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{右}鶴松山 寿泉寺(壽泉寺) [臨済宗妙心寺派] 瓦町通2-80 しばらく行くと瓦町交差点にある。石積みのアーチ上に入母屋の建屋が乗った平成8年築の山門と平成15年築の三重の塔が目立つ。創建年代は不明だが渥美郡大津村の桂昌寺(現:老津町大津中57)の松山和尚が同村の長松山太平寺(現:老津町東高縄204)の末寺として開山した。延宝8年(1680)現在地に移転し元禄6年(1693)寿千寺となり正徳5年(1715)瓦町の火災で類焼したのを機に寿泉寺と改めた。本尊は薬師三尊。昭和20年空襲により地蔵堂、庫裏焼失。現在の本堂と庫裏は平成2年築。門を入った右に3基の石仏が並ぶ。門前左には明治44年(1911)建立の「延命地蔵尊」と刻まれた大きな石柱がある。裏には昭和45年開園の寿泉寺幼稚園(瓦町通裏28-5)がある。 |
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{右}瓦町不動院 [高野山真言宗] 瓦町通1-31 少し先の瓦町歩道橋手前に入口があり不動院幼稚園の園庭の奥に「総本地 不動尊」「吉田藩 祈願所」と掲げられた山門がある。本尊は興教大師覚鑁上人作の不動明王。元は仁連木村にあったが吉田藩主小笠原家の菩提寺である萬年山臨済寺(東田町西郷114)を村内に建立するため寛文4年(1664)移転した。移転後は藩の祈願所にもなり元禄12年(1699)藩主久世重之は山号、寺号を許し聖休山仁養寺不動院となった。元禄15年新築されこの時に瓦町で焼成された鬼瓦が現存する。本堂前に元禄2年と文化10年(1813)の灯籠。山門前の幼稚園庭にはヤマモモ(幹周27.3m高さ8.2m樹齢300年)がある。江戸時代には不動院の西に石橋がありこの石橋を渡ると吉田宿24町の一つ元新町となっていた。 |
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吉田宿 本陣2脇本陣1旅籠65家数1293人口5277[天保14年(1843)] 鎌倉時代から東海道の要所として栄え古くは今橋と言ったが「忌まわしい」に通じるとして縁起のよい「吉」を入れ吉田になった。江戸時代は吉田藩の所領であり吉田城の城下町と吉田湊の湊町を合わせた宿場町だった。東海道沿いの表町12町とその他の裏町12町の計24町で宿が構成されており防衛策として曲がり角が多く作られていた。御油宿や赤坂宿と並び飯盛女が多かったことでも知られる。明治2年(1869)伊予国吉田藩と同名のため豊橋と改名し豊橋藩となり明治4年廃藩置県で豊橋県、額田県を経て愛知県に編入された。昭和20年の空襲で町並はほとんど焼失したため古い建物は殆どない。 |
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{右}正覺山 願成寺(がんじょうじ) [真宗高田派] 東新町28 しばらく行くとある。大永2年(1522)行円法師が聖眼寺末寺として関屋の地に開山した。本尊は阿弥陀如来。天正18年(1590)吉田城主になった池田輝政が城郭拡張に着手すると指笠町(現:新本町)に移転していたが大正10年(1921)に現在地に移転した。 |
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{右}新町の大燈籠 しばらく行くと広い東八町交差点に出る。交差点では東海地方では唯一の路面電車である豊橋鉄道の東田本線(市内線)が交差しており線路の向こうに巨大な秋葉山常夜燈と平成13年設置の説明碑がある。安永8年(1779)の宿場の大火災を経て文化2年(1805)吉田宿東惣門前に建てられたもので「新町の大燈籠」として吉田の名物だった。建てられた場所は東海道と姫街道の吉田宿における分岐点でもあった。昭和19年の三河地震で倒壊しそれに戦火が続き放置されていたが昭和55年豊橋公園内に復元され平成13年東海道400年を記念し現在地に整備された。 |
