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初音ヶ原 松並木 国道の上り方向(右側)の車道が旧東海道で両側に松並木が1kmほど続く。昭和46年に国道が拡幅されたときにそのまま残された三島市付近では唯一の松並木。松並木の右外側にある初音ヶ原石畳遊歩道は江戸時代のものではなく平成2年敷設で所々にベンチが置かれ松並木と合わせ静岡県街並50選になっている。初音ヶ原は頼朝がここを通過した時にウグイスの初音を聞いた伝説にちなみ名付けられた地名。国道両側には2万7千年前(先土器時代)の大規模な集落跡があり初音ヶ原遺跡と呼ばれ昭和60年の本格的発掘調査で発見された総延長75mにわたって弧状に並ぶ深さ約1.8m直径約1.4mの土抗群は動物捕獲用の落とし穴と推測され全国的に例の無い遺跡になっている。 | |
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錦田一里塚(28) しばらく行くと国道の両側にある。錦田は明治22年(1889)に谷田村と川原ヶ村が合併して出来た村で街道を境に地名が違うため右は初音ヶ原一里塚とも呼ばれる。左右ともに榎が植えられ一里塚石柱と写真付きの説明碑がある。左には説名板、右には東海道の道標プレートと龍澤寺住職(当時)鈴木宗忠の箱根八里記念碑「日々うらら 松の道場の 一里塚」もある。東海道に4つしかない国指定史跡の一里塚の1つで4つの中では最も早い大正11年に指定された。他の3つは太平一里塚(愛知)、阿野一里塚(愛知)、野村一里塚(三重)。 | |
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{右}箱根大根の歌碑 松並木が終わる手前右(石畳遊歩道の左)に史跡箱根旧街道の石柱と夢舞台道標松並木がありその先の遊歩道右の一段高い草むらの中に歌碑がある。明治22年(1889)東海道線開通後、街道を歩く人が激減し西坂一帯の人々は農業に転職するしかなくなり急斜地を開墾し「坂もの」と呼ばれる大根、芋、人参、ゴボウなどの農作物を作った。碑は生産の協同化、品質の向上に尽力した平井源太郎(1882-1940)を顕彰し彼の死後に建立されたもので源太郎の詠んだ歌「箱根八里の 馬子唄消えて 今は大根を 造る唄 源水」が刻まれている。源太郎は農兵節を作って全国に広めた人物で白滝公園には源太郎書による歌詞の一節を刻んだ碑がある。三島市役所には農兵節を踊る人の石像もある。 | |
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{右}愛宕坂 石塔・石仏群 すぐ先の交差点を渡ると旧道は右の石畳歩道へ分岐し愛宕坂に入る。少し先の車道右の一画に明和4年(1767)三界万霊塔、文政元年(1818)馬頭観音など石仏、石碑が集められている。手前右の常雲精進居士の墓碑は備前国出身の雲助親方の繁吉(備前繁)のもので慶應3年(1867)大名の人足頭を怒らせ斬られこの下の今井坂で息絶えた。墓もそこにあったがのちに移された。愛宕坂は明和6年(1769)石畳修復記録では長さ1丁18間(140m)幅2間(3.6m)で江戸時代の石の上に現在の石畳やアスファルトが敷かれている。左の土手頂上には愛宕山と書かれた安永7年(1778)の大きな石碑や石祠があり東海病院の位置にあった愛宕神社と八幡神社は現在は川原ヶ原の天神神社に合祀されている。 | |
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{右}三現山 真立寺 [日蓮宗] 川原ヶ谷287 石畳が終わると分岐があるがそのまま左に下っていくと右に夢舞台道標箱根旧街道入口と箱根までの案内図があり旧東海道踏切で東海道線を渡る。渡って少し先に享保10年(1725)題目碑と石段がある。もとは真言宗で山田の八幡神社の別当寺だったが永正5年(1508)に改宗した。石段途中右に天明元年(1781)南無日蓮大菩薩碑、本堂横奥には稲荷社がある。門前より先は今井坂と呼ばれもとは石畳だったが戦後にそのまま上にコンクリート舗装された。明治時代には坂下に郵便馬車の駐車場あり東西から来た郵便物がすべてここで積み替えられた。 | |
