東海道ルートガイド
板橋

{右・寄}天神社 南町1-5-37
旧東海道を先に進み野地サイクル商会の先を右折少し入った所に赤い鳥居がある。創建は不明だが北条氏の時代には記録があり祭神は菅原道真で地元では天神さまと呼ばれている。石段を上った所に文政3年(1821)芭蕉句碑「梅が香に のっと日のでる山路かな」。他に文化年間から小田原に住んだ紀軽人の狂歌碑もある。永禄4年(1561)北条氏康が奉納したと伝わる束帯姿で怒りの形相をした菅原道真坐姿を描いた絹本着色画像を所蔵する。明治に廃寺となった別当寺の威徳山長教院三光寺[真言宗]の寺宝で居相神社に移されていたのが近年発見され返されたもの。この辺りの旧町名は北条早雲から歴代北条氏に仕えた重臣山角氏の屋敷があったことから山角町と呼ばれ職人が多く住んでいた。
{右}松坂屋本店 南町1-9-25
少し先にある和菓子屋。創業は不明だが江戸時代から続き菓子屋になる前は刀の鍔師をしており青物町辺りで商いをしていたが明治初期に現在地に移転した。明治頃から作られていた笹梅(1枚70円)は梅肉を寒天で固め笹の葉に包んだ琥珀色の菓子で贔屓にしている茶道家も多く裏千家14代淡々斎は「雲井までとどく香りや笹の梅」という句を詠み讃えた。戦時中には陸軍に納められ東南アジアの戦地にも運ばれたが暑さの中でも味も香りも形も変化しなかったという。他にマシュマロのような外皮の中に黄身餡が入っているコケコー(1個126円)も看板商品。駅の近くにあり街かど博物館の工芸菓子展示館にもなっている栄町松坂屋(栄町1-16-46)は暖簾分けされた店でコケコーはコケッコーと言い微妙に違う。
{左}人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡の碑
少し先の歩道橋脇に平成8年建立の碑がある。明治28年(1895)熱海から小田原方面へ敷設された豆相人車鉄道は明治33年小田原城早川口の小田原駅まで延長された。軽便鉄道王と呼ばれた鉄道資本家雨宮敬次郎発案の人力による鉄道で幅1.5m長さ1.62m乗客3〜6名の車両1両に2〜3人の車丁が付き6両編成で熱海−小田原間25.3kmを3時間50分かけて押していた。車両には上等、中等、下等があり上り坂では下等客が車押しを手伝った。明治40年に熱海鉄道株式会社になり蒸気化され軽便鉄道となったが国鉄熱海線(現:東海道線)が真鶴まで開通したことや大震災により大正12年廃止された。終点の熱海駅跡の南明ホテル(熱海市咲見町8-3)にも碑がありロビーに展示コーナーがある。
{右}都市計画道路 小田原早川線の碑
東海道線・箱根登山鉄道のガード手前、早川口交差点脇の植え込みにある。昭和46年に4車線の道路が計画されたが敷設区域が国指定史跡の小田原城周辺だったため計画を変更しながら2車線道路として30年後の平成13年に完成した。碑はそれを記念し平成13年建立し隣に梅の記念樹も植えられた。道路は小田原駅西口から国道1号を経て小田原漁港に至る全長2350mで城内高校グランド下の城山トンネルや東海道線青橋など高度な技術を駆使している。国道1号から小田原駅までの区間は県道73号線になっている。
{左}宝聚山随心院 大久寺 [日蓮宗] 城山4-24-7
