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{右・寄}大井川橋碑(金谷側) 橋を渡るとすぐ左に碑があり橋の説明が記されている。橋は平成15年静岡県内初の土木学会選奨土木遺産に認定され記念に橋の両側に説明碑が設置された。金谷側は井筒型の橋脚をモチーフにしている。江戸時代は無事に川を渡ると箱根の山祝いと同じく従者を連れた者は祝儀を出し水祝いをした。渡ると駿河国(島田)から遠江国(金谷)となったが現在は平成17年に旧金谷町が旧島田市と合併し両岸とも島田市になっている。碑がある東町交差点を左折し土手の上を少し下流へ向かって進むと右へ降りていく道が東海道の続きで標識もある。河川敷はかなや大井川緑地となっておりソフトボール場、グラウンド・ゴルフ場、サッカー場などがある。 |
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{左}水神公園 土手を下りて道に入り少し行くとある。街道側には蓮台に乗って川越をする女性を描いたタイル絵「金谷宿大井川川越之図」が高札風に建てられている。タイル絵は島田市在住の彫刻家土屋誠一の作品。その隣に夢舞台道標島田市 金谷宿 八軒屋橋と平成14年建立の桜井友彦書による東関紀行の歌碑「はかずふる 旅のあはれは大井川 わたらぬ水も 深き色かな」がある。東関紀行は仁治3年(1242)に書かれたとされる京から鎌倉への紀行文。少し入ると四阿と福寿稲荷大明神もある。公園は横を流れる新堀川に沿って細長く続いており長さ150m面積1025平方m。奥に行くとブランコ、すべり台などもあり公園を抜けた外には水神社もある。桜も植えられており春は桜の名所となっている。 |
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東橋(八軒屋橋) 東海道はすぐに平成14年竣工の東橋で新堀川を渡る。昔は八軒屋橋と言い金谷宿の入口を示す川でこの宿には見附は無かった。江戸時代には大井川の岸からここまでの街道両側は1町50間(164m)ほど松並木になっており八軒屋橋を渡ると島田宿と同様に川会所や番宿、札場などの川越し施設並んでいた。現在の橋にも八軒屋橋のプレートが嵌められ親柱は常夜燈風で欄干のレリーフには水神公園のタイル絵と同じく蓮台に乗った女性がデザインされている。橋を渡るとおでかけバス(金谷地区コミュニティバス)の東町中バス停があり日本左衛門の首塚を題材としたイラストが描かれている。この後にあるバス停にも付近の民話や名所のイラストが書かれている。 |
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金谷宿 本陣3脇本陣1旅籠51家数1004人口4271[天保14年(1843)] 元々は河川敷だったが天正18年(1590)秀吉家臣中村一氏による天正の瀬直しにより大井川の流路が東側に変わってから人が住むようになり江戸時代には島田宿と同じく川越業務を担い東に大井川、西に小夜之中山峠の難所を控え発展した。伝馬役を務めた金谷本町と川越を仕切った金谷河原町の2町に大きく分かれ元禄7年(1694)川越人足確保のため周辺の村が助郷となった。明治に入ると旧幕臣が宿の南にある牧之原台地を開拓し茶栽培を始め茶生産全国一の静岡県の基礎となった。今でも周辺の丘陵には茶畑が多い。金谷の地名は長禄2年(1458)の文書に遠江国質侶庄金谷郷とあるのが初見。 |
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{右}旧加藤家 鮮魚仕出しの木屋魚店(金谷河原1354)向かい。江戸時代に存在していた金谷側の川越施設は何も残ってないとされていたが平成13年旧加藤家の建物を静岡県建築士会などが調査したところ番宿の建築様式を残す江戸時代の建物と判明した。また蓮台や古文書も発見され主屋の裏にはプーリーとベルトのついた茶工場も残されていた。明治になって川越が廃止され失業した人足の多くは牧之原の茶園開拓に転業したと言われ建物も同じく用途が移行したことを示している。金谷側には唯一の川越遺跡として整備計画が決まるまでの措置として平成16年に解体保存。現在は更地になっており旧加藤家をなんとかしざー!会が立札や掲示板、ベンチを設置している。この付近には川会所と川高札もあった。 |
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{左・寄}宅円庵 [浄土宗] 次の道を左折し途中の2叉路を左に行くと右。慶安4年(1651)創建。宅円大徳上人の夢に薬師如来が現れ「大井川は水難多く一宇を建立せよ」と告げたため薬師如来を本尊として堂を建立したと言う。境内左に歌舞伎の青砥稿花紅彩画(白波五人男)の日本駄右衛門のモデルとなった大盗賊・日本左衛門の首塚がある。本名は浜島庄兵衛で金谷育ちで義賊とも呼ばれた。日本で初めて指名手配され延享4年(1747)京都で自首し江戸の伝馬町で処刑され遠州鈴ヶ森の晒し場で晒し首になったが金谷宿の愛人おまん(三好ゆき)が首を持ち帰りここに葬ったと言う。墓石には岡本天古の句が刻まれている。他にも境内左に昭和8年(1933)無縁供養塔、地蔵の祠、北向地蔵、境内右に6地蔵、石仏3基などがある。 |
