東海道ルートガイド
藤枝宿

{右}藤枝宿 東木戸跡
しばらく行くと歩道がある道となりやがて天理教益津大教会(本町4-7-53)前に平成13年設置の東木戸跡の木柱がある。「東海道藤枝宿東木戸跡」と書かれ別の面には「領主番所跡」とも書かれている。少し先の左に平成5年設置の白い木杭もあり「濱小路 焼津湊まで一里余り」「東海道藤枝宿左車町」と書かれている。濱小路は焼津湊に至る道で戦前まで商店が並んでいたが現在は少し先で消滅している。宿場は東西19町12間(2.1km)で志太郡と益津郡の街道沿いの村から1部を割り当て左車町・下伝馬町・白子町・長楽寺町・吹屋町・鍛冶町・上伝馬町・木町・川原町としていた。
藤枝宿   本陣2脇本陣0旅籠37家数1061人口4425[天保14年(1843)]
仁徳天皇4年(316)創建の飽波神社、4世紀末から5世紀の28基もの若王子古墳群、奈良・平安時代の2つの郡役所(志太郡衙・益津郡衙)など古くから政治・経済の中心として栄えていた。田中城の城下町でもあり宿内の橋の整備や本陣の改築、畳替えなどは藩の費用で行われた。田沼意次の所領相良に通じる田沼街道、高根白山神社への参道である瀬戸谷街道などが分岐し交通の要所でもあった。現在は長い商店街となっており藤枝だるま、刃物、花火、桐箪笥、ひな人形などの伝統工芸も残る。市の名産は茶や椎茸(全国の30%を集荷)。
{右}成田山 新護寺 [真言宗智山派] 本町4-5-24
少し先にアーチ状の門がある。古くは照光院と称していたが建長4年(1252)後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が鎌倉6代将軍となり京都から鎌倉に行く途中、御所車の左輪が壊れて修理する間に休息した以降は左車山休息寺と改めた。当時寺内には本堂、不動堂、大師堂、庫裡等の伽藍があったが戦国時代の戦火で焼失し廃寺同様となった。明治になって県下唯一の成田山の末寺となり改称した。入ってすぐの左右に金剛力士の石像がありその先に開基百年記念の昭和48年(1973)狛犬と左に開基法憧法師像がある。境内にはおたすけ観音、ボケ除けの像、水掛け不動尊、日限地蔵、釈迦如来像、十二支守護本尊、水子地蔵、布袋尊、弘法大師、不動明王などがある。社殿左には境内社の水天宮もある。
{右}左車神社 本町4-6-15
新護寺の社殿前左から裏に抜けるとある。新護寺の前身照光院で修理された宗尊親王の御所車の破損した左輪や車軸を寺の裏の大きな銀杏の根元へに埋めその跡に神社を建立したのが起こり。左車神社と名付け付近の地名も左車となった。祭神は道路の神である岐神の他に八衢彦神八衢姫神。祠のような社殿には石祠が2つと木の祠が1つ安置されている。鳥居は明治16年(1883)。境内には銀杏の木の他、ブランコや鉄棒も置かれている。
{右}大黒天
しばらく行くと左の島田信用金庫藤枝東支店(本町4-2-3)前には布袋像がある。歩道のブロックが赤から緑に変わると本町商店街からサッカーボールを模した街灯が並ぶ下伝馬商店街に入る。広い通り(田中城大手門口)を渡ると本町交番の隣の下伝馬会館の敷地奥に大黒天がある。街道沿いには「藤の里 歴史探訪 東海道藤枝宿絵図」という地図付き名所案内板、大黒天のイラストプレートがありその後ろには文化3年(1806)の大きな秋葉山常夜燈もある。
{左}下伝馬問屋場跡
大黒天向かいの民家前の歩道にイラストプレートが埋め込まれている。藤枝宿には上伝馬問屋場と下伝馬問屋場があり当初は上伝馬にしかなかったが慶長12年(1607)より田中城の大手口に近いこの場所にも問屋場が置かれた。上り(京方向輸送)と下り(江戸方向輸送)で分担し下伝馬問屋場は上りのみを担当した。藤枝宿の9町のうち下伝馬問屋場の負担をしたのは左車町・下伝馬町・長楽寺町で人足11人と馬50頭は下伝馬町が負担し人足39人を残り2町で負担した。下伝馬町と長楽寺町の間の白子町は家康の朱印により伝馬負担がなかった。広重の保栄堂版東海道53次の藤枝宿は問屋場の様子を描いているが上伝馬問屋場の方とされる。
