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{右}「東海道と歴史の道」道標 左の磐田化学工業を過ぎると小さな川に架かる昭和13年竣工の一言橋を渡りさらに先の高砂香料工業を過ぎた万能橋交差点で寺谷用水路を万能橋で渡るとスズキ販売店飯田商会(下万能168-1)の前から左側に松が4本残っている。1本目の松を過ぎた変形十字路を右に入ったすぐ右に道標がある。東海道400年祭に合わせ旧:豊田町(平成17年磐田市と合併)が町内に残る史跡を巡れるよう整備し若宮八幡宮を起点とし松並木や徳川家康ゆかりの挑燈野、一言坂戦跡、宮之一色一里塚跡などを回りかぶと塚公園(見付4059-1)に至る約3kmのルートとなっている。この道標から東海道を離れ北に進むと元亀3年(1572)家康家臣本多忠勝と武田家臣馬場信房・小杉左近が戦った一言坂戦跡に至る。 |
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{右}宮之一色一里塚跡(63) 変形十字路から2本目の松を過ぎた先のゲームセンターAG SQUARE磐田店(下万能413)の駐車場に一里塚の木製立札が建てられている。その向かいの浜松日産磐田豊田店(宮之一色375)の敷地に昭和46年に復元された塚があり上には「一里塚の跡」石碑がある。横には説明板付き東海道と歴史の道道標もある。江戸時代の一里塚は直径約11mの山の塚に榎が植えてあった。 |
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{左}秋葉山常夜燈 松並木が終わりしばらく行くとある木製屋形の常夜燈。文政11年(1828)建立で平成8年の改修。透かし彫りの立派な龍の彫り物があることから地域では龍燈(竜灯)とも呼ばれる。祠の中には萬松山可睡斎[曹洞宗](久能2915-1)の三尺坊大権現の札を毎年祀っている。屋形の常夜燈はこれからも舞坂宿の終わりまで多く見られる。 |
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{左・寄}神宮山 松向寺 [曹洞宗] 宮之一色413 常夜燈手前を左折すると右にある。元和5年(1619)創建。現在の本堂は元禄14年(1701)建立で旧:豊田町内最古の建築物。本尊を安置する須弥壇の前机の板には天明2年(1783)浅間山大噴火の記録が残る。東海道は先に進むと橋を渡り左にはまた松が点在する。左の久野塗料(宮之一色1225-1)を過ぎた角に東海道と歴史の道道標がある。この道標から東海道を離れ北に進むと元亀3年(1572)敗走する家康軍が松林に多くの提灯をかけ兵が多くいると見せかけ武田軍の追撃をかわしたと言う挑燈野(ちょうちんの)に至る。しばらく進むと森下交差点で道は2叉路となり県道261号は右に進むが旧東海道は左へまっすぐ進む。 |
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{右}若宮八幡宮 森下699 しばらく行くとある。祭神は大雀命、誉田別命、息長足姫命。明治6年(1873)近隣28ヵ村の神社を統合して現在の若宮八幡宮になった。拝殿と本殿の間に松尾社、子安社、諏訪社、若一王子社など20社ほどの祠がある。鳥居は平成2年、灯籠は昭和55年、平成15年、狛犬は昭和43年。境内左に土俵があり毎年10月の例祭では奉納相撲が行われる。境内右には御神木のクロマツの巨木。参道右は郷社ポケットパークとなっており「藤と香りの道」案内碑があり熊野御前と平宗盛の出会いの様子が記してある。「藤と香りの道」は豊田町駅から香りの博物館(立野2019-15 )、熊野伝統芸能館(池田332-3)、新造形創造館(上新屋499-1)などを巡りアミューズ豊田(上新屋304)に至る約6kmのハイキングコース。 |
