東海道ルートガイド
草津宿

{左}高野地蔵尊・横町道標(坂口見附)
橋を渡り右折し堤防から降りて行く道が東海道ですぐ先右に地蔵堂、左に文化13年(1816)道標がある。堂前右に手水石、昭和10年(1935)「高野地蔵尊」石柱、堂内には木像と石仏が安置されている。堂裏に立木神社の御旅所の小祠もある。堂右の土手道は琵琶湖までのサイクリングロード(総延長6.14km)に整備されている。道標は石柱の上に屋根付木造火袋が乗り石柱部分には「左 東海道いせ道」「右 金勝寺志がらき道」「奉 京都 中井正治右衛門 橘武成」とある。火袋含め高さ3.9mで昭和48年市指定文化財。元は土手側にあったが堤防改修で移された。ここから草津宿の横町に入り道標すぐ先左の元一会議所前には白塗地蔵5体を安置した横町地蔵の小堂もある。
草津宿   本陣2脇本陣2旅籠72家数586人口2351[天保14年(1843)]
平安時代から東海道と東山道(後の中山道)との分岐点として発展し室町時代から宿駅があったとされる。信長は室町幕府から支配権を承認され町を整備し秀吉、家康も軍事・交通の要所として重要視した。江戸時代以前から町並が完成していたため道幅は幕府が定めた5間(9m)よりも狭い3間半(6.3m)で入口も東海道、中山道、京側と3箇所あり多くの裏小路もあって町は広がっていた。正徳2年(1712)には品川、府中と共に物資の動きを監視する貫目改所が設置された。宿内の東海道は横町から黒門まで11町53間半(1.3km)。平成13年には宿場のイメージキャラクター(ゆるキャラ)としてたび丸が誕生した。
{左・寄}景雲山正行院 神宮寺 [天台宗] 草津1-16-1
しばらく進み右に味のさくら井(草津1-13-12)がある十字路を左折すると正面。神護景雲元年(767)立木神社の境内に創建され明治の神仏分離令で現在地に移転した。本尊は聖徳太子作とされる11面観音菩薩立像で33年に1度開帳される秘仏。平安時代の木造不動明王立像や室町時代の絹本著色春日鹿曼荼羅図も所蔵し共に昭和48年市指定文化財。本堂前の灯籠は嘉永7年(1854)。本堂左の軒下には「金毘羅大権現」「大聖歓喜天」の扁額が架かる。境内右に石仏の小祠。以前は繖山桑実寺[天台宗](蒲生郡安土町桑実寺675)塔頭の正覚院の末寺だった。正覚院は室町幕府12代足利義晴が仮幕府を置いたり15代足利義昭が陣所とした寺で元文2年(1737)浄土宗に改宗し竜王町に移転した。
{右}草津追分道標
連子格子やばったりが残る古い建物が所々ある道を進むと道が土色のカラー舗装となり右の元五会館前には白塗地蔵が安置されている。少し先の突き当たり右の石垣の上に道標がある。中山道と東海道の追分にあり京都からの旅人が道に迷わぬよう文化13年(1816)江戸大阪など全国の問屋筋の人々の寄進で建立された。石柱の上に銅製屋根付木造火袋が乗った大きな常夜燈になっており高さは1丈4尺7寸(4.45m)。石柱部分に「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」とあり昭和48年市指定文化財。右には昭和51年建立の説明碑、左には草津川ずい道の県令中井弘揮毫の旧扁額「艸津川」石板、平成20年設置の道標説明板もある。JR草津駅東口には道標の複製がある。
{右}草津川ずい道(隧道)
突き当たりを右折するのが中山道で旧:草津川をくぐるトンネルがある。江戸時代は川の土手を左斜めに登り川を渡って右斜めに土手を降り中山道に入ったが明治17年(1884)に川の北の旧:大路井村の戸長・長谷庄五郎ほか3名が総代となり義願書を県に提出し明治19年アーチ式煉瓦両側石積トンネル(長さ43.6m幅4.5m)が完成した。草津マンポとも呼ばれ完成後は隧道をくぐり200m先を右折する道(現:県道116号)が新東海道となり隧道の先が新草津追分となった。新追分近くの三光山覚善寺[浄土宗](大路1-15-33)門前には明治19年(1886)建立の「右 東海道」「左 中山道」道標がある。隧道内左右には浮世絵などを簡略化した壁画6枚がある。新追分を過ぎ100m先の十字路を左折100mでJR草津駅。
