東海道ルートガイド
瀬田

{右}弁天池・弁財天神社
少し先右にも白塗石仏の小祠がありしばらく進むと道は左にカーブし右に池が沿うようになる。付近に多い昔からの農業用水溜池の1つで少し進むと池中の小島にある神社に通じる小さな石橋がある。石橋手前右に昭和54年「浄財弁財天参道」石柱、左に平成21年「弁天池 旧東海道」木製常夜燈と小さな松。神社は琵琶湖の竹生島神社の弁財天を勧請したもの。入口に昭和52年灯籠、文化元年(1804)鳥居、右に昭和55年手水石。小さな社殿前に昭和55年灯籠。池は元禄6年(1693)野路村の百姓・九右衛門の娘つゆが恋する江戸の飛脚屋・日野屋の21歳の若飛脚・喜助に先立たれ18歳で身を投げたと伝わる。島は江戸時代の大盗賊・日本左衛門が隠れたとも伝わる。池沿いの歩道にはベンチもある。
狼川
池を過ぎると少し先で狼川を渡る。古くは老上川と呼ばれ北西1kmには老上の地名も残る。大亀川とも呼ばれ怪我をして村の娘いとに助けられた小亀が大きくなった十数年後に村を困らせていた狼を退治したと言う伝説もある。渡った左を少し入ると川岸に降りられる階段、平成19年建立「わおん(和音)の広場 発祥の地」石碑、平成17年建立の環境モニュメント、近江鉄道笠山口バス停、ベンチなどがある。すぐ先の交差点を渡った左の狼川児童遊園の角には「旧東海道 大亀川の渡し」手書き木柱と木製常夜燈があり常夜燈の正面や側面、前の網フェンスに日本橋瀬田唐橋草津宿本陣への距離が手書き板で貼られている。児童遊園を過ぎると道が狭くなりこの先は緩やかな上り下りを繰り返す。
{左}妙義山 啓道寺 [日蓮正宗] 南笠東4-8-66
少し先右の大学生協学生会館花梨35(南笠東3-21-26)前には「東海道草津宿」「ここから大津市」手書き板が貼られた木製常夜燈もあり瀬田唐橋草津宿本陣への手書き距離板も貼られている。ここから右側だけ草津市から大津市となる。少し先向かいに寺がある。平成2年創建で開山は日蓮正宗総本山大石寺67世日顕。初代住職・笠原建道は平成12年から東京都杉並区の向陽山佛乗寺(西荻北2-29-12)4世となった。本堂は公民館のような建物で他に境内には駐車場と庫裏のみ。すぐ先右は日本黒鉛工業瀬田工場(大津市栗林町5-1)となり正門向かいには大きな松の切株がある。
{左}「旧東海道」説明付き付近案内図
工場を過ぎると下り坂となり下りきった変形十字路にある。手前向かい角には石仏の小祠もある。ここから左側も大津市に入る。案内図は大津市が市内各所に設置したもので高さ2m幅40cm。上部に現在位置の町名(月輪三丁目)があり主要場所への方向と距離が標示されている。地図の下には周辺の観光名所、歴史などが1テーマ説明されておりその下には英訳文もある。ここでは旧東海道の説明文となっている。
{右・寄}寶国山 新福寺 [浄土宗]  大津市月輪2-16-1
しばらく進んだ先の十字路を右折すると少し先左の暗渠になった川の上に昭和12年(1937)寺名石柱と伝道掲示板があり少し進むと右にある。創建時期は不明で草津市矢倉から移転したとも伝わり延宝4年(1676)編誉が中興した。本尊の木造阿弥陀如来立像は平安時代の作で昭和54年市指定文化財。京都の誓願寺[浄土宗西山深草派](中京区桜ノ町453)から移されたとも伝わる。山門前右に昭和58年「本尊 阿彌陀如来 平安期 佛像」石柱。境内左に本堂、奥に水子地蔵、右に多宝塔、「南無延命地蔵尊」石柱がある。
{左}月輪大池道標
