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{右}下地一里塚跡(74) しばらく行くと下地交差点手前の歩道の街路樹の横に車道側に向いて平成元年建立の石柱がある。江戸時代には塚には左右ともに榎が植えられていた。交差点を渡りしばらく行くと左の石段上がったところに遊具とベンチがあるのみの豊岸公園がある。 |
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{右}旧:山本商店 (現:ヤマサン) 下地町豊麻27 歩道がなくなり道幅が狭くなるところの両側に新社屋がありすぐ先右に連子格子が綺麗に残る間口の広い古い建物がある。元禄16年(1703)創業で菜種油の製造販売、米穀商、両替商などをしていた商家。昭和59年よりヤマサンとして事業継承し現在は食用油脂、大豆、飼料、冷凍食品などの販売をしている。建物はかつての東海道の高さで建てられており現在の道路よりも一段低いところにある。ここから他にも古い建物や土蔵などが続き古い町並を抜けると歩道がある道となり住宅と事業所が混在した新興地帯となる。さらに進むと横須賀町交差点の先右に松が1本あり隣には切株も1つある。
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{右}瓜郷遺跡(うりごういせき) 少し先左に小さな文字不明の道標があり斜め向かいには「史跡境界」石柱と瓜郷遺跡の案内標示がある。ここから右一帯が弥生時代中期から古墳時代前期にかけての集落遺跡にあたる。昭和11年(1936)に貝塚が発見され昭和22年から27年までの5回の発掘調査で住居跡や土器、石器、骨角器、木製農具などが出土した。唐古・鍵遺跡(奈良県)、登呂遺跡(静岡県)とともに弥生時代の3大低湿地遺跡の1つ。昭和28年国史跡に指定。右折して100m左にある空地には発掘された竪穴住居跡を元に明治大学教授後藤守一博士の設計で復元された楕円形の住居(東西5.8m南北3.5m)と「史跡 瓜郷遺跡」の石柱、説明板がある。見学自由。出土品は豊橋公園内の豊橋市美術博物館に収蔵されている。 |
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鹿菅橋(しかすがばし) 少し先で江川を小さな鹿菅橋を渡る。古代には豊川(当時は飽海川)の河口付近は川幅が4�劼發△蠅海良婉瓩論酊譴芭洪佑六峭畤棆貪�(しかすがのわたし)という渡し舟で渡った。船着場の位置は詳しく解明されてないが京側は柏木濱と呼ばれ現在の小坂井町内で江戸側は豊橋駅の西付近とされる。中洲に多くの島があり名勝としても有名で詩や屏風画にも描かれている。永観元年(983)には歌人源順(みなもとのしたごう)が「行きかよふ 舟瀬はあれど しかすがの 渡りはあとも なくぞありける」と詠み清少納言は枕草子の第17段に「渡りはしかすがの渡り」とその筆頭に挙げた。「しかすが」は歌枕としても知られ能因法師、赤染衛門、中務など多くの歌人が詠んでいる。 |
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{左}秋葉神社の祠 しばらく行くと右のシャディサラダ館下五井店(下五井町茶屋前46-1)少し先の向かいの民家横にある。左前には明治3年(1870)建立の「秋葉山」石柱がある。この辺りを左に少し入った地域は古くは中島氏、星野氏などが居住していたとされる下五井屋敷(下五井館)があった場所で亀甲形にめぐらされた道が屋敷を中心とした集落の名残をとどめている。現在の地名も城屋敷と言い北側には日吉神社(下五井町宮後10)もある。 |
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{左}豊橋魚市場 下五井町青木110 しばらく進むとある。明治10年(1877)豊橋市魚町で営業していた数軒の魚問屋が豊橋魚問屋を設立したのが起こりで明治12年株式会社となり明治40年豊橋魚鳥と丸中荷受の2社に分離、大正2年(1913)再び合併し豊橋魚市場とし昭和41年現在地に移転した。豊橋近辺の港で水揚げされた魚がここで取引される。総敷地面積約9860坪(32596平方m)。卸売市場(セリ場)、仲卸売場(おさかなセンター)、冷蔵棟の他、奥の食品センターには肉屋、八百屋、乾物屋、 食堂などもあり周辺には食品関連会社も集まっている。
