東海道ルートガイド
富士川

富士緑道
すぐに左から来る県道396号富士由比線と合流するが斜め向こうに旧道が続くので渡りしばらく行くと身延線の旧線路跡を利用して作られた遊歩道と交差する。身延線は富士駅から東に出て北上していたが日蓮正宗総本山大石寺(富士宮市上条2057)への参詣客が増え東京方面から直通で乗り入れる団体列車が富士駅でスイッチバックするのを解消するため昭和44年に駅の西に出て北上するように移設された。旧線路は約2kmの遊歩道になり潤井川に出るまで途中に遊具、アスレチック設備などもある。しばらく行くと王子製紙富士工場(平垣300)の煙突が左に見える。
{左}本市場一里塚跡(35)
望月整形外科医院(本市場212)を過ぎたところに平成13年建立の碑があり榎が植えてある。周りは花壇になっている。正確にあった所は望月整形外科医院の敷地で中吉原宿の頃まではさらに手前の富士建設業協会(本市場町770)付近にあったとされる。なお次の一里塚は37里目の岩渕一里塚で36里目の一里塚は東海道設立当初は存在したが元禄12年(1699)大津波被害により東海道の道筋が変わったため欠番となったとされる。先を進むと明治10年(1877)加島学校として創立し初代校長深井譲の銅像がある富士第一小学校(本市場280-2)がある。
{左}道祖神
しばらく行くと静岡中央銀行富士支店(本町13-17)がある交差点でアーケードの付いた通りに出る。左折していくと富士駅で右を見ると富士山が正面に見える。東海道は交差点を渡り進み最初の十字路左側に文字だけの道祖神がある。道祖神の横を左折し三つ目の交差点を右折した先右の平垣公園(平垣町6-1)内には柚木の茶屋で詠んだものと伝えられる芭蕉句碑「ひと尾根は しぐるる雲か 不二の雪」がある。文化14年(1817)丹波の俳人野楊が建てたもので裏には自分の句「しぐるるや失いもせず山の月」とある。同公園内の左隅には野ざらし紀行の一節と「猿をきく人捨て子に秋の風いかに」を刻んだ芭蕉碑も2つあって1つは昭和49年富士ロータリークラブの銘がある。
{右}妙雲山 栄立寺(えいりゅうじ)[日蓮宗] 平垣本町11-12
道祖神から100mほど先にある。山門前左に年号不明の題目塔がある。
{右}不盡山 金正寺  [曹洞宗]平垣本町10-47
栄立寺と通りを隔てて隣にある。宝暦13年(1763)本戒和尚が真言宗金正院を再興して曹洞宗とした。門前には「旅人守り本尊」の碑や天保10年(1839)の戒壇石「不許葷酒入山門」がある。本堂の左に厄除け観音。鐘楼の左には六地蔵や稲荷神社がありその横には庚申塔もある。飼っていた三毛猫が毎晩中島のカヤツンバ(茅積置場)の広場に付近の猫を集めてダンスパーティーを開いたという伝説が残っており猫の石像もある。明和9年(1772)には成立していたという富士横道観音霊場の24番札所。明治期に貴族院議員のほか小作米の販売や金貸し養蚕などにも携わり鉄道駅や製紙工場誘致、小学校建設資金提供など公共事業に尽力した松永安彦一族、加島学校初代校長深井譲などの墓がある。
{右}旧松永邸跡(現:富士ホワイトホテル) 平垣本町10-6
金正寺の隣。ホテルの塀に説明板が貼られロビーにパネル展示もある。江戸時代に甲斐国より移住してきた初代五左衛門を祖とする大地主で6代好時の頃より土地収集で財を蓄え安兵衛の代の江戸末期には平垣村他六ケ村を領地とする旗本日向小伝太から領地取締役を命じられ邸内に小塚陣屋と呼ばれる陣屋を持った。吉原宿と蒲原宿の中間に位置するため明治元年(1868)明治天皇小休所にもなった。明治の当主松永安彦は貴族院議員を務めた。安政4年(1857)新築の邸宅は母屋だけで建坪150坪あり昭和54年に富士市に寄贈され富士市立博物館西側(広見公園)に一部が移築保存されている。
{左}札の辻跡の石碑
