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日本橋 東海道の日本橋は現在は首都高速道路都心環状線の下にある。慶長8年(1603)に長さ27間4尺3寸(50.4m)幅4間3尺5寸(8.3m)橋脚8本から成る木橋が架けられ翌年諸街道に一里塚を築いた際に起点となった。名称は通称として呼ばれていた日本橋が後に正式名称となった。元和4年(1618)大改修されその後19回改架された。現在の橋は明治44年(1911)竣工の花崗岩の2連アーチ橋で橋柱の橋名は徳川慶喜の揮毫。装飾は建築家の妻木頼黄を中心に進められ両端の橋柱には獅子、中央に麒麟が置かれ、松や榎がデザインされた街灯柱もある。獅子は東京市の紋章を抱えている。昭和39年(1964)に橋を覆うように高速道路が建設され平成3年に橋の四隅に広場が出来た。平成11年指定国重要文化財。 |
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{左}日本橋 乙姫広場(北側東) 乙姫像と昭和55年建立「日本橋魚市場発祥の地」石柱、平成19年設置「日本橋魚河岸跡」説明板がある。乙姫像の台座にも昭和29年の説明プレートが嵌め込まれている。ここから江戸橋にかけての川沿いには江戸初期より大正12年(1923)関東大震災まで魚河岸があった。家康に呼ばれ摂津国の佃・大和両村(現:大阪市西淀川区)から江戸・佃(現:東京都中央区佃)に移住した漁師達が将軍家や諸大名向けに調達した残りを売り出したのが起こりとされる。近海から川を利用して舟で運ばれた魚介類はそのまま川岸の店先で売られ賑わった。 石柱右の平成3年設置「乙姫広場」石標は魚がし会会長・澤畑久雄揮毫。 |
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{右}日本橋 元標の広場(北側西) 日本国道路元標の複製、鉄製四角柱の東京市道路元標がある。江戸時代から五街道の起点だった日本橋は大正8年(1919)施行の旧:道路法により東京市の道路元標の位置と定められ橋の中央に東京市道路元標が建てられた。当時は新橋-須田町間を走る東京市電(現:東京都交通局)本通線の路面電車が橋の中央を通っており元標は電車の電柱・街灯も兼ねていた。路面電車が廃止後の昭和47年道路改修の際に元標は当時の首相の佐藤栄作揮毫による金属プレートの「日本国道路元標」に代わり現在も橋の中央(車道の中央分離帯)にある。広場には主要都市への距離を示した里程標石碑もある。平成3年設置「元標の広場」石標は建設省道路審議会会長・高橋国一郎揮毫。 |
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{左}日本橋 滝の広場(南側東) 滝、交番がある。江戸時代には晒し場があり姦通者、主殺し、女犯の僧、心中未遂者などの罪人がそれぞれの刑に処せられる前に見せしめのため朝8時から夕刻4時まで3日間晒された。前面が無い間口5間(9m)奥行1丈(3m)の小屋の周りに間口7間(12.7m)奥行6間(11m)の縄囲いをして通行人から見えるようになっていた。新内節や岡本綺堂の戯曲「尾上伊太八」の元になった心中未遂した武士・原田伊太夫と遊女・尾上も延享4年(1747)ここで晒し刑となったとされる。広場にはタイムカプセルもあり日本橋架橋100周年にあたる平成23年(2011)に開けられる。平成3年設置「滝の広場」石標は中央区長・矢田美英揮毫。 |
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{右}日本橋 花の広場(南側西) 高札場の両側に擬宝珠が付いたデザインの昭和11年(1936)建立の日本橋由来碑があり上部に広重の絵、下部に説明が記載されている。江戸時代にはここには高札場があり日本橋は幕府の重大な触れ書きが掲示される大高札場であった。江戸にはここの他に常磐橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外、札の辻(のちに高輪大木戸)に大高札場があり35カ所に通常の高札場があった。広場には他に昭和61年日本の道百選碑、平成11年重要文化財指定記念碑、平成12年設置「日本橋」説明板もある。平成3年設置「花の広場」石標は日本橋保存会会長・市原晃揮毫。 |
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{右・寄}黒江屋 中央区日本橋1-2-6 日本橋を渡り花の広場を右折した通りのすぐ左側にある。漆器の名産地である紀伊国名草群黒江村(現:和歌山県海南市)から江戸へ出てきた人物が元禄2年(1689)創業した漆器専門店。現在の店舗は2階だが1階の通り沿いのショーウインドウに万治元年(1658)日本橋の擬宝珠が展示されており「日本橋御大工 椎名兵庫」の銘がある。
