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{右}清水町・常夜燈 橋を渡ると駿河国で現在の駿東郡清水町になりしばらく行くと千貫樋バス停を少し過ぎた公園(新宿児童遊園地)前に弘化3年(1846)の常夜燈と説明板、夢舞台道標向かい宿がある。常夜燈には左右に駿河国に結びつきが強い秋葉大権現と富士浅間宮が刻まれており村人が防火の願いを込めて建てたとされる。当初は向かいの十字路の角にあり昭和初期には付近の神社の一画に置かれていたが平成13年の東海道400年を機に現地に移設された。常夜燈は街道筋に設置され一晩中灯火を点けておくもので駿河国では特に多い。すぐ先には八坂神社と天王様の出社祭事場所の立て札がある。 |
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{右}金龍山 玉井寺(ぎょくせいじ) [臨済宗] 一里塚(29) 伏見707 600mほど進むとある。永禄12年(1569)に近くにに開創された寺で江戸時代に入り一里塚築造時に現在地に移転した。本尊は釈迦如来。境内に一里塚が片方あり江戸時代からの原型のまま保存されている。もう片方の一里塚は向かいの宝池寺にあり両方合わせ清水伏見一里塚と呼ばれる。の他に境内入ってすぐにある明和4年(1767)三界万霊塔は白隠禅師の書で他にも山号額、寺号額、達磨像掛軸、出山仏掛軸など禅師の遺墨を所蔵する。入口左や本堂左にも江戸時代の石塔、石仏がある。 |
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{左}百丈山 宝池寺(ほうちじ) [臨済宗妙心寺派] 一里塚(29) 伏見720-1 玉井寺の向かい。元亀2年(1571)昌林宗久禅師により建長寺の末寺の普明山法智院として近くにに開創された寺で慶長7年(1602)一里塚築造にあたり現在地に移転、寛文年間(1661-73)に妙心寺派になり改称した。本尊は正観世音菩薩。境内に一里塚が片方あり昭和60年に原寸どおり復元整備されたもの。江戸時代には境内に茶屋もあり旅人の休憩所になっていた。本堂、庫裡、山門は昭和4年(1929)、薬師堂は昭和35年の築。本堂前の灯籠は平成6年のもの。 |
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{左・寄}柿田川公園・泉頭(いずみがしら)城跡 国道1号と交差する八幡交差点で左折して国道を真っ直ぐ行くと右にある。弘治年間(1555-58)北条氏康が武田氏防衛のために築城した城跡で秀吉の小田原攻めで北条氏が逃げる際に焼き払い廃城になった。元和元年(1615)家康がこの地を気に入り隠居御殿を造営しようとしたが着工より先に没したため中止になり江戸から大正にかけて近隣の者に開墾され続け現在は空堀や土塁がわずかに残るのみ。昭和61年に一時期汚れていた柿田川水系を守る一環として公園として整備され園内には遊歩道や水遊びが出来る湧水広場、貴船神社などがある。隣接する泉の館(伏見86)には備前様式の高野邸を中心に蔵造りの柿田川美術館、食事処、お土産屋がある。 |
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{左・寄}柿田川湧水群 公園の中にある。富士山の雨雪が三島溶岩流の地下を通り長い年月を経て一日126万tの水量で湧き出る東洋一の湧水群で第1展望台と第2展望台から水が湧き出る部分(湧き間)を見ることができる。年間15度前後の一定した水温、ミネラルを含みそのまま飲める水質で環境庁の名水百選や朝日新聞社などが主催の21世紀に残したい日本の自然百選にも認定されている。約8500年前から湧き出ているとされここを水源とする柿田川は狩野川に合流する日本最短(1.2km)の一級河川。ミシマバイカモ、クレソンなど15科21種の水生植物と94科281種類の陸上生物が生息しトンボ15種などで環境庁のふるさといきものの里の認定を受けている。 |
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{右・寄}仏慧山 法泉寺 [臨済宗] 八幡113-1 八幡交差点で国道1号を渡り少し先を右折し正面。建長年間(1249-56)の開創と伝えられ明暦年間(1655-58)に再建。本尊は釈迦牟尼仏。境内左には子育観音や六地蔵があり天神、八幡宮などの石祠がある。明治に廃寺になった宇都宮の英厳寺より移された十六羅漢像もある。 |
