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{右}「農業試験研究発祥の地付近」碑 本来の東海道に戻って少し進むと粟津中学校(晴嵐1-20-20)手前の角にある。明治28年(1895)滋賀県農事試験場が旧:膳所村別保に設置され昆虫媒介による植物ウィルス伝染の研究や幻の酒米とされる「滋賀渡船6号」などの育成が行われた。昭和3年(1928)栗太郡治田村渋川に移転した後に部門や分場、農場が分散し昭和25年農業試験場に改称、昭和49年に本場が現在地(蒲生郡安土町大中516)に移転、平成12年滋賀県農業総合センターとなり現在は滋賀県農業技術振興センターとなっている。碑は試験場設立100年を記念し平成7年に建立され碑面に嵌められたプレートに転写された設立当時の風景写真には東海道の松並木も写っている。 |
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{左}粟津松並木(粟津の晴嵐)跡 少し先で道が左カーブすると松が1本、さらに先の粟津中学校正門向かいに2本ある。江戸時代にはこの付近は松並木が続き近江八景「粟津晴嵐」として知られた景勝地だった。現在は晴嵐の地名が残り西の琵琶湖畔の1.7kmが膳所・晴嵐の道として松並木がある遊歩道に整備されている。近江八景は他に「石山秋月」「勢多夕照」「矢橋帰帆」「三井晩鐘」「唐崎夜雨」「堅田落雁」「比良暮雪」。広重は天保5年(1834)安政4年(1857)など20種類ほどの近江八景のシリーズ絵を描いている。大田南畝は駕籠屋にただで乗せると言われ八景の全てを入れた狂歌を詠んだ。少し先の滋賀県衛生科学センターを過ぎた先の晴嵐交差点手前左に「粟津の晴嵐」説明付き付近案内地図、渡った右に石仏の小祠がある。 |
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{右・寄}御殿浜跡(膳所・晴嵐の道) しばらく進むと左に説明なし付近案内地図があり向かいを右折すると80mで琵琶湖に出る。この辺りは瓦ヶ浜と呼ばれ万治3年(1660)頃に膳所藩主・本多俊次が瓦ヶ浜御殿を造営してからは御殿浜と呼ばれた。昭和8年(1933)には御殿浜水泳場も開かれたが埋立てなどで姿を消し現在は大津湖岸なぎさ公園の1つ「膳所・晴嵐の道」となっている。大津湖岸なぎさ公園は晴嵐から浜大津付近の湖畔4.8kmに渡り整備された湖岸公園で膳所・晴嵐の道、サンシャインビーチ、市民プラザ、なぎさのプロムナード、打出の森、おまつり広場の6つからなる。左にしばらく行ったサークルK大津御殿浜店(御殿浜20-17)向かいには側面に説明がある昭和59年建立の「御殿浜」石柱もある。 |
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{右・寄}丹保之宮(旧:膳所護国神社) 湖岸を左に進むとサークルK大津御殿浜店少し手前に昭和14年(1939)「膳所護国神社」石柱がある。将軍家茂上洛時に起こった膳所城事件で犠牲となった中老・保田信解ら藩士11人の慰霊のため慶応元年(1865)藩主・本多康穣が丹保之宮(におのみや)として創建し戦時中のみ膳所護国神社と称した。膳所城事件は尊攘派と佐幕派が対立する藩内に将軍暗殺の噂が流れ当初上洛時の宿泊予定地だった膳所城が大津宿に変更となり面目を失った藩が尊攘派を切腹、斬罪に処した事件。砂利道の参道を進むと大正15年(1926)鳥居がありくぐった右に社殿がある。社殿手前右に大正3年旧膳所藩烈士之碑がある。社殿前の木柵と冠木門右前に昭和41年「丹保之宮」石柱。社殿右に昭和58年歌碑もある。 |
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{右・寄}本多神社(瓦ヶ浜御殿跡) 御殿浜20-50 丹保之宮社殿前を過ぎそのまま砂利道を道なりに行くと裏から境内に入る。明治16年(1883)旧:膳所藩士らが瓦ヶ浜御殿(浜御殿)跡地に創建。祭神は膳所藩主・本多康俊、俊次と氏祖の忠俊、忠次。御殿は万治3年(1660)頃に俊次が藩主隠居所として造営し御殿建物は享保3年(1718)草津宿本陣に移築された。社殿右前に膳所藩資料館があり資料館裏には池跡など御殿の庭の1部が残る。社殿左に「本多公浜御殿址」石柱、幕末明治の洋学者・黒田麹廬の昭和62年顕彰碑、天弓翁文庫、本多翁記念館もある。社殿向かいは本多神社古墳、広鶴大神(稲荷神社)の小山。小山裏の洞窟内に子授け地蔵もある。参道を抜けると本多神社の表の入口で鳥居と「是ヨリニ丁」と刻まれた神社名石柱がある。 |