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{右・寄}榮太樓總本鋪 日本橋1-2-5 黒江屋の隣。幼名を榮太郎と言った3代目細田安兵衛が父の代まで菓子商として続けてきた屋台店(井筒屋)をたたみ安政4年(1857)現在地である日本橋西河岸に独立の店を構えたのが起こり。その後屋号を自己の幼名に因んで榮太樓と改め「名代金鍔」「甘名納糖」「玉だれ」などを創作した。金鍔(1個158円)と栗金鍔(1個210円)は小豆本来の風味を生かした餡を小麦の薄皮で包み丸型に焼上げている。玉だれ(1本683円)は砂糖と味甚粉にすり下ろした大和芋とわさびをまぜてこね合わせ求肥で包んだ菓子。
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{左・寄}江戸秤座跡(はかりざ) 日本橋3-7-20 しばらく進み日本橋高島屋(日本橋2-4-1)を過ぎディックビルの次の通りを左折して行くとディックビルの裏手にに秤座跡の碑がある。秤座は全国の秤の量目の統一を図るため秤の製造・検査・販売等を独占した幕府公認の秤商人の事務所で承応2年(1653)から明治8年(1875)度量衡取締条例が発せられるまで続いた。江戸と京都におかれ江戸は守随(しゅずい)家が東国33カ国を管轄し幕府の権威を奉じ諸国をまわり検定を行った。位置は現在の中央区内で移転を繰り返していたが天保13年(1842)以降はこの場所にあった。 |
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{右}ヤン・ヨーステンとデ・リーフデ号のレリーフ 東京駅八重洲口への道(八重洲通り)を横断する途中の分離帯に八重洲の名の由来となったオランダ人のヤン・ヨーステンのレリーフがある。慶長5年(1600)イギリス人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)とともにデ・リーフデ号で豊後国に漂着したヨースデンは家康に仕え外交に参画し日本人と結婚、家康から屋敷を賜わった。その後帰国するために日本を離れたが果たせず再び日本へ戻る途中の元和9年(1623)インドシナ東方で船が難波し溺死。日本名を耶揚子と言い居住地付近が後に八重州と呼ばれるようになったと言われる。レリーフは昭和55年日蘭修好380年を記念し造られた。他に東京駅八重洲地下街に胸像、三菱電機本社ビル(千代田区丸の内2-7-3)前にデ・リーフデ号の彫刻もある。 |
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{右}中央区 平和の鐘 ヤン・ヨーステンのレリーフと同じ場所の東京駅寄りにある。昭和63年に中央区が平和都市宣言をした際に建てられてもので宣言文の碑が鐘の下にある。9時〜21時まで毎時0分になると26個の鐘が曲を奏でる。曲目は「雪の降る町を」「からたちの花」「夏の思い出」「小さい秋見つけた」などが季節ごとに変わる。 |
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{右・寄}安藤広重住居跡 京橋1-9 八重洲通りを渡った左にあるブリジストンビルの次の通りを左折、次の十字路を右折すると東証コンピュータシステムの建物の前に説明板がある。「東海道五十三次」を描いた浮世絵師で嘉永2年(1849)から没年の安政5年(1858)までの10年間ここにあった家屋は2階建ての独立家屋で暮らしていた。 この場所から広重宅をはさんで東海道側には江戸狩野一族4家のうち中橋家狩野屋敷があった。江戸狩野4家は鍛冶橋家の探幽、木挽町家の尚信、中橋家の安信、浜町家の岑信で幕府の奥絵師を独占していた。 |
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{右}江戸歌舞伎発祥之地 京橋3-4 しばらく進んで行くと京橋の手前の小広場に昭和32年(1957)建立の碑がある。寛永元年(1624)に中村座の始祖・猿若(中村)勘三郎が中橋(京橋と日本橋の中間地)の南に猿若座(後の中村座)の芝居櫓をあげたのが江戸歌舞伎の起こりとされる。勘三郎は天下の名優と称され京都の大蔵流の狂言役者から歌舞伎に転じ「猿若」を始めた。まもなく市村座、森田座、山村座も上演を公認され中橋付近には他にも人形操り座や浄瑠璃座があり賑いを見せていたが江戸城に近いという理由から現在の人形町辺りに移された。 |