大正5年(1916)竣工の札の辻橋を渡った平垣町公会堂の横に石碑と猿田彦大神の石塔、富士市の標柱がある。石碑の台座には昭和50年石製説明板が貼られている。このあたりにかつて平垣村の高札場があった。境内が一里四方もあり西に比叡山、東に実相寺とまで言われた岩本山実相寺(岩本1847)の東南端にあたり寺へ行く人がここで札を買って行ったため札の辻と呼ばれたとも言われる。現在は北西4km先にある実相寺は久安元年(1145)鳥羽法皇勅願の天台宗の寺(現在は日蓮宗)で49院500僧坊があり500人以上の学僧が修行していた。札の辻橋には竣工当初鉄の欄干があったが戦争で供出された。川は雁堤も作った古郡三代が加島新田を開発した時の灌漑用水(上堀、中掘、下掘)の一つ
{左}稲荷神社
屋上で見る富士山が売りのふるいや旅館(平垣町6-1)を右に過ぎ富士早川を渡ると赤い屋根、赤い鳥居の神社がある。社殿は昭和37年新築。横には双体道祖神がある。さらに進むと右側に青い屋根の不動堂があり横には寛政6年(1794)秋葉山常夜燈がある。道はやがて県道396号(旧国道1号)と合流し右には富士市の標柱がある。
{右}天白神社   柚木206
県道396号に合流し渡った反対側にある。祭神は保食神。創建は不明だが天正13年(1585)慶長18年(1613)寛永19年(1642)寛文10年(1670)に社殿造営、修復の記録がある。日照りが続き米が取れない年に天から1寸8分(5.5cm)の大きな米3粒が降ってきたため村人は神が授けてくれたと1粒を神社に祀り残り2粒を米之宮神社と出雲神社に奉納したと言う。神社横に昔あった天白池に雨乞いすると必ず雨が降ったとも言う。社殿の向拝の龍は棟梁伊藤高芳の作。鳥居は明治36年(1903)、社殿右に双体道祖神や庚申塔。境内右にブランコ、鉄棒、滑り台、その奥にも享保17年(1732)青面金剛像、明和2年(1765)文字など4基の庚申塔がある。境内の榎、ヤマモガシ、ムクノキは市指定保存樹になっている。
{左}秋葉山常夜燈と東海道道標
昭和44年開業の身延線柚木(ゆのき)駅横で身延線のガードをくぐり五叉路である橋下交差点を渡りそのまま県道を進むと県道から右に分岐する道がありその分岐点にある。慶応元年(1865)の常夜燈(総高143cm)は火袋がコンクリートで補修されているが自然石でできており左面には「町内安全」と刻まれている。道標には「左東海道」と刻まれているが旧東海道はここから右に分岐していく。道標横には富士市の標柱もある。この先、東海道は200mほど先の水路を渡った十字路を左折する。
{右・寄}護所神社
十字路を東海道と逆に右折し水路沿いに行くと左に橋下区公会堂が左にありその脇の階段を登るとある。寛文年間(1661-72)古郡文右衛門重年らが築いていた雁堤は何度も築く途中で流され頓挫し富士川を渡ってきた千人目の旅人を人柱に建て神仏に願うことにした。千人目は巡礼夫婦で夫は役に立てるならと引受け妻を残し生き埋めとなり地中で鳴らす鐘の音が21日間聞こえたという。工事は順調に進んみ堤は完成したが人々は人柱の霊を神として祀り神社を建て以後毎年供養祭をした。境内に昭和9年、昭和35年の由来碑、昭和49年の人柱供養碑がある。灯籠は昭和55年。左の雁堤への階段を登っていくと昭和63年の古郡三代を讃える碑、昭和49年の2種類の碑、平成13年の句碑がある。
{右・寄}雁堤
護所神社の階段を登りきると堤の上に出る。水神の森から岩本山実相寺(岩本1847)に掛けて全長2.7kmに及ぶ大堤防で古郡重高、重政、重年の三代が富士川の洪水から加島平野を守り新田開発を進めるために築いた。元和年間(1615-24)最初の堤防を重高が構築したが万治3年(1660)大洪水で大半が流失し重政が釜無川の信玄堤を参考に再工事に着手、死後重年に引継がれ延宝2年(1674)に完成した。これにより加島平野は加島五千石と呼ばれる大肥沃地に発展した。富士川に沿って屈曲している形が雁の群れが空を飛ぶくの字型に似ているので雁堤と呼ばれるようになった。現在護所神社の上の堤は雁公園として整備され広場になっている。
{左}明治天皇御小休所阯