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豊川放水路 魚市場を過ぎると豊橋市から宝飯郡小坂井町に入り少し先にある。豊川市行明町・柑子町から豊橋市前芝町・清須町へ通じる全長6.6�夘�120m-160mの放水路は昭和13年(1938)に着手されたが戦争の拡大によって中断しのちの市議会議長・植田九一の呼びかけにより昭和28年に再開、総工費47億8600万円をかけ昭和40年に完成した。河口で再び豊川に合流するという分類上では珍しい放水路で豊川の本流の水量が少ない時は川下流域での工業用水や飲料水利用、生物への影響を考慮し水門は閉められ放水路の流量は少なくなる。放水路を渡るには坂を上って昭和40年竣工の高橋を渡るが歩道がなく車の通行量が多い。橋の前後の坂道の右には旧道らしい細い道が平行している。 |
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{右}子だが橋の碑 橋を渡り坂を下りきるとニチレイ・ロジスティクス東海豊橋物流センター(小坂井町小坂井道地8)前に昭和38年建立の石碑がある。右は暗渠になっているが左には小川が流れおりここには東海道に架かる橋があった。千年前ごろ菟足神社の風祭(例大祭)初日には街道を最初に通る若い女性を生贄にする風習がありある年に生贄を捕らえる番人が橋で待っていたところ最初に通ったのは出稼ぎから帰った自分の娘で泣く泣く生贄としたため橋を子断が橋と呼ぶようになった。現在も神社では12羽の雀を生贄にした神事を行っている。橋のたもとで転んだら袖をちぎって川に流さないと災いが降りかかるという伝説もあった。明治には「小田橋」とも書いた。石碑は文化財専門審議委員・文学博士の是沢恭三の揮毫。 |
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{左}とんぼ公園 宝飯郡小坂井町小坂井宮下21-5 少し先の才ノ木南交差点で国道247号を渡りさらに先の才ノ木交差点右にある。町が「ふるさと創生事業」の一環として平成7年に設置した。植生している葦や湧水を活用して8つの池と湿地沼で多数のトンボを育てる環境を作っている。トンボが羽化する季節(5月-8月)には観察会なども実施し学習の場、コミュニケーションの場としている。シオカラトンボ、ショウジョウトンボ、ノシメトンボ、ギンヤンマ、アオモンイトトンボ等が見られる。敷地内には菟足神社の銘がある応安3年(1370)鋳造の梵鐘が出土した水田跡があり説明板と横に榊の木がある。梵鐘は戦国時代に略奪を逃れるために埋めたとされ現在は神社の所有となっており昭和39年に県有形文化財に指定された。 |
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{右}菟足(うたり)神社 小坂井町小坂井宮脇2 才ノ木交差点から少し先。雄略天皇の頃(456-79)創建され白鳳15年(675-86頃)現在地に移された。移したのは秦から渡来した徐福の一行の子孫とも伝わる。祭神は菟上足尼命。入口の灯籠は文化元年(1804)で参道を進むと左に大正10年(1921)鳥居がありくぐって右に手水石、左右に明治43年(1910)の大灯籠。社殿前に大正5年(1916)狛犬と明治30年灯籠、右に境内社の八幡社があり前に天和4年(1684)享保2年(1717)の燈籠がある。その右には山住、金刀比羅、津島社の小祠、さらに右には昭和33年忠魂碑。境内右に神楽殿や昭和36年国重要文化財指定の大般若経585巻を収蔵する宝物庫もある。他にも多くの社宝を所蔵。境内や周囲には貝塚があり縄文から古墳時代の土器も出土している。 |
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{右}秋葉堂 先に進むとカトーデンキ(小坂井町小坂井倉屋敷3-7)の先向かいに「五社稲荷神社道」道標がある。神社は右折して菟足神社の裏を通り国道1号を渡って200m先。さらに東海道を進みJR飯田線の小坂井踏切を渡りしばらく行くと道が左にカーブするところに一本松があり小堂と文化5年(1808)秋葉山常夜燈がある。前には鳥居の代わりに鉄柱にトタン屋根の門がある。 |
