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{左}昭和天皇御巡察之処の碑 国道に入り少し先で島田市に入り1kmほど進んだ左のセブンイレブン島田六合店(島田市道悦5-1-1)がある交差点で東海道は右へ分岐する。分岐も直進もせずに左折するとJR六合駅。分岐点には夢舞台道標島田市 阿知ヶ谷もある。500mほど旧道を進むと道悦島西交差点で再び国道1号に出る。国道を渡ると旧道は国道の路側帯のようにしばらく並行するが少し先で合流する。国道との間の植え込みには夢舞台道標島田市 道悦島がある。合流してしばらく行くと茶問屋の一言商店前に石碑がある。側面には「昭和二十一年六月十八日丸三製茶工場」とある。 |
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栃山橋 少し先で大津谷川に架かる栃山橋を渡る。橋の東側が道悦島村と島田宿の境となっていた。享和3年(1803)記された島田宿書上控には橋は土橋で長さ17間(36.6m)幅3間(5.5m)標杭は三本立て七組で支えていた。渡った左に新しい説明板が設置されている。大津谷川は昔は島田川とも呼ばれこの橋の上流で大津谷川と伊太谷川が合流して下流の水門で大井川に流れ込む放水路と焼津市南部を経て駿河湾に注ぐ栃山川に分岐している。 |
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島田宿 本陣3脇本陣0旅籠48家数1461人口6727[天保14年(1843)] 他の多くの宿場と同じく慶長6年(1601)宿指定を受けたが3年後に大井川氾濫で流出し北の野田村へ一時移り元和元年(1615)元の地に戻った。はじめ幕領、慶長14年駿府藩領、元和5年幕領、寛永12年(1635)田中藩預所、寛永19年幕領、享保7年(1722)田中藩預所、寛保2年(1742)幕領となり明治を迎えた。天保14年(1843)の記録で宿内町並東西9町40間(1054m)。川越で賑わった宿場で宿の主要業務も川越だった。大井川の蓮台越しは今でも伝統行事となっている。他にも刀鍛冶や島田髷、帯祭りが有名。宿内の歩道には宿場に因むイラストタイルもある。 |
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監物橋 栃山橋を渡り少し行くと今度は監物川を監物橋で渡る。橋を渡った左の柵に説明板もある。洪水対策に千貫堤を作った田中藩主水野忠善は水不足が深刻だった栃山川の東には灌漑用の水路を作った。島田宿南の横井に水門を作り大井川の水を取り込み栃山川へ流す水路だったのがこの川で東海道には幅3間(5.5m)長さ2間(3.6m)の土橋が架けられた。忠善の名乗り官名の「監物」から川を監物川、橋を監物橋と呼んだ。その先の御仮屋交差点で東海道は左に分岐し本通りに入る。分岐点手前の左歩道の植込みに夢舞台道標島田市 島田宿。御仮屋は大井神社の御仮屋(旧社)があったための地名。さらに進み本通7丁目交差点を渡ると東海道は県道34号線となり商店街の歩道には大奴のタイルがある。 |
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{左・寄}蓬莱橋 島田信用金庫七丁目支店前に再び夢舞台道標島田市 島田宿があり隣の中村菓子舗との間を左折しJR線路を渡り直進するとある。旧幕臣達が牧之原に茶畑を開墾し対岸へ往来するようになり明治12年(1879)大井川に架けられた木橋。名は静岡藩主徳川亀千代(家達)が明治3年牧之原を訪れ言った「ここは宝の山だ」に由来する。全長897.422m幅2.7m木板数3700枚。昭和40年架替えし橋脚がコンクリートになった。平成9年世界一長い木造歩道橋としてギネスに認定。8:30-17:00。歩行者100円で全国唯一の木造有料橋。橋手前には昭和49建立理論物理学者石原純の即吟詩、平成6年建立作家吉田絃二郎の句碑、大井川の変遷の説明板、ギネス認定記念碑、平成4年大井川改修110年記念碑がある。 |