少し先の十字路に昭和57年建立の「名勝 月輪大池 南約一粁」石柱がある。池は左折1km先にあり延宝3年(1675)に溜池として造られた。県下で2番目に大きい池で現在も農業用水溜池として使われ池畔には龍王神社もあり周囲は月輪大池公園にもなっている。月輪大池とこの先の東海道立場跡付近にある下月輪池、山ノ神池の3つの池を総称し月輪池と呼んでおり月輪はこの付近の地名にもなっている。由来は池に映った美しい月の姿から名付けられたとも月輪殿と呼ばれた関白・九条(藤原)兼実の荘園が近くにあったからとも言われる。この付近は元は原野だったが寛文12年(1672)京都の金銀座6名を発起人として開墾が始まり延宝4年(1676)大萱山内新田村となり明治7年に(1874)月輪村となった。
{右・寄}養老山 超明寺 [浄土真宗本願寺派]  月輪2-11-17
道標のある十字路を右折していくと右にある。貞亨4年(1687)了空が創建した。本尊は阿弥陀如来像。月輪大池から出土した超明石を所蔵する。黒い石で「養老元年」「超明僧」などの文字が彫られている。山門右前に昭和52年建立の寺名石柱があり山門入った右には鐘楼がある。十字路を先に進むと少し先の月輪自治会館(月輪3-2-6)前には昭和63年建立「月輪」地名説明石柱がある。
{左}普門山 月輪寺 [曹洞宗] 月輪3-2-1
少し進むとある。付近に住む長野助右衛門が大和国大峰山から持ち帰った役行者の古像を安置する行者堂を安永2年(1774)に建立したの起こりで寛政3年(1791)黄檗宗の衍肝が寺とした。本尊は役行者像。衰退し天保年間(1830-43)に学翁が再興改宗。文久3年(1863)上洛時に休憩した14代将軍家茂が月輪寺と命名した。昭和56年寺名石柱の左に石仏2体の祠、右に昭和5年(1930)「明治天皇御東遷御駐輩之所」石柱、昭和56年「新田開発発祥之地」碑、昭和56年「東海道」「濱道」石柱(高さ1.85m)。明治元年(1868)明治天皇が休憩した。山門入ると境内右に平成10年建立の家茂歌碑、明治11年(1878)三界万霊塔。歌は命名時に贈られた寺号扁額の裏に書かれていたもの。本堂は民家のような建物。
{左}東海道立場跡
少し先で交差点となり渡ると平成10年建立石柱がある。江戸時代にはこの付近に立場茶屋があった。石柱右面には月輪池の説明も刻まれている。背後には下月輪池、その隣には山ノ神池があり大津市には他にも400ほどの溜池がある。下月輪池の向こう側は一里山公園「緑のふれあいセンター」(一里山3-16-1)(9時-17時、月休)となっており大津市役所瀬田東市民センター、市民花園、市内最長の長さ23mのすべり台がある遊具の森、ゲートボール場等の運動広場などの施設がある。立場跡から先は緩やかな下りとなり左にカーブしていく。
{左}「山ノ神遺跡」説明付き付近案内地図
少し進んだ左の地鶏炭焼ばんさん(一里山3-1-1)すぐ先の一里山一丁目交差点にある。交差点を左折した先の一里山公園の南300mほどの一帯は昭和54年の宅地開発がきっかけで発掘調査が始まり7世紀中頃の須恵器生産の窯跡4基や工房建物跡、複数の不良品を捨てた穴などが発掘された。出土物には日用の食器、事務用の硯、埋葬用の棺、祭事用の馬像や鈴、漁業用の土錘などがある。須恵器以外にも寺院屋根用の鴟尾瓦があり後に窯の1つを改造したと考えられている。現在は住宅地、畑、道路になっている。交差点を渡ると道が狭くなり少し先の小さな川を昭和53年竣工の一里山橋で渡り続く2つの小川も渡ると左の民家塀に白塗石仏があり緩やかな上りとなる。
{左}大萱一里塚跡(121)