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{右}膳所城勢多口総門跡 御殿浜20-37 東海道に戻り少し先の民家前に昭和46年石柱がある。江戸時代にはここに門がありここから城下に入った。門は大阪府泉大津市松之浜町の細見邸(現:細見記念財団所有地)の門に移築され現存する。 松江城(島根県)、高島城(長野県)と並ぶ日本3大湖城の1つで大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の1つでもあった名城・膳所城は明治3年(1870)の廃城で城門の多くが若宮八幡神社、篠津神社、膳所神社などに移築された。石柱の数m左には木製屋根が付いた石仏がある。その左の駐車場には藩役人が通行人を監視した番所の建物が平成18年まで現存していたが解体された。東海道はここで左にカーブし膳所商店街を進む。少し先左には1階に紅殻格子やばったりがある民家がある。 |
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{右}若宮八幡神社 杉浦町20-31 少し先の右左クランクを過ぎ京阪電鉄石山坂本線を宮町踏切で渡った左に石仏7体の祠があり少し先。白鳳4年(675)天武天皇が宇佐神宮から「近江の湖水の辺り粟津にわが子仁徳を祀り崇敬すべし」と神託を受け創建し4年後に社殿が完成した。祭神は応神天皇の子である仁徳天皇。初めは粟津の森八幡宮、若宮八幡宮と呼ばれ明治から若宮八幡神社となった。表門は明治3年(1870)移築の江戸初期築の膳所城本丸犬走門で昭和53年市指定文化財。高麗門で右に脇門があり屋根は本瓦葺で軒丸瓦に藩主・本多氏の立葵紋がある。本殿左に皇大神宮。その左には天満宮、多賀社、白山社、稲荷社、金毘羅社、新羅社。境内右に神饌庫、池、神木、蔵。街道沿いの灯籠は享和元年(1801)天明7年(1787)。 |
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{左}杉浦重剛 生家道標 少し先左に「旧東海道」説明付き付近案内地図がある角で東海道は右折する。角のカーブミラー横に「杉浦重剛先生誕生地 南西へ百六十米」道標がある。重剛は安政2年(1855)膳所藩の儒者・重文の次男として生まれ6歳で藩校・遵義堂に入学。明治3年(1870)16歳で東京に出て学び明治9年には英国留学し化学を学び明治13年帰国。明治15年28歳で東京大学予備門校長、明治18年に東京英語学校(現:日本学園)を設立した。明治23年第1回衆議院議員総選挙に当選。他に国学院学監、東亜同文書院院長、皇典講究所幹事長などを歴任し大正13年(1924)70歳で没。生家(杉浦町12-11)は直進しすぐ左折し小さな橋を渡り70m先の同型道標がある角を右折80m先右。明治中期の建物。9時-16時。無料。 |
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{左}徳栄山 妙福寺 [日蓮宗] 中庄1-8-7 右折し少し先。山門左に題目塔がある。慶長年間(1596-1615)日栄が創建した。山門入って左に手水石。正面の本堂前左に「妙見大菩薩」石柱、右前に灯籠がある。寺では地域の交流の場としてコンサート、楽らく寄席など催しも時々開かれる。向かいには1階に連子格子、ばったり、2階に虫籠窓がある民家がある。 |
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京阪電鉄 瓦ヶ浜駅 すぐ先の瓦ヶ浜踏切で再び京阪電鉄石山坂本線を越える。踏切の左右に駅があり手前右と渡った左がホームとなっている。大正2年(1913)大津電車軌道の駅として開業。昭和2年(1927)琵琶湖鉄道汽船の駅となり昭和4年京阪の駅となった。戦時中は京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)の駅となり一時的に営業休止したが戦後に再開し昭和24年再び京阪の駅となった。越えてすぐ右折し80m先右には膳所焼美術館(中庄1-22-28)がある。膳所焼は江戸初期に膳所藩の御用窯だった勢田焼を前身として小堀遠州の指導で確立し国焼「遠州七窯」の1つになっている。広くは地元の梅林焼や雀ヶ谷焼、大正8年(1919)再興の復興膳所焼も含む総称となっている。 |