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{右}島田一里塚跡(52) 島田信用金庫七丁目支店(本通7-7730)から少し先の虎岩文具店(本通7-8406)前に車道側に向いて昭和41年建立の石柱と木製説明板がある。石柱には「東海道島田宿一里塚阯」と刻まれている。江戸から50里と記されている天和年間(1681-84)東海道絵図には右側の塚しか描かれておらず幕末の島田宿並井両裏通家別取調帳にも右塚のみが記載され幅5間2尺(9.7m)で榎が植えられていたとある。 |
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{左}甘露の井戸水 少し先向かいの佐の幸茶店工場駐車場前にある。南アルプスの雪解け伏流水を水源とする井戸水が手水石に流れ飲めるようになっており水質検査の結果も貼られている。この地には天明年間(1781-89)より昭和初期まで甘露亭という料亭があり直径1m深さ7mの井戸があった。現在は佐の幸茶店の工場に於いて冷蔵庫の冷却水に利用しているが平成3年から東海道沿いに手水石を設置し通行人に提供するようになった。甘露亭は現在は無いが明治45年(1912)のれん分けした萬露亭(本通6-6126-1)が近くにある。 |
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{左}刀匠島田顕彰碑 しばらく行くと閉店になったジャスコ前に刀の刃先をイメージした碑と昭和61年建立の説明碑がある。康正年間(1455-57)に相州正広の門人の富次という刀工が島田に移り住み今川家6代当主今川義忠から義の一字を貰い五条義助と改名した。当地は義助の屋敷跡とされる。後に子や弟子から助宗、広助一派も派生し島田鍛冶は今川、武田、北条家などに刀を供給して発展し多くの刀工が軒を連ねた。黒田の日本号、本多の蜻蛉切とともに日本三名槍の一つに数えられる義助作のお手杵の槍(空襲で焼失)や助宗作の武田信玄愛用のおそらく造りの短刀などは刀剣史上に名高い。他にも江戸時代には貞助、忠広も派生し信州などにも進出していった。室町末期の連歌師宗長(柴屋軒)は義助の子にあたる。 |
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{左}問屋場跡 刀匠島田顕彰碑の隣に平成17年建立の碑と説明板がある。島田宿問屋場の敷地は間口8間(14.5m)建物は間口5間半(10m)奥行5間(9.1m)。常備人足は136人、伝馬は100匹でこのうち人足30人、馬20匹は特別な場合の備えとした。常備で不足の時は周囲の助郷から補った。 飛脚(御継飛脚)は10人が常駐し昼夜交代で御状箱を継ぎ送っていた。 |
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{左}日本初の私設天文台跡 島田市本通5-7913-2 本通五丁目交差点を渡ったチシン薬局前の植え込みにモニュメントと平成13年設置の説明碑「五丁目まちかど物語」がある。チシン薬局元店主の清水真一はアマチュア天文家としても知られ店舗兼自宅のこの場所に昭和7年(1932)日本初の私設天文台となる観測所を開設した。昭和12年には行方不明となっていたダニエル彗星を再発見し世界的快挙となり日本天文学会天体発見賞も授与された。後に昭和21年設立の静岡県天文研究会初代会長もつとめ昭和25年藍綬褒章受章、昭和50年島田市名誉市民第1号となった。朝顔の松公園の堂の中には清水が「風松久髣舜歌曲枯髄猶留瞽女魂」と書いた枯松の板が納められている。島田市立図書館横井資料室(横井4-6-6)では月1回資料展示をしている。 |
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{右}下本陣跡 その先で平成19年に整備された歩行者専用「おび通り」が交差している。角に平成11年設置のからくり時計台がありその下に平成19年建立の石柱と金属の説明板、簡素な手書き説明板がある。島田宿には上、中、下本陣と呼ばれた3軒の本陣があり現在おび通りとなっている場所に置塩藤四郎の下本陣があった。享和3年(1803)島田宿明細書上帳の記録では建坪271坪(894平方m)だった。金属の説明板には下本陣の間取図も書かれている。からくり時計の時計板のイラストは帯祭の鹿島踊の三番叟で10時から20時までの定時に時計板下から大奴が登場し祭の様子が演じられる。帯祭は大井神社の大祭で帯を太刀にかけ優雅に行列する日本三大奇祭の一つ。寅・巳・申・亥の3年毎の10月に開催される。 |
