東海道ルートガイド
浜松宿

{右}北野山 龍梅寺(竜梅寺) [臨済宗妙心寺派] 中区天神町3-43
しばらく行くと中区に入り少し先にある。山門を入ると左に昭和62年建立の一つの石に彫られた6地蔵がある。本堂前左には焼餅地蔵菩薩。境内右には二宮金次郎像。墓地の松近くの赤煉瓦塀の前に「梅陰幻香禅童女」と刻んだ墓があり享保15年(1730)浜松藩主松平信祝の娘が東海道の旅中て急病で没し葬られたもの。他にも境内左右に人名が書かれた碑が3基ある。
{左}馬込一里塚跡(65)
浜松東警察署(相生町14-10)を少し過ぎた歩道と車道の間の植え込みに昭和61年建立の標柱がある。向宿一里塚とも言いこの辺りは江戸時代は向宿村だった。塚は現存しないが古くは左の塚には松、右には榎が植えられていた。東海道は少し先で昭和59年竣工の東鎧橋を渡る。右は暗渠で柳川緑道になっている。
{右}旧笠井街道入口
しばらく先で馬込橋が見えてくると橋の少し手前で右に分岐する道が旧笠井街道で分岐右に木杭、左に大型立札がある。大型立札は浜松観光コンベンションビューロー、浜松市など4団体が共同で建てたものでここ以外にも浜松中心部にある史跡に設置されており立札上部に設置場所の位置関係図、下部にはその史跡の説明が記載されている。笠井街道は天竜川で水運が行なわれていた頃の流通の中心だった笠井(現:東区笠井町)と浜松宿を結ぶ街道で月に2回は「笠井の市」が開かれ賑わっていた。向かいには「旧掛塚街道入口」木杭があり旧掛塚街道も分岐している。掛塚(現:磐田市掛塚)は天竜川河口に位置し天竜川流域や江戸や関西への海運で栄えた湊町だった。
馬込橋
少し先で昭和13年(1938)竣工の馬込橋で馬込川を渡る。橋手前左には「外木戸跡(馬込橋東)」木杭があり浜松宿入口となる。馬込川は元々は天竜川の本流の1つで元亀4年(1573)には家康が初めて締切工事を行い明暦2年(1656)には新原村(現:浜北区新原)の庄屋の松野彦助が彦助堤を造った。延宝2年(1674)の大洪水で彦助堤は崩壊したが翌年には再建し完全に天竜川から締切られた。橋の少し上流の船越一色村(現:中区船越町)は元は馬込川の渡船を運営していたが渡船がなくなったため天竜川の渡船に参加し池田の渡しとともに幕末まで渡船権を有した。橋を渡った左の宝飾店安心堂浜松店(中央3-15-1)付近には東番所があった。浜松宿の宿往還は20町32間(2.2km)。
浜松宿   本陣6脇本陣0旅籠94家数1622人口5964[天保14年(1843)]
浜松の名は室町幕府6代将軍足利義教がこの地を通り風にざわめく松の音を聞いて「浜松の音はざざんざ」と謡ったのが由来と言う。家康の遠州支配の拠点となり大きく発展し江戸時代も繁華街となり伝馬町から旅籠町、塩町などに多くの飯盛女がいた。江戸時代から昭和30年代までは綿織物の産地で現在は自動車と楽器の製造が主体。永録年間(1558-69)曳馬城主だった飯尾氏が長男誕生を祝い大凧を揚げたことに始まったと伝わる浜松まつり凧揚げ合戦は現在150を越す町が参加している。平成17年上流の天竜市など11市町村と大合併し平成19年政令指定都市となった。
{右}夢告地蔵尊
しばらく行くと静岡銀行浜松中央支店(板屋町527)がある交差点の手前にある。大型立札もある。後ろは新町公会堂。コレラで死んだ人を供養するため安政5年(1858)建てられ延命地蔵と呼ばれていた。明治7年(1874)火災に遭い廃仏毀釈の世の中だったため地中に埋もれたままだったが町民の小柳丈之助の夢に出て大正8年(1919)に町民たちの手で掘り出され堂に安置された。掘り出した当時は20体ほどあり二十五菩薩とも呼ばれたが昭和20年の空襲で破損し戦後1体が再建され昭和26年現在地に安置、昭和51年堂が新築された。堂左には空襲で破損した延命地蔵由来碑もある。他に大正8年(1919)と天保5年(1834)灯籠、大正9年の西遠霊場弘法大師86番の石柱などもある。