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{右}京橋大根河岸青物市場跡 同じ広場の奥に昭和34年(1959)建立の碑がある。元は数寄屋橋付近にあった大根を中心とした野菜の市場が火災に遭い寛文4年(1664)水運の便のよい京橋川河岸に移り「大根河岸」と呼ばれ駒込、神田多町とともに江戸で有名になった。明治以降は更に発展し大正12年(1923)関東大震災時には問屋68軒、仲買人105名に達していたが昭和10年(1935)築地に東京市中央卸売市場(現:東京都中央卸売市場)が完成すると東京の青物市場はそこに集中することになり閉鎖された。京橋川沿いには他にも白魚河岸、薪河岸、竹河岸などもあった。広場入口には大根河岸などが説明された平成20年設置「京橋と京橋川」説明板もある。 |
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{左}警察博物館 京橋3-5-1 広場の向かいにある。警視庁が運営する警察関連の資料館。1階は展示してあるヘリコプターやオートバイに乗っての記念撮影コーナー、2階は警視庁誕生から西南の役などの歴史的資料展示、3階は警察官の制服や武器・凶器の展示と顕彰コーナー、4階は音楽隊や鑑識、モンタージュゲームやクイズなど。10時-18時、月休、無料。
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京橋の親柱(擬宝珠) 警察博物館前に「京橋」と東京高速道路のガードをくぐった右の交番前に「きょうはし」の親柱がある。詩人・佐々木支陰の揮毫で明治8年(1875)竣工のの石橋のもの。京橋は慶長年間(1596-1615)には架けられていたとされ江戸時代には木橋だったが明治8年に石橋(長さ19.8m幅14.4m)となった。明治34年(1901)鉄橋、大正11年(1922)石およびコンクリート橋、昭和8年(1933)鋼橋に架替えられたが昭和34年(1959)川は埋め立てられ高速道路が建設され橋も取り壊された。交番向かいには大正11年(1922)竣工の京橋の照明設備を備えた大きな錐形親柱もある。 |
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{左}煉瓦銀座之碑&ガス灯 大正11年(1922)京橋親柱の左隣に昭和31年建立の碑とその後ろに1本のガス灯がある。明治5年(1872)和田倉門から出火した火事は銀座一帯や現在の勝鬨橋北詰にあった日本初のホテルである築地ホテル館にまで類焼した。政府は銀座で木造での再建を禁止し翌年には「煉瓦石建築の決議」が出され明治10年に煉瓦作り2階建てアーケード、道路も煉瓦舗装という銀座煉瓦街が完成した。碑は実際に使われていた煉瓦を当時と同じ「フランス積み」に敷き詰めている。煉瓦遺稿の碑で実際の積み煉瓦が見れる。ガス灯は明治7年(1874)京橋・銀座・金杉橋間の街路に85基設置されたものを復元したレプリカで銀座ガス灯通りにもある。 |
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{右・寄}銀座の柳由来碑 しばらく進み右にみずほ銀行銀座中央支店(銀座1-7-10)がある十字路を右折、柳通りに入ってすぐ右の歩道に碑がある。銀座煉瓦街ができた頃、街路樹として松、桜、槇、柳が植えられたが風塵に強い柳だけが残ったのが起こり。大正9年(1920)頃に車道の拡幅工事で撤去されその後イチョウに代わったが昭和4年(1929)の東京行進曲のヒットで新曲「銀座の柳」も作られ並木も復活した。空襲で大半が焼失し戦後に補植されたが昭和43年の共同溝整備工事で再び銀座通りから撤去。後にこの柳から増やされた銀座の柳2世が昭和60年に御門通りの角に植えられると銀座の柳の復興の世論が高まり昭和62年中央区の木に制定され現在は柳通り、御門通り、西銀座通りが柳並木となっている。 |
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{左}銀座発祥の碑 銀座2-7-17 ティファニー本店前にある。 盛り場の代名詞ともなっている「銀座」は江戸時代金貨(小判)を扱う金座に対し銀貨の鋳造を司った幕府の機関で慶長6年(1601)に伏見に創設された。同11年には駿府にも設けられ同13年伏見銀座は京都に同17年駿府銀座は江戸の現在地付近に移った。銀座は後に大坂と長崎にも置かれ寛政12年(1800)に全国統一され日本橋蠣殻町へ移転したがこの地の呼び名はそのまま残り明治2年(1869)の公示により正式に町名となった。 |