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{右}秋葉神社 しばらく行くと一段高くなった敷地に昭和3年(1928)社名石碑と瓦葺の祠がある。金谷宿内には秋葉神社の祠が多くこの後も街道沿いに点在している。少し先で大井川鐵道大井川本線の踏切を渡る。大井川本線(金谷〜千頭駅間)では昭和51年からSLの運転が復活している。踏切を渡って少し先を左折していくと昭和2年(1927)開業の新金谷駅があり木造2階建の駅舎の約半分は開業当時のままで2階は大井川鐵道本社となっておりSLの車庫もある。 |
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{右・寄}仏光山 西照寺 [真宗大谷派] 金谷河原2023-1 大代川を昭和36年竣工の大代橋かその隣の平成9年竣工の歩行者専用の往還橋で渡りその先の清水川を昭和35年竣工の清水橋で渡る。清水橋の手前右には小さな祠がある。少し先を右折すると正面に寺がある。慶長7年(1602)西本願寺と分裂した東本願寺は勢力拡大のため各地に直轄寺を建立しており天和3年(1617)東本願寺13世宣如上人が関東に来た際に随行していた誓玄法師がこの地に留まり宣如から阿弥陀如来金泥画像、連如上人真跡六字名号、顕如上人絵像を賜り堂を建て寺とし寛永4年(1627)開山。享保15年(1730)金谷宿大火で全焼したが顕如上人絵像は火難から免れた。本堂は寛政12年(1800)再建され平成16年改修。古い鬼瓦も展示されている。境内左には鐘楼もある。 |
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{右}佐塚屋本陣跡 金谷2008-1 次の十字路から先は東海道は国道473号となり少し先左には秋葉神社の小祠がある。しばらく行くと佐塚書店前に木製碑がある。本屋は本陣家の子孫が経営している。佐塚佐次衛門がつとめた佐塚屋本陣は天保14年(1843)の記録では屋敷建坪263坪(868平方m)間口13間(24m)奥行35間半(65m)。門構玄関付きで門には対の鐘があり鐘の御門と呼ばれていた。家光が上洛の帰途使用したという大高蘭付蓮台が保存されている。少し手前右の婦人洋品店エルわらしな(金谷2007)や時計メガネ店オオツカ(金谷2007-1-2)の辺りには山田三右衛門がつとめた山田屋本陣があった。 |
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{右}柏屋本陣跡 佐塚本陣跡の少し先の金谷本町バス停留所前が庭園風に整備されており木製碑がある。金谷宿の解説と周辺案内図も兼ねた説明板もある。その後ろのJAおおいがわ金谷支店(金谷2014-1)と島田市金谷地域交流センター(金谷2014-3)がある場所が本陣のあったところ。先祖の功によって家康より家屋敷を賜わり名主もつとめた河村八郎左衛門家の本陣。河村家は明治に入り初代榛原郡長などをつとめていたが火災のため大阪へ移住した。建坪264坪(871平方m)間口9間半(17m)奥行40間(73m)門構玄関付。粕谷八郎左衛門と書かれれている文書もある。その先のゴルフショップヒライの辺りには金原三郎右衛門がつとめた脇本陣角屋があった。 |
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{左}金谷一里塚跡(53) 金谷宿の中心部を過ぎると左に東海道線、大井川鐵道が沿うようになり少し先の金谷駅手前の鉄道ガード前の角に木製説明板と夢舞台道標金谷宿 一里塚跡がある。延享3年(1746)東海道巡覧記には榎木が植えられていたと記述されている。他の文書では左には榎と松、右には松と桜が植えられていたとも書かれている。塚は鉄道が通る際に撤去された。次の小夜鹿一里塚跡は56里目であり54里目と55里目の一里塚は位置不明で欠番となっている。他に手前には平成6年設置の金谷町名所旧跡一覧の木製看板もある。東海道は鉄道ガードをくぐり金谷駅の裏側に出る。 |
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{左}本遠山 長光寺 [日蓮宗] 新町2253 ガードをくぐり右折するとすぐ寺の階段がある。正保元年(1644)慈善院日悦が身延山久遠寺26世智見院日暹を開山とし開基した。元治元年(1864)再建。金谷宿では唯一の日蓮宗寺院。参道右に元禄15年(1702)の題目塔。境内左に昭和31年建立の芭蕉句碑「道のべの 木槿は馬に 食われけり」がある。貞享元年(1684)8月から翌2年4月にかけて門人の千里を伴い江戸から西へ旅した時の句で野ざらし紀行には「大井川越ゆる日は 終日雨降ければ、」と前書が付いた千里の句と並んで載っており大井川付近で詠まれたとされる。その後ろには昭和27年の梵鐘の鐘楼。他にも境内には身延山久遠寺78世智等院日良の題目碑、昭和6年(1931)の題目碑、本山17世本教院日貞上人石像がある。 |
