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八帖村 八帖往還道 そのまま進むと愛知環状鉄道の高架をくぐる。手前を左折すると中岡崎駅、その先に名鉄名古屋本線岡崎公園駅があり両駅の間には平成6年建立「岡崎城下二十七曲り」の地図付案内碑があり裏面には「松葉総門跡」とある。高架下は早川が流れ道は昭和45年竣工の早川橋を渡る。渡ってすぐ左に平成3年建立「岡崎城下二十七曲り」石柱「八帖村」があるがここは曲がらずまっすぐ行く。八帖村は岡崎城から八町(870m)の距離にあることが由来でこの通りは八帖往還道と呼ばれた。隣には岡崎観光案内図や俳優・八名信夫の手形がある。「純情きらり手形の道」と題し周辺に設置されたNHK連続テレビ小説「純情きらり」出演者10人の手形の一つ。ここで交差している道もきらり通りと命名されている。 |
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{右}カクキュー八丁味噌 八帖町往還通69 高架をくぐると右。入口は右折して行くと左。正保2年(1645)早川久右衛門勝久が創業し代々早川久右衛門を名乗る。先祖は今川義元の臣下でその子孫がこの付近に移住し味噌醸造を始めたと言う。明治34年(1901)以来宮内庁御用達。昭和2年(1927)築のこげ茶と白に塗り分けられた本社建物2棟は平成2年市景観環境賞受賞。明治40年(1907)築の本社蔵は平成3年から史料館となっており明治中期の味噌造りを人形7体を用いて展示し現存する最古史料の延宝7年(1679)近隣農家から田畑を買った証文なども展示されている。平成8年に本社建物2棟と本社蔵は国登録文化財。 前庭には大豆を煮る石炭ボイラーなどが展示してある。岡崎城から移植した蘇鉄もある。見学受付9時-17時(時間は約30分)。
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{左}まるや八丁味噌 八帖町往還通52 八帖往還道を進むとある。醸造業を営んでいた弥治右衛門が自家製の味噌を製造したのが始まりとされ延元2年(1337)創業。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは家康軍の兵食となり重宝され江戸幕府が開かれた当初より徳川家御用達となった。慶長11年(1607)には苗字帯刀を許され大田と名乗った。現在は世界25カ国以上に「Hatcho Miso」の商品名で輸出もしており地域活性ブランド三河武士サムライのブランド商品にもなっている。工場内にはその昔、忍び込んだ日吉丸(秀吉)が逃げる時に石を投げ込げて追っ手を撹乱したという井戸もある。
個人見学は8:30-11:30、13時-16時の毎時00分、30分単位。
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{右}八丁蔵通り まるや斜め向かいで東海道と交差する道。カクキューの黒塀に沿って国道1号に通じる。角には「純情きらり手形の道」の宮崎あおいの手形、「岡崎の地場産業 八丁味噌」と「歌にみる八丁味噌」について書かれた説明板もある。大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する味噌は三河・尾張地方特有で船運が便利な矢作川沿いの岡崎の名産となった。「摺ってよし 摺らずなおよし 生でよし 煮れば極よし 焼いて又よし」と言われ常食、兵食として親しまれた。吉田松蔭は「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」斎藤茂吉は「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」と詠んだ。「八丁味噌」は江戸時代からカクキューとまるやのみの商標となっている。 |