{右}高札場
隧道入口左にある。小さな高札場が復元されており正徳2年(1712)「人馬」関連とその下に正徳元年の「火付」関連「親子兄弟」関連の高札が掲げられている。その下に「草津宿の高札場」木製説明板もある。江戸時代には追分道標の前に高さ1丈3尺(3.9m)幅1丈5尺(4.5m)の高札場が高さ80cm石垣の上に建てられ6〜7枚の高札が掲げられた。東海道名所図会や伊勢参宮名所図会にも屋根付で柵に囲まれた高札場が描かれている。高札は草津川の堤防が決壊しそうな場合などは取り外して立木神社に避難する取り決めになっていたと言う。左には平成17年設置の時計柱、平成2年再建された延命地蔵尊の小祠もある。地蔵尊左の石段を登って行くと隧道上に出ることができる。
{左}草津公民館 草津1-4-33
突き当たり左角にある煉瓦外壁の建物。この地には明治20年(1887)旧:大路井村の戸長・長谷庄五郎の寄付で栗太郡最初の洋風煉瓦造建物である草津警察署が建てられた。煉瓦はフランス積みで屋内には螺旋階段、2階正面にはバルコニーもあった。建物は昭和29年(1954)まで警察署、後に商工会事務所などに利用され昭和56年に建替えられた。公民館の入口両脇には旧建物の煉瓦が使用されている。突き当たり手前の公民館前には「草津川ずい道(トンネル)の由来」説明板、草津町道路元標もある。東海道は突き当たりを左折しここからは中山道と共通の道となる。現在はここから本陣商店街となっている。
{左}書状集箱・堯孝法師の歌碑
公民館前の街道沿いにある。書状集箱は明治4年(1871)郵便創業当時使用していたものと同じ型のもので現役ポストとして使用されており横に平成10年設置の説明立札がある。平成3年建立の歌碑は「近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき」とあり覧富士記に収録。室町時代の歌人・堯孝(尭孝)が永享4年(1432)室町幕府6代将軍・足利義教の供で富士山を見に行く途中に草津で詠んだもの。草花が咲く美しい野を思い描いていたのにそうではなく草津とは名ばかりと思ったという意味。堯孝は和歌四天王の一人・頓阿の曽孫で常光院とも号し二条派の中心歌人だった。歌碑の先には「草津歴史街道・東海道」説明板、平成10年鈴木典明作のモニュメント「時の旅人」もある。
{右}草津宿本陣(田中七左衛門本陣) 草津1-2-8
少し先右。寛永12年(1635)から明治3年(1870)まで本陣だった田中七左衛門家は材木屋を兼業していたため木屋本陣とも呼ばれた。現存建物は享保3年(1718)草津宿大火の後、急遽膳所藩の瓦ヶ浜御殿を移築したと伝わる。全国に現存する本陣の中では最大級で嘉永2年(1849)の記録で間口14間半(26.1m)奥行62間(111.6m)敷地1305坪(4314平方m)建坪468坪(1547平方m)部屋数39室268畳半。桟瓦葺平屋妻入の本陣主屋、表門、湯殿、御除ヶ門等が現存し昭和24年(1949)国指定史跡。宿札(関札)木製460枚紙製2928枚、元禄5年(1692)から明治7年(1874)までの宿帳(大福帳)、調度品なども現存し1部が展示されている。午前9時-17時(入館は4:30)月休、200円、街道交流館と共通320円。
{左}藤屋与(與)左衛門脇本陣跡