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{左}佛日山 専光寺 [真宗佛光寺派] 中庄1-5-17 線路を越え少し先にある。寛正6年(1465)正善が創建した。本尊は阿弥陀如来。 山門入って右に昭和24年(1949)鋳造の梵鐘がある鐘楼。他は本堂、庫裏のみ。矢橋追分にあったうばがもちやが文化年間(1804-24)に営業できなくなった際にこの寺が紹介した坂田郡新庄東村(現:米原市)の金沢治兵衛が援助し再興したと言う。 |
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{左・寄}菅沼曲翠邸跡 すぐ先を左折して行くと左の民家の塀前に昭和44年建立の「菅沼曲翠邸址」石柱がある。専光寺の裏。曲翠(曲水)は芭蕉の門人で元禄3年(1690)には近津尾神社(国分2-442)境内にあった伯父・定知(幻住)の旧庵を幻住庵として芭蕉に提供した。本名は定常と言い万治2年(1659)生まれの膳所藩士で芭蕉没後の享保2年(1717)には藩の中老職にあったが不正を働いた藩家老・曽我権太夫を自宅に招き槍で刺殺し自らも責任をとって切腹した。江戸にいた嫡男・定季18歳も切腹し菅沼家は断絶した。義仲寺に昭和48年建立の曲翠の墓がある。斜め向かいには膳所不動明王堂があり安置されている平安時代の木造不動明王立像は元は太神山不動寺にあったものとされ堂右前には石仏もある。 |
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{右・寄}蛄珠山 戒琳庵(戒琳寺) [曹洞宗] 中庄1-19-25 専光寺斜め向かいの細道を右折し広い道に出たら渡って右折すぐ左折すると左。医者で芭蕉の門人・濱田珍碩(珍夕、洒堂)の住居だった酒落堂跡に創建。山門を入って左に昭和46年建立の芭蕉筆による句碑「木のもとに 汁もなますも 桜哉」がある。元禄3年(1690)芭蕉が珍碩の招きで立ち寄り乙州、野径、里東らが集う句会で詠んだ発句。この句会で野径が太岡寺畷の句を詠んだ。他にも芭蕉が草庵を讃えて懐紙に書いた文書が「洒落堂記」として元禄15年「白馬」などに収録されている。珍碩は後に大坂に移住した。他に境内左には稲荷の小祠、境内右に明治10年(1877)法華涅槃塔、三十三間堂の千体千手観音立像を模し平成9年建立の11面千手千眼観世音菩薩銅像。山門前左に石仏18体の小堂。 |
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{右・寄}円融山 記恩寺 [単立] 中庄1-19-23 戒琳庵隣。明治4年(1871)中庄村に生まれた日本画家・山元春挙が40歳頃に別邸・蘆花浅水荘内に師の森寛斎と父の像を安置し祀ったのが起こりで昭和30年春挙の子・清秀が宗教法人記恩寺として開基した。敷地は530坪(1752平方m)で大正3年〜10年(1914-21)にかけて建てられた別荘主屋、離れ、持仏堂(記恩堂)、土蔵、渡り廊下、表門の建物6棟が平成6年国重要文化財。庭園は昭和40年市指定名勝。主屋2階にはアトリエと暖炉付き洋室もある。蘆花浅水荘の名は唐の詩人・司空曙の詩「江村即事」が由来。10時-16時、500円(拝観予約要)。 敷地内には「従是北膳所領」「従是南膳所領」傍示石、大正7年(1918)建立春挙句碑「魚つりやほめもそしりもうきひとつ」もある。