雁堤を右に見ながら旧道を進むと四丁河原歩道橋で県道396号に再び合流する。県道を歩いていくと昭和15年建立の碑と説明碑がある。明治11年(1878)東海北陸御巡幸の折りに休憩した場所。
{右}水神ノ森(松岡水神社) 松岡1816-1
富士川橋の手前の森の中ににある。正保3年(1646)古郡孫太夫重政が堤防普請の成功を祈って創建した。大正12年(1923)の鳥居をくぐった境内入口左には文化元年(1804)秋葉山常夜燈、文政元年(1818)岩本村六番船方講中によって建立された常夜燈、不盡河帰郷堤の碑、「両舟場」と刻まれた文政3年(1820)庚申塔がある。参道には寛文8年(1668)享保8年(1723)明和5年(1768)昭和56年の灯籠が並び、昭和61年の狛犬や享保8年の手水石もある。社殿前の狛犬は昭和34年、社殿の左に八幡宮、右に天満宮もある。他に昭和26年講社の碑、昭和37年、昭和51年の玉垣記念碑もある。境内にはカゴノキ、クスノキ、スダジイの市指定保存樹もある。
{右}富士川渡船場跡碑
水神社の鳥居をくぐった右にある。平成13年建立で揮毫は富士市長鈴木清見。富士川は慶長7年(1602)に渡船制度が定められ岩本村と対岸の岩渕村の間の船渡しになった。渡船業務は最初は岩渕村が担当していたが交通量の増加に伴い寛永10年(1633)以降3分の1を岩本村が分担した。東側の上船居、中船居、下船居3箇所から出るルートがあり川の状況で使い分け神社前に川高札場、現在の東名高速付近に川会所があった。一人の渡し賃は正徳元年(1711)16文、文政11年(1828)19文、天保14年(1843)24文。碑の右には宝暦8年(1758)富士山道道標があり昔、西方から来る登山客はここから北方、村山を経て登山した。現在、富士川を渡るには富士川橋の右側にある歩道専用橋を利用する。
{左}富士川橋 旧親柱
すぐに富士川に出て右に富士市の標柱、左に大正13年(1924)竣工の富士川橋の親柱が1基ある。全長399m幅7.3mの富士川橋は英国製の鋼材を用いて6径間曲弦プラットトラス構造で架けられたが昭和56年から63年にかけて補修工事が行なわれ親柱も新設された。ここにある親柱は唯一破損してなかった左岸上流側にあったもの。富士川は南アルプスの甲斐駒ヶ岳(2966m)西麓を源流とする釜無川と笛吹川が合流して甲府盆地の水を集めて駿河湾に流れ込む川で昔から海道一の急流と言われ日本三大急流(他に最上川、球磨川)の一つ。日本列島の裂け目である大地溝帯(フォッサマグナ)上にあり電力の50Hzと60Hz、NHKチャンネルの1と2の境でもある。橋を渡ると富士市から富士川町に入る。
{右・寄}角倉了以翁の紀功碑
橋を渡って上流に向かって進むと右に夢舞台道標渡船場跡がありさらに上流に進んでいくとある。江戸初期に朱印船のベトナム交易で莫大な利を得た京都の豪商の角倉了以、素庵の父子は慶長12年(1607)と19年(1614)の二度の幕命により現在地付近から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)まで約18里(71km)の富士川開削を行い甲州通船発展の基礎を作った。碑は昭和12年(1937)田中光顕伯爵の助言で富士川橋脇に建立され一時は第一中学校校庭に移転したが平成2年に現在地に再移転した。碑の手前には常夜燈もあり船の安全を祈って文政13年(1830)甲州三河岸、岩渕河岸商人、富士川渡船関係者らが渡船上り場に建てたもの。了以は大堰川、高瀬川、天竜川等の開削も行い水運の父と呼ばれる。
{右・寄}船型の植樹桝
角倉了以の紀功碑の横にある舟形の植え込み。平成元年度県道10号(富士川身延線)の修景工事の一環で整備されシラカシの木を帆に見立て定渡船の規模を再現している。富士川渡船には定期船である定渡船(長さ10.3m幅1.57m)6艘、大名や幕府公用の高瀬船(長さ13.2m幅1.8m)18艘や助役船があった。定渡船は定員30名か牛馬4頭で船頭5人が乗り底が平らなので平田船とも呼ばれ高瀬船は定員24名で船頭3人が乗り定渡船より長いので長船と呼ばれた。岩渕河岸は渡船の他に明治44年(1911)中央本線が開通するまで甲州通船の基地でもあった。笹船、小廻船とも呼ばれた高瀬船が300艘(明治時代には800艘)使われ下りは半日、上りは4日〜5日で往復し積み荷は通称「下り米、上り塩」だった。
