東海道ルートガイド
丸子宿

{右・寄}瑞岩山 心光院 [臨済宗] 駿河区手越203
しばらく行くとある看板を右折し2叉路を右に行くと正面。駿府の豪商深江屋の森又兵衛が開基。山門手前左に地蔵尊や6地蔵、支那事変の慰霊碑、文久3年(1863)手水石などがある。山門入って左には稲荷社もある。静岡新四国観音霊場第32番の千手千眼観音、駿河一国百地蔵第4番の延命地蔵(盗難除け地蔵)も所蔵する。寺の裏山は通称・桜山と言い源平の合戦で身に危険が迫っていた平頼盛(清盛の弟)が手越平太家綱の元に妻子を預けた際に妻の寂しさを慰めるため千本の桜の木を送ったという伝承がある。
{右・寄}少将井神社 手越202
心光院に行く途中の2叉路を左に行くと正面。建久4年(1193)創建。祭神は当初は素戔鳴尊のみだったが明治22年(1889)近所の神明宮、山王神社、水神社を合祀、左口神社を境内社とし後に合祀したため5祭神を祀る。社殿は明治32年(1899)、昭和33年改築。少将と千手という美しい2人の娘を持った手越長者の館跡と推定され姉の少将も祀ったと伝わる。神社は謡曲「千手」の生誕の地とされ境内左に平成5年建立の白拍子姿の千手の像と説明板がある。社殿前の灯籠は昭和23年で社殿左には楠の大木。石段を登った左には自然石に金属製の火袋を乗せた文化7年(1810)秋葉山常夜燈がある。石段下の平成8年の鳥居両脇に手水石があり右のは文化3年のもの。鳥居左には昭和55年の文字庚申塔。
{左}御霊山 高林寺 [臨済宗妙心寺派]  手越330
しばらく行くとある。この辺に安倍川を渡る目印とした大木があり高林と呼ばれておりそこに庵を作って住んでいた僧に一条信龍(信玄の異母弟)の子孫松井正近が協力し寺を建て高林寺とした。境内右には高林御霊神社もあり正近の長男八十郎を祭神とする。母が玉を呑んだ夢を見て寛永16年(1639)生まれた八十郎は左手に白い玉を握っていた。慶安4年(1651)13歳で没したが後に正近の所に現れ翌年には後光明天皇の夢にも現れ国の鎮守になると言った。天皇は吉田兼起に命じこの地に神社を作らせ承応2年(1653)正二位高林霊社の位を与えた。境内右の木馬堂の木馬は浅間神社から逃げてきたという伝説がある。境内中央に駿河一国百地蔵第5番の子育地蔵尊の祠があり右横に2基の文字庚申塔。
{右・寄}小森山 泉秀寺 [曹洞宗] 向敷地9
大きな楠がある手越原バス停すぐ先に看板があり右折し正面。門入って左には地蔵の祠があり駿河一国百地蔵第7番の延命地蔵菩薩など4体の地蔵がある。境内右には子育水子地蔵尊、左には6地蔵もある。戦国時代に甲州から移住し駿府一の豪商と言われた松木家の3代目宗今(新斎)の妻正(まさ)の墓がある。宗今の子の宗周(新左衛門)は元禄10年(1697)上野寛永寺根本中堂の造営時に紀伊國屋文左衛門と共同で材木調達を請負い更に財を成した。他にも寺には木喰上人作の子安観音、大黒天を所蔵する。
{右}子授地蔵尊
旧東海道を進むと左に4本の大きな松がありそれを過ぎると手越原の5叉路で国道1号に合流するが少し先の佐渡交差点で左に分岐し県道208号に入る。分岐してしばらく先に進むと車道ギリギリの所に堂がある。駿河一国百地蔵第10番。
{左}さわたりの手児(てご)万葉歌碑
地蔵尊向かいの佐渡公民館の敷地左にある。万葉集巻第14にも収められた東国農民に愛唱された歌にある佐渡(さわたり)という地名は昭和52年「丸子一丁目」と改称され地名が消滅しそれを惜しみ昭和57年に碑が建てられた。碑面は万葉仮名で歌が刻まれ「左和多里能 手児尓 伊由伎安比 安可故麻我 安我伎乎 波夜義 許等登波受伎奴」とあり下に読み方口語訳、説明が刻まれた石板も嵌められている。公民館前の道路には夢舞台道標静岡市 丸子宿と東海道案内の説明プレート石柱もある。先をしばらく進むと左に1本の小さな松と2本の松がある。