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{左}膳所山三昧院 光源寺 [真宗佛光寺派] 中庄1-13-10 専光寺すぐ先には1階に連子格子、ばったり、2階に虫籠窓がある民家が2軒続きその先の中塚電機(中庄1-13-12)を挟んだ先にある。康永2年(1343)光心が創建し元は天台宗だった。本尊は阿弥陀如来座像。山門前右に大正7年(1918)寺名石柱がある。明治7年(1874)岩倉具視の後妻となった野口槇子ら野口家の菩提寺で明治36年岩倉家が建てた野口家墓所がある。槇子は文政10年(1827)膳所藩士・野口賀代(為五郎)の次女として生まれ兄の賀柔と共に具視に仕えた。尊皇攘夷派に狙われた具視を実家の土蔵に一時匿ったともされる。明治36年東京の岩倉邸で没し本墓は具視の墓がある補陀落山海晏寺[曹洞宗](品川区南品川5-16-22)にある。 |
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{左}篠津神社 中庄1-14-24 少し先。創建年代は不明だが康正2年(1456)の棟札が残る。祭神は素戔嗚尊。古くは大梵天王社、牛頭天王と称し明治元年(1868)篠津神社と改称。神社名石柱は大正13年(1924)、鳥居前に明和2年(1765)灯籠。参道を進むとある表門は膳所城北大手門を明治3年(1870)移築したもので慶長年間(1596-1615)築とされ大正13年国重要文化財。昭和32年解体修理された。高麗門で屋根は本瓦葺で軒丸瓦に藩主・本多氏の立葵紋があり扉は内開きで竪格子、脇門付。現社殿は万治4年(1661)築。本殿前左右に天津彦根神、松尾神、多岐理姫神、倉稲魂神など境内社12社、本殿右に少彦名社、高龗社。本殿前左に樹齢400年のケヤキがある。他に境内には神輿庫、神饌所、平成6年灯籠など。 |
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{右}奥村菅次住居跡 中庄1-16-15 東海道は少し先で奥村歯科診療所に突き当たり左折する。診療所前の角に側面に説明がある「晴好雨竒亭址」石柱がある。金工師の奥村菅次の住居跡。初代の寿景は天明8年(1788)目川に生まれ文化6年(1809)膳所藩お抱えとなりこの地に転居し金銀銅の器類、櫓時計、鉄砲、からくり作品などを製作し有名になった。文人・頼山陽、儒学者・貫名海屋なども訪れ山陽は晴好雨竒亭と命名し額を揮毫したと言う。寿景は天保11年(1840)53歳で没し頂泉山唯傳寺[真宗大谷派](中庄2-10-6)に海屋の揮毫による墓がある。続く2代、3代も賞賛され明治になると3代が目川に居を戻したとされ大正まで金細工の店を営んでいた。篠津神社にも菅次の作品が伝わる。 |
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{左・寄}赤埴勝政邸跡 中庄1-3-5 しばらく進み東海道は右に音羽軒(中庄1-1-6)がある十字路を右折する。右折せずに左折ししばらく行くと右の民家の門左に側面に説明がある「赤埴勝政邸趾」石柱がある。途中右には石仏の小祠もある。寛永18年(1641)に生まれた赤埴所左衛門勝政は赤穂浪士・赤埴源蔵(重賢)の叔父にあたり膳所藩最初の儒学者だった。享保2年(1717)に没し墓は膳所藩の支藩・河内西代藩領だった大阪府河内長野市の金光山明忍寺[真言宗御室派](原町2-2-8)にある。次女は寒川辰清の義母の父にあたる寒川辰成の妻。曾孫の重助政温は現在の膳所高校(膳所2-11-1)の地に文化5年(1808)設置された藩校・遵義堂(じゅんきどう)の初代学頭となった。 |
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{左・寄}寒川辰清邸跡 十字路を右折せずに直進し中ノ庄踏切で京阪電鉄石山坂本線を渡り少し先右の駐車場角に側面に説明がある昭和58年「寒川辰清邸趾」石柱がある。辰清は元禄10年(1697)京都の中邦氏の次男・重福丸として生まれ膳所藩士・寒川家に婿入りし水右衛門辰清と称した。藩主・本多康敏の命で10年かけて近江国全域の地誌の編纂を行い享保19年(1733)101巻100冊に及ぶ「近江輿地志略」を完成させた。現存する自筆本のうち94冊は県立琵琶湖文化館(京町4-1-1)、6冊は清涼山浄光寺[浄土宗](石山外畑町84-4)所蔵で平成18年県指定文化財。他に「本朝四民本伝」「武射必用」なども著した。元文3年(1738)讒言により藩を追放され翌年大坂にて没した。慈雲山瑞龍寺に葬られたが墓は現存しない。 |