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不動橋 しばらく行くとある。この橋が金谷宿の西の入口となる。現在の橋は昭和28年竣工の鉄筋コンクリート製。昔は土橋で宝暦14年(1764)の記録では長さ6間(11m)幅2間半(4.5m)だった。手前左の少し奥に昭和11年(1936)秋葉山常夜燈がありさらにその奥の突き当たりには小さな神社がある。橋を渡ると道はゆるやかな登り坂になっていく。箱根と並ぶ険阻な坂道と知られた金谷坂で広重は隷書東海道五十三次で金谷宿の図案として金谷坂を描いている。 |
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{右・寄}中山新道 金谷側入口 少し先に2叉路があり東海道はまっすぐ行く。右に分岐する道は中山新道と呼ばれ右折しすぐ左に説明板がある。JR牧の原トンネル上を横切り城山を登り県道381号線に合流し、国道1号、県道415号線を経て日坂宿入口まで至る延長6.66kmの道で金谷宿生まれの杉本権蔵らが日坂の北に位置する入植地(御林)から開墾地である牧之原へのルート確保のため工事費32100円40銭をかけて明治12年(1879)着工し翌年竣工した。明治8年開通の日本初の有料道路に続く日本初の民営有料道路と言われ道銭場(料金所)は当初この辺りにあったが明治14年頃小夜鹿に移された。明治22年国鉄開通により利用者が減少し有料ではさらに敬遠され県に移管されたのち明治38年(1905)に国道となった。 |
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{左}秋葉山常夜燈 坂を登っていくとしばらくして玉石を積んだ土台にのった小さな祠と火袋部分が抜けた自然石の秋葉山常夜燈がある。この先東海道は国道473号の高架に突き当たり分断されるためそのまま右に迂回して登り国道を横断する。 |
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金谷坂石畳入口 国道を横断し「旧東海道石畳入口」の標識に従い坂道を登ると石畳の入口に着く。金谷峠の金谷坂(登り)と菊川坂(下り)は傾斜が急なうえに「青ねば」と呼ばれる粘土質の土で雨が降るとぬかるむ道だったため文政年間(1818-30)幕府が近くの助郷に命じ登り下り全てに山石を敷き並べて石畳を敷設した。うち登り部分は不動橋から850m幅2mだったが近年は殆ど失われ昭和40年頃には石畳茶屋付近の30mを残しコンクリート道になっていたため平成3年に旧金谷町民600人が参加し一人一石を目標に山石7万1000個を運びここから430m幅3.5mに渡り敷き詰めた。両端に江戸時代には無かった側溝が設けられコンクリート下に僅かに残っていた古い石畳は取り去られた。 |
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{右}石畳茶屋 金谷2482-1 石畳入口の隣にある江戸時代風茶店。旧金谷町が建てたもので町屋風数寄屋造りの建物。奥には本陣に残された江戸時代の文書や川越しの歴史的資料など金谷宿に関するものが展示され囲炉裏がある広間でそばやうどんなどの軽食や金谷茶が味わえる。金谷の名産を集めた売店や純和風庭園もある。9時-17時(10-3月は-16時)月休。金谷茶(菓子付)300円。手前の駐車場には広重の絵(保栄堂版金谷宿)がある。門の左には石畳の説明、その隣には地蔵が安置された祠もある。 |
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{右}鶏頭塚&庚申堂 石畳茶屋のすぐ先にある小公園。入って左に南向延命地蔵、その先左に鶏頭塚、一番奥に庚申堂がある。鶏頭塚は芭蕉の門人である六々庵巴静の句「あけぼのも 夕ぐれもなし 鶏頭華」を刻んだ自然石で「六々庵巴静 寛保甲子四年二月十九日没」とも刻んである。巴静の教えを受けた金谷の門人たちが師を慕って金谷坂の入口北側の付近に建てたものが道路工事等で移されここにある。庚申堂は宅円庵に首塚がある大盗賊・日本左衛門の伝説がありこの堂で夜盗姿に着替えて盗みに向かったと伝わるが現在の庚申堂は小さい。堂右に三匹の猿を刻んだ年号不明の庚申塔もある。堂の裏には明和2年(1765)などの石塔6基がある。 |
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{右}すべらず地蔵(六角地蔵尊) 石畳の中間あたりにある。石畳の復元後に地元民により奉納された木造双体地蔵で六角屋根(鞘堂)の下にある六角堂の中に安置されている。石畳に「滑らない山石」が用いられたことから旅人の安全を祈る意味ですべらず地蔵と呼ばれたが今では「すべらず」つながりで受験生が多く訪れるという。すぐ先左には赤いのぼりに隠れて小さな石地蔵もありさらに先に進むと右に1つの根元から5本の幹が出ている五つ子楠もある。 |