万年橋
しばらく進んだ板屋町交差点の先で遠州鉄道西鹿島線をくぐる。高架の下には新川が流れており昭和58年竣工の万年橋で渡る。右は川が見えるが左は暗渠となり公園に整備されている。万年橋は幕末に河井次郎八が石造りの太鼓橋を架け長い年月に耐えられるようにと万年橋と命名したが明治になって人力車や馬車の往来が盛んになると平坦な橋に架け替えられた。橋を渡るとアーケードが整備されたゆりの木通りという商店街になっている。少し先右のビオラ田町(田町223-21)前には「秋葉街道大鳥居跡」の大型立札がある。秋葉山に向かう秋葉街道がここから分岐し青銅製の大鳥居があったが昭和17年に金属供出で解体された。
{右・寄}浜松城大手門跡
そのまま進むと上り坂になり上りきった連尺交差点を左折するのが東海道でここから国道257号を行く。左折してすぐ左に夢舞台道標浜松宿がある。左折せずに交差点を地下道で渡って右出口を出ると少し先に浜松城大手門跡の石碑、大型立札とその上に説明板がある。この付近の道路中央部に南向きに大手門があった。間口8間(14.6m)奥行4間(7.3m)瓦葺の建物で常に武器を備え出入を厳しく取締まっていた。浜松城は大手門から北に東西600m南北650mの規模で東から西へ二之丸、本丸、天守台と連なっていた。ここから姫街道の浜松道も分岐しており国道257号を北上して市野宿と気賀宿の間の三方原追分で見付宿から来た道と合流していた。
{右・寄}浜松城公園
大手門跡をそのまま北に進み市役所前交差点を左折し市役所本館を過ぎたら右折すると公園入口となる。築城者、時期不明の曳馬城(引馬城)が前身で今川家臣の飯尾氏が城主だったが永禄11年(1568)家康が奪取し元亀元年(1570)居城とし拡張して曳馬は縁起が悪いと改称した。公園は明治維新後に廃城となった跡地に昭和25年子供博覧会の開催と動物園の開園を契機に開設され昭和52年に再整備された。展望広場、芝生広場、日本庭園、作左の森、浜松市体育館、せせらぎ池、石舞台、浜松市美術館、冒険広場、浜松文芸館、茶室松韻亭などがあり一帯は桜の名所でもある。市役所本館と元城小学校は二之丸跡で本丸跡には鎧姿の銅像「若き日の徳川家康公」がある。
{右・寄}浜松城 天守閣  元城町100-2
自然石をそのまま積み上げた市史跡指定「野づら積み」石垣の上にある。最下層が黒壁の鉄筋コンクリート製3層の模擬天守閣で昭和33年竣工、翌年市史跡指定。中は資料館になっており三方原で敗れた家康が気持ちを忘れないように書かせた肖像画、幕末から明治の絵師・河鍋暁斎の徳川全将軍の絵、武具甲冑などが展示されている。大人150円、8:30-16:30、年末年始休。天守閣は家康が天正14年(1586)駿府城に移った後に天正18年(1590)から城主になった秀吉家臣堀尾吉晴の頃にあったとされる。しかし時期は僅かで江戸時代の絵図にも天守はなく本丸の2重櫓が天守代わりとされていた。江戸時代は22人が城主となり水野忠邦など在城中に老中まで出世した城主も多い。
{右・寄}鎧掛松  元城町103-2
市役所本館を過ぎて右折せずまっすぐ行くと隣の市役所別館前にある。元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いから城に帰った家康が松の木陰で休んだ時に鎧を脱いで枝に掛けたことから鎧掛松と呼ばれる。現在の松は昭和56年に植樹された3代目で初代は浜松城内の堀のそばにあった。昔の鎧掛松近くにあった合戦で疲れた馬のからだを冷やしたという清水は馬冷(うまびやし)と言い地名にもなった。