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{左}亀屋廣房 本丸町3-7 十字路を右折し少し先右の多田歯科医院(中庄2-20-12)前に石仏3体安置の小堂があり少し先。文化元年(1804)創業の京都の亀末廣から暖簾分けし昭和16年(1941)創業した菓子屋。江戸時代に名物だったが途絶えた兼平餅を今井兼平没後800年を期に復刻し予約販売している。もち粉にヨモギと黒砂糖を入れた求肥で大納言小豆の粒餡を包みきな粉をかけた餅で元は盛越川近くにあり明治初期に廃業した三軒茶屋の1つ小田原屋(駒村家)で売られていたもの。芭蕉や大石内蔵助、勝海舟も食べたとされる。三軒茶屋は粟津松並木の道が長く物騒だったため藩の勧めで松並木の 中ほどに置かれた3軒の茶屋で他に酒が中心の伊賀屋(稲枡家)湖魚料理の近江屋(青山家)があった。9時-16時、日休。
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{右}景澤寺(景沢寺) [真宗大谷派] 本丸町5-44 左右に古い建物が残る商店街を進んで行くとある。天正元年(1573)この先の木下町に創建され慶長5年(1600)現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。寺名石柱はなく山門に表札のみが架かる。境内は本堂、庫裏のみ。 |
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{左}供養山文応院 大養寺 [真宗佛光寺派] 本丸町1-13 少し先。文応元年(1260)善鸞が創建した。山門は膳所6門の1つ。山門入って左に井戸跡、寺名や「海抜九十二メートル」と刻まれた昭和5年(1930)建立の石柱型灯籠。境内左に親鸞銅像、右に灯籠もある。膳所6門は膳所城の門とは別の城下町の寺、武家屋敷などの由緒ある6つの門でここと響忍寺の門のみ現存する。他の4つは桃源寺の門、永田屋敷の門、久保屋敷の門、北本多屋敷の門があった。 |
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{右・寄}膳所城跡(膳所城跡公園) 本丸町7 少し先左に「膳所城址」説明付き付近案内地図がある十字路を右折していくと正面。手前右に天守閣風の膳所市民センター(本丸町6-40)。公園入口には復元された門がある。慶長6年(1601)家康が藤堂高虎に縄張りを命じ諸大名に築城させた天下普請第1号の城で別名石鹿城。城主は戸田一西が任命され初代膳所藩主となった。譜代大名の本多氏、菅沼氏、石川氏が続き慶安4年(1651)再び本多氏となり幕末まで続いた。琵琶湖の中に石垣を築き北之丸、本丸、二之丸が島のように独立した水城で後に南側の陸続きの地に三之丸が増築。現在は本丸北側の石垣が少し残るのみで本丸跡が公園となっている。公園内に入り正面に昭和43年「膳所城址」碑、左奥に昭和45年「天守閣跡」石柱がある。 |
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{右・寄}石鹿地蔵尊 公園内の昭和30年英霊塔の背後にある。安置されている石地蔵60体は元は比叡山延暦寺にあったものとされ元亀2年(1571)焼討ちした信長が明智光秀に命じ坂本城を築かせる際に城の礎石にしたとされる。天正10年(1582)光秀を討った秀吉が坂本城を廃城とし浅野長政に命じて大津城を築かせる際に坂本城から運んで礎石とし慶長6年(1601)家康が大津城を廃城とし藤堂高虎に命じ膳所城を築かせる際に大津城から運んで礎石とした。明治3年(1870)廃城となり城が解体されると地蔵が出土しそのまま各所に放置されていたが昭和38年小堂が建てられた。他に公園内には伊藤雪雄歌碑、飯田棹水歌碑、芭蕉句碑、白王竜神・浜弁財天・地主大神の小祠、野外ステージ、テニスコートなどもある。 |
