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{左・寄}大元屋敷跡 新居町駅正面の通りを南下し新居高校(新居町内山2036)の先を左折、ホルト通りを進むと昭和48年竣工の港橋を渡った右の小さな公園に関所を模した冠木門と説明板がある。慶長5年(1600)設置された新居関所と渡船場はここにあり当時の新居宿もここから西に城町(泉町)、中町、西町と並び西町入口には枡形があった。元禄12年(1699)の大風雨災害後に中屋敷に移転し跡地は大元屋敷跡と呼ばれた。屋敷とは集落を意味する。公園内には江戸中期の女流歌人・井上通女の歌碑もあり関所を通過できなかったことを嘆き詠んだもの。大元屋敷の北には八兵衛・七兵衛兄弟の広大な敷地があったが宝永4年(1707)大地震と津波で全滅、家屋も水没した。現在は潮干狩り場の八兵衛瀬の名の由来となった。 |
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{左・寄}中屋敷跡 大元屋敷跡からホルト通りを新居高校方向に少し進むと左の暁モータース(新居町新居478)向かいの車道と歩道の間に平成16年設置の説明板がある。元禄12年(1699)の災害で大元屋敷から移転した関所や新居宿がここに形成された。元禄15年には関所が幕府直轄から吉田藩の管理となったが宝永4年(1707)大地震と津波で関所は全壊し一般家屋も805戸のうち241戸流失、107戸破壊したため現在残る関所や宿場跡へ再び移転した。付近は昔、藤十郎山と呼ばれ新居高校の北にあった松は堂頭(唐土)の松と呼ばれ関所移転後も渡船の航路標識の役割を果たした。樹齢300年以上で昭和54年に町史跡に指定されたが平成12年松喰虫のため伐採され今は翌年植えられた2代目と石柱、説明板がある。 |
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{右・寄}新居町駅 大正4年(1915)開業。駅前には高札風の付近案内図、昭和53年制定「新居町民憲章」石碑。駅向かいの小公園には毎年7月下旬に行われる諏訪神社例祭の奉納花火である遠州新居手筒花火の像がある。直径10cm長さ60cmほどの油抜きをした孟宗竹に藁縄を巻き中に黒色火薬を詰めた花火を抱えて囃子に合わせ踊る。手筒花火の起源は東三河で享保年間(1716-35)に吉田藩から新居に伝わったとされるが新居では関所役人の許可で大量の火薬が使え盛大で有名だった。駅前を通る国道1号を西に少し進んだ右の一段高い緑地内には平成2年建立の種田山頭火句碑「水のまんなかの道がまっすぐ」がある。2度目の遠州路を旅した昭和14年(1939)に詠まれたもので句集「草木塔」に掲載されている。 |
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{右・寄}浜名橋 駅から西に行くと栄町交差点で国道1号は左に逸れていくがまっすぐに分岐する国道301号をしばらく行くと平成6年竣工の浜名橋(長さ26.7m車道幅7m歩道幅2.5m×2)がある。橋柱は常夜燈風で右の歩道脇には6枚の浮世絵が設置されている。渡って右奥には秋葉神社の祠があり灯籠は昭和15年(1940)。左の川面には多くの小さな舟が係留されている。橋を渡りしばらく行くと右の櫓風の建物の新居町消防団第一分団の先に広重の新居宿の絵や新しい常夜燈がある。 |
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{右}新居関所史料館 浜名郡新居町新居1227-5 その先にある。大元屋敷から中屋敷を経て移転した3番目の新居関所の入口でチケット売場の建物が史料館となっている。新居関所は正式には今切関所と言い明6つから暮6つまで通行できたが女、鉄砲、手負死人、首は証文がなければ通行不可だった。上下役他約40人が交代で勤務し長柄10弓25鉄砲25などの武器も常備していた。史料館1階には「街道と関所」「海の関所新居」として主要街道と関所の分布、新居関所と浜名湖の変遷と関所の役割、鉄砲改め、女改め等を紹介。2階は「旅と宿場」として旅の様子を描いた浮世絵版画、各地の名物、新居宿の紹介・庶民の暮らしの道具類の展示のほか特別展・企画展も開催する。9時-17時(入館は16:30まで)月休、300円(紀伊国屋と共通400円)。 |