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{左}江戸 西京 道標 東海道は少し先で突き当たり右折する。ここが24曲り目。突き当たりには「左 江戸 右 西京」「寄附人 早川久左右衛門 早川平八郎」と刻まれた昭和61年再建の道標がある。右折してしばらく行くと国道1号に出る。江戸時代は少し手前に橋が架かっていたため現在の国道の位置より少し手前で左折し橋を渡り右折していた。これが25曲り目、26曲り目。現在は国道1号に架かる矢作橋で迂回する。江戸時代の矢作橋(矢矧橋)は広重の岡崎宿の絵にも描かれ紀行文や道中日記にも必ずと言っていいほど登場した。ドイツ人エンゲルベルト・ケンペルの「江戸参府紀行」スウェーデン人オロフ・エリクソン・ウィルマンの「日本旅行記」朝鮮通信使の日記など外国人の書物にも登場している。 |
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{右・寄}矢作橋 平成20年現在架替え工事中。その前の橋は昭和26年(1951)竣工の長さ276m幅9mの鉄筋コンクリート橋で少し上流の大正2年(1913)竣工の鉄橋から架替えられた。江戸・明治と下流に架けられていた旧:矢作橋(矢矧橋)は慶長6年(1601)に75間(136m)の土橋が最初で慶長12年洪水により流出、八帖村の被災した人々は伝馬町北に移住した。寛永11年(1634)将軍家光上洛時に208間(378m)橋杭70の板橋が架けられ街道一の長さを誇り江戸時代には天保9年(1838)までに9回架替えられた。安政2年(1855)の流失から明治4年(1871)仮橋が架かるまでは渡船による通行で明治10年(1877)本格的な木橋が架けられ明治23年、44年と架替えられた。鎌倉時代は舟渡しで両岸には宿場(矢矧宿)が発達していた。 |
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{右}出合之像 現在の矢作橋を渡ったところにある。秀吉(日吉丸)と蜂須賀小六の出会いの場面の石像で平成元年建立。奉公先から逃げ出し橋のたもとで寝ていた12歳の日吉丸の頭を通りかかった野武士の小六が蹴ると目覚めた日吉丸が怒って小六の槍の柄を掴むという場面だが矢作橋は江戸時代になって初めて架けられたためこの頃には無かった。吉川英治の太閤記では日吉丸は川に繋がれた小舟で寝ていたとある。寝ている時にくるまっていた筵はカクキューの味噌蔵から盗んだものとされ同社の味噌のパッケージにも同場面の絵が使用されている。石像は平成20年現在橋の架替え工事のため撤去されており写真入り説明板のみある。ここを右折して旧東海道に合流し坂を下り少し先で左折する。ここが27曲り目。 |
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{右・寄}八幡社 矢作町宝珠庵2 左折せずにまっすぐ行くと左にある。元は下馬八幡社と称して字羽城の田圃の中にあったが水難を避けて現在地へ移転した。祭神は應神天皇、天御柱神、地御柱神。明治元年(1868)字加護畑にあった地御柱神を祭神とする柱口大明神を境内社として移し大正5年(1916)合祀した。大正14年の神社名柱には「八幡宮」とあるが愛知県神社庁の登録社名は「八幡社」。灯籠は昭和3年(1928)など。道を挟んだ川沿いには明治中期の県知事・勝間田稔が揮毫した「十里堤成萬民報」碑や大正2年竣工の矢作橋の親柱などがある。 |
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{右・寄}矢作神社 矢作町宝珠庵1 八幡社すぐ先。祭神は素戔嗚尊、豊受大神、保食神。日本武尊が東国平定の折に川の中州に生えていた竹を使って矢を作り勝利したと言い日本武尊が素戔嗚尊を祀ったのが起こり。社殿前左の矢作薮がその竹の一部とされ「矢作」の由来にもなった。建武2年(1335)新田義貞が足利尊氏との戦で戦勝祈願を行った際に神社前にあった石が唸ったと言いうなり石と呼ばれ矢作薮の根元にある。江戸時代に一時期牛頭天王社となったが明治に再び矢作神社に改称。第一次大戦後、軍艦矢矧の船員一同が参拝し模型を奉納した。境内右に昭和18年(1943)陶製の日本武尊像(高さ330��)。境内左には秋葉神社、山車格納庫、明治23年(1890)矢作橋親柱もある。灯籠は明和8年(1771)天保9年(1838)など。 |