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{右}長沢山 秀源寺 [曹洞宗] 長沢22 300mほど行くと入口がある。創建は不明で慶長年間(1596-1615)の火災で記録も含め焼失し韮山の真珠院(伊豆の国市中條145-2)の住職により再建された。本尊は聖観世音菩薩。境内左に堂があり弁財天、白山妙理大権現、秋葉三尺坊大権現、豊川叱枳尼真天を祀っている。他にも境内左に六地蔵尊立像石仏、寛文9年(1669)三界万霊塔がある。 |
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{右}仏日山 東光寺 [臨済宗] 長沢29 すぐ先に入口がある。天文年間(1532-55)に鎌倉建長寺の末寺として創建され本尊は子育地蔵菩薩。他にも六地蔵をはじめとする地蔵、観音、三界万霊塔などの石塔、石仏がある。 「地蔵横道21番札所」になっている。 |
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{右}八幡神社(長沢八幡宮) 八幡39 東光寺のすぐ先に石鳥居がある。創建は不明で町内の熊野八幡社(現:小河泉水神社)から八幡を遷したとも頼朝が伊豆に八幡宮のないことを嘆きに京都石清水八幡を勧請したとも言われる。祭神は主神が応神天皇、副神に比売神と神功皇后。今川義元や北条家、徳川家からの朱印文書、家康が奉納した太刀、江戸時代初期に描かれた応神天皇肖像画など町指定文化財を多数所蔵する。社殿は総欅造の本殿を覆うように平成4年拝殿が作られ自動扉になっている。鉄棒、すべり台などの遊具もある。中鳥居は平成6年、その内側の灯籠は平成7年、社殿前の灯籠は昭和17年、狛犬は平成2年のもの。
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{右}八幡神社 対面石 神社境内左奥にある二つの石。治承4年(1180)富士川の合戦で黄瀬川に陣取っていた頼朝(34歳)と奥州より駆けつけた義経(22歳)が初めて対面した際にこの石に腰掛けたと伝わる。横には何代目かのねじり柿が植えられている。対面の際に頼朝が食べようとした柿が渋柿でねじって捨てたら芽を出し幹も二本になりねじれて育った。頼朝はこの後も社殿を再建するなど境内の整備を行なった。境内左には頼朝を祀った白旗社がある。平成14年の頼朝公再建820年記念事業には社殿右奥に9つの境内社(水神社、水若社、広瀬社、神明社、若宮八幡、姫若社、高良社、桃沢社、熊野社)の祠や古くは源氏池と平家池と呼ばれる池があった中鳥居内側の場所に太鼓橋が再建された。 |
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{左}長沢松並木 長沢131-2 デイリーヤマザキ清水町長沢店を過ぎ少し先の臼井国際産業の敷地前の100mほどが松並木になっている。松は道の片側に十数本のみ残っている。並木が始まって少し先に夢舞台道標長沢松並木もある。 |
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{右}智方(ちかた)神社 長沢60 松並木を過ぎるとある。祭神は大塔宮護良親王で境内右奥に御陵がある。鎌倉の土牢に長期間幽閉され建武2年(1335)足利直義の命により淵野辺義博に殺された親王の首を侍女の南の方(藤原保藤の女)がここまで持ってきたが黄瀬川を渡ることが出来ず諦めてここに葬り楠を植えたとされ後に北条時行が神社とした。境内右には清水町内最大の樹木である楠(高さ28m周囲7m根回18.8m)がある。境内社が9つ(床浦社、弁天社、金山社、天神社、神明社、厳島社、稲荷社、北斗社、熊野社)あり他に社殿右に宇迦之御魂命を祀る穂見神社もある。鳥居左に天保3年(1832)右に明治43年(1910)の常夜燈があり社殿前の灯籠は宝暦8年(1758)のもの。狛犬は昭和15年(1940)。境内には湧き水も流れている。 |
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黄瀬川橋 すぐに黄瀬川に出る。橋の手前左の階段を下りると土手下に寛政元年(1789)文字だけの庚申塔を始め地蔵や馬頭観音、蛇塚など8基の石仏、石碑群がある。橋は慶安2年(1649)頃かけられたの最初で昭和初期頃まで板橋だった。現在の橋は昭和38年築で歩道がなく上流方向には愛鷹山の東肩の上に富士山が見える。黄瀬川は全長31�劼派抻了嚇賚爾鮨絽擦箸啓輒鄒遒帽舂�する。以前は木瀬川とも呼ばれ鎌倉時代は手前に木瀬川宿(黄瀬川宿)があって足柄路と箱根路の分岐点として賑わい江戸時代には立場になっていた。橋を渡ると清水町から沼津市大岡に入る。 |