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{左}東惣門ミニュチア 交差点を東八町歩道橋で渡り左側に降りたところにある。吉田宿には東西2箇所に惣門があり東惣門はここからやや南にあった。建立時期は不明だが水野忠善が吉田藩主だった正保元年(1644)には存在し門の北に上番所(12畳)下番所(8畳)勝手があり南の西側に11間(20m)の駒寄せ場があった。朝六つ(午前6時)から夜四つ(午後10時)まで開けられこれ以外は通行禁止だった。この付近の東海道は現在は交差点と建物で消滅しているが東から西へ逆S字に蛇行していたため門は南側が入口だった。現在の地形だと東から来た東海道は東八町交差点手前で左折、少し先でUターンする形で北に向かい門をくぐり国道1号付近で再びUターンする形になり東八町交差点から1本西に現存する道を南に進む。 |
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{右・寄}造立稲荷 東八町交差点から1本西の入口角に赤門薬局(八町通5-28)がある道を進み突き当たりを右折すると鍛治町となる。次の十字路の右に赤い幟が立つ稲荷社が見える。 |
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{右}吉田城 曲尺手(かねんて)門跡 しばらく進むと中央分離帯に豊橋市の木である楠が植えられた「くすの木通り」を横断する。右の中央分離帯に昭和51年に明治100年記念として建立の「史跡 曲尺手門」石碑がある。吉田城内への門の一つで他にも東海道へ通じる門として新町口門、大手門、本町口門、天王口門があった。左の中央分離帯には平成12年建立「吉田宿 江戸七十四里 京五十二里」と刻まれた常夜燈風の碑もある。この先東海道は少し先左の美容室ヘアーサロンムラタ(曲尺手町76-1)がある十字路を左折、30m先突き当たりヴィジュアルスタジオマリエ(曲尺手町145)を右折し札木通りを行く。ここが天正18年(1590)から慶長6年(1601)までの城主・池田輝政が敵を防ぐため作らせた曲尺手(屈折した道筋)で町名にもなっている。 |
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{左・寄}吉田山 龍拈寺 [曹洞宗] 新吉町3 ヴィジュアルスタジオマリエの裏にあたる場所。大永年間(1521-27)吉田城主牧野信成が亡父・古白の菩提を弔うため建立し休屋宗官和尚が享禄元年(1528)開山。本尊は11面観音菩薩。昭和40年築の洋風コンクリート造の本堂左の墓地奥には楠(高さ21.4m樹齢300年)とその前に天正5年(1577)吉田にて没した8世観世左近大夫元尚の卵型の墓(江戸中期再建)、多宝塔のような古白の墓がある。戦災で殆どが焼失したが楠とその陰になる墓地の一部、山門は免れた。江戸時代は神宮寺[天台宗](魚町79)・悟真寺[浄土宗](関屋町212)と吉田三ヶ寺に数えられ文久3年(1863)14代家茂上洛時には宿泊所となった。市文化財の華陽婦人画像、牧野古白母堂画像も所蔵する。東海圏新西国33観音16番札所。 |
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{左・寄}龍拈寺 山門 本堂がある境内地から道路を挟み東海道から一番離れたところに平成6年市指定文化財の山門がある。元禄6年(1693)から住職となった法運義官和尚の代に建立された四脚門で宝永4年(1707)の大地震で傾き修復されている。桶狭間の戦い以降の今川氏衰退で東三河の諸将は家康に属するようになったが今川家の跡継ぎ氏真は東三河八名郡の領主・西郷正勝の甥の正好を始めとする家康に付いた諸将の人質13人をこの寺の前で処刑した。山門を入り本堂に向かうと左に6基の石塔・石仏群、箸塚、観音堂、右に塔頭である悟慶院(新吉町15)、長養院(新吉町16)と豊橋中央幼稚園(新吉町6)がある。観音堂の後ろにある日進院(新吉町9)も元は塔頭の一つだったが現在は独立した寺院になっている。 |
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{右}豊川堂(ほうせんどう) 呉服町40 曲尺手を過ぎ札木通りを進むと呉服町となり少し先にある書店。江戸時代は吉田藩出入りの御用商人として味噌醤油製造、呉服屋、質屋などを営む商家・高須屋だった。明治7年(1874)10代高須又八郎が書籍販売・出版業として新たに開業し11代高須広治が豊川堂と改称した。明治32年(1899)創刊の豊橋初の日刊新聞「参陽新報」の発刊にも携わった。昭和20年の空襲で全焼するが復興した。