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{右}渡船場跡 関所の敷地に入った左が堀のようになっており渡船場が復元されている。宝永5年(1708)関所が現在地へ移転して以降は今切の渡しの渡船はここに到着した。付近の水面や渡船場の遺構は明治以降にほとんどが埋め立てられたが古絵図と発掘調査を元に平成14年に護岸石垣、雁木、水際の丸太杭など1部が復元された。雁木から面番所への通路を進むと右に上洛する14代将軍家茂の行列が通る関所の様子を描いた歌川芳盛の文久3年(1863)の浮世絵、左に無人島漂流者平三郎の子孫の足型碑がある。 |
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{右}面番所 嘉永7年(1854)地震で大破した翌年に建てられた建物で全国で唯一現存する関所建物。入母屋造本瓦葺で間口11間(20m)奥行7間(13m)。明治2年(1869)関所廃止令以降は明治6年から大正5年(1916)まで新居小学校、昭和26年まで新居町役場庁舎として使用され昭和30年国特別史跡に指定。昭和46年に解体修理工事を行った。まわり縁側が付いた上番所(20畳)、下番所(25畳)の2部屋で通行人の取調べを行い手前に応接間である上の間(10畳)、その裏に書院、下番所裏に下改勝手、足軽勝手が付設する。建物内には徳富蘇峰が書いた「東海古関」額もある。建築時には番頭勝手、給人勝手、船会所も付設し、敷地内には女改め長屋、土蔵、大御門もあったが現存せず復元が計画されている。 |
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{右}炭太祇(たん たいぎ)の句碑 関所前庭の松の大木の根元に昭和36年建立の句碑がある。当時の旅行家の第一人者とも言われた太祇が新居関所を通った時に詠んだ句。宝永6年(1709)江戸生まれで俳諧を雲津水国に学び水語と号し水国の没後は慶紀逸に学び寛延元年(1748)太祇と号した。宝暦元年(1751)京で仏門に入り道源と称し大徳寺真珠庵に住んだが宝暦4年還俗して京の島原遊郭内に不夜庵を結んで住み与謝蕪村と句会を持つなどし寛政3年(1791)没。前庭には他に旅人が関所で取り調べを受けている時に荷物を置いた荷物石や雨水を浜名湖へ流す側溝である石樋、正徳元年(1711)の関所高札のレプリカがある。当時は2つの荷物石が面番所の西に置かれ面番所の南北に二筋の側溝が東側の石垣まで掘られていた。 |
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{左・寄}船囲い場跡 関所向かいの道を左折していくと電話ボックス横に昭和56年建立の石柱と平成16年設置の説明板がある。今切の渡船用の船をつないだところで常時120艘が配置されていた。大名通行などで足りなくなると寄せ船制度で近郷から集められた。その先の右には鉄柵で囲まれた天明年間(1781-88)のものとされる屋形秋葉常夜燈がある。 |
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新居宿 本陣3脇本陣0旅籠26家数797人口3474[天保14年(1843)] 慶長5年(1600)大元屋敷に関所が設置されそこに宿場が形成されたが度重なる災害で中屋敷を経て関所と共に移転した。江戸時代以前に新居村の助ヱ門、久平らが敗走する家康を漁船で送り届けたり足跡を逆に付けて追手の目を欺く「逆さわらじ」などで助けたため天正2年(1574)認められた今切の渡船の権利は江戸時代を通して新居宿が独占し大きな収入源となった。しかし渡船参加を求める対岸の舞坂宿や宿内における渡船の運営を巡る問屋と庄屋など内外の争いも絶えなかった。江戸(東日本)では荒江、荒井とも書かれた。 |