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{左}光来堂 大岡345-1 しばらく行くとある。昭和8年清水町にて創業した和菓子屋で平成14年の第24回全国菓子大博覧会で生クリームどら焼の街道いち(126円)が金賞を受賞した。近隣の名所旧跡にちなんだ名前の菓子を作り対面石(126円)源氏双柿(126円)沼津宿(115円)柿田の湧水(157円)亀鶴姫まんじゅう(130円)などがある。亀鶴姫は室町時代の御伽草子の一つ唐糸さうしに手越の千手、池田の熊野に続く美人遊女と書かれ黄瀬川村の長者の小野善司左衛門政氏の一人娘で7歳の時両親と死別、建久4年(1193)18歳の時に黄瀬川上流の百沢の滝に身を投げた。頼朝の富士の巻狩りの宴に召されたが応じなかったとか曽我兄弟に討たれた工藤祐経の後を追ったとも言われ斜め向かいの潮音寺に碑などがある。 |
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{右}東海山 潮音寺 [臨済宗妙心寺派] 大岡434 文和元年(1353)文紹禅師が建長寺末寺の普門院として創建し慶長年間(1596-1615)に妙心寺派の天心和尚が現地に移転し改称した。本尊は聖観世音で恵心僧都の作といわれる。本堂は昭和48年築。入って左側に元禄10年(1697)建立の亀鶴姫の碑がある。もとは弘仁年間(810-824)弘法大師が観世音菩薩を刻み建立した一宇が起源の亀鶴山観音寺にあったが明治12年に廃寺になり移された。観音寺本尊だった亀鶴観世音菩薩石像も観音堂に移され境内左にある現在の堂は昭和20年焼失後平成3年に再建されたもの。境内左には安政4年(1857)六字名号碑などの石塔石仏もある。駿河一国33観音霊場33番札所、両国横道33観音霊場11番札所、東海88ヶ所観音霊場66番札所。 |
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{右}沼津領傍示杭石 少し先のアパート「フレグランス ミキ」前の駐車場横の植え込みに「従是西沼津領」と刻まれた高さ2.12mの石柱がある。安永6年(1777)水野出羽守忠友は十代将軍家治から沼津に城地を賜り三河国大沼から転封となり三枚橋城跡に沼津城を築城し翌年韮山代官江川太郎左衛門英征から領地を引継ぎ沼津藩を創立した際に領域を示す榜示杭を設置した。ここから沼津藩の領地となり出口にあたる東側の場所にも同じものがある。 |
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{右}東海道の石柱 しばらくすると東下石田交差点で県道145号から4車線の県道380号富士清水線(旧国道1号)に合流する。交差点の横断歩道横に年号不明の新しい石柱があり「東海道 江戸へ29里」とある。合流してしばらく進むとルネサンストーア沼津から西友沼津店に渡る陸橋をくぐる手前左に同様の石柱があり「東海道 駿府へ15里」とある。横には大岡(下石田村)の13箇所の史跡が紹介された地図付き説明板もある。このあたりは長い下り坂で掘り割りになっていて富士山が見えなかったことから富士隠れ坂と呼ばれる。その先左のパリミキ沼津店先の二ッ谷東交差点で県道から左へ分岐し旧東海道は狩野川の堤防沿いを進む。堤防は死者不明者1269名を出した昭和33年の狩野川台風後に高く造られた。 |
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{左}平作地蔵尊 浪人川を渡って黒瀬橋の陸橋下をくぐるとある。寛永11年(1634)義兄荒木又右衛門らの助太刀で弟の仇の河合又五郎を討った岡山藩の渡辺数馬の仇討ちを脚色した近松半二の浄瑠璃 「伊賀越道中双六」沼津段に出てくる平作に由来しこの地には娘のお米が働いていた茶屋があった。平作は娘の夫である数馬の仇又五郎の行方を知っているという旅人十兵衛(実は24年前に手離した平作の子)に出会い居場所を聞き出そうとするがなかなか口を割らないため腹を切って頼んだ。名台詞「死に行く仏の供養として聞かせてくれ」で十兵衛は証言をし数馬は仇討を遂げた。忠臣蔵、曽我兄弟と並ぶ日本三大仇討ちの一つ。後に人々がこの場所に碑を建て地蔵尊を建立した。説明板や他にも複数の石碑がある。 |