鉄道ガードを越えてしばらくするとある。天正18年(1590)江戸時代の初代城主大久保忠世が遠州二俣から日英を開山として招き開基し石垣山城三ノ丸跡に建立した大久保氏の菩提寺。本堂左に置かれた250年前の大瓦の横を通り裏に進むと大久保氏墓所があり右から忠常(忠隣嫡男)、忠隣(二代)、忠世、勘三郎行忠(忠勝の次男)、忠勝(忠俊の嫡男)、忠俊(忠世伯父)、行忠の娘。忠俊は小田原に来る前に死亡しており忠隣は配流先の近江で死亡しているため供養塔として建てられ忠世の遺体の一部は京都本禅寺にも納められた。慶長19年(1614)大久保氏改易ののち寺は衰退し寛永10年(1633)江戸下谷に菩提寺が移されたが後に子孫大久保新八郎康任がこの地に位牌、石塔を戻し再建した。
{右}居神(いがみ)神社  城山4-23-29
大久寺の向かいにある。三浦荒次郎義意の霊と木花咲耶姫命、火加真土神を祀る。小田原城主大森藤頼が北条早雲に攻められ逃亡し三浦半島の豪族三浦義同がかくまったため北条氏に攻められた三浦氏は永正13年(1516)滅びた。義同の嫡子で75人力といわれた義意も油壷で自刃したが首はこの地の松の枝まで飛来し3年間通行人を睨み殺したため阿育王山総世寺[曹洞宗](久野3670)の忠室和尚が来て歌を詠むと「われ今より当所の守り神にならん」と成仏したので松の下に祠を建てたのが神社の起こり。入って2番目の鳥居は延宝5年(1677)狛犬は昭和3年(1928)のもの。石段手前左に子安地蔵尊堂がある。神輿の巡行は大永元年(1521)から始まり現在の神輿は明治21年の作。
{右}居神神社 古碑群
神社の石段を登っていくと本殿左に古碑が11基ある。中でも神社の創建より古い文保元年(1317)と天享2年(1322)の念仏供養板碑(ともに高さ140cm)同じく鎌倉時代末期のものとされる五輪塔線刻碑2基(高さ51cm、70cm)五輪塔陽刻碑1基(高さ57.5cm)は市街地に残るものとして最古で市指定文化財。これらは難所だった鎌倉時代の古東海道の遺物で付近から発掘された。古碑群には他に明和3年(1766)の庚申塔などもある。神社には本殿左に聖徳太子堂、本殿右に八幡社、金刀比羅社、社務所前に水神社などの境内社がある。他にも境内には小御嶽大権現や不動明王の石塔、石仏が点在している。
{右}寂静山 光円寺 [浄土真宗本願寺派] 城山4-23-32
居神神社となり。寛喜3年から文永10年(1231-73)の間に頼賢が創建した実相院が北条氏の浄土真宗迫害で廃寺となり跡地に春日局が寛永10年(1633)実相寺として開基し明暦元年(1655)本願寺13世良如光円が訪れ改称した。本尊は阿弥陀如来。春日局の実子稲葉正勝は寛永9年小田原城主となったが翌年夏頃から病にかかっていた。境内の大イチョウ(樹齢360年)は小田原三大イチョウの一つで春日局が植えたとされ住職は代々春日姓を名乗っている。入って左に昭和26建立の東海道管領岩下清香先生之碑がある。大正12年震災後の食料難時に海を渡って政府に直訴し玄米を届けさせた。
板橋見附跡
板橋見附交差点あたりが京側見附のあった場所で今はバス停と交差点の名前として残っているのみ。ここから大外郭で囲まれた小田原府内から出ることになる。旧東海道はここで国道1号から右に分岐する。この旧道は板橋旧道とも呼ばれ神奈川古道50選にも選ばれており延暦21年(802)富士山の噴火で足柄峠が通行不能となり箱根路が開通したころから整備されたと言われる。先に板橋地蔵尊があるので地蔵尊通とも言われる。板橋は昔から大工・石工・木工をはじめとする各種の職人たちが多く住んでいた。JR東海道線と平行していた旧東海道はここから箱根湯本までは箱根登山鉄道と並行して歩くことになる。
{右}青木石濱 板橋703 
