東海道ルートガイド
石部宿

{右・寄}平松山 西照寺 [浄土宗] 平松310
少し先の横断歩道がある十字路左の民家塀に「松尾神社」「南照寺」「西照寺」の看板があり左折していくと右。天文6年(1537)応誉明感が創建。本尊は阿弥陀如来座像。本尊右の木造阿弥陀如来立像は室町時代作で昭和48年市指定文化財。江戸時代には平松地区の寺子屋が開かれ現在の三雲小学校(夏見1857)の前身となった。山門前右に昭和32年寺名石柱と左右に嘉永5年(1852)などの石塔墓石3基。山門入って左に子安地蔵、平成3年多宝塔。本堂には「西照教寺」扁額が掲げられ本堂前灯籠は昭和60年。境内左に鶴亀が置かれた池付きの庭もあり右の石段を登ると観音堂、享保12年(1727)梵鐘がある鐘楼、石仏群。その近くには昭和55年建立の芭蕉句碑「ものいへば 唇寒し 秋の風」がある。
{右・寄}美松山 南照寺 [天台宗]&松尾神社 平松264
西照寺の前を過ぎさらに少し進むと正面。鳥居をくぐり参道を進み山門をくぐると左に百度石、右に寺の本堂、庫裏、神社社務所があり中央に神社の拝殿、本殿がある。寺は延暦24年(805)伝教大師の創建で弘仁10年(819)には阿星山の麓にあった。天正3年(1575)現在地に移転。本尊は薬師如来。近江湖南27名刹霊場第12番。甲賀准四国71番。びわ湖108霊場第92番。神社は仁寿3年(853)藤原頼平が京都の松尾大社を美松山に勧請し至徳3年(1386)現在地に移転した。祭神は大山咋尊、天忍日命、道臣神。本殿は文政4年(1821)築。拝殿前灯籠は文政9年。境内左に三宝大荒神、天満大自在天神、境内右奥に稲荷神社、愛宕大権現。社務所前に自然石の芭蕉句碑「西行の 庵も有らん 花の庭」がある。
{左・寄}美松(ウツクシマツ)自生地 平松541
南照寺山門前の石段手前を右折し道なりに左にカーブして登り砂利道から舗装道に合流ししばらく進み東山台の住宅街に入って少し先の2叉路を右折して住宅街を抜けると右に広場がある。美松山(標高226.6m)南東斜面のこの一帯1.89haに大小200本以上が自生し大正10年(1921)国指定天然記念物。広場奥にある松の前に説明板が2枚ある。太い幹がなく根元から多くの幹が箒状に出ている松で赤松の変種で劣性遺伝する。雌花が枝の先端だけでなくその春伸びた枝の途中にもできる、球果(松ぼっくり)が小さい、3針葉ができることがあるなどの特徴もある。自生で群生する国内唯一の場所で江戸時代も名所であり広重も隷書版の水口宿として描いた。さらに奥には遊歩道があり四阿やベンチもある。
{右}松香山 浄休寺 [真宗大谷派] 平松470
西照寺へ向かう十字路のすぐ先左には紅殻格子の民家があり少し進むと左にブランコや鉄棒すべり台がある小公園。さらに少し行くと街道沿いに昭和53年建立の寺名石柱があり右折し正面に山門がある。創建時期は不明で天正元年(1573)に俊哲が中興し元和5年(1619)現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。さらに先にしばらく進むと平松から柑子袋(こうじぶくろ)となる。
{右}平等山 愍念寺(みんねんじ) [真宗大谷派] 柑子袋695
しばらく進んで行くと右のJAこうか柑子袋支所(柑子袋785)の先にある。街道沿いに昭和43年建立の寺名石柱、小さな松、湖南市コミュニティバス仲町バス停があり右折正面に山門。創建時期は不明で文亀元年(1501)に教西が中興した。元は八島寺の塔頭だったが改宗した。本尊は阿弥陀如来。山門入って左に手水石。境内右に鐘楼、境内左に本堂、正面に庫裏。境内中央には松が2本あり1本は枝が横に大きくアーチ状に伸びている。江戸時代には柑子袋地区の寺子屋が開かれ現在の三雲小学校(夏見1857)の前身となった。