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{右・寄}吉田城 大手門跡 JOMO呉服町ステーション(呉服町49)がある十字路から東海道から離れ右折して大手通り商店街を行くと右に昭和56年建立の標柱がある。初期の門は延宝2年(1674)老中久世広之により常霊山本興寺[法華宗](湖西市鷲津384)山門として移築された。明治7年(1874)までは屋根に鴟尾を備え左右に築地塀を持つ堂々たる楼門があったが取り壊された。門に至るまでの通りの右には寛永19年(1642)から正保2年(1645)の吉田藩主・水野忠善時代に新設された参勤交代のため東海道を往来する諸大名への接待の場である御馳走屋敷があった。昔は門の先に吉田城が見えたが現在は豊橋公会堂が遮っている。 |
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{右・寄}豊橋公会堂 八町通2-22 そのまま大手門跡を北に進むと正面にある。建築家中村與資平の設計で昭和6年(1931)建てられ空襲も逃れた鉄筋コンクリート造3階建のロマネスク様式の貴重な近代建築で平成10年国登録文化財。延床面積2945.27平方m。ドーム頂上までの高さは16m。屋根には4羽の鷲の像が乗っており建設当時の鷲像2羽は建物の右に置かれている。昭和11年には昭和天皇が貴賓室で休憩した。戦争末期には市役所の機能が移され昭和23年から27年までは中央公民館として44年から10年間は市民窓口センターにも使用された。大ホールは客席601席で現在も講演会や式典などに利用されている。江戸時代の吉田藩の藩校「時習館」跡地でもあり敷地手前左に大正15年(1926)建立「藩黌時習館址」石柱もある。 |
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{右・寄}豊橋公園 今橋町3 公会堂の右奥に入口がある。昭和24年吉田城跡に開園。面積21.64ha。三の丸門にあたる入口は戦時中に置かれた歩兵第18連隊の正門であり左には哨舎も残っている。園内には隅櫓の他、昭和54年開館の豊橋市美術博物館(9-17時、月休)があり吉田城関係の文書、絵図や郷土美術が展示されている。明治32年(1899)建立の明治天皇の顔を模したという神武天皇銅像がある豊城神社もある。昭和39年建立の歩兵第18連隊之址碑、昭和55年歩兵第118連隊碑、昭和37年中村道太碑、昭和46年富田長穂碑、昭和33年戦災復興記念碑、富安風生句碑もある。他に三の丸会館、テニスコート、豊橋球場、陸上競技場、プール、武道館、「とよはしの巨木・名木」100選のうち欅3本、黒松2本などもある。 |
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{右・寄}吉田城 隅櫓 豊橋公園の奥に昭和29年(1954)豊橋産業文化大博覧会を記念して建てられた隅櫓がある。吉田城は今川氏親の命により牧野古白が永正2年(1505)築城した今橋城が前身で大永2年(1522)古白の子、信成が吉田城に改名。今川家が衰退すると永禄8年(1565)家康が取り酒井忠次が城代となった。天正18年(1590)家康の関東移封により秀吉配下の池田輝政が入り拡張を進めたが途中の慶長6年(1601)姫路に移封。江戸時代には9家22代の大名が在城したが未完のまま明治に至った。背後に豊川を控えた本丸を中心に二の丸、三の丸、武家屋敷が同心円状に取り囲む城郭で天守閣はなく複数の櫓があった。明治6年(1873)殆どの建物を焼失。現在ある隅櫓の位置は本丸の鉄(くろがね)櫓跡にあたる。 |