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{左}龍光不動尊 銀座3-6-1 デパート松屋銀座店の屋上にある。松屋の銀座出店は大正14年(1925)で昭和4年(1929)に鎌倉時代から高野山龍光院(和歌山県伊都郡高野町高野山147)にあったとされる不動明王像を屋上に迎えた。龍光が流行に通じるとしてファッションに御利益がある。松屋は戦後進駐軍に接収され昭和27年(1952)に解除、同39年(1964)大改築した際1階の天井四隅に四天王の梵字がオブジェのように取り付けられた。 |
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{左}銀座共同溝 松屋の地下から地下鉄に向かうところに共同溝の1部がガラス張りの窓から見れる。銀座共同溝は銀座通り1〜8丁目の総距離2kmの両側歩道の地下にあり電気、電話、ガス、水道、下水管が一緒に収容されている。昭和43年の銀座通り改修工事の際に完成しこれにより維持管理や新規供給などで道が再び掘り返されることがなくなった。地上の通りからは電線、電柱がなくなり銀座の柳203本も撤去され新デザインの照明灯や都電の敷石を再利用した整備がされた。 |
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{右・寄}東京慈恵会医科大学発祥の地 銀座4-4-1 松屋斜め向かいの教文館ビル手前を右折していくと左に昭和55年創立100周年を記念して建立された碑がある。日本海軍から脚気を撲滅したとして世界的に有名な高木兼寛が明治14年(1881)この地にあった東京医学会社の一部を借りて「成医会講習所」を設立し日本最古の私立医学校となった。東京慈恵会医科大学付属病院の前身である有志共立東京病院ができると成医会講習所は成医学校、東京慈恵医院医学校と順次改称され西新橋の同病院構内に移転し大正10年(1921)大学令の公布で東京慈恵会医科大学となった。 |
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{右}真珠王記念碑 銀座4-5-5 少し先のミキモト本店の前にある。創業者で真珠王と呼ばれた御木本幸吉の功績に対し昭和28年(1953)幸吉95歳の時に建立された。幸吉は安政5年(1858)三重県鳥羽町のうどん屋に生まれ行商等をしたのち20歳の時横浜の内国博覧会で初めて真珠を見て養殖に着手。明治26年(1893)に世界初の真珠養殖(半円真珠)に成功、明治32年(1899)銀座に世界初の真珠専門店をオープンした。明治38年真円真珠の養殖に成功し「ミキモト・パール」として輸出、世界に知れわたり明治39年に店を現在地に移転した。 |
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{左}銀座出世地蔵尊&三囲(みめぐり)神社 銀座4-6-16 銀座三越の屋上にある。堂の中の約60cmの出世地蔵尊は文久元年(1861)芝口御門跡付近の三十間堀から出土し銀座4-7にあたる地に安置したところ開運、出世、延命、商売繁盛にご利益があると評判になり縁日には露店が出て銀座八町露店の起源となった。戦災で一時行方不明だったが再発掘され銀座の功労者・保坂家からキャバレー美松を経て昭和33年三越が駐車場用地として買収した際に屋上に移した。左の新しい出世地蔵尊(高さ2m)は昭和50年に造られたもの。昭和55年には浜口庫之助作詞作曲で「ぎんざのお地蔵さん音頭」も作られた。右の三囲神社は三井家が江戸進出の折、三にあやかって守護神とした神社で現在では三越本支店の屋上に祀られている。 |
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{右}和光ビル 銀座4-5-11 銀座のシンボル。昭和7年(1932)服部時計店(現:セイコーウオッチ)の本社ビルとして建築家・渡辺仁の設計により建てられた。上部の大時計は建設当時はドイツ式の振り子時計だったが現在はセイコーの最新クォーツとなっており地下2階の親時計が電話回線で日本標準時を取得し自動補正された制御モーターが針を廻している。第2次世界大戦で銀座一帯は焼け野原となったがこのビルは戦火を耐え進駐軍に接収され進駐軍相手の日用品や飲食物を売るPXとなった。戦後に服部時計店の小売部門を継承した和光が創立され接収解除後に移転した。