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{右}河原山 勝蓮寺 [真宗大谷派] 矢作町宝珠庵16 東海道を左折したらすぐ。恵堯が師の専信僧都の薬師如来をこの地にあった柳の根元に堂を建てて安置し柳堂薬師寺と称したのが起こり。天台宗だったが嘉禎元年(1235)親鸞が立寄った際に住職の舜行が弟子となり恵眼と称し改宗した。本尊阿弥陀尊像は親鸞より与えられたと言われる。その後は柳堂勝蓮寺と言われ松平広忠、家康、石川家成などから崇敬された。17代世行誓の時には家康の嫡子信康との関係も深く唯一ある信康画像をはじめ多くの遺品を所蔵する。入口左に宝暦10年(1760)「親鸞聖人御舊跡柳堂」石柱。山門入って左には石を安置した祠。その近くに六字名号碑が2基。境内右には井戸と安政6年(1859)手水石、鐘楼、土蔵がある。寺の前には82里目の矢作一里塚があった。 |
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{右}弥五騰社(やごとしゃ) 矢作町羽城78 しばらく進み右折すると矢作東小学校(矢作町切戸28)門前右にある。祭神は手力雄命、配祀保食命、健御名方命、忍穂耳命、菅原道真。元は彌五郎殿と称し明治5年(1872)弥五騰社と改めた。明治初期に近くにあった八王子社と諏訪社を境内社とし大正5年(1916)合祀した。大正5年建立の神社名石柱は「弥五騰神社」とあるが愛知県神社庁の登録社名は「弥五騰社」。その後ろには昭和6年(1931)「定」石製立札。その右の文政13年(1830)建立の大きな題目碑は文政11年の洪水の死者を慰霊したもの。灯籠は慶應2年(1866)狛犬と玉垣は大正15年。境内右には矢作三区公民館がある。小学校裏の一帯は松平家家臣の島田氏の矢作城跡で東の羽城に島田平蔵、西の土井城に島田弾正が居城していた。 |
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{右}誓願寺 十王堂 矢作町馬場4 しばらく進むとある。長徳3年(997)恵心僧都が溺死した住僧慶念の冥福を祈り堂を建て千体地蔵菩薩を彫って安置したのが起こり。寿永3年(1184)兼高長者が娘・浄瑠璃姫の遺体を埋葬した当寺に堂を再建し義経と浄瑠璃姫の木像を造り義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を共に安置した。現在の堂内は立像1体を中心として2段に並んだ12像が安置され背後の壁に紫雲に乗った如来や天女、飛天、蓮華、堂塔などが極彩色で描かれている。堂前右には祠があり子安地蔵など5石仏が安置され堂前左には宝暦8年(1758)建立「浄瑠璃姫菩提所」石塔がある。堂左隣には毘沙門天像を安置した祠もある。堂の左奥は矢作保育園になっており保育園の敷地が誓願寺境内で奥に寺の本堂、左に鐘楼がある。 |
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{右}浄瑠璃姫の墓 誓願寺境内の右にある。石柵に仕切られた中の中央の最も高い宝篋印塔が浄瑠璃姫の墓と言われ石柵の外の左の大きい五輪塔が父親の兼高長者の墓と言われる。姫は年老いて子のなかった矢作の里の兼高長者が日頃から信仰していた煙厳山鳳来寺(新城市門谷鳳来寺1)の薬師瑠璃光如来に祈願し授かったため浄瑠璃姫と名付けられた。承安4年(1174)奥州に向かう途中の16歳の牛若丸(義経)は矢作を訪れ長者宅に11日ほど泊まり2人は出会った。姫は旅立った義経の後を追ったが追いつけず戻り寿永2年(1183)17歳で乙川に身を投げた。この悲話を小野お通が音曲に仕立て信長の前で演奏したのが浄瑠璃の始まりと言われる。右には石造坐像や芭蕉句碑「古池や 蛙飛び込む 水の音」もある。 |