{左・寄}池龍山 養命寺 [浄土宗] 本町3-6-35
下伝馬問屋場跡のすぐ先を左折すると左にある。山門の手前右には延命地蔵を安置する地蔵堂があり地蔵は弘法大師の作と伝わる。山門入って右には平成15年建立の永年供養塔がある。本堂左には井出博先生之碑があり昭和11年(1936)廣田弘毅内閣の逓信大臣頼母木桂吉の揮毫。
{右}藤枝静男生誕の地碑 本町3-2-24
下伝馬会館(大黒天)隣の秋山医院の植え込みにある。明治40年(1907)にこの地で生まれた藤枝静男は本名を勝見次郎と言い浜松で眼科医をする傍ら小説の執筆も行い私小説の分野で特異の文学世界を構築した。昭和43年「空気頭」で芸術選奨文部大臣賞、昭和49年「愛国者たち」で平林たい子文学賞、昭和51年「田紳有楽」で谷崎潤一郎賞、昭和54年に「悲しいだけ」で野間文芸賞を受賞した。平成5年三浦半島先端近くの療養所で死去。85歳。岳叟寺(五十海4-8-34)に墓がある。市では藤枝静男や同じく藤枝出身の小川国夫などの文学世界を展示紹介する藤枝文学館を蓮華寺池公園内に建設中で2007年秋にオープン予定。ここを過ぎるとアーケードが始まり藤枝名店街に入る。
{左}白子町由来碑 本町2-6-1
創業明治9年(1876)の仏壇仏具かなわや(本町2-6-7)の先にある小川眼科医院の玄関前に昭和47年建立の小さな碑がある。天正10年(1582)本能寺の変の直後に堺から伊賀越えで伊勢国白子(現:三重県鈴鹿市)に入った家康は野武士の襲撃に逢い追われたが農民小川孫三が藁小屋の中に匿って助け無事駿府に戻ることができた。その縁で孫三は藤枝の一郭を与えられここに移り住みこの町は白子町と呼ばれた。町は諸役を免除するという朱印状が天正14年家康の同朋衆(側近)全阿弥(谷新六郎正次)の書により与えられ藤枝宿の9町のうち唯一伝馬の負担がない町だった。小川眼科医院は孫三の子孫が経営し朱印状も残っている。
{左・寄}守國山 慶全寺 [臨済宗] 本町1-12-13
本町の交差点を左折して途中で右折するとある。武田家臣で田中城守将の三枝土佐守虎吉が長篠合戦で鳶の巣にて戦死した息子達(三枝守友、守義、守光)の菩提を弔うために開基した。現在は墓はないが門前に徳川の旗本として存続した三枝氏の子孫が平成8年建立した碑がある。本尊は聖観世音菩薩。平成16年に本瓦葺の山門を建立し本堂の屋根替えをした。山門を入った左に庚申塔があり参道には本堂の旧屋根瓦が敷き詰められている。奥の山上には昭和13年(1938)建立の子育観音(高さ5m)もある。本町の交差点を過ぎるとアーケードがなくなり長楽寺商店街となる。
{左・寄}青龍山 長楽寺 [臨済宗妙心寺派] 本町1-10-12
少し先の内田陶器店(本町1-8-12)の手前を左折して行くと正面。仁安年間(1166-68)粉川長楽斉が開基、寛元4年(1246)蘭渓道隆(大覚)禅師が臨済宗に改宗し開山、正中年間(1324-26)堂宇を再建し鎌倉浄智寺の芝巌徳香が中興開山した。本尊は釈迦牟尼如来。長楽斉の娘賀姫に恋をした青池の主の大蛇(龍)が青年に化け姫に近付き池に連れ去ったが密かに青年の袖に糸をつけていた長楽斉は糸を辿り正体を知り石や鉄を焼いて池に投げ込むと水が煮え湯となり大蛇は死に長楽斉はこの寺を建立したという。現在も寺の東南500m先に青池がある。長楽斉が辿った池まで続く細い川は糸引川と呼んだ。室町時代には多くの文人・武将が訪れ江戸時代には朝鮮通信使も宿泊所にしていた。
{右}熊谷山 蓮生寺 [真宗大谷派] 本町1-3-31