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{右}豊橋市道路元標(高札場跡) 札木町39 JOMO呉服町ステーションがある十字路を渡ったところにある。大正11年(1922)道路法施行令で各市町村ごとに設置が義務付けられたもので道路の起終点を示したり里程の基準になった。設置場所は殆どは市町村役場前か主要道路交点で豊橋市では東海道と田原街道の分岐点に設置された。当時の田原街道は渥美半島先端にあった陸軍技術研究所伊良湖試験場へ通じる道で途中にあった陸軍第15師団(現:愛知大学豊橋キャンパス)までの区間は大正9年(1920)から戦後までは国道30号に指定されていた。現在そのルートはほぼ国道259号に継承されている。この場所は江戸時代には高札場があり札木町の名前の由来にもなっている。 |
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{右}吉田宿問屋場跡(現:NTT豊橋ビル) 札木町43 少し先の札木交差点の手前道路側に平成11年建立の標柱がある。吉田宿の問屋場は宝永3年(1706)の記録では問屋役は2人、帳付役および馬指役は3人であった。交通が激しくなるにつれ役人の数も増え天保14年(1843)では問屋役3人、年寄7人、帳付・馬指役3人、人足指役2人だった。伝馬は曲尺手町、呉服町、札木町、本町、上伝馬町、田町の6町で100疋を負担していた。人足は24町のうち14町と伝馬負担6町中4町が兼務し18町で負担していた。札木交差点で交差する国道259号には路面電車の豊橋鉄道東田本線(市内線)が通っており交差点左に札木駅がある。 |
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{右}吉田宿本陣跡 札木交差点を渡ると明治27年(1894)創業のうどん屋・喜の字(札木町47)がありその先に同じく明治20年代の創業と言われる鰻屋・丸よ(札木町50)があり手前の道路側に昭和56年建立の標柱、店の前に石碑、説明板がある。丸よの位置に中西与右衛門の清須屋、手前の東隣に山田新右衛門の江戸屋があった。江戸中期までは本陣は清須屋1軒で江戸屋は脇本陣だったが松平信復が吉田藩主となった寛延2年(1791)に江戸屋も本陣となった。享和2年(1802)の記録によると清須屋は建坪327坪(1080平方m)玄関門構付、江戸屋は建坪196坪半(648平方m)玄関門構付。天保14年(1843)の記録では江戸屋は建坪199坪(657平方m)となっている。 |
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{左}吉田宿脇本陣跡 本陣の斜め向かいの小間歯科医院(札木町94)の先の月極駐車場に国務大臣上村千一郎揮毫の石碑がある。江戸屋が脇本陣から本陣になった寛延2年(1791)から代わって脇本陣をつとめた鈴木庄七郎の枡屋があった。享和2年(1802)の記録で113坪(373平方m)玄関付。宿場の中心である札木町には65軒の旅籠屋が密集し飯盛女が多い宿場でも有名だった。「吉田通れば2階から招く しかも鹿の子の振り袖が」「御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い」などと詠われた。 |
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{左}第八国立銀行跡 新本町45 少し先で中京銀行豊橋支店(札木町70)が右にある十字路を渡ると本町(現:新本町)に入り明治40年(1907)創業の大木屋鮨前の道路側に昭和56年建立の標柱がある。明治10年中村道太や中尾寛二らにより関根録三郎を初代頭取として設立され後に東京、大阪、横浜、名古屋にも支店が開設された。元尾張藩家老志水忠平らが設立した第百三十四国立銀行に明治19年吸収され愛知銀行、東海銀行、UFJ銀行、三菱東京UFJ銀行と継承されている。豊橋公園に顕彰碑がある中村道太は旧吉田藩士で明治5年ごろ丸屋商社(現:丸善)に重役(社長格)で入社、明治13年には横浜正金銀行を設立し初代頭取に就任した。横浜正金銀行も東京銀行、東京三菱銀行を経て三菱東京UFJ銀行に継承している。 |