{右}紫雲山 光林寺 [浄土真宗本願寺派] 柑子袋780
少し先にある。建長4年(1252)青木民部の創建で元は天台宗だったが文明9年(1477)蓮西が改宗した。本尊は阿弥陀如来。山門右に昭和58年建立の寺名石柱。境内は本堂、庫裏のみで中央に松2本。寺の南400m先の山には柑子袋墓地を挟んで丸岡城と東丸岡城があった。治承4年(1180)頼朝に従って軍功を立てた青木藤兵衛頼忠が文治元年(1185)に地頭に任ぜられ建久年間(1190-98)に築城した城で青木氏は室町後期には甲賀53家の1つとなったが元亀年間(1570-73)信長に下り天正13年(1585)秀吉により改易となった。
{左・寄}八島寺(八嶋寺)地蔵堂
光林寺向かいに「旧法相宗 八島寺 地蔵堂」石柱があり左折し突き当たりを左に行くとある。八島寺は観音寺[天台宗](夏見1753)の前身である光明寺[法相宗]の別院で大きな寺だったが現在は地蔵堂が残るのみ。堂前に寛政8年(1796)建立の灯籠2基、右に愛宕神社、左に弁財天の小祠があり弁財天前には少し上部が欠けた「従是西淀領」傍示石もある。敷地奥には柑子袋会館、左にすべり台、ブランコ、鉄棒がある広場がある。
{右・寄}白雲山 養林寺 [浄土宗鎮西派] 柑子袋703
少し先の細道を右折すると正面。正暦2年(991)心晃が天台宗の専称院として創建したのが起こり。応仁2年(1468)西阿弥が再興改宗し白雲山専称院養林寺とし天和7年(1621)清玄が現在地に移転し再興した。山門前の道は砂利道。山門右前に平成2年建立の寺名石柱。境内は本堂、庫裏、本堂前灯籠のみで現本堂と山門は平成18年築。本尊の平安末期の木造阿弥陀如来立像(高さ39.1cm)は平成10年市指定文化財。他に応仁2年再興時の山号額、文七如来と呼ばれる阿弥陀如来座像を所蔵する。光林寺南400mにあった丸岡城は別名を養林寺城と言った。
{左}常楽寺題目塔
しばらく進み右から道が合流し街道が左にカーブするところにある。3面に題目が刻まれ裏面には「従是阿星山西寺江十八町 近江順礼一番札所」とあり東南2kmにある阿星山常楽寺[天台宗](西寺6-5-1)への道標にもなっている。寺は和銅年間(708-15)良弁の創建で焼失後の延文5年(1360)観慶が再建。本堂と三重塔は国宝で本尊千手観世音菩薩座像、28部衆像、雷神像、絹本著色浄土曼荼羅図、金銅飲食器など国重要文化財も多く所蔵。近江西国33ヶ所霊場第1番、近江湖南27名刹霊場第15番。西寺と呼ばれ同じ阿星山(標高693m)の麓には東寺と呼ばれる阿星山長寿寺[天台宗](東寺5-1-11)もあり岩根山善水寺[天台宗](岩根3518)と合わせ湖南3山とされる。題目塔の隣には小さな手水石もある。
{左}上葦穂(かしほ)神社入口
少し先に昭和17年(1942)神社名石柱、昭和15年常夜燈がある。神社(柑子袋931)は左折200m突き当たり右折すぐ左折200m先右。白雉元年(650)に南3kmの阿星山に祀られたのが起こりで天智天皇の代の9年(670)現在地に社殿が創建されたと伝わる。江戸時代には白雉大明神と呼ばれた。祭神は伊邪那岐命、国常立尊。境内社に若宮八幡宮、八幡宮、天満宮、多度社。境内奥に「従是東淀領」境内左に「従是東本多伊豫守領」「従是西本多伊豫守領」傍示石がある。境内奥に明治14年(1881)神社名石柱。狛犬は昭和34年。境内左の社務所横に子安地蔵堂があり明治6年(1873)まで境内にあり廃寺となった阿星山円福寺の本尊で昭和48年市指定文化財の木造地蔵尊立像(高さ140cm)を安置する。
{左・寄}吉姫の里 あけぼの公園
