東海道ルートガイド
日坂宿

{左・寄}沓掛稲荷神社
しばらく行くと左の水道施設手前を左折した先にある小さな神社で祠と灯籠がある。「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で沓(くつ)を履き替え古い沓を木に掛けて旅の安全を祈願するという古い慣習によると言われる。東海道はやがて坂が急になり民家を抜けたところでさらに急坂となり左右に大きく下る。文化2年(1805 )頃の掛川誌稿に「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ」とあるため「二の曲り」と呼ばれ天保5年(1834)の遠淡海地志では「沓掛坂」との記述も見られる。
{左}日乃坂神社
二の曲りの2つ目のカーブの右に小夜の中山歌碑の古今和歌集収録の読人不知の短歌「甲斐が嶺を さやにも見しが けけれなく 横ほり臥せる さやの中山」(甲斐の白根をはっきり見たいよ 人の気を知らぬげに寝そべっている佐夜の中山よ どいてはくれまいか。) がありその先右に「二の曲りと沓掛」の説明板、その斜め向かいを左折すると木の鳥居がある。鳥居をくぐり進むと小さな社殿がある。神社は元々事任八幡宮のお旅所で大祭の神輿はここまで来て夜を迎えていたが近年は片岡本陣跡までを往復するのみでここまでは来ない。
{右}坂口町の石垣と水路跡
坂を下りきると左にドコモ東海掛川日坂無線局の電波塔があり向かいに石垣と説明板がある。江戸時代の石垣と水路の名残で天保11年(1840)日坂宿の図では22間(40m)の石垣があったとある。電波塔の隣には狂歌入東海道 日阪宿の広重の絵が高札風に建てられ下に説明碑もある。家屋が並ぶ坂を駕籠の列が登っていく図案で旧坂口町のこの辺りを描いたと言われる。狂歌は倭園琴桜「あたらしく けさにこにこと わらび餅 をかしな春の 立場なるらん」。日坂宿はこの付近の旧坂口町から始まっており町には家並もあったが安政の大地震や国道1号開通によって失われ今は一軒もない。少し先に進むと江戸時代にこの町にあった家の屋号を書いた木板が並べられている。
日坂宿   本陣1脇本陣1旅籠33家数168人口750[天保14年(1843)]
延慶3年(1310)夫木和歌抄には既にこの辺りに宿場があった記述がある。小夜之中山峠の西麓に位置するため古くは西坂、入坂、新坂とも呼ばれたが江戸時代に日坂(日阪)に統一された。江戸時代の宿場では比較的規模が小さく天保14年(1843)の記録で町並東西6町半(700m)。東から坂口町、本町、下町、古宮町で半円を描くようにして宿場町が形成され現在もその形状は殆ど変わっておらず街道の両側の民家などに天保11年当時の屋号を墨書した長さ50cm程の木板が掲げられている。日坂村は昭和30年(1955)小笠郡から掛川市に編入された。
{右}秋葉山常夜燈
国道1号バイパス(日坂バイパス)の高架をくぐると県道415号線(旧国道1号)を横断する。この県道が明治13年(1880)金谷宿の西端から開かれた中山新道でここが終点となっている。渡って少し行くと常夜燈と説明板がある。常夜燈は安政3年(1856)に建立されたものを平成10年に復元したもの。日坂宿は嘉永5年(1852)などしばしば火災にあったため秋葉信仰が盛んで各所に常夜燈を建てられた。ここの他に日坂宿には相伝寺境内と若宮神社入口横の2基が残っている。
{右}片岡本陣 扇屋跡 (現:日坂幼稚園) 日坂888-2