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{右}西之島学校跡 若宮八幡宮参道左の森下公園の奥にある。石垣で一段高くなった円形の緑地に跡碑がある。西之島学校は明治5年(1872)の学制発布に伴い翌年に土地の豪農熊谷三郎馬(青城)がこの地に設立し明治8年同じ場所に校舎を建てた。見付学校、鎌田山醫王寺[真言宗智山派](鎌田2065-1)に建てられた坊中学校とともに遠州3大学校の一つと称された。その後は明治29年井通尋常小学校、昭和16年井通村国民学校などの名称を経て昭和22年井通小学校に改称、昭和29年新築校舎(森下300)に移転した。学校は昭和30年3村合併により豊田南小学校に改称し村立、町立を経て現在は磐田市立豊田南小学校となっている。 |
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{左}明治天皇御座所碑 しばらく行くと民家横の敷地にある。大正9年(1920)建立で喜多川平次郎謹記、溝口由平謹書。明治天皇が明治11年(1878)北陸東海巡幸の際に休息した。 |
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{右}長森立場 説明板 しばらく行くと夢舞台道標豊田町 長森立場と平成18年設置の説明板がある。数10m手前に江戸時代には長森の立場があり茶屋などが並んでいた。万治年間(1658-60)頃から山田与左衛門家で作り始められた家伝薬「長森かうやく」も有名だった。 現在は作っていないが山田家には江戸時代に作られた桜の一枚板の大看板(高さ1.4m幅73cm厚さ3.5cm)があり「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と中央上には十六弁の菊紋が刻まれている。しもやけ、あかぎれ、切り傷に効き「諸人の よき評判や 長森の 諸病に菊の 五もんかうやく」と詠まれた。製法は与左衛門の夢枕に立った神のお告げと伝えられる。説明板のすぐ先の信号を右折するのが東海道で江戸時代はこの先はすぐ河原だった。 |
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{左・寄}天竜橋跡 右折し少し先を左折した源平新田公民館前に昭和48年建立の碑と平成18年設置の説明板がある。横には「天龍橋」と刻まれた板状の石が折れたまま転がっている。江戸時代は舟渡しだった天竜川は明治元年(1868)に舟橋、明治7年に舟橋と木橋から成る天竜川橋が架けられた。天竜川橋は明治9年洪水で被災し明治11年金原明善が総工費1万724円をかけて全てが木橋の「天竜橋」を架けた。長さ646間(1163m)幅2間(3.6m)の有料橋で明治22年の洪水などで被害を受けたり鉄道開通により通行が減ったりしながらも昭和8年(1933)に当時の国道1号(現:県道261号線)に鉄橋「天竜川橋」が架けられるまで利用された。 |
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{右}(下之渡船場) 「天竜川渡船場跡」石碑 長森交差点で県道261号を横断しさらに先で国道1号を渡り磐田バイパスもくぐりしばらく行くと右に小路が分岐する角に寛政9年(1797)秋葉山常夜燈があり道路には「藤と香りの道」タイルも埋め込まれている。少し先の十字路を左折するのが下之渡船場へのルートで十字路から川の土手にある碑が見える。左折して土手に行く途中右の民家横には大正14年(1925)秋葉山常夜燈。土手にある碑は平成5年建立で豊田町長金原士朗の揮毫。江戸時代の池田の渡船場は上、中、下と3つあり通常は最も下流の下之渡船場が利用され増水すると中之渡船場さらに増水すると上之渡船場と移り川会所もその都度移された。渡船場には正徳元年(1711)建てられた渡船高札もあった。 |