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{右}竊樹(ひそこ)社 矢作町祇園106 呉服店の高岡屋(矢作町祗園103)を過ぎるとある。創建時期は不明だが古くは上加茂大明神と言い明治時代は加茂社と称し大正2年(1913)矢作村盗人木の竊樹社を合祀し大正5年に社名も竊樹社とした。「竊」の字は「盗む」という意味もあり竊樹は「ぬすとぎ」とも読め旧地の地名に通じる。祭神は御気津神。大正11年建立の神社名石柱は「竊樹神社」とあるが愛知県神社庁登録社名は「竊樹社」。社殿の周りは松林となっている。灯籠は文化7年(1810)と昭和15年。狛犬は大正15年。境内にはブランコなどの遊具もあり右前の隅には地蔵の祠もある。旧地一帯は住民が増加し昭和28年に地名が盗人木から末広となり翌年にここの竊樹社を分祀し小祠を建て竊樹神社(矢作町末広47-28)になっている。 |
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{左}護水山 福萬寺(福万寺) [真宗大谷派] 矢作町西河原12-2 神社のすぐ先が十字路になっており渡って少し先にある。明治21年(1888)創建で本尊は阿弥陀如来。庭園のように整備された参道を進むと右に太子堂がある。本堂はコンクリート2階建てのモダンな造り。 |
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{左}暮戸神社 暮戸町宮岸4・5 少し先の矢作町猫田交差点で国道1号に合流する。これから2�劼曚匹蝋馥擦鯤發�。東大友町並木側交差点を過ぎたあたりに神社の裏口がある。以前は東海道側が正面だったが昭和61年社殿を南向きにし境内を整備した。寛文2年(1662)創建で祭神は建速須佐之男命、石上神。石上神はここから南西の西本郷町にあった赤口社の祭神で慶應年間(1865-68)に境内社として移し明治43年(1910)合祀した。明治24年(1897)社殿改修、大正13年(1924)本殿改築。狛犬は昭和8年(1933)。灯籠は昭和12年。社殿右に祠があり燈籠と昭和61年の鳥居がある。境内左には昭和61年の竣工記念碑、暮戸公民館、すべり台、ブランコ、シーソー。境内右に鉄棒がある。 |
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{左}真宗暮戸教会 [真宗大谷派] 暮戸町葭野6 少し先。文政6年(1823)京都東本願寺が焼失し再建に関する集会のため会所が設けられたのが起こり。境内右の瓦葺の手水舎下の大きな手水石は安政4年(1857)のもの。本堂は新しい公民館風の建物で境内左の駐車場の周りには古い土蔵や鐘楼も残る。明治4年(1871)神仏分離などの宗教改革に反発して起こった大浜騒動(菊間藩騒動、鷲塚騒動)の際には真宗大谷派三河護法会の僧侶がここに100名近く集まり暴動の発端となった。絹本著色阿弥陀如来十二光仏画像(室町時代)、明版大蔵経770冊を所蔵しともに昭和36年市指定文化財。大蔵経は明(現:中国)から渡り犬山城城主成瀬氏が菩提寺である東海山白林寺に寄進したもので明の元号では万暦12年(1584)日本の元号では天正12年のもの。 |
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旧道の蛇行跡 少し先の暮戸交差点では東西には横断歩道はあるが南北には地下道が設置されており地下道壁画には浄瑠璃姫、三鹿の渡し、矢作りの里など近隣の伝説が紹介されている。交差点を過ぎ少し先右には国道から道が一度右に分岐してすぐ元に合流するという旧道の蛇行跡がある。この先にも分岐とまではならないが歩道が大きく膨らんでいる場所が2ヶ所ある。両側には自動車整備や販売店が続き鹿乗川を鹿乗橋で渡ると道はゆるやかな上り坂となる。 |