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{左・寄}膳所神社 膳所1-14-14 十字路を左折して行くとある。天智天皇が大津に遷都した際にこの地を御厨所に定め天武天皇の代の6年(677)食物の神である豊受比売命を勧請し創建。豊臣秀頼、家康などが神器を奉納したという記録が残り膳所藩主も社領や社殿を寄進した。明暦元年(1655)築とされる表門は膳所城本丸と二之丸間にあった本丸大手門で明治3年(1870)に移築され大正13年(1924)国重要文化財。薬医門で屋根は本瓦葺で軒丸瓦に藩主・本多氏の立葵紋がある。境内右の北門、境内左の南門も膳所城の門の移築。本殿左奥に明治35年(1902)「式内社膳所倭神」石碑、右奥に境内社、「磨大神」などの石碑。境内右には神輿庫、境内左には手水石、ブランコなど。灯籠は文化12年(1815)など。狛犬は明治36年(1903)。 |
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{左}膳所城中大手門跡 丸の内町2-23 十字路渡った金子工務店の植込みに昭和46年石柱(高さ74p)がある。この付近の向かいに東海道から膳所城に通じる中大手門があった。寛文2年(1662)地震で城は大きな被害を受け大改修が行われ本丸と二之丸の間は埋立て結合し新本丸とし三之丸は掘で分割して新二之丸、新三之丸となり中大手門などの門も再建、修復された。後に中大手門の構造などが幕府の規定に違反しているとされ幕府役人が調査に訪れた際に家老の案で手前の街道に菰をかぶせた大石を置いて射止めたばかりの鹿と称して役人を通行させないようにし門を見せずに難を逃れたことから城は「石鹿城」とも呼ばれるようになったと伝わる。少し進むと左には連子格子、ばったり、犬矢来がある民家がある。 |
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{左}梅香山 縁心寺 [浄土宗] 丸の内町1-20 少し先。入口左に寺名石柱、右に「舊膳所城主御菩提所」石柱。初代膳所藩主・戸田一西が慶長7年(1602)洪誉を開山として創建した栄泉寺が起こりで付近で唯一の瓦葺の寺院だったため瓦寺と呼ばれた。慶長9年(1604)一西は落馬がもとで没しこの寺に葬られた。子の氏鉄が跡を継ぐが元和3年(1617)摂津国尼崎藩に移封され代わって三河国西尾藩主・本多康俊が膳所藩主となると西尾で康俊が父・忠次の菩提を弔うため慶長7年創建した縁心寺がこの地に移転した。康俊も没後この寺に葬られ本堂裏に一西や康俊の子・俊次などの墓がある。境内には本堂、庫裏、手水石、灯籠など。西尾には俊次が元和7年(1621)から西尾藩主だった頃に再建された梅香山縁心寺[浄土宗](西尾市中町56)がある。 |
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{左}和田神社 木下町7-13 少し行くとある。白鳳4年(675)創建で祭神は高龗神。当初は八大龍王社と称し承和2年(835)から正霊天王社と称したが明治元年(1868)に付近の和田浜の名を取り和田神社となった。透かし塀に囲まれた軒唐破風付一間社流造の本殿は明治35年(1902)国重要文化財。蟇股は鎌倉時代のものとされ屋根は安土桃山時代の改修とされる。門は藩校・遵義堂の表門を移築したもの。境内右の社務所前には昭和53年市指定天然記念物のイチョウ(高さ24m幹周4.4m樹齢600年)もあり関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が京都へ搬送される途中に繋がれたと伝わる。本殿左奥に山神社、右奥に天満宮(五社ノ社)、稲荷神社。本殿前狛犬は慶応2年(1866)。他に境内には参集殿、手水石、井戸跡、神輿庫もある。 |
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{右}敬願寺 [真宗大谷派] 木下町11-33 少し先の2叉路を左に進むのが東海道で左のアパート前には石仏2体のコンクリート祠、「和田神社」説明付き付近案内地図がある。左に少し進むと寺がある。六角氏(佐々木氏)の一族・山内丹波守豊之が六角氏没落後に出家し宗永と名乗りこの地に庵を建て元亀4年(1573)寺として創建した。本尊は阿弥陀如来。寺名石柱はなく山門(長屋門)に表札のみが架かる。境内は本堂、庫裏のみ。少し先右には1階に連子格子、ばったりがある民家がありその先左にも連子格子がある民家がある。 |