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{左・寄}明治天皇御駐輦阯 石畳を登りきると車道に合流する。右には石畳の説明板。旧東海道はそのまま右に進むが左へ進むとすぐ右に昭和3年(1928)建立の碑と説明板がある。牧野原野立所の跡で明治元年(1868)東京行幸と明治11年(1878)北陸東海御巡幸の時に明治天皇が休憩し富士山や茶園開墾地を眺めたという。今でもここから東には日本一の製茶地帯である牧之原台地が広がる。さらに旧東海道と離れるように少し進むと芭蕉句碑「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟」があり凸部がある自然石に凸部を避けて句が刻まれている。大正ごろに向かいの路傍に建てられたが昭和40年に現在地に移された。句碑の向かいには小さな祠があり馬頭観音など石像が2体安置されている。東海道はここからしばらく舗装道路を歩いていく。 |
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{右・寄}諏訪原城趾 住宅地を通りしばらくすると諏訪原城跡バス停と駐車場がある。駐車場奥から順路の標識通りに林や茶畑の中を進むと一周できる。永禄12年(1569)武田信玄が馬場信春を城主として構築するも家康に奪われ天正元年(1573)武田勝頼が奪還し馬場氏勝に命じ本格的な山城とした。城名は城内に武田の守護神である諏訪明神を祀ったためだが牧野(原)城、金谷城とも呼ばれる。天正3年長篠の合戦の後、家康が奪い天正6年松平家忠が城主となるが天正18年の家康関東転封で廃城となった。昭和50年国史跡に指定。遺構は本丸、二の丸、三の丸、大手郭、帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の八郭から成り配置形態から扇城の名もある。カンカン井戸や諏訪神社、武田方の城主・今福浄閑の墓もある。 |
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菊川坂石畳入口 すぐ先で県道234号線と交差し渡ると再び石畳が始まる。金谷宿からここまでの登りを金谷坂、ここからの下り坂を菊川坂と呼ぶ。左には四阿があり後ろに県知事石川嘉延揮毫で「万古不易」と刻まれた平成13年建立石畳復元記念碑がある。石畳は平成13年東海道400年記念として県民525人の参加で全長611mの石畳道が整備され途中左には参加した全員の名簿が説明板として立てられている。右前方には粟ヶ岳(標高532m)が見え斜面には植林したヒノキで描いた「茶」の文字がある。昭和22年頃には松で描かれたが松喰虫被害のため後にヒノキで作り直された。 |
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菊川坂石畳 下りはじめてしばらくすると一番左はガードレールを隔てて一段下に車道、その左に茶畑用の車道、その右が石畳となり石畳はすぐに林の中に入る。金谷坂石畳と違い江戸時代の石畳を残すように整備したため菊川坂石畳は県指定史跡になっている。しばらく先で車道と交差した後の左にある説明板を過ぎると古い石畳となる。江戸時代後期に近隣12村の助郷によって敷設されたもので当時は長さ380間(690m)あった。昭和30年代から40年代にかけての工事で破損されたため現在は長さ161m最大幅4.3mが残っている。石畳が終わると舗装道路に合流し左に「菊川坂石畳と間の宿菊川」の説明板がある。 |
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{右・寄}龍谷山 法音寺 [曹洞宗] 菊川529 しばらく行くと右に入口標示があり右折していくと正面。門前右に寛政3年(1791)建立「門内禁葷酒」碑、平成14年建立の聖観音、大正3年(1914)建立の六地蔵、その右には五輪塔、石仏、石塔などが6基ある。 |
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{右・寄}中納言宗行卿之塚 法音寺前を右に行き国道の高架をくぐると2叉路に入口角柱と石道標、大正7年(1918)の地蔵を安置した祠があり左折して墓地の横を登っていくと再び2叉路と標示があり左折するとある。承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた承久の乱の首謀者として捕らえられた中納言藤原(中御門)宗行は鎌倉に護送途中、菊川の宿の柱に漢詩を書き残しその数日後に藍沢原(現:御殿場)で処刑され48歳の最期を遂げた。当初は西20mの位置に墳墓が築かれ文久3年(1863)水戸藩士渡邉宮内右衛門源進の発起による墓碑が建てられていたが昭和43年(1968)国道1号金谷バイパスの建設により移転し碑も新しくなった。碑の右には宗行卿之塚移築記念碑や説明板もある。 |