すぐ先の十字路渡った民家前の排水溝にプレートがある。寛政年間(1789-1800)以前から幕末まで脇本陣で庄屋、問屋役もつとめていた。プレートには元禄3年(1690)東海道分間絵図の草津付近の図が転写され「脇本陣 藤屋与左衛門家跡」とある。脇本陣は他に大黒屋弥助、仙台屋茂八、柏屋十(重)右衛門、平井屋彦右衛門らが時代によりつとめ常時2〜4軒があった。手前には白塗石仏の小祠もある。隣の明治40年(1907)創業の茶販売・吉川芳樹園(草津2-7-33)の店舗兼主屋は昭和50年に改造されいるが江戸末期の築で平成19年国登録文化財。瓦葺木造平屋1部3階建で1階屋根の出桁を白漆喰で塗込め2階には虫籠窓。斜め向かいには明治30年創業の和ろうそく店・大喜(草津2-5-11)もある。
{左}仙台屋茂八脇本陣跡(現:草津市観光物産館「脇本陣」)草津2-7-30
吉川芳樹園の1軒おいた先。2階が白壁格子窓の町屋風の建物で観光案内や土産物店になっている。建物右端前に「草津宿脇本陣跡」石柱がある。仙台屋は延享年間(1744-48)頃に脇本陣だったとされ安政5年(1858)の記録には脇本陣並とある。館内には1階には草津の銘菓、地酒、民芸品を販売するおみやげコーナーと観光案内コーナーがあり2階は展示、イベントスペースがある。10時-17時、月休。
{左}田中九蔵本陣跡(現:食事処はり治) 草津2-8-26
2軒おいた先。排水溝にプレートがあり壁の排水管にはパウチされた説明書が吊るされている。プレートには広重の関宿の絵が転写され「草津宿本陣 田中九蔵家跡」とある。田中九蔵家は江戸時代以前から宿泊や人馬継ぎの手配などを行っていたとされ江戸時代は七左衛門本陣より10坪広い1315坪(4347平方m)の敷地があり庄屋と問屋役も兼務していた。嘉永6年(1853)には天璋院篤姫が御泊している。明治に入り絶え建物も姿を消し跡地には明治10年(1877)草津小学校の前身の知新学校が移転し校舎を新築し昭和9年(1934)までここにあった。1軒挟んだ先のマンポのとなり(草津2-8-25)は元:菓子屋の築70年の建物を改修したギャラリーで1階屋根上に広重の蔦屋版東海道の草津を模した看板がある。
筋違い(筋交い・筋かい)
すぐ先の変形十字路。左の京八玩具(草津2-8-25)と喫茶トリコロール(草津2-10-27)の間の道よりも右の京栄玩具店(草津2-5-17)とさのや化粧品店(草津2-4-11)の間の道が少し先で東海道に接続している。十字路ではなく街道に対して少しずれて交差しており「筋違い」と呼ばれ防衛の意味があった。江戸時代は草津宿内にあった24小路はすべて筋違いになっていたとされ現在はここ以外に数箇所のみが残っている。
{左}三度飛脚取次処・荒物屋九右衛門跡(現:中神医院) 草津2-10-26
少し先。前が駐車場スペースになっているビル風の建物前。排水溝にプレートがある。月に3度東海道を往復したという三度飛脚の取次処。三度飛脚は江戸大坂間を毎月3回往復した飛脚で公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚と違い一般人も利用できた。プレートには広重の行書版東海道の赤坂宿の絵が転写され「三度飛脚取次処 荒物屋九右衛門家跡」とある。中神医院は江戸後期の京都の漢方医・中神琴渓の子孫の経営。平成5年に没した郷土史家、美術品収集家でもあった医師・中神良太の浮世絵、絵画コレクションは中神コレクションとして草津宿街道交流館に所蔵されている。
{左}まちなか交流施設 くさつ夢本陣 草津2-10-21
少し先にある平成21年にオープンした無料休憩・観光案内所。街道沿いは朝市などが開かれるイベント広場となっており少し奥に木造2階建の建物がある。1階にはFM草津の放送スタジオも併設され2階は地域利用目的の会議室となっている。9:30-18:00。江戸時代にはこの付近に柏屋十(重)右衛門脇本陣があった。敷地裏の小道を進むと北斗大将軍、稲荷明神の石祠があり灯籠や昭和9年(1934)鳥居もある。東海道は少し先で本四商店街となりアーケードに入る。