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{左}無人島漂流者碑 関所のすぐ先の十字路を渡った味楽酒房豊千(新居町新居1242)横の小スペースに「無人島漂流者不屈の精神を伝える」と刻まれた平成17年建立の石碑がある。享保3年(1718)今切を出航した新居宿の筒山五兵衛所有の廻船「鹿丸」は清水、下田、江戸、銚子、気仙沼、石巻などを航海し城米や木材などの物資輸送にあたったが翌年銚子沖で嵐に遭遇し3ヵ月後無人島の鳥島に漂着。船は時化で失われ乗組員12人は漂着後3年から10年のうちに9人が死亡した。残る3人甚八、仁三郎、平三郎は21年後の元文4年(1739)漂着した小舟で脱出、八丈島から御用船に便乗して浦賀に上陸した。江戸で将軍吉宗に謁見したのち新居に帰郷し安泰に暮らした。碑の裏面には漂流ルートの地図も刻まれている。 |
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{右}あと引 新居町新居1249 十字路を渡り2軒目にある菓子屋。江戸時代は飯田武兵衛本陣の分家の旅籠江戸屋太兵衛で関所の隣だった。明治初期に菓子屋として創業。現在の店の間口は狭いが店内は広く奥行があり旅籠時代の名残を感じさせる。新居銘菓「あと引き煎餅」は戦後に考案された甘口煎餅で小麦粉を使った生地を厚さ3mmほどに伸ばし丸めて輪切りにしたり生地を4枚ほど重ねて四角く切って焼く。客の一人が「あとを引くうまさ」と褒めたことから名が付き店名も江戸屋からあと引に変わった。海苔、胡麻、生姜、落花生の4種類がある。1袋315円〜。8:30-19:00火休。新居銘菓は「うず巻き」も有名で以前は3、4軒が作っていたが現在は卯月園(新居1293)と成交堂(新居1580-1)の2軒が作りスーパーなどで買える。 |
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{左}旅籠 紀伊国屋資料館 新居町新居1280-1 少し先にある。紀州出身で江戸初期に新居に来て茶屋を営んだ小野田家が後に疋田弥左衛門を名乗り旅籠を始め元禄16年(1703)から紀州藩の御用宿となり正徳6年(1716)から紀伊国屋を名乗った。江戸後期には敷地内に御七里役所も置かれ平屋造りで間口5間(9m)部屋数12奥座敷2総畳数63と新居宿の旅籠26軒中最大規模となった。明治7年(1874)の泉町大火後に2階建となり昭和36年まで旅館を営んでいた。建物には江戸後期の旅籠建築様式も残っており平成13年整備され資料館となった。1階には鰻蒲焼の複製や蒲焼のたれを蓄えた瓶、2階には枕なども展示されている。台所にはロープを引いて開閉する天窓、奥座敷の庭には水琴窟もある。9時-17時、月休、200円(新居関所と共通400円)。 |
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{右}疋田弥五助本陣跡 (現:疋田医院) 新居町新居1323-1 少し先の泉町交差点手前右に昭和56年建立の「本陣跡」石柱がある。天保年間(1830-43)の記録によると建坪188坪(620平方m)玄関門構付。加賀、対馬、宇和島、今治藩など70家余りが利用した。宝永4年(1707)の新居宿移転後、最初の問屋場でもあり天保年間には年寄、問屋役もつとめた。新居宿の本陣や旅籠では鰻の蒲焼が出され丸子のとろろ汁、桑名の焼き蛤と並ぶ東海道三大名物の一つであった。東海道中膝栗毛では弥次さん喜多さんも食べている。 |