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{左}菊川の辻の道標 高麗橋手前で左から道が合流し高さ1mほどで上部が補修された道標がある。室町時代に盛んに行われた遠江33ヶ所観音巡りの25番札所である松島山岩松寺(菊川1447)への道標だった。左から合流している道が松島方面へと続く道。岩松寺は「歩き観音」で有名な寺で昔ひっそりと立つ観音石像を村人が寂しかろうと小夜之中山峠へ移したところ 翌朝には元の場所に戻っており足元が汚れていたため名付けられた。遠江33ヶ所観音は長保4年(1002)ごろの制定とされ掛川市や袋井市などの33寺を巡る。 |
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高麗橋 菊川にかかる昭和47年竣工の高麗橋(長さ14.8m幅4.6m)を渡ると間宿菊川に入る。橋は昔は菊川橋と呼ばれ東海道宿村大概帳によると長さ11間幅2間半橋枕3本立6組の土橋だった。後に河川改修によって架け替えられ高麗橋と名を改め現在の橋は2代目コンクリート橋。江戸時代は橋の左たもとに名物飴餅を売る橋本屋やいずみ屋などがあった。飴餅は餅を小さくちぎって丸め平らにして焼き5つ並べて水飴を添えたもの。水飴は扇屋の子育飴などを含め小夜之中山近辺の名物で難所を越える旅人たちの甘味として重宝した。橋本屋では「遠州菊川古跡白菊姫の事」という冊子も売っていたとされその版木が現在も子孫宅に保存されている。 ここから始まる間宿菊川は出口の四郡橋まで約300m。 |
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{右}間宿・菊川 秋葉山灯籠 しばらく行くと鉄製の秋葉山灯籠を安置した祠がある。祠の中には小さな梵鐘も置いてある。斜め向かいには夢舞台道標島田市 菊川の里もある。江戸時代には灯籠の隣に脇本陣があり向かいに問屋場、少し手前左には本陣もあった。2宿間の距離が3〜4里以上の時に存在した間宿であるが金谷宿と日坂宿は1里24町しかなく急所難所が続くゆえの設置だった。本来宿泊不可の間宿だが川留めの場合など金谷宿の許可を得て泊めることもあった。しかし本格的な料理を出すことは禁止で代わりに菜飯田楽を出したことろ後に菊川名物となった。茶屋でも売られおもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽が有名だった。少し先左の民家の壁には平成15年製作された菊川宿の昔の住居図が大きく描かれている。 |
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{右}菊川の里会館(さんぽ茶屋) 島田市菊川643-2 少し先にある。地域の公民館で毎週日曜日9時-14時のみは茶屋として営業。平成9年地域活性化のため地元女性グループが開業した。入口右には間宿の説明板がありその後ろに宗行卿詩碑と日野俊基歌碑がある。昔は菊川神社(菊川711)にあり平成3年に移された。中納言宗行卿が漢詩を残して約百年後に後醍醐天皇による正中の変(1324)が起き捕らえられた俊基は嘉暦元年(1326)鎌倉に送られる途中の菊川宿で宗行の故事を追懐して歌を詠んだ。しかし俊基はこの時は赦免され元弘の変(1331)で再び捕らえられ鎌倉で処刑された。碑の奥には菊川の里周辺図がありその横のトイレの建物の壁には菊川の昔話が書かれている。奥の会館の建物は屋根は大小重なり峠を行く駕籠のように見える。 |
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{左}矢の根鍛冶 五條(五条)才兵衛屋敷跡 斜向かいに鍛冶の様子「矢の根鍛冶 五條才兵衛之図」が大きく描かれた家がある。矢の根とは鏃のことで菊川の名産だった。才兵衛の先祖は京都五条の鍛冶でこの村に来て定住し矢の根鍛治を始めた。鏃は家康の大阪攻めにも献上され幸運の鏃として通行する大名も購入した。掛川誌稿によると才兵衛の家系は元禄以後断絶し鍛冶職と五條の名は別家の清次郎へと引き継がれたが泰平の世で需要がなくなり清次郎は菊川を離れたという。平安時代に小夜之中山峠に出た蛇身鳥と呼ばれる蛇の身体と刃の羽を持つ怪鳥を都から派遣された藤原(三位)良政が退治した時に射た矢の鏃も五條家の先祖丹次政則が作ったものと言われる。現在手前左には建設会社のゴジョー開発(菊川654)もある。 |
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四郡橋(よごおりばし) 少し先で菊川ではなくその支流の小さな川に架かる四郡橋を渡る。東海道は橋を渡ったら左折し10mほどの短い石畳を進み車道を横断する。石畳の左に小さな石柱があり4面に榛原郡、山名郡、城東郡、佐野郡とある。この4つの郡の境になっているため橋の名前が付いたが東海道がここで直角に曲がってるため横折れ橋がなまってヨコオリ橋になったという説もある。この角を四郡の辻とも呼び間宿菊川の西の入口になっている。 |