しばらく進み落合川を落合川橋で渡ると左に「これより石部宿」木製筆書立札があり柑子袋から石部東に入る。石部東交差点を渡り少し先左に道祖神の祠。その先の十字路を左折すると少し先右に公園がある。平成14年開園で宮の森古墳を含んだ丘陵地にあり面積2.2ha。敷地が吉姫神社に接していることから吉姫の里と総称し21世紀初頭に開園したので「あけぼの公園」命名された。古墳は5世紀頃の前方後円墳で前方部は失われ後円(直径55m高さ10m)部のみ残り明治29年(1896)頃に刀剣、昭和33年(1958)に埴輪が出土している。
{左}石部宿東見附跡
少し先左の目川米穀店手前の駐車場の電柱横に京側を向いて「見付」木製筆書立札があり下に説明板もある。この付近に見附土居があり内側に目見改場もあった。広重の行書版東海道の石部宿は見附付近の様子を描いている。ここから西見附跡までの間が石部宿内となり東から東清水町、中清水町、西清水町、小池町、鵜ノ目町、大亀町、谷町、中町、出水町、平野町、上横町、下横町と進み町並は15町3間(1.64km)だった。石部の東海道沿いの街灯柱には江戸時代の旅人をモデルにし道中合羽に三度笠をかぶった石部宿マスコットキャラクター(ゆるキャラ)「いしべえどん」の看板が付けられている。
石部宿   本陣2脇本陣0旅籠32家数458人口1606[天保14年(1843)]
長治2年(1105)と嘉承2年(1107)に伊勢勅使に命じられた源雅美が石部駅家を利用したとの記録があり室町時代には足利義満が伊勢参宮の途中に宿泊した。秀吉の時代には家康の支配下で代官・吉川半兵衛が居を構え元亀2年(1571)5つの村が合併し慶長6年(1601)東海道の整備で宿場となった。京都から出発して最初に日が暮れる場所にあり「京立ち石部泊まり」と言われ宿泊客で賑わった。浄瑠璃「桂川連理柵」では主人公のお半や長右衛門が宿泊した宿場となっている。明治22年(1889)石部村、東寺村、西寺村が統合し石部村となり明治36年に石部町、平成16年甲西町と合併して湖南市となった。
{左}吉姫神社 石部東8-4-1
少し行くとある。創建時期は不明で現在は御旅所となっている上田の地にあり上田大明神と称した。明応年間(1492-1500)焼失し天文3年(1534)現在地に移り明治元年(1868)吉姫神社になった。祭神は上鹿葦津姫、吉比女大神で木花咲耶姫を配祀。明治37年(1904)鳥居前の灯籠は明和9年(1772)。参道左に中清水町集会所、石仏群、石段上に愛宕大明神。石橋を渡り大正4年(1915)石造土台上の木製鳥居をくぐると右に社務所、参集殿。境内左に平成18年「敬神生活の綱領」碑、神水の泉、稲荷神社、神楽殿。社殿前灯籠は天保3年(1832)。本殿は天文3年築で左に出世天満宮、右に世継神社。上下2社から成る式内社の石部鹿鹽上神社の上社(女神)とされ下社の吉御子神社(男神)と対の関係にある。
{左}清水山 西福寺 [真宗大谷派] 石部東8-2-3
少し先右に石仏の小祠がありしばらく行くとある。明応7年(1498)に浄斎が創建した。本尊は阿弥陀如来。寺名石柱は昭和48年の建立。ゆるやかな石段を登るとある山門は京都御所の薬医門の1つを弘化2年(1845)に移築したもので右柱の上に「京都御所薬医門下賜移築」などと書かれた木札もある。山門前左下には白く塗られた石仏4体を安置する小堂がある。山門入った左に、昭和60年建立の親鸞銅像。境内左に鐘楼、石仏3体。本堂前灯籠は平成12年の建立。境内奥の井戸跡の近くに平成11年手水石もある。
{左}高札場跡(道の辺広場)