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{左}諏訪山 明光寺 [浄土宗] 宝飯郡小坂井町宿光道寺46 宿西交差点で県道384号線を横断し少し先。山門前右には秋葉神社の祠や牛頭天王の石祠など3つの祠がありそれぞれの前に常夜燈がある。2つの常夜燈は文化13年(1816)の建立。山門前左には西国三十三所の巡礼碑がある。山門入って右に大正15年(1926)の石仏、昭和48年の愛知県知事桑原幹根揮毫の「畜魂碑」、左には元禄4年(1691)「南無観世音菩薩」字碑など5つの石仏、石碑。本堂左には四国88ヶ所霊場の弘法大師と観音の石仏が1番から88番まで並ぶ。境内左には五輪塔の下部や破損した石仏、石塔が置かれており平成13年設置の「地境争いと五輪塔」説明板がある。この先の佐奈川(野川)を挟んだ豊川市蔵子との間で川筋について争いがあり地境にあった五輪塔を奪い合ったという。 |
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{左}伊奈村立場茶屋 加藤家跡 左のスーパーあつみ宿店(小坂井町宿佐平山56)を過ぎて少し先に柵で囲われた昭和15年(1940)建立芭蕉句碑、昭和25年建立烏巣句碑、説明板がある。前に木杭もある。大林平右衛門を初代とする加藤家があった所で立場茶屋を営み茶屋本陣とも呼ばれた。また売っていた腹薬「良香散」が有名になり良香散立場とも呼ばれた。明治初期には明治天皇が休憩しその時に天皇が使用した箸も現存する。加藤家の生まれの加藤玄順は俳号を烏巣と言い芭蕉とも親交があり芭蕉句はここに宿泊した時に詠んだもの。烏巣は病弱であったため家督を弟紀隆に譲り京に出て医師となり加藤謙斎と称し多くの医学書を著した。敷地内左奥には同じく柵で囲われた古井戸跡もある。茶屋はこの辺りの地名としても残る。 |
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{右}迦具土神社(かぐつちじんじゃ) 小坂井町伊奈茶屋37 少し先向かい。慶応元年(1865)大火災が起きたため出火元だった現在地に遠江国周智郡(現:浜松市天竜区)秋葉神社より鎮火の神である火之迦具土大神を分祀して宮を建てて祀ったのが起こり。現在の檜造りの社殿(建坪70平方m)は平成18年の築。昭和38年鳥居を入って左の秋葉山常夜燈は文化6年(1809)の建立。境内左に石仏を安置した新しい祠、昭和15年(1940)の大楠公之碑などがある。手水石と狛犬は昭和11年。本堂左には茶屋老人憩の家がある。 |
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{右}伊奈一里塚跡(75) 小坂井町伊奈新町2 しばらく行くと変形十字路先の慶応年間(1865-68)創業の山本太鼓店前に平成3年建立の石柱がある。伊ノ奈一里塚とも呼ばれ江戸時代には左右の塚とも榎が植えられていた。伊奈村は永享年間(1429-41)本多定忠が平定して以降、家康の関東移封まで伊奈本多氏の支配下にあった。居城の伊奈城(小坂井町伊奈柳38)は徳川家の葵の紋の発祥地として知られ享禄2年(1529)5代城主本多正忠の加勢で吉田城攻めに勝利した松平清康(家康の祖父)が伊奈城で戦勝祝いをした際に本多氏の「立葵の紋」を松平家の家紋とすることを決め家康の時代に三つ葉葵の紋となった。この辺りの東海道は歩道がなく連子格子の家が所々にある。 |
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{右}速須佐之男神社 小坂井町伊奈新町180 少し先。古くは土公神と称しこの地が開かれた当初からあり明和年間(1764-71)に尾張の津島神社を勧請し牛頭天王社と改めた。明治初期に速須佐之男社となり昭和4年(1929)村社に昇格とともに速須佐之男神社となった。祭神は速須佐之男命。大正14年(1925)鳥居の右に天保2年(1831)の灯籠、左に祠がある。参道両側には大正14年、昭和2年、昭和31年など色々な様式の灯籠が並ぶ。狛犬は大正12年。社殿左右の後ろには記念碑が並び左には稲荷社もある。境内右隣の児童公園側にも入口があり鳥居、灯籠、明治24年(1891)手水石がある。この先左に長屋門がある民家を過ぎると佐奈川を渡る。昭和39年の佐奈橋があるが歩道は無く左に平成19年竣工の歩行者用の佐奈橋側道橋がある。 |