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{左}サア護(かくご)稲荷神社 銀座6-10-1 松坂屋銀座店の屋上にある。慶長16年(1611)いとう呉服店として名古屋で創業した松坂屋は明和5年(1768)上野にあった松坂屋を買収し江戸に進出したがそれから30年ほどの間に上野店が2回、名古屋本店、京都仕入れ店と立て続けに火災にあった。文化12年(1815)伏見稲荷から根岸の里へ勧請された神社が大震災及び大正14年(1925)の日暮里大火の時に無事だったことから火除けの神様として松坂屋の守護となった。「かく」という字は鶴が雨を降らせて火事を消すという云われから造られた字で実際は「鶴」のへんの上部「ワ」が無い。銀座店は大正13年に開店し昭和4年(1929)神社も分祀された。屋上には他に銀座の柳2世からさらに増やされ平成16年植えられた銀座の柳4世5本と説明板もある。 |
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{左}商法講習所跡(一橋大学発祥の地) 松坂屋銀座店前の歩道に碑がある。講習所は後に初代文部大臣となった森有礼(ありのり)の私塾として明治8年(1875)この地にあった鯛味噌屋の2階を借りて設立された。有礼はアメリカのBryant & Stratton CollegeからWilliam C. Whitneyを招聘し英語で教育を行った。翌年木挽町に移転し明治17年東京府から農商務省に移管され初の国立の商業学校として東京商業学校と改称。翌年東京外国語学校(現:東京外国語大学)等と合併し神田一ツ橋に移転、後に東京外国語学校と分離し所管も文部省となり明治35年(1902)に東京高等商業学校と改称した。その後、東京商科大学、東京産業大学と名前が移り変わり昭和24年(1949)一橋大学となった。 |
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銀座の柳 2世 しばらく進み右の博品館(銀座8-8-1)を過ぎた御門通りと交差する両側に「銀座の柳二世」立札がある柳がある。昭和43年の共同溝整備工事で撤去された銀座の柳203本は同年完成した建設省東京国道工事事務所(現:国土交通省東京国道事務所)管轄の苗木の育成や移植樹木の保管を行う日野苗圃へ移植された。昭和59年になり大半が枯死して3本しか残ってないことを新聞記事で知った銀座の椎葉一二と勝又重雄が枝50本をもらいうけ150本に剪定して挿し木したところ86本が根付き昭和60年8月にここに初めて2世柳が植えられた。現在は2世からさらに3世、4世と増やされ銀座をはじめ全国各地に植樹されている。御門通りは中央区の木が柳に制定された昭和62年から柳並木となった。 |
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{右・寄}金春(こんぱる)屋敷跡 御門通りを右折して一つ目の通りを右折するのが金春通りでその入口左に昭和53年設置の説明板がある。江戸時代の能は金春、観世(かんぜ)、宝生(ほうじょう)、金剛(こんごう)の4家を幕府直属の能役者としていずれも現在の中央区内に屋敷を拝領し禄を支給されていた。金春家は4家のうち最も古く室町時代から栄えた家でその屋敷は現在の銀座8丁目の6〜8番全域にあった。 |
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{右・寄}煉瓦遺構の碑 銀座8-7 金春通りに入り日本橋方面に少し戻ると左にある。イギリス人のトーマス・ジェームス・ウォートルスによって設計された煉瓦街は関東大震災後、埋もれたままだったが昭和63年に金春通りのビル工事現場より遺構が発掘された。高さ3.6m奥行6m厚さ32cmもある大きなもので暖炉もあった。大部分は江戸東京博物館に移されたが平成5年その1部を使って煉瓦遺構の碑を作って設置した。さらにこの通りの日本橋寄りの左には文久3年(1863)からこの地に開業している銭湯の金春湯もある。 |
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{左・寄}芝口御門跡 御門通りを左折していくと左に昭和52年設置の説明板がある。門は正徳元年(1711)第8回朝鮮通信使が江戸に来る際に国威を顕示するため幕府参与・新井白石の指揮で前年の宝永7年(1710)に築かれた。一之門は冠木門で二之門は江戸城最大の赤坂見附御門と同じ規模の梁間4間×桁行25間という渡り櫓を持つ枡形門で隅櫓もあったが享保9年(1724)に焼失し以後再建されなかった。芝口御門がある間は新橋は芝口御門橋と呼ばれていた。 |
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{左}新橋の親柱 御門通りを渡ると銀座から新橋に入る。東京高速道路のガードをくぐってすぐ左にある。 橋は慶長9年(1604)に架けられたのが最初とされる。明治3年(1870)土橋となり明治32年(1899)東京で初めての鉄橋となった。大正14年(1925)に長さ25m幅27mの鉄筋コンクリート重複アーチ橋に架替えられ昭和36年(1961)に高速道路建設のため汐留川が埋立てられ橋は無くなり親柱が1本残された。新宿御苑近くにある国土交通省の東京みちの情報館にも同じ親柱と大正11年(1922)の京橋の親柱、銀座の柳2世、3世、4世がある。 |