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{左}春台山 響忍寺(こうにんじ) [真宗大谷派] 木下町15-33 少し先の突き当たりにある。門右前に「旧東海道」説明付き付近案内地図。宗慶が元和年間(1615-24)に創建し後に火災で焼失したため藩家老・村松八郎右衛門家跡の現在地に移転し再建。本尊は阿弥陀如来。村松家の長屋門が山門としてそのまま残され門を入った正面が玄関跡である書院。右に中門があり入ると左に平成14年築の本堂、右に近所から出土した廃寺・泉水寺の手水石、宝暦2年(1752)本堂鬼瓦。本堂右前に鐘楼、明治29年(1896)大洪水時の水位が裏面に刻まれた「敷石寄附」石柱、平成21年親鸞銅像。寺前の突き当たりは右折し少し先の駐車場手前を左折した先の相模川をしんぼり橋で渡ると正面に「旧東海道」説明付き付近案内地図。東海道は左折し川沿いではない方の道を進む。 |
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{左}石坐(いわい)神社 西の庄9-33 すぐに右に直角カーブし少し先。古くは北西4kmほど離れた御霊殿山にあり八大龍王社と呼ばれ朱鳥元年(686)麓に移され正霊天王社を合祀し文永3年(1266)現在地に移転。明治期は高木神社と称し大正6年(1917)石坐神社となった。祭神は八大龍王社に豊玉毘古命(海津見神)、彦坐王命。正霊天王社に天智天皇(天命開別尊)、伊賀采女宅子、大友皇子(弘文天皇)。正霊天王社の3神座像(平安時代作)と彦坐王命座像(鎌倉後期作)が明治33年(1900)国重要文化財。本殿は文永3年(1266)築で昭和32年県指定文化財。境内左に昭和49年複製再建の神社由来碑。横に手水石、宝永8年(1711)灯籠、座像石仏を安置する石神社。本殿左奥に弁財天、稲荷社。境内奥に樹齢800年の榎と御霊殿山遥拝所。 |
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{右}武陵山 桃源寺 [臨済宗永源寺派] 西の庄13-18 斜め向かいにある。明和3年(1766)東武医官桃院法印が創建した。永禄13年(1570)創建の浄居寺が起こりという説もある。本尊は薬師如来で智証大師作とされ元は江戸城西之丸に安置されていた。山門入った右に琵琶湖子安地蔵尊がある。他に境内には観音銅像、宝篋印塔、石柱など。大養寺などには現存する膳所6門の1つがこの寺にもあったが現存しない。右隣には江戸時代には天神庵(天満宮)があったが現在は駐車場になっている。
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{左}粟陵山 法伝寺(法傳寺) [真宗佛光寺派] 西の庄9-22 少し先向かい。天智天皇の代の3年(664)尊信が創建し天智天皇を没後に弔った寺とされる。後に大友皇子(弘文天皇)の子で園城寺(三井寺)を創建した与多王が出家して5世となり現在も子孫が住職をつとめる。古くは茶臼山の北麓にあり建久9年(1198)石坐野に移り天和2年(1682)に現在地へ移転した。茶臼山には茶臼山古墳(法伝寺古墳)があり古墳後円部には大友皇子、与多王、侍臣のものとされる5つの塚も残る。寺には天智天皇と大友皇子の霊牌が祀られ古墳から出土した埴輪、与多王とされる室町時代作の木造僧形神座像、延宝4年(1676)「石坐神社縁起」も所蔵。鉄柵の門を入ったすぐ右に「天智天皇御尊牌奉安 法傳寺」石柱。参道を進み山門入って左に小堂、井戸跡、右に庫裏、書院、本堂。 |
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{右}膳所城北総門跡 西の庄5 斜め向かいに明治13年(1880)創業の佃煮屋松田魚伊(西の庄10-29)があり少し先の左から道が合流する角には「旧東海道」説明付き付近案内地図がある。左右に格子のある民家を過ぎて行くと右左クランクがあり左折する角の正面の民家前に昭和48年建立の石柱(高さ83p)がある。大津口総門とも呼ばれ膳所城城下の江戸側の入口である勢多口総門と対をなす京側の入口であり番所もあった。南北総門間の城下町は防衛と町を大きく見せる目的で屈折を多くしてあり距離が長いため褌町とも呼ばれていた。江戸時代はこの先は西ノ庄村から馬場村となり膳所藩領と天領(大津代官支配地)の境でもあった。 |