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{左}林光庵の庚申堂 少し行くと山田川にかかる愛宕橋を渡る。江戸期には今井坂下橋という土橋で近くには松明小屋があった。橋を渡ってしばらくすると左から来た県道22号に合流し直進する。合流地点の手前右が江戸時代に高札場があったところでここから集落が始まる。合流地点の左には小さなお堂がある。江戸時代にあった林光庵という寺の跡で近くの山から出土したと伝わる木造の庚申像(青面金剛像)が祀られている。他に不動明王や馬頭観音、咳気婆さんも祀られている。 | |
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{右}荻野山中藩陣屋跡 新町橋手前の昭和シェル川原ヶ谷SS(川原ヶ谷1-1)の手前にある民家。小田原藩の支藩である荻野山中藩がこのあたりの川原ヶ原一帯を飛び地として知行していた頃の出張役所として徴税、検察などの藩政を行なっていた。川原ヶ谷はもとは幕府領で宝永5年(1708)から荻野山中藩の支配下に入ったが宝暦9年(1759)幕領に戻り安永年間から再び荻野山中藩となって幕末を迎えた。土蔵などは当時のまま残っている。幕領時代は隣の三島宿を管理する代官所の管轄でその代官所・陣屋は現在の三島市役所の位置にあった。 | |
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{左・寄}宝鏡院 [臨済宗建長寺派]川原ヶ谷2 昭和シェルの向かいの小道を左折すると正面。小道の入口左右には一対の石があり鞍掛石と呼ばれ川原ヶ谷神社に参詣する人が鞍を置いたとか乗馬の際に踏み台にしたとの伝えもある。寺は足利2代将軍義詮の開基で鎌倉建長寺大覚禅師の弟子普覚禅師(義翁)が開山した。義詮と伊豆韮山の堀越公方足利政知(8代義政の弟)の分骨が葬られたとされ本堂裏手に墓所がある。本尊は運慶作と伝わる薬師如来。寺宝の茶釜(左文字の釜)は足利家から奉納されたと伝わる。境内には源頼朝が参拝の折、笠を置いたといわれる笠置石もあり三島七石の一つ。三島七石は他に祟り石(三嶋大社)耳石(耳石神社)蛙石(楊原神社)市子石(阿闍梨小路)鬼石(山田川沿い)蛇石(秋葉神社=現在不明)。 | |
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新町橋 すぐに大場川にかかる新町橋を渡る。江戸時代には長さ19間(35m)幅3間(5.5m)で欄干を持つ板橋がかけられ元文2年(1737)から安永7年(1778)までは土橋であった。現在の橋は平成8年築で長さ42m。橋を渡ったところには江戸見附がありここからが三島宿だった。小浜山刑場(現:新幹線三島駅付近)で斬られた罪人の首を晒した場所でもあり橋を渡って左折し50mほど行った右には引き取り手のない無縁仏を土地の者が弔ったと伝わる石造地蔵座像、万治2年(1659)六字名号碑、寛政6年(1794)三界万霊塔などの石仏群がある。大場川は三嶋大社近くを流れていることから「かん川(神の川の意味)」とも呼ばれている。 | |
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三島宿 本陣2脇本陣3旅籠74家数1025人口4048[天保14年(1843)] 古代には伊豆国府が置かれ鎌倉時代以降は三嶋大社が幕府や武家の手篤い保護を受け門前町として栄えた。江戸時代は箱根越えの前後で必ず泊まる宿場となり一行は山祝いをして供の者には御祝儀も出たため遊ぶ旅人でさらに賑わった。三嶋大社の正面から下田街道が出ており西側には北上する中山道に通じる佐野街道があり交通の要所でもあった。東西18町20間(2km)。富士山の溶岩流上にあり湧水が豊富なため水の都とも言われ一年を通して一定の水温が冬は気温より暖かいため旅立ちの朝は町全体に朝霧が立ち込めていた。三島宿の資料は三島市郷土資料館にも展示されている。 | |