しばらく進むと石部中央交差点の手前角にある小公園の前に「御高札場」木製筆書立札がある。江戸時代には交差点付近に人足寄場が前に高札があった。公園は平成12年に道の辺広場(石部中央ポケットパーク)として整備された。入口には木造火袋付の新しい常夜燈2基があり1つは時計台にもなっている。公園内左の白壁には3枚の絵石板があり左から広重の石部宿の絵、長寿寺(東寺)、常楽寺(西寺)。広重の絵の横には真明寺の芭蕉句碑と同じ句「都つじいけて その陰に 干鱈さく女」も刻まれている。絵石板の右端の前には石部宿の説明碑。公園内には他に石ベンチ、灯籠がある庭園、四阿もある。交差点の手前両側には「香の泉」を造る明治5年(1872)創業の竹内酒造(石部中央1-6-5)もある。
{右}問屋場跡 石部中央4-2-28
交差点を渡ると小林菓舗前のカーブミラー横に「問屋場」木製筆書立札がある。人足寄場(高札場)向かいに石部宿の問屋場があった。享和3年(1802)の記録では問屋役3人に年寄、書役、馬指、人足割役などが2人ずつおり交替で勤務していた。幕末には問屋場斜め向かいには旅籠蛭子や文八があり現在も向かいに「えびすや」の屋号を掲げた建物がある。少し先右の山元楽器店石部会場(石部中央4-2-37)付近には三大寺小右衛門本陣があった。三大寺本陣は寛永5年(1628)三大寺信尹が初め明治まで続き部屋数25畳数232.5畳建坪138坪(456平方m)門構玄関付。石部宿の本陣は他に小島本陣があり脇本陣はなかったが石部一里塚の手前にあった旅籠の橘屋が幕末頃に脇本陣の役割を果たした。
{左}いしべ宿驛(石部宿駅)
しばらく進むとある。平成14年に建てられた休憩所で小島本陣跡の敷地の1部にあたる。1階は囲炉裏がある板間で観光客の休憩に利用され2階は畳と板間で近隣住民の会合などに利用される。1階には土間に竈も再現され古い食器や絵、壁には文久年間(1861-63)と嘉永年間(1848-54)の宿場町並図や本陣宿泊大名などの資料も展示されている。タッチパネル式情報端末もある。建物前には「←水口宿三里半」「→草津宿三里」と縦に並び書かれた木柱と「歴史の道 東海道」金属製立札がある。
{左}小島金左衛門本陣跡
少し先の民家前に昭和6年(1931)「明治天皇聖蹟」石柱、「東海道石部宿 石部本陣跡」小石柱、平成9年説明立札がある。江戸初期までは代官・吉川半兵衛の屋敷があったとされ慶安3年(1650)小島家が屋敷を建て承応元年(1652)本陣に任命された。文久3年(1863)上洛する14代家茂が宿泊、同年上洛する一橋慶喜が休憩、元治元年(1864)江戸に向かう近藤勇が宿泊。明治天皇が明治元年(1968)9月と12月に宿泊、明治2年と明治13年に休憩した。部屋数26畳数173.5畳建坪262坪(866平方m)表門、裏門2つ、番所、玄関があった。大正8年(1919)には水口区裁判所石部出張所も置かれたが建物は昭和43年に取り壊された石部宿場の里の資料館に1/20建物模型、宿帳、関札などが展示されている。
{左・寄}金谷山 浄現寺 [真宗大谷派] 石部中央3-15-5
1軒挟んだ先の角に平成11年建立の小さな寺名石柱があり左折して坂を登って行くとある。途中右には小堂もある。永正15年(1518)了法が創建し享保元年(1716)現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。平成18年築の山門手前の寺名石柱は昭和56年建立で山門前灯籠は天保9年(1838)建立。山門左には鐘楼がある。境内の灯籠は平成10年の建立で境内右には石渓先生碑がある。開創500年に向け平成18年から境内大改修工事をしており本堂は平成21年現在新築工事中。
{左}平野山 明清寺(めいしょうじ) [浄土真宗本願寺派] 石部中央3-15-45
少し先に昭和56年建立の寺名石柱があり左折し川沿いの砂利道を進むと山門。創建時期は不明で念正の創建とされる。山門左に櫓がある。境内入って左に鐘楼があり横には鬼瓦が置かれている。本堂前灯籠は平成9年の建立。本堂左前に平成15年手水石、本堂右前に昭和58年本願寺24世即如お手植え松がある。境内右にはイチョウもある。