{右・寄}岩正山 光栄寺 [日蓮宗] 庵原郡富士川町岩淵1135-1
富士川橋を渡った夢舞台道標渡船場跡の向かいの左クリーニング屋&右魚屋の間の新坂と呼ばれる細い坂道(県道10号線)に入り登りきったところを左に行くのが東海道であるが右に行くとある。境内に元禄5年(1692)安永10年(1781)の題目碑がある。灯籠も安永10年。正面階段の下にも題目碑が2つあり享保16年(1731)のものは「右 身延道」と書かれた道標にもなっており別の場所から移されたもの。
{右}秋葉山常夜燈 間宿・岩渕(岩淵)
新坂を登り左折すると道路両脇の排水路に東海道ルネッサンスの蓋がある間宿岩渕に入る。少し行くと右に嘉永6年(1853)の常夜燈がある。岩渕には自然石を使用したキノコ型常夜燈が多い。岩渕村は江戸初期には町並はなかったが増水による川止めで次第に賑わい大名の休息施設である小休本陣も設けられ渡船名主でもあった齋藤縫左衛門家、常盤弥兵衛家、齋藤億右衛門家の3軒が主に務めた。水害も多く地形も変わり現在の場所には宝永4年(1707)12月から3ヶ月かけて移った。嘉永7年(1854)安政の大地震で静岡県東部に大被害があり富士川の流れも大きく変わって西岸が約10m隆起した。安政の大地震は嘉永7年11月、安政元年(1855)12月、安政2年9月(江戸大地震)を含めた総称。
{右}清源院  岩淵553
少し行くと寺名のない門柱があり階段を登るとある。階段の途中には右に六地蔵、左に享保5年(1720)六字名号碑、木が根付いている元禄6年(1693)の石塔、年号不明の庚申塔がある。境内は富士川を見下ろす高台になっており左には昭和54年や昭和61年の富士川に因んだ歌碑がある。他に境内左には鐘楼、嘉永5年(1852)石経供養塔、水子子育観音菩薩、天満宮がある。
{右}小休本陣 常盤弥兵衛家邸宅  岩淵455
しばらく行くとある。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後建てられた邸宅で平成10年に国有形登録文化財となり修復工事を経て平成16年から一般公開されている。母屋は建坪75.38坪、切妻造、桟瓦葺。農家と町家を併せた一般民家には見られない建物で通り庭(土間)形式と前土間形式を併用し居室部分は並列6間取り型でさらに裏に2間を増やしている。柱の配置や構造材は建築当初のものと推定され居室奥には上段の間がある。門は新豊院山門と同じ薬医門形式で入って右に槙の古木(根回6m樹高10m)があり町の木に指定されている。紀州徳川家の分家である愛媛西条藩の9代藩主松平頼学(西条少将)も身延山参詣時に休息した。女優常盤貴子の父親の実家。9:00-16:00、無料、火-金は予約制。
{右}八坂神社  岩淵415
常盤邸の塀を過ぎた隣には秋葉山常夜燈と高札風の街道案内図がありしばらく行くと十字路に出て渡って右に別の秋葉山常夜燈と神社の鳥居がある。祭神は須佐之男命。慶長7年(1602)元岩渕保育園付近に建立されたが明和元年(1764)に焼失、寛政7年(1795)現在地に移転した。京都祇園社の末社とされ村の五穀豊穣と疫病退散を願い祇園祭典を盛大に行なっていた。寛政9年(1797)の神輿も保存されている。境内の灯籠は明和6年(1769)でもう1基天保5年(1834)の風化したのもある。色付きの狛犬は昭和15年(1940)のもの。社殿の隣に水波之売命を祀る水神社もあり東名高速の建設で移されてきた。
{右}光福山新豊院(しんぽういん) [曹洞宗] 岩淵328