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{左}「銀座の柳」歌碑 新橋の親柱のすぐ先の植え込みにある。西条八十が作詞、中山晋平が作曲、四家文子が歌った「銀座の柳」の歌詞が刻まれている。昭和4年(1929)「昔恋しい銀座の柳〜」のフレーズでヒットした「東京行進曲」(佐藤千代子歌)の後を受けて昭和7年(1932)朝日新聞社が東京進出記念企画として銀座の柳の再興を計画し長野県穂高産の柳300本を寄贈。銀座通りに植え「柳まつり」を盛り上げる為、新しい歌「銀座の柳」を「東京行進曲」と同じ西条、中山コンビに依頼した。歌碑の横には銀座の柳2世もある。 |
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{右・寄}芝大神宮 港区芝大門1-12-7 第一京浜をひたすら歩くと右に「芝大神宮」石柱があり右折すると突当たりに石段と鳥居がある。寛弘2年(1005)創建の古社で東京で最も古い神社の1つ。主祭神は天照大御神(内宮)豊受大神(外宮)。め組の喧嘩事件や日本一長いだらだら祭、生姜市、衣服を増やす千木筥などで有名。明治時代の力士「金杉の藤吉」が片手で頭上高く持ち上げたという力石や百度石が境内にある。一組百枚の百度詣り木礼も売っている。角を持った狛犬の台座には「め組」と書かれ昭和6年(1931)芝石民の作。狭い境内の下は貸しガレージとなっている。
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金杉橋 しばらく進むと首都高速の高架下を流れる古川にかかる金杉橋を渡る。江戸時代は左はすぐ江戸湾で芝浜と呼ばれる漁村が広がっていた。また島送りの舟が出た場所で永代橋から出る舟が一生帰れない者だったのに対し金杉橋から出る舟はいつかは帰って来れる者だった。古川は現在はボートの係留所と化している。橋を渡ったらすぐ日本橋まで4�劼良玄韻�あり江戸時代には付近に一里塚があったとされるが元禄3年(1690)東海道分間絵図などには記録されていない。 |
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{右・寄}薩摩藩邸跡 芝5丁目の交差点を右折してNEC本社ビルの先を左折すると左側歩道の植え込みの中に碑がある。加賀に次ぐ77万石の薩摩藩邸は現在の住所で芝二丁目16〜22、32、三丁目21〜24、32〜34、四丁目1、五丁目7に広がっていたが戊辰戦争の引き金となる幕末の藩邸焼き討ち事件でその殆どを焼失した。碑の文字は西郷隆盛の孫・西郷吉之助の揮毫。 |
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{右・寄}日本電気創立当時の建物基礎 薩摩藩邸跡碑手前付近のNEC敷地内にある。日本電気(にっぽんでんき)は明治31年(1898)福岡県豊津出身の岩垂邦彦が倒産した三吉電機工場を買収し日本電気合資会社として発足、翌年アメリカのウエスタン・エレクトリック(WE)社が54%出資し日本電気株式会社となり日本初の外資系企業として誕生した。明治44年(1911)頃にこの地に建てられた赤レンガ造り2階建最新様式のモダンな建物のレンガ基礎がここに展示されている。建物は大正14年(1925)から始められた旧本社ビル建設の際に姿を消した。 |
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{左}西郷南洲・勝海舟会見の地の碑 芝5丁目の交差点過ぎてすぐの第一田町ビルの前にある。かつて薩摩藩の蔵屋敷があったところで慶応4年(1868)4月6日(旧暦3月15日)ここで旧幕府陸軍総裁・勝海舟と東征軍大参謀・西郷隆盛の会談が行われ江戸無血開城がなされた。当時蔵屋敷のすぐ裏手は海で国元より舟で藩邸に送られてくる物資はここで陸揚げされた。碑は昭和29年建立で文字は薩摩藩邸跡碑と同じく西郷隆盛の孫・西郷吉之助の揮毫。 |