{右}高札場跡 連尺町309-1
連尺交差点を左折して少し行くと谷島屋書店連尺本店前に大型立札とその上に説明板がある。この付近の車道中程に高札場があった。連尺町からこの先の伝馬町までが宿場の中心だった。
{左}佐藤本陣跡 連尺町313-30
次の信号で左に渡った緑屋装室前に大型立札とその上に説明板がある。佐藤与左衛門の佐藤本陣は連尺町にあり建坪は225坪(745平方m)だった。浜松宿には脇本陣はなく本陣が6軒あったが戦災で全て焼失した。浜松には戦時中は軍事工場があったため大空襲を受け街中の建物などには昔の面影はないが紺屋町、鍛冶町、伝馬町といった町名は名残を留めている。
{右・寄}五社神社&諏訪神社  利町302-5
向かいの通り(五社前通り)を右折すると正面。祭神は五社神社が大玉命、武雷命、齋主命、天児屋根命、姫大神。相殿に応神天皇、舎人親王、菅原道真、徳川家康。諏訪神社が建御名方命、八坂刀売命、事代主命。相殿が徳川家康。五社神社は遠江国主久野越中守が曳馬城内に創建し家康が浜松城に入り天正7年(1579)秀忠が誕生すると産土神として崇敬し翌年現在地に社殿を建立し移転した。諏訪神社は坂上田村麻呂が東征の折に創建し弘治2年(1556)旧敷智郡中島村から浜松に移され天正7年家康が社殿を造営し寛永18年(1641)家光が現在地に移転した。両社殿とも戦前には国宝だったが昭和20年空襲で焼失。昭和35年両社を合祀し再建し昭和57年現社殿を建立した。
{左・寄}先照山 心造寺 [浄土宗] 紺屋町300-19
五社神社の右隣にある。天正7年(1579)浜松城で秀忠を産んだ家康側室の西郷局昌子(お愛の方)が翌年に開基した。遠江49薬師第22番札所。浜松手引33観音第22番札所。 
{左・寄}蓮華寺 [真宗大谷派] 紺屋町301-12
心造寺の右少し先の隣。家康家臣で元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いで戦死した鳥居忠広の妻が創建したと伝わる。近代的な本堂左前に江戸中期の僧・俳人五升庵蝶夢の筆による天明8年(1788)建立の芭蕉句碑「八九間 空で雨降る 柳かな」がある。蝶夢は芭蕉の遺著を研究し芭蕉句文集の出版などもしている。平成17年書院・庫裡新築。
{右・寄}五社公園 利町303-1
五社神社の手前左には浜松復興記念館(利町302-7)がありその南に隣接する公園。昔の浜松市役所の跡地。公園内には諏訪神社宮司で国学者・歌人でもあった「杉浦国頭邸跡」石柱、明治40年(1907)建立「戊辰之役報国隊記念碑」、大正8年(1919)建立の日清、日露、第一次大戦の慰霊塔「鳩の塔」、大正12年建立の国産ワイン生産の功労者「男爵前田正名君碑」、昭和7年(1932)建立「行幸記念碑」、昭和41年建立「浜松市消防殉職者慰霊碑とブロンズ像」、昭和46年制定「浜松市歌」歌詞碑、平成8年建立の万葉集巻1収録の長忌寸意吉麻呂の歌碑など多くの石碑がある。昭和63年開館の復興記念館は浜松の空襲と戦災復興の展示をしている。無料、9:30-17:00、月休。
{右}杉浦本陣跡 伝馬町310-9
五社神社への入口を過ぎると東海道は伝馬町に入り少し先の浜松信用金庫伝馬町支店前に大型立札とその上に説明板がある。杉浦助右衛門の杉浦本陣は伝馬町にあり建坪は272坪(900平方m)だった。浜松の6本陣中もっとも古く初め本陣は杉浦本陣1軒で江戸時代初期のうちに5本陣となり後期に川口本陣が加えられた。室町後期から続く古い家柄の杉浦家は元亀元年(1570)家康の浜松城入城と共に名主役となり慶長6年(1601)伝馬制が定められると問屋役にもなった。
{右}川口本陣跡 伝馬町311-14