{左}草津宿街道交流館 草津3-10-4
少し先ある。草津宿の歴史資料や情報を提供する施設として平成11年に開館した。1階は情報検索コーナー、クイズコーナー、街道筋の市町村史を中心に収集したライブラリ、2階は旅籠の食事や道具紹介、立木神社にある道標の複製、草津宿200分の1模型、問屋場のマジックビジョン(立体映像)、双六のコンピュータゲーム、田中七左衛門本陣の大福帳複製などがある。駕籠に乗ったり旅装束を着たり浮世絵を摺ったりできる体験コーナーもある。午前9時-17時(入館は4:30)月休、200円、草津宿本陣と共通320円。斜め向かいには明治43年(1912)創業の松利昆布舗(草津3-9-17)があり草津街並み博物館「昆布の館」にもなっている。
{右}布薩山 常善寺 [浄土宗] 草津3-9-7
松利昆布舗の隣。天平7年(735)良弁が創建し宝亀8年(777)光仁天皇から寺号を賜った草津市最古の寺院。本尊・木造阿弥陀如来座像と脇侍の観音菩薩立像と勢至菩薩立像は明治33年(1900)国重要文化財で台座に健長5年(1253)康元元年(1256)の墨書きがある。室町時代には歴代将軍により保護され将軍宿舎にもなり草津御所と呼ばれた。最盛期は敷地は約4000坪(1万3千平方m)あり塀をめぐらし大伽藍の寺だった。家康、秀忠も宿泊し関ヶ原の勝利後はこの寺で捕らわれた石田三成と対面したとも伝わる。現在の鉄筋コンクリートの本堂は昭和43年築。境内はほとんどが駐車場で境内左に木幹地蔵の祠があり石仏10数体が安置。境内右には浄土宗滋賀教区教務所、昭和44年観音石像、庭園。
{左}太田酒造(草津政所跡) 草津3-10-37
少し先にある。酒造としては明治7年(1874)創業だが江戸時代は問屋役や隠し目付をつとめるなど宿場の政治的中心となった家で草津政所、向問屋とも呼ばれていた。建物前には「草津宿と政所」説明立札もある。太田道灌の末裔で越前北ノ庄藩(後の福井藩)家老だった太田資武の次男の太田正長(又四郎)が3代家光の頃に幕府の命を受け宿役人として草津に移住し代々又四郎を名乗った。大正期や戦中戦後に経営危機に陥るが酒造を続け昭和31年(1956)には灘酒造所(灘千代田蔵)が完成。現在は戦後に開墾した栗東市の農地にブドウ園&ワイナリーもある。代表銘柄は「道灌」で街道に面した2棟の建物は愛称「道灌蔵」と言う。草津街並み博物館「草津の蔵」でもある。
{右}問屋場・貫目改所跡 草津3-9-25
向かいの明治18年(1885)創業の和菓子屋・餅喜老舗付近。草津宿の問屋場は東海道と中山道の分岐があり大津への道も矢橋追分からの矢橋湊ルートがあったことから石部宿、守山宿、大津宿、矢橋湊の4箇所へ継立していた。併設された貫目改所は旅人の所持品や往来する荷物重量を検査する一種の関所的な役割があり全国で5箇所(東海道の品川、府中、草津、中山道の板橋、洗馬)のみにあった。向かいの太田酒造には「草津問屋」印「馬帖」印、量目竿秤など問屋場や貫目改所で使用された道具が現存する。享和3年(1803)頃には24人の宿役人が交代で通常は8人体制で詰めていた。すぐ先の十字路も筋違いになっておりその先はアーケードがなくなり本四商店街から本五六商店街となる。
{左}佛國山地蔵院 正定寺 [浄土宗] 草津3-11-39
少し先にある。寛永15年(1634)の創建で寛延3年(1750)見誉が再興した。知恩院末。本尊は木像阿弥陀如来三尊立像。他に木像地蔵菩薩、恵心僧都の画とされる阿弥陀佛軸も所蔵する。街道沿いに昭和29年(1954)寺名石柱、参道右に法然上人歌碑「月影の いたらぬさとは なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」。山門入って右に鐘なしの鐘楼。現在の本堂は昭和23年の築。境内左に文政5年(1822)6字名号碑。境内右に多宝塔、平成3年水子地蔵などがある。田中七左衛門本陣田中九蔵本陣の菩提寺でもあった。住職・佐々木昭道はバンド槙島プレーボーズのボーカリストでギターによる音楽法話活動も行っている。