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{右}(中之渡船場) 天白神社 池田815-1 下之渡船場への十字路からさらに進むと左に粒見堂と火の見櫓、明治41年(1908)鉄製秋葉山常夜燈がありそこを左折すると正面。祭神は猿田彦命。孝謙天皇の頃(749-58)創建と伝わり池田村全体の鎮守で昔は池田宿大明神とも呼ばれた。境内奥に夢舞台道標豊田町 池田渡船場 中之渡船場がある。横の石段から川に出れるようになっており江戸時代も神社境内を通って渡船場へ出ていた。社殿後ろに天神社、芥川明神、松尾神社、御嶽社、東照宮、金刀比羅宮、八幡社などの境内社。社殿左に小さな道標「右 池田橋 笠井 半僧坊道」。鳥居と灯籠は大正3年(1914)手水石と狛犬は平成17年。境内には土俵もあり古くは例祭には氏子青年による競技相撲が行なわれ喧嘩相撲と呼ばれていた。 |
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{右}(上之渡船場) 池田の渡し歴史風景館 池田300-3 しばらく進むとある。家康が与えた朱印状のレプリカなど舟渡しの歴史をパネルや模型などで展示している。9時-5時、月曜毎月最終火曜休、無料。池田の渡しは延長5年(927)頃からあったが天正元年(1573)武田勝頼の侵攻を舟を隠して止めた恩賞として家康は池田村に渡船運営の朱印状を与えた。江戸時代の天竜川は流れが2つあり中洲で舟を降りて別の舟に乗換えていた。広重の見付宿の絵にもその様子が描かれている。東の流れは池田村のみが運行し、西は池田村と元は馬込川を渡船していた西岸の船越一色村が1日おきに運行した。渡船料は万治4年(1661)頃の「東海道名所記」には武士は無料でその他は6文とある。歴史風景館向かいには昭和8年(1933)秋葉山常夜燈もある。 |
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{右・寄}(上之渡船場) 摂取山 行興寺 [時宗] 池田330 風景館前を東へ進んで行くと左にある。延久元年(1069)創建で正応3年(1290)遊行上人2世他阿真教により改宗した。本尊は阿弥陀如来、観音菩薩、大勢至菩薩。本堂左に熊野御前、その母、侍女朝顔の墓所があり前に堂と説明板がある。池田の長者の娘で平家物語や能「熊野」にも登場するの熊野御前は治承4年(1180)平宗盛の寵愛を受け都に行ったが母が病気と知り帰郷した。母は建久元年(1190)没し御前は尼となり建久9年33歳で没した。花房が1m以上にもなる長藤も有名で墓所の裏側に昭和7年(1932)国指定天然記念物1本(樹齢850年根周2.9m樹高2.5m)本堂右前に昭和47年県指定天然記念物の絡み合った5本(樹齢300年根周2.4m樹高2.5m)がある他境内に17本あり藤棚面積は572平方m。 |
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{右}(上之渡船場) 豊田熊野記念公園・熊野伝統芸能館 池田332-3 行興寺の裏にある。公園敷地は貞永年間(1232-33)創建の遍照山西法寺[真言宗]の跡地で大師堂と墓地が残っているが長藤の藤棚(総面積1042平方m)になっている。寺は浜松市の快真寺(中区鴨江1-41-8)に統合された。公園内には熊野伝統芸能館の能舞台もある。北側の芸能館は伝統芸術文化の振興と市民の文化の向上およびコミュニティー推進のため熊野御前の没後800年にあたる平成10年に開館。楽屋、和室3室の他に展示室もありここの能舞台で上演された能「熊野」のビデオも見られる。9:00-21:30(展示室は17:00まで)、無料、毎月、隔月最終火曜休。能「熊野」は古くは「熊野松風に米の飯」と言われ能「松風」とともに米飯と同じく何度観ても飽きず味があると称された。 |
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{右}(上之渡船場) 池田橋跡 池田の渡し歴史風景館前を左折し河原に向かうとすぐ右に昭和49年建立の「池田橋の跡」石碑がある。渡船業に影響があるため明治7年(1874)の天竜川橋架橋を反対していた池田村も時代の流れに逆らえず鈴木浦八、熊岡安平、村松七十郎、田中新十郎らの協力で株式会社組織の昇龍社を創設し明治16年旧渡船ルートに池田橋を架けた。長さ425間(765m)幅9尺(2.7m)の有料木橋で橋銭は大人3銭小人2銭だった。さらに同年上流の豊田郡匂坂(現:かささぎ大橋の下流)にも木橋の豊田橋が架けられた。明治22年の洪水で両橋とも損害を受けたが池田橋は復旧され昭和8年(1933)国道(当時)に天竜川橋が竣工するまで利用された。碑の向かいには家康の朱印状を模した高札風説明板もある。 |