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{左}青龍山 聖善寺 [浄土真宗本願寺派] 宇頭町東側40-1 しばらく進むとある。永観年間(983-84)創建で本尊は阿弥陀如来。明治初期には少し先の宇頭町交差点の南西にあり宇頭学校が置かれていた。境内左の枝垂桜(幹周1.3m)は昭和38年市指定天然記念物。彼岸桜の一種の枝垂桜で樹齢300年。かつては胸高囲2.4m高さ10m枝張り15mにも及び枝先が山門まで届く程だったが昭和34年(1959)伊勢湾台風により主幹が折れて樹勢が衰えた。境内左には鐘楼、明治15年(1882)手水石もある。本堂前の灯籠は嘉永5年(1852)。慶長4年(1599)作の木造孝養太子立像を所蔵し昭和36年市指定文化財。嘉永4年(1851)聖善寺が檀家に対して檀家であることを証明するために発行した寺請証文が徳川林政史研究所(東京都豊島区目白3-8-11)に保管されている。 |
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{右}和志王山 薬王寺 [浄土宗] 宇頭北町1-2-3 地下道で国道を渡った向かい。創建時期不明。長元3年(1030)編纂「本朝文粋」の慶滋保胤の漢文詩に「参河州碧海郡 薬王寺」とあるが行基創建というこの寺は建武2年(1335)新田義貞と高師泰の矢作川合戦で焼失した。山門前の石段下に安永4年(1776)文化8年(1811)の灯籠。山門入って右に天保9年(1838)手水石、左に石仏4体の祠。境内にも灯籠が4つある。山門前左の昭和2年(1927)寺名石柱の左には「新四国第四番弘法大師」石柱と昭和52年「三河国刀匠鍛刀造跡」碑がある。付近には室町後期に刀鍛冶集団の三河薬王寺派刀工が居住していたとされ寺には刀工のものとされる位牌がある。境内は推定全長60mの前方後円墳の宇頭大塚古墳でもあり現在は本堂を頂上とする後円部だけが残る。 |
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柿碕の松並木 少し先の宇頭町交差点を渡ると右側が安城市になりその先の尾崎東交差点で左側も安城市となる。尾崎東交差点で国道1号から分岐し右へ進むのが東海道で両側が松並木となる。松は戦後に工場の進出や伊勢湾台風、住宅化などで減少したが現在は市の事業で保護されている。松並木がなくなると少し先の志貴小学校入口交差点手前の民家を左折した塀には地蔵がある。ここで東海道と交差している道は安城道で旧東海道から安城へと通じる唯一の道だった。交差点からしばらく行くと右に再び松が現われる。 |
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{右}東高根用水記念碑 左にある喫茶店べるの木(尾崎町宮前17)向かいにある。大正13年(1924)に現在の豊田市広美町から尾崎町を通り三別と呼ばれる安城市東別所町、西別所町、別郷町まで南北に通る灌漑用水が完成した記念に昭和3年(1928)建てられた大きな碑。明治34年(1901)に現在の安城農林高校(池浦町茶筅木1)である県立農林学校初代校長となり地域の農業改革を推進し安城一帯を「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業地にした功労者山崎延吉の揮毫。山崎は昭和3年には衆議院議員、昭和4年私塾「神風義塾」を三重県鈴鹿に開き、昭和5年には愛知学泉短期大学の前身の一つである安城女子専門学校初代校長、昭和20年東海毎日新聞社社長、昭和21年貴族院議員もつとめた。 |
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{右}第一岡崎海軍航空隊「予科練之碑」 少し行くと昭和48年建立の碑がある。ここから北の一帯は昭和19年に河和海軍航空隊の岡崎分遣隊が置かれ後に岡崎海軍航空隊と改称し全国から集まった予科練習生に整備教育を行なった。滑走路を挟んで北の現在の上郷中学校(豊田市上郷町4-5-1)付近に増設された上郷分遣隊が独立して第二岡崎海軍航空隊となるとここは第一岡崎海軍航空隊となり基地北東部にはさらに名古屋航空隊分遣隊(第三岡崎海軍航空隊)も駐留し敷地は終戦時には総面積約446haを有していた。碑の手前左には昭和61年設置の当時の基地の見取図もある。戦後は進駐軍により施設や練習機は処分され農地や工業用地になった。柳川瀬公園(豊田市桝塚西町)には第三岡崎海軍航空隊の慰霊碑「若桜之碑」がある。 |