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青木坂 車道を横断すると石段を登りまた少し石畳があって別の車道に合流し右の青木坂を登っていく。まっすぐ進むと火剣山のハイキングコースに通じる。青木坂は箭置(やおき)坂ともいい菊川の西側にあることから「西坂」その道のりが長いことから「長坂」とも呼ばていた。茶畑の中をひたすら登っていくと集落の中ほど右に菊川の里(島田市)と日坂の宿(掛川市)の境の木製標識がある。現在の市境を示した新しいものでここから掛川市に入る。江戸時代は久延寺の境内より東は掛川藩領、西の佐野新田は日坂宿と同じ天領とされていた。小夜鹿が掛川市に合併されたのは昭和30年(1955)でこの境から東側は金谷町(現:島田市)に編入された。 |
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{右}小夜の中山歌碑 標識を過ぎた少し先に十六夜日記収録の阿佛尼の短歌碑と現代語訳のプレートが嵌め込まれた碑がある。阿佛尼は藤原為家の側室で弘安2年(1279)京都から鎌倉へ旅をし紀行文である十六夜日記を書いた。有名な西行の短歌の影響で「小夜の中山」は早くから歌枕となり多くの歌が詠まれた。ここから日乃坂神社前までの間には所々に小夜の中山を詠んだ同様の歌碑が置かれ「小夜の中山歌碑の道」となっている。小夜之中山の地名は怪鳥を退治した藤原良政と結婚し都に行った月小夜が都から戻り住んだ山のため名が付いた。しばらく行くと左に新後選和歌集収録の衣笠内大臣の短歌の同様の歌碑がある。衣笠内大臣とは衣笠家良のことで弘長2年(1262)続古今和歌集の撰者の一人になった。 |
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{左}接待茶屋跡碑 上りが終わり右にハイキングコースの道が分岐する少し先の久延寺向かいに広場があり崖に面して碑がある。碑の向こうには眼下には茶畑と民家が点在し火剣山を望める。ここより手前の坂の途中に永仁年間(1300)頃から旅人に無料で茶等を施していた茶屋があった。始めは平田寺[臨済宗](牧之原市大江459)が運営していたが時期によって僧尼のみに提供するようになり後に完全に途絶えたが久延寺が再興し安永年間(1764-80)まで続いた。芭蕉の句「馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟」の烟も一説にはこの茶屋の煙だったと言われる。広場には手前側に石祠があり奥には中山区公会堂(命なりけり学舎)がある。公会堂の前には小夜の中山歌碑の風雅和歌集収録の橘為仲朝臣の短歌がある。 |
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{右}佐夜之中山 久延寺(きゅうえんじ) [高野山真言宗] 掛川市佐夜鹿291 奈良時代に行基が開基したと伝わる。本尊は聖観音で子育て観音とも呼ばれる。弘化4年(1847)再建の山門左にシイノキの巨木がある。境内は昭和40年市文化財指定。境内左に昭和42年鋳造の梵鐘がある鐘楼、聖徳太子堂、石仏2体の祠、本堂左に明治43年(1910)などの三界万霊地蔵尊坐像5基、昭和53年建立の月小夜姫の墓と三位良政卿の墓、境内右に昭和55年建立の鴻村句碑「西行の 命の山ぞ ふきのたう」がある。本堂前の灯籠は昭和9年(1934)。寺宝として「宝物之図」の版木、夜泣石伝説の音八が仇討ちに用いた太刀、無間の鐘の破片、刃の雉子の牙、安産玉、弘法大師が御簾に書いた南無阿弥陀仏の名号などを所蔵する。入口左には小夜の中山地図案内板、小さな地蔵もある。 |
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{右}久延寺夜泣石(小石姫供養塔) 本堂右にある。元は夜泣き松で自害した小石姫の供養のため松の付近で出土した石に「南無阿弥陀」と刻み供養塔として門前に置いていたもの。夜泣石跡にあった夜泣石を所有していた久延寺は明治14年(1881)東京上野での第2回内国勧業博覧会に出展したが不評に終わり焼津港まで持ち帰ったものの運搬資金が無くそのまま放棄。宝暦元年(1751)創業で昔は久延寺西側にあり中山新道開通に伴い峠下へ移転していた茶店小泉屋が出資し半年後に自店の敷地に移し昭和11年(1936)松坂屋銀座店の静岡物産展に出展した。今度は大評判となり久延寺は所有権を主張したが裁判で敗れ昭和40年頃に門前の供養塔を境内に移し夜泣石とした。横には孕み石など付近で出土した小さな石も数個ある。 |
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{右}久延寺茶亭跡 境内右に碑と説明碑がある。掛川城主だった山内一豊は慶長5年(1600)関ヶ原に向かう家康をここに招き煎茶をもてなした。山門くぐって左の手水舎の裏にこの史実を伝えるため土佐藩9代藩主山内豊雍が天明9年(1789)建立した碑があり「慶長五年 関ヶ原之役 山内対馬守一豊 為東照宮神君 作亭於遠江佐野郡中山 以進飯 迄干今人存其遺跡而護之 因標之伝 天明九年歳次己酉春正月」とある。茶を煎れる際に水を汲んだ御上井戸は小夜の中山公園の手前の道を左折して50mほど行くと右にある。もてなしを受けた際に家康が植えた五葉松も境内にあったが枯れたため2代目の松が夜泣石の隣にある。松の横には昭和47年建立の芭蕉句碑「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」や二宮金次郎像もある。 |
