷古戦場」標柱とらん塔の地蔵の祠、平成12年設置の説明板、古い石灯籠がある。元亀3年(1572)許禰神社に陣を置いた武田信玄と浜松城の家康家臣内藤信成が率いる偵察隊がここで戦った。信玄側が勝利し三方ヶ原の戦いの前哨戦となったが翌年に信玄が没し天正3年(1575)長篠の戦い後は家康の勢力が増し天正6年には遠江における武田方の城は高天神城(大東町)のみとなる。武田勝頼は家康の情勢を覗うため笹田源吾を偵察に出したが源吾は木原村まで来たところ徳川方に味方する村人に討ち取られた。後に村には疫病や災害などが続き源吾の祟りとされここに地蔵を建て長命寺境内にも供養塔が建てられた。
{右}許禰(こね)神社(木原権現社)木原282
一里塚の先にある。祭神は伊弉諾命、速玉男命、事解男命。大宝2年(702)熊野権現を勧請し延喜式神名帳に許禰神社とあるが長く木原権現社と呼ばれており慶応4年(1868)に再び許禰神社になった。神主を代々つとめた木原家には全長17mの木原権現由来記巻物が残る。入口左に木原畷の石碑と関ヶ原の勝利祈願に訪れた時に腰掛けたとされる徳川家康公腰掛石。その左や入口右には木原畷の戦いの説明板。境内左に御神木の楠(樹齢500年幹周6.5m樹高15m枝張24m)がある。その左に厳島神社。社殿の右奥に八幡神社、須賀神社の祠、その後ろに国守社、稲荷社ほか10社の祠が並ぶ。社殿左には昭和55年の二宮金次郎の顕彰碑。境内左は木原公会堂で裏にブランコ、鉄棒などもある。
{右}那智山 長命寺 [曹洞宗] 木原1
神社の先に標柱があり右折すると左にある。天文元年(1532)祥雲山海蔵寺(堀越764-1)8世日山天恵和尚が開いた。本尊は聖観世音菩薩で紀伊国(和歌山県)那智山長命寺より伝来した。境内左に遠州一姫29福地蔵第2番札所である享保17年(1732)の六道能化地蔵尊の祠もある。その手前には平成5年建立の戦没者慰霊塔。本堂左には武田勝頼の家臣でこの付近で村人に討たれた笹田源吾の供養塔がある。この供養塔の前で念仏供養を始めたのが市指定無形文化財の木原大念仏の起こりとされる。境内右には上下2本の枝でつながった夫婦槙と説明板もある。その近くには平成13年松喰虫により伐採された「長命寺の松」の切株がそのままになっており本堂前には幹の一部が置かれている。
{右}ごみ集積小屋
旧東海道が再び県道413号(旧国道1号)に合流する少し手前右に夢舞台道標袋井市 木原がある。その後ろには駕籠の形をしたごみ集積小屋があり壁には遠州地方の各地に残る遠州大念仏の1つである木原大念仏の絵が描かれ説明もある。遠州大念仏は元は信玄と家康が戦った三方ヶ原の戦いの犠牲者供養を目的にした念仏踊りで年々華美になり宗教色が薄れ娯楽性の強い行事となった。お盆に新盆の家々をめぐり横笛や太鼓などに合わせ念仏を唱えて踊る。現在、遠州各地に70ほどがあり無形文化財になっているものも多く木原大念仏も袋井市指定無形文化財。少し先の県道合流地点手前左には木原の高札風説明板がある。県道を進み蟹田川を昭和31年竣工の西木橋で渡ると磐田市に入る。
{左・寄}須賀神社 磐田市西島411
しばらく行った先で左に用水路が沿うようになると昭和10年(1935)貯水碑が水路の対岸にあり横に文字のかすれた木看板がある。この前には高札場があった。そこを左折していくと右に平成17年市指定天然記念物の楠(樹齢500年樹高15m幹周9.5m枝張25m)があり神社の裏手になる。神社本殿は明治22年(1889)築の一間社流造銅板葺。鳥居、灯籠4基はともに明治41年のもの。境内右に二宮金次郎銅像があり昭和10年建立し昭和18年供出したものを昭和59年再建した。境内右には昭和9年建立の素盞鳴命の歌碑もある。本堂右に八幡社、左にブランコ、すべり台、鉄棒もある。楠の横の西島老人憩いの家の前には平成5年作成の「菅谷陣屋牢屋敷跡」の木看板が立て掛けてある。
{右}廣福山(広福山) 全海寺 [曹洞宗] 西島452