{左・寄}青木山 真明寺(しんみょうじ) [浄土宗] 石部西1-5-23
少し先の角に木製の看板があり左折正面に山門。慶長2年(1597)蓮幸が創建した。室町時代にあった青木右衛門佐の城館(青木城)跡とされる。山門前左の寺名石柱は昭和57年の建立。山門入って左に昭和11年(1936)宝篋印塔、地蔵、石仏20体、五輪塔3基。境内左に寛政8年(1796)建立の芭蕉句碑「つゝじいけて その蔭に干鱈 さく女」がある。褐色の自然石で縦書きで左から読むが文字が風化しており判読が難しい。貞亨2年(1685)「野ざらし紀行」と同じ旅の途中に石部付近で詠んだ句とされ「泊船集」に収録されている。句碑右には文政6年(1823)山中宗齋墓。境内奥の石段途中左に六字名号碑。登ると鐘楼、天満宮、愛宕神社、安永9年(1780)や文政8年の灯籠、墓地がある。
{左}田楽茶屋 石部西1-8-19
少し先の角にある。平成15年開館した休憩所・食事処で広重の石部宿の絵に描かれた目川立場の田楽茶屋を模して建てられた。目川は田楽豆腐、菜飯が有名で石部宿内や江戸にも出店していたと言う。入口右に庶民の使う駕籠が展示されており立場茶屋の説明立札もある。建物は木造平屋建で建築面積81.49平方m。畳席8、椅子席15、外にベンチ席もある。宿場御膳700円、宿場そば400円、茶店うどん400円、コーヒー280円など。9時-16時月休。タッチパネル式情報端末もある。前には木製火袋が乗った新しい常夜燈があり「京へ 右 東海道」木札も付いており東海道はこの角を右折する。
{左・寄}吉御子神社(よしみこ) 石部西1-15-1
右折せずに直進した少し先の突き当たり左。崇神天皇の代の68年(紀元前30)石部山に吉比古、吉比女神を祀り弘仁3年(812)現在地に移転し承平5年(935)吉御子神社と称した。祭神は吉彦命、鹿葦津姫命、吉姫命で誉田別命、猿田彦命を配祀。入口左に昭和3年(1928)「内侍所御泊輦遺跡」石柱。参道には平成の献燈が並び途中には文政10年(1827)灯籠、左に平野町集会所・老人憩の家。本殿前に天保年間(1830-43)の灯籠が8基並ぶ。本殿は京都の上賀茂神社旧本殿を慶応元年(1865)移築したもので大正10年(1921)国重要文化財。本殿内陣の木造吉彦命座像と2体の木造随神座像は平安時代の作で明治42年(1909)国重要文化財。本殿左右に金銀の狛犬。吉姫神社(女神)とは対の関係にある。
{左・寄}石部宿場の里・湖南市東海道歴史民俗資料館 雨山2-1-1
神社参道途中を右折するか社殿左の山道を登り本殿の裏を抜けるかして神社北にある車道に出て左折し1kmほど登っていくと雨山文化運動公園内にある。農家家屋、旅籠、米問屋、茶店、一里塚を復元し宿場町を再現している。膳所藩が建てた安民米倉庫、農民指導者・大原幽学の居宅(八石教会所)などもある。奥の資料館は昭和60年開館で町内出土品、小島本陣資料、宿場ジオラマ、大名駕籠、道具類などを展示。資料館前には多行松、ウツクシマツ、近隣から移した石橋、門柱、灰山産出の岩、旧:石部町の歌碑、微章碑、町民憲章碑などもある。9:00-16:30月休、共通320円。運動公園には昭和61年全国森林浴の森100選に選ばれた臥龍の森もあり53次宿場の立札が立てられたどると1周できる。
{右}石部一里塚跡(116)
田楽茶屋前を右折して進むと左に明治43年(1910)創業の谷口長栄堂(石部西1-8-13)がありさらに進み突き当たりを左折するのが東海道。左折する数軒手前右には幕末頃に脇本陣の役割もした旅籠の橘屋市左衛門があった。左折し少し先の民家前に「一里塚」木製筆書立札がある。石部一里塚は宿場の中にあり文久年間(1861-63)や嘉永年間(1848-54)の宿場町並図にも記されている。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも榎1と記録されている。