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{右}末広荘 扇屋 佐夜鹿299 久延寺から空地を1軒分挟んで隣。宝永年間(1704-11)開業と言われる茶屋。古くは周辺に20余軒の茶屋があったが今ではここ1軒のみが残る。建物は江戸後期のもの。夜泣き松で自害した小石姫の遺児である月輪童子は末広荘の飴で育てられた。飴は月輪の実の父である中山寺住職空叟上人が中国伝来の製法を伝えたものだと言う。月輪は13歳で父と名乗れぬ空叟の弟子となり後に中国で修行し帰国後中山寺に身代子育観世音を安置した。また夜泣石伝説のお石から生まれた音八も飴を食べて育ったと言われる。今も砂糖を使わずに大麦と餅米の麦芽糖で作られる琥珀色の水飴である子育飴を売っている。割箸に絡める(1本100円)他に土産用(大1000円小500円)もある。土日祝のみの営業。 |
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{左}小夜の中山公園 斜め向かいに西行の短歌の円筒形の碑と説明板がある。文治3年(1186)69歳の西行が焼失した東大寺再建のため砂金勧進で奥州の藤原秀衡を訪ねる途中に小夜之中山を通り詠んだ歌で新古今和歌集に収録。歌碑は昭和55年建立で碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授吉阪隆正。公園の入口は少し先にあり広い公園内には四阿などがあり久延寺が焼けた時に灰になった経を埋めて供養したという5つの経塚があり五輪塔2基、宝篋印塔2基、地蔵尊1基が上にある。公園最奥にはモニュメントがあり西行の別の短歌と橘為仲朝臣の短歌が刻まれている。公園隣にはNTT佐夜無線中継所があり水道局の設備もある。 |
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{左}佐夜鹿(小夜之中山)一里塚跡(56) 公園を過ぎるとゆるい下り坂となりしばらく行った先左の中山茶業組合(佐夜鹿317-1)の先に木杭と常夜燈、説明板がある。小夜鹿一里塚とも書き慶長9年(1604)に作られ左には榎、右に松が植えられていた。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はなく周辺の一里塚や当初の東海道ルートから56里目とされるが元禄3年(1690)東海道分間絵図では日本橋から日坂宿まで53里30町でここは52里にあたり天保14年(1843)東海道宿村大概帳では日坂宿まで54里26町のため54里に相当する。現在は整備されベンチも置かれ新しい松の木や竹林が植えられている。奥には昭和3年建立の「史蹟一里塚」と刻まれた石柱もある。右塚は民家敷地内であるが塚が一部残存していると言われる。 |
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{左}佐夜鹿神明神社 集落を抜け右に茶畑が広がるようになるとある。社殿は平成2年建立の鳥居をくぐり少し登り右にカーブした先にあり小さな拝殿と本殿、天保14年(1843)手水石があるのみ。入口右には街道に面して小夜の中山歌碑の続後選和歌集収録の蓮生法師の短歌「甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山」(遙か甲斐の白根の峰々は雪で白い。今、神無月、時雨の中、さやの中山を越えることだ。)がある。蓮生法師は源氏の武将熊谷直実のことで法然のもとで出家し蓮生寺(藤枝市本町1-3-31)などを建立した。 |
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{左}鎧塚 しばらくいくと道は2叉路となり右は国道1号に通じ東海道は左(直進)を行く。すぐに標示があり石段を数段登ると石柱と説明碑がある。建武2年(1335)北条時行が鎌倉幕府を再建しようと兵を挙げた中先代の乱で京へ向かう時行の一族名越邦時がこの地で足利一族の今川頼国と戦い討死した。頼国は邦時の武勇を称え鎧を埋めてこの塚を作ったと言われるが掛川誌稿では頼国が功績を知らしめるために建立したと書かれている。こののち頼国も同じ中先代の乱で戦死した。近年、発掘されたが鎧は発見されず鎧塚云々と書かれた丸石が発見された。少し先左には小夜の中山歌碑の古今和歌集収録の紀友則の短歌がありさらに先の右にカーブした左には新古今和歌集収録の藤原家隆朝臣の短歌がある。 |
