東海道ルートガイド
蒲原宿

{左}新坂の説明板碑
新坂橋跨道橋を渡ると一気に坂を下る。途中の民家前に木板に焼き文字で書かれた説明板がある。東海道は古くは富士川寄りの河岸段丘上の小池坂を上り七難坂を下ったが天保14年(1843)富士川の氾濫で道が流されこの道に付け替えたためこの坂を地元では新坂と呼ぶ。 先を進むと左が光蓮寺の塀になるあたりの右に石段があり登ると寛政5年(1793)明治40年(1907)明治42年(1909)などの馬頭観音が7基ある。
{左}佛身山 海前院 光蓮寺 [浄土宗] 静岡市清水区蒲原1-10-11
平安時代から続く蒲原庄の主、蒲原氏の婿養子となった周防山口城主大内義長の子義一が天正元年(1573)先祖の蒲原氏の菩提寺として宗然上人の開山により光蓮寺をこの地に建立したが後に荒廃し元和6年(1620)旧寺の名を残し新寺が同所に創建された。境内左には大きな7つの戦没者碑があり街道側からも塀越しに良く見える。本堂右奥にはほほえみ地蔵もある。本堂裏には蒲原氏(木ノ内家)の墓所があり碑には浄瑠璃姫(常楽院崇照浄経貞操大姉)の名も刻まれている。木ノ内家の伝承によれば浜で倒れた姫は蒲原氏4代範秀に救われ館の一室に住み後に5代範定の妻となる義乃江を産み病のため治承3年(1179)没した。門の隣の駐車場の壁には大きな広重の浮世絵「蒲原雪之絵」がある。
{左・寄}古蹟 源義経硯水
坂を下りきるとT字路となり東海道は右折するが左折して県道396号に合流し少し行くとある。仁安2年(1167)蒲原氏4代範秀が作った菩提所の跡で蒲原一族や浄瑠璃姫の五輪塔や地蔵尊、供養碑があり松が1本植えられている。承安4年(1174)奥州へ下る源義経が風雨のため蒲原吹上の浜に上陸し範秀の館に宿泊した際、蒲原神社(現:蒲原木之内神社)に奉納する文を記すため菩提所の湧き水を使ったため硯水と呼ばれた。承応3年(1654)の供養塔は23代親房が6代が建立。地蔵尊は硯水がイボが落ちると有名になり「いぼ神様」として尊ばれたが旅人が持ち去ってしまい文化14年(1817)36代勝則が再建した。義経は硯水を使い契りを交わした矢矧(現:岡崎)の兼高長者の娘浄瑠璃姫へ手紙も書いたという。
{左・寄}吹上の六本松(六本松の碑・浄瑠璃姫の墓碑)
硯水をそのまま進み日軽金グループ技術センター入口前の歩道橋を渡り左折、東海道線を越えていくと蒲原中学校(新栄49)の前に小さな松林と碑ある。義経から手紙を受け取った浄瑠璃姫は蒲原まで会いに来たが吹上の浜で倒れ死んだといい松は里人が姫を憐んで植えたとも塚の上に目印として植えたとも言われる。この義経と姫の悲話を元に小野お通が浄瑠璃十二段草子を書き信長の前で音曲にのせて語ったのが伝統芸能の浄瑠璃の起こりで草子では瀕死の義経が姫の涙の雫により甦ったという筋書きになっている。浄瑠璃姫の墓碑は明治43年(1910)建立で左面に作者不詳の歌が刻まれ隣には寛文13年(1673)地蔵もある。六本松の碑は明治31年(1898)初代蒲原町長五十嵐重兵衛の建立。
{左}蒲原一里塚跡 (38)
T字路を右折し東海道に入るとすぐ一角だけ建物を引っ込めた所に赤い鳥居と小さな祠があり手前に一里塚の石碑がある。最初の一里塚は元禄12年(1699)の大津波で流出し宿の移転にともなってここに新しく造られたが現在は面影はない。
{右・寄}北条新三郎の墓碑