{右}丸子一里塚碑(46)
昭和54年竣工の佐渡橋で小豆川を渡ると左に松が1本あり道は右にカーブしていく。商店街と長田西小学校(丸子6-15-65)を過ぎると森山歯科(丸子6-15-50)の斜め向かいあたりの歩道上に大正14年(1925)建立の石碑がある。「一りつかあと」と彫られており元は1つ手前の府中一里塚にあったものを移したもの。通常塚は道の両側に作られているがここは北側には塚がなかった。しばらくいくと道幅が狭くなり古い町並みとなり丸子宿に入る。
丸子宿   本陣1脇本陣2旅籠24家数211人口795[天保14年(1843)]
東海道の宿場の中でも小さい規模の宿場だが歴史は古く鎌倉御家人の手越平太家綱が文治5年(1189)奥州藤原氏攻めの恩賞で与えられた麻利子村を宿駅として願い出たのが始まり。古くは鞠子とも書く。江戸時代には1497石の幕領となり安倍川の川越も賄っていた。天保14年(1843)の記録で東西町並7町(763m)。名物はとろろ汁で芭蕉の句や東海道中膝栗毛などでも取り上げられたほか広重の丸子宿の絵も茶屋でとろろ汁を食べる旅人を描いている。今でも殆どの家屋には「かじ屋」「藤屋」「臼屋」「とうふ屋」など江戸時代の屋号を書いた看板が掲げられている。
{左}水神社
しばらく行くと赤い鳥居と石段がある。すぐ裏を流れる丸子川がその昔に決壊し3人が犠牲となり川を鎮めるために創建された。境内には新しい社殿と椋木(目通4.5m樹高20m)がある。石段下の右には丸子宿の説明碑があり低い石の上に東海道の説明、丸子宿の説明、当時の簡単な地図などのプレートが4枚貼られている。神社と繋がる家屋を過ぎると丸子川の土手になりすぐ上の斜面に馬頭観音が3基安置された祠がある。
{左}明治天皇御小休所跡 (横田脇本陣跡)
道が一直線になりしばらく行くと「四つ目屋」という看板が掛かった民家前に昭和9年(1934)建立の「明治天皇御小休所阯」の石碑がある。横田七右衛門脇本陣があった場所でここに明治天皇が明治元年(1868)10月5日に小休した。
{右}丸子宿本陣跡
少し先に平成4年建立の「史跡 丸子宿本陣跡」の石碑がある。明治3年(1870)まで本陣をつとめた横田三左衛門家の跡。建物は書院造で門、玄関の他、上段の間もある広大な陣屋だった。本陣の手前には問屋場があった。
{右}明治天皇御小休所跡 (藤波脇本陣跡)
少し先に先程の横田脇本陣と同じ形式の昭和9年(1934)建立の「明治天皇御小休所阯」の石碑がある。脇本陣をつとめた米屋藤波栄四郎家の跡で明治天皇が明治元年(1868)12月13日と明治2年3月22日の2回小休した。
{右}お七里役所跡
続いて平成13年建立の碑がある。碑右面には紀伊之国屋と彫られている。元和5年(1619)家康の十男頼宣が駿府から紀州に国替えののち幕府の動向や江戸の情報をいち早く知るために設置した紀州徳川家専用飛脚の丸子における役所跡で幕末の古文書に入山勘太夫役所、丸子勘太夫などと記述がある。江戸・和歌山間146里(584km)に約7里(28km)ごとに役所を置いたため御七里役所と言い23箇所の役所ごとに5人1組の飛脚を配置していた。静岡県内では沼津、由比、丸子、金谷、見付、新居に設けられた。普通便は毎月3回、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発、道中8日を要した。特急便は4日足らずで到着した。後ろの建物の軒下には宿の幕末頃の地図が掲げられている。
{右}丁子屋 丸子7-10-10