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{右・寄}島田御陣屋(代官所)跡 おび通りを右折して少し行くと左の駐車場に高札風の説明板がある。元和2年(1616)駿府城主徳川頼宣の代官長谷川藤兵衛長親が建てた屋敷を寛永19年(1642)幕領の島田代官となった息子の長勝が代官所とした。以降も島田代官所や中泉(遠江)、赤坂(三河)、紺屋町(駿河)代官の出張陣屋として使用され明治2年(1869)から明治4年は静岡藩郡政役所にもなった。さらにおび通りを行くと突当たりに御陣屋稲荷がある。別名を悪口稲荷と言い代官長谷川藤兵衛が陣屋内にあった稲荷社を3月の初午の日を無礼講として町人が参拝できるようにし役人の悪行を申し出るようにしたことに由来する。平成16年より「悪口コンテスト」も行われている。社殿右には秋葉神社、左には大黒天堂もある。 |
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{右}中本陣跡 本通3-8223-1 下本陣跡から少し先の天野屋呉服店前に平成19年建立の石柱がある。天野屋と隣の文具のオカダが大久保新右衛門の中本陣だった場所で享和3年(1803)島田宿明細書上帳の記録では建坪244坪(805平方m)。宿内は西から1丁目〜7丁目に分けられており上本陣、中本陣が2丁目で下本陣が3丁目にあった。島田宿には脇本陣はなかった。 |
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{左}俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸阯 本通3-7974 向かいの静岡銀行島田支店前に昭和28年建立の碑があり台座の石に昭和55年の説明板がはめ込んである。塚本如舟は本名を孫兵衛と言い元禄9年(1696)に川越制度ができると橋爪助左衛門とともに初代の川庄屋に任命された。俳人でもあり元禄4年(1691)10月江戸に向かう芭蕉が初めて如舟邸を訪れ元禄7年5月伊賀に帰郷の折にも滞在しいずれも多くの句を残した。元禄7年の時には如舟の発句「やわらかに たけよ今年の 手作麦」に芭蕉が「田植とともに たびの朝起」と附句する連句も残し「元禄年 五月雨に降り込められて あるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん」と後書まで添えた真跡が塚本家に伝わり現在は島田市博物館が保管している。碑面にはその連句の真跡が模刻されている。 |
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{右}上本陣跡 本通り3-8218 斜め向かいのホテル割烹三布袋前に平成19年建立の石柱がある。村松九郎治の上本陣があった場所で享和3年(1803)島田宿明細書上帳の記録では建坪262坪(867平方m)だった。 |
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{右}芭蕉句碑 本通3-2-1 次の交差点である本通り2丁目交差点の島田信用金庫本店前にも昭和50年建立の句碑がある。碑面には「するがの国に入て はせを するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ」とある。この句は芭蕉最後の旅となる江戸から伊賀・奈良・大阪への旅の途中の元禄7年(1694)5月塚本如舟邸に4日間滞在した際に詠んだ句で句集「芭蕉七部集」の「炭俵」上巻夏の部に収録され「島田よりの便に」という後書がある。他にもこの滞在時には「さみだれの 雲吹きおとせ 大井川」「ちさはまだ 青葉ながらに なすび汁」「たはみては 雪まつ竹の けしきかな」なども詠んだ。碑文は塚本家に残されていた芭蕉の真跡から模刻したもの。同じ句の碑は清水寺と静岡茶の発祥地である静岡市葵区足久保にもある。 |
