東海道ルートガイド
二宮〜国府津

{左}八坂神社
西小磯の信号手前にある。祭神は素盞嗚命。手前の隣接地は清水組(現:清水建設)の4代目・清水満之助が明治時代に建てた約5000坪の邸宅跡で40区画の分譲宅地「大磯松韻」となっている。社殿の裏手の小道を海へ向かって進むと大磯松韻内の公園を通り西湘バイパスに出る。八坂神社から東海道を250mほど進んだ小磯幼稚園入口交差点の右には宝永6年(1709)の高さ2mほどの西国33箇所巡礼供養塔と万延年間(1860-1861)の67cmほどの道祖神がある。
切通橋
さらに行くと血洗川を渡る。大正12年竣工で欄干は平成元年に作られた。この辺りに切通しの地名が使われるのはこの先の城山から海岸までつながる丘陵の間を切り通して東海道を作っていたためである。 血洗川は文明9年(1477)長尾景春が上杉顕定に謀叛し助勢した越後五郎四郎が小磯城に籠城し大田道灌の攻撃に敗れたとういう戦があり兵士がこの川で傷口や刀を洗ったと伝えられている。橋を渡った左に明治42年の屋根の付いた文字のみ道祖神がある。少し行くと旧東海道は切通しの間を通り城山公園前信号で国道1号から右に分岐する。
{左・寄}旧吉田茂邸 西小磯418
分岐点で国道左側の山に続いている茂みがある。昭和21年(1946)から昭和29年まで5度も首相となった吉田茂が関東大震災以降住んでいた邸宅。もとは養父で貿易商の吉田健三が明治17年に別邸を建てた地で戦後には建築家吉田五十八の設計で総檜造り2階建の屋敷が新築された。昭和35年滄浪閣から移された七賢堂もある。吉田亡き後は昭和44年西武鉄道に売却され大磯プリンスホテルの所有として維持管理され一般公開はされていない。海側にある和装姿の吉田茂像と顕彰碑は公開されており東海道から離れ国道を進み敷地に沿って左折し西湘バイパスの手前で左折すると左に入口がある。碑の撰文は小説吉田学校の作家戸川猪佐武。10:00〜15:00月曜休。
{右}県立大磯城山公園  西小磯446
分岐点から旧東海道を少し行くと入口がある。小磯城址の約7haの公園で鎌倉古道の遺物や縄文式土器なども発掘され横穴墓群もある。明治には三井財閥が軍医総監橋本綱常より敷地を購入し別荘地とし昭和45年(1970)には名古屋鉄道の所有、昭和58年より県立公園として整備が開始され平成2年正式開園となった。現在は4つの広場や大磯郷土資料館もあり展望台からは丹沢山系や箱根連山、相模湾が一望できる。茶室城山庵はこの地にあった国宝の茶室・如庵を模して平成2年に完成した。如庵は名古屋鉄道の所有時に附属の書院・唐門・萱門などと愛知県名鉄犬山ホテルへと移築された。片桐門は熱海MOA美術館へ別館の松聲寮は広島県竹原市今井政之展示館に移されている。
{右・寄}大磯郷土資料館 西小磯446-1
大磯城山公園の中にある。三井財閥の別荘であった城山荘の本館を模して昭和63年建てられ大磯の歴史資料を展示している。城山荘本館は昭和9年(1934)三井家当主の三井八郎右衛門高棟が全国の有名な寺社の古材を集め現在の展望台の辺りに造営し周りにも昭和16年までに多くの建物を建てた。戦時中は一時陸軍に接収され昭和45年名古屋鉄道のものになってから本館は解体。部材は歴史的に貴重なためほとんどが京都で保存されている。本館のシャンデリアは東京の三井住友銀行に、大雄殿、洗心寮、法雲堂は滋賀県大津市覚性律庵に移築されている。入館無料9:00-16:30月曜休館。  
{左・寄}谷村山 西長院 梅林寺 [浄土宗] 国府本郷513
公園入口の向かいの道を左折していくと左にある。創建は不明で享保の頃に待譽が中興した鎌倉光明寺の末寺。住職の酒豪が原因で廃寺となっていたが近年復興された。本尊の石造地蔵菩薩立像(高さ148.7cm)は元は切通しの岩窟中にあり昭和初期にこの寺に移された。行基の作とも伝えられ両手両足の先が欠損し胸と首に継ぎ目がある。梶原景時の家臣で信仰篤い悪太郎義景が斬られた時は義景に傷はなく地蔵から血が流れ明応年間(1492-1500)に毎夜参拝していた近隣の娘が闇討ちで首を斬られた時も娘は無事で地蔵の首が落ちたと言われ「身代わり地蔵」と呼ばれる。本堂右に宝永7年(1711)の六字名号碑がある。他に供養塔や小さな地蔵もある。千手観音は相模新西国33観音霊場第11番。