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{右}(上之渡船場) 池田の渡し公園 河川敷に出るとある。渡船場を再現したという公園。天竜川や舟渡しに関する複数の説明碑も設置されている。公園を流れる小さな川は天竜川をイメージして造られた。乗って回り始めたら自然には永久に止まることがないという独楽の遊具もある。現代の天竜川は渡し船がないため上之渡船跡から1.6kmほど下流にある国道1号にかかる新天竜川橋で渡る。下流に向かうと河川敷にはグラウンド4面、交通公園、ローラースケート場がある。新天竜川橋のすぐ南には県道261号にかかる天竜川橋もあり両橋の間の河川敷には天竜川治水祈念公園がある。天竜川は諏訪湖を水源とする全長213km(国内9位)流域面積5090平方km(国内12位)の川で古くは「暴れ天竜」と呼ばれ多くの水害を起こした。 |
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{左・寄}新天竜川橋 昭和8年(1933)当時の国道1号(現:県道261号線)に長さ919.4m幅7.3mの鋼トラス橋(鉄橋)である天竜川橋が架けられ昭和40年に新しい国道1号が通ると天竜川橋のすぐ上流に新天竜川橋(長さ912m幅14.5m)が架けられた。昭和48年に2車線から4車線に拡幅(幅15.6m)されたが歩道がなく交通量も増大したため平成18年に天竜川橋との間に幅4mの歩道を含む下り専用4車線の新新天竜川橋(幅19.75m)が架けられた。従来の新天竜川橋は4車線とも上り専用に変わり2つの橋で合計8車線となった。天竜川を渡ると浜松市東区中野町に入る。中野町は東海道の真ん中の意味で付いた地名で東海道中膝栗毛にも「江戸へも六十里、京へも六十里にてふりわけの所なれば中の町といへるよし」とある。 |
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{右・寄}津島神社 浜松市東区中野町3418 橋を渡り終え右に行き上之渡船跡のちょうど対岸あたりの土手下にある。入口左にコンクリートブロックで作られた秋葉山常夜燈がある。鳥居は平成15年。境内右には一色会館。 西岸の渡船場も東岸に対応して3ヵ所あり上之渡船場は神社の上流200m付近、中之渡船場は神社より120m下流の豊田木材の南側の道を河川敷に出た付近、下之渡船場はさらに下流150mのグラウンド南側付近とされる。見付宿より続く姫街道は天竜川を渡ったあと神社の南を通り西北に進み下石田町付近で現:県道261号線に合流し市野宿へ向かっていたが現在はこの付近の道は殆ど失われている。西岸河川敷も天竜川緑地として整備されグラウンド等があり東海道は川沿いを南下し新天竜川橋と天竜川橋をくぐる。 |
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{右}「玉座迹」石碑・「船橋之記」石碑 天竜川橋をくぐり少し先の土手にある。石垣上に明治31年(1898)建立「玉座迹」碑があり左には「明治大帝御聖蹟」石柱がある。明治11年北陸東海巡幸の際に明治天皇が休憩した。左の少し下には明治元年(1868)明治天皇東幸の際に急遽天竜川に架けられた舟橋を記念して明治29年建立の「船橋之記」碑もある。舟橋は後に堀江藩主となる高家旗本大沢基寿の指示で中野町村の浅野茂平が架けたもので近在の漁船78隻を横に並べてシュロ縄、大鎖、竹縄でつなぎ石膏を巻いた上に5寸(15cm)角の柱を並べて米俵を敷きさらにその上に河原の砂を5-7寸(15-21cm)ほど敷いた。長さ124間(225m)幅3間(5.5m)あり特例として天皇通過後に1日だけ庶民も通行できたが翌日には撤去された。 |