{左}八百久 草津3-11-37
1軒置いた先。江戸後期創業の荒物屋(雑貨屋)で家庭用品、鎌や鋤などの農機具、ほうき、食器類、衣類などを扱う。江戸時代の屋号は八百屋九兵衛。昭和3年(1928)頃築の店舗兼主屋は平成19年国登録文化財。瓦葺木造2階建の切妻造平入で1階は格子、2階に木瓜形虫籠窓があり建築面積は126平方m。すぐ先を左折して行くと正面には日吉(山王)神社があり天保12年(1841)灯籠と小さな社殿、鳥居手前右に白塗石仏2体を安置した山王地蔵尊の小祠がある。
{左・寄}鈴風山宝車院 養専寺 [真宗佛光寺派] 草津3-11-27
少し先にも筋違いがあり左に昭和31年「養専寺参道」小石柱がある。左折正面が山門。安貞年間(1227-28)に英光が創建し当初は天台宗だったが天福元年(1233)浄土真宗に帰依した英光は円信と改名し改宗。嘉暦2年(1327)佛光寺7世了源が養専寺の寺号を与えた。本尊は阿弥陀如来立像。永正3年(1506)焼失し天文4年(1535)再建。元治元年(1864)御坊格となった。山門手前左とその手前の民家庭に白塗石仏1体の小祠がある。山門前右に昭和16年(1941)寺名碑。山門右には平成9年改修の鐘楼があり梵鐘も同年再鋳され山門入った右には昭和23年鋳造の旧梵鐘がある。山門入った左に井戸跡と手水石、右に昭和41年「御坊格許状」碑。本堂前灯籠は昭和40年。本堂左前に平成5年多宝塔。
{右}立木神社 草津4-1-3
少し進み立木神社前交差点で県道141号線に出るとカラー舗装が終わる。渡って伯母川(志津川)を立木橋で渡ると少し先。神護景雲元年(767)創建。春日大社鹿島神宮を勧請する途中に立寄った地とされ鹿島の柿の木を植え根付いたことから立木神社と称した。祭神は武甕槌命。宝亀8年(777)光仁天皇が社殿を造営、長享元年(1487)鈎陣所の足利義尚が四脚門を寄進、正保2年(1645)膳所藩主・石川忠総が社領を寄進した。境内には明治初期まで神宮寺があった。境内右に昭和14年(1939)宮城遥拝所、昭和15年皇太神宮遥拝所、平成2年建立今上天皇歌碑、ゑびす神社、英霊殿、三社神社、天満宮、松尾神社。社殿右に大将軍神社など7社、社殿左に多賀神社など5社。他に弁財天、稲荷神社など
{右}立木神社 旧:追分道標
境内中ほどの右にある。延宝8年(1680)建立で草津追分道標の前にあった追分道標と推定され県内最古の石造道標で昭和57年市指定文化財。「みぎハたうかいとういせミち」「ひだりハ中せんとうをた加みち」とある。京都壬生村のあしだの行者万宝院という人物が伊勢神宮愛宕神社へ毎月7年間参詣し成就記念に建てた。県道141号線側の入口から続く参道を挟んだ隣に玉垣に囲まれた神木・ウラジロガシ(幹周6.3m樹高14m樹齢400年)があり平成3年県天然記念物。その右には句碑。道標後方には昭和44年「自然公園 立木の森」碑があり森は昭和61年市指定自然環境保全地区。その左には藤棚やベンチもある。神社の先は軍事上の配慮でゆるやかに蛇行する道になっており「遠見遮断」と呼ばれる。
{左}黒門跡
少し先で新草津川を平成9年竣工の矢倉橋で渡る手前の歩道脇に「黒門の由来」説明板と広重の絵がある。草津宿の西見附で文化14年(1817)頃に黒門があった。幕末期の宿役人・駒井興左衛門の記録では以前は手前の宮川に架けられた宮橋を渡った所に見附と黒門があったが見附石垣が壊れたためこの地に門が移築されたと言う。この付近には黒門川と呼ばれる小さな川が流れていたが現在は平成14年完成した新草津川(草津川放水路)により分断され1部流路が残るのみとなっている。草津宿の東見附は東海道のに坂口見附、中山道に追分見付(札の辻見附)があった。歩道向かいには新草津川が出来る前の昔の家の航空写真碑もある。