板橋旧道に入ってしばらくいくとある。創業は明応年間(1492-1501)という老舗の石材店。先祖の石屋善左衛門は北条早雲や家康に仕えた石工棟梁で小田原城の築城にも関わった。敷地裏手にある石濱東照宮は小田原城の石造煙硝蔵を見た家康がこれを造った善左衛門を召し出し関八州の棟梁に命じその後も江戸城築城に石材を献上するなどつながりが深かったことから家康の霊廟である東照宮をここに祀ったもの。街道には震災以前の建物も多く明治創業の下田豆腐(板橋636)、和菓子盛月(板橋648)をはじめ木工、履物、パンなどの老舗店や蔵が続く。
{右・寄}法雨山 本応寺(本應寺)[法華宗(陣門流)]板橋756
青木石濱の先を右折すると突き当たりにある。寛永13年(1636)創建。境内左に享和2年(1802)建立の供養塔がある。寛永10年(1633)から約200年、元禄16年(1703)宝永4年(1707)から約100年、天明2年(1782)から23年に当たり4回の大地震の被災者を供養したもの。寺の前の小道の横には小田原用水が流れている。昭和11年(1936)上水道が引かれ飲料水としての役目を終えた用水は水車の動力源として使われこのあたりには米搗屋や木地屋が多くあった。現在は水深も浅くなり防火用水となっている。
{右・寄}宝妙山 宗久寺[曹洞宗]板橋766
麺や品(ラーメン屋)の向かいを右折していくとある。天正元年(1573)創建の香林寺の末寺。入って左に大イチョウがある。麺や品を左折して行くと箱根登山鉄道箱根板橋駅で昭和10年(1935)開業当初の駅舎が残っおり木製の改札口も残存している。昭和10年以前はこちらの旧東海道に路面電車が走っており小田原から箱根湯本までを結んでいた。
{右・寄}象鼻山 御塔生福寺[日蓮宗]板橋771
宗久寺となり。もとは御塔山蓮生院と言い象ヶ鼻にあった象鼻山妙福寺が大正2年(1913)に合併し現在の寺名になった。本堂左に稲荷社、本堂前に大きな桜がある。本堂の格子天井の竜の画は狩野芳円の描いたものと言われ夜になると水を飲みに出歩いたという伝説がある。少し先には香林寺の末寺で天文5年(1536)創建の霊寿院[曹洞宗](板橋820)もあり境内には大イチョウがある。
{左}牛頭天王社
青果・雑貨店の大均商店の先を左折したすぐ右にある。明治13年(1880)村に流行った疫病をなくすために疫病除けの神として知られる牛頭天王を祀ったもの。街道の向かいには明治34年(1901)築の津田家の石蔵と昭和7年(1932)築の朝倉家の洋風建物がある。
{右・寄}栄善寺 [浄土宗]板橋835
創業百年の下田豆腐店の向かいの細道(栄善寺横町)を右折していく。文禄4年(1595)創建。入ってすぐ左に6地蔵がある。本堂前には桜の木があり、本堂左には数基の馬頭観音がある。 門前の道を少し戻ると大永5年(1525)創建で承応元年(1653)市内の八反畑(はったんばた)から現地に移転してきた大雲山興徳寺[曹洞宗](板橋831)がある。
{右・寄}古稀庵 板橋827
栄善寺の先の角を右折しまっすぐ登っていくと右にある。山縣有朋(首相、枢密院議長、陸軍元帥)が明治40年(1907)古稀(70歳)を記念して造営した別荘で晩年を過ごした。建物は大正12年震災で損傷し洋館は翌年山縣有朋記念館(栃木県矢板市上伊佐野1022)に移築された。残った庭園はあいおい保険小田原研修所の敷地になっており毎週日曜日の午前10時-午後4時まで一般開放されている。料金100円。庭園師岩本勝五郎が造った近代日本庭園の傑作で有朋の所有した目白椿山荘・京都無隣庵とともに山縣三名園と言われる。少し山側に明治40年清浦奎吾が建築し大正3年(1914)古稀庵の一部となった皆春荘、その向かいに明治大正の実業家大倉喜八郎の別荘共壽亭だった割烹旅館山月がある。
板橋跡