常夜燈のすぐ先の幼稚園で入口には立派な門がある。日坂宿唯一の本陣で片岡家がつとめ屋号は扇屋。敷地は350坪(1155平方m)で天保14年(1843)東海道宿村大概帳の記述では建坪220坪(726平方m)門構玄関付。嘉永5年(1852)日坂宿の大火で全焼し後に再建され文久2年(1862)宿内軒並取調書上書には間口13間(24m)奥行右55間(100m)左48間(87m)畳数211畳とある。明治3年(1870)廃業し明治12年日坂小学校(現:大野3-1)敷地となり家屋は校舎として利用されたが現存しない。門右には夢舞台道標日坂宿 本陣跡や日坂宿の大きな説明板と地図案内板もある。宿場のために幕府に直訴し慶長18年(1613)死罪となり後に人々から516俵さまと呼ばれた2代目片岡清兵衛の墓が相伝寺にある。
{右}問屋場跡
本陣の少し先の民家に説明板がある。東海道宿村大概帳には日坂宿の宿役人は問屋1人、年寄4人、請払2、人帳附5人、馬指3人、人足割3人、同下役6人とあり問屋、年寄の他に宿役1人が毎日交代で詰め重要な通行の際には全員で業務に携わった。助郷43村の協力もあり伝馬百疋と伝馬人足百人が集められた。隣の小売店には問屋場の木板がかかっている。
{右}旅籠 池田屋跡 (現:末廣亭)
すぐ隣にある古い建物。1階と2階で少しづつ違うデザインの格子戸が街道に面しており入口には旅人がわらじを脱ぐ三和土(たたき)が設けられている。現在は割烹旅館と仕出し屋として営業している。
{左}本目(ほんめ)藤十邸宅跡 日坂129-1
斜め向かいのJA掛川市日坂支所の植え込みに説明板がある。日坂銀行を設立した本目藤十の邸宅跡。日坂銀行は明治31年(1898)創業で昭和4年(1929)から始まった世界大恐慌の影響を受け倒産した。説明板にはねむの木学園創立者で元歌手の宮城まり子(本名:本目眞理子)が藤十の姪にあたるとも書かれているが姪孫(宮城の母の叔父が藤十)が正しい。
{右}黒田屋脇本陣跡(現:山本屋) 日坂51-2
池田屋隣の雑貨屋・山本屋の隅に説明板と屋号の書かれた木札がある。日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かがつとめ幕末期の日坂宿最後の脇本陣だったのが大澤富三郎家の黒田屋だった。敷地は文久2年(1862)の宿内軒並取調書上書に総坪数120坪(396平方m)間口8間(14.5m)奥行15間(27m)畳101畳とある。明治2年(1869)と明治11年には明治天皇が小休止した。この辺りが日坂宿の中心部。
{左}木蘭屋跡(大須賀鬼卵住居跡)
少し先左の宮嶋酒店(日坂43)の向かいの民家に木蘭屋の屋号木札がある。延享元年(1744)河内国(大阪)生まれの鬼卵は元は下級武士だったが後に名を伊奈文吾から大須賀周蔵と改め安永8年(1779)から職を変えながら吉田、三島、府中、伊達方村と転々とした。寛政12年(1800)頃に日坂に移りここで煙草屋を営みながら栗杖亭鬼卵と称し享和3年(1803)「東海道人物志」文化4年(1807)「蟹猿奇談」などを著した。画や歌も嗜み障子戸に書いた狂歌に松平楽翁(定信)が目を留め褒美を与えたとも言う。寺子屋を開き読書や習字も教えた。晩年は禅に傾倒し長松院(大野1013)14世密仙和尚に参禅し仏卵と号し文政6年(1823)83歳で没した。長松院には墓の他に鬼卵の描いた「十六善神」なども残されている。
{右}商家 藤文