しばらく行くとある慶長元年(1596)創業の有名なとろろ汁屋。幕末の絵図には丁子屋平吉とある。現在の建物は昭和45年に近くの古民家(築300年)を移築したもの。入口左にある石は駿府城築城時に集められた石垣石の一つで丸子舟川より運び出されたが旧東海道の下に埋もれていたのを昭和51年正月電話ケーブル埋設事業の際掘り出されくさび割り跡を辰年に因み龍が爪跡を残した縁起ものとなぞらえ辰石と名付けた。店内には無料展示室も併設され十返舎一九像や江戸時代の旅道具などもある。とろろ汁は自家製の甘みのある白味噌ベースの出汁で伸ばす味噌仕立てで小口に切った青ネギを少々散らす。丸子(とろろ汁・麦入ご飯・味噌汁・お新香・薬味)1380円など。11時-19時、木、月末水曜休。
{右}芭蕉句碑
丁子屋入口手前に碑がある。文化11年(1814)建立で雪中庵完来の揮毫。「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」。元禄4年(1691)江戸に向かう弟子の乙州への餞別に芭蕉が丸子にて詠んだ。円形の碑は丸い天空、太陽、丸子の丸を表したと考えられている。他にも敷地には昭和57年十返舎一九没後150年を記念して建立の東海道中膝栗毛碑がある。弥次さん喜多さんは茶屋で夫婦喧嘩に巻き込まれとろろ汁を食べそこない「けんかする 夫婦は口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ」と詠んだ。宿には十数軒のとろろ汁屋があったが殆どが廃業。天明6年(1786)出版の「東街便覧図略」には一椀20文で青海苔、唐辛子粉の小箱とおひたしの皿が付いていたとある。店の前には丸子宿の広重の絵もある。
{右}細川幽斎の歌碑
丁子屋の前の2叉路で左折し昭和51年竣工の丸子橋で丸子川を渡るのが東海道。渡る手前左には夢舞台道標静岡市 丸子宿と東海道案内の説明プレート石柱がある。渡る手前右には細川幽斎の歌碑、高札風の細川幽斎の説明板、小さな松などがある。昭和49年の丸子川集中豪雨で2650戸、1万人が被災、復旧に4年を費やし工事完了を記念し昭和56年に建立されたもの。歌は天正18年(1590)細川幽斎が小田原攻めの先陣として丸子を通った際に詠んだもの。「人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音ばかりして」。人数とは「人の数になる」→「武勇を立てる」という古語。先陣として波をけわたす音のように自分が敵を蹴散らし武勇を立てるのだ、という意味。
{右・寄}躄地蔵尊
丸子橋手前で左折せずにまっすぐ行くとすぐ右に看板があり細道を右折していくと左に堂がある。駿河一国百地蔵尊13番。文政2年(1819)足を痛めた旅人が故郷へ帰りたい一心で道を這って宇津ノ谷峠を越え丸子橋の傍まで来たが力尽きこの世を去った。村人は「次の世は足も丈夫に生まれ変わりなさい」と同年地蔵を建てて供養した。後の旅人も地蔵の由来を聞き道中の無事を祈ったと言い「丸子のおいざりさん」と呼ばれた。入口看板少し先右にあるとろろ汁屋一松園(丸子7-11-5)前には馬頭観音の祠、馬頭観音の石碑、明和元年(1764)柴屋寺道標がある。吐月峰柴屋寺(丸子3316)は1kmほど先にあり寺の周りの竹林の竹から作る灰吹きは良質で人気があり「とげっぽう」は灰吹きの代名詞だった。
{右}高札場跡・丸子宿西入口
丸子橋を渡るとすぐ丸子元宿高札緑地というポケットパークがありベンチや東海道400年記念植樹の松と共に江戸時代の触書が書かれた板が立ててある。近くの津島神社から発見された天和2年(1682)の高札のレプリカで現物は縦58cm横258cm厚さ8.2cmで市文化財に指定されている。内容は忠孝奨励諸法度、宿駅諸法度、毒薬・にせ金禁制。丸子宿西入口の立て札もある。高札や見附は江戸時代には丸子川を渡る手前の右にあった。道はこのあと丸子川の左岸に沿って進みしばらくいくとラブホテル街になる。
{右}観音堂