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{右}熊野神社 安城市尾崎町亥ノ子19 すぐ先に灯籠や神社名柱があり参道入口。境内は2400平方mと広い。和銅元年(708)豊阿弥長者が屋敷内に熊野大神を祀ったのが起こりとされ後に村人たちが鎮守として崇め現在地に移した。祭神は伊弉冊命。狛犬は大正13年(1924)。社殿右に秋葉神社がありその前に平成5年鳥居と灯籠、嘉永元年(1848)手水石。その右には社口社、厳島社、海津美神社、白山社、山神社が一緒に祀られた境内社がありその前に慶安元年(1648)寛保4年(1744)昭和5年(1930)の灯籠。境内には他にも大正5年など灯籠が多い。鎌倉時代の薬師如来懸仏残欠と室町時代の木彫不動明王像を所蔵しともに昭和38年市指定文化財。火縄銃4丁、大鏡等も所蔵する。参道左はすべり台、ブランコなどがある尾崎児童遊園。 |
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{右}尾崎一里塚跡(83) 鎌倉街道跡 鳥居のすぐ先に昭和51年建立の大きな英霊招魂碑があり街道側の隅に「東海道 一里塚跡」碑と昭和54年設置の鎌倉街道跡の説明板がある。鎌倉街道は鎌倉時代に京都と鎌倉の間を結んだ街道で宿駅63箇所が設置されていた。京側からは北西の不乗森(のらずのもり)神社(里町森38)を通って熊野神社前で旧東海道と交差し南東へ向かい矢矧西宿があったと言われる現在の岡崎市大和町付近に通じていた。神社西側の小路と一里塚碑から南に伸びる小路がその名残と言われている。神社の森は分岐点を意味する「踏分の森」とも言われた。向かいの角には街道に覆いかぶさるような松があり目明しの松(目印の松)と呼ばれ分岐点の目印だった。神社を過ぎても街道右には小さな松が点々と続く。 |
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{左}法喜山 妙教寺(喜徳稲荷) [法華宗陣門流] 宇頭茶屋町大浜屋敷69 宇頭茶屋交差点を過ぎ宇頭茶屋バス停も過ぎてしばらく行くとある。永年眼病に悩み続けた加藤喜三郎(本妙院日喜)が鎌倉街道沿いに建つ稲荷の祠に籠もり法華経を読誦すると病が平癒したため仏門に入り明治33年(1900)喜徳稲荷真天を勧請し明治36年自宅に志貴教会を設立したのが起こり。昭和25年2世日徳が法喜山妙教寺として本堂を新築、書院、庫裡を増改築して寺として整えた。昭和17年より安置している本尊の一塔両尊は元亀2年(1571)長福寺9世弘誓院日朝が妙晃を願主として京都の仏師法眼に作らせたもので昭和51年市指定文化財。入口の寺名柱は昭和6年、左には昭和56年の題目塔。入って右に喜徳稲荷、よろこびの観音の祠がある。寺の前に2本の松が並び俳句立札もある。 |
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{右}内外神明社 宇頭茶屋町宮前3 斜め向かいに平成元年建立の社名柱と大正10年(1921)鳥居、手前右に昭和3年(1928)「御大典記念」石柱がある。境内は右折し正面で入口に昭和62年の鳥居、大正3年の灯籠がある。祭神は天照大神。創建年代は不明。村の氏神として天照大神を祀るようになった。境内左に大正9年「明治神宮鎮座祭記念梅樹」碑、昭和9年手水石、境内右は鉄棒、すべり台、ブランコがある広場で奥に稲荷の祠がある。社殿は石段を数段登ったところにあり石段下右には百度石。社殿前灯籠は明治37年(1904)狛犬は昭和2年。社殿左前に昭和48年「本社殿再建記念碑」がある。しばらく東海道を進むとヤマザキショップ宇頭茶屋店(大浜屋敷51)少し手前右に平成3年地蔵とその後ろに自然石の六字名号碑がある。 |