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{右}沼津一里塚(日枝一里塚)(30)&玉砥石 しばらくすると小さな公園があり片側のみ塚がある。左の狩野川側の塚は現存しない。伏見一里塚から一里は離れてないが沼津宿の中を避け手前の日枝神社旧参道脇に築いたと言われる。終戦直後まで榎があったが枯死したため現在は若い榎が植えられている。公園内には夢舞台道標沼津一里塚や小さな祠、玉砥石という柱状の石が2つ(高さ189cmと112cm)ある。古墳時代に玉を砥ぐときに用いた砥石で直線的な溝がある。古文書にある駿河国駿河郡の玉造郷で使用されていたとされるが玉造郷の正確な場所ははっきりせず天明6年(1786)の絵図にはこの場所に置かれていることが記録されている。黒瀬橋を渡った狩野川の反対側には玉造郷に縁があるとされる玉造神社がある。 |
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{右・寄}日枝神社 平町7-24 一里塚脇道を右折すると正面。関白藤原師通が承徳3年(1099)急死したのは嘉保2年(1095)延暦寺の強訴を退けた呪いと噂されたため師通の所領地だったこの辺りに近江国の日吉大社を勧請したのが起こり。鎌倉時代の紙本着色山王霊験記(国重文)他古文書を多く所蔵。境内入って左に昭和62年建の芭蕉句碑「都出でて 神も旅寝の 日数哉」10月末に京都を出て沼津着が11月末だったため神無月をもじって詠んだ。境内左に天満宮、左奥に高尾山穂見神社。昭和7年銅製灯籠や天明5年(1785)、明治5年、昭和15年の石灯籠もあり石鳥居は文久2年(1862)と昭和9年、狛犬は昭和3年。境内右に四阿と元沼津兵学校教授で大正初期には日枝神社神官になった佐野照房の謝恩碑。敷地の左は山王公園。 |
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三枚橋 少し進み県道308号線に再び合流ししばらく行くと三園橋交差点で国道414号と交差する。横断歩道がないため三枚橋歩道橋で渡るとすぐ暗渠になっている狢川(むじながわ)にかかる昭和28年築の小さな三枚橋を渡る。元々は3枚の石からなる橋だったために付いた名前で三園橋交差点を右折して少し先左の稲荷神社境内にある細長い石がそのうちの1枚と言われる。三枚橋を渡れば沼津宿の最初の町である旧三枚橋町で渡ったところに高札場があったため橋は札辻石橋、札之辻石橋、高札場橋とも呼ばれていた。鎌倉時代にはこのあたりに車返宿という宿場があった。 |
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沼津宿 本陣3脇本陣1旅籠55家数1234人口5346[天保14年(1843)] 鎌倉時代の車坂宿から戦国時代の三枚橋城の城下町、江戸中期には沼津藩が出来て沼津城の城下町となった。江戸時代から伊豆地方の物産を江戸などへ輸送する港として重要な役割を果たし漁業も盛んで鯛や平目などの漁船が操業をしていた。鰹節も有名で広重の行書東海道や人物東海道の沼津は鰹節を干す絵になっている。現在の沼津市はアジ干物の生産量が全国の4割を占める。火事と地震の被害が多く安政6年(1859)宿場は経営難のため沼津藩主から飯盛女雇入れ資金を借用。明治以後も火災、震災、戦争の被害にあい区画整理されたため宿場の面影は残されていない。 |
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川郭通り 左の鈴木製あん所(大手町4-2-25)前に旧志多町の説明碑がありすぐに左折しブロック敷きの道に入るのが旧東海道。入口左には「旧東海道 川郭通り」の石柱と通りの由来の説明碑がある。左は狩野川の堤防で江戸時代にはここから江尻まで船が出ており少し行くと水神社(大手町4-2-14)の祠もある。右は沼津城の外郭に接し川曲輪とも記され通りの周辺が川廓町だった。狩野川を渡るあゆみ橋をくぐると右に川郭通りの大きな高札風の説明板とそばに旧川廓町の石柱と説明碑がある。狩野川は伊豆半島の天城山系を水源とし太平洋側では唯一北に向かって流れる全長51kmの一級河川で沼津で駿河湾に出ており流域の河岸は昭和初期まで輸送港としても使用されいた。 |
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{右・寄}大手町中央公園(沼津城本丸跡) あゆみ橋をくぐり橋に沿って右折していくとある。園内左に昭和48年建立の沼津城本丸址の石碑と説明板、周囲の土台として同年上土町の静岡中央銀行工事現場より発掘された三枚橋城石垣の石が置かれている。安永6年(1777)沼津藩創立時に水野忠友が三枚橋城の跡地に沼津城として築城し幕末まで8代続いた。本丸の北西側には二の丸、三の丸があり二の丸には明治維新後に沼津兵学校が置かれ廃校後の明治5年(1872)に沼津城は静岡県により解体された。園内には沼津城の年表や見取図などを記載した説明碑もある。沼津駅近くの菓子店ほさか大手町店(大手町5-2-9)裏の駐車場には直径1m深さ6mで凝灰岩を積み重ねた六角形の沼津城井戸跡があり鉄板でふさがれている。 |