国道1号に合流する二軒家交差点手前右に観音堂と明治2年(1869)と平成7年の2基の文字庚申塔がある。堂の右隣には二軒家公民館(丸子5473-1)、堂の左の道の反対側には東海道案内の説明プレート石柱もある。合流後はしばらく国道の左歩道を行き赤目ヶ谷交差点の先で起樹天満宮の看板がある下でスロープを下り国道と平行する裏道に分岐する。
{左}「日本の紅茶発祥の地 丸子紅茶」の看板
旧道を進んでいくと丸子運送有限会社本社営業所前に看板がある。明治元年(1868)駿府に移った徳川慶喜に従った幕臣多田元吉が翌年この地に移住し原野を開き茶の栽培を始め明治9年(1876)政府に評価され中国・インドに派遣された。インドのアッサム地方、ダージリン地方、セイロン島に日本人として初めて訪れ製茶技術を学び明治10年帰国しアッサムから持ち帰った紅茶原木を品種改良し欧米への主要輸出品に成長させ全国に栽培、製造技術を広めた。昭和9年(1934)の輸出は1300tで丸子紅茶は日本の輸出品の柱となり「いずれはリプトンを抜く」とまで言われたが紅茶の輸入自由化の波を受け衰退した。元吉品種の丸子紅茶は平成元年から村松二六により復刻され土産店等で販売されている。
{左}起樹天満宮(起木神社、起木天神社) 丸子6850
赤目ヶ谷公民館の少し先に参道入口がある。参道右に羅漢像が並び右が長源寺、左が天満宮の鳥居(昭和59年)となる。祭神は菅原道真。付近は古来より道真が好んだ紅梅が多く赤梅ヶ谷と呼ばれ赤目ヶ谷に転じた。建久年間(1190-99)頼朝が上洛中に神社前を通ると梅の大木が倒れ道路を塞いでいたが木は夜のうちに元通りに起き上がっていたたため「起き木」と称した。鳥居くぐってすぐに銀杏(目通4m樹高20m樹齢300年)が1本ある。社殿左の軒下に平成15年奉納の鎌倉時代の名馬「磨墨」「女啼」が描かれた扁額。社殿前に平成13年建立多田元吉翁碑と元吉が建てたと伝わる漢文の石柱碑碑の前には紅茶幼木もある。社殿左には白山神社、山神社、八幡神社の祠とその左に津島神社の祠。
{左}長源寺 [臨済宗] 丸子6850
寛保元年(1741)創建。山門入って左には6地蔵や平成元年建立の高さ3mの早百合水子観音菩薩座像がある。境内には子育観音、耳地蔵、池のほとりに丸子弁財天もある。高台の墓地の上には平成13年建立の聖観音もある。山門手前右には天保15年(1844)庚申塔ほか石塔が5基ある。山門手前から左の細道を登っていくと多田元吉の墓所があり前には元吉がインドより持ち帰った日本紅茶原木がある。国学者野沢昌樹(1722-1800)の墓碑もあり撰文は本居宣長と伝わる。甲斐出身で明和事件(1767)で尊皇の志士である弟の山県大弐が処刑されたため駿河に来てこの付近に仮住まいし医者をしていた。後に駿府の紺屋町に移ったが没後、門人らがこの寺に墓を建てた。
{右}観音像
ドライブイン東海道(丸子6316-1)の前後に一本松がありその横を通りその先の赤目ヶ谷中交差点の赤目ヶ谷おはやし歩道橋で国道を渡ると正面に丸玄工芸(丸子6288-1)の広告用の大きな金色観音像がある。歩道橋を下りると国道から右に分岐し丸子川の左沿いの道を行く。しばらくすると国道に合流し80m先のJOMOガソリンスタンド(丸子6935-1)脇の赤目ヶ谷西交差点で再び右に分岐ししばらく行くと再度国道に合流する。その後は所々に東海道ルネッサンスのプレートが貼り付けてある国道の右側歩道を歩く。
{左}道の駅・宇津ノ谷峠 宇津ノ谷82-2
しばらく国道の右側歩道を歩いていくと反対側に道の駅が見えてくる。丸子川に沿うように逆川歩道橋で国道の左に渡り川の左の歩道を行く。すぐ先には「世界之願交通安全」と刻まれた大きな宝塔がある。昭和44年滋賀県の八景山正法寺(大津市神領1-10-4)日観により建立された。そのまま歩道を進むと道の駅に着く。食堂、売店の他、仮眠できる畳スペース付きの休憩所がある。食堂では自然薯を使ったとろろ定食(900円)とろろそば・うどん(600円)などもあり売店では丸子紅茶などの名産品が売られている。道の駅・宇津ノ谷峠は3箇所に分かれており反対側(上り線)にもあるがトイレと駐車場しかなくトンネルを越えた岡部町の上り線側に売店、休憩所等の施設がある。