木蘭屋斜め向かい。商家である藤文を営む伊藤文七(文陰)は安政3年(1856)年寄役、万延元年(1860)から慶応3年(1867)まで問屋役も務め明治4年(1871)日坂宿他27ヶ村の副戸長となり郵便取扱所をここに開設し取扱役(局長)にもなった。幕府の長州征討に50両、明治維新時は官軍に200両の寄付もした。現在残る建物は文久2年(1862)時点では藤文とかえで屋から成り藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期の築とされ平成10年掛川市に寄贈された。2軒分の屋号木札や説明板もあり敷地前には広重の日坂宿の絵もある。裏にはが修復されている。明治9年(1876)には昭憲皇太后、翌年には英照皇太后がここで休憩した。文七の孫の伊藤文一郎は明治、大正、昭和に3回村長を務めた。
{右}三悟山 法讃寺 [真宗大谷派] 日坂933
藤文の1軒はさんで隣。開山時期は不明だが宝暦3年(1753)の住職が9世との記録があり17世紀初めには存在した。旅籠が満員の場合に宿泊客を受け入れていた記録もある。山門左に「千の風になって」の歌詞碑。入って左に昭和24年の梵鐘がある鐘楼。本堂左に聖徳太子堂、その前に明治30年(1897)建立の書家成瀬大域の書による暁心翁碑がある。平成15年に本堂が改築され庫裏の横には明治11年(1878)から昭和13年の掃除を経て120年余り使用されていたという鬼瓦が展示されている。
{右}旅籠 萬屋
法讃寺隣。屋号札と説明板があるが公開はされていない。建物は内部の構造体や壁に貼られた和紙に「安政三年甲辰正月」との記述も発見されており嘉永5年(1852)日坂宿大火での焼失後に再建されたものとされる。萬屋は木賃宿と呼ばれる食事を出さない小さな旅籠で庶民が泊まった。文久2年(1862)宿内軒並取調書上書には旅籠屋嘉七とあり旅籠の営業部分のみの記録で総坪数33坪7分5厘(111平方m)間口4間半(8.2m)奥行7間半(13.6m)畳33畳とある。1階の裏手に抜ける土間がなく2階は出格子が2階床と同じ高さで腰高の手すりが付いている。改修時の調査では以前は階段位置が反対にあったことも判明した。1階正面の蔀戸は日坂宿の一般的な店構えで昭和20年代まで多く見られた。
{左}旅籠 川坂屋
萬屋斜め向かい。大阪の陣で深手を負い長松院(大野1013)で療養した太田与七郎源重吉が日坂に定住しその子孫で問屋役をつとめたこともある斎藤次右衛門が寛政年間(1789-1800)に創業した。武士などが宿泊し上段の間もある大旅籠で明治3年(1870)まで続いた。現在の建物は嘉永5年(1852)日坂宿大火後の築で文久2年(1862)の記録で総坪数78坪(257平方m)間口6間(10.9m)奥行13間(23.6m)畳数58畳半敷地は昭和25年国道工事で分断され平成7年バイパス建設時には一部が削られ蔵や明治元年(1868)掛川藩主太田資美から拝領した茶室が解体された。平成12年建物を改修、平成15年茶室を復元。土日祝日のみ一般公開。10時-16時、無料。部屋の襖には山岡鉄舟らによる書がある。
{右}宝珠山光善院  相伝寺(相傳寺) [浄土宗] 日坂928
川坂屋斜め向かい。入口左に天保10年(1839)秋葉山常夜燈がある。常夜燈の裏には33体の石造観音像が3列に並びその奥には延命日限地蔵と庚申塔が安置されてる小祠、享保13年(1728)、17年、19年などの石仏石塔9基がある。境内左に小さな観音堂があり扁額には「遠江第二十一番札所光善寺」とあり遠江33ヶ所観音霊場の1つ。観音堂右前には祠の中に六地蔵や千浦地蔵などの石仏がある。境内には片岡本陣2代目片岡清兵衛の墓もある。大名からの人足手当の支払いが遅れ宿場が貧困に陥った際に宿場のために死罪覚悟で幕府に直願し慶長18年(1613)死罪となったが毎年516俵の手当米が日坂宿に支給されるようなり清兵衛は516俵さまと呼ばれ宿場の人々に崇められた。