坂を上りきった交差点左のClean net学園通り店(一里山2-18-13)前に自然石の昭和51年建立「一里塚趾」石碑(高さ1.8m)と昭和61年設置の説明立札がある。交差点右には「一里塚」説明付き付近案内地図もある。塚は明治末期に壊されたが周辺の地名である一里山の由来となっている。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも複数の松があったと記録されている。月輪池一里塚とも呼ばれる。交差点表示は左方向からは「一里山一丁目」、右方向からは「一里山二丁目」とあり交差点右折350m正面が昭和44年開業のJR瀬田駅。交差点を渡ると下り坂となる。
{左・寄}野神社旧跡(大江千里旧居跡) 大江4-21-19
しばらくしてゆるやかな上りとなり大江四丁目交差点に出ると左の瀬田商工会館(大江4-18-10)前に「野上社旧蹟」説明付き付近案内地図。交差点を過ぎ右にカーブミラーがある角を左折し少し先左のブランコやすべり台がある小公園奥の大江東自治会館前に昭和21年(1946)「野神社舊蹟」石碑、明治37年(1904)日露記念などの常夜燈4基がある。平安時代の学者・歌人の大江千里の旧居跡。没後にこの地に建てられた小祠が国常立尊を祭神とする野神社(野上神社)となり明治25年(1892)近江国庁跡近くの御霊神社に合祀されたため跡地に石碑が建立された。大江千里は付近の地名の由来にもなっており地域では「ちりんさん」と呼ばれている。カーブミラーを過ぎると下り坂になる。
{右}西行屋敷跡
しばらく進むと右に瀬田小学校(大江4-2-1)グラウンドがあり少し先の土手上にある。忠魂碑、忠霊塔の近くに「伝、西行屋敷跡」石柱があるが学校敷地のため金網に囲まれ立入禁止となっている。23才で出家し諸国行脚した西行が一時期この地に住んでいたと伝わる。土手下には風化した石仏もある。しばらく進むと左に石仏の小祠があり少し先の十字路を渡った右に「西行屋敷跡」説明付き付近案内地図がある。東海道はこの十字路を左折する。右の電柱の上の方には「旧東海道」矢印表示もある。
{左・寄}玉照山 正善寺 [真宗仏光寺派] 大江5-1-30
左折して少し進んだ左の細道の坂を上ると左にある。明暦2年(1656)正善が創建した。新しい山門右前に昭和56年建立の寺名石柱があり山門入った右に鐘楼がある。他は本堂、庫裏のみ。寺入口から少し進むと左の川沿いには地蔵を安置した小祠があり川の改修工事時に出土したという地蔵で沢の川の辻地蔵と呼ばれる。少し先右には題目塔がある民家がある。しばらく進み左の「初田仏壇店」の青い看板がある先の2叉路を右折するように右に進むのが東海道。2叉路の左には「近江国庁跡」説明付き付近案内地図、間の電柱上方には「旧東海道」矢印表示もある。
{左・寄}近江国庁(国衙)跡
2叉路を左に進み突き当たったところを右折して坂を上り左折し進むとある。道の両側が史跡公園となっており奥は神領団地となっている。昭和38年(1963)団地建設時に大量の古瓦が出土し三大寺遺跡として発掘調査が行われ建物跡が確認された。昭和48年国指定史跡。奈良中期から平安中期まであった国庁には千名以上の官吏や兵士が勤務していたとされる。主要部分の敷地は東西2町(218m)南北3町(327m)で前殿と後殿からなる正殿と両脇の脇殿から成る。主要部分跡付近に昭和44年「近江国衙跡」石柱、奥の東側区域に1部復元された築地塀、発掘状況写真などが展示された休憩所、木製外装基壇がある。道を挟んだ手前の西側区域には四阿、支柱を復元、位置表示した掘立柱建物跡がある。
{左}帰法山成就院 浄光寺 [浄土宗] 大江3-18-12
2叉路を右に進んだ少し先。創建時期は不明で寛文元年(1661)に中興された。所蔵する鎌倉時代の木造阿弥陀如来立像は昭和57年県指定文化財で摂津国多田村(現:兵庫県川西市)から伝来したとされる。山門右前の寺名石柱は昭和58年の建立。本堂右前に水子地蔵。本堂前灯籠は昭和59年。境内左の墓地入口の階段を上った右に6地蔵の祠と20数体の地蔵の祠がある。20数体の中央にある大師如来の姿の地蔵は医者から見放された病人が祈願し願いが叶ったとされ有名になった。寺の前を過ぎると緩やかな上り坂となる。