{左}法照山 光伝寺(光傳寺) [浄土宗]  矢倉1-5-43
橋を渡り矢倉(旧:矢倉村)に入るとある。承平年間(931-38)創建で元は釈迦堂と呼ばれ応仁の乱で焼失したが明暦年間(1655-57)に再興された。金勝山金勝寺[天台宗](荒張1394)別院の狛坂寺から観音像が盗まれ立木神社の森に捨てられていたところそこから夜毎にこの寺に光が射したことから光伝寺と呼ばれるようになった。本尊は平安時代の木造阿弥陀如来座像(高さ80.1cm)で明治33年(1900)国重要文化財。山門前左に明治37年「本尊國寶 阿弥陀如来」石柱、山門前右に昭和58年寺名石柱。山門入って右に昭和22年(1947)梵鐘がある鐘楼。境内右に昭和61年水子地蔵、昭和47年四国巡拝記念碑。本堂は平成元年築で本堂左前に記念碑がある。狛坂寺は明治初期に廃寺となっている。
{右}武甕槌神社 矢倉1-2-30
少し先にある。創建時期は不明で立木神社から分祀された。祭神は武甕槌命。本殿は一間社流造で間口2尺4寸(73cm)奥行4尺8寸(145cm)。境内には松、鳥居、狛犬、嘉永3年(1850)などの灯籠がある。少し先右の矢倉集会所(矢倉1-3-28)前には白塗地蔵の小祠がありさらに先右には明治2年(1869)創業の古川酒造(矢倉1-3-33)がある。代表銘柄は「宗花」だったが最近は「天井川」も使用している。
{左}兵庫山 養蓮寺 [真宗大谷派] 矢倉1-4-50
古川酒造向かいに昭和50年建立の「養蓮寺参道」小石柱があり左折正面。天平2年(730)創建で永正11年(1514)空西が再興し改宗した。本尊は聖徳太子作と伝わる阿弥陀如来。山門右前の寺名碑は昭和36年(1961)の建立。境内右に明治28年(1895)築の鐘楼がある。境内は他に本堂、庫裏、灯籠、手水石のみ。境内右にも入口があり昭和48年建立の寺名石柱がある。
{左・寄}石佛山 願行寺 [真宗大谷派] 矢倉2-8-61
養蓮寺境内横から出て道路を渡るとある。古くからあった石佛寺を元にして応永2年(1395)了観が創建した。本尊は阿弥陀如来。山門前右の寺名石柱は昭和35年(1960)の建立。山門入って右に鐘楼、左に「ほうりんげ」石柱、五輪塔。本堂前灯籠は昭和62年の建立。境内右に松、境内左に石仏5体が安置された三九郎大明神の小祠、多宝塔、手水石がある。東海道に戻り少し進むと右に白塗石仏3体が安置された小祠がある。
{右}矢橋(やばせ)追分 矢倉2-2-1
少し先の瓢箪細工・瓢泉堂前に寛政10年(1798)道標がある。「右 やばせ道 古蓮より廿五丁 大津船わたし」とある。手前の道が矢橋道で近江八景の1つ「矢橋帰帆」でも有名な琵琶湖岸の矢橋湊に通じていた。湊からは大津の石場の渡し場まで湖上50町(5.5km)の舟渡しがあった。陸路(3里)よりも短いため急ぐ旅人は舟渡しを利用したが比叡おろしの突風で進まないこともあり連歌師宗長が詠んだは「急がば廻れ」の語源にもなった。ここには江戸時代には広重の絵にも描かれたうばがもちや(現:大路2-13-19)があり俗謡にも謡われた。経営者が数度代わり明治25年(1892)草津駅近くに移転後に瓢泉堂が同じ矢倉から移転した。矢倉では江戸中期から瓢箪作りが始まり商う店も多かったが現在はこの店のみ
{左}稲荷神社 矢倉2-7-36