一里塚のすぐ先の小道の入口に標柱と看板があり右折し山道を登った場所にある。永禄12年(1569)城兵千人の蒲原城は信玄の4男勝頼を総大将とする武田軍1万8千人の攻撃に遭い落城した。北条早雲の3男幻庵の次男である城主北条新三郎氏信(綱重)は常楽寺まで逃れ寺に火を放ち自害したと伝えられその後供養のためにここに碑が建てられた。常楽寺は蒲原氏4代範秀が正治元年(1199)建立したとされこの付近にあった。蒲原城は蒲原宿を見下ろす道場山(標高230m)の上にあり磯部家手前交差点を右折し山を登り配水場も越えていくと左にある。城跡にも大正5年(1916)建立の新三郎350年忌念碑がある。新三郎の甲冑は、小田原城天守閣に展示され墓は新三郎が創建した三島の祐泉寺にもある。
{右・寄}諏訪神社
しばらく行くと石段がある。保元年間(1156-59)富士川の水害から逃れようと長野県上諏訪大明神を勧請して吹上の六本松の横にあった池の畔に諏訪明神宮を創建し水難守護神とした。元和6年(1620)の水害の折り現地に遷座し本社殿・拝殿・篭堂・玉垣等を造営した。天明6年(1786)火災の為仮宮に移り天保2年(1831)木屋の邊利左右衛門らにより社殿を建立したが安政の大地震の山崩れで押出され再び現地に遷座した。石段を少し登ると左に神社名の柱石があり昭和49年の豪雨で大正9年(1920)建立のものが破損したため平成10年再建したもの。その左には大正9年田中光顕揮毫による遷座300年記念碑や地蔵3基、元禄年間(1688-1704)の庚申塔。本殿の狛犬、燈籠、玉垣はともに昭和12年(1937)。
{右}蒲原宿東木戸跡
諏訪神社の石垣の下がやや広くなっており桝型になった部分に「蒲原宿東木戸」の石標、夢舞台道標蒲原宿 東木戸、宿の説明板、常夜燈などがある。常夜燈は文政13年(1831)で「宿内安全」と刻まれている。蒲原宿の木戸内の距離は約1kmで現在の民家の中には玄関付近に木造の行灯を置いている家もある。
蒲原宿   本陣1脇本陣3旅籠42家数509人口2480[天保14年(1843)]
元々は現在のJR線や旧国道1号の南側の古屋敷と呼ばれている所にあったが元禄12年(1699)の大津波で壊滅的な被害を受け翌元禄13年に現在の地に再建された。江戸期の里謡に「蒲原に過ぎたるもの3つある 出入り、厄病、寺が8箇所」とあり寺が多い。富士川を前にして大いに賑わい製塩も盛んであった。現在は蜜柑や桜えびの名産に加えアルミの町としても知られ他にも漆を塗り重ねて文様を浮き立たせる古代塗りや古着などを細く裂いてもう1度1枚の布に織り上げる駿河裂織などの伝統工芸もある。いるかの背びれと尾びれから作られる「いるかのすまし」は「蒲原のチューインガム」とも呼ばれる珍味。
{左}木屋の土蔵(三階文庫)(渡邊家)
少し先右に遊具のある小公園と日本軽金属の発電用巨大パイプが4本現れそれを昭和16年(1941)竣工の諏訪橋で渡る。少し行くと塀に宿場の資料が貼られた渡邊家があり庭の奥に三階建ての土蔵が見える。天保9年(1838)築で珍しい四方具(しほうよろい)という四隅の柱が上に行くにつれ少しずつ狭まる耐震工法で作られ安政の大地震でも倒壊を免れた。蔵内には江戸時代の資料が保管され三階文庫と呼ばれ市文化財にもなっている。渡邊家は材木を商っていたことから木屋の屋号で呼ばれ代々利左右衛門を名乗り文化(1804-)から天保にかけては問屋職も務め天保年間(1830-44)の家屋敷配置図によると街道に面して間口20間余(約36m)の敷地に本宅や数棟の蔵や穀倉がある大屋敷だった。
{右}岩戸山 竜雲寺(龍雲寺) [臨済宗] 蒲原2-12-10