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{右・寄}寺道 泉町交差点で東海道は左折するが渡って右に入る小道の入口に「寺道入口」標柱がある。宝永4年(1707)の新居宿移転に際し寺と神社を街道より奥の山側に集めたため寺社が密集し街道の一本奥の寺社に沿った小路を寺道と呼ぶようになった。ここから入っていった道沿いに新福寺、住吉神社、隣海院、本果寺、神宮寺、諏訪神社、龍谷寺がある。以前は光珠庵と要津寺もあったが明治時代に神宮寺に合併された。それまでは8月15日の夜に7つの寺の施餓鬼棚を提灯の明かりを頼りに親類縁者一族でお参りして回る「七寺参り」という風習があった。 |
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{右・寄}瑞龍山 新福寺 [曹洞宗] 新居町新居1341 寺道に入りすぐ先を右折していくとある。永享元年(1429)真達将公創建の天台宗の寺だったが天正元年(1573)新居に訪れた直傅龍察が荒廃した寺を修復し曹洞宗に改宗した。慶長元年(1596)宝福山金剛寺(浜松市北区三ヶ日町三ヶ日432)5世吉山宗豚を開山として招き浜名湖西岸を支配していた代官彦坂文右衛門英信が開基となり慶長18年諸堂を改修した。宝永5年(1708)に現在地に移転。本尊は釈迦牟尼如来。山門を入ると左右に百体の石観音がある。境内右に鐘楼。本堂は新しく前には旧本堂の鬼瓦がある。本堂左に失くした物が見つかるという瑞龍稲荷。境内左には享保2年(1717)などの古い石仏12基や新しい6地蔵。墓地には彦坂文右衛門英信の墓もある。浜名湖岸88ヶ所霊場第68番札所。 |
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{右・寄}住吉神社 新居町新居1353-1 寺道を進み少し先で右に入ると石段がある。慶長8年(1603)海辺の住吉地区に創建されたが宝永5年(1708)現在地より北に移され昭和37年新幹線敷設で現在地に移された。祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命。諏訪神社、湊神社、八王子神社とともに新居4社の一つ。石段を登ると右に昔の新居宿から移された貞享5年(1688)秋葉山常夜燈。鳥居は大正11年(1922)。境内右に津島社、秋葉社の境内社。社殿左にも秋葉神社があり宝暦8年(1758)、安永5年(1776)、安永9年と火事が続いたため新居関所の番頭五味高祖が指示して勧請した。関所の番頭を7代に渡りつとめた五味家は武田信玄・勝頼の家臣五味長遠の子孫で高祖は元禄15年(1702)に関所が吉田藩の管理となってから4代目の番頭。 |
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{右・寄}新居山 隣海院 [曹洞宗] 新居町新居1346 神社入口からさらに寺道を行き左に道なりにカーブしていくと右にある。永享8年(1436)真達将公がここより南の日ヶ崎村に創建した天台宗の隣海庵が起こりで慶安元年(1648)に進外能迪が曹洞宗に改宗し新福寺の末寺となり日ヶ崎山隣海院となった。宝永5年(1708)現在地に移転し山号を新居山とした。本尊は薬師如来。文化7年(1810)諸堂が焼失したが山門(四脚門)は残った。梁上にある「ジキジキ」と呼ばれる朱塗りの憤怒像は参拝者の邪心を祓うとされ現在のは彫刻家・見崎泰中の複製。現物は本堂にあり町指定文化財。山門入ると右に鐘楼。本堂左には観音堂があり三十三観音や遍照金剛が安置されている。観音堂の手前には水子地蔵の祠がある。浜名湖岸88ヶ所霊場第67番札所。 |
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{右・寄}正興山 本果寺 [法華宗陣門流] 新居町新居1362-1 隣海院から寺道を進むと少し先。元は真言宗だったが元中7年(1390)日歳(日才大徳)が改宗し常霊山本興寺(湖西市鷲津384)の末寺となり寺名を改めた。宝永5年(1708)現在地に移転した。本尊は十界互具大曼荼羅、一塔両尊四士高祖日蓮大聖人。山門入って右に平成12年建立の塔のような鐘楼「あけぼのの鐘」がある。本堂左に建部大明神の札がかかる堂、その左にはめぐみ観音供養塔がある。寺にはお経に化けた鯛の伝説が伝わり開山の日歳が病にかかり小僧がやむなく仏教禁制の鯛を食べさせ続けたところ回復したが他の者が調理している所を覗くと小僧がお経の本を読んでるようにしか見えなかったというもの。寺には松山新田を開発した野口休可(甚九郎)の墓もある。 |