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{左}三枚橋城外堀石垣 川廓通りは登り坂となり4車線の県道159号(さんさん通り)に突き当たる。出口右にも「旧東海道 川郭通り」の石柱がある。県道を右折していくと約1km弱で沼津駅だが東海道は左折して三枚橋城築城時には掘った堀土を積み上げた場所だったという上土町に入る。右側のローソン上土町店前に上土町の説明碑がある。江戸時代は商家が多く水運を利用する問屋街としても発展した町で現在は沼津あげつち商店街となっており歩道には沼津出身の彫刻家石渡三夫のオブジェが並んでいる。少し先の沼津東急ホテル(上土町100-1)前や裏の狩野川堤防の一部にホテル建設中の平成6年に発掘された三枚橋城の外掘石垣が組まれている。 |
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{左}上土朝日稲荷神社 上土町100-1 沼津東急ホテルに隣接する複合マンション「ナティ沼津」の川岸側にある。祭神は宇迦之御魂神。三枚橋城築城の際に城地守護のために稲荷・天神社を城内に祀ったのが起こりで廃城後にも残っていたが沼津城を築いたときに城主水野忠友が水野家守護の稲荷社を新たに勧請したため上土裏通り旧城址の古堀跡に移された。明治4年には六軒町に明治18年に八幡神社(八幡町22)境内にあったが後に現在地に移り「あげつちのおいなりさん」と呼ばれている。ナティ沼津は隣の沼津東急ホテルを含み沼津市初の市街地再開発事業として計画されたツインタワーで住宅、店舗、駐車場、公民館を備えている。 |
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{左}三枚橋城外堀跡 ナティ沼津前の歩道には三枚橋城の石垣に使われた石が3つ置かれ1つは三枚橋城外堀跡と刻まれ2つは説明や絵図のプレートが嵌め込んである。三枚橋城は天正5年(1577)武田勝頼が北条氏への備えとして築いたが信玄生存中の元亀元年(1570)には既に築城されていたという説もある。高坂源五郎昌信を城将としていたが天正10年(1582)北条氏の攻撃により落城、直後に家康が攻め取り松平康親を城主としたが家康が関東に移封になったため秀吉の家臣中村一氏の弟一栄が城主となった。関ヶ原後は小田原城主大久保忠世の弟忠佐が城主になったが跡継ぎ不在で慶長19年(1614)廃城になった。本丸を二の丸、三の丸、外郭が囲む配置で外郭は後の沼津城より南に広がっていた。 |
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{右}速水史郎のモニュメント すぐに通横町交差点で御成橋からの道(御成橋通り)と交差する。江戸時代、狩野川には橋はなく明治に御成橋が架けられるまでは対岸に渡るための市場の渡し場があった。右折し県道160号に入ると右に通横町の説明碑がある。通横町は南北に走る上土町の通りと本町通りを東西に横に通している町の意味で通りの右側には問屋場がありその裏には白壁瓦葺きの大きな土蔵も建っていた。問屋場役務は三枚橋町、本町、上土町で分担し1カ月の上旬を三枚橋町、中旬を本町、下旬を上土町が担当していた。100mほど先の本町交差点には石の抽象彫刻の第一人者、速水史郎のモニュメント17基のうちの一つがある。平成17年設置で他は交差点を右折した上本通り商店街の歩道両側に点在している。 |
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{左}高田本陣跡 本町交差点で左折し本町通りに入る。その角左には夢舞台道標沼津宿もある。本町通りは沼津宿の中心街で東海道の宿場では珍しく南北に通る通りだった。少し先の歩道の植込みに「東海道沼津宿 高田本陣跡」石柱がある。現在の敷地は交差点から駐車場になっている。元禄元年(1688)の沼津宿絵図には沼津宿の本陣は清水本陣、間宮本陣の2軒のみであり高田家はそれ以降に本陣になったとされ天保14年(1843)の記録には本陣とある。 |