{右}石部宿西見附跡
少し先で石部西交差点を渡ると児童公園前に「見付」木製筆書立札がある。公園内には鉄棒、すべり台、ブランコ、シーソー、ベンチなどがある。先を進むと右には前に鉄柵の門がある小さな愛宕神社。その先で正面に三上山が見えるようになりしばらく進んで右の石部駅前バス停の先の角を右折して行くと明治22年(1889)開業のJR石部駅(石部西3-5-35)。駅前には東海道をイメージした小公園があり入口には柱に「東海道五十三次」「石部宿」とあり左右に関連浮世絵が掲示された冠木門がある。公園内には昭和61年建立の石部が詠まれた詠み人知らずの万葉歌碑「白真弓 石邊の山の 常盤なる 命なれやも 恋ひつつ居らむ」、平成7年手づくり郷土賞の受賞碑などもある。
{左}西縄手跡
石部駅前バス停から少し行くと小公園があり入口横に西縄手の説明立札がある。江戸時代はこの先は長い松並木が続いていて西縄手と呼ばれた。江戸方面に向かう大名などは石部宿に入る手前にあたるためこの付近で列を整え宿内に入ったとされる。立札左には木製火袋を乗せた新しい常夜燈があり土台に「東海道石部宿」「右 草津宿」「左 水口宿」などとある。公園奥には大きな横長の「東海道五十三次図」黒石碑があり日本橋から三条大橋までの街道図に宿場名と広重の絵16枚が彫られている。公園内左には四阿もある。公園前には町制100周年記念事業で平成15年に植えられた若い松並木(8本)があり公園の先左にはさらに小さな松の並木(12本)がある。
東海道分岐(2つの東海道)
松がなくなる少し先で道は右にカーブしすぐに村井川を平成9年竣工の第3号町道橋で渡り左折する。本来はカーブせずにまっすぐ進んでいた。左に宮川が沿う道をしばらく進み左のゴーシュー(石部緑台2-1-1)手前を左折し平成11年竣工の五軒茶屋橋で宮川を渡るのが東海道。右には「これより石部宿」木製筆書立札がある。直進する道は天和3年(1683)野洲川の洪水で通行不能となるまでの東海道で膳所藩主・本多康慶の命で左の道が18町8間(1.9km)の新道として開かれた。後に直進も復旧し左の道を上道(本道)、直進を下道(脇道)と呼び併用された。正式な道は左だったが旅人の多くは遠回りを嫌い下道を通ったため近道禁止令が出されたこともあったと言う。明治になると下道が正式な東海道となった。
{左}灰山
左折して行くと左方向に採掘場として削られている山が見える。付近一帯の山は石灰岩を産し石灰の材料になることから灰山と呼ばれている。石灰岩の他にも水亜鉛銅鉱、黄銅鉱、赤銅鉱、ベゼリ石、灰鉄輝石、石榴石、菱亜鉛鉱、水亜鉛土、硫カドミウム鉱、燐銅鉱など多種の鉱物が産出される。石部は聖武天皇の時代から銅を産出していたと伝わり石部金山と呼ばれ考えが堅くて融通のきかない人を指す言葉「石部金吉」の由来にもなった。しばらく進むと右にカーブする付近に五軒茶屋集落がある。上道開通後に山間を通る道の治安のため石部宿内から5軒の家を移住させたのが由来。集落を抜けしばらく進み左の湖南市資源再利用工場(石部緑台2-11-1)の先で左から道が合流する角で栗東市となる。
{右}近江富士(三上山)
少し先の2叉路を右に下り名神高速道路をトンネルでくぐり右折する。この辺りの東海道は高速道路のため消滅している。高速横のゆるやかな下り坂を進むと正面には三上山(標高432m)が見える。近江富士と呼ばれる円錐形の山で古くから信仰の対象とされ紀元前100年頃には山頂の磐座に天之御影神が祀られ養老2年(718)麓に社殿が造営され御上神社(野洲市三上838)となった。百足山とも呼ばれ大百足が住んでいたとの伝説があり承平年間(931-38)に瀬田川の龍神に退治を頼まれた藤原秀郷(俵藤太)が弓で射止めたと言う。天保13年(1843)天保義民の決起では検地役人との交渉の地となった。東海道は左に株式会社エコー(伊勢落452)がある十字路で右から来る下道と合流し左折する。