{右・寄}芦浦街道道標
しばらく行くと下りとなり左に桧山児童公園。さらに進むと左に「旧東海道」説明付き付近案内地図がある交差点で唐橋ふれあい通りに突き当たり左折する。本来の東海道は自然な感じで左カーブしていた。左折したすぐ先で右に分岐していく道が芦浦街道で右折したすぐ左に昭和55年建立「旧芦浦街道」石柱(高さ1.08m)がある。芦浦街道は大萱、草津市矢橋、南山田、穴村を経由し大慈山芦浦観音寺[天台宗](芦浦町363-1)がある草津市芦浦町に至る。分岐からすぐ先右の内田組(大江2-33-3)前には昭和31年(1956)30万円で2台購入したという30馬力コンプレッサー1台が展示されており横には石仏の小祠、信楽焼大タヌキもある。
{左}檜山神社
すぐ先で高橋川に架かる赤い欄干の平成9年竣工の和田一号橋を渡った左に建部公園。少し進むと昭和56年神社名石柱、平成7年鳥居、石仏石祠がある。鳥居をくぐり階段を登って行くと御旅山山頂に小さな社殿、平成20年鳥居、平成18年狛犬がある。建部大社の境外社で祭神は伊邪那美命、息長足姫命、武内宿禰、住吉大神、大山祇命。周辺の熊野神社、7箇所の山神社、鞭指神社も合祀されている。現在の社殿は平成7年再建で江戸時代に建てられた旧社殿は建部大社境内に遥拝所として移築されている。参道石段の途中を左に進むと右の斜面には7世紀前半の古墳の石室、説明板がある。南2kmにある横尾山古墳群の中で最大の1号古墳の石室で京滋バイパス建設時に原型のまま移された。
{右}八景山 正法寺 [日蓮宗] 神領1-10-4
しばらく進むと右の民家横に妙見大菩薩堂がありさらに進むとある。昭和8年(1933)田原日観が開基した。日観は2世ととなり1世は田原日幸としている。山門前右の寺名石柱は昭和54年の建立。山門入って右に昭和39年題目塔、左に手水石。境内中央に昭和54年日蓮像、奥に総門がある。山門より2軒挟んだ手前に専用駐車場があり右奥には日観が昭和44年建立した「世界之願交通安全」題目石塔がある。日観は全国に同様の石塔を建立しており東海道沿いでは静岡県の道の駅・宇津ノ谷峠の手前にもある。駐車場左奥には屋久杉を使用した鬼子母神堂、三界万霊水向供養之塔などの石碑群、八景福之神の小祠などもある。
{右・寄}山崎友親宅跡
少し先左にある江戸末期創業の石善こと山村石材店(神領1-13-18)の展示スペースの向かいを右折し少し進むと左の民家前に昭和50年建立「膳所藩勤皇の志士 山崎友親宅趾」石柱がある。友親は尊皇攘夷派の膳所藩士で明治以降は大津県(滋賀県)に出仕し明治12年(1879)には初代栗太郡長となり野洲郡長を経て明治23年に第1回衆議院選挙に当選し初の衆議院議員の1人となった。東海道は石善展示スペース前を左に分岐する。角には大きな2匹の猫の石像と「左 旧東海道」「右 瀬田唐橋」と刻まれた石柱モニュメントもある。分岐した少し先で県道2号線に突き当たり向かいには大正2年(1913)「官幣大社 建部神社」石柱がある。東海道は県道を右折する。
{左・寄}建部大社 神領1-16-1