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{右}舟橋跡・天竜川木橋跡 すぐ先に2本の木杭がある。明治元年(1868)に臨時の舟橋を架けた浅野茂平が数年後に自費で架橋し通行料を徴収するという計画書を萱場村の鈴木謙一郎と共に県に提出し許可され明治7年(1874)中洲間を渡る4つの木橋と亀甲形空船を横に並べ板を敷き櫓で固定した本流の舟橋から成る天竜川橋が架けられた。橋部分が計315間(570m)で中州の道路部の333間(600m)と合わせ全長648間(1170m)を有料通行区間とし通行料は大人9厘人力車2銭1厘牛馬3銭だった。しかし明治9年洪水で被災し明治11年に金原明善が木橋の天竜橋を架けた。木杭は浜松市の史跡の印となっておりこの後も同様の木杭が多く設置されている。 |
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{右}六所神社 中野町1423-1 木杭から右折して土手を下るとある。建治2年(1276)尾張国中野郷より勧請。祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命。明治7年(1874)津島神社と上下神社を合祀し素盞鳴命、武雷命も祀る。この地は元は津島神社の敷地だった。大正12年(1923)賀陽宮殿下が参拝し境内右にその記念碑。灯籠、手水石は大正4年、鳥居、狛犬は昭和50年。境内右に金比羅神と水天宮の文字が刻まれた石碑、社殿左の社務所前に秋葉神社の小祠。境内左から道に出ると右に「旧東海道」木杭があり東海道が続く。少し先右に大きな明治27年(1894)建立の天竜川橋紀功碑。明治7年の天竜川橋架橋の功績を称えており東京大学教授もつとめた南摩綱紀の撰文、書。 |
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{右}中川屋 中野町861-2 少し行くとある。浜松に残る最古の鰻料理屋。中川屋の村越家は寛永年間(1624-43)蒲郡(現:愛知県)からこの地に移住しそれから11代目の政次郎の頃の寛政年間(1789-1801)に料亭として中川屋を始めた。当時の中野町は旅人や船頭、木材商たちが集まり繁盛した。明治10年(1895)鰻料理専門店として創業し大正時代に鰻の養殖が可能になると大正12年(1923)に大改築し客間部分は現在も残る。(調理場部分は昭和48年築)。浜名湖産の鰻を自家井戸(深さ80m)から汲み上げた天竜川の伏流水でしめ家伝のタレで焼く。平成7年に現在の看板料理である鰻とろろ茶漬け(2500円)を考案。 他にも天龍丼(1650円)や浜名湖丼(2000円)などもある。11時-14時,17時-19:30、毎月7,17,18,27日休。
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{右}軽便鉄道軌道跡 先を進むと十字路左のカーブミラー下に「東橋」木杭、さらに先左には「西町通り」木杭があり小栗クリーニング先の十字路の金柵前のミラー下に「軽便鉄道軌道跡」木杭がある。浜松駅から馬込を経由して旧東海道を中野町まで走っていた浜松電気鉄道中ノ町線(全長7.0km)の終点跡。明治42年(1909)大日本軌道中ノ町線として南新町〜中ノ町間が開業し翌年浜松まで全通した。大正8年(1919)遠州軌道に譲渡され大正14年(1925)浜松軌道(昭和2年から浜松電気鉄道に社名変更)に譲渡。昭和4年(1929)に運賃は高いが格段に早い軌道自動車(バス)が登場し利用客が減り昭和12年(1937)全線廃止された。松並木の中を黒煙を上げて走り火の粉が飛散するとして沿線住民から廃線運動も起きていた。 |