少し先の伝馬町交差点手前の三菱東京UFJ銀行浜松支店前に大型立札とその上に説明板がある。川口次郎兵衛の川口本陣は伝馬町にあり建坪は163坪(540平方m)だった。浜松の6本陣中もっとも新しく江戸時代後期に本陣となった。
{左}梅屋本陣跡
伝馬町交差点を地下道で渡ったザザシティ浜松西館前に大型立札とその上に説明板があり右には「本陣跡」石柱もある。梅谷市左衛門の梅屋本陣は伝馬町にあり180坪(600平方m)の敷地だった。後に国学者・歌人として有名になった賀茂真淵(本名:庄助)は享保10年(1725)28歳の時に梅屋の娘と3度目の結婚をし婿養子となり2年後に子の真滋をもうけたが37歳のとき諏訪神社宮司の杉浦国頭の妻・真崎の伯父にあたる荷田春満に国学を学ぶため京都に移り春満が没すると江戸に移った。本陣家は真滋が市左衛門を名乗り続いた。先を進むと左には明治5年(1872)創業の菓子屋巌邑堂(伝馬町62)や明治19年(1886)創業の料亭八百吉(伝馬町67)がある。
{左}番所跡
次の十字路に出るとガードレールの下に石柱がある。中番所の跡で伝馬町下伝馬にあった。浜松宿には他にも東番所(馬込橋南西側)、西番所(成子坂)、北番所(浜松城公園西の現:鹿谷町付近)があった。十字路の先は旅籠町に入り伊藤平左衛門の伊藤本陣や杉浦惣兵衛の杉浦本陣があった。享和元年(1801)太田南畝(蜀山人)の旅日記「改元紀行」には「今宵の宿は本陣にて、浜松宿において伊藤平左衛門という・・・」と伊藤本陣の記述がある。
{右・寄}松尾神社 元魚町29
十字路を右に行くと右にある。和銅年間(708-14)創建で浜松神社と呼ばれた。祭神は白鬚大神、大山咋神、厳島姫神。天正5年(1577)に浜松城内の鎮守を合祀し松尾神社に改称し歴代城主の祈願所にもなっていた。明治元年(1868)明治天皇より茶碗が下賜された。灯籠は安政2年(1855)と昭和61年、鳥居は平成12年、狛犬平成6年。社殿左には天満宮と伏見稲荷がある。天満宮は江戸時代に創建され明治7年(1874)松尾神社の敷地に移された。
{右}夏目商店 成子町36-2
しばらく行くと成子交差点手前にある。戦国時代には携帯食だったと言う浜松名物「浜納豆」を売っている。店先には菊の御紋に「濱納豆」文字の木看板があり元は現:鈴木醸造(東区材木町30)である明治初期創業の「やまや」が明治23年(1890)第3回内国勧業博覧会に浜納豆を出品した際に政府が用意したもの。夏目商店は江戸時代から「山三十」の屋号で醸造業をしていた店舗を明治16年(1883)に譲り受けたもので空襲後にゼロから復興する過程で同業の鈴木醸造が製造を専門とし夏目商店が販売をするようになった。浜納豆は麹菌を使って大豆を長期熟成させたもので粘り気はなく塩辛くて赤味噌に近い味で一般的な食べ方は茶漬。浜納豆(100g315円〜)。8時-18時不定休。
{右}成子坂 泣き子地蔵跡 成子町53
隣の龍口歯科前に「成子坂 泣き子地蔵跡」の文字がかすれた木杭がある。この地にあった地蔵を舞阪の漁師が持ち帰ったところ地蔵が泣いて戻りたいと頼んだため漁師は地蔵を元に戻したと言う。その噂が広まり坂が啼子坂、鳴子坂と呼ばれ後に成子坂となり地名も成子町となった。昔から寺が多く寺町とも呼ばれていた。龍口歯科の角には江戸時代には浜松宿の西番所もあった。斜め向かいには夢舞台道標浜松市 浜松宿がある。東海道は成子交差点を右折し国道257号から分岐し県道62号(雄踏街道)を進む。
{左}子育て地蔵尊