少し先に文政10年(1827)岩戸山の石柱があり右折して坂を登るとある。本尊は聖観音。門を入って左に古い石仏石塔が7基ある。本堂の右には平成2年の厄除観音がある。承応2年(1653)西木戸近くで起こった茄子屋事件で殺された高松藩の槍の名人大久保甚太夫の槍の穂先を寺宝として所蔵する。駿河一国33観音霊場26番札所、駿河・伊豆両国横道33観音霊場21番札所で享保12年(1727)建立で岩戸山と刻まれた道標が北条新三郎の墓碑に行く途中の山道の右側にある。
{右・寄}正八幡神社
長野酒店(蒲原2-10-8)の先を右折すると正面。嘉永2年(1849)の燈籠がある。社殿左に東海道屈指の桜の名所である御殿山を散策する遊歩道の入口の石段があり案内地図板も置かれている。御殿山には約600本のソメイヨシノと約200本のオオシマザクラがありここの入口を登り左に行くと長さ37mのさくらつり橋、右に行くと御殿山広場やローラーすべり台がある狼煙場がある。狼煙場は蒲原城の狼煙を上げていた場所と伝えられる。
{左}馬頭観音供養石塔
望月米穀(蒲原2-4-8)前に文字で馬頭観音と刻まれた石塔がある。平成10年通りの北側の駐車場整備の際に半分土に埋もれて発見された。江戸時代は東木戸からこの辺りにかけて伝馬や宿役に使われた馬を飼う家が並んでいた。この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり馬頭観音が祀られていたと伝えられていた。このあたり左に行くと昭和43年開業のJR新蒲原駅で南口駅前には東海道53次のタイルが敷かれ桜えび漁船が置かれている。
{右}佛護山 東漸寺 [日蓮宗] 蒲原2-13-7
向かいに題目塔があり右折すると正面。元弘元年(1331)北条重時の嫡男石川式部勝重(日理)が開基し六老僧白蓮阿闇梨日興の弟子日目が開山した。元は大法東漸寺と称し蒲原御殿付近にあったが家光上洛時の御殿増築のため4630坪の寺地を拝領し寛永元年(1624)現在地に移転。本陣に近いことから混雑時は臨時宿舎にもなった。安政5年(1858)集中豪雨により埋没倒壊後再建、平成7年客殿庫裡増築。門前左に明治14年(1881)題目塔、門を入り左にイヌマキの巨木、右に鐘楼と文政11年(1828)法界塔がある。法界塔は木屋の渡邊利左右衛門が建てたもので信州高遠の石工の手による。本堂右に平成8年建立の日目の碑。日理と日目は富士宮市と山梨県都留市の大法山東漸寺も創建した。
{右}佐野屋 (現:佐藤家)
少し行くと塗り壁と一部なまこ壁の商家があり説明板がある。屋号は佐野屋と言い壁は塗壁で町家に多く見られる造りで塗り家造りという。塗り家造りは土蔵造りに比べ壁の厚みは少ないが防火効果は大きくもともとは城郭などに用いられた技術で贅沢普請といわれた。一般には江戸時代末期に広まったと考えられ雨樋には家紋が入っている。佐野屋の手前の両側には右に牧屋庄蔵、左にいらわや文次郎の脇本陣があった。宿には全部で脇本陣が3軒ありもう1軒は少し先の左に江戸屋忠右衛門があった。
{右}八坂神社 蒲原2-13-15
佐野屋の角に鳥居がある。正八幡神社とともに桜の名所である御殿山の入口にもなっており境内は広く毎年春に行なわれるさくら祭のメイン会場でもある。燈籠は嘉永元年(1848)明治37年(1904)。狛犬は明治41年(1908)。右には天王町区会館がある。
{左}僊菓堂 (現:吉田家)
少し先にあり説明板がある。昭和まで続いた僊菓堂という和菓子を作る商家だった。玄関はなまこ壁の塗り家造りで中に入ると柱がなく広々とした「店の間」づくりになっていて商家らしい雰囲気が残っている。土間には当時の看板が掲げられており中の間にはらせん状の階段があって二階に通じている。平成18年国登録有形文化財に登録された。