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{左・寄}御穂鹿嶋神社 芝4-15-1 第一田町ビルの手前の小道を左折して行くとある。寛永年間(1624-43)に鹿島神宮の小祠が漂着し同じく漂着した11面観音像と一緒に祀ったのが鹿嶋神社の起こり。平成17年に室町時代創建で後醍醐天皇に使えた公家・藤原藤房(万里小路藤房)を祭神とする御穂神社を合祀し翌年に社殿を再建した。御穂神社の起源は漁師に澪標を教え慕われた老翁を没後に祀り「みおの明神」と呼んだという説と駿河の三保の漁師たちがこの付近に移り住み地元の御穂神社の分霊を移したという説がある。社殿前に嘉永5年(1852)金属製の水鉢。平成18年鳥居左には落語家から寄席看板書きに転身し寄席文字を創作した橘右近の書による昭和52年建立「芝浜囃子の碑」がある。東海道寄りの角には狛犬もある。 |
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{左・寄}本芝公園 御穂鹿嶋神社の海側の道を隔てたところにある。JRの線路手前。芝雑魚場の跡で沿岸部で捕れる小魚・海老・貝類などの「近海もの」が水揚げされ、それを扱う問屋があった。江戸っ子はここの魚を「芝肴」と呼んで珍重した。昭和43年に埋め立てられて整備された公園内には雑魚場跡の標柱、当時の付近地図入り解説板、漁具をモチーフとした現代彫刻、木造帆船を模した児童遊具などがある。 |
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札の辻交差点 JR田町駅を過ぎしばらく行くとある交差点で手前右に昭和52年設置(平成17年建替)の説明立札がある。江戸の6大高札場の1つがあり札がある辻ということで札の辻と呼ばれた。元和2年(1616)には江戸の入口として日暮御門とも呼ばれた芝口門が造られた。高札場は天和3年(1683)に現在の高輪大木戸の位置に移され門も宝永7年(1710)新橋近くに芝口御門として建替られた。ここには江戸の出入りを見張る機能が残ったが享保9年(1724)高輪大木戸が出来ると役割を終え「札の辻」の地名のみが残った。右折した250m先には日本橋を出てから平行している現東海道(第2京浜・国道1号)が通っており旧東海道(第1京浜)と最も接近している地点となっている。歩道橋を登ると右には東京タワーも見える。 |
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{右・寄}元和キリシタン遺跡 三田3-7-8 交差点を渡り少し進み住友不動産三田ツインビル西館の手前を右に入り建物裏の丘を登ると途中に昭和35年建立の「都旧跡 元和キリシタン遺跡」石柱と昭和43年建立の説明碑がある。元和9年(1623)徳川家光が50名のキリシタンを火刑にした辺りとされ正確な場所は不明だが明和年間(1764-72)この地に智福寺[浄土宗](現:練馬区上石神井4-9-26)を開山した一空上人が刑場跡に寺を建てたという記録がある。処刑されたキリシタンには家康の小姓で家康の影武者の伝承もある原主水、イエズス会のジェロニモ・D・アンジェリス神父とその協力者のシモン遠甫(えんぽ)、フランシスコ会のフライ・ガルベス神父などがいた。寛永15年(1638)にも同じ場所でキリシタンらが処刑された。昭和34年都指定旧跡。 |
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{右}御田(みた)八幡神社 三田3-7-16 少し先のセブンイレブン港区三田3丁目店(三田3-7-15)隣に鳥居がある。和同2年(709)東国鎮護の神として創建され稗田神社と称した。祭神は誉田別尊、天児屋根命、武内宿禰命。寛永5年(1628)に現在地に移り明治7年(1874)三田八幡神社、明治30年御田八幡神社となった。東京大空襲で焼失したが昭和29年再建された。境内には五光稲荷神社、御嶽神社もある。 |
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{左}高輪大木戸跡 高輪2-19 地下鉄泉岳寺駅A4入口を少し過ぎたところにある。江戸が拡大したため享保9年(1724)札の辻から移された東海道における江戸の出入口でここから江戸側が江戸の内と呼ばれた。道の両側に石垣が築かれその間に木戸があり夜は閉ざされ通行禁止だった。通行手形の検分があり手形のない者が送迎する場でもあり付近に茶屋があった。江戸後期に木戸が廃止され明治初期に山側の石垣は撤去、残った海側の石垣は幅5.4m長さ7.3m高さ3.6mで史蹟名勝天然記念物に指定されている。 |