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{右}守綱八幡神社 日の出町6-10 新町橋を渡ると現在は日の出町だが新町、長谷、伝馬金谷、久保町など旧町名を記した小さい石柱が所々にある。しばらく行くと神社がある。創建は不明だが寛永年間ごろとされる。祭神は守綱大神。石鳥居は慶応3年(1967)で灯籠は安永6年(1777)のもの。境内右に弘化2年(1845)の秋葉山常夜燈がある。左には昭和17年の社殿改修を記念し昭和22年建立した石碑がある。他に鉄棒、すべり台などの遊具もある。 | |
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{左・寄}宝塔山 妙行寺 [日蓮宗] 日の出町2-29 守綱八幡神社の向かいに大きな題目塔が2基ありその脇道を左折すると正面。14世紀中ごろに日国が開山した身延山久遠寺の末寺。柴町にあったが元和年間(1615-24)に移転してきた。山門は小松宮彰仁親王別邸時代の楽寿園の表門を昭和24年(1949)に移転したもの。本堂左の山門寄りの墓地には幕末に寺の近くの長屋で塾を開き多くの門人を送り出した漢学者福井雪水の墓がある。門前と本堂前にある獅子像は自民党第二代総裁で総理大臣も務めた石橋湛山の縁で中国から贈られたもの。戦争で供出し鐘のないままの鐘楼もある。 | |
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{右・寄}南朝山 光安寺 [時宗] 日の出町6-3 少し先に寺名石碑があり右折し正面。元は真言宗で川原ヶ原にあったが但阿宥弁和尚が延慶元年(1308)一遍の高弟真教上人に帰依し改宗し後に移転した。南朝の後村上天皇の皇子尊観法親王が立ち寄ったと伝わる。本尊の地蔵菩薩像は南北朝時代(1336-1392)の頃のものとされ時宗寺院では最古に近い地蔵菩薩であり市指定文化財。鼻取り地蔵とも呼ばれ田植え時に田すき牛を引く鼻取りがいなくて困っていたら地蔵の化身の小僧が現れ助けられたという伝えによる。明治期に流行した駿河一国百地蔵尊巡拝の100番札所で96番の蓮馨寺日限地蔵尊から100番までは駿河国ではない三島(伊豆国)の地蔵が入っていた。延文3年(1358)の秩父青石の板碑(高さ110cm幅30cm)も市指定文化財。 | |
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{右・寄}六所王子神社 日の出町6-90 光安寺に行く路地の次を右折すると右にある。事代主命の御子神六柱を祀る。このあたりは長谷(ちょうや)といい伊豆国府があったところで神社は国府庁舎跡に建立された。社殿左に安永5年(1776)の灯籠と大きなイチョウの木、境内左に文化3年(1806)の下部のみの秋葉山常夜燈や石祠2基がある。石鳥居は明治38年(1905)、狛犬と手水石は昭和2年(1927)。鉄棒や砂場もある。 | |
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{右・寄}楊林山 薬師院 [高野山真言宗] 大社町11-15 六所王子神社に行く路地に寺名石柱があり右折し正面。創建は不明だが三嶋大社の別当寺であった愛染院の末寺で弘法大師も泊まったとされ本堂左に大師座像と大師が座ったと伝わる腰掛石がある。本尊は薬師如来。応永年間(1394-1427)楊林山竹林寺がここに移り合併し明暦年間(1655-1658)には尊誉上人が中興した。明治初年に愛染院が廃寺となったためこれを引き継ぎ三嶋大社護摩堂の本尊不動明王を引き取り大正初期に西隣の虎住山観法寺も合併し観法寺本尊観世音菩薩とともに安置している。 | |
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{左・寄}成真寺 [真宗大谷派] 大社町7-56 薬師院向かいの道を左折していくとある。北条時政の家臣平成真(たいらのしげざね)が安貞元年(1227)に富士郡桶野口村に建てたのが起こりで当初は真言宗だったが成真が親鸞に出会い改宗した。本尊も変える必要があったので箱根神社に相談し薬師三尊と交換してもらった阿弥陀如来立像が現在の本尊。その後、今川義元の兵火により衰退したが甲州から来た土屋成真が同名のつながりで再興し江戸時代初期に現在地に移った。明治の神仏分離で箱根神社が多数の仏像を廃棄する際に別当寺金剛王院の本尊となっていた薬師三尊を返還してもらい現在本堂左の開山堂に安置している。境内の無縁仏塚の中には諸国漫遊中に三島で没した根来同心野村金之丞の墓碑がある。 | |