右折ししばらく行った菅原町交差点手前のデニーズ浜松菅原町店(菅原町9-24)の先に横長の祠があり大小20体近くの石仏、石塔が安置されている。戦災で焼失した地蔵堂が昭和39年再建され平成6年道路拡幅で現在地に新築移転した。中央の石仏は「首なし地蔵」とも呼ばれ長い間子供に恵まれなかった菅原町の町民が昭和17年ごろ願をかけたところ子供を授かったと言われる。左端の子供を抱いた高さ3尺(91cm)ほどの最も大きい地蔵はその町民が授かった子がよく育つようにと寄進したもの。右端手前の1尺(30cm)くらいの「性達童女」と刻まれた石仏は嘉永4年(1851)のもの。他に享保8年(1723)巡礼供養碑などがある。
堀留ポッポ道
旧東海道は菅原町交差点の4叉路を左から2番目(左斜め前)の道に入り南西に進む。しばらく行くと左右に小道が交差している。公園にもなっており堀留ポッポ道と呼ばれる。元はJR浜松工場の引き込み線跡で昭和61年に整備され公園となった。右に入って少し行くと大正7年(1918)に国産された軽便機関車(ケ91タンク機関車)が展示されている。東海道は少し先で少し左にカーブしJR東海道本線の高架をくぐり国道257号に突き当たり右折する。ここは高架をくぐるため道が曲げられているが本来はまっすぐだった。右折後少し先の西浅田北交差点右手前の茂みの中に「八丁畷」木杭がある。道は八丁畷と呼ばれるまっすぐな道が続く。現在は左右にホンダ日産トヨタ三菱などの自動車販売店が連なる。
鎧橋
新幹線の高架をくぐると少し先で南区に入る。しばらく進むと小さな堀留川(田尻排水)を昭和31年竣工の鎧橋で渡り渡った左に木杭と昭和51年設置平成15年更新の説明板がある。平安時代末期に甲江山鴨江寺(鴨江4-17-1)が戒壇(仏僧に戒律を授受する式場)を無断で設けていたところ比叡山延暦寺の僧兵が攻め寄せ鴨江寺側はこの橋の南から城山付近に至るまで砦を築き青稲を刈り田に水を張り鎧を着て戦ったとされこの橋は後に鎧橋と呼ばれるようになった。戦いは2日間に及び双方の戦死者千人は鎧橋の北に葬られ千塚(または血塚)と呼ばれ現在は森田町のJR東海道本線南脇に「血塚の森」として移されている。戦いで戒壇は壊され跡地は鴨江寺境内仁王門の西にあり「戒壇塚」と呼ばれている。
{左}若林一里塚跡(66)
橋を渡って右の御食事処サガミ浜松可美店(南区東若林町156)の先に「八丁縄手」木杭がありしばらく行くと旧東海道は右へカーブするがその手前右のイゲタヤ酒店(東若林町1143)向かいに昭和53年建立「一里塚跡」石柱とその上に説明板がある。塚は現存しておらず現在は道路拡張のため左右の塚とも道路の一部となっている。大正11年(1922)の県史蹟調査では街道両側に榎が残っていたとあるが天保14年(1843)東海道宿村大概帳には塚は書かれていない。昔は八丁縄手(畷)には土手のある松並木が続いていた。
{右}二つ御堂 北堂(阿弥陀堂)
右へカーブするとすぐに堂が2つ街道に向かい合っている。右の北堂は京で病に倒れた藤原秀衡に会うため奥州から向かう途中の愛妾がこの地で秀衡は没したとの知らせを受け菩提を弔うため天治2年(1125)建てた。愛妾はまもなく失意のあまり没したという。後に荒廃し天正7年(1579)山口権右衛門が再建、破損していた像の首を腹籠とした新しい像を安置した。現在の堂は昭和30年改築で阿弥陀如来の他に地蔵菩薩、毘沙門天を安置。地蔵菩薩は咳を治すと言われ治ったらお礼に藁馬を供えた。扁額は「阿弥陀堂」。堂左には明治15年(1882)頃まであった周囲2丈余(6m)の秀衡松の何代目かの幼木がある。堂左には他にも「高札場跡」木杭、馬頭観音の祠と木杭、愛犬の碑や古い墓石群がある。
{右}八幡神社 東若林町1160