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{左}中村脇本陣跡 少し先の庄司歯科医院(本町9)前の歩道植込みに「東海道沼津宿 中村脇本陣跡」石柱がある。沼津宿の脇本陣は天保14年(1843)の記録では中村脇本陣1軒であるが元禄元年(1688)の沼津絵図には全部で4軒あった。さらに進んで行くと左歩道の植込みに平成8年設置の東海道ルネサンス道標プレート、斜め向かいの右歩道の植込みに広重の蔦屋版五十三次の沼津宿の浮世絵碑もある。 |
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{右}間宮本陣跡 浮世絵碑からセブンイレブン沼津本町店(下本町35)を挟み少し先にあるベルタクシー本町営業所(下本町43-1)手前の民家前の歩道植込みに「東海道沼津宿 間宮本陣跡」石柱がある。間宮喜右衛門の本陣で西本陣と呼ばれていた。嘉永3年(1850)本陣家に長男として生まれた間宮喜十郎は明治維新後に沼津城跡に置かれた沼津兵学校や東京の慶應義塾(現:慶應義塾大学)で学び明治14年(1881)沼津新聞を発刊し後に沼津尋常小学校校長などをつとめ明治21年には県内初の図書館となる沼津文庫も開設するなど明治期の沼津の社会教育、文化活動に貢献した。 |
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{左}清水本陣跡 斜め向かいの大丸美容室(下本町11)前の歩道植込みに「東海道沼津宿 清水本陣跡」石柱がある。ここと隣の本町将棋クラブ(下本町12)付近に清水助左衛門の本陣があり東本陣と呼ばれていた。文久3年(1863)には間口18間半(34m)奥行23間(42m)で敷地は434坪(1435平方m)と広く建坪331坪(1094平方m)の書院作りで門、玄関を備えた建物だったと言う。清水家は北条氏の家臣の下田城主清水康英の子孫とされ文禄2年(1593)に沼津に移住し寛永10年(1633)から本陣となった。紀州徳川家などが主に利用し2代紀州藩主徳川光貞からは祖母にあたるお万の方(養珠院)の葵紋付の帷子を拝領している。光貞の子の5代藩主頼方が8代将軍吉宗となり江戸に行く際も利用したと言う。 |
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{右}浅間神社・丸子神社 浅間町4 静岡銀行本町支店がある交差点で右折し永代橋通りに入ると旧東海道は吉原駅の手前までの約14kmに渡り駿河湾に平行する一直線の道となる。しばらく行くと神社がある。坂上田村麻呂が東征凱旋のおり狩野川岸に木花開耶姫命を祀り浅間神社を創建し後に現在地に移転した。参勤交代の折には多くの大名が参拝し武運長久、道中安全を祈願したと言う。明治10年(1877)丸子町にあった崇神天皇の御代に創建され金山彦尊を祀る式内社の丸子神社を合祀した。鳥居は外側から平成7年、大正14年(1925)、明治41年(1908)があり狛犬は平成7年、灯籠は大正14年。ブランコや鉄棒などの遊具もある。入口左に千本濱海水浴場道と刻んだ大正6年(1917)建の石道標もある。 |
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{左・寄}醫王山 東方寺 [臨済宗妙心寺派]浅間町260 浅間神社の先の交差点を左折し千本浜通りを少し行くと左にある。創建は不明だがもと真言宗だったとされ明暦元年(1655)天岫雲(てんしゅううん)和尚が再興したため天岫雲を開山第1世としている。本尊は東方薬師瑠璃光如来。以前は円覚寺派の鎌倉円覚寺の末寺だったが現在は妙心寺派の興津の清見寺の末寺となっている。江戸時代より昭和50年頃まで清明丹東方寺目薬という漢方薬を製造販売しており切疵、胃潰瘍など塗ってよし、飲んでよしの万能薬とされ一時期は薬の売り上げで寺が運営されていたという。大正5年から沼津市仏教会の坐禅会と講座などを行なう沼津修養会が催される寺となっている。 |
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{左・寄}千本山 乗運寺 [浄土宗] 出口町335 東方寺の向かいにある。潮害に困っている農民のため千本松原を造った増誉上人(長円)を讃え人々が住んでもらうようにと建てた草庵が起こりで天文6年(1537)増誉上人が京都知恩院の末寺として開山し当初は成鳴寺と言った。乗運は増誉上人の兄である延暦寺阿闍梨乗運の名。境内右に若山牧水と妻・喜志子、長男・旅人の墓があり左右の石柱に夫妻の歌がある。その右にはここで斯道会という漢文の講座を開いていた池谷観海の留魂碑や多くの石仏・石塔がある。三枚橋城主松平康親、沼津城主水野忠友の墓もある。昭和20年全焼し現在の本堂は集会堂、庫裡とともに昭和48年築。昭和61年には山門、塀が建てられた。平成6年に静岡県都市景観賞優秀賞を受賞し門前に記念碑がある。 |