{左・寄}蔦の細道の入口
道の駅から左にカーブしていく車道用のスロープを少し進むと左に昭和44年建立の石柱があり舗装されていない小道が分岐している。応和元年(961)頃成立し建久5年(1194)頼朝が鎌倉と京都を結ぶ為に整備した宇津ノ谷越えの最古道で平安初期の歌人・在原業平が主人公と言われる伊勢物語の第2段東下りなど平安、鎌倉、室町時代の歌や物語によく登場した。天正18年(1590)秀吉が小田原攻めのため開いた大名街道が江戸時代以降東海道となりこの道は廃道となり荒廃した。昭和30年代に長田西小学校教諭春田鐵雄が約10年かけて調査、復元し現在は約1.8Kmのハイキングコースとして整備されている。峠の一番高い所を通っており東海道はそれより低い所を通っている。
{右}宇津ノ谷峠周辺の案内板
東海道は車道用のスロープではなくその手前の歩道橋で国道を渡り国道から分岐し宇津ノ谷へ向かう。分岐するとしばらくは広い通りを歩く。左にカーブし右にゆるやかにカーブすると2叉路があり分岐点に集落の住宅地図に昔の屋号も書かれた周辺案内板がある。その下には平成5年市民景観大賞優秀賞「宇津ノ谷の家並み」碑や歌川貞秀画の浮世絵の立札がある。分岐を左に行くのが東海道で宇津ノ谷集落に入る。分岐して左には夢舞台道標静岡市 宇津ノ谷もある。集落は丸子宿と岡部宿の間に位置する間宿で現在は道はカラータイルに整備され両側の古い家屋には丸子屋、伊勢屋、車屋、松屋、角屋など昔の屋号を書いた看板が掛かっている。
{右・寄}宇津山 慶龍寺 [曹洞宗]宇津ノ谷729-1
御羽織屋の手前を右折し少し下り丸子川に架かる昭和38年竣工の朱色の龍門橋を渡るとある。天正6年(1578)歓昌院第4世宗旭が開創で本尊は十一面観音菩薩。境内には昭和57年建立の許六の句碑がある。許六は本名森川百仲・通称五助という彦根藩士で芭蕉の弟子(芭蕉十哲の一人)でもありこの句は芭蕉から賞賛された代表作。古くから宇津ノ谷峠にあった地蔵堂の延命地蔵尊は明治42年(1909)以降この寺に移されている。駿河一国百地蔵第15番。入口左に天保7年(1836)三界万霊塔、境内左に延宝4年(1676)と寛文12(1672)の六字名号碑、大2体小12体の地蔵が安置されている祠、平成18年建立小川須美子句碑、水子地蔵、忠霊塔、6地蔵、宝暦9年(1759)万霊塔がある。
{右}御羽織屋(石川家) 宇津之谷171
江戸時代の建物の旧家。天正18年(1590)小田原攻めで宇津ノ谷峠を越えてきた秀吉は馬の沓が傷んだため庄屋だったここに立寄った。主人の忠左衛門は3脚分しか沓を用意せず何故3つかと聞かれあとは帰りに差し上げると言った。帰りを約束するのは勝利を意味しており秀吉は喜び勝利後にも立寄り陣羽織を与え村人の諸役を免じた。羽織は家康など諸大名が縁起が良いと立寄り腕を通したり少しちぎって持ち帰るなどしたため傷んでいたが博物館出品を機に補修され現在はガラスケースに展示されている。また家康や慶喜から贈られた茶碗、諸大名の芳名録などもある。9時-16時、不定休、200円。塀の中に昭和9年(1934)建立の明治天皇御小休碑もある。明治元年(1868)と明治11年に休憩した。
宇津ノ谷集落出口
御羽織屋の少し先から道は徐々に上り坂となり突き当たりには階段がある。階段を登りきって左折してさらに坂を登っていくと突き当たりに方向標示がある。右が旧東海道、左が宇津ノ谷トンネルとなっている。宇津ノ谷トンネルは明治トンネル、県道208号(旧国道1号)の大正トンネル(昭和5年開通:幅7.3m高さ4.3m全長227m)、国道1号上り車線の昭和トンネル(昭和34年開通:幅9m高さ6.6m全長844m)、国道1号下り車線の平成トンネル(平成7年開通:幅11.25m高さ6.58m全長881m)と4つあるがここの方向標示の宇津ノ谷トンネルは明治トンネルを指している。