旧東海道(板橋旧道)を進むと明治36年(1903)築で2階建ではこの地区最古の旧内野醤油店(武功醤油)(板橋602)が右にある。さらに少し行くと左側が暗渠になった小田原用水を渡る。ここにかかっていた板の橋がこのあたりの板橋村の地名の起こりで用水ができた北条時代は土橋や石橋が中心で板の橋は珍しく地名となった。橋の上に松永記念館入口の案内柱があり川沿いの道が交差している。
{右・寄}秋葉山 量覚院(量覚寺) [本山修験宗] 板橋544
板橋跡を右折して途中で左折すると右にある全国でも珍しい修験宗の寺。もとは養老元年(717)泰澄大師が開創し弘法大師も参詣し天正・聖武・平壌天皇の勅願所として栄えた。家康は開幕時に一月坊法印に命じ遠州秋葉山からここに本尊秋葉大権現を移させ大久保氏に管理させた。防火の神として有名で毎年12月の火伏祭では修験者が燠火になった上を素足のまま踏み渡る火渡りが行なわれる。他に弘仁3年(812)弘法大師作と伝わる男女2体が相抱く大聖歓喜天を祀る。敷地奥左にはクレヨンの森保育園がありさらに進むと秋葉山神社があり狛犬と石鳥居(共に昭和37年)社殿左に稲荷社がある。
{右・寄}松永記念館 板橋941-1
板橋跡を右折して量覚院に左折せず進むと左にある。東京電力などを設立し電力王と呼ばれた実業家で美術収集家、茶人としても名高い松永安左ヱ門(耳庵)が晩年の昭和21年から25年間住んでいた敷地内に昭和34年美術品を公開するために建てた施設。昭和54年美術品は福岡、京都などの美術館に寄贈されたが建物と敷地は小田原市所有となり小田原市郷土文化館の分館となった。居宅である老欅荘(ろうきょそう)も平成13年から公開され登り口には名の由来となった欅の大木がある。平成4年開館の別館には耳庵の資料や「天の夕顔」の作家中河与一寄贈の収集品を展示している。敷地内に昭和61年市内より移築した野崎廣太(幻庵)の茶室葉雨庵と付属棟烏薬亭もある。9:00-17:00、無料。
{右・寄}南谷山 香林寺 [曹洞宗]板橋908
松永記念館よりさらに奥に進んだ突当り。本堂裏に古い洞窟があり応永年間(1394-1428)大雄山最乗寺二代韶陽以遠禅師が修復し韶陽の石窟と呼ばれる。文明16年(1484)大樹乗慶禅師がこの洞窟に入り開山、境内の弁天社(昭和53年再建)も江ノ島弁天より勧請した。北条氏綱夫人の養珠院が中興開基し早川の海蔵寺、久野の総世寺とともに曹洞宗小田原三山と言われ古文書も多く所蔵する。本尊は薬師如来で本堂は文化元年(1804)の再建。鐘桜堂は安政6年(1859)再建で寛文4年(1664)鋳造の梵鐘は供出で昭和51年復元。境内の結界門を入ると平成9年造の三層仏塔があり釈迦牟尼仏と周囲に十二支守護尊が配置されている。明治6年(1873)には有禎館(現:大窪小学校)の仮校舎が設置された。
{右}明星山 常光寺 [浄土宗]板橋581
板橋跡を少し進むと入口がある。慶安元年(1648)伝肇寺(城山4-19-8)13世観蓮社乗誉厳公上人が創建した鎌倉光明寺の末寺。本尊は阿弥陀如来。境内左の無縁塔上に六道能化抱上げ地蔵尊がある。その横の梵鐘は昭和55年鋳造。他に戊辰戦争の責任者として切腹した小田原藩家老渡辺了叟の墓がある。慶応4年(1868)遊撃隊に箱根の関を攻められた小田原藩は新政府側から幕府側に寝返り駐留していた官軍軍監らを斬殺。その後の情勢で再び官軍に付き山崎の戦いで遊撃隊と戦い勝利したが一度寝返った罪は重く藩主を守るため家老が責任を取った。官軍軍監中井範五郎正勝ら13名の名を刻んだ慰霊碑は隣の板橋地蔵尊境内にある。
{右}板橋地蔵尊(金龍山宗福院地蔵堂) 板橋595