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{右}冷泉為村の歌碑・若宮白鳥神社遥拝所 橋を渡ると少し先で豊川市に入り少し先左の佐竹会計事務所(小田渕町下垂57)の斜め向かいの小公園の奥にある。平成19年3月建立の歌碑は「散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」で後ろには説明立札もある。藤原定家を祖にもつ公家・歌人である為村が9代家重の将軍就任に際し桜町天皇からの祝賀の勅使の一員として延享3年(1746)生涯一度だけ江戸を往復した際にこの付近で詠んだものとされる。この辺りの街道の右側は豊川市桜町で昔は桜村と言った。遥拝所は平成18年建立の石柱のみで後方の国道1号の向こう側に若宮白鳥神社(桜町2-7-8)はある。砂利を敷き詰めた公園内にはすべり台、ブランコ、シーソーのほか桜町地区防災倉庫、ベンチやトイレなどがある。 |
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{左・寄}稲荷神社 豊川市小田渕町下垂25-9 少し先を左折していくと突き当たりにある。祭神は宇迦御魂命。慶安元年(1648)小田渕村より分離した桜村の鎮守の社として稲荷大明神を祀ったのが起こりで明和9年(1772)京都伏見より改めて稲荷神社を勧請した。入口左の灯籠は明治43年(1910)。明治39年の鳥居の隣には玉垣で囲まれた石祠。参道には明治38年などの灯籠が並ぶ。手水石も明治38年。狛狐は平成9年。境内には楠の大木が何本もあり社殿は新しい。裏は鉄棒、すべり台、ベンチなどがある公園。神社入口よりしばらく進むと昭和38年竣工の五六橋で白川を渡る。歩道がないため右には五六橋歩道橋が架かっている。さらに進むと西古瀬川を昭和39年竣工の西古瀬橋で渡り両側に工場が並ぶ地帯となる。 |
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分断された東海道 しばらく行くと県道31号線と交差するが県道が名鉄名古屋本線の線路を跨ぐために徐々に高架になりつつあるところで東海道は県道の上を跨ぐことも下をくぐることもできない状態となっている。分離帯に柵があり直進できないため左折か右折して迂回する。手前の道路上空には迂回の標示も出ている。迂回し県道31号線を渡った地点から先に進むと白鳥5丁目西交差点で国道1号に出る。 |
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消滅した東海道 本来の旧東海道は国道1号を渡って直進し現在の名鉄豊川線の北側付近を通り徐々に左カーブして名鉄豊川線と名古屋本線の南側に出て国府町藪下交差点で国道1号と交差していたが現在は当時の道筋はほとんど失われている。国府町藪下交差点から左に分岐する県道374号線が現存する旧東海道の続きとなる。より近い所を通るには白鳥5丁目西交差点で国道を渡り舗装されてない農道を国道に沿って進み名鉄豊川線の踏切を渡ってすぐ左折、先の十字路を左折して豊川線に突き当たり右折し線路沿いを進みその先の踏切を渡って国道を白鳥地下道で渡って右折し国道1号を少し行くと国府町藪下交差点となる。 |
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{右}半僧坊大権現の祠 分岐すると左の豊川国府郵便局(国府町上坊入2-1)の先で大きな蔵がある屋敷を過ぎコンドウ住設(上坊入8-6)の少し先向かいにある。コンクリートの柱状の台座の上に小さな祠を載せ「半僧坊大権現」刻まれている。半僧坊大権現はここより東へ30km先にある臨済宗方広寺派の大本山・方広寺(浜松市北区引佐町奥山1577-1)の鎮守の神で中国から帰国する無文元選禅師(円明大師)が嵐に遭った時に出現し助けたという。大男で半ば僧に似ている姿をしており後に方広寺を開山した禅師が半僧坊と名付けた。明治14年(1881)の山林大火で寺の多くの建物が焼失したが半僧坊殿は焼け残ったため厄除け、火防の神として信仰が全国に広まった。 |