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{左}常盤山 福正寺 [真宗大谷派] 馬場1-12-8 少し先の十字路手前左に白塗石仏3体が安置されたブロック造りの小堂、十字路渡った左に説明なしの付近案内地図があり少し先にある。西了が創建し元は天台宗だった。本尊は阿弥陀如来。街道沿いの寺名石柱は平成元年の建立。少し奥に山門があり境内は本堂、書院、庫裏のみ。 |
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{左}日向山 光林寺 [真宗佛光寺派] 馬場1-11-19 少し先で川を渡った先にある。文亀年間(1501-04)円休が創建した。元は天台宗で延宝年間(1673-81)に改宗した。本尊は阿弥陀如来。少し奥にある鉄柵門の右前に昭和6年(1931)建立の円柱型寺名石柱。境内左に松、灯籠、右に平成19年建立親鸞銅像、庫裏、本堂があり本堂前には宝暦10年(1760)鬼瓦が置かれている。境内奥には7体ほどの石仏群もある。少し先の十字路右には「義仲寺」説明付き付近案内地図がある。 |
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{左}朝日山 義仲寺 [天台宗単立] 馬場1-5-12 少し先。寿永3年(1184)木曽義仲が討死した後に尼になった側室・巴御前が素性を隠し建てた草庵・無名庵が起こり。後に巴寺、木曽塚、木曽寺とも呼ばれたが荒廃し天文22年(1553)近江守護・佐々木高頼が再建。本尊は聖観世音菩薩で義仲と子の義高の木像なども安置。江戸時代から園城寺に属していたが昭和40年独立し単立寺院となった。境内は昭和42年国指定史跡で山門前左に昭和43年「史跡義仲寺境内」石柱、説明立札、境内には昭和41年「昭和再建碑」昭和51年「再建第二期事業完成碑」もある。本堂は昭和54年改築で朝日堂と呼ばれる。昭和60年築の山門前右に巴御前を弔う地蔵を安置した巴地蔵堂。山門入って右に史料館、奥に境内社の木曽八幡社もある。9-17時、200円、月休。 |
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{左}木曽塚 境内のほぼ中央にある。義仲の墓(供養塔)で土壇の上に宝篋印塔があり木曽塚とも呼ばれる。手前には小さな長方形石に「巴塚」と刻まれた巴塚があり説明立札もある。平家物語では巴は義仲と共に粟津で戦い敵将恩田八郎師重を討ち取ったが義仲の言葉で落ち延びたと言う。その後は尼僧となり各地を廻り晩年は木曽に戻り90歳で没したとされる。さに手前の境内左には昭和48年に秋岸寺跡(現:JR大津駅前)から移された山吹塚もある。山吹は巴と共に信濃から義仲に従ってきた妾で義仲討死時は京で病の養生をしていた。義仲を追ってきたが会えずに秋岸寺で敵刃に倒れたとも義仲の遺骸を葬った後に井戸に身を投げたとも伝わる。境内には天保3年(1832)「朝日将軍木曽源公遺跡之碑」もある。 |
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{左}芭蕉墓 木曽塚の奥にある。石柵に囲まれた三角形の自然石に「芭蕉翁」とあり門人・丈艸の揮毫とされる。貞享2年(1685)など度々境内の無名庵に滞在した芭蕉が「骸は木曽塚に送るべし」と遺言して元禄7年(1694)51歳で大坂で没すると門人の去来、其角らは川舟で遺体を運びここに埋葬した。右横には明治26年(1893)200回忌建立の辞世「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」句碑。境内には昭和17年(1942)250回忌建立「古池や 蛙飛びこむ 水の音」、昭和37年270回忌建立「行春を あふミの人と おしみける」句碑もある。他にも島崎又玄が元禄4年芭蕉を訪ね宿泊し詠んだ句碑など20基近くの句碑、歌碑が境内にある。芭蕉翁座像を安置する翁堂、寛保3年(1743)芭蕉翁行状碑、門人・菅沼曲翠の墓もある。 |
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