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{左・寄}寿栄山 本妙寺 [日蓮宗] 大社町7-65 デニーズ三島大社町店(大社町14-4)手前の向かいを左折すると正面。文安5年(1448)日泰が師の京都妙満寺13世日延の菩提のために開いた寺で別の場所にあったが移転してきた。日泰はのちに千葉、市原、山武、長生にまたがる土気城領内7里(約27.5��)四方270余りの寺を日蓮宗に改宗させた上総七里法華を開基した僧でもある。山門手前に大きな2基の題目塔が門柱のように置かれており右は慶応元年(1865)左は明治期のもの。本堂の屋根は丸みを帯びた風害に強い造り。境内右には鐘のない鐘楼もある。 | |
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{左・寄}日隅神社 大社町8-12 本妙寺の門前の通りを少し戻るように進むと左にある。古くから三嶋大社の摂社の一つとして存在し三嶋大社の祭神でもある事代主命の父神である大己貴命(大国主命)を祀る。社殿左に樹齢500年余のケヤキの大木がある。元文5年(1740)天保15年(1844)明治41年(1908)の常夜燈がある。ブランコ、鉄棒、すべり台などの遊具もある。安永7年(1778)銘の外棟札を4枚所蔵している。 | |
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{右}三嶋大社 大宮町2-1-5 少し行くと瀬戸内海小豆島の御影石を使い文久3年(1863)建立された大鳥居があり手前に夢舞台道標三嶋大社がある。創建は宝亀10年(779)とされ元は伊豆の島にあり後に伊豆半島先端の現在の白浜神社に移りさらに当地に移された。伊豆国一ノ宮で祭神は大山祇命、事代主神。嘉永7年(1854)の地震で倒壊し現在の社殿は時の神主矢田部盛治により慶応4年(1868)までに再建されたもので本殿、幣殿、拝殿は国重文。境内左には昭和29年建立の盛治の銅像がある。本殿は出雲大社と並ぶ国内最大級で高さ23m鬼瓦の高さ4m。彫刻は伊豆国小沢希道、駿河国後藤芳治良の名工二人が競い合って完成した。総門は昭和5年の震災倒壊後に新築。境内の面積は1万5千坪(約500a)。 | |
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{右}三嶋大社 源頼朝旗揚げの碑 境内入ってすぐ右にある。頼朝は治承4年(1180)源氏の再興を願い百日祈願をして旗揚げし八牧判官平兼隆の館に夜討をかけた。その後も祭事の復興、社殿の造営など信仰篤く境内の神門入る前右には頼朝、政子の腰掛石がある。他にも境内には政子奉納の梅蒔絵手箱(国宝)などを展示する宝物館(500円)や安達藤九郎が頼朝の参拝中に待機していた跡地とされる場所に赤松と黒松が1本の木になっている相生の松が植えられている。宝物殿の前には明治43年(1910)の狛犬、腰掛石の横には神馬舎もある。社殿前右に国天然記念物の樹齢1200年高さ15m目通周4mのキンモクセイがあり花の香が2里先まで届いたともいう。境内には樹齢800年のカヤ、600年のケヤキ、500年のモッコクなどもある。 | |
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{右}三嶋大社 福太郎本舗 境内の右寄りある茶屋で名物の福太郎という餅を売っている。大社で毎年1月7日に五穀豊穣を祈願して行われるお田打神事に登場する福の種をまく福太郎翁の面をかたどっており顔はヨモギ餅、髪はこし餡でできていてお茶付き2個で200円。土産用12個920円。8〜17時、無休。さらに境内の右に行くと境内社の伊豆魂神社がありそばに昭和53年建立の芭蕉の句碑「どむりみと 棟や雨の 花曇り」がある。その奥には弓道場や鹿がいる神鹿園もある。三嶋大社の摂社・境内社は他に神池中央の厳島神社、客殿右の水神社、社殿左の若宮神社、見目神社の他、舞殿の左右に祠をまとめた建物があり船寄社、飯神社、酒神社など10の社が祀られている。西には祓戸(はらへど)神社もある。 | |