右折せずに左折すると参道となる。昭和53年神社名石柱、大正元年(1912)大鳥居などがある参道を進むと左が境内入口。元は神崎郡建部郷(現:東近江市五個荘付近)にあり天武天皇の4年(675)現在地に移転した。主祭神は日本武尊で天照皇大神(天明玉命)、大己貴命を配祀。近江国の一宮。頼朝が永暦元年(1160)伊豆配流の途中に祈願し建久元年(1190)上洛の際にも寄り宝物を寄進したが承久3年(1221)承久の乱の戦火で社殿も社宝を焼失し延慶2年(1309)勢多の判官・中原章則が再建したと言う。昭和17年(1947)に発行された初の千円札(甲号券)には社殿がデザインされた。昭和23年に建部神社から大社に改称。拝殿前の3本杉は神社が現在地に移転した際に時に一夜にして生えたと伝わる。
{左・寄}建部大社 灯籠
本殿右にある。文永7年(1270)建立で年が刻まれた灯籠では近江最古で昭和37年(1962)国重要文化財。花崗岩製の六角灯灯籠で高さ219cm。右には御神石場があり祈願し石を持ち帰り神棚に祀り成就した際には新しい石と共に返す風習がある。その右前には昭和天皇が皇太子時代の大正7年(1918)に御手植した松。本殿左前には昭和50年と60年記念に植樹された松もある。拝殿左に蔵人頭神社、行事神社、大政所神社、聖宮神社、右に箭取神社、弓取神社、若宮神社、藤宮神社の境内社。境内右に八柱神社、武富稲荷神社、大野神社、右手前にはキリシタン灯籠、檜山神社の遥拝所もある。境内右の大灯籠がある庭は瀬田城跡にあった臨江庵から移築された。境内右奥には宝物殿(拝観料200円)。
{左・寄}太神山不動寺(田上不動寺)道標
右折して行くと左のcafe time(瀬田2-3-7)先に木製祠が乗った「愛宕神社」石柱、白塗石仏の小祠、石仏2体の小祠。斜向かいの料亭山形屋重右衛門(瀬田1-16-15)手前を入った左には上之町地蔵尊。さらに先を進むと唐橋東詰交差点の手前左角の西與呉服店(瀬田2-2-1)前に寛政12年(1800)建立道標がある。正面に横書きで右から「田上」その下に縦書きで「田上太神山不動寺」右面に「是より二里半」とある。元は200m手前左角の信楽道との分岐点にあった。太神山不動寺[天台寺門宗](田上森町885)は東南8kmの太神山(標高599.7m)山頂にあり智証大師が貞観元年(859)に創建し建久4年(1193)築の本堂は大正13年(1924)国重要文化財。道標の左には小さな「県道大石東瀬田線」石柱もある。
{右・寄}永光山 妙真寺(妙眞寺) [日蓮宗]  瀬田1-17-24
唐橋東詰交差点を右折し県道559号線を少し行くと右にある。比叡山や高野山の遊学を終え安房の千光山清澄寺(千葉県鴨川市清澄322-1)に戻る途中の日蓮が建長5年(1253)創建したとされる。山門前左に谷口法悦の題目塔、昭和46年建立の本堂改築記念碑、右に平成11年建立「妙見宮」灯籠。境内左に稲荷社、妙見宮、多宝塔もある。江戸時代は瀬田唐橋手前のこの一帯は茶店が並び勢多夕照酒や近くで採れる蜆が名産だった。
{左・寄}瀬田城(勢多城)跡(現:グランスイート近江・臨湖庵) 瀬田2-811
唐橋東詰交差点を左折し県道29号線をしばらく進むと左の路肩に昭和58年「瀬田城趾」石柱、昭和40年「勢多古城址碑」、昭和49年説明立札、小石仏がある。城は永享年間(1429-40)に山岡資広が築いたとされる。天正10年(1582)本能寺の変の直後に城主・山岡景隆は明智光秀に味方になるよう誘われたが断り瀬田唐橋を焼き落とし安土城に向かう光秀の進軍を妨害したため攻められ落城した。江戸時代に城跡は膳所藩領となっていたが貞享元年(1684)元は藩の重臣だった僧・天寧に与えられ庵・臨江庵が建てられ宝暦9年(1759)には藩主・本多康桓が藩主別邸を建てた。昭和28年(1953)からは料亭旅館「臨湖庵」(現:山形屋重右衛門)となったが閉店し平成20年マンションが建設された。
{左}山崎茶酔句碑