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{右}宇頭茶屋説教所(講堂) [真宗大谷派] しばらく行くと右の宇頭茶屋説教所バス停前にある。本尊は聖徳太子作と伝わる11尺7寸5分(3.6m)の阿弥陀如来像でその昔、旅人が背負ってきて当時の住民に泊まった際に預けたと言われる。現在の本堂は勝蓮寺から来た住職岩附信順が大正15年(1926)に再建したもの。境内右には昭和2年(1927)手水石がある。説教場裏には昔は蝮の加工工場があった。明治期に横浜で外国人から剥製技術を学んだ宇頭茶屋出身の中根松太郎がこの辺りに蝮が多くいることから蝮問屋を始め宇頭茶屋は大正4年(1915)頃には蝮の産地として有名になった。昭和初期には大阪の薬屋へ年間8万匹以上の蝮を卸していたと言う。 |
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{左}「明治天皇御駐蹕之所」石碑 少し先の左の宇頭茶屋説教所バス停に昭和15年(1940)建立の碑がある。愛知県知事田中廣太郎の揮毫。ここは高井善兵衛の茶屋・藤屋跡で当初は庭に建てられていた。明治元年(1868)9月と12月、明治2年3月、明治11年10月の4回休憩した。明治2年と明治9年には照憲皇太后が、明治10年には英照皇太后も休憩している。藤屋は明治用水工事の際に県の役人や技師の打ち合わせ場所や宿泊所、完成時の祝賀会の主宴会場にもなった。この辺りは立場茶屋が何軒かあったところで手前の宇頭村(現:岡崎市宇頭町)から移住した人々が営み宝暦12年(1662)宇頭茶屋村となった。少し先の十字路で交差する道は大浜から足助に通じる塩の道である浜道(大浜街道)と交差したことから大いに発展した。 |
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{右}本然山 永安寺 [曹洞宗] 浜屋町北屋敷17 しばらく行くとある。創建時期は不明。村のために助郷役の免除を願い出て延宝5年(1677)刑死した大浜茶屋村の庄屋柴田助太夫の菩提寺。境内右に幹が地上1.4mで4つに分かれそれぞれが地を這うように伸びている松があり雲龍の松と呼ばれる。樹高4.5m幹周3.7m枝張東西17m南北24m樹齢300年で昭和60年県天然記念物。松は助太夫屋敷の庭から移したともここが屋敷跡で寺の創建時に植えたとも伝わる。山門手前の左には厄除子安地蔵尊の祠、右には昭和6年(1931)助太夫終焉地石柱。山門入った左にも祠がありその先左には石造33観音が並ぶ。その奥左に石碑が安置された祠、鐘楼。助太夫の墓は寺の手前の細道を右折し裏に出て2つ目の十字路を右折して行った左の共同墓地にある。 |
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{右}明治用水記念碑 少し先の県道76号線と交差する明治川神社交差点の手前右には地蔵が安置されたブロック製祠と松、明治42年(1909)建立「故市川碧海郡長治績碑」があり交差点を横断したところに明治用水記念碑が3つある。右から明治用水開渠記念碑、「疏通千里 利澤萬世 聖朝嘉績 良民美挙」碑、昭和54年建立通水百周年記念碑「清流保悠久」。明治用水は幕末に碧海郡和泉村(現:安城市和泉町)の豪農・都築弥厚が文政10年(1827)幕府に計画書を提出したのが始まりで許可が出たものの弥厚は病死。明治になって都築家所有の開拓地の農民・岡本兵松と岡崎の庄屋・伊豫田与八郎が別々に用水計画を立案し県庁の仲介で共同計画となり明治12年(1879)に開削を始め翌年30kmの用水が完成した。 |
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{左}明治川神社(水神社) 東栄町柳原9 向かい。明治用水が完成した明治13年(1880)成業式(竣工式)が取水口(現:豊田市水源町)で行なわれ式終了後は参列者が舟にて用水を下りこの付近で花火を上げ祝宴を行った。同年末に大水上祖神、水分神、高龗神を用水の守神としてこの地に祀り明治17年に明治川神社となった。明治用水の功労者である都築弥厚を大正4年(1915)に、伊豫田(伊予田)与八郎を昭和17年に、岡本兵松を昭和26年に、豊田市の枝下用水の功労者である西沢真蔵を昭和31年に合祀。参道途中の一段高くなったところには創建時に熱田神宮から移設した木造鳥居の礎石。境内には神馬の銅像、太鼓橋もある。社殿左奥の伊佐雄社には明治用水の他の発起人や北野用水、鹿乗川の開削改修に功労のあった11人を祀る。 |