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{右}三嶋大社 たたり石 境内入口近くの中央にある。元は大社前旧東海道の中央にあって行き交う人の流れを整理していた。「たたり」は本来糸のもつれを防ぐ道具で整理を意味する言葉でもあるためたたり石と呼ばれていたが道の往来が頻繁になり石を取り除こうとする度に災いがあったためにいつしか「たたり」が「崇り」の意味も持つようになった。大正3年内務省の道路工事によって掘り出され神社に置かれたが今日では交通安全の霊石としての信仰がある。境内の少し奥には心の字をかたどった神池があり側には若山牧水の歌碑「のずゑなる 三島のまちの あげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり」がある。沼津に住んでいた牧水が夏祭りの花火を見て詠んだ歌。 | |
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{左・寄}八坂神社 中央町2-27 大社町西交差点を過ぎ1つ目の路地を左折すると右にある。祭神は素盞之男命、秋葉の神。江戸時代に数度の火災と疫病が流行したため防火鎮護の秋葉の神と疫病防除の素戔之男命を祀ったのが起こり。当初は3坪ほどの敷地に社殿が1坪あるのみだったが昭和17年に現在のように拡張された。 | |
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{右}問屋場跡 中央町5-5 少し歩くと三島市役所中央町別館があり一階の中央町郵便局の脇に小さい碑と説明板がある。三島宿は交通量が多かったが問屋場は1カ所だったたため役人や人足数も多く北側には駕籠かき人夫(雲助)が待機する人足部屋もあった。郵便局の前には市内の名所地図もある。隣のNTTの先には白滝公園を源流とする御殿川が流れ家光が上洛する際に宿泊所として建てられた御殿(現:社会福祉会館南側付近)の東を流れていたことから名付けられた。御殿は本丸と二の丸から成る書院造の桃山様式で約1万3千坪(4.3ha)の敷地を石垣土塁で囲っていた。家光は寛永11年(1634)に利用したが今は跡形もなく屋敷神だった稲荷社が移転し御殿神社(南本町20-29)の名で残っている。 | |
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{右・寄}白滝公園 一番町1-1 本町交差点でここを右折していくと三島駅南口でその途中右にある。ケヤキ林の池から水が湧き出ている公園で桜川に合流している。入口には江戸時代の扮装の子供の人形2体があり前に立つと声と共にポンプを押し竹筒から水が出てくるからくりになっている。東南隅には白滝観音堂がある。この地にあり明治に廃寺になった尼寺・白瀧寺の本尊だった観音像が常林寺に移された後、町内の有志が跡地でも祀るよう再建したもの。そばには昭和7年(1932)建立で農兵節の一節「富士の白雪 朝日で溶けて 三島女郎衆の 化粧水」が刻まれた高さ3mの碑もある。桜川べりの三嶋大社に続く遊歩道には三島水辺の文学碑として若山牧水、司馬遼太郎など7人の三島にちなんだ文章が黒い石に刻まれ点在する。 | |
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{右・寄}市立公園 楽寿園 一番町19-3 白滝公園の向かい。2万坪の大きな公園で明治23年(1890)小松宮彰仁親王別邸として造営され後に梨本宮方子妃と結婚した李氏朝鮮最後の皇太子王垠(おうぎん)殿下の所有となり昭和2年資産家緒明圭造が買い取って昭和27年三島市に移管され公園となった。三島溶岩流の岩肌に160種以上の樹木が実生し湧水が所々に小浜池など天然池をなし昭和29年国の天然記念物及び名勝に指定。小松宮造営による楽寿館は京間風の高床式数奇屋造の建物で県指定文化財。明治期の装飾絵画が数多く残され10時半と13時半の一日に2回だけ公開される。園内には三島市郷土館、のりもの広場、どうぶつ広場、広瀬神社もある。9時-17時(11〜3月-16時半)入園300円。月曜休。 | |