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{左・寄}元祖 清水屋 島田市本通2-5-5 本通り2丁目交差点を左折しJR島田駅方面に向かうと右にある。江戸時代からこの地で営む老舗菓子屋で小饅頭が有名。享保6年(1721)5代目伝左衛門は宿に長期逗留していた紀州浪人の置塩露庵に甘酒皮の饅頭作りの秘法を伝授され従来の薬饅頭に代えて酒饅頭を創作した。後に松江藩主で江戸時代の代表的茶人でもある松平治郷(不眛)が通行した折に食べ一口で食べられる大きさするよう助言し小饅頭となった。代々伝わる秘伝の米麹を元にじっくりと練りあげた生地を丹念にもみだすようにタネ切りし特製こし餡を包み蒸し器で蒸される。 店の前には其角の句碑「饅頭で 人を尋ねよ 山ざくら」もある。小饅頭10個入り420円。8:30-20:00(水曜は-19:00)無休(水曜は小饅頭の販売なし)。
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{左・寄}宗長庵趾碑 JR島田駅前の交番前に石碑群がある。元禄年間(1688-1704)塚本如舟が所有地であった当地に建立し雅人たちと諷詠を楽しんでいた庵の跡。長久庵とも呼ばれたが島田出身の室町時代後期の連歌師宗長を慕い宗長庵と名付けられた。元禄7年(1694)には松尾芭蕉も訪れている。庵は後に曹洞宗の寺となったが荒廃して廃寺となった。現在は石碑が3基残り右から昭和34年建立の宗長の句「遠江国、国の山ちかき所の千句に こゑやけふ はつ蔵山の ほととぎす」、芭蕉を慕う漢文(上部欠損)、芭蕉が元禄7年に詠んだ句(上部欠損)「さみたれの 空吹きおとせ 大井川」。昭和32年市史跡に指定。 |
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{左}本町通り道標 本通り2丁目交差点を渡り少し行くとすし屋魚角(本通1-8-1)がある十字路の角にある。中央で折れているものが補修されている。4面に方向、行先、距離が刻まれており「東 六合村境迄十八町十六間 青島町に至ル」「西 大井川渡船場迄 十五町四十間 金谷町ニ至ル」「北 向谷鶯橋迄 二十四町六間 川根ニ通ス」「南 島田駅迄一町 第壱街青年会」とある。島田駅は明治22年(1889)開業、大井川は明治29年(1896)橋流失後から昭和3年(1928)まで船渡しだったためその頃に建てられたものとされる。川根町は大井川の中流部にあり川根茶の産地として知られる。 |
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{左・寄}成等山 正覚寺 [日蓮宗] 本通1-4704-1 大井神社手前を左折した正面。6老僧の1人である蓮華阿閣梨日持が開山したと伝わり江戸時代に恵雲院日潤が中興開山した。宝暦6年(1756)17世日達が本堂を建立。明和2年(1765)20世日情が四士・二脇士・二王・四天の仏像12体を彫造。天明8年(1788)21世日染が大津通りにあった七面堂を移し現在は本堂左の開運堂となっている。文政3年(1820)25世日定本堂屋根修理。文久2年(1862)頃26世日荅の代に庫裡から出火して全焼し元治元年(1864)再建、大正2年(1913)30世日堯が現在の本堂を建立した。平成7年客殿新築、諸堂改築。入口右に題目塔、境内中央に幹周囲4.0m樹高21m枝張25mの楠があり左には大正4年鳥居と元禄16年(1703)灯籠がある稲荷神社、浄行菩薩、慰霊塔などがある。 |
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{右}大井神社 大井町2316 創建不詳だが日本三代実録に貞観7年(865)大井神の記載がある。元禄元年(1688)当地に移転。祭神は彌都波能賣神、波邇夜須比賣神、天照大神。帯祭も有名。入口に安政3年(1856)燈籠、参道両側には土手石垣。少し先に正徳3年(1713)太鼓橋、その手前左に帯塚。拝殿は大正8年(1919)築で左に双龍の手水。本殿は文久3年(1863)脇拝殿2棟は平成3年築。他に境内右には恵比寿神社、享保年間の手水石(福寿水)、平成16年再建の木造常夜燈、元禄2年社名石柱、元禄16年灯籠、昭和49年母の詩碑、300年祭記念碑、 針塚、大正13年先賢の碑、境内左には静霊神社、春日神社、天満宮、田のかんさあ、御輿庫、平成18年大奴像と鹿島踊像、神井戸の上に祓戸神社がある。敷地左は宮美殿。 |