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{右}秋葉山常夜燈 すぐ先のうなぎ料理店だるま(国府町上坊入7)向かいにあり平成18年設置の手書き説明板もある。寛政12年(1800)国府村内を火難より守るため建立したもので高さ205cm。国府村(現:豊川市国府町)は律令時代には三河国の国府が置かれ国分寺や国分尼寺もあった。 |
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{右}二子寺 薬師堂 少し先左には江戸時代から続いている漢方・自然薬の専門店くすりのミヤノ(国府町流霞113)がある。その先の十字路を渡り少し行くと堂がある。熊野に行く途中にこの辺りを通った行基が2人の姉妹が住む家に投宿したところ姉妹は死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼んだ。行基が近くの老木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと姉妹は寺を建立しこれを安置した。境内入って左には明治38年(1905)昭和12年(1937)などの墓石8基がある。堂に掛かる扁額の「瑠璃殿」の文字は文政4年(1828)八幡山方巌禅翁の書。堂の左には石仏の祠、堂の右奥は下町公会堂がある。 |
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{左・寄}府中山 極楽寺 [浄土宗] 国府町西浦9 しばらく行くと右の民家のブロック塀を曲げて作ったスペースに観音と僧形の石仏が2体並んでありその向かいの道を左折していくと左にある。山門を入り右に本堂。本堂左前に地蔵菩薩の祠、その横に六地蔵がある。国府小学校(国府町寒若寺6-1)の前身である小学国府学校は明治6年(1873)ここの本堂で開校した。現在の小学校がある場所は磐城平藩の国府陣屋があったところで享和3年(1803)藩主である老中・安藤信成が築き幕末まで続いた。 |
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{左・寄}天皇山 長泉寺 [真宗大谷派] 国府町青馬113 極楽寺の前を通過しそのまま進むと突き当たりにある。山門を入ると左に鐘楼。鐘は天和3年(1683)5世順的師創が鋳造したが戦争供出され昭和23年(1948)に再鋳造されたもの。 |
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{左・寄}国府観音 (観音寺) 極楽寺入口から少し先の新栄2丁目交差点を左折していくと右。慶長15年(1610)極楽寺の住僧が土中から1寸8分(5cm)の聖観世音菩薩を発掘し自ら開基となり創建し万延元年(1860)の絵図には東海道沿いに描かれている。夢のお告げを受けた2人の素封家が像を発掘したとも伝わる。山門入ると左に昭和29年の鐘がある鐘楼。左へ行くと紅梅塚と呼ばれる天保14年(1843)建立の芭蕉句碑。その左に宝永3年(1706)西国33所巡礼塔、右に庚申堂と平成17年建立三河吟魂之碑。その右には三河代官・国領半兵衛の墓と「国府市開祖」と刻まれた灯籠一対がある。半兵衛は貞享2年(1685)家臣の片岡丈右衛門に命じ国府に市を開いた。境内左奥には昭和56年建立の33観音が並び境内には中町公会堂もある。 |
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{左・寄}守公神社 国府町的場19 国府観音前を通過しさらに進んで行くと右にある。武内宿禰の子孫が穂の国(現:東三河地域)の国造であった頃に公庁守護の神を守公神として祀ったのが起こりとされる。古書「国府年代通覧」には霊亀養老(715-23)の頃、藤原豊成が三河国司に来任し神社の近くに住み篤く信仰したとある。江戸時代には歴代領主、代官も信奉した。参道右にある薄墨桜は岐阜県本巣市にある大正11年(1922)国指定天然記念物の薄墨桜(樹高16.3m目通9.91m樹齢1500余年)の種から育てたもの。社殿左に御鋤社、稲荷社、伊雜社、右に香椎社、八幡社の境内社がある。鳥居は宝永2年(1705)。入口灯籠、狛犬は大正12年。手水石は明治3年(1870)。境内には明治28年(1895)などの灯籠もある。 |