しばらく行くとある。正治元年(1199)真言宗の寺として創建され光明山心包院と称し天文3年(1534)改宗・改名した。入口右に享和3年(1803)秋葉山常夜燈と湧水井戸、左に巡礼塔と地蔵があり東海道に面した左に昭和4年(1929)上水道築造記念碑もある。本堂左の堂に明治6年(1873)廃寺になった2つの末寺の本尊である増福寺木造聖観世音菩薩立像(高さ134.5cm)と光雲寺木造薬師如来坐像(高さ92.4cm)があり共に町文化財。他に本堂右前に宝暦9年(1759)火伏地蔵、元禄9年(1696)大日如来石像、本堂左前に聖観音石像、境内左に仏足石、境内右に水子地蔵、鐘楼。境内左の小山には江戸時代に建立された西国33ヶ所霊場の石仏が配置され山を歩きながら巡礼できる。梅花観音霊場77番。
{右}新豊院 山門
槙の古木が並ぶ新豊院参道を行くとある延宝7年(1679)築の山門で町文化財。本柱を門の中心線から前方にずらし本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に束を建てて屋根をのせる薬医門形式で間口3.03m奥行2.15m。扁額は水戸光圀に招かれ天和3年(1683)寿昌山祇園寺(水戸市八幡町11-69)を開山した明の帰化僧心越興儔の書で旅の途中に立ち寄り揮毫したとされ現在はレプリカが掛かり本物は寺内に保存されている。山門入って左には巡礼塔が9基並び、山門入る前右にも六地蔵のほか石塔群がある。寺内には大正13年(1924)昭和天皇の結婚を奉祝し当町出身で東京美術学校教授の大村西崖画伯が180反(高さ40m幅16m)の布に描いた大観音画像も所蔵し毎年3月中旬の大観音祭に公開される。
岩渕一里塚(37)
東海道はやがて右に曲がっていくがその角にある。両側に塚が残りそれぞれ榎が植えられているが左の榎は昭和42年虫害で枯死したため昭和45年に植えられた2代目。右の榎は根回5.6m目通3.2m樹高10m。左の塚前には昭和45年の石碑、説明板、夢舞台道標、風化した石仏がある。付近の東海道は地震や水害で度々ルートが変わっており一里塚もなかった時期があったが正徳元年(1711)第8回朝鮮通信史を迎えるにあたりここに塚が造られた。この地は岩渕村と中之郷村の村境で付近には名物の栗ノ粉餅を売る茶店が並んでいた。栗ノ粉餅は今はツル家菓子司店で復刻され売られている。
{左・寄}富士川町立歴史民俗資料館 岩淵8-1
一里塚で右折せずにまっすぐ小道に入っていくとある。桑木野の大家と呼ばれた稲葉家の住宅を昭和46年富士川町南松野から移築・復元し資料館としたもの。建物は江戸時代中頃の築で茅葺屋根、入母屋造で奥行4間(7.2m)間口6.5間(11.7m)建坪26坪(85.8平方m)。ヒジロ、ヒロマ、ナンド、デイと呼ばれる4つの部屋を田の字型に間取り構造、外観共に富士川下流域の農家建築の典型を残す館内には昭和30年代までに町内で使用されていた民具が約200点を展示されている。9:00-16:00、無料、火-金は予約制。前の道は江戸初期の東海道で元禄9年(1699)の大津波以前はここから下りほぼ県道396号(旧国道1号線)に沿っていた。
{右}若槻武樹翁之壽碑
富士川町役場(岩淵121)と町立第一小学校(岩淵107)の間にある。大正3年(1914)建立で田中光顕伯爵の揮毫。文政8年(1825)父總七の嫡子として岩渕村に生まれた若槻武樹は私財を投じて貧困する村を助けるなど村に尽くし岩渕村戸長、庵原郡立病院蒲原分院監事などを勤め和歌や囲碁を好んだ。宇多利神社境内左に娘婿の直作が建てた武樹の句碑がある。田中光顕は土佐出身で明治維新後に陸軍少将、警視総監、学習院長、宮内大臣などを歴任し明治42年(1909)収賄疑惑で非難を浴びて政界を引退、その後は高知県桂浜の坂本龍馬銅像の建設など日本各地で維新烈士の顕彰に尽力し晩年はここの近くに古渓荘(現:野間農園)や蒲原町に宝珠荘(現:青山荘)を建てて隠棲した。
{左}街道の松