常光寺となり。横須賀に移転した宗福院の地蔵堂で現在は香林寺が管理している。本尊は弘法大師作の延命子育地蔵大菩薩像で箱根湯本の宿古堂にあったが永禄12年(1569)香林寺9世の文察和尚が3.3mの地蔵尊坐像を造りその胎内に安置した。遺族が3年間続けて参詣し縁日に来ると故人に似た人に会えるといわれる。軒下右側には関東大震災の翌年小田原城山の楠の巨木を彫刻家森百三が生きたまま彫刻した復興大黒尊天像があり戦後根枯れしここに移された。本堂前には2本の大イチョウがある。境内は遊具もある広い公園で地蔵や石仏も多く境内右に寛政7年(1795)建立の鏡信一刀流6代目横田常右衛門豊房と7代目名坂四郎治政宣連名の供養碑、左には山縣朋書の忠魂碑がある。
{左}小田原用水取水口・市川文次郎頌徳碑
やがて箱根登山鉄道のガードをくぐり上板橋の交差点で国道1号線に合流する。合流すると左には早川が流れ川沿いの緑地に水門と碑がある。北条氏康の代に作られ早川の水をここから取り入れ城下の飲料水などに使用した古水道で日本最古の公共用水と言われる。江戸期には板橋旧道の北側を通り光円寺境内や城下を流れ江戸口見附門外の蓮池まで至っていた。近年道路工事中に江戸時代のものと推定される分水木管(木桶)が発見され一部が郷土文化館にある。市川文次郎は明治21年(1888)夏に干ばつが起こり水不足が発生し用水を使用する板橋村と下流の小田原町民との間で争いが起こった際に板橋村の代表として交渉にあたった。横には石祠と木食観正碑もある。
{右}細川忠興陣所跡(ふじやま砦)
右に箱根登山鉄道、左に早川を見ながら国道1号を歩いていくと右に見える標高120mのふじ山(富士山)の山頂にある。もとは北条氏が砦としていたが天正18年(1590)小田原攻めで秀吉方の戦国大名が小田原城を包囲した際に細川忠興が陣を置いた。現在も小田原城方面に向けた防備用土塁や曲輪などの遺構が残る。3カ月に渡る持久戦だったため忠興は蒲生氏郷と共に高山右近の元へ当時禁止されていた牛肉を食べに行ったとの記録もある。円錐形のふじ山は名の通り富士山に似ているとして古くから富士山信仰があり古鏡なども出土しており陣所跡の一角には小さな浅間社もある。国道から直接入る道がないため山頂に行くには戻って上板橋交差点手前から塔の坂を登っていく。
{右・寄}日蓮聖人思親の地(巨石象ヶ鼻)
高架の小田原厚木道路(国道271号)をくぐりすぐに旧東海道は国道から右に分岐し登山鉄道の踏切を渡る。左に行くと東海道だが右の線路沿いの小道に鳥居のような門が見え手前左に寛文12年(1672)六字名号碑と元治元年(1864)馬頭観音、日蓮聖人思親の地の看板がある。小道を登り途中右の石段を降りると巨石がある。文永11年(1274)聖人が鎌倉から身延山に赴く途中にこの石に登り下総の故郷を臨み両親を偲び曼陀羅本尊を書き宝塔を建て首題釈迦牟尼佛多宝如来四菩薩を刻した。後にお塔のふた親さんと呼ばれ里人の信仰を集め永仁元年(1293)孫弟子朗慶が象鼻山妙福寺を開いたが現在は御塔生福寺に合併移転している。石段を降りずに進むと突当たり左に堂があり石像が3体ある。
{左}郷の詩の石碑 思案橋跡
旧東海道はすぐに小田原厚木道に沿って登る道と左に行く道に分岐するが左が旧東海道。分岐した道に入ると風祭に入りすぐ先の民家の敷地に小さな石碑がある。「舟を出して港も近き里の名は 白波の風祭かな 行こか板橋もどろか箱根 ここが思案の涙橋」とあり板橋から箱根に嫁いだ女性が辛さのあまりこのあたりの橋上でどうしようか涙に暮れていたという。今は橋はなく付近の川(水路)は暗渠になっている。風祭の地名は台風が来ないことを祈り8月1日に祭りを行ったことに由来する。