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{左・寄}天神山 高膳寺 [曹洞宗] 国府町中道1 新栄2丁目交差点を過ぎ少し先のすや種苗店(国府町流霞169)手前の駐車場奥の細道を抜けるとある。永正5年(1508)大寶山西明寺(八幡町寺前7)2世機外了禅を開山とし久厳長公が開基した。本尊は延命地蔵菩薩。現本堂は平成4年築。山門前左に石仏が3体ある。境内左に十王堂、筆塚、国府天神、田沼稲荷があり稲荷裏には6地蔵+1座像もある。寺には天保から明治まで寺小屋が置かれており師匠の亮眉の歌が刻まれた筆塚は天保11年(1840)に生徒120人が亮眉の供養のために建てたもの。安永元年(1772)には遠江国相良藩主・田沼意次が寺の横に陣屋(田沼陣屋)を築き近隣12ヵ村を支配した。生垣に囲まれていて見れないが本堂裏庭には「従是南相良領」傍示石(高さ1.4m幅30cm)もある。 |
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{右}国府大社神社 国府町流霞5 少し進むとある。祭神は大国主命。創建は不明だが天元永観(978-84)の頃に大江定基が三河国司として来任し出雲大社より勧請したと伝わる。江戸時代には国府大明神と呼ばれた。元和6年(1620)などの棟札や応永7年(1400)奉納の大般若経典書が現存する。慶応元年(1865)には長州征伐に際して14代将軍家茂が参拝し短刀を奉納した。寛政元年(1789)鳥居前には明治21年(1888)と明治39年の灯籠、右には昭和15年石造にて復元した明治41年の定札がある。鳥居を入ると左に楠(幹周4.81m樹高22m樹齢300年)。参道左に秋葉神社、右に金刀比羅宮。社殿左には御鍬社、稲荷社、進雄社もある。
境内左には百度石、ブランコなどの遊具がある広場、国府廃寺礎石。狛犬は大正6年(1917)。
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{右}国府大社神社 土塀 神社の石垣と白い土塀で街道沿いに100m程続く。江戸時代にはこの付近には立場があった。石垣は高膳寺横にあった田沼陣屋の石垣を寛政6年(1794)に移したもので石は音羽川の上流のものとされる。遠江国相良藩主・田沼意次は老中となった安永元年(1772)から失脚する天明6年(1786)までの15年間、国府村、森村、為当村、御馬村など12ヵ村を支配しており安永元年に築いた陣屋も失脚とともに廃止された。意次が領界を示すために御油村境に建てた「従是南相良領」傍示石が高膳寺に、対となる「従是北相良領」傍示石が東南の音羽川の向こうにある弘法山公園の入口にある。先に進み塀が終わると神社の裏口があり灯籠や平成14年再建された天明3年(1783)の鳥居がある。 |
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{右}御油一里塚跡(76) 国府町流霞1 少し先の蒲郡信用金庫国府支店の植込みの中に平成13年建立の石柱がある。石柱には両側面とも「江戸日本橋ヨリ七六里」とある。塚は左右共に榎が植えられ国府村と御油村の境に築かれていた。現在はここを過ぎると街道右は国府町流霞(りゅうか)から御油町堺畑(さかいばた)となり街道左は姫街道追分手前で国府町社脇(やしろわき)から御油町西欠間(にしかけま)となる。この辺りは松並木があった名残で道幅が広くなっている。 |
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{右}姫街道追分 道標 県道368号と交差する十字路を渡った中日新聞販売所隣に明治16年(1883)建立「秋葉山三尺坊大権現道」道標、明治13年建立「國幣小社砥鹿神社道」道標、「左ほうらいじ道」「右ごゆ」と刻まれた安永3年(1774)建立の常夜燈がある。右に行く道が姫街道でここで東海道から分岐し見付宿まで61.4kmの道のりだった。秋葉山(静岡県浜松市天竜区春野町領家841)や砥鹿神社(宝飯郡一宮町西垣内2)、鳳来寺(新城市門谷鳳来寺1)へ参詣に向かう分岐点でもあり砥鹿神社道道標には「是ヨリ汎二里卅町」とある。横には見付宿の姫街道の分岐点にもあった木製立札「三州御油宿 これより姫街道 遠州見付宿まで」もある。江戸時代の追分付近は甘酒や白酒が名物ですぐ先右には豊川稲荷遥拝所もあった。 |
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