少し先にある。建久7年(1196)創建の東本願寺末寺で本尊は阿弥陀如来。出家し蓮生法師となった源氏の武将熊谷直実が開山し福井長者と呼ばれた福井左右衛門之尉憲順が蓮生の弟子・蓮順となり屋敷を提供し開基した。貞永2年(1233)3代蓮因が立寄った親鸞の弟子となり浄土真宗に改宗。享保15年(1730)転封で田中城主となった本多正矩が菩提寺とし現在も墓地に本多家の墓や家臣の墓がある。本堂と庫裏の間を裏に抜けると樹齢700年で市天然記念物のイブキがある。本堂は大正2年(1913)再建され平成15年に屋根と壁を改修した。山門は文化8年(1811)城主本多正意が寄進した。鐘楼は昭和52年一部改修。入口左には短い四足の秋葉山常夜燈があり前には夢舞台道標藤枝宿 長楽寺町。
{左}重信刃物店 藤枝5-12-2
蓮生寺少し先の信号を過ぎるとちとせ商店街に入りしばらく行くとある。慶長年間(1596-1615)鈴木重信が藤枝宿の鍛冶町で刀鍛冶を始め代々重信の名を継ぎ幕末まで刀を造っていた。明治になり廃刀令が発令されて以降は家庭用刃物や農機具、工具などを扱う店となり現在も続いている。志太地域周辺は室町時代中期から多くの優秀な刀鍛冶を輩出し領主の今川、徳川家も刀鍛冶の育成を奨励していた。
{右・寄}若一王子神社(やくいちおうじじんじゃ) 藤枝5-3-2
少し先の文化12年(1815)秋葉山常夜燈がある角で右折し正面。天平2年(730)創建。祭神は天穂日命と健御熊命。永保3年(1083)源義家が後三年の役で奥州に向かう途中に参拝し古松に懸かる藤の花を見て「松に花 咲く藤枝の 一王子 宮居ゆたかに 幾千代を経ん」と詠み藤枝の語源となった。建久年間(1190-99)には頼朝も上洛途中で参拝した。境内左には文政7年(1824)四つ足の灯籠があり社殿左には秋葉神社もある。鳥居は昭和11年(1936)手水石は弘化2年(1845)。拝殿後ろの本殿の灯籠は嘉永3年(1850)手水石は慶応3年(1867)で右前には御神木の楠がある。神社後ろに広がる森はヤマモガシ、イチイガシなど照葉樹木があり県は暖地性植物の自生地の北限とし天然記念物に指定している。
{左・寄}圓妙山 大慶寺 [日蓮宗] 藤枝4-2-7
アーケード付きの上伝馬商店街に入り少し先のおきせ金つば本舗の先に看板があり左折正面。当地に住む夫婦の茶店に仁治元年(1240)比叡山に行く途中の日蓮が立寄り建長5年(1253)帰郷時も訪れ夫婦に道圓・妙圓の法号と題目本尊、毘沙門天王を与え松一本を手植えし開山した。夫婦は堂を建立し開基となった。本尊は一塔両尊(釈迦牟尼如来・多宝如来)。境内の中央にある松は久遠の松と命名され県天然記念物。樹齢約750年高さ25m根廻7m目通4.5m。城郭御殿建築の庫裡は天明6年(1786)に失脚した田沼意次の相良城御殿を移築。現本堂は昭和2年(1927)築。 境内右に三光堂、浄行菩薩、弁財天の祠、文政13年(1830)題目塔、左には鐘楼。入口左には田中藩士の墓群が約20基ある。
{右}神明神社 藤枝3-4-1
大慶寺入口の斜め向かいにある。祭神は天照皇大神。創立年月日不詳。駿河記には蓮華池畔の岩田山にあった社を移したとある。社殿左には正一位今拝稲荷大明神がありその手前には灯籠、明治32年(1899)手水石、仕掛人藤枝梅安の生地の看板がある。梅安は池波正太郎の小説の主人公で架空の人物であるがシリーズ第一作で生まれについて「駿河・藤枝の生まれでね、親父は宿の神明宮の前で桶屋をしていたのだ」とある。稲荷の裏には昭和56年建立の明治天皇藤枝行在所址碑があり明治元年(1868)と翌年にこの先の下本陣村松家に宿泊した。その前には手水石、後ろには石祠がある。左の駐車場には銀杏があり駐車場の通り沿いには夢舞台道標藤枝市 藤枝宿 上伝馬町がある。