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{左}きく宗(きくそう) 豊橋市新本町40 少し先にある。文政年間(1804-18)創業と言われる菜飯田楽の老舗。昭和20年に空襲で全焼、翌年に再興し昭和43年に矢作ダム建設用地からダム湖に沈む予定の古い農家の建物を買い取り現在の白壁に腰板連子格子の店構えを作った。串に刺した豆腐に味噌を塗った田楽はその昔、豊作を祈って田の神に奉納した田楽舞の姿が似ているため名が付いた。注文を受けてから焼き上げ八丁味噌の甘辛い濃厚なタレを塗った田楽に大根葉の菜めしがセットになっている菜めし田楽定食は1785円。11時-20時、水休。豊橋丸栄百貨店(駅前大通2-10)9階にも支店(丸栄店)がある。 菜飯田楽は豊橋名物になっているが東海道では金谷宿の先の間宿・菊川の名物でもあった。
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{左}松葉公園(豊橋商工品陳列館跡) 少し先の松葉公園交差点で東海道は右折するが交差点を渡った左には松葉公園がある。公園前の道路脇には平成13年建立の「東海道吉田宿」石碑があり「江戸まで七十三里 京まで五十二里」とある。地下駐車場入口階段横の植込みには昭和56年建立の「豊橋商工品陳列館跡」標柱がある。豊橋商業高校も設立した実業家・遠藤安太郎が明治35年(1902)設立した商工品の展示場と集会所で昭和初期まで続いた。松葉公園内には他に野外ステージ、広場、噴水、遊具などがある。交差点を右折すると上伝馬町。豊橋市街地の歩道マンホールは「手筒花火」のデザインになっている。三河地方に伝わる花火で竹筒に縄を巻き中に火薬を入れ点火後も手で持ち続けるもので豊橋が発祥地とされる。 |
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{右}西惣門ミニチュア しばらく進み上伝馬交差点で国道23号線を渡るとある。平成15年に作られ台座にはレリーフ付きの説明プレートもある。延宝2年(1674)常霊山本興寺[法華宗](湖西市鷲津384)に山門として移設された吉田城大手門を参考に作られた。江戸時代には門の左側に番所があり12畳の上番所、8畳の下番所、4坪(13.2平方m)の勝手があり、駒寄せの空地17坪(56平方m)があった。門を過ぎるとゆるやかな下り坂となり江戸時代は坂下町と言ったが明治11年(1878)その先の田町と共に湊町となった。 |
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{右・寄}関屋 吉田藩船寄せ場跡 少し先右の包装資材会社の鈴瀧(湊町138)先の交差点を左折するのが東海道だが右折してしばらく行くと車道が右にカーブする左に豊川に出る小路があり小路右の民家前に説明板がある。小路左には「豊川親水緑道」のモニュメント碑もある。吉田城の西総堀の内側にあって豊川に面していたところで関屋と呼ばれ吉田藩の御船蔵が置かれ藩主専用の波止場があった。元亀元年(1570)城主酒井忠次が豊川に土橋を架橋したのもこの場所で橋は次の城主池田輝政が城郭拡張に着手すると天正19年(1591)には船町へ移された。関屋は由緒ある地名として明治2年(1869)藩名を変更する際には豊橋、今橋と共に候補名として政府に出されたが豊橋藩となった。現在はこの付近は関屋町になっている。 |
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{右}湊町公園 交差点を左折ししばらく行くとある。入口前に平成13年建立「松尾芭蕉吉田の宿の旅籠の記」碑があり側面に公園内と聖眼寺にある句碑の俳句が刻まれている。公園内左の池に島が2つあり手前には金刀比羅社の祠と鳥居、舞扇碑、大正13年(1924)「記念燈」碑など、奥の島には芭蕉句碑、天和3年(1683)創建の築嶋弁天堂、小祠2つ、寛文10年(1670)などの灯籠3基がある。句碑は昭和7年(1932)建立で旅寝塚と呼ばれ渥美郡に蟄居している杜国を貞享4年(1687)門人の越智越人と訪れる際に吉田宿の旅籠で詠んだ句。公園右奥には豊橋大空襲犠牲者追悼の碑もある。昭和20年の空襲で避難所となったのがこの公園で平成2年に木製碑が建立され平成7年に空襲50年を機に石碑として再建立された。 |