{左・寄}明治トンネル
方向標示を左に行くと駐車場があり四阿や峠のジオラマ、宇津ノ谷カントリートレイル案内図がある。右には万延元年(1860)の常夜燈、古い石碑4基もある。奥に煉瓦造りの重厚なトンネルの入口がある。現在、歩行者専用となっている明治トンネルは日本で2番目に出来たトンネルで日本初の有料トンネルでもあり銭取トンネルとも呼ばれた。杉山喜平次ら地元有志7人が結社を創り明治7年(1874)掘削を開始し工事費24800円をかけて進められ延べ15万人の作業人員が手掘りで掘削し明治9年(1876)に完成した。大部分が木造だったため明治32年(1899)カンテラの失火による火災で通行不能になり明治37年にレンガ造りで修築された。幅4m高さ3.9m全長203m。平成9年に国有形文化財に登録された。
{左}馬頭観音
方向標示を右に少し進むと左に夢舞台道標静岡市 宇津ノ谷がありすぐ先に地図プレート石と「旧東海道のぼり口」の小さい看板があり左に山道に入る階段がある。右には昭和34年(1959)161万8500円かけたという水道造築記念碑もある。少し登ると左に2基の馬頭観音がある。左が大正5年(1916)右が嘉永5年(1852)のもの。その先には左の視界が開け丸太のイスが数個並ぶ休憩スペースがあり宇津ノ谷集落が一望できる。集落の説明プレート石柱もある。
{右}雁山の墓
道が細くなり少し下ると墓石と説明プレート石柱がある。芭蕉と同門の山口素堂の甥である雁山は幼少の頃から素堂に儒学、茶道、俳諧などを学んだ。享保12年(1727)頃周りに何も言わず旅に出たところ友人達は彼が死んだと思い法要を開きその噂がこの地にも流れ彼に俳諧の指導を受けていた人々が享保15年この墓を建立した。しかし雁山は生きており享保15年から37年後の明和4年(1767)甲府で81才の生涯を閉じた。黒露と名を改め駿河で俳諧の師匠をしていた際もこの墓の前を通ったと言われる。墓は元は山寄りの位置にあったが山崩れのため現地に移された。この先は階段で再び登りとなり右に明治43年(1910)の山崩れで旧道が消滅し便宜的に階段を作ったと説明したプレート石柱がある。
{右}延命地蔵堂の石垣
しばらく行くと石垣が見える。石垣の下まで階段が作られており階段上に説明プレート石柱がある。石垣は地蔵堂を建てる時に平らにするために積まれたもので高さ7mの二段構えで最大幅12m。弘法大師が刻み野州素麺谷(栃木県)の山奥に安置したと言われる延命地蔵の化身と言われる地蔵尊が安置されていた地蔵堂がこの石垣の上にあった。地蔵尊は明治42年(1909)慶龍寺に移された。地蔵尊が宇津ノ谷峠の人食い鬼を退治するため現れ鬼を小さな玉に化けさせ杖で打ち10個の粒にして呑み込んだという話は名物「十団子」となった。慶龍寺の親戚筋に当たる菓子屋松芳堂(駒形通1-1-19)が和菓子として復刻している。集落では小豆大の10粒を9つ束ねて家の軒先に厄除けとして吊るす風習もある。
{右}延命地蔵堂跡
石垣から周り込むようにして登ると説明板と峠道の地図プレート石柱がある。奥の広場が地蔵堂跡で中央にプレートが6枚(説明3枚・東海道分間延絵図・地蔵堂絵馬・東海道図屏風)貼られた石碑がある。平成12年発掘調査で5m四方と2m四方の跡地が見つかり前者を跡地として整備した。昔は敷地には供養塔2基、6地蔵、有渡郡と志太郡境の榜示杭2本がありそのうち寛政10年(1798)願主丸子宿鈴木権太夫による供養塔が左に残存する。手前には銀杏が1本ある。江戸時代末期の河竹黙阿弥作の芝居「蔦紅葉宇都谷峠」では百両の大金を持った盲目の文弥と百両の返済工面に失敗した伊丹屋十兵衛が丸子宿の旅籠藤屋で出会い十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう場面が地蔵堂前となっている。