{右}下本陣跡
少し先右には下伝馬町の大黒天前にあったのと同じ東海道藤枝宿絵図がありさらに進むと長島酒店(藤枝3-2-27)先の閉店したギフトショップ豊島屋前の歩道にイラストプレートがある。下本陣は村松家がつとめていた。朝鮮通信使に先立ち運ばれた将軍への献上品である鷹も宿泊し鷹用の御鷹部屋も備えていた。明治元年(1868)と翌年には明治天皇も宿泊し昭和56年建立の明治天皇藤枝行在所址碑が神明神社の裏にある。
{右}上本陣跡 藤枝3-2-32
少し先の洋品ニコニコヤ前にイラストプレートがある。上本陣は今川家臣の子孫である青島家がつとめていた。10代将軍家治の襲封祝賀である明和元年(1764)の第11回朝鮮通信使の正使も宿泊した。藤枝宿は東の江尻宿と西の掛川宿ととも江戸時代に10回江戸を往復した朝鮮通信使の宿泊地に指定されており初期の頃は上伝馬町の南側にあった藤枝御殿が、明暦元年(1655)第6回以降は洞雲寺(藤枝5-2-28)や本陣などが正使の宿泊所になった。
{右}上伝馬問屋場跡
その少し先の上伝馬交番前にイラストプレートがある。藤枝宿には上伝馬問屋場と下伝馬問屋場があり上伝馬問屋場は慶長6年(1601)宿場開設とともに置かれ6年後に田中城の大手口近くの下伝馬問屋場が置かれた。上り(京方向輸送)と下り(江戸方向輸送)で分担し上伝馬問屋場は下りのみを担当した。藤枝宿の9町のうち上伝馬問屋場の負担をしたのは吹屋町・鍛冶町・上伝馬町・木町・川原町で人足11人と馬50頭は上伝馬町が負担し人足39人を残り4町で負担した。広重の保栄堂版東海道53次藤枝宿は問屋場の様子を描いておりこちらの上伝馬問屋場を描いたとされる。交番向かいの小道は藤枝御殿に通じた道で御殿小路と呼ばれた。
{右・寄}瀬戸谷街道 標石
次の信号にある焼津信用金庫藤枝上支店(藤枝3-1-29)を右折し少し行った左の植え込みの中にある。大正4年(1915)建立で「瀬戸谷街道」と刻まれている。上伝馬で東海道から分岐して木町を通り北に向かい瀬戸谷の蔵田まで通じる約10kmの道を瀬戸谷街道と呼ぶ。瀬戸谷の高根山麓には文治4年(1188)創建の高根白山神社(瀬戸ノ谷9964)があり農業の守護として信仰篤く街道の往来も多かった。
{右}正定寺 [浄土宗]  藤枝2-3-27
少し先のファミリーマート藤枝一丁目店向かいにある。寛正3年(1462)鎌倉光明寺の信蓮社貞誉が開創。本尊は阿弥陀如来。境内左の弁天堂は老朽のため明治45年(1912)解体されたが昭和47年に再建した。17世紀末の住職浄誉の夢に弁財天が現れ「我の住居を定むべし」と告げた翌年近江草津の老人が弁財天像を届けたという。境内右に笠状に枝を張った本願の松があり根元に石碑もある。境内の弁財天に信仰篤かった田中藩主土岐頼稔が大阪城代になるにあたり報恩謝徳として享保15年(1730)に植えたもので別名は延命の松。目通3m樹高6.3m枝張東西11m50南北14mで市天然記念物。他に境内左に銅製の六地蔵を安置する祠や山門入って右に平成3年建立の弁天わらべ地蔵がある。
勝草橋
やがて瀬戸川に架かる勝草橋を渡る。江戸時代には橋の手前に西木戸があった。川では川越しが行われ明治3年(1870)川越廃止で渡船と仮橋による通行になり明治8年(1875)初代の勝草橋が架けられた。昭和7年(1932)鉄筋コンクリート橋が竣工し平成15年に現在の橋となった。橋の4隅には説明碑(橋の歴史、川の徒渡り、田沼街道、橋名の由来)が埋め込まれている。橋名の由来は勝軍(かちいくさ)橋から転じたという説と志太と同じ読みの植物のシダ(羊歯)の別名の勝草からという2説がある。名付けたのは旧幕臣の伊佐新次郎岑満で明治維新で徳川家に従い駿府入りし廃藩後に牧ノ原の茶園開墾に尽くすとともに前島の博習舎、志太の為善館でも教鞭を取った。 川沿いは桜並木になっている。