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{右}二尊山成就院 大善寺 [浄土宗] 向島町2919 しばらく行くと大善寺前交差点の手前にある。貞享2年(1685)創建。山門前左に元禄13年(1700)右に昭和42年六字名号碑。山門入って右に閻魔堂がある。境内右奥の鐘楼の梵鐘は戦時中に供出し戦後復元されたものだが江戸時代は大井川の川越の始まりと終わりの合図を打つ「時の鐘」で川会所からは鐘撞料が納められていたという。境内左には石祠、歴代住職墓がある。本殿屋根や扉には葵の御紋が入っており本堂内には将軍家の位牌もある。本尊の左には紀伊国屋文左衛門が寄贈したと伝わる1m弱の木造地蔵尊もある。この地方の民話「燈籠の松」の起源となった燈籠の松の根も所蔵する。3年に1度行われる帯祭の前年8月には水難にあった川越人足や旅行者を供養する施餓鬼が行われる。 |
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{右}川越(かわごし)遺跡入口 木柱 左に東海パルプ島田工場(向島町4379)の正門を過ぎると工場の塀前には若い松並木が続き少し先で二叉路となる。手前の松並木の中には夢舞台道標島田宿もある。旧東海道は県道から分岐し工場に沿うように左に進みしばらく行くと道が細くなり舗装が変化したすぐ先に「国指定 島田宿大井川 川越遺跡町並」と書かれた木柱がある。人足による川渡しに従事した町がここから始まり川岸までの町一帯が昭和41年国指定史跡。大井川は川幅が広いため深みが少なく元禄9年(1696)川越制度が確立するまでは浅瀬を選べば自由に渡れた。島田・金谷宿の人々が「箱根・大井の両険は関東鎮護第一の要地なり」という家康の遺志を主張し続けたため橋もかけられず川越制度は明治3年(1870)まで続いた。 |
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川越遺跡 番宿 町の街道両側に番宿などが復元、改築されて並んでいる。享和3年(1803)は350人、嘉永年間(1848-54)は647人の川越人足がおり待機、休憩所である番宿が当時は一番宿から十番宿まで並んでいた。他に人足斡旋をした口取宿、そば屋、酒屋、縄を売り荷くずれを直した荷縄屋、年配人足の溜り場の仲間宿、各番宿の人足頭が会合した立合宿、人足が川札を金に替えた札場、茶屋の橋本屋、旅籠の泉屋などがあった。現在は四番宿と八番宿が所在不明で酒屋、立会宿、七番宿は建物もない。当時の面影を残すのは二番宿(昭和47年築)三番宿(昭和48年築)六番宿(昭和55年築)十番宿(昭和57年築)仲間宿(昭和46年築)札場(昭和49年築)でうち三番宿、十番宿、仲間宿、札場は見学可能。他は民家。 |
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{左}橋下仲間の井戸 町に入ってすぐの六番宿の裏にある。昭和29年に水道が敷かれるまで使われていたつるべ井戸。掘られた時期は不明で明治30年(1897)ごろ改修され現在のような形となった。井桁にはその頃の利用者仲間の名前が刻まれている。直径1m深さ11m水までの深さ9m。六番宿も手前のそば屋、口取宿、向かいの九番宿も今は民家になっており六番宿は昔風の建物だが他は現代風の普通の住宅建物。六番宿の隣は酒屋跡だが駐車場になっており秋葉神社の小さい祠がある。川越人足の定年は45歳でその後も仕事を続けたい者は口取宿に詰め人や荷物の各組への割り当てなどの斡旋作業をした。 |
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{右}島田市博物館分館 河原2-16-5 六番宿の斜め向かい。遺跡内の拠点施設として平成12年開館。街道側から島田市民俗資料館、海野光弘版画記念館、民俗資料室がありまとめて島田市博物館の分館としている。民俗資料館の建物は明治24年(1891)築の木造2階建て日本家屋の桜井邸で1階は地元の大工が伝統的な工法で作り2階は京都の職人が数奇屋風の部屋に仕上げ茶室として利用されていた。平成11年に改修され1階に静岡出身の版画家海野光弘(昭和54年没)の版画や昭和時代の炊事場再現や農具等が展示されている。版画記念館は特別展などのギャラリーに使用されており民俗資料室には多くの古道具が並ぶ。入場料300円(博物館本館と共通)9時-17時。月休。敷地内には日本庭園(中庭)や倉庫(非公開)もある。 |