北堂横の道を入るとある。祭神は品陀和気尊(誉田別尊)。創建年代不詳。棟札に天正7年(1579)神主彦右衛門、慶安2年(1649)改築、宝永元年(1704)改築とある。現在の本殿は昭和15年(1940)本殿改築の際の古材を利用した。社殿左に境内社があり明治4年(1871)より若宮、神明、三王、八剣、瑞生権現が、後に秋葉社も祀られた。狛犬は大正9年(1920)。灯籠は文化11年(1814)、文化12年、大正2年。参道の玉垣下に鳥居のようにある楠2本は元は鎧橋西南に忠魂碑と共にあり大正7年に移された。忠魂碑は現在浜松市・可美村合併記念碑の奥にある。移植当時の幹周は1尺4寸(43cm)だったが昭和58年には2本共165cmになった。境内左にはいろいろな形のすべり台3基。境内手前は松も多い。
{左}二つ御堂 南堂(薬師堂) 東若林町1167-3
北堂の向かい。秀衡が没したとの知らせで北堂は建てられたが実は知らせは誤報で秀衡は生きており帰郷途中の秀衡はそのことを知り死んだ愛妾のために北堂に対面して薬師堂を建てた。荒廃後に再建されたのは北堂のみで江戸時代には南堂はなく分間延絵図にも南側には何も描かれていない。現在の堂は昭和12年(1937)新築で薬師如来の他に不動明王、大日如来を安置。扁額は「二ツ御堂」。遠江49薬師第18番札所。堂前には1本の松が入口を塞ぐようにある。堂左に明治42年(1909)建立の県知事竹山祐太郎揮毫の「明治天皇御野立所記念碑」石柱がある。明治元年ここより2.3km先の増楽茶屋場で休憩した。二つ御堂は東光山観照寺[臨済宗方広寺派](東若林町1167-3)が管理している。
{右}可美小学校跡 (現:可美市民サービスセンター) 若林町925-1
二つ堂を過ぎると左にわずかながら松が残る。ダイソー浜松可美店(東若林町1220-1)の先に6本、さらに先のブックオフ浜松可美店(若林町286-1)過ぎて1本、その先に3本、11本と続き静岡銀行可美支店(若林町302-1)前に1本。その先の可美市民サービスセンターの前には「可美小学校跡」木杭と昭和32年建立の天皇皇后両陛下行幸啓記念碑がある。可美小学校(若林町1748)は明治6年(1873)地蔵院に高塚学校として創立し何度か移転し明治41年(1908)から昭和20年空襲で焼失するまでここにあった。可美市民サービスセンターの少し先左のまるみや食堂(若林町996)の向かいの民家塀に「高札場跡」木杭が立てかけてある。
{右}浜松市・可美村合併記念碑
先を進むと紳士服はるやま浜松可美店(若林町1299-1)向かいに松が1本ありしばらく進むと右に「みたらしの池」木杭とそのすぐ横に平成3年建立の記念碑がある。碑の裏には可美村の歴史が刻まれている。 旧:浜名郡可美村は明治22年(1889)の市町村制で出来た浅場村が前身で若干の分割編入があった後の大正3年(1914)可美村に改称した。由来は「美しかる可(べ)き村」という意味で付けられた。周囲が浜松市に編入される中、最後まで独立していたが平成3年浜松市に合併した。奥に陸軍中将大久保春野揮毫の忠魂碑があり前には昭和39年、62、63年などの灯籠が並ぶ。元は鎧橋の西南に建てられ大正7年に可美小学校(当時は可美尋常小学校)に移されさらにここに移転した。
{右}諏訪神社 若林1405-1
隣にある。大永4年(1524)信濃の上諏訪神社より内田六郎兵衛が勧請し創建より現在まで同じ位置にある。祭神は建御名方命。内田家は明治中頃まで代々神主をつとめた。慶安元年(1648)幕府より3石を下賜され朱印状写し9枚が現存する。明治4年(1871)に天神社、六所社、八幡社を合祀。入口に明治34年(1911)東京川魚商が寄進した灯籠、明治29年鳥居を入ると昭和15年(1940)の灯籠がある。社殿左に境内社の秋葉神社があり前には寛政9年(1797)常夜燈がある。正面の道を左折していくと可美公園がある。昭和55年最初に野球場ができ現在は多目的スポーツ広場、弓道場、プール、多目的広場、テニスコートなどのほか総合センター(増楽町920-2)には体育館や会議室、和室などもある。