少し先を右折した左に小さな愛宕神社。さらに東海道を進むと左に白塗双体地蔵2体の小祠がある。少し先で左側に歩道が付き道幅が広くなり少し行くと右に白塗1体の小祠。さらに進むと稲荷神社がある。創建時期は不明だが元禄3年(1690)東海道分間絵図には記載がある。祭神は倉稲魂命。入口一番前の赤鳥居は平成21年。その後ろ右に昭和52年神社名石柱。参道には昭和後期から平成の赤鳥居が30基近く並び途中に昭和63年狛狐。参道を進み直進すると裏入口、その手前右に手水石、手前を左折すると覆屋下に天皇朝日大明神と伊吹大明神の社殿が並ぶ。社殿前の狛狐と赤鳥居も昭和63年建立。裏入口には昭和59年神社名石柱東海道は少し先の矢倉南交差点で国道1号とX状交差する。
野路一里塚(120)
渡ると矢倉から野路となり少し進むと上北池公園に突き当たり東海道は公園を通り抜ける。公園内通路両側に小さく盛土され松が植えられた塚があり右に平成10年「野路一里塚跡」石柱、左に「野路の一里塚」説明碑がある。右塚の横には「とうかいどう」石柱もある。本来の一里塚は少し手前にあったが明治14年(1881)頃に消滅した。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右は松1左は松3と記録されている。公園入口右には四阿があり天井には広重の行書版東海道の草津宿の絵もある。野路には古くは東山道野路宿があり宿駅遺構が発見されたJR南草津駅北側は東山道記念公園となっている。公園を抜けると道路(かがやき通り)に出るが横断できないため右の国道の野路町交差点の横断歩道で迂回する。
{左}本誓山来迎院 教善寺 [浄土宗鎮西派] 野路6-8-8
横断歩道を渡ると正面に平成9年藤木康成作のオブジェ「樹・人(ファミリー)」と矢印付「東海道」金属柱があり迂回して戻ったところにも矢印付「東海道」金属柱があり東海道に入ってすぐ。承応2年(1653)近くに住む遠藤権兵衛が出家し隨誉と称し敷地を寄進し開基、清誉浄雲が開山した。本尊は阿弥陀如来立像。石段を登り山門をくぐった左に「せいし丸さま」銅像。境内右に昭和55年石造聖観音。本堂前灯籠は昭和50年。本堂右の墓地入口に平成15年6地蔵。街道沿いの昭和14年(1939)寺名石柱の右に鐘楼がありその前には「草津歴史街道 東海道」説明板もある。近江湖南27名刹霊場第21番。びわ湖108霊場第101番。手前にののみち保育園(野路6-8-10)を併設。向かいには長屋門がある民家がある。
{右}清宗塚 
少し先。民家(遠藤家)の塀に「平清宗」「清宗」説明板があり庭を進んだ右奥の池の奥に五輪塔と説明立札がある。記帳書箱内に説明書もある。五輪塔左には稲荷神社の祠も2つある。元暦2年(1185)壇ノ浦で敗れ捕らえられた平宗盛、清宗親子は鎌倉に護送され京へ戻る途中に斬首された。吾妻鏡には東山道篠原宿(現:野洲市篠原)で橘馬允公長が宗盛を、野路宿口にて堀弥太郎景光が清宗を斬首したとありこの地に清宗の供養碑が建てられた。篠原にも宗盛、清宗親子の胴塚がある。民家の門左には市保護樹木であるアベマキ(樹齢150年幹周2.6m高さ17m)エノキ(樹齢100年幹周2.6m高さ18m)もある。遠藤家は教善寺を開基した遠藤権兵衛の子孫で現在は裏にある南草津病院を経営している。
{左・寄}玉川山 浄泉寺 [真宗大谷派] 野路6-11-26
少し進み左に駐車場がある角を左折すると正面。山門手前に昭和23年(1947)寺名石柱がある。長禄4年(1460)野路城主・黒川宗次が本願寺8世蓮如に帰依し圓實と称し城の一角に十禅念仏道場を建立したのが起こりで16世紀始めには現寺号となった。本尊は阿弥陀如来。長禄4年蓮如の裏書がある方便法身尊号、室町時代の6字名号も所蔵する。境内左に本堂、庫裏、右に多宝塔、平成6年灯籠、鐘楼などがある。野路城は遺構もなく詳細は不明だが建武3年(1336)小笠原貞宗が在城した記録があり戦国時代に廃城となったとされる。
{左}新宮神社入口