唐橋東詰交差点を渡った左。昭和30年(1955)建立で「松風の 帆にはとどかず 夕霞」とある。左には柱状の昭和54年常夜燈、彩色された地蔵17体の小祠、文化14年(1817)「跋難陀龍王宮 是より」「俵藤太秀郷社 川ばた半丁」道標、昭和54年「雲住寺」寺名石柱がある。交差点を渡った右には柱状の常夜燈、「橋守神社と雲住寺」説明付き付近案内地図もあり奥には唐橋流心水質自動監視所がある。監視所の建物右から河原に降りていく所に石仏の小祠。建物左に「記録に残る過去最高水位」説明プレートが嵌められた石柱もある。明治29年(1896)の豪雨で甚大な被害が出た際の付近の最高水位(3.76m)を石柱の高さにて示している。
{左・寄}橋守地蔵
橋の手前左を降りて河川敷の遊歩道を進むとある。小祠に安置された薬師如来(高さ38cm)で瀬田唐橋の架替え工事中の昭和51年に中央橋脚付近から出土した。室町末期の作とされ天文14年(1545)竣工した橋の下に安置されたと推定される。祠の側面には地蔵の説明や「瀬田唐橋の架替略歴」が貼られている。向かいには平成9年建立で建部大社宮司・加藤泰朗書による「日本三大名橋 瀬田の唐橋」石碑があり裏に雲住寺25世・井野泰雄による百足退治の説明が刻まれている。河川敷は小公園になっており他にはムカデに矢を射る俵藤太秀郷を描いたイラスト看板もある。
{左・寄}龍光山秀郷院 雲住寺 [浄土宗] 瀬田2-1-8
地蔵からさらに奥に進むと左にある。応永15年(1408)藤原秀郷(俵藤太)の子孫の小御門城主・蒲生高秀が秀郷供養のため創建し江戸初期に天台宗から改宗した。本尊は阿弥陀如来。橋守寺とも呼ばれる。山門入って左に鐘楼がある。境内左に百足供養堂(六角堂)、虫塚、右に水子地蔵。同じく秀郷の子孫である江戸初期の会津藩主・蒲生忠郷を描いた紙本著色蒲生忠郷像を所蔵し平成3年市指定文化財。他にも秀郷に縁のあるとされる太刀の鍔、鏑矢、槍鉾先や縁起などの版木を所蔵する。
{左・寄}瀬田橋龍宮秀郷社(橋守神社) 瀬田2-1-9
寺の前を過ぎると正面。小さい社殿が2つあり左に藤原秀郷(俵藤太)、右に大神霊龍王(豊玉姫命)を祀る。古来から瀬田川には龍神がいるとされ瀬田唐橋を社として祀っていた。永享年間(1429-40)に橋が架替えられた際に一時的に龍神が遷座する仮宮が建てられ後に本宮となったのが龍宮社で秀郷社は付近にあったのを寛永10年(1633)伊予松山藩主・蒲生忠知が龍宮社の隣に移した。秀郷は承平年間(931-38)に龍神の頼みで三上山の大百足を弓で退治したと伝わる。両社殿の間にある柱は古い橋柱で御神体とされる。境内左には金毘羅社、右には松、大正14年(1925)灯籠の土台がある。昭和6年(1931)建立の鳥居から門の間の参道には石橋、平成14年狛犬、左に正徳元年(1711)手水石もある。
瀬田唐橋
東海道は瀬田川に架かる瀬田唐橋を渡る。奈良時代にはあり鎌倉時代に架替えの際に唐様のデザインを取り入れたため唐橋と呼ばれれるようになった。東国と京の往来に必ず渡る交通の要衝で壬申の乱、承久の乱、建武の戦い、源平の合戦、応仁の乱など古くから戦乱時の重要拠点となり何度も焼失している。「唐橋を制するものは天下を制す」とも言われた。川の間に中之島があるため東側の大橋、西側の小橋から成り現在の橋(全長260m)は昭和54年竣工。欄干にある大小34の擬宝珠は古いものも混在しており幕末の膳所藩主・本多康穣の名や明和や明治の年号が刻まれているものもある。豊橋の吉田大橋、岡崎の矢作橋と共に東海道3大橋の1つで京の宇治橋、山崎橋と共に日本3古橋の1つ
{右}瀬田唐橋架換記録碑