{左}弁天山 徳生寺 [浄土真宗本願寺派] 栗東市伊勢落52
しばらく進み集落に入り少し先にある。付近に開かれていた浄土真宗の道場が発展し宝暦2年(1752)宗欽が寺として創建した。本尊は阿弥陀如来像。山門前右に昭和44年建立の寺名石柱。境内に入ると昭和38年灯籠がある。境内右には鐘楼、10基近くの石仏石塔群、多宝塔、五輪塔4基、自然石の常夜燈。本堂右の鎌倉後期の宝篋印塔(高さ223cm)は平成19年市指定文化財。他に寛正3年(1462)十字名号、寛保元年(1741)証文文書などの古文書も所蔵する。江戸時代には疱瘡などに効く薬「免痘散」を寺で製造販売しており効能などの説明書の版木が栗東歴史民俗博物館に現存する。
{左・寄}寿泉神社 伊勢落69
宝篋印塔の横から寺横の道に出て左折すると突き当たり右にある。伊勢落の東の氏神。鳥居は大正7年(1918)。参道には平成の献燈が並ぶ。境内右に昭和3年(1928)御大典記念碑、境内左に東山明神、坂田宮山津照明神に通じる山道。拝殿前狛犬は昭和8年、本殿前の狛犬は昭和15年。本殿柵内には3つの社殿があり左前には近江では珍しい六面石幢がある。灯籠のような形で火袋の代わりに六角面に1面ずつ地蔵が彫られている。他に境内には昭和11年、昭和48年、平成16年の灯籠などがある。
{右・寄}伊勢斎宮禊祓所旧跡
徳生寺向かいの道を右折し四ツ橋踏切でJR草津線を渡りすぐ右折し線路沿いの農道を行くと小高い山上に金属製の鳥居と石柱がある。古くは伊勢へ向かう斎王が禊をした場所があったとされる。寛永11年(1634)洪水で流れてきてそのまま根付いた「伊勢落の千本松」があり目印だった。ウツクシマツのように多くの幹が出ていた松は昭和43年市指定天然記念物だったが昭和55年に枯れ現在は小さな松が植えられている。伊勢落(いせおち)の地名は中山道方面から伊勢神宮参りに行く際に中山道の伊勢村(現:守山市伊勢町)からの伊勢道が伊勢落村付近で東海道に合流していたため「(中山道から)伊勢方面に落ちる」という意味があるとされる。伊勢大路と呼ばれた東海道の古名が転じたという説もある。
{左・寄}日向山 眞教寺(真教寺) [浄土真宗本願寺派] 伊勢落293
少し先左に紅殻格子の民家がありしばらく進むと右に「東海道伊勢落村牛乳商 塚本博愛堂跡」屋号札がある民家もある。小さな道が左に分岐する2叉路を右に進み少し先を左折すると正面。徳生寺と同じく付近にあった浄土真宗の道場が発展して創建されたとされ延徳2年(1490)浄願が開基し同年の裏書がある方便法身尊像も現存する。本尊は慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来像。享保4年(1719)木仏安置許状も所蔵。山門前の寺名石柱は昭和56年の建立。山門入って左に平成13年築の鐘楼、その裏には40基ほどの石仏。境内右に15世浄円、山門前左に16世浄覚の記念燈。境内左に龍谷大学学長、浄土真宗本願寺派勧学寮頭も歴任した18世武邑尚邦(平成16年没)の顕彰碑がある。
{左}栗太八景漢詩碑「伊勢落晴嵐」 伊勢落300