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{右}飯田武兵衛本陣跡 (現:飯田純昂家) 泉町交差点の正面に昭和56年建立の「本陣跡」石柱と平成16年設置の木製立札説明板がある。天保年間(1830-43)の記録によると建坪196坪(647平方m)玄関門構付。小浜、桑名、岸和田、敦賀藩など約70家が利用した。明治元年(1868)天皇行幸の際に行在所となり同年の還幸、翌2年の再幸、11年の巡幸の際にも利用された。行在所として使用された建物は明治18年方広寺(浜松市北区引佐町奥山1577-1)に移築された。ここは新居宿の本陣汐見武兵衛の娘お美也の物語である平岩弓枝の「水鳥の関」のモデルとされる。現在の建物は当時のものではなく民家となっており屋根には浜名湖競艇の道案内看板が乗っている。左には夢舞台道標新居町 新居宿 飯田武兵衛本陣跡もある。 |
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{右}疋田八郎兵衛本陣跡 飯田本陣のすぐ先に昭和56年建立の「本陣跡」石柱と平成16年設置の木製立札説明板がある。宿場の庄屋、年寄役などもつとめた家で天保年間(1830-43)の記録によると建坪193坪(637平方m)玄関門構付。薩摩、長州、吉田藩のほか御三家など約120家が利用した。幕末期の絵図では右隣は旅籠 伊勢屋忠右衛門、左隣は医者高須弥久とある。 |
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{右}寄馬跡(問屋場跡) 新居町新居1309 すぐ先のタカスペットセンター前に石柱と木製立札説明板がある。付近の助郷村々から出された馬や人足はここに集められた。新居関所が大元屋敷にあった頃は関所構内が広くそこで人馬継立ても行っていたが現在地に関所が移るとここが継立場所になった。 |
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{右・寄}白翁山 神宮寺 [臨済宗方広寺派] 新居町新居1375 少し先右のファミリーショップいわむらや(新居1503)手前を右折し寺道に突き当たり右折するとすぐ左。応永2年(1395)悦翁大園真覚禅師がここより南の日ヶ崎村に開山。宝永4年(1707)の大地震後に現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来、地蔵菩薩。本堂鬼瓦の菊の御紋は真覚の師で方広寺を開創した聖鑑国師(無文元選)が後醍醐天皇第11皇子であるため。境内入って右に新しい6地蔵、本堂右前に地蔵。本堂左に鯖弘法石像があり道に捨てられた鯖を弘法大師が浜名湖に入れると泳ぎだしたという故事から彫られ戦後東海道沿いからここに移された。本堂左に旗本・土屋主税が創建した関所稲荷がある。主税は忠臣蔵では吉良邸隣に屋敷があり討入りを黙視した。浜名湖岸88ヶ所霊場第66番札所。 |
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{右・寄}諏訪神社 新居町新居1379 スーパーかきこや仲町店(新居1498)先を右折すると正面。元は景行天皇19年(西暦89年)創建の延喜式内社の猪鼻湖神社とされる。天正10年(1582)武田家滅亡後に来住した元・山本勘助の重臣の井口嘉末の諏訪大明神勧請により諏訪神社となり宝永5年(1708)現在地に移転した。祭神は建御名方命、八坂刀賣命。弘化5年(1848)の鳥居右に御神木の欅(樹齢450年根周7.5m目通5.5m樹高16m)があり昭和54年指定町天然記念物。欅の右の舗装路を少し登った石段の上に上社もある。鳥居手前の灯籠は右が文政6年(1823)左が明治15年(1882)。右には明治41年(1908)日露戦役記念碑もある。社殿左に昭和56年建立鈴木重胤の歌碑。境内左に八所社、三柱社、東照宮、秋葉社など11社がある。 |