大橋を渡ると中之島にある。高さ1.35mの横長の碑で昭和54年竣工の現在の橋の工事記録と大正13年(1924)竣工の旧橋の記念碑文が嵌められている。江戸時代に17回、明治9年(1876)明治28年と木橋で架替えられた橋は大正13年に初めて鉄筋コンクリート橋となった。横には明治7年に観測が始まった鳥居川水位観測所と説明板がある。その先には俵藤太の百足退治を説明した説明板、昭和61年「日本の道100選」選定記念碑もある。他に中之島の右側にはアーブしが滋賀県青年会館ギャラリー唐橋がある。瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川で宇治川と名が変わり桂川などと合流し淀川となり大阪湾に流れる。付近は近江八景「勢多夕照」琵琶湖八景「夕陽 瀬田・石山の清流」でもある。
{左}俵藤太秀郷像&「明治天皇御聖蹟」碑
向かいの中之島左側の小高い丘上にある。秀郷像は昭和54年建立で秀郷社所蔵の木像を模写した信楽焼の像。聖蹟碑(高さ1.68m)は昭和2年(1927)建立で東郷平八郎の揮毫。明治元年(1868)東幸の際に休憩し景色を眺めたとされ当初は中之島右側に建立されたが昭和42年青年会館建設のため現在地へ移設された。他に丘上には昭和50年水難供養地蔵、水準点もある。丘への石段を登る途中右には正方形の久米幸叢句碑「湖かけて 舟ちらばれる 瀬田涼し」左には自然石の西沢十七星句碑「瀬田蜆 藤咲きしかば うまからむ」もある。幸叢句碑は昭和25年(1950)に選定された琵琶湖八景を記念して建立された。他に中之島の左側には料亭あみ定シニアホーム勢田夕照苑もある。
{左}橋姫龍神 唐橋町17-6
唐橋の小橋を渡りきるとある料理旅館・唐橋の敷地左にある。赤屋根の下に大小2つの小祠が並び右には説明立札がある。さらに右奥にも石仏が安置された小祠がある。橋を渡った右を河川敷に降りると藤棚下にベンチもある。すぐ先の唐橋西詰交差点を渡ると東海道は県道2号線から県道104号線となりJR石山駅まで県道(石山商店街)を進む。交差点渡ってすぐ左には紅殻塗で1階に連子格子の建物の松村油店(唐橋町17-4)があり軒下には「油」の木看板がある。近年まで料理旅館が並んでいた通りで現在も連子格子、ばったりなどがある建物が残る。
{左}京阪電鉄 唐橋前駅
少し行くと京阪電鉄石山坂本線の踏切を渡る。踏切の左には大正3年(1914)大津電車軌道の駅として開業した唐橋前駅がある。石山坂本線は石山寺駅から坂本駅までを結ぶ14.1kmの路線。石山寺駅の南には多数の国宝や重要文化財を有する天平19年(747)創建の石光山石山寺[東寺真言宗](石山寺1-1-1)がある。この付近は江戸時代は鳥居川村で茶屋が並び名物は蜆と源五郎鮒だった。鮒は鮒ずしや膾にして食され広重も行書版東海道の大津で鳥居川村の茶屋、東海道張交図会の大津で源五郎鮒などを描いている。源五郎鮒の名の由来は堅田に住む漁師・源五郎が捕っていたからなど諸説があり元は琵琶湖の固有種だったが現在は広く国内に分布している。
{左}蓮如上人休息所跡(旅籠伏見屋跡) 
踏切渡り少し先左の松喜屋先の角にある。「地主之守大神 方位之守大神」「逆縁之縁切地蔵大菩薩」「蓮如上人御影休息所」と縦3行で刻まれており昭和初期に旅籠伏見屋の子孫が建立した。碑の後ろが伏見屋跡で本願寺8世連如が布教の際に休憩したとされる。宝暦2年(1752)から始まり現在も続く東本願寺〜真宗大谷派吉崎別院(福井県あわら市吉崎1-301)間の蓮如上人御影道中ではこの地は復路(上洛)の休憩場所となっている。南1.5kmにある石光山石山寺[東寺真言宗](石山寺1-1-1)も蓮如と関係が深く江戸時代には本尊・如意輪観音が蓮如の母の化身という噂が広まった。本堂東の蓮如堂(平成20年国重要文化財)には蓮如の6歳御影画が画中の蓮如着用の小袖と共に安置されている。