{右・寄}玉正山 妙覚寺 [日蓮宗] 風祭482
少し行くと入口がある。入口左の大きな六字名号碑は元禄5年(1692)のもの。入って左に稲荷社(玉正稲荷)がある。本堂左には平成10年の新しい浄行菩薩がある。近く日蓮聖人思親の地の管理もしている。日蓮宗不受不施派で江戸時代の住職は宗派以外の者からは布施も受けず供養もしないとたびたび登城しては藩主に改宗を迫り小田原藩を困らせたという。
{右・寄}八幡神社  風祭429
少し先に参道入口がある。祭神は応神天皇で江戸時代には妙覚寺が別当寺であった。元禄頃の妙覚寺の僧日栄の名が背に刻まれた観音菩薩像を所蔵している。社殿前に大きな溶岩がありその上に弘化2年(1845)の銘の狛犬が置かれている。社殿左に稲荷社がある。境内左には明治16年(1883)の180cmほどの富士講碑がある。境内手前のケヤキは幹周りが6mで市内のケヤキで最大だが空洞化が進んでいる。里芋を串に刺して大祭の日に参拝客に配る芋田楽が近隣に有名。風祭は米作りが行なわれず芋作が中心だった。
{左・寄}鈴廣かまぼこの里 風祭245
風祭駅に向かう道を左折、線路を渡ると国道1号沿いにある。魚商を営んでいた村田屋権右衛門が慶応元年(1865)代官町(現在の本町)でかまぼこを作り始め明治に鈴木姓となって明治20年鈴木廣吉が屋号を鈴廣と改めた。右のかまぼこ博物館は作り方、歴史などを遊びながら学べる体験型博物館で10:00-17:00無料。国道向かいの食事処千世倭楼の母屋と土蔵は国登録文化財。他に地ビールレストラン箱根ビール藏もある。本店店舗は平成19年オープン予定の工事中で国道向かいに仮店舗がある。
{右}小田原の道祖神・風祭の一里塚跡(21) 風祭300
秋万酒店の先の角を少し入ったところにある。手前に道祖神、その後ろに一里塚の碑と案内板がある。道祖神は石祠の稲荷型(70cm)との合掌座像の伊豆型(58cm)の2つで小田原の道祖神の一つとして市指定文化財になっており伊豆型の方は丸みを帯びかなり風化している。一里塚は実際は十数m戻った両側にあって高さ一丈で北側を男塚、南側を女塚と呼んでいた。塚には榎が植えられていたが明治12年12月12-13日の両日に切倒されその時の塚の直径は2間(3.6m)高さは男塚10尺(3m)女塚6尺(1.8m)だった。一里塚の横には高札場もあった。
{右・寄}永禄山 宝泉寺 [臨済宗大徳寺派] 風祭918
しばらく行くと小さな暗渠の橋と案内板があり右折してすぐ。永禄元年(1558)北条時長の開基とされるが天正18年(1590)の小田原攻めで焼失。難を免れた元亀3年(1572)などの文書2通が市文化財に指定されている。寺は3世菊経によって再建されたが衰退し安政元年(1854)12世仁渓により中興された。開基時長は北条氏の系譜にも名がなく出生不明であるが本堂の屋根瓦の3つ鱗紋や所蔵文書から北条氏の縁故とされる。境内のギンモクセイは市天然記念物。寺の裏手一帯の地域はこの地方では最も古い採石場があって凝灰角礫岩が切り出されていた。かまど石と呼ばれ柔らかく火に強いので加工に適し石仏などに利用された。
{右}紹太寺への参道
宝泉寺から600mほど行くと右に広い道が交差する。かつて寺域方十町(1092m)以上に及ぶ7堂伽藍の大寺院だった長興山紹太寺[黄檗宗](入生田303)の参道で小田原城主稲葉正則が寛永12年(1635)稲葉家の菩提寺として城内に創建し寛文9年(1669)この地に移転、江戸末期の火事で清雲院のみを残し焼失した。参道100mほど先左にある現在の紹太寺は旧清雲院。参道を直進し長い石段を360段登った山上に稲葉一族と春日局の墓所があるが春日局の本墓は麟祥院(東京都文京区千駄木5-38)にある。正則が植えたとされる樹齢320年かながわ名木百選の枝垂れ桜も有名で裏山の裾野の広場にあり途中に開山鉄牛和尚の長寿を祝し2世超宗が貞享4年(1687)建立した寿塔(高さ2.65m)がある。