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{右・寄}三島市郷土資料館 一番町19-3 楽寿園内にある。市制30年記念行事として昭和46年市民の寄付金をもとに建設され開館。市民が運営・事業に主体的に参加協力することでも知られる。建物は奈良正倉院の校倉造を取り入れた鉄筋3階建てで展示室・収蔵室・会議室などがある。初音ヶ原遺跡や江戸時代以後の民俗資料(奈良時代頃から作られた三島暦、郷土の人形作家・野口三四郎の三四呂人形)など石器時代から江戸時代までの資料などが常設展示されているほか年数回企画展が開催される。竪穴住居の模型、弥生時代復元住居、江戸時代の旅籠・農家・商家も一部復元され展示されている。無料。
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{右・寄}愛染院跡の熔岩塚 さらに駅に向かうと二又路に囲まれた三角地にあり数本のケヤキの大木が溶岩の小山を囲んでいる。愛染院は室町時代に三嶋大社別当職を務めたともいわれる大寺院でありこの地はその庭園の一部とされ上部から湧き出した小さな流れは愛染の滝と呼ぶ。三島熔岩流は粘性の小さい玄武岩の熔岩で富士山の噴火で約40km流下してきた。熔岩流の表面の部分が固まっても内部はパイプ状のまま末端付近の表面が押しあげられる作用により小丘となったものが溶岩塚で愛染院跡地は三島熔岩流の末端に位置し岩石や火山活動の研究においても貴重な史跡となっている。 | |
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{左}樋口本陣(三島宿二の本陣)跡 本町12-3 本町交差点を渡った先の茶舗・山田園の前に碑と説明板がある。三島宿の本陣を務めた樋口伝左衛門家の跡で現在市内の別の場所に住んでいる樋口家は古文書や織部灯籠(キリシタン灯籠)を所蔵し市の文化財に指定されている。郷土資料館にも文書が寄贈され文化15年(1818)の料理献立が再現され展示されている。本陣の門は明治10年(1878)全焼し再建した圓明寺[日蓮宗](芝本町1-7)の山門として移設されている。明治天皇も使用した茶室「不二亭」は昭和22年取り壊しが決まったが昭和26年三嶋大社の境内に移築され平成元年に庭園も整備された。 | |
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{右}世古本陣(三島宿一の本陣)跡 本町2-27 樋口本陣跡の向かいでパン屋グルッペ前に碑がある。世古六太夫家の跡で慶長4年(1599)にはこの家で当時58歳の家康が当時20歳のおきく(後の阿万の方)と出会った。寛永14年(1637)には朝鮮通信使が、宝永7年(1710)には琉球国使節も宿泊した。本陣の門は長円寺[浄土宗](芝本町7-7)の山門として移設され寺の境内には世古家の墓もある。宅内にあった神社は明治4年(1871)芝町の氏神として祀ることとなり現在は楽寿園隣の浅間神社(芝本町6-3)の境内社・芝岡神社となっている。三島宿の脇本陣は明和9年(1772)の記録では藤屋治郎左衛門とあるがのちに大中島の綿屋伊兵衛が交替し天明年間(1781-88)に小中島の銭屋伊三郎、大和屋善蔵が加わり幕末には3軒あった。 | |
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{左・寄}向富山 常林寺 [曹洞宗] 本町8-4 源兵衛川の一つ前の路地を左折すると正面。天正元年(1573)麒庵東麟大和尚により開山し本尊は聖観世音菩薩。本堂(法堂)は昭和5年(1930)北伊豆地震の直後に再建され三門とともに貴重な木造建築物。境内左には西国33箇所の観音像や7つの地蔵が並ぶ。境内右には白瀧観音堂があり平安時代末期に現在の白滝公園の北に祀られていた観世音菩薩が安置されている。そばにあった滝が白いしぶきを上げるため白瀧観音と呼ばれ江戸時代には白瀧寺(現:白滝公園)の本尊となっていたが荒廃し明治に廃寺となっていたのを17世達玄大和尚が寺内に移し堂を建てた。下田街道から修善寺を経由し静浦に向かい駿河国清水に至る巡礼道(横道)に点在する駿豆両国横道33観音霊場の第1番札所。 | |