{右}問屋場跡
山居沢(さんきざわ)と呼ばれる小さな川が流れる十字路手前に説明板がある。山居沢は馬の洗い場で川堤は馬のつなぎ場に使われていた。川を渡ると右に椙守稲荷神社の赤い鳥居が山すそに見える。
{左・寄}蒲原夜之雪の碑
山居沢を渡ると左に標示があり左折ししばらく行くと左に小公園があり広重の絵と石碑、説明板、ベンチと手前に小さな松が1本ある。絵が昭和35年(1960)記念切手(国際文通週間)に採用されたのを記念し絵が描かれたと思われるこの場所に記念碑が翌年建てられた。蒲原市長の望月良雄が建立し揮毫は美尾蓮翠。雪が積もる絵はここから見た構図ではなく広重の想像で描いたという説や当時の新潟県の蒲原の絵にこれと酷似するものがありその絵を見て描いたとも言われる。毎年10月に発行されている国際文通週間切手は昭和33年同じ53次の京師の絵を採用し発行されたのが最初で以降昭和37年までと平成12年から17年まで53次の絵が採用されている。
{右}和泉屋 (現:鈴木家&お休み処)
問屋場跡のすぐ先にあり説明板がある。江戸時代は上旅籠で天保年間(1830-44)築の建物で安政の大地震でも倒壊を免れた。2階の窓外の手すりは上部が湾曲した櫛形になっており梁や大黒柱、看板掛け、柱から突き出た腕木も当時のまま残る。平成18年国登録有形文化財に登録。弘化2年(1845)「蒲原宿商売調帳」に「和泉屋間口間数6.1」とあり現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の二軒に仕切られている。お休み処は町で買い上げ休憩所、土産物屋となっており現在は市から委託を受けたNPO駿河裂織倶楽部が運営している。中は柱と建具に2、3cm隙間が開いており地震の影響で傾いたもの。駿河裂織は古着などを細く裂いてもう一度一枚の布に織り上げる伝統工芸。
{左}西本陣 平岡本陣跡
和泉屋のななめ向かいの黒塀で囲まれた家に説明板がある。蒲原宿には当初ここより100m程東に東本陣である多芸本陣もあったが宝暦年間(1751-63)に多芸家が絶え平岡家のみが幕末まで本陣をつとめた。平岡家は明治11年(1878)に京都に移転し現在は普通の民家になっている。建物は大正になって建て直したもので見学はできないが門の瓦には家紋が入るなど今も格式高い佇まいになっている。邸内には今でも大名が駕籠を下ろしたと言われる畳一帖もある御駕籠石が残されている。明治元年(1868)京都に戻る途中の明治天皇の御在所にもなった。
{左}手づくりガラスと総欅の家 (現:磯部家)
やがて交差点を渡るとNTTの向かいにあり説明板がある。明治42年(1909)築で柱や梁から一枚板の戸袋に至るまで総欅造りの家屋で二階には面が波打つような手づくりの窓ガラスが入れられている。欅は素材の美しさから近世以降、寺院建築に多く用いられ明治42年に日本における板ガラスの生産が開始されたばかりのため当時の最先端の建築部材を使った家屋だった。ただしこの家に使われたガラスが国産か輸入品かの判別は難しい。手前の交差点を右折して山を登り配水場も越えていくと左に蒲原城址がある。
{右・寄}若宮神社 蒲原3-27-11
少し先を右折すると正面。最初の鳥居は平成13年、次は昭和34年。燈籠は大正6年(1917)。社殿の後ろに急な長い石段があり登った上にも古い木造社殿があり狛犬、燈籠、手水石は昭和11年(1936)のものだが明治41年(1908)の手水石や嘉永元年(1848)の古い燈籠もある。神社敷地は元は蒲原御殿があった場所とも伝わる。