{右}志太一里塚跡 (50)
橋を渡るとすぐにフェンスに囲まれて平成6年建立の一里塚跡石柱と平成10年設置の説明板、常夜燈、秋葉神社のコンクリート製祠と平成15年の秋葉神社石柱がある。一里塚は元は少し先にあり左は岡野歯科医院(志太4-3-13)、右は熊切商店(志太3-3-22)の位置にあった。青字で刻まれた石柱と金属製の説明板は青島史蹟保存会が建てたもので青島地区の史跡石柱は青字で統一されている。後ろは平成19年竣工の勝草橋公園になっており四阿、ベンチ、トイレなどがある。
{右}為善館(いぜんかん)跡
右に松が少しある道を進むと本陣商店(志太3-2-22)と言う八百屋のすぐ先に青字石柱と説明板がある。明治6年(1873)志太村家地太(かじた)67、68番地に建てられた寺小屋が学校化したような学舎の跡で志太村、南新屋村、水上村、稲川村、瀬古村が学区となり校則も制定されていた。明治19年(1886)前島学校志太分教室となった当時の就学児童数は約120名。明治23年(1890)青島尋常小学校創立に伴い閉館し明治43年(1910)の瀬戸川大水害のため建物は流出した。平成2年青島小学校(下青島10)の創立100年を記念し建物があったと推定される現地に碑が建てられた。近くには他にも前島(現小石川町)に博習舎、上青島に育生舎があった。
{右}岡野繁蔵出生地
平成4年竣工の稲川橋を渡って少し先に平成6年建立の青字石柱と平成10年設置の説明板がある。明治27年(1894)に生まれ21歳でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行という会社を起業し雑貨貿易商として成功した。後にジャワ島のスラバヤに千代田百貨店を開店し南洋のデパート王と呼ばれたが太平洋戦争で帰国。戦後は衆議院議員にもなったが昭和50年81歳で没した。インドネシアの古美術の収集家としても知られ昭和17年に日本橋三越でコレクションの展示即売会も開かれた。東海道は先に進むと平成6年竣工の青木橋を渡り今度は左に松が少しある。
青木交差点
青木交差点の5叉路で東海道は国道1号線を斜めに横切り右2本目の道を行く。交差点の左2本目の通りに入りまっすぐ行くと藤枝駅。藤枝駅に向かう途中の藤枝駅北交差点を右折してすぐ左の喜久屋(駅前1-6-19)には強飯(おこわ)を梔子(くちなし)で染めた鮮黄色の瀬戸の染飯(300円,650円)がある。古くから志太地域に伝わるもので太田牛一の「信長公記」に天正10年(1582)武田勝頼を破って凱旋するくだりに瀬戸の染飯の記述がある。天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに随行した久我敦通も「東国紀行」で「瀬戸の染飯で空腹が満つ」と記している。梔子には疲労回復の効能があり旅人に重宝し街道名物にもなったが明治には途絶え昭和後期に喜久屋が復刻した。下青島には染飯茶屋蹟がある。
{左・寄}東泉寺跡
広い歩道が若干狭くなるところで左に2本の道が分岐しており右の道へ左折し少し行くと左にある。現在は南新屋会館の敷地になっており地蔵尊の祠、文字庚申塔、天保3年(1832)馬頭観音、西国33ヶ所巡礼塔がある。敷地の奥左には延宝9年(1681)元禄6年(1693)などの石塔・石碑が20基弱ある。 東海道に戻りしばらく行くと左に小さな津島神社がある。祭神は建速須佐之男大神と大穴牟遅命。
{左}田中藩領傍示石蹟