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源兵衛川 少し行くと源兵衛橋で源兵衛川を渡る。川の源流は楽寿園小浜池で昭和30年代以降は地下水汲み上げの増加で湧き水が少なくなり川も一時はゴミの川と化していたが平成2年から国の政策で行なわれた源兵衛川水環境整備事業で水のない時は東レ三島工場の協力で工場冷却水が供給されるようになり平成4年までに下流の温水池まで1.5kmの親水公園(一部遊歩道付き)が整備された。平成6年には蛍の飼育にも成功し梅の花そっくりの珍しい藻であるミシマバイカモ(三島梅花藻)も柿田川から譲ってもらい繁殖させ蘇った。三島には富士の雪溶け水が町のいたるところで湧き出しておりその用水堀が全部で22ヶ所もある。 | |
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{左・寄}三石神社 広小路町13-1 源兵衛橋を渡ってすぐ左折したところにある。祭神は豊受姫大神。源兵衛川の川辺に三ッ石と称する巨石がありその上に稲荷社を祀ったのが起こり。天明年間(1781-1789)の火事をきっかけに火防稲荷となったが文久年間(1861-1864)に再び焼失、慶応元年(1865)京都伏見稲荷より分霊を受け再興され平成3年に少し南の現在地に移転した。神社前には明け六つ、暮れ六つの宿場の時報と火災信号用に作られた時の鐘がある。寛永年間(1624-1644)に最初に作られ宝暦11年(1761)川原ヶ谷の鋳物師沼上忠左衛門祐重により大きな鐘になり神社境内に置かれ三島八景の一つにも数えられた。戦時に供出したが昭和25年に復元し鐘楼もコンクリート製になり鐘楼の足が半分源兵衛川に入った形になった。 | |
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{左}桜家 広小路町13-2 三石神社を過ぎてすぐある安政3年(1856)創業の老舗の鰻料理屋。富士の雪溶け水でしめた鰻を備長炭で丁寧に焼き秘伝のタレで仕上げた香ばしくて柔らかい蒲焼きが有名で常に行列ができている。夜はなくなり次第終了で予約が必須。11:00〜20:00、水休。うな重2200円〜。三島の湧水は化粧水と言われるほど分子が小さく酵素を多く含んだ硬水でこの水で泥を吐かせた鰻は味が良く他にも三島には元祖うなよし、本町うなよし、不二美など鰻料理の店が多数点在する。古くは三島では鰻は三嶋大社の使いとされ食用とされていなかったが幕末に薩長の藩士によって食され噂が広まっていった。
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{右・寄}君沢山 蓮馨寺(れんけいじ) [浄土宗] 広小路町1-39 桜家の少し先に入口がある。正応2年(1289)星誉上人の創建で寺の裏に大きな蓮沼池があり蓮の香りのする寺という意味で名付けられたが池は現存しない。本尊は阿弥陀如来。山門を入ってすぐ右に安永7年(1778)の芭蕉老翁の墓(正確には供養碑)がある。芭蕉は東海道往還の際必ずここに泊まり住職も弟子だったことから建てられ側面に「いざともに ほむぎくらわん くさまくら」の句が刻まれている。芭蕉の墓の近くには水子地蔵尊や嘉永5年(1852)馬頭観音もある。聖徳太子の作と伝えられる日限地蔵尊は秘仏。本堂右には木造聖徳太子像(十六歳孝養像)を祀る大正11年(1922)建立の聖徳太子堂がある。伊豆四国88ヶ所霊場19番札所。伊豆中道観音3番札所、中伊豆観音2番札所。 | |
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{右}伊豆箱根鉄道駿豆線 三島広小路駅 すぐ先で線路を渡るとある。旧三島駅(現:御殿場線下土狩駅)から修善寺駅を結んでいた駿豆鉄道の駅として昭和3年(1928)に三島六反田駅として開業。明治39年(1906)から昭和38年(1962)まではここから沼津駅までほぼ東海道に沿って駿豆鉄道の路面電車(伊豆箱根鉄道軌道線)も通っていた。現在の駿豆線は三島駅と修善寺駅を結んでおり駿河国は通っていない。駅を過ぎると2又路になっており左の八億(パチンコ店)とヨコヤマ(花屋)の間の県道145号が旧東海道となる。 | |