{右}高札場
寺のすぐ隣に高さ2間(3.6m)横2間(3.6m)奥行7尺(2.1m)の高札場が復元されており説明板がある。当時は相伝寺観音堂敷地内にあり「下木戸の高札場」と呼ばれていた。天保14年(1843)日坂宿古文書「御尋ニ付申上候」を基に復元し8枚の掲示も東海道宿村大概帳を基に天保年間のものを復元した。日坂宿の高札場は正徳元年(1711)設けられたのが最初でこのとき掲げられた内の5枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)の高札は幕末まで掲げられた。他にも日坂宿が幕領であったため公儀御法度も掲げられた。明治元年(1868)太政官布告により従来の高札を撤去し新たに5枚の高札(五傍の掲示)を掲げたが明治6年(1873)高札が法令公布の方式としては適さないとの見地から撤去された。
{右}下木戸跡
高札場すぐ先の逆川にかかる古宮橋手前に木札と説明板、昭和43年建立の道路舗装竣工記念碑がある。木戸と言っても小規模の日坂宿では戸があるわけではなく古宮橋を宿境として代用していた。江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く粗末な木橋で治安上の一大事が起きた時は橋を外したと伝えられる。江戸時代は長さ13間(24m)幅3間(5.5m)の高欄付きの板橋だった。現在の橋は昭和43年竣工のコンクリート橋で平成13年木の欄干が作られた。
{左}成瀬大域出生の地
橋を渡ってしばらく行くと三河屋の屋号木札を掲げる民家の前に大正3年(1914)建立石柱と説明板がある。書家である成瀬大域(成瀬温)は文政10年(1827)古宮のこの地で生まれた。明治になって42歳の時上京し「一日の計は朝にあり」で知られる儒学者・安井息軒の門に入って書を修めた。明治12年(1879)には書聖・王羲之の聖教序(しょうぎょうじょ)を臨書し真書と草書で書いた諸葛亮の出師表2帖と併せて明治天皇に献上し楠木正成が愛用したと伝えられる古硯を賜り自らを「賜硯堂」と号した。硯は現在掛川市二の丸美術館で保管されている。文部省検定の習字帖の編纂にも数10年携わり明治35年(1902)76歳で没。法讃寺境内には大域自筆の暁心翁碑があり川坂屋にも自筆の襖がある。
{右・寄}若宮神社
少し行くとハイキングコースなどがある粟ヶ岳(標高532m)へ向かう道が右に分岐するが少し右に入って左に木製の鳥居と弘化2年(1845)秋葉山常夜燈がある。鳥居をくぐり山を登っていくと小さな祠がある。東海道を先に進んで行くと県道415号線(旧国道1号)に合流する手前右に夢舞台道標日坂宿 宿場口がある。
{右}事任(ことのまま)八幡宮 本宮
夢舞台道標の先には本宮入口の標示があり本宮山と呼ばれる山を登ると鳥居と小さな祠がある。事任八幡宮は当初はここに創建された。創建年代は不詳だが成務天皇(84-190)の御代と言われ大同2年(807)坂上田村麻呂東征の際に現社地へ移転したと伝わる。延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳には「佐野郡 己等乃麻知(ことのまち)神社」と記載されている。枕草子には「ことのままの明神 いとたのもし」十六夜日記にも「ことのままとかやいふ社のほど もみじいとおもしろし」と書かれている。八幡信仰が広まった康平5年(1062)源頼義が石清水八幡宮を勧請し以降は日坂八幡宮や八幡神社と称されたが第2次大戦以後に「事任」の名を復活し事任八幡宮となった。