少し先に平成21年建立の碑(高さ1.5m)がある。寛延3年(1750)慶崇寺[浄土真宗本願寺派](大橋1-4-11)10世致遠(素月)が選定した近隣の名勝「栗太八景」は平成5年に致遠の漢詩(七言絶句)が書かれた文書「栗太八勝誌」が発見されたため平成11年から関係各地に詩碑が建立された。ここは8基目で最後の建立。碑の側面には景色をイメージした墨絵も嵌められている。背後には石仏の小祠もある。八景は他に蓮台寺晩鐘(下鈎)赤坂帰樵(小野)上野夜雨(林)金山暮雪(伊勢落)松島秋月(不明)手原行人(手原)砥山夕照(上砥山)。旧:栗太郡は明治22年(1889)15村で発足し現在は草津市、栗東市、守山市、大津市となっているが八景は不明を除き全て現:栗東市内。平成元年には新たに栗東八景も選定された。
{左・寄}岩上神社 伊勢落265
1軒先を左折すると小さな川を渡った左右に灯籠があり直進すると正面。伊勢落の西の氏神。日向山の巨岩の上に祀られたのが起こりで山頂に社殿も建立されたが文明3年(1471)兵火で焼失し永正元年(1504)現在地に移転した。正月、5月、10月には米粉を湯で練った粢(しとぎ)を細かくちぎり本殿の板格子の隙間から参拝者に配る「岩上講」「団子祭」と称する神事が行われる。境内右に井戸跡、明治9年(1876)手水石。境内左はゲートボール場、境内はグランドゴルフのコースになっている。神社の背後にあるのが日向山(標高222.9m)で神社移転後の戦国時代には六角氏の家臣・高野氏が築城した多喜山城跡が山頂にあった。現在は江戸時代に雨乞いのため建てられた龍王宮の小祠が山頂にある。
{右}「新善光寺」石柱
少し先で伊勢落から林に入り右の紅殻格子の民家の先の角に石柱がある。正面に「新善光寺」左面に「如来堂」右面に「信州善光寺一躰分身の如来」とある。右折する細道が九品山新善光寺[浄土宗](林256)への1つ目の参道で100mでJR草津線を渡り左にカーブしながら200m進むと右に寺がある。平重盛の末裔・小松左衛門慰尉宗定がこの地に逃れ住み高野宗定と名乗り建長5年(1253)創建した寺で平家一門の菩提を弔うため信州の善光寺へ12年かけて48度参詣した際に夢告を受け創建したと言う。安置する宗定御影は秘仏で50年に1度の開帳。東海道名所図会には「信州善光寺如来と同体なり」とあり信州に行けない参拝客で賑わった。近江湖南27名刹霊場第19番、びわ湖百八霊場第99番。
{右}楞厳山(りょうげんざん) 長徳寺 [浄土宗本願寺派] 林34
少し行くとある。永正16年(1519)晴雲が創建した。永正16年(1519)本願寺9世実如の裏書がある方便法身尊像、室町時代の紙本墨書6字名号を所蔵する。街道沿いには昭和57年建立の寺名石柱、平成18年建立の栗太八景漢詩碑「上野夜雨」(高さ1.5m幅1.2m)、薬師如来堂、「従是東膳所領」傍示石。境内左に昭和28年(1953)慰霊碑、井戸跡、長徳寺会館、親鸞銅像、23体の石仏群、昭和36年寺名石柱。本堂手前には小さな川が流れており庫裏の下を通っている。この付近の東海道には木製屋号札が掲げられており平成6年に葉山東小学校(小野320)学区の住民が80枚設置したのが起こりで平成18年にNPO法人「街道をいかしたまちづくりの会」(手原3-10-25)が設立され全市的に広がっている。
{右}「新善光寺道」道標
少し行くとある。右面に「是より一町餘」左面に「信州ぜんこう寺 一躰分身の如来」とある。横には「新善光寺 300m→」看板もある。新善光寺への2つ目の参道で100mJR草津線を渡り進むと正面。現本堂は明治25年(1892)築で山門と共に平成10年国登録文化財。所蔵する南北朝時代の木造阿弥陀如来立像(高さ98cm)は慈覚大師作とされ明治33年国重要文化財。境内右には水子地蔵尊、青銅製「佛使の丑」、両親供養観音、境内左に鐘楼、手水石、6地蔵。本堂左に開山堂、千体観音堂。本堂前灯籠は文化2年(1805)。境内右の客殿と宿泊施設「安楽園」の間の庭園は寛文元年(1661)膳所藩主・本多俊次が本堂を建立した際に造園したとされ昭和34年市指定文化財。本堂裏と右にはゲートボール場。