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{右・寄}最勝山 伊豆国分寺 [日蓮宗]泉町12-31 旧道を進みカラオケルームボクん家(広小路町9-13)の先を右折していくと正面。武田信玄の小田原侵攻で失われていた国分寺跡に慶長5年(1600)三島代官の井出志摩守正次が蓮行寺を建立し昭和30年に改名した。本尊は釈迦如来。本堂裏には昭和34年国史跡指定の七重の塔跡が残存し高さ約60cmの土壇の上に塔の北半分の8個の礎石が二列に置かれている。西側の2個は移動したもので塔の高さは推定約60mとされる。国分寺は聖武天皇の命により天平13年(741)頃より造られた僧寺と尼寺の二寺制国立寺院で伊豆国分寺僧寺は泉町、広小路北方一帯に位置し東西80間南北100間で南大門、中門などを擁する東大寺式伽藍配置だった。尼寺は承和3年(836)焼失した。 | |
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{右}摂取山西照院 林光寺 [浄土宗] 加屋町1-42 旧道を進んでいくとある。信玄の子信景(勝頼の異母弟)が故信上人となり天正2年(1574)に住んだ小庵が起こりで武田家衰退後の天正5年家臣と共に現地に本堂を建て寺とした。門を入って右に文化9年(1812)三界万霊塔や弘化3年(1846)文化8年の六字名号碑があり本堂までの参道右に大正15年(1926)西国33カ所観音石像が並ぶ。川中島地蔵尊も安置され故信上人や信玄の孫とされる神沢義発の墓もある。他に英国王立美術協会の初外国人会員である栗原忠二画伯や明治5年問屋場跡に出来た開心庠舎(後の三島黌)初代校長吉原守拙と養子呼我の墓もある。東海88ヶ所観音霊場70番札所。
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{右・寄}境河山 善教寺 [浄土真宗本願寺派] 加屋町2-21 しばらく行くとセブンイレブン三島加屋町店の向かいに看板がありそこを右折すると正面。入口左の寺名石柱は昭和63年18世結婚記念のもの。境内には昭和59年17世継職記念碑もある。本堂は白い鉄筋コンクリート造り。昭和13年開園の白道保育園が寺の境内にありボーイスカウトやガールスカウトの地域本部にもなっている。 | |
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{左}秋葉神社 加屋町4-3 少し行くと境川橋の手前に石段がある。三島は冬になると西風が強く吹くことから宿全体を襲った貞享2年(1685)の大火事を始め慶安元年(1648)から宝暦2年(1752)まで8度の火災があり宿の有志により宝暦3年に創建された。社殿は安政元年(1854)の大地震で倒壊し仮殿のまま現在に至る。狭い境内にはムクノキが一本あり幹周3.75m高さ15m樹齢は250年。他に寛政5年(1793)の半分倒壊した秋葉山常夜燈もある。平成元年建立の鳥居手前左には八坂神社と書かれた柱と祠もある。広小路付近には延焼を防ぐための火避けの土手も作られていたが現在は面影すら残っていない。この付近に三島宿の京側見附があった。 | |
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{右}千貫樋(せんがんどい) すぐに昭和4年(1929)築の境川橋で境川を渡る。橋の右に千貫樋の説明板があり右方向に川を渡すようにコンクリート製の樋が横切っている。土地よりも高い位置に用水を引くために作られた水路で長さ42.7m幅1.9m深さ45cm高さ4.2m。天文23年(1554)北条氏康の長女・蔵春院と今川義元の嫡子・氏真が結婚し今川と北条の和睦が成立した翌年に氏康から引き出物として楽寿園小浜池から水を引いて長堤を築きその水を駿河に疎通させたのが起こり。当初は木製だったが震災後に再建されコンクリート製になった。境川は伊豆と駿河国の境にあたり文政11年(1828)の国郡全図にも箱根の関からここまでが伊豆国に入っている。 | |
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