西友南新屋店(南新屋408-4)を過ぎ県道356号を横断すると少しずつ松並木が現われる。少し先の松が3本並んでいる向かいに平成6年建立の青字石柱と平成10年設置の説明板がある。藤枝宿より前の法の橋にあった「従是西田中領」と対になる高さ一丈(3m)の石柱傍示石「従是東田中領」があった場所。享保15年(1730)から幕末までの田中藩主である本多氏の5代正意が領内の藪崎彦八郎に命じ文字を書かせ長楽寺町の石材屋に彫らせた。この付近の瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組んでおり藩境に境界を示す榜示石がいくつか建てられていた。この先の上青島にも田中藩領傍示石があった。
{左}鏡池堂六地蔵尊
しばらく先で県道222号線が左から合流してくる三角地にある。付近にあった鏡ヶ池に棲み旅人を悩ませていた龍を鬼岩寺2世静照上人が退治し堂を建てた。池から出現したと伝わる智証大師作の金色彩色の六地蔵(30cm)木像が安置され33年ごとに開帳される。当地を支配していた嗣子のなかった大草太郎左衛門が祈願したところ嫡子が授けられ正徳3年(1713)御手代向坂仁右衛門を普請役として堂を新築。現在の堂は昭和33年に昔の形を残し改築したもの。駿河国24番札所第9番。軒下には渡辺崋山の揮毫と伝わる扁額がある。本堂右の三角地の角部分には昭和62年建立の6地蔵があり2体×3段に一つの石に浮き彫りされ後ろにはそれの古いものがある。その周りには風化した古い地蔵も数体ある。
{右}古東海道蹟
少し先に平成6年建立の青字石柱と平成10年設置の説明板がある。ここで京方面に向かう道が旧東海道とそれ以前の中世の古東海道に分岐していた。右に行く古東海道は建久4年(1193)頼朝が上洛からの帰路に通ったのが初めと言われさらに古い古代の東海道はここよりずっと南の島田市初倉から焼津市小川を通っていた。瀬戸の山越えとも呼ばれた古東海道は瀬戸山を越え内瀬戸へ通じており元禄3年(1690)ごろから平地を通る旧東海道が使われるようになった。昭和30年以降は瀬戸山は削られている。
{左}東海道追分
少し進んだ向かいに平成6年建立の青字石柱と平成10年設置の説明板がある。ここで江戸方向に行く古東海道が分岐していた。ここから東へ進み藤枝駅の手前の前島辺りで北に向かい青木交差点付近へ通っていた。この付近の池や湿地が開拓されて山裾に沿う新道(旧東海道)が開通し瀬戸新屋を通るようになってから古東海道との分岐を東海道追分と呼んだ。古東海道は大井川の洪水が山裾に寄せたときなど旧東海道が出来てからも利用された。
{右}無縁寺跡(瀬戸地蔵堂)
両側の松並木を進み志太ゴルフセンター(下青島1040-2)が右横に見えた辺りに石段がある。寛永4年(1627)の大洪水の溺死者を弔うために建てられた寺で廃寺となった。現在は小公園になっており右には堂があり立像と坐像の2体の地蔵が安置されている。瀬戸延命地蔵尊と呼ばれ瀬戸山に安置されていたもので個人所有の後、昭和38年藤枝ゴルフクラブ(内瀬戸1193)建設に伴い現地に移された。その右には大正9年(1920)文字庚申塔、その横に元禄10年(1697)享保8年(1723)元文2年(1737)天保9年(1838)などの石塔、石仏、石碑群13基がある。堂の左には昭和61年建立の瀬戸古墳群供養塔がある。境内左にはブランコ、鉄棒などの古い遊具もある。
{右}染飯茶屋蹟 (現:石野モータース) 
すぐ先に平成6年建立の青字石柱と平成10年設置の説明板がある。この辺りが青島の立場で染飯を売る茶店があった。壺のイラストに「名物 瀬戸御染飯」と書かれた染飯の包み紙の版木が石野家に残存しており道の反対側にはその版木が市指定文化財(昭和34年指定)であることを明記した木杭がある。版木のデザインは青木交差点近くの喜久屋が復刻している染飯(300円)の包紙で見ることができる。石野家は明治20年(1887)に没した甚蔵の代で染飯作りを廃業した。染飯は古くからこの地域にあったが江戸時代に夢で弁財天のお告げを受けた嘉助夫婦がこの付近で茶屋を開き売り始めてから名物となったと言われ東海道中膝栗毛や寛政9年(1797)の東海道名所図会にも登場している。