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{右・寄}願生寺 高輪2-16-22 テイケンビル先の小道を入って行く。墓地に牛供養塔があり門前に説明板がある。供養塔は元文3年(1738)に建立、現在のものは文政11年(1828)再建されたもの。江戸初期の重量物運搬は牛がたよりで寛永16年(1639)幕府は京都車町の牛屋にこの辺りの土地を与えて常駐させた。7軒の業者が千頭余の牛を使い運送業を営みこの一帯は車町通称牛町と言われた。大八車ができてからは牛は祭礼に使われるようになり「山王も神田まつりも車まで化粧してでる牛町の牛」などと詠われた。荷役の供養地つながりか大八車の廃品もこの辺りで焼却され鉄の輪だけが山のように積まれそれが高輪の地名になったという説まである。日本では殆ど見ることがない石造羊もある。 |
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{右}稲荷神社 高輪2-15 泉岳寺へ通じる道を渡ったところにある。明治以前まで泉岳寺の中にあり明治の神仏分離策で分離した稲荷神社。江戸時代はこのあたりも泉岳寺の敷地だった。コンクリートの建物の2階(屋上)に社殿がある。 |
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{右・寄}萬松山 泉岳寺 [曹洞宗]高輪2-15 慶長17年(1612)外桜田の地に今川義元の菩提のために建立されたが寛永の大火によって焼失、高輪のこの地に移転した。中門をくぐると見えるのが山門。入って左に赤穂義士の霊廟がある。霊廟の入口には旧浅野家の裏門が移築され浅野匠守が切腹した田村右京大夫邸の庭にあった梅や庭石なども移植されている。他に平成13年に新築された赤穂義士記念館、洋風建築の旧義士館、浅野匠守の墓、上野介の首洗い井戸、主税梅、瑶池梅などの忠臣蔵関係史蹟がある。修復中の大石内蔵助像は平成17年10月に完成予定。本堂は空襲で焼失後の昭和28年再建されたもの。
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{右}高輪神社 高輪2-14-18 明応年間(1492-1500)創建。祭神は宇迦御魂神(稲荷大神)で元は稲荷神社と言ったが昭和4年(1929)に高輪神社となった。寛文7年(1667)石大鳥居、文政10年(1827)石門が寄進され弘化2年(1845)の大火でそれらを残し建物は焼失、現在の社殿は昭和55年の築。明治10年(1877)近所にあった誉田別命を祀る鵜来森八幡社を合祀、昭和55年には猿田彦神を祀る境内社猿田彦神社(庚申堂)も合祀された。他に自作と伝えられる聖徳太子16歳の御尊像を宝暦年間(1751-63)に安置した太子堂があり神輿庫に太子宮神輿がある。両脇には力石もある。1つは長径80cm短径46cm厚さ28cmで区内にある重量が刻まれたものの中では最重量。 |
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{右}高輪海岸の石垣石 高輪2-13-8 マンション「シティハイツ桂坂(トミンハイム桂坂)」の高輪2丁目交差点側の角にある。平成7年に高輪2-20の港区有施設の建設現場で発掘されたもので江戸時代に高輪海岸に沿って作られた石垣の一部。発見された3段の石積みのうち江戸後期につみ直された3段目がここに展示されている。それより下は発掘現場で保存されている。石垣石は主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が使用されていた。 |
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{左}品川駅創業記念碑 品川駅高輪口の駅前ロータリーにある。明治4年(1872)9月新橋〜横浜間で鉄道が開業する半年前に品川〜横浜間で仮営業開始した際の記念碑。裏側(東海道側)には当時の時刻表と運賃が刻まれている。1日2往復で横浜発が午前8時と午後4時、品川発が午前9時と午後5時で所要時間は35分運賃は上等1円50銭、中等1円、下等50銭だった。当時の品川駅は海岸線を埋め立てたため現在より南東の海岸寄りにありホームの横には波が押し寄せ南風の強いときは窓から波しぶきが入ってくることもあった。 |
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{左}麺達七人衆 品達 港南2-66-13 品川駅前を過ぎて行くと高架線路の下にある。品川からラーメンの新たな歴史が始まる!をコンセプトにラーメンの達人の店が集結し平成16年にオープンした。旭川屈指の人気店伝説の塩ラーメン「さいじょう」角煮が自慢の逸品西荻窪「ひごもんず」渡辺樹庵プロデュースの新店舗「麺屋蔵六」神奈川・秦野「なんつッ亭」横浜「くじら軒」など7店と土産処「しなたつ屋」がある。朝11:00〜夜10:00
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