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{右・寄}東湖山 龍谷寺(竜谷寺) [臨済宗妙心寺派] 新居町新居1382 諏訪神社隣。貞和元年(1345)現在の浜松市西区入野町に創建され後に同区雄踏町浅羽に移転していたのを寛文5年(1665)護国山安寧寺(雄踏町山崎2998-1)住職の萬牛紹昌が新居町の浜名湖畔に移し再開山した。湖を埋め立て境内を広げ現在その地には龍谷寺堀の地名が残る。宝永5年(1708)2世江国が現在地に移転。本尊は聖観世音菩薩。入口灯籠は昭和46年建立。左に地蔵の祠と顕彰碑2つ。参道を進み境内に入って左に6地蔵+1地蔵、古い石仏石碑約20基。境内左に恵信都作の延命地蔵と子安弘法大師を安置する堂、境内右に鐘楼がある。浜名湖岸88ヶ所霊場第65番札所。寺名の龍は「りょう」と読み西湖山龍雲寺、萬松山龍潭寺と共に遠州の三龍(さんりょう)と呼ばれる。 |
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{左}池田神社 しばらく行くと右の民家前に明治11年(1878)石造秋葉山常夜燈があり少し先左のあさくら歯科(新居1602)の先に入口がある。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで秀吉方の大垣城主池田恒興(勝入斎信輝)を家康家臣長田伝八郎が討ち取り首実検後にここに埋め首塚を築いた場所で享保20年(1735)神社となった。伝八郎は恒興を討ち取った功で家康から名刀と千石の領地を与えられたのを機に永井直勝と名を改め江戸時代に入ると常陸国笠間藩や下総国古河藩の藩主となった。境内入って左に昭和9年(1934)神社修築記念碑があり恒興の子孫である備前家池田宣政、因幡家池田仲博の名がある。 |
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{左・寄}天正山 鷲栖院(じゅせいいん)[曹洞宗] 新居町新居1739 少し先の十字路を左折すると右にある。敷地的には池田神社境内の裏にあたる。新福寺の末寺。本堂左に家康の直参旗本で新居関所が幕府直轄だった頃の正保4年(1647)から明暦3年(1657)まで第6代・7代の関所奉行をつとめた佐橋甚兵衛の墓がある。禄高1270石を知行し橋本村に屋敷を構えていた。明暦3年74歳で没し自ら開基となった大元屋敷西町の霊林山祐念寺に葬られた。祐念寺は宝永4年(1707)の大地震後に鷲栖院の隣に移転したが明治24年(1891)の濃尾地震で埋没し廃寺となった。墓石は大正5年(1916)発掘され鷲栖院へ預けられ昭和51年修築された。山門入って左に新しい6地蔵の祠と古い6地蔵+2地蔵の祠がある。浜名湖岸88ヶ所霊場第62番札所。 |
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{右・寄}若宮八幡宮 新居町新居1668 少し先の変形十字路を右折した正面に昭和4年(1929)建立の鳥居と石段が見える。祭神は大鷦鷯尊。石段途中で右に分岐した先には石塔16基ほどが安置された祠がある。石段を登りきると境内で左に文化6年(1809)灯籠、社殿左には猿田彦神社がある。その左の山道を登っていくと愛宕山の山頂に行くことが出来、展望台や愛宕山大権現、子持ち観音像、平成3年建立の頼朝歌碑「かへる波 君にとのみそ ことずてし 浜名の橋の 夕暮れの空」がある。上洛の帰途にここより南にあった橋本宿で詠み前大僧正慈円(慈鎭和尚)への書状に書かれた歌で「続後拾遺和歌集」に収録されている。頼朝は橋本長者の娘・妙相に扇子(中啓)や団扇を残しており鏡光山応賀寺(新居町中之郷68-1)に所蔵されている。 |