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{左・寄}千本浜公園(千本松原) 千本浜通りをさらに進むとある駿河湾に面した公園で千本松原はここから東柏原新田付近まで続く。鎌倉時代の紀行文「東閑紀行」にも記述され農民が防潮防風のために植えはじめたもの。天文6-23年(1537-54)の北条氏と今川・武田氏による河東一乱で荒涼としたため再植樹しようとしたが根付かず増誉上人が1本1本お経を唱えながら手植えしたら根付いた。公園入口近くに増誉上人像があり昭和44年建立だが平成16年に松が倒れ大破し再建されたもの。公園内には他にも全国で最初の若山牧水歌碑、旧制沼津中学を出た井上靖の文学碑、沼津出身の明石海人歌碑、富士市出身の角田竹冷の句碑、明治天皇の皇后である昭憲皇太后の歌碑、池谷観海文学碑、子守歌石碑もある。 |
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{右・寄}勧山信楽院 真楽寺 [浄土真宗大谷派] 末広町170 浅間神社の交差点を右折すると左にある。親鸞聖人を開基とする国府津の勧堂が北条時代の戦火を避けて富士郡蓼原村(現:富士市蓼原)へ移り更に天正年間(1573-1592)に現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来。昭和20年の戦火で全焼し昭和29年に再建。現在はビルになっている。 手前には昭和8年創業の和菓子屋いせや本店(幸町2、9:00-19:00第三水曜休)がある。粒あんの中に和三盆糖が入っている平作最中(大137円小95円)やそばまんじゅう沼津五万石(116円)などがあり沼津御用邸記念公園の特製菓子も作っている。 |
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{右}天瑞山 大聖寺 [臨済宗妙心寺派]幸町23-2 浅間神社の交差点から旧東海道(県道163号)を進み京丸うなぎ店(幸町17-2)を右折すると正面。文亀年間(1501-4)に鏡山禅師が建長寺末寺として仲町に開き北条氏の戦災で全焼、真言宗になった時期もあったが慶長12年(1607)三枚橋城主大久保忠佐の寺領寄進により興津清見寺の説心禅師が中興開山し妙心寺派となった。本尊は釈迦牟尼佛坐像。山号は説心禅師が門前にあった天満宮の夢の告げで中興したことから「天神の瑞夢を蒙る」の意。第5世息堂和尚の徒弟として白隠禅師が修行を始めた寺でもある。境内には沼津中央幼稚園を併設。昭和52年沼津IC北に足高霊園と別院(足高290-3)を開山し平成2年に白衣観音(高さ台座含10m)涅槃堂を建立、平成12年には白隠禅師座像を安置した。 |
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{右}出口町見附跡 すぐ先の永明保育園(幸町55)を過ぎた歩道上に説明碑がある。沼津宿の京側見附があった辺りでこの付近は出口町と称していた。現在の出口町は乗運寺周辺のごく狭い地域になっている。永明保育園の裏には精金山永明寺[臨済宗妙心寺派]もある。 |
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蛇松緑道(国鉄沼津港線跡) 少し先の幸橋で橋に交差するように遊歩道が斜めに交差している。国鉄沼津港線の線路を撤去し跡地をそのまま緑道公園として整備したもので沼津駅前の白金町から狩野川河口の蛇松町(旧沼津港)まで約2km続き昭和63年には静岡県まちなみ50選に指定された。沼津港線は明治20年(1887)東海道線建設の資材を運ぶために当時の沼津港から沼津駅を結び臨海貨物線蛇松線として開通した。終点近くに蛇の形をした松が生えていたので名付けられたが昭和22年沼津港線に改称し昭和49年(1974)に廃線。東海道線は建設資材を船で運搬し港から鉄道で運び込んで作られており愛知県の大府〜武豊間に現存する武豊線も同じ目的で作られた。 |
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{右・寄}定照山 慈光院 [浄土宗]市道町17-3 御成橋通りが右から合流する5叉路の向かいに看板があり右折した左にある。寛文13年(1673)教誉臨相上人が開山。本尊は阿弥陀如来。開山と共に完成の京都の仏師天野朝重による寄木造りの廬舎那仏は高さが約2mあるため本尊の位置である本堂中央に安置されている。境内右の延享4年(1747)寺名石塔に浄土宗捨世派京都一心院の名があり当時は一心院の末寺だった。他にも境内右には六地蔵や六字名号碑2基がある。 |