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{右}湊神明社(湊町神明社) 湊町1 公園の隣。白鳳年間(661-85)創建と伝えられ江戸時代は田町神明社と呼ばれた。祭神は天照皇大御神、相殿は豊受姫大神。拝殿内部の左には国学者平田篤胤が天保4年(1833)に書いた神代文字「カムナガラ」を明治15年(1882)に彫った扁額があり境内左に写真入説明板もある。社殿左には稲荷神社やムクノキ(樹齢100年)がある。慶応元年(1865)原田圭岳が描いた「老松図」屏風も所蔵し市指定文化財。社殿右には13神が祀られる境内社の祠3つがあり前には元禄12年(1699)安政6年(1859)などの燈籠や大正6年(1917)狛犬がある。この辺りは伊勢神宮の荘園だったため天和3年(1615)頃から伊勢神宮の神御衣祭の御料として白絹や赤引糸を奉納しており現在も御衣祭として行なわれている。 |
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{右}吉田宿船会所 船町73 少し先の船町交差点を右折して少し先。「吉田の宿を考える会」が運営する宿場の歴史や史料を紹介するための施設。平成16年からは建物内に建築設計事務所夏目デザインスタジオが入居している。この辺りの船町は関ヶ原の戦いで船による輸送に従事した功により江戸時代には吉田湊の船役を独占していた。湊は吉田大橋の右下に広がり伊勢や江戸への航路の起点として三河最大の湊となった。船町は浅井長政の一族浅井与次右衛門らおよそ80名がこの地に入り村を築いたのが起こりで天正18年(1590)に船町となった。この先の豊橋手前右には「船町と高札場」の説明板もある。 |
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{右}豊橋(とよばし) 豊川に架かる豊橋は正式名の「豊橋」としては旧:吉田大橋の位置に明治12年(1879)幅7.3mの木橋として架けられた橋が最初で大正5年(1916)には現在地に3連アーチ式鉄橋(長さ147.3m幅7.4m)として架替えられた。愛知県令国貞廉平揮毫の木橋の親柱はこの時に移され鉄橋にも転用された。この親柱と鉄橋の一部は現在は旧:吉田大橋跡に置かれている。現在の橋は昭和58年に下流側の2車線が完成し旧鉄橋を撤去、昭和61年に上流側2車線が完成し計4車線になった。手前のとよばし南詰交差点を左折するのが東海道だが右折し少し行った右の植え込みには平成9年建立の芭蕉門下太田白雪の句碑がある。橋の右側600m先には国道1号が通る昭和34年竣工の現:吉田大橋もある。 |
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{左}旧:吉田大橋跡(旧:豊橋親柱) とよばし南詰交差点を左折して行く小公園がある。天正19年(1591)関屋から移転した橋が架けられた位置。江戸時代は吉田大橋と呼び通称として豊橋とも呼ばれ矢作橋(愛知県岡崎市)、瀬田唐橋(滋賀県大津市)とともに東海道3大橋の1つだった。元和3年(1617)から明治2年(1869)までに計33回架替えられたと言う。貞享5年(1688)の記録で長さ95間半(174m)幅4間(7.3m)橋杭28。この付近には河川の取締や橋の保護などを掲げた高札場が寛永13年(1636)に設置された。公園内には明治12年現在地に架けられた豊橋親柱と大正5年(1916)現:豊橋の位置に架けられた鉄橋の一部がある。他に平成13年や平成8年建立の句碑、遊具がある。現在、東海道のルートに橋がないので豊橋まで戻り迂回する。 |
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{右}豊川稲荷遥拝所 豊橋を渡ったら左折し豊川沿いの土手下の道(県道496号線)を行く。左側歩道は植込みのある遊歩道になっている。少し行くと平成18年建立の「豊川稲荷遥拝所」と刻まれた石碑がある。丁度旧:吉田大橋跡の対岸あたり。祠などはなく碑があるのみで右前には安政2年(1855)の年号がある常夜燈があり角柱の竿部分には「左吉田道 右御油道」と刻まれている。左に流れる豊川は延長77km流域面積724平方km、北設楽郡設楽町の段戸山(標高1152m)を源流とし三河湾に注いでいる。古くは飽海川(あくみがわ)と呼ばれ江戸時代には吉田川、明治以降に豊川となった。 |