{右}熊野神社 増楽町401-1
しばらく行くとスーパーSEASON SELECT可美店(増楽町655)向かいに屋形秋葉山常夜燈がありさらに少し行くとある。祭神は伊弉諾尊、事解男命、速玉男命。大正15年(1926)の火災で記録焼失し由来は不明。その昔、熊野三社大権現と称していたが明治2年(1869)六所神社となり、同7年熊野神社となった。灯籠は昭和10年(1935)、大正12年など。狛犬は昭和12年。社殿右に境内社の若宮社。境内左は増楽児童遊園でブランコ、オブジェ型のすべり台がある。すぐ先の歩道橋の下には「高札場跡」木杭と説明立札がある。この通りには高札場跡が多い。向かいには可美中学校がある。
{右}「従是東濱松領」傍示石  増楽町408
少し先のカー用品モンテカルロ可美店(増楽町468-1)先の交差点手前に高さ1.5m幅25cmの石柱1基と昭和51年設置の説明板がある。旗本大沢家の堀江領との境を示す浜松藩領側の傍示だった。地理的には旧:敷智郡増楽村と旧:敷智郡高塚村との境にあたる。元は街道の左右に1基づつ設置されたが昔あった位置から若干動かされておりこの場所には1基しかない。これと対になる「従是東濱松領」傍示石は浜松藩領の東の境の安間橋付近に設置されていた。
{右}堀江領境界石
少し先の日本生命可美営業部(高塚町4344)を過ぎると電柱横に木杭がある。浜松藩との境に置かれた堀江領側の境界石があった。堀江領は藤原道長の子孫で貞治年間(1362-67)からこの地に住み今川家臣を経て永禄11年(1568)から家康に仕えた大沢氏の領地だった。家康の将軍宣下の際に公家との折衝を行い、以降も高家旗本として幕末まで統治した。明治元年(1868)20代当主大沢基寿は新政府に服するに際し領地5485石を浜名湖干拓予定地を含め1万6石と虚偽申告したため大名に昇格し堀江藩が誕生した。明治4年(1871)廃藩置県で県となり基寿は堀江県知事となったが4ヵ月後虚偽が発覚し知事解任、禁固1年に処され堀江県は浜松県に合併した。万石事件と言う。
{右・寄}護法山 地蔵院 [臨済宗方広寺派] 高塚町4516
しばらく進むと右の茶煉瓦調の2階建アパートの鉄柵の向こうの植込みに「高札場と秋葉灯籠跡」木杭がありその先を右折すると右にある。明徳元年(1390)元道円密和尚が創建。門を入って左に6地蔵と2石仏、境内左には薬師堂や地蔵の祠がある。宝暦8年(1758)桑名で病気になった74歳の白隠禅師が駿河を目指す途中に弟子である住職・鳳瑞梵寿の招きにより百日間逗留したため達磨大師画像などの白隠作の寺宝が多数ある。家康の最初の妻である築山御前が懐にいつも忍ばせていた地蔵と言われる築山御前腹篭地蔵や久繁の孫娘が写経した平仮名法華経も所蔵する。境内右には可美小学校の前身「高塚学校跡」木杭もある。遠江49薬師第15番札所。浜名湖岸88ケ所霊場第55番札所。
{右}麦飯長者跡
次の信号を渡った民家に木杭がある。かつて旅人に麦飯を振る舞い麦飯長者と呼ばれた小野田五郎兵衛の屋敷があった。小野田五郎兵衛久繁は宝暦9年(1759)白隠禅師の有名な著作「八重葎」の出版資金も出した。八重葎の巻1「高塚四娘孝記」の四娘とは五郎兵衛の孫の4姉妹で父母を失い祖父である五郎兵衛の教えで宝暦5年から7年にかけて平仮名で法華経を写経し地蔵院に奉納した。完成時はさき14才やす12才かの8才その6才。これを宝暦8年に地蔵院に滞在した白隠が感心し八重葎の題材にしたと言う。また久繁は堀江城主大沢右京太夫よりもらい受けた築山御前腹篭地蔵を安置するための堂を宝暦8年(1758)地蔵院に建立した。信号を右折して200m先を左折すると右に高塚駅。