神社入口からしばらく行くとある。天文11年(1543)創建。本尊は延命地蔵菩薩で脇本尊は聖観世音菩薩。延命地蔵菩薩は寛永11年(1634)上洛の途中の3代将軍家光が門前にて落馬したが無事だったため後に参勤交代の諸大名から「身代り下馬地蔵」と呼ばれるようになった。遠州一姫29福地蔵第3番札所。本堂左の阿弥陀堂に阿弥陀如来、大日如来、薬師如来の三如来がある。平成8年庫裡と書院を新築。入口左に祠があり石造六地蔵、銅製の子育地蔵、石仏4体が安置されている。東海道はこの先で太田川に架かる昭和55年竣工の三ヶ野(みかの)橋を渡る。
{右・寄}桶ヶ谷沼ビジターセンター 岩井315
旧東海道は三ヶ野橋を渡ったらすぐ左折し土手道に入りすぐ右折し階段を下りて車道に出て左折して松が1本左に立つ細道を進んで行く。すぐ先の九州石油桶ヶ谷沼SS(三ヶ野600-13)先で東海道を離れて右折し国道1号バイパスをくぐり少し先を左折すると右にビジターセンターがある。センターの北にある桶ヶ谷沼の展示や自然体験学習を行う施設。周囲1.7km広さ約7.4haの桶ヶ谷沼はトンボの生息地として有名で県内の2/3、国内の1/3の種類にあたる65種類が生息し磐田市はトンボで町興しをしている。中でもベッコウトンボは日本唯一の生息地。トンボ以外にも野鳥156種、植物650種も確認されている。平成3年県自然環境保全地域に指定された。9時-5時、月休、無料。
三ヶ野松並木
国道1号バイパスの南に平行する細道を進んで行くと松が所々にあり途中左に旧東海道松並木の説明板と夢舞台道標磐田市 三ヶ野がある。三ヶ野地区の松並木は江戸時代のものはなく後に補植されたもの。その先の磐田原台地へ登って行く坂を三ヶ野坂と呼ぶ。磐田原台地は天竜川の東岸に広がる洪積台地で西岸の三方原台地と同時期に隆起運動で作られ現在は磐田茶の一大産地となっている。
三ヶ野坂の七つ道
磐田原台地へ登る三ヶ野坂には鎌倉の古道、江戸の古道、明治27年(1894)明治の道、大正6年(1917)大正の道、昭和30年国道1号、平成2年磐田バイパス立体交差袴道橋、及びバイパス北の通称「質屋通いの隠れ道」の7つの道があり「三ヶ野坂の七つ道」と呼ばれている。一部は遊歩道として整備され分岐点に「鎌倉の古道」「江戸の古道」「明治の道」「大正の道」など平成5年設置の石碑が建てられている。旧東海道は右に分岐する「大正の道」には入らず「明治の道」を行き途中左に分岐する「江戸の古道」を登って行く。登りきった左に七つ道の地図と説明板と「江戸の古道」石碑がある。ここは3叉路になっており右が旧東海道、その左が鎌倉の古道、その左が大日堂への参道となっている。
{左・寄}大日堂
3叉路の一番左の道を行き少し登った大日山の山頂(標高38m)にある。元亀3年(1572)武田信玄が木原畷に陣を敷くとこれを迎え撃つため家康軍は浜松城から出陣した。家康方の本多平八郎忠勝はここの大日堂の高台から武田軍の様子を覗ったという。「本多平八郎物見の松」と伝えられる大松があったが今はなく小さな松が数本植えられている。本堂左に石仏が安置された祠、その前にも石仏2体が安置された祠がある。境内の手水石は文化11年(1814)。境内右には展望ベンチや平成6年建立の「大日堂」石碑もある。
{右}「従是鎌田山薬師道」道標&車井戸跡
3叉路を右折し東海道を三ヶ野坂上の集落に下りて行くと明治の道と合流する地点の三ヶ野公会堂前に弘化4年(1847)建立の道標がある。ここは「鎌田の金剛院」と呼ばれた鎌田山醫王寺[真言宗智山派](鎌田2065-1)の参道入口でこの角から南方に1.5km行くと寺がある。隣には昭和55年建立の磐田市長山内克巳揮毫による「車井戸之跡」碑もある。三ヶ野坂上集落には昔は井戸が無く近くの谷に汲みに行ったり雨水を溜めたりしていたが弘化4年醫王寺によって参道入口のここに井戸が掘られた。滑車によって汲み上げたため車井戸と呼ばれ簡易水道が出来た昭和35年まで使われたがその後埋められた。公会堂植込み内には「明治の道」石碑、玄関前に昭和61年建立の鉄柱のような常夜燈もある。
{右}立場茶屋跡
少し先の民家前に東海道400年記念で建てられた「三ヶ野立場」と書かれた木看板がある。江戸時代は立場だったが現在は付近は新しい住宅が立ち並ぶ。