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{右・寄}関川庵(かんせんあん) 河原2-11-20 三番宿、十番宿、仲間宿など自由に見学できる建物を過ぎると二番宿の角に案内標識があり「火と燃ゆる 恋に心も身も焼きて あわれお七が灼熱の恋」と記されている。右折し小路に入り住宅地を抜けしばらく行くと右に無住職の小さな寺がある。入って左に六地蔵と吉三郎の墓がある。吉三郎は八百屋お七の恋人でお七が鈴ヶ森刑場で処刑されたあと出家し西運上人となり遍歴するうちに島田で没しここに葬られたという。堂内には後年修行中に偶然立ち寄った僧が吉三郎が自分の父だとわかり納めたという地蔵尊があり吉三地蔵(きちさじぞう)と呼ばれる。境内入って右には大正15年(1926)馬頭観音や昭和41年文字の牛頭観音など8基の石仏がある。 |
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{左}札場 二番宿の斜め向かいが現在駐車場になっている立会宿跡でその隣。人足が川札を金に替えたところ。川札は木製で防水のため油が染み込ませてあったので油札とも呼ばれ川会所で旅人が買い人足に渡し肩車や蓮台で渡った。寛政年間(1789-1801)の川札の値段(1文を30円換算)で股通48文(1440円)から脇通94文(2820円)まで8段階あり毎朝水の深さ計り定められた。建物は見学可能で今は中には機織り機も置かれこの地に伝わる裂き織り(古布を裂いた糸で織り込み新たな布を作る)の体験(有料)も出来る。立会宿手前の仲間宿は引退した老人足がわらじを作っていたところで「権三わらじ」と呼ばれ足裏に挟まる小石が簡単に取れる工夫がしてある。今も観光土産や川越祭用に製作されている。 |
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{右}川会所 札場の斜め向かいの川越茶屋のすぐ先。川越制度が確立された元禄9年(1696)川庄屋2人が任命され設置された役所。川庄屋の下で年行事、小頭口取、待川越等の役人が賃金取決めや通行人の渡河順序の割振り、荷物の配分などを行い別の場所から渡る廻り越しの監視も行った。当初は手前の橋本屋と二番宿(両方とも現在は民家)の間にあった。現建物は安政3年(1856)築で明治に大井川通船の事務所や学校校舎の一部に利用されるなど移転したが昭和3年(1928)国道大井川鉄橋の架設を記念し鉄橋横の大井川公園に移され昭和45年に当初の位置に近い現地に修理・復元し移転した。内部は見学でき蓮台の展示もある。前庭の左に昭和3年建立芭蕉句碑、右に川越の高札風説明板がある。 |
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{右}八重枠稲荷神社 川会所の先に旧堤防(島田大堤)がありその外側にも何軒か家があり七番宿跡(現在は空地)を過ぎるとある。宝暦10年(1760)創建。川越の安全と水難排除祈願あるいは水難者の供養が目的だと言われる。増水時に川堰に積んだ蛇籠が連なった様子から「八重枠」の名が付いた。社殿は文化9年(1812)と明治34年(1901)に改修。礎石は建立当時のままで大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げている。川石は硬くて加工に手間がかかるためこの技法の礎石は今では市内に数ヵ所残るのみ。社殿左の奥には明治36年(1903)の灯籠、右には日朝大上人、八重枠不動尊と書かれた祠がある。神社向かいの五番宿や一番宿は現代風住宅で間の泉屋はたばこ屋になっている。 |
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大井川堰跡 八重枠稲荷神社を過ぎると川石が積まれた石垣が両側に復元されている。島田大堤の出し堤防で増水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し幾重にも並べて大堤を守った。島田大堤は慶長の大洪水で島田宿が全滅したのを受けて初代島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃に建設され正保元年(1644)頃には完成し高さ2間(約3.6m)長さ3150間(5.7km)で向谷水門下から道悦島村境まであったという。大井川の常水は帯通2尺5寸(76cm)で脇通4尺5寸(136cm)を越えると川庄屋の権限で川札発行が停止され川留となった。川留は年間約50日もあり最長で28日も記録したこともある。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と馬子唄にも謡われた。 |