{右}山神神社 入生田289
紹太寺参道から少し先の民家の間に参道がある。祭神は大山祇命。この辺りは山仕事に従事する者が多く山神を祀ったのが起こり。境内のカヤ、モミ、スダジイ、ケヤキなどの古木は保存樹林に指定されている。境内にあるたくさんの石祠は後河原村の鎮守から移したもので村は南の早川の流域にあって天和年間(1681-3)氾濫で住民が入生田に避難したのち流路が変わって消え去り幻の村と言われる。しばらく行くと入生田駅へ行く道があり、さらに進むとすぐ箱根登山鉄道の線路を渡る。駅の反対側には県立生命の星・地球博物館や県立温泉地学研究所がある。
{右}駒ノ爪橋跡
線路を渡るとしばらくして暗渠の水路を越え箱根町に入る。少し先に箱根町による説明碑がある。入生田村と湯本村の境の石橋に馬蹄の跡があり頼朝が富士の巻狩りから帰る途中愛馬摺墨(するすみ)が暴れて跡がついたとされていた。江戸時代の記録では橋は長3尺(90cm)幅2間(3.6m)で駒留橋とも言われ石に跡をつけた馬の頑健な脚にあやかりたいと旅中の健脚祈願で賑わい近くには供え用の線香や香の花を売る店もあった。明治初期の道路拡幅により橋は今はこの地にはなく石橋の石は古稀庵の庭園に使用された。
{右}日本初の有料道路
数メートル先に説明碑がある。明治6年(1873)箱根に湯治に来た福沢諭吉が交通の不便さを指摘し二宮尊徳の弟子で福住旅館の主人福住正兄が有志たちと人力車が通れない板橋のお塔坂と湯本の駒ノ爪橋付近の急坂の拡幅工事を計画した。碑が建っている場所が駒ノ爪橋付近の拡幅場所にあたり明治8年板橋〜箱根間全長4.1km幅平均5mの道路が開通、工事費を通行料で賄うことを内務卿が許可した日本最初の有料道路として以後5年間人力車1銭、大八車7厘、小車3厘の通行料を取った。先を進むと数mで国道1号に合流し右の歩道は階段を登り国道より3m位上を歩く。120mほどで降りると再び国道から線路に沿って右に分岐し鉄道と国道の間の道を進んでいく。
{左}山崎古戦場跡の碑
500mほど先で再び国道1号に合流する。合流地点の緑地帯に箱根振興会が建てた石碑がある。慶応4年(1868)戊辰戦争の一つ箱根戦争時に新政府軍と幕府遊撃隊が戦った地。新政府軍は小田原藩を先頭に先鋒総督府としてやってきた長州藩、因州藩、岡山藩、津藩が布陣し早川が血に染まるほどの激戦ののち勝利した。遊撃隊二番隊隊長の伊庭八郎はこの戦いで腰を撃たれ左腕を切断する重傷を負い応援要請で江戸に行き不在だった一番隊隊長の人見勝太郎は明治13年にここで戦死した隊士の供養碑を早雲寺に建てた。分散し敗走し討ち取られた遊撃隊士の墓は早雲寺の他に大蓮寺(小田原市南町2-4-9)、紹太寺、常泉寺(宮ノ下289)、旧興徳院(芦川浜の寺)、東光寺などにもある。
三枚橋
国道1号を行くとしばらくして左に早川が沿う下り坂になり三枚橋交差点で国道1号と別れて左折し県道732号に入り早川にかかる三枚橋を渡る。曲がらず直進すると箱根湯本駅に通じる。北条氏時代は川幅が広く2つの中洲があって3つの橋が架けられ順番に地獄橋、極楽橋、三昧橋と言い渡ったところに早雲寺の総門がありどんな罪人も寺に逃げ込めば罪を免れると言われおり極楽橋まで渡ると追手も追わず助かったという。江戸後期の記録では長さ22間(40m)幅1丈(3m)の土橋がかかっていた。