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{右}白山神社 さらに先左に小夜の中山歌碑と同じ様式で野ざらし紀行収録の芭蕉句碑「道のべの 木槿は 馬に食はれけり」がある。さらに少し先の茶畑の中に小さな祠の神社がある。祠の中には西行の短歌が書かれたひょうたんも奉納されている。祠の左には丸石、小さな手水石、シイの木と夢舞台道標小夜の中山 白山神社もある。東海道分間延絵図では左に白山権現として記述されており手前右には高札の記述もある。白山神社を過ぎ数件の民家を抜けた左に小夜の中山歌碑の新古今和歌集収録の壬生忠岑の短歌がある。壬生忠岑は紀友則らとともに三十六歌仙の1人で古今和歌集の撰者の1人。そのすぐ先で再び2叉路があり東海道は左(直進)へ行く。 |
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{左}馬頭観世音 茶畑の間の道を進んで行くと碑と説明碑がある。卵形の石を立てて文字で「馬頭観世音」とある。「往来歩行人馬 為御祈祷建之」とも刻まれている。怪鳥退治のため京より退治に派遣された藤原(三位)良政が乗っていた愛馬が倒れ葬った場所とも伝わる。良政が退治した怪鳥は「蛇身鳥」「刃の雉子」と呼ばれ蛇の体に刃の翼を持ち毎日3人以上の子どもを食らっていたと言う。猟が趣味である武将の夫の誤射により息子を失った妻が淵に身を投げその霊が化したものと伝わり良政は怪鳥を退治した後に残された猟師の娘の月小夜を妻とし京に連れ帰った。 |
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{右}妊婦の墓(夜泣き松跡) 少し先に中央に「三界万霊等」と刻まれた墓碑と説明碑がある。藤原良政と月小夜(清道禅尼)の娘である小石姫の墓と言われる。親が整えた婚儀の前に中山寺住職空叟上人の子を宿した小石姫は身の不幸を安じここにあった松の根元で自害した。松籟(松に吹く風音)は小石姫の霊が松に留まったとされ松は「夜泣き松」と呼ばれた。後に夜泣き松の皮をいぶした煙が子供の夜泣きに効果があるという噂が広まり皮を削り取る人が増え松は枯れてしまった。松を惜しんだ地元民が跡地に置いた丸石は孕み石と呼ばれ現在は久延寺夜泣石の横に置かれている。直径は夜泣石の半分ほど。夜泣石の伝説は夜泣き松と孕み石の伝承が東海道の路上にあった大きな丸石と結びつき生まれたとも言われる。 |
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{左}涼み松広場 向かいにある。年号不明の芭蕉句碑「命なり わずかの笠の 下涼み」がある。夜泣石があった場所の北に大きな松があり延宝4年(1676)芭蕉が伊賀上野に2度目の帰郷をした旅の帰りの夏の日に松の下で詠んだと言う。それよりこの松を涼み松と呼び周辺の地名も涼み松と称されるようになった。句は延宝6年(1678)の「江戸広小路」に収録されている。今は松の大木は無く若い松が植えられており平成12年東海道ネットワークの会記念植樹もある。整備された広場には石のベンチもある。この先で緩やかな下りに入りしばらく行くと左に小夜の中山歌碑と同じ様式の野ざらし紀行収録の芭蕉句碑「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」がある。この句の碑は明治天皇御駐輦阯の横、久延寺に続いて3ヶ所目。 |
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{左}夜泣石跡 坂を下っていくと石柱と説明碑がある。死んだ妊婦の魂が移り夜毎に泣いたという石があった場所。文化元年(1804)滝沢馬琴の「石言遺響」には小夜之中山に住むお石という妊婦が菊川の里へ働きに出た帰りに急な腹痛で松の根元で倒れ通りかかった轟業右衛門は介抱するがお石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。お石の傷口から生まれた赤子の音八は久延寺の和尚に育てられ後に大和国の刃研師の弟子となり偶然刀研ぎの依頼に来た轟業右衛門を仇討ちした。明治元年(1868)まで道の中央にあった夜泣石(重さ900kg高さ60cm)は明治天皇御東幸の際に道脇に寄せられ後に久延寺の所有となったが今は国道1号バイパス沿いの小泉屋(佐夜鹿57-8)裏にある。 |
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{右}小夜之中山峠の絵碑 夜泣石跡の少し先向かいに広重の東海道五十三次(保永堂版)の日坂宿「小夜之中山峠」の絵碑と説明碑がある。山中を通る坂道の真ん中に丸い大きな夜泣石が描かれており数人の旅人が立ち止まって石を眺めている図案。広重が書いた「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」など他の東海道シリーズでも日坂宿はほとんど小夜之中山と夜泣石が描かれており江戸時代の東海道の名所であった。夜泣石は静岡県西部地方の不思議な現象を集めた遠州七不思議の1つにも数えられるが遠州七不思議は確定されておらず10個以上の不思議候補が存在している。 |
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