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{左}朝顔の松公園 堰跡のすぐ先にある。浄瑠璃「生写朝顔話」では川留の大井川に飛び込もうとした盲目の深雪は宿屋の主人戎屋徳右衛門の助けで目が見えるようになり初めて目に映ったのが大きな一本の松だったと描かれている。ここには確かに松があり浄瑠璃のヒット後に朝顔の松と呼ばれていた。昭和十年代に松喰虫で枯れたため跡地に「あさがほ堂」が建立され枯れた松(目通1m56cm高さ20m)から採った一枚板に清水真一書の漢詩が納められた。堂は平成16年再築で右前には朝顔目明観音石像と石造川除地蔵が安置された祠がある。その前には巖谷小波の句碑と5代目の朝顔の松と説明板もある。公園入口には「朝顔の松」と刻まれた昭和3年(1928)建立の大きな碑がありその奥には田中波月の句碑もある。 |
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{右}島田市博物館 河原1-15-50 公園向かいにあり入口角に夢舞台道標島田市 島田宿がある。1階の常設展示室では旅と旅人をテーマに島田宿と川越、旅道具の展示とジオラマビジョンで江戸時代の旅を紹介しており屋外展示室には川舟等の展示もある。2階は特別展示室で島田の歴史と文化に関する企画展などに使用される。9時-17時、月休、300円(分館と共通)。庭の右には平成4年建立の芭蕉句碑「ちさはまだ 青ばながらに なすび汁」平成5年建立の芭蕉直筆の絵も摸刻してある句碑「たはみては 雪まつ竹の けしきかな」がある。いずれも元禄7年(1694)塚本如舟邸に泊まった時の作。春野菜であるちさと夏野菜であるなすをご馳走してくれた如舟に感謝した句。江戸時代の川越は博物館前辺りから斜め北西の対岸に渡った。 |
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大井川 川越広場 博物館の先は大井川の河川敷に出る。河川敷にはミニチュア東海道として日本橋から三条大橋までをミニサイズで辿れるレイアウトで砂利やブロック、低木、橋などで作られた広場がある。以前は東海道53次の全宿場の広重の絵のパネルや宿場にちなんだ句・歌碑等が相当する位置に設置されていたが現在は川に近いところに作られた大井川マラソンコース「リバティ」の沿道に移設されている。復元された蓮台もいくつか草むらの中に設置してある。公園の左にはグラウンド・ゴルフ場などもある。大井川は南アルプス南部の間ノ岳を水源とし延長168km流域面積1200平方kmで駿河湾に注ぐ。現在、大井川を渡るには土手上の道を川上に向って進み県道381号線(旧国道1号)の大井川橋を渡って迂回する。 |
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{右・寄}大井川橋 橋に行く途中右に一里塚風に盛られた小山があり夢舞台道標島田市 島田宿と昭和5年(1930)建立宮内大臣一木喜徳書「永御景迹」と刻まれた大きな石碑がある。橋は明治9年(1876)川の一部だけに全長234m幅2.7mの有料木橋、明治16年(1883)全体を渡る1.3kmの木橋が架けられたが明治29年(1896)の洪水で流失、その後は船渡しとなり昭和3年(1928)に現在の橋である鋼製プラットトラス橋が竣工した。歩行者には左側に車道と完全に区画された昭和42年竣工の歩道(幅1.5m)があり入口右には平成15年設置のトラスの上部をモチーフにした説明碑もある。歩道架設で親柱は撤去され金谷高校(金谷河原35東)の正門として移設された。橋は全長1026.4m幅8.3mで渡るのには約15分かかる。 |
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