{右}高札場跡
柵(しがらみ)区会館前に説明板がある。ここに幅2間5尺(5.1m)奥行き4尺5寸(1.2m)高さ1丈1尺(3.3m)の高札場があった。
{左}御殿道
高札場跡の斜め向かいから南に下る道に御殿道と書かれた小さな碑と説明板がある。この付近に東海道を往来する将軍家の宿舎となった蒲原御殿があった。はじめは武田氏を攻めて帰る信長を慰労するために家康が天正14年(1586)から造営をはじめた小規模な茶屋(蒲原御茶屋)だったが秀忠、家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され大きくなった。寛永11年(1634)家光上洛以降は使われなくなり元禄12年(1699)の大津波で旧蒲原宿が壊滅したため使用されなくなった御殿地内に街道を通し新しい宿場とした。現在は背後の山を御殿山、ここから下る道を御殿道と地名のみが残っている。
{右}旧五十嵐歯科医院 蒲原3-23-3
その先に洋館があり説明板がある。国登録有形文化財。大正3年(1914)五十嵐準氏が町家を洋風に増改築したもので擬洋風建築と呼ばれ外観は洋風で内部は和風になっており当時としてはガラス窓が多い建物は珍しかった。その後昭和14年頃に西側部分、その1年後に東側部分を増築し一体的な洋館として整備された。右に町家特有の奥まで通じる土間通路がありそれに並行して2階に通じる木階段がある。裏庭には水道がなかった頃に井戸水を2階の診療室まで通したポンプも残る。名医として知られ田中光顕も患者の一人だった。前庭には常夜灯もある。水-日、10時-16時(12月-2月は-15時)。一室には蒲原の伝統工芸である漆を盛り上げて模様を描く古代塗りの盆が展示してある。
{左}蔀戸(しとみど)のある家 (志田家) 
五十嵐医院の少し先向かいにあり説明板もある。国登録有形文化財。嘉永7年(1854)の大地震の翌年に再建され東側2階建て部分が当時の建物。蔀戸は日光や風雨などをさえぎる戸で多くは上下二枚に分かれていて上半分を長押(なげし)から吊り下半分は懸け金で柱に打った寄せに留め全部開放するときは下のものは取り外せる。昼は上に吊り上げて目隠しに用い夜は下ろして戸締まりの役を果たした。志田家は元は山六(やまろく)の屋号を持つ味噌や醤油を醸造する商家で昭和21年の農地改革まで小作人を抱える大地主だった。
{右}美しい格子戸の家 (現:増田家) 
少し先にあり説明板がある。格子戸は平安時代に初めて現れた建具で伝統的な日本建築工法の一つ。細い角木を縦横に間をすかして組み窓または出入り口に取り付ける。組子の組み方にも幾種類かありまた、組子だけで吹通しのものや一面に板を張るものなど気候風土に合わせた工夫がなされている。
{右・寄}道場山 妙隆寺 [日蓮宗] 蒲原3-30-19
少し先に看板があり右折し正面。もとは別の場所にあり天文元年(1532)日長が祈願所として建立したと伝わるが今川家家臣で後に家康に仕え伊豆国分寺も再興した井出志摩守正次(心性院殿蓮夢日安大居士)が永禄年間(1558-70)寺領を寄進し開基したとも伝わる。後に衰退し元和4年(1618)に北山本門寺(富士宮市北山4965)の11世日健が現在地に寺を移して再建し中興の祖となる。日健は同6年に本山を退隠して当寺に移り住んだ。昭和16年(1941)日蓮宗、本門宗、顕本法華宗の三派合同により現在の日蓮宗になる前までは本門宗だった。本堂右に日蓮立像と大きな蘇鉄、本堂左に明治6年(1873)題目塔がある。参道途中左の民家脇にも題目碑がある。