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{右}日吉神社(日吉社) 浜屋町屋敷山6 街道右から松並木となり少し行くと明治40年(1907)灯籠、明治42年の神社名石柱がある。境内は右折して駐車場の先で途中に一本松や赤鳥居、暗渠にかかる平成7年竣工の日吉橋がある。祭神は大山咋命。昭和62年社殿前灯籠の左には昭和13年の百度石がある。狛犬は大正14年(1925)。社殿右に伊勢神宮と津島神社を祀った境内社があり社殿左にも小さな祠がある。境内左には浜屋町公民館(老人憩の家)、右には昭和17年陸軍大将荒木貞夫揮毫の忠魂碑。その右はブランコ、すべり台、砂場、ベンチなどがあり奥には昭和52年建立の県知事仲谷義明揮毫の土地改良碑がある。 |
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安城市の松並木 東海道は両側に松並木が続く中を進んで行く。この付近の松は若い松ばかりだが市が整備保全に力を入れている。安城市は黒松を市の木としており街路樹に限らず松を植栽する土地所有者には松喰虫薬剤散布や被害木伐採のための補助金制度などもある。1kmほど進むと左のJAあいち中央グリーンセンター安城北部店(東栄町野池畑35-2)前には「東海道の松並木を守ろう」標柱や少し先にブロックで囲まれた地蔵があり少し先で一旦松並木が終わる。 |
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{右}木元奥州 青麻神社 少し先の石碑が乱立する一角。鳥居の奥に小さな祠、左に地蔵の祠がある。ここは明治12年(1879)から明治16年までの相撲取・濱碇又七の旧宅跡の隣にあたり引退後に薬の行商で財をなし明治30年ごろより世話になった人の顕彰碑等を多く建立した。発起人など別の名前が彫ってあるが全て濱碇の建立で師匠である5代目清見潟又市、怪我を治療した森医院院長・森林平の顕彰碑、清見潟の妻や濱碇の姉の戒名が刻まれた石碑もある。化粧回しを付けた濱碇石像、「大角力協会清見潟代理目代正 濱碇碑」字碑もある。敷地右端の祠に3体の地蔵、その左に地蔵と表忠碑。薬屋の傍ら相撲の目代(地方巡業の代理人)も務め他の村に建立した地蔵も近郊に多く残る。薬屋は山口旭薬局が継承している。 |
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{右}「東海道のマツ並木」説明板 隣の加藤歯科医院(里町西野池10)の隣の民家には昭和49年保護樹木指定のタブノキ(幹周3m)がある。その先の東栄町交差点からしばらく進み住宅街を抜け右のホワイト急便今本町店(今本町4-6-5)を過ぎたら再び松並木が再び始まる。このあたりは太い松もある。安城市内の東海道には樹齢200から250年と推定される江戸時代からの松も百数十本現存しており昭和33年(1958)頃から市が整備しており昭和45年には市天然記念物にも指定されている。少し先左の浅賀井製作所(今本町4-5-20)前の歩道は松に占領されていて「東海道の松並木を守ろう」標柱もある。その先の今本町4丁目交差点を渡るとしばらく右のみ松が続き途中に「東海道のマツ並木」の説明板がある。 |
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{右}秋葉神社 少し先で両側に僅かながら大きな松がありその先の石田川を石田橋で渡ると神社がある。大正3年(1914)秋葉山常夜燈と昭和50年鳥居があり奥に小さな祠があるのみ。先に進むと少し先右のバイク屋HEAVEN(今本町石田47-1)前が土手になっており松が5本並んでいる。その先は両側に小さな松が点々とし猿渡川を平成4年竣工の猿渡川橋で渡ると安城市から知立市となる。橋の欄干にはカラー彩色された松並木がデザインされている。 |
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