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{右}鶴翁山 松林寺 [臨済宗方広寺派] 中野町331 すぐ先にある。元中元年(1384)安間村を開拓した安間了願が開基、方広寺開山の無文元選(円明大師)が開山。山門入って左に庚申堂と十王堂の祠があり多数の石仏が安置され横には新しい6地蔵もある。本堂手前左に家光が浜松代官に命じて建てたと言う薬師堂(医王堂)があり遠江49薬師第8番札所。12年に1度の寅年に開帳され寅薬師とも呼ばれる薬師瑠璃光如来は行基作と言われ両脇には日光菩薩、月光菩薩、12神将もある。境内右には池があり弁財天の石像を祀る祠や昭和59年建立の茶釜塚碑もある。境内右手前には享保5年(1720)作と言われる延命子育地蔵の祠があり中心の石像を中心に5体の石仏がある。境内右には方広寺の半僧坊大権現の分霊を祀る奥山大権現もある。 |
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{左}かやんば高札場跡 松林寺向かいの民家の駐車場の電柱前に木杭がある。「かやんば」は萱場のことでこの辺りは旧:萱場村であった。萱場村の鈴木謙一郎は明治7年の天竜川橋架橋を中野町村の浅野茂平と共に県に願い出た。明治22年(1889)町村制施行で萱場村と中野町村など11村が合併し豊田郡中ノ町村となり明治29年(1896)浜名郡に編入され昭和29年には浜松市に編入された。しばらく行った先右には「東海道松並木跡」木杭もある。 |
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{右}中ノ町村・和田村境杭 少し先の金原明善生家手前には「中ノ町村・和田村境」木杭がある。昭和29年まではここが村境であり明治29年(1896)までは豊田郡と長上郡の郡境でもあった。現在は浜松市東区中野町と安間町の境となっている。明治22年(1889)町村制施行で橋羽村、安間村など11村が合併して出来た長上郡橋田村は明治24年(1891)和田村となり明治29年浜名郡に編入され昭和29年に中ノ町村と共に浜松市に編入された。 |
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{右}金原明善(きんぱら めいぜん)生家 村境の杭のすぐ先に黒塀に囲まれてあり前に石柱もある。ここの大地主の家に天保3年(1832)生まれた明善は19歳から洪水を4度経験しさらに慶応4年(1868)には天竜川下流域120ヶ村が3ヵ月も水浸しとなる大洪水を経験した。明治5年から県の天竜川普請専務、総取締をつとめ明治7年には天竜川通堤防会社を設立、明治10年治河協力社に改称とともに全財産を寄付し堤防工事、測量など治水事業を行ない明治18年(1885)には県の事業として受け継がれた。明治11年天竜橋を架橋し管理も行なった。明治18年からは流域の山々に300万本もの植林をし洪水の元を絶つ事業を始め大正12年(1923)91歳で没。生家の母屋は慶応2年に一部改修した程度で江戸時代そのままの状態で現存している。 |
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{左}金原明善記念館 安間町35 生家の向かい。昭和35年開館で1、2階の展示室に明善の遺品、写真、書簡などを展示。前庭には「木を植えて 天龍の川 治めんと 心も固く 若き日の明善」歌碑や明治の俳人安間木潤の師の摩訶庵蒼山の句碑「さすかたは なくてただ飛ぶ ほたるかな」もある。木潤は松林寺開基の安間了願の子孫。9時-16時、月祝休、無料。明善は治水の他に明治4年(1871)自宅に私塾を開いたり明治21年日本初の更正保護施設である出獄人保護会社、明治25年天龍運輸会社(現:丸運)も創設した。私塾は明治6年に現在の和田小学校(薬師町273-2)である安間学校となった。小学校北の八柱神社には紀功碑と胸像台座跡、妙恩寺に供養塔、明善が最初に植林した佐久間町(天竜区)の森には明善神社もある。 |