1軒置いた先。平成15年建立の鳥居前に文政8年(1825)灯籠、左に大正5年(1916)神社名石柱、右に昭和42年「都久夫須麻神社」神社名石柱がある。鳥居をくぐった右に白塗地蔵十数体の祠もある。神社(野路6-14-13)は150m先左。天平2年(730)行基が野路寺(現:常徳寺)を創建した際にこの地に神籬を立て鎮護の神としたとされ宝亀元年(770)藤原為亮が社殿を建立し野路神社とも称した。祭神は速玉男命と事解男命。現本殿は改造されているが大永3年(1523)建立で大正12年国重要文化財。参道左の門は膳所城水門の移築。参道入口に宝暦3年(1753)常夜燈など。狛犬は元治元年(1864)など。他に参集殿、神輿庫、会館。境内社は都久夫須麻神社など5社。森は平成6年市指定自然環境保全地区。
{右}白萩山 願林寺 [真宗大谷派] 野路5-6-23(野路町1493-1)
少し先。昭和39年(1964)寺名石柱が街道沿いにあり右折正面。参道左には白塗石仏が1体ある。永正9年(1512)祐正が本願寺9世実如から方便法身尊形(阿弥陀如来画像)を下賜され道場を開いたのが起こり。本尊は阿弥陀如来。山門は膳所城の長屋門を移築したとされ昭和62年補修された。本堂は昭和58年と平成12年に改修。本堂右前に親鸞聖人像。本堂前の灯籠は昭和22年。本堂左前に鐘楼があり江戸中期の築とされ基礎の石積の石は門徒が持ち寄ったものとされる。石積の上には白塗石仏5体もある。境内左には多宝塔、手水石。境内右から中央にかけて2本の松が枝を張っている。
{右・寄}八幡神社跡
少し先の右に昭和3年(1928)「野路在郷軍人用地」石柱がある角を右折して行くと右にある。敷地的には願林寺の隣で「願林寺南側駐車場」になっており隅に昭和8年建立の「八幡神社舊跡」石柱と昭56年設置の説明板がある。この地にあった八幡神社は大正5年(1916)本殿が新宮神社に移築され境内社となった。拝殿は玉川山常徳寺[曹洞宗](野路8-1-11)に移築されている。創建は寛平元年(889)で祭神は応神天皇。東海道沿いにあったため信仰を集め一時期は敷地が3haあったと伝わる。この先は古い民家もある狭い道を進んで行く。
{右}子守地蔵
新しい住居が並ぶ広い道になると少し先。平行する2本の道に挟まれた敷地に煉瓦祠が東海道に背を向けてあり中に白塗石仏が5体ある。参勤交代で江戸に向かう肥後国の大名が通った際に列の邪魔をしたとして斬殺された母子の供養のため里人が双体地蔵を安置したのが起こりで「子供を守る子守地蔵」と呼ばれ信仰を集めた。兜虫を捕ろうと飛び出した4歳の男児が侍にぶつかったため斬られたと伝わる。翌年斬った侍が江戸から戻る途中に地蔵を見つけ十禅寺川に投げ捨てたが里人が拾い再び祀ったとも言う。白塗の地蔵は他にも草津周辺に広く分布し野路には130体以上あり毎年8月24日(地蔵盆)には近隣の子供達が地蔵に石膏を塗り顔を描く風習がある。少し先には庭園風の敷地に小祠2つある。
{右}「野路 萩の玉川」名泉跡
少し先で県道43号線を渡った先で十禅寺川も渡るとある小公園。古くから十禅寺川の伏流水が湧き出る泉があり清く澄んだ川(玉川)が流れ名所として有名だったが江戸末期には埋もれたとされる。歌枕として詠まれた日本6玉川の1つで広重も「諸国六玉川」として絵を描いた。公園は昭和51年に野路町内会が整備したもので復元された泉もある。他には千載和歌集収録の源俊頼の歌「あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり」が刻まれた「玉川」石柱、昭和51年「野路 荻の玉川」石碑、四阿、「古き宿駅 野路駅の名残り」説明立札、昭和51年「野路 萩の玉川」説明板がある。敷地奥の畑には小祠、敷地先には白塗石仏の小祠もある。昭和56年選定の草津8大名所の1つ