第一小学校を過ぎると道はカーブしていき左に火袋が金属で補修された文政6年(1823)秋葉山常夜燈を過ぎると道路がレンガ色の舗装になっている十字路で東海道は右折する。すぐにいたわりゾーンがあり左の中部電力富士川サービスセンター(中之郷3817-1)向かいには松本山慈林寺[曹洞宗](中之郷3653-2)入口の看板もある。それを過ぎていくと新町本町区に入り左の防災倉庫前にも常夜燈がある。しばらく進むと東名高速道路の高架をくぐる手前に「街道の松」の立札がある松と夢舞台道標中之郷、野田山健康緑地公園の案内図、ベンチがある。
{右}野田山入口
高速をくぐると道が左右に分かれ正面に石碑が2つある。大きな碑は東京の高福院三田講が昭和4年(1929)に建てた碑で真中に野田山不動明王と書かれ両側に聖徳太子と弘法大師とあり右の小さな碑には薬師如来とある。ここから東海道は左に行くが右に行くと野田山や薬師堂に通じる。山は古くから霊場として知られ大正15年(1926)松橋慈照が実相院(現:中之郷3464-1)[真言宗]を建立したが昭和28年に山ごと焼失し現在は大師広場に大師堂がある。付近には鎌倉時代には四十九院という天台宗の禅修行場もあり現在も四十九橋などの地名が残る。すぐ右には石段があり登ると金鶴神社、山之神神社と彫られた昭和42年の石碑がある。左折し高速に沿って進むと道は右にカーブして下り坂になる。
{左}ツル家菓子司店   中之郷3251
昭和3年(1928)竣工の小池橋を渡りすぐの二叉路を左に行くのが旧道でしばらく行くとある。岩渕一里塚周辺の茶屋で江戸時代中頃から名物だった栗ノ粉餅を復刻し売っている。餅好きの音吉がある時病に倒れ12歳の娘お糸が山から採ってきた栗を粉にして丸めた御飯にまぶして食べさせたところ音吉は大層喜んで病も回復し村人の間でも評判になり一里塚そばに茶屋を開いたところ名物となった。東海道の衰退で大正時代に途絶えていたのを復刻した餅は江戸時代にはなかった中身に餡と栗を入れ栗の粉をかけたもので1個126円。府中の安倍川餅と草津の姥ヶ餅とともに東海道三大餅の一つで姥ヶ餅の代わりに由比のたまご餅を入れた静岡三大餅の一つでもある。
{右・寄}宇多利神社 中之郷3067
しばらく行くと安政3年(1853)秋葉山常夜燈と昭和17年の文字の馬頭観世音がある。そのすぐ先に大正12年(1923)神社名石柱と昭和50年の燈籠があり右折し右に春埜堂を見て行くと鳥居と石段がある。祭神は天照皇大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、宇迦之御魂神、大山祇神、大國主命、木花咲久夜姫命。平安末期に延暦寺の鎮守日吉大社を勧請し七社権現社と言っていたが永禄12年(1569)兵火で焼失。天正年間(1573-92)現在地に再建され慶長2年(1597)宗清寺(中之郷3762)開山の大嶽宗伯により整備され宗清寺の別当となる。神仏分離令で明治8年(1875)宗清寺から分離、付近の小社を合祀し新しい7祭神に改め宇多利神社に改名した。境内の燈籠は天明6年(1786)など4基、狛犬は昭和14年
{右}明治天皇御駐輦之趾
しばらくすると宮町を抜け二叉路を右に行くと東海道新幹線にぶつかり歩行者専用地下道をくぐり線路を渡る。車道は別路にて地下道をくぐり再び旧道と合流するが合流地点の左に嘉永4年(1851)秋葉山常夜燈と昭和45年の区画整理事業を記念し富士川町長中川国兵揮毫により昭和48年に建てられた「聳岳雄飛」碑がある。少し行くと民家の前に昭和45年建立の小休所碑がある。明治11年(1878)の東海北陸巡幸のときここで休憩した。
新坂橋跨道橋
東海道は坂道を登り後ろ左に富士が見える。やがて本来ならば直進するところが東名高速に阻まれるため高速に沿って進むようになり高速道路を陸橋(新坂橋跨道橋)で渡るため左折する。橋の上からも進行方向の左手に富士山が見える。この橋を越えると富士川町から静岡市清水区蒲原に入る。蒲原は以前は富士川町と同じ庵原郡に属す蒲原町であったが平成18年3月31日静岡市に編入合併し清水区の飛地となった。