{左}事任八幡宮   八坂642
県道415号線に合流したところで宮村横断歩道橋を渡るとある。遠江国一の宮。祭神は己等乃麻知媛命、息長帯姫命、誉田別命、玉依比売命。境内は巨木が鬱蒼と繁り参道をまっすぐ進むと左に大楠(樹高31m目通6m根周19.3m)がある。その先左の石段を登ると拝殿で右奥には樹齢千年といわれる市指定天然記念物の大杉(樹高36.5m目通6.3m根周11.2m)がある。その横には例祭で使われる神輿や日本最大とされる長さ2.7mの大笛も展示されている。境内社として拝殿の左に五社神社、その左に稲荷神社、金比羅神社がある。灯籠は入口に天保9年(1838)、参道中ほどに天保7年、拝殿前に延宝7年(1679)などがある。
{左}塩井神社 八坂2280
県道415号を少し進むと左にある低い台地が農地整備で削られた雄鯨山跡でさらに進み国道1号バイパスの高架が正面に近付くとその向こうに雌鯨山が見える。八坂インターでバイパスを潜ると東海道は国道1号となり少し先の塩井川原歩道橋の下に鳥居と左に夢舞台道標掛川市 塩井川原がある。昔、竜神が事任八幡宮の神の姫を奪おうと雌雄の鯨を使わしたが神は鯨を退治しこれが2つの山となった。怒った竜神は八幡宮の神事の潮垢離のため海岸に来る人々を飲み込むようになった。神は八幡宮から西方13町(1.4km)の所に塩水が湧出る井戸を作りそこで潮垢離をさせそこが塩井川原となった。社殿は石段を降りて逆川の対岸にあるが通常は橋が無くて行くことが出来ず祭礼時に仮橋が架かる。
{右}俳人 伊藤嵐牛出生地 (現:一級建築士事務所 工(タクミ)設計) 八坂434-1
すぐに東海道は国道1号から左へ分岐し県道250号線を進みしばらく行くと大正3年(1914)の石柱がある。伊藤嵐牛(清左衛門)は寛政10年(1798)この地にあった鍛冶屋に生まれ石川依平に和歌や国学を学び後に三河岡崎の鶴田卓池(青々処)に俳諧を学び遠州屈指の宗匠と称された。家業の鍛冶屋も続けながら浜松から静岡まで300余人の門人を養成した。紙を節約して庭の柿の葉に句を書いたと言い俳号を柿園、晩年は白童子とも号した。柿園の名は長男洋々が継ぎ白童子は門人の松嶋十湖が継いだ。設計事務所は子孫の経営で碑のすぐ先にある屋敷では蔵を改造して嵐牛蔵美術館(見学は予約制)を開設している。屋敷の塀にもいろいろ説明板がある。東光寺境内に嵐牛の句碑がある。
{右}福天大権現の道標
しばらく行くと萩田食料品店(伊達方31)向かいに高さ1m強の石柱がある。隣には伊達方萩田食料品店前のバス停がある。寛保2年(1742)建立で下部が欠損しているが元は「福天権現本道」と刻まれていた。側面には「是よりにしかたむらごんげん」や「二十三丁」などとある。福天大権現は現在は南へ2kmほど先の洞谷山龍雲寺[曹洞宗](菊川市西方3780-1)にある。寛保元年(1741)に天狗を祀ったもので当初は龍雲寺の南側にある小高い山の山頂にあり信仰を集めた。昔話では龍雲寺11世忍龍の弟子龍仙に福天という天狗が乗り移り向かいの秋南山の頂上に宮を建立するよう言った。忍龍が疑うと天狗は山頂に大きな鈴が埋まっていると言い掘ってみるその通り出てきたので言われた通り祀ったという。
{左}伊達方一里塚跡(57)