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{右}安間一里塚(64) しばらく行くと右後ろから道が合流してくる手前の三角地帯のフェンス越しに木杭がある。隣には「旧東海道」木杭もある。塚は現存しないが両側に榎が植えられていた。手前の細道を北上し県道314号線を経て県道261号線を市野宿へ向かう道は姫街道で見付宿から池田に出て船で天竜川を渡り市野へ向かう姫街道(池田道)と途中の下石田町で合流する。安間一里塚は東海道と姫街道の共用の一里塚で姫街道には同じく東海道と共用の御油一里塚までの間に12の一里塚が築かれていた。この分岐には以前は鳳来山東照宮も隣接する鳳来寺[真言宗五智教団](愛知県新城市門谷鳳来寺1)道標があったが現在は安間橋を渡って右の天竜公民館(薬新町99)駐車場の隅に移されている。 |
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{左・寄}「従是西濱松領」傍示石 薬新町170 すぐに安間川に架かる安間橋を渡り背の高い一本松を過ぎると東海道は国道1号をくぐるが手前50mを左折し少し戻るように進むと右に和田児童遊園があり傍示石2基がある。元は薬師新田(浜松藩領)と安間新田(旗本松平筑後守領)との境である安間橋を渡った街道両側にあった。浜松宿を過ぎた後にある「従是東濱松領」傍示石と対になる。この公園には他にも付近に散在していた祠や石仏が集められている。九千部菩薩の石仏の祠は旧:安間川堤防(現:天竜中学校体育館)にあったもので百日咳にかかった僧侶が咳で苦しむ人を救うと言い残して没したため供養したものと伝わり「咳のお地蔵様」と呼ばれている。天王社も移築されおり他にも石仏がある。薬新町公民館やブランコ、すべり台、鉄棒もある。 |
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{左}倒れかけた松(松並木の名残) 国道1号をくぐると100mほど薬師町の松並木があり一旦なくなった少し先には倒れかけた松が1本ある。支柱で支えられ金網のフェンスも設置されている。松並木は松喰虫の被害で現在では薬師町に約20本、手前の安間橋を渡った薬新町に1本、この先の薬師バス停を過ぎた天龍川町に5、6本(50mほど)、その先の和田町に数本残っているのみとなっている。 |
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{左・寄}長光山 妙恩寺 [日蓮宗] 天龍川町179 しばらく行くと右のJAとぴあ浜松和田支店(天龍川町1116-1)向かいに谷口法春の名がある題目塔と「寺道」木杭があり左折して右。応長元年(1311)左近将監金原法橋が開基、日蓮の弟子の竜華樹院日像が開山で遠州初の日蓮宗寺院だった。本尊は日蓮真筆の大曼荼羅。2世は日像の妹の妙恩法尼。11世成就院日豪は武田家臣馬場信春の子と言われるが元亀3年(1572)武田軍に追われた家康を寺に匿い親交を持ち囲碁の友にもなった。その時出した食事の椀と箸が寺の紋「丸に二引」となり旧地名の橋場(橋羽)の由来にもなったと言う。現存の表門は日豪の建立。入口左に金原明善の供養碑、本堂左に常経殿、本堂前の灯籠は天保2年(1831)。境内左に鐘楼、境内右に水かけ地蔵の祠もある。 |
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{左・寄}法橋の松 しばらく行くと十字路があり左折して行くと天竜川駅。駅に向かう途中右の和菓子清好堂(天龍川町290)先の細道を右折すると左にある。妙恩寺を開基した金原法橋の祖先は日蓮の母方の伯父ともされる下総国金原大宮別当職大野政清でその子孫の金原氏は鎌倉時代に蒲御厨地頭遠藤氏の跡を継ぐ為に遠州にやってきた。法橋はこの地に公文屋敷と呼ばれる屋敷を構えておりその前庭にあったと言われるのがこの松で昭和27年県指定天然記念物。樹齢700年幹周り5m枝張り18m高さ14mで敷地には昭和12年(1937)と昭和14年の石碑、説明板、小さな祠もある。妙恩寺創建より前に妙恩寺開山の日像の妹である妙恩法尼が京都に居る日像を訪ねる途中にこの屋敷を訪れ庵を建てたとも言う。 |