{右・寄}法流山 長榮寺(長栄寺) [浄土真宗本願寺派] 蒲原3-31-15
やがて街道が左にカーブするところに寺名石標がある。慶安3年(1650)開創で江戸時代には漢方医をしたり寺子屋を開いたりもしていた。本堂左に平成17年建立の親鸞聖人像、その前には本願寺24代門主即如(大谷光真)手植えの桜と平成15年建立の碑がある。左には鐘楼があり梵鐘は昭和44年鋳造。東海道は左にカーブしばらく進むと県道396号に出る。
{左}西木戸跡
県道に出る所に石柱、夢舞台道標蒲原宿 西木戸、蒲原宿説明板、松、水飲み場がある。この辺りは茄子屋の辻とも呼ばれ承応2年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、槍の穂先が薩摩藩の大名行列の槍と触れたことで口論になりその場は堪えたもののここの近くの茶屋茄子屋で行列を待ち伏せ70人近くを倒したが最後に追手に殺された。甚太夫は竜雲寺住職が墓地に葬り供養し槍の穂先は現在も寺宝となっている。東海道は県道396号を右折する。右折した右には江戸時代には浦高札場があり船に関する御触れ書きを掲げていた。海に近い蒲原宿は海上交通も盛んで甲州から岩渕まで富士川で運ばれた物資も陸路で蒲原まで運ばれ船で江戸や清水などに運ばれた。
{右}和歌宮神社
しばらくすると大正6年(1917)の鳥居と弘化3年(1846)の燈籠がある。祭神は山部赤人(赤人大神)と木花咲耶姫命。奈良時代に赤人が吹上浜より富士山を見て詠み万葉集巻三にもある和歌にちなみ創建され後に富士山を歌題とした縁により富士浅間神社の木花咲耶姫命も合祀した。永禄12年(1569)焼失、寛永11年(1634)再建、昭和35年に現地に移転した。境内の鳥居は昭和18年、狛犬は昭和2年(1927)。境内左には明治43年(1910)五十嵐重兵衛貴儀の歌碑や戦没者慰霊碑など8つの碑が並ぶ。社殿左には金毘羅神社もあり間には明治期の力石や貞享3年(1686)庚申塔もある。社殿の後ろにも古い社殿があり明治45年(1912)の狛犬や弘化3年弘化4年の燈籠がある。
向田川橋
県道を歩いていくと欄干に桜と桜えびがデザインされた平成7年竣工の向田川橋で向田川を渡る。東海道中膝栗毛では弥次さん喜多さんは向田川辺りの木賃宿に泊まり巡礼の娘と間違え老婆に夜這いをかけた。向田川は蒲原地区の水道水源にもなっている。渡ると左に蒲原文化センター(蒲原新田1-21-1)の駐車場がありすぐ左には遊具のある小公園がある。蒲原文化センター前バス停には蒲原の観光案内図もある。蒲原文化センターは昭和45年開館で会議室などからなる中央公民館と418席あるホール、福祉センターとの複合施設。
{左}一乗院(神原不動尊) [真言宗醍醐派] 蒲原中369-1
県道を歩いていくとある。祭神は大聖不動明王、三寶大荒神。堂の前に常夜燈と「輪源寺二丁」と刻まれた神変大菩薩の石塔がある。富士市(伝法1934-7)に別院がある。
{左}蒲原駅
しばらくするとある。明治23年(1890)5月16日開業。前年の東海道本線国府津駅〜静岡駅間の開通当初は岩淵駅(現:富士川駅)が設けられたため蒲原には駅が置かれなかったがその後の誘致により開業した。岩淵駅から近かったため中心地だった蒲原宿からは由比寄りに離れた場所にある。蒲原宿近くには昭和43年に新蒲原駅が開業した。