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{左}六代松の道標 東間門歩道橋より2つ目の信号先のスナックいず美の横に「是より南一町半 六代松」と刻まれた明治19年建立の170cmの石碑がある。清盛を三代とし重盛、惟盛と続く平家の直系御曹子は元服していない惟盛の嫡子を六代御前と呼び壇ノ浦後に千本松原で斬首されるところを文覚上人により助けられた。出家し妙覚と名乗ったが文覚上人の謀反に連座し相模国手越川原(逗子付近)で斬首され首を供の者が縁ある千本松原の松の根元に葬ったと伝えられその松を六代松と呼んだが後に枯れてしまった。松を惜んだ人々により天保12年(1842)沼津藩典医駒留正隆の平家物語にちなんだ撰文による石碑が建てられた。道標を左折し突き当たりの右に小公園があり碑と昭和53年に再移植された松がある。 |
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{左}光栄山 妙伝寺(妙傳寺) [法華宗]東間門3-4-4 六代松の道標のすぐ先にある。慶長9年(1604)三枚橋城主大久保忠佐が寺領として田畑2反5畝18歩を寄進し日典が開基した岡宮光長寺の末寺。日典は俗名を市川七郎左衛門家吉といい忠佐の家臣だった。忠佐の墓があり陣太刀2振をはじめ槍、馬具3組、大久保家譜など遺品も所蔵している。現在の本堂は昭和6年に建てられたものを平成4年に改修しこのとき山門、客殿、庫裏も新築された。門を入って右に享保10年(1725)弘化2年(1845)の題目碑など石碑、灯籠がある。明治6年(1873)から片浜小学校(大諏訪41)の前身である竹陰舎が置かれ明治9年に有斐館となり栄昌寺に移った。 |
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千本街道との交差 すぐ先の新中川を昭和41年築の間門橋で渡り少し先で東海道は千本街道(県道380号富士清水線)と×状に交差する。徒歩で通過するには手前の西間門歩道橋を渡るか少し先の横断歩道を渡る。歩道橋手前左には間門の説明碑がある。由来はその昔、首の後ろに「天竺摩伽陀国」と彫られた閻魔大王像の頭が浜で網に掛かり村人が胴体手足を造り像にして堂を建て安置したとかアイヌ語で開くという意味の「マカ」と湖水を意味する「ト」から来たという説がある。交差した後の三角地帯に千本街道と旧東海道が矢印で示されたプレート標示もある。 |
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{右}八幡神社(間門八幡宮)・沼津領傍示杭石 西間門341 交差点を過ぎ東海道を進むとある。創建は慶長9年(1604)で祭神は誉田別命。後に金山彦神社、神明神社も合祀された。昭和6年(1931)建立の石鳥居右に「従是東」と書かれた傍示杭石があり西側のものと設置時期、石質、字体、寸法など全て同一の「従是東沼津領」だったが明治末期頃に割れて下半分が失われた。鳥居の右には夢舞台道標沼津藩領境もある。境内左には寛保2年(1742)文政元年(1818)などの石仏・石塔が4基ある。社殿前の灯籠は明治35年(1902)狛犬は平成5年のもの。右奥にはブランコなどの遊具もある。 |
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{右}諏訪神社 小諏訪280 沼津片浜郵便局の斜め向かいに石鳥居と万延2年の灯籠があり社殿は150mほど奥にある。武田信玄の家臣だった市川氏がこの地に隠遁し天正3年(1575)建立したと伝わる。祭神は建御名方命。寛永年間(1624-44)に改築が行なわれ本殿は元文3年(1738)築。社殿左に境内社の祠(床浦社、八幡社、金山社)がある。左奥にはブランコなどの遊具もある。 この付近一帯の様子として万治4年(1661)頃の浅井了意著「東海道名所記」に「道中砂地にて風の立つときは目もあかれず。ましてすなはらは三里ゆけば二里もどるとかや。」と書かれている。民家には海風を防ぐため沼津垣という独特の竹垣が作られ天明6年(1786)高力猿猴庵著「東街便覧図略」にも書かれており現在も僅かに見ることができる。 |
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