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{右}六所神社 天龍川町1162 天竜川駅に向かう十字路を渡るとある。永禄年間(1558-70)創建で慶安元年(1648)に再建、現在の社殿は大正2年(1913)築。祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、月読命、天之御中主命、天照皇大御神、須佐之男命の6神と合祀された菅原道真ほか8神を含め15神を祀る。「蒲村東方端和村六所大明神」と書かれた古文書が残る。入ったすぐ左には木造屋形の秋葉山常夜燈。古くは境内南に松、北に椎があった。松はお宮の松と呼ばれ目通3m根周4.5m高さ17m樹齢260年だったが昭和54年台風で損傷し伐採された。椎は幹周3.19m根周4.6m高さ16.3m樹齢150年だったが樹勢衰えにより昭和60年伐採され今も切株が本殿左奥に残る。鳥居は平成8年の銅製。狛犬は昭和15年(1940)、灯籠は昭和12年。 |
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{右}浜松アリーナ 和田町808-1 しばらく行くと左に松が3本あり少し先で「土橋」木杭のある橋を渡る。その先左の表装具店竹泉堂(和田町450-1)前に石碑があり「東海道 弥次喜多も 通った道だよ この辺り」とある。その先左のサークルK浜松和田西店(和田町439-1)の前には一本松があり少し先向かいに浜松アリーナがある。浜松の屋内スポーツのメイン施設として平成2年に青果市場跡地に建てられた。8千人収容可能なメインアリーナではスポーツ以外にも国内外の有名ミュージシャンによるコンサートが行われる。アリーナ前の植込みには平成17年設置の広重の浜松宿の浮世絵の高札風板がある。 しばらく行くとエックス状の子安交差点があり右歩道は横断歩道だが左歩道を行くと地下道入口と夢舞台道標浜松市 植松原がある。 |
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{左・寄}子安神社 子安町307-1 地下道入口左の車両進入禁止の道を左折していくと左に神社がある。祭神は木花咲耶姫命。付近の庄屋だった伊藤家の先祖が寛永12年(1635)浅間神社から分霊して祀ったのが始まり。頼朝の弟の源範頼が娘の無事出産を願い創建したという伝説もあり戦前までは4月の例祭で安産祈願の腹帯を借りた母親が赤い旗を奉納する風習があった。現在の秋祭りでは乳の出がよくなるという甘酒がふるまわれる。鳥居、手水石は明治36年(1903)。鳥居右に石灯籠入りの新しい屋形秋葉山常夜燈。社殿右奥には昭和56年建立の大東亜戦争慰霊平和塔、左奥に明治29年伊藤翁顕彰碑があり境内隣は小宮公園。東海道は子安交差点を地下道で横断しまっすぐ進みここから国道152号となる。 |
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{右}神明の鳥居 芳川に架かる昭和33年竣工の琵琶橋を渡り少し先右の「ごしん表参道」木杭を過ぎると銅製の大きな蒲神明社(神立町471)の鳥居がある。右に昭和56年、左に天保13年(1842)建立の「奉献 常夜燈」石柱。右には明治27年(1894)「国史現存 蒲大神」石柱もある。神社は鳥居をぐぐり600mほど先。大同元年(806)伊勢神宮(内宮)を勧請し創建された浜松一の古社で古くは蒲大神とも言われた。この辺りは蒲が茂る荒地だったが平安時代に越後国司藤原静並が住み着き開発した土地を伊勢神宮に寄進し蒲御厨と言う神宮の荘園とした。藤原氏は荘官として御厨を管理していたが鎌倉末期には蒲氏と改称し蒲神明社の神官となった。頼朝の弟、範頼は蒲御厨で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿と呼ばれた。 |
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