トンネル保守用道路へのスロープ
少し先が旧東海道が通る峠の最高点でその後は下り坂となりすぐに手すりのある細いコンクリート道(スロープ)となる。手すりの向こうは舗装された車道でカーブに回り込むようにして下りその道と合流する。合流地点右には峠道の地図プレート石柱がある。合流した道は国道バイパスのトンネルの通風孔の保守用のための道路(管理道)でこの道路を通すため東海道が消滅しスロープが作られた。少し先の左に管理道により旧道の道筋が変わったことを示す説明プレート石柱がある。しばらくこの車道を行くと峠道の地図プレートと旧東海道の方向表示があり車道は右へカーブし明治トンネル出口からの道と合流していくが旧東海道は左(真っ直ぐ)に入って車道から分岐し再び山道に進む。
{左}ひげ題目
再び森の中の道となった坂道を下りて行くと道端に説明プレート石柱があり山の斜面に題目碑がある。天保6年(1835)の建立で側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」とある。裏には備前国木綿屋門平の名や清水市から島田市付近の建立者の名も刻まれている。
{右}蘿径記碑跡
さらに下ると説明プレート石柱と奥に立札がある。蘿径記碑は文政13年(1830)儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が宇津ノ谷峠を通った際に平安時代から由緒ある蔦の細道が寂れていくのを憂いて同年建立した石碑で「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味する。碑は漢文で刻まれ細道を有名にした伊勢物語と在原業平を讃える文章や今後この道を通る者にもそのことを思い出させようとして建立した経緯などが書かれている。碑は古くはここにあったが明治になり旧東海道が寂びれたため明治トンネル出口に移され現在は坂下延命地蔵堂境内に移されている。
蔦の細道からの道と合流
車道に出る前左に夢舞台道標「岡部町 東海道参勤交代の道」があり山道は車道に合流する。少し先右には峠道の地図プレート石や高札風の旧東海道の説明板もある。左は蔦の細道公園駐車場で左に行くと蔦の細道の西入口となる。蔦の細道公園は木和田川沿いに明治45年(1912)から大正3年(1914)にかけて造られた大小8基の石造りの堰堤(兜堰堤)群を活かした親水公園で水車小屋や吊り橋、休憩所などがある。堰堤は平成14年国有形文化財に登録されているが2号堰堤は平成15年の豪雨により決壊し復元された。
{右}坂下延命地蔵尊
少し先にある。元禄13年(1700)岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜平衛、中野陣右衛門の3人の発願して再建された。堂内には地蔵菩薩像が安置され伝説として「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」とも呼ばれる。灯籠は寛文11年(1671)と元禄14年(1701)。手水石は明治36年(1903)。鐘楼は昭和49年新築で梵鐘は昭和38年鋳造。本堂左には文化2年(1805)など9基の石仏が置かれた祠と6地蔵+1地蔵が置かれた祠がある。地蔵祠の裏には9基の五輪塔と石仏3、石塔1。本堂右の少し上には観音堂がありその前には文久3年(1863)石仏や五輪塔などが数基ある。その下方には文政4年(1821)などの巡礼塔2基と庚申塔がある。本堂の左裏の祠には蘿径記碑がある。境内には鉄棒もある。 駿河一国百地蔵第16番