{左}千貫堤蹟 下青島1006-1
染飯茶屋蹟の向かいの道少し奥に平成6年建立の青字石柱と平成10年設置の説明板、図面入りの説明板がある。堤は無縁寺の山裾から南の藤五郎山を挟み本宮山の正泉寺(青葉町3-14-10)まで山と山をつないで土手を作り大井川の洪水を防いだというもので寛永12年(1635)〜寛永19年(1642)の田中藩主だった水野忠善が築いた。長さ360m高さ3.6m幅2.9mあり一千貫の労銀を投じたため千貫堤と呼ばれた。昭和40年代の土地開発によって藤五郎山もろとも堤は取り除かれたがここから南の約40mが石野家生垣としてわずかに残っている。昭和31年市文化財に指定。
{右}育生舎跡
しばらく行くと平成2年に青島小学校(下青島10)創立100周年を記念し建立された青字石柱と木製説明板がある。明治7年(1874)上青島村、下青島村、内瀬戸村、瀬戸新屋村、久兵衛市右衛門請新田村の五ヶ村が併合し庄屋小沢家の所有地(当時の上青島村1番地)に創設された公立小学校跡。近くには他にも前島(現小石川町)に博習舎、志太に為善館があった。明治14年に上青島村字松原141番地に校舎を新築移転し明治19年尋常小学青島学校と改称。明治23年村制施行により下青島字広島に創立された青島尋常小学校に併合された。
{左}田中藩領傍示石蹟
信号を1つ過ぎ松を1本過ぎた少し先の民家前に平成6年建立の青字石柱と平成10年設置の説明板がある。「従是西田中領」と刻まれた一丈(3m)の石柱があった場所で細島村の西端にもこれと対になる傍示石「従是東田中領」があったとされるが特定はされていない。上青島村は横須賀藩領の下青島村と複雑に接しており上青島村の一部は旗本日向銕太郎の所領にもなっていた。この先は松並木が少しずつ続き歩道に松があるため歩道がなくなる部分もある。
{右}青島酒造 上青島246
しばらく行くと前に酒樽が置かれ軒下に杉玉が下がっている2階建ての建物が街道に面してある。現在地で江戸中期から続く酒造会社で酒銘は当初「菊水」だったが「喜び久しく酔える酒」という意味から「喜久醉」とし後に読みも「きくよい」と変わった。静岡酵母だけを使用し大井川水系の南アルプスからの伏流水で仕込んでいる。深さ55m井戸から汲み上げている軟水で年間平均水温は13度前後。喜久醉は雁屋哲原作花咲アキラ作画の漫画「美味しんぼ」に登場したりプレジデント社のフード専門雑誌dancyuの2003年3月号「毎日でも飲みたい酒」ランキングで第1位にもなった。
{右}明治天皇御小休所址碑・常夜燈
平成15年竣工の瀬戸橋で東光寺谷川を渡るとある。昭和9年(1939)建立の明治天皇御小休所址碑は「御小休所址」とだけ刻まれており県知事田中廣太郎の揮毫。付近にあった茶屋兼旅籠屋の増田屋の庭園跡から近年移されたもの。明治11年(1878)11月2日に明治天皇が東京に向かう際に通称おみゑ茶屋と呼ばれた増田屋で休憩した。右には瓦葺きの祠があり中には天保4年(1833)の常夜燈が安置されている。
{左}上青島一里塚跡(51)
橋を渡ると上青島の松並木が続く。松並木の途中に夢舞台道標藤枝市 上青島の一里塚がありその左の広い駐車場入口に昭和61年建立の石柱「東海道(上青島)一里塚趾」がある。側面には「→南約十米道路東円形にて約百二十平米」「一里山土地改良完成記念」とある。隣には古い木杭もある。塚の上には榎ではなく桑の木が植えられていた。この辺りを一里山と呼び少し先にあるバス停の名前にもなっている。弥次さん喜多さんのイラストがあるそば食事処さんし(上青島666-1)を過ぎると一里山交差点で東海道は国道1号に合流する。