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{右・寄}祐泉寺 [真宗高田派] 下地町3-19 遥拝所を右折し次の十字路を左折すると左にある普通の民家のような寺。創建時期不明だが開山は恵善法師とされ聖眼寺の塔頭で祐泉坊と言っていた。本尊は阿弥陀如来立像。客殿、薬師堂があったが享保17年(1732)全焼、客殿は再建されたが嘉永7年(1854)の大地震で倒壊した。大正2年(1913)築の本堂は昭和20年の空襲で焼失し現在の本堂は昭和50年築。他にも聖眼寺の塔頭には真光坊(現:真光寺)、正林坊があった。 |
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{右}朝晃山 真光寺 [真宗高田派] 下地町3-18 川沿いの道を進むと右の豊橋下地郵便局(下地町3-28)の先を左折するとすぐ右。永禄7年(1564)より以前に智清が開山した聖眼寺の塔頭で真光坊と言っていた。明治9年(1876)真宗高田派本山の専修寺(三重県津市一身田町2819)末寺となり昭和17年(1942)に真光寺となった。入って右に昭和39年市指定文化財の本尊木造阿弥陀如来立像の説明板がある。室町時代の作で高さ102cm、杉に漆を塗り金箔を押したもので昭和20年空襲で寺が全焼した際に火の粉を浴びても殆ど損傷がなかったため「災厄除の阿弥陀」と呼ばれるようになった。鉄筋コンクリート造の本堂は昭和52年築。庫裏は平成5年築。東海道は郵便局前を過ぎると左側の植込みのある遊歩道が終わる。 |
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{右}聖霊山 聖眼寺(しょうげんじ)[真宗高田派] 下地町3-1 少し先にある。平安時代に慈覚大師によって八名井郷吉祥山麓(現:新城市)に天台宗の寺として創建。嘉禎元年(1235)住職行円が親鸞に会い改宗し現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。真宗高田派本山の専修寺の末寺。永禄7年(1564)今川家の城代小原鎮実が守る吉田城を攻めるためこの寺を本陣とした家康は太子堂に奉納されていた2本の金扇のうち1本を住職から献上され後に徳川家の馬印に採用したという。昭和20年空襲で全焼、昭和25年本堂、昭和43年庫裏再建。山門前右に「親鸞聖人御舊跡」石柱、左に寺内に松葉塚があることを示す宝暦4年(1754)建立の小さな標石。他に境内左には宝形造りの小堂、参議院議員八木一郎揮毫の星野部隊記念碑、境内右に三宝保育園(下地町3-3-1)。 |
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{右}聖眼寺 松葉塚 本堂前左にある。芭蕉の「ごを焼きて 手拭あぶる 寒さかな」の句碑が2基置かれた塚で昭和59年市指定史跡。冒頭の「ご」が松の枯葉を意味するため松葉塚と呼ばれ湊町公園の旅寝塚と同様に門人の坪井杜国を貞享4年(1687)訪ねる際に聖眼寺に立寄り詠んだもの。杜国は尾張の米穀商だったが空米売買の罪で渥美郡保美に蟄居していた。左の尖頭型自然石が古い碑で芭蕉没後50年の寛保3年(1743)ごろに建立されたもの。右は明和6年(1769)植田古帆、大木巴牛が発起人となり芭蕉の墓のある近江(滋賀県)の朝日山義仲寺(大津市馬場1-5-12)から墓土を譲り受けて建立した碑で「芭蕉翁」の文字は白隠禅師、句は尾張の俳人横井也有(やゆう)の揮毫で土台は亀をかたどった石になっている。 |
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{左}下地河川緑地 霞提説明板 聖眼寺斜め向かい。江戸時代に藩政の一環として築かれた堤防が昭和60年の新堤防完成で役目を終えたため一部を休憩スポットとして整備した。石段上には四阿があり下地堤防改修記念碑と付近の地形図などの大きな説明板がある。豊川上流には吉田城下への洪水を防ぐため9箇所の霞提(かすみてい)も設けられていた。武田信玄が考案したとされる霞堤は鎧堤とも言われ増水時に遊水地へ水が逃げるように作られた堤防のこと。昭和40年に豊川放水路が完成し右岸の5箇所(東上、二葉、三上、当古、大村)は締切られたが左岸の4箇所(金沢、賀茂、下条、牛川)は残されている。 |
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