すぐ先の丸共掛川製茶(伊達方20-1)の斜め向かいが小公園になっており石碑がある。直径7間(12.7m)高さ3間(5.5m)の塚が50mほど先にあり一里山と呼ばれていたが明治33年(1900)に取り壊された。平成7年この地に復元し松の木も植えられている。碑の側面には「江戸より55里1町余」「京都より70里3町余」とある。日坂宿からこの辺りの伊達方村にかけては昔から文化人が多く出た土地柄だった。向かいには大頭龍神社があり昭和12年(1937)の石鳥居と手水舎と小さな祠があるのみ。鳥居左の道路脇に大正2年(1913)の道標があり「西方村 堀ノ内駅に通ス」とある。
{右}歌人石川依平出生地
しばらく行くと大正3年(1914)建立の石柱、安政3年(1856)再建の寛政7年(1795)銘の秋葉山常夜燈、自然石の内田了僊碑がある。石川依平は寛政3年(1791)この地にあった庄屋に生まれ6歳にして歌を詠み奇童と言われ掛川藩主に見出され和歌の宗家である京の冷泉家の門人となった。17歳で本居宣長の国学に触れ方救(よりひら)の表記を依平と改めて賀茂真淵の直弟子である栗田土満の門下となった。遠州国学にも通じ門人は300余名もいた。すぐ先の畑の中には明治41年(1908)建立の慶雲寺道道標がある。「慶雲寺道従是五丁」とあり北へ600mほど先にはこの地を統治していた伊達氏の菩提寺である龍門山慶雲寺[曹洞宗](伊達方223)がある。伊達方村の地名はこの伊達氏から付いた。
{左}諏訪神社
すぐ先で東海道は国道1号と合流し少し先右のさかがわ幼稚園(伊達方474-1)前で国道から左に分岐する。分岐するとすぐに神社がある。鳥居は天保15年(1844)、社殿前の灯籠は慶応3年(1867)。境内は広いが何もない。東海道を少し進むと右に白子観音の祠がある。2体の石像が安置され祠の左には6地蔵、右は墓地。さらに先に進むと左に夢舞台道標掛川市 本所と小さな地蔵があるところで再び国道1号に合流する。国道をしばらく進むと逆川の小さな支流に架かる昭和27年竣工の岩橋を渡る。この橋が伊達方と本所の境となっている。
{左・寄}鞍骨の池
しばらく行くと右に昭和51年再建の天保3年(1832)銘の秋葉山常夜燈がありそばに壊れた天保3年の常夜燈の火袋や竿がある。その先の千羽交差点を左折ししばらく行くと左に変四角形をした大きな池がある。昔はさらに2倍ほどの大きさだったが田畑を作るため大正期に埋め立てられた。文明6年(1474)遠江今川氏6代当主今川(堀越)貞延は駿河今川氏の今川義忠と共に横地氏、勝間田氏を攻めたが貞延は牛頭村で討たれこの池の畔に埋められた。掛川誌稿や石川依平の「柳園雑記」にも記載がある。昔話では貞延は池の畔で自刃する前に愛馬陸風を鞍を外して逃がしその鞍を堤に埋めたと言う。
{左}馬頭観音
千羽交差点から1km先の本村橋交差点にて国道1号から左の県道37号線に分岐する。その分岐点左には石造馬頭観音が安置されている祠がある。向かいには夢舞台道標掛川市 成滝がある。その横の分岐地点の三角地帯にあたるところには防災倉庫やベンチが置かれている。
{左}大頭龍大権現と福天大権現の道標 成滝76
西山口小学校(成滝145)を過ぎしばらく行くとJA掛川市西山口支所の前に竹垣で囲まれてある。建立年号不明だが伊達方の福天大権現の道標と同時代とされる。「大頭龍大権現」「福天大権現」「従是川崎道行程六里」の文字が見える。元の位置は約10m手前の川崎街道起点にあったが大正4年(1915)さらに200m手前に県道が開通するとそちらに移され県道建設記念碑と並んで置かれた。後に道路拡張の際に路傍に放置されそのままになっていたのを元の位置に近いここに近年移された。川崎街道は掛川宿と交流のあった川崎湊(現:牧之原市静波)へ通じていた道。大頭龍権現は大頭龍神社(菊川市加茂966-1)のことで福天権現は現在は洞谷山龍雲寺[曹洞宗](菊川市西方3780-1)境内にある。