{左}玉泉山 長徳寺 [真宗佛光寺派]  鳥居川町8-14
少し先の鳥居川交差点の左にある。長徳元年(995)創建で天台宗だったが嘉暦3年(1328)京都の佛光寺7世で真宗佛光寺派中興の祖・了源性空が月輪にあった真宗の道場を移転し改宗した。了源は教化行脚の旅で東海道を通る際にこの寺を拠点としたと言う。交差点を渡った左の塀前に大正元年(1912)建立の「中興了源上人御舊跡」石碑がある。山門入って左に鐘楼。他に境内には本堂、灯籠など。東海道は交差点を右折する。左折すると石光山石山寺[東寺真言宗](石山寺1-1-1)に向かう石山寺道。
{左}明治天皇鳥居川御小休所
右折したすぐ左。黒塗の冠木門と土塀前に昭和12年(1937)建立の「明治天皇鳥居川御小休所」石柱がある。明治天皇は明治元年(1968)東幸の際にここにあった茶屋本陣・今井庄兵衛宅で休憩した。煉瓦色の歩道がある石山商店街をしばらく進み国道1号の高架をくぐった少し先で京阪電鉄石山坂本線の踏切を渡ると少し先の松原町西交差点で東海道は左折する。
{左・寄}JR石山駅 芭蕉銅像
少し先右に駅があり駅前ロータリーを右折して右の交番前を通過し突き当たり正面の京阪バス石山駅案内所右付近から線路を横断するのが東海道だが分断されている。左の駅舎2階コンコースで迂回すると反対側に東海道の続きがある。駅南口2階の広場には芭蕉銅像と「東海道を旅する芭蕉」説明板がある。芭蕉は東南1.5kmの近津尾神社(国分2-442)境内にあった幻住庵に元禄3年(1690)4月6日〜7月23日まで滞在し幻住庵記を執筆した。駅は明治36年(1903)開業で昭和2年(1927)西南に東洋レーヨン滋賀工場(現:東レ滋賀事業場)(園山1-1-1)が出来て乗降客が激増し周辺が発達した。駅北口には昭和30年〜昭和60年まで近くにあった粟津ガス供給所を記念し平成19年設置されたガス灯もある。
{左・寄}今井兼平の墓 晴嵐2-4-16
駅北口を左に道なりにしばらく行くとある。平成18年市指定史跡。兼平は木曽義仲の家臣で義仲側室の巴御前の兄。寿永3年(1184)源範頼、義経ら鎌倉方の軍勢に追われこの近くで刀を口に含んで馬から飛び降りて自害したとされる。墓石は寛文元年(1661)膳所藩主・本多俊次が古塚があったと伝わる場所に建立し寛文6年現在地に移された。墓石右には風化した墓石表忠文の平成18年復刻碑、左前には文化9年(1812)作者不明の歌碑。明治44年(1911)改修され改修記念碑、明治45年の灯籠や門柱もある。他に右手前に昭和49年「粟津合戦史跡顕彰碑」、昭和59年「鎮魂碑」、左手前に昭和41年建立の儒学者・元田永孚が明治19年(1886)に詠んだ詩碑。入口に井戸跡、説明立札、集会所の兼平庵。
盛越川・粟津(鳥居川)一里塚(122)跡
東海道の続きからしばらく進むと盛越川を渡りNECセミコンダクターズ関西本社滋賀工場(晴嵐2-9-1)東門に突き当たる。本来は直進していたが100mほど分断されているため道なりに右折して川沿いを行く。川は3kmほど西南の若葉台付近を源流とし粟津の森を越して流れるので森越川と呼ばれていたが江戸時代頃から盛越川となった。川の手前には一里塚があったが痕跡や表示はない。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも複数の榎があったと記録されている。天保13年(1842)「東海木曽両道中懐宝図鑑」にはここ以降の一里塚は記載がなくこの頃にはなくなっていたとされる。川沿いを少し進み右に「粟津の清嵐」説明付き付近案内地図があるT字路で左折し80mほどで本来の東海道に戻る。