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{左}新居一里塚跡(69) 少し先の東進衛星予備校大成塾の向かいの民家の一角に古い石柱と平成16年設置の木製立札説明板がある。この一里塚には江戸時代は左に榎、右に松が植えてあった。 少し先の2叉路で東海道は右折する。 |
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{左・寄}瑠璃光山 東福寺 [臨済宗方広寺派] 新居町浜名593 2叉路で右折せずに左折すると左。仁和2年(886)薬師如来と仁王像が漁師の網にかかり翌年に賢嶺が薬師堂を建立したのが起こり。真言宗の寺だったが荒廃し永正17年(1520)臨済宗南禅寺派の松医活涛が中興し明治37年(1904)方広寺派となった。仁王門の木造金剛力士像2体は安永8年(1779)に開眼供養が行なわれ町指定文化財。松材寄木造り水晶製玉眼嵌入で右に阿形(2.32m)左に吽形(2.35m)。仁王門右に雌株(根周3.6m目通4.3m枝張17m樹高13m)境内中央に雄株(根周4.8m目通3.2m枝張17m樹高15m)の槙があり両方とも町指定天然記念物。本堂前に無形文化財「橋本大般若経お経守」説明板。本堂右に稲荷神社、薬師堂、境内右には6地蔵の祠、6地蔵+2座像石仏の祠もある。 |
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{右}棒鼻跡(西木戸跡) 2叉路を右折すると少し先で道は直角に左へカーブするがその少し手前に昭和56年建立の石柱と平成16年設置の木製立札説明板がある。宿の京側入口にあたり枡形で土塁が突き出ていた。大名行列が宿場へ入るとき先頭を棒先で整えたので棒鼻と呼ぶようになったと言われる。左へカーブする内角には小さなベンチと花壇がある。左折して少し行くと橋本交差点で国道1号に突き当たり手前右には夢舞台道標新居町 橋本がある。橋本は新居宿の加宿で浜名川に架かる浜名橋のたもとにあったので橋本と呼ばれた。大地震で今切口が出来るまでは舞坂まで陸続きで鎌倉時代には宿場であり橋本宿と言った。橋本交差点を左折すると橋本宿の中心地となるが旧東海道は右折していく。 |
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{右}橋本山 教恩寺 [時宗] 新居町浜名1126 少し先の橋本西交差点にある。正安2年(1300)創建とされ開基は時宗第2祖他阿真教で本尊は釈迦牟尼如来。楼門(山門)は江戸後期のもの。境内入って左に明治17年(1884)六字名号碑、その後ろに町指定天然記念物だった銀杏(樹齢500年根周5m樹高17.5m)の切株がある。山門手前にも見返りの松と呼ばれた樹齢350年の松があったが昭和53年松喰虫で伐採。本堂左には石仏3体の祠と石仏2体。明治16年(1883)住職の河野一祐和尚は不良品の藺草を用いて蚕が繭を作る際の繭床となる蚕網作りを考案し周辺農家の収入源となりその功績を讃える明治42年建立の碑が境内左にある。袋井市の正福寺(上山梨1013)所蔵の文明6年(1474)梵鐘は元は教恩寺のもの。浜名湖岸88ヶ所霊場第63番札所。 |
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{左}風炉の井 向かいにあり古い石柱と平成17年設置の木製立札説明板がある。建久元年(1190)頼朝が最初の上洛の際に橋本宿に宿泊した時にここの水を茶の湯に用いたと伝わる。石積井戸で深さ2m口径最大1.8mあり昔はもっと深かった。昭和54年町史跡に指定。ここが橋本長者の蔭山三郎左衛門屋敷跡で井戸も屋敷のものとする説もあるが屋敷はここより少し西の長屋敷の地名が残る付近にあったとされている。長屋敷地区には橋本宿の本陣家の墓とされる3つの塚があり長者塚と呼ばれている。東海道は橋本西交差点で国道1号から右に分岐し浜名旧街道を進む。 |
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