本郷橋
やがて旧道は大磯城山公園に沿って右方向にカーブしていくがカーブせずに直進するように分岐してしていく道が旧東海道となる。旧東海道に入るとすぐに不動川にかかる本郷橋を渡る。昭和2年竣工のアーチ状の形をした鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋。橋長16.8m幅6.8m。砲弾を束ねたような橋柱と白い敷石が特徴でかながわの橋100選にも選ばれている。TVドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」にも登場している。
{左}国府山 寳前院(宝前院) [東寺真言宗] 国府本郷390
橋を渡るとゆるやかな上り坂になり登りきった辺りにある。境内に入ると左手に祠があり中に地蔵尊や天保12年(1841)の馬頭観音などがある。祠の外には延宝8年(1680)の庚申塔もある。境内には立派な大イチョウや大クスノキもある。江戸時代には寺の手前あたりの坂は立場があり中丸の立場と呼ばれていた。
{左}国府本郷 一里塚跡(17)
しばらく行くと国道1号が左側を平行するようになりその間の分離帯に標柱と説明板がある。一里塚は実際は200mほど江戸側にあったが平成14年東海道シンポジウム大磯宿大会を記念してこの地に再建された。江戸時代には両側とも榎が植えられていた。
{左・寄}大磯プリンスホテル 大磯ロングビーチ  国府本郷546
旧道と国道が平行している分離帯には松が若干あり文字だけの道祖神もある。途中左にある大磯警察署の先を左折していくと大磯プリンスホテルがある。ロングビーチは夏期のみ営業。夏期以外は大磯温泉として日帰り入浴もできる温泉施設もある。他にゴルフ場、ボウリング場、インドアプール、テニスコート、フットサルコート、ドライブインシアターなども併設するシーサイドリゾートホテル。
{右}座問答の標石
分離帯にある明治44年の双体道祖神を過ぎてすぐ平行していた旧道は国道に合流する。合流地点の国府新宿交差点には県指定無形文化財である国府祭(こうのまち)の座問答の様子を示す6つの石が置かれている。相模国総社の六所神社が毎年5月5日神揃山に相模の国の5社(一之宮寒川神社、二之宮川匂神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、五之宮平塚八幡宮)を招いて正午に行う神事「座問答」は大化の改新により相模の国が生まれた際、寒川、川匂が国司の巡拝の順序をめぐり争ったのを比々多、前島、平塚八幡宮が仲裁した故事を儀式化している。標石はその位置関係を表しており手前に5社を示した石、交差点を渡った所に六所神社を示した石と説明板がある。
{右}六所神社の参道鳥居
しばらく行くと六所神社入口交差点に赤い鳥居と右に石柱がある。石柱は昭和13年の建立で横には大正6年(1917)丸石に文字が刻まれた道祖神もある。六所神社(国府本郷935)はここから300mほど北にあり途中地下道でJRの線路をくぐっていく。第十代崇神天皇の御代の創建とされ養老2年(718)現在地に移転した。相模国5社の分霊と主祭神の柳田大明神を祀っている相模国総社。源頼朝が神馬を奉納したり小田原北条家も社殿の造営や本殿の修復を行っており4代目北条氏政が改修したのが現在の本殿となっている。
{右・寄}宝積院 [東寺真言宗] 国府新宿451
六所神社の参道鳥居を右折していくとJR線路の手前右に入口がある。天平13年(741)行基の創建で本尊は地蔵菩薩。入口の右にある梵鐘は総高129cmで寛永8年(1631)木村五郎右衛門吉久の作で町内最古。相模国の国府の鐘だったと言われる。入口から門にかけての道の左には文化2年(1805)西国33箇所巡礼供養塔を始め元禄12年(1699)安永2年(1773)安政2年(1855)など石仏、石塔群が20以上も並ぶ。境内にある樹齢400年カヤの大木も町指定の天然記念物。
塩海橋(しおみばし)
国道右側の国府新宿福祉館(国府新宿397-1)前にある明治43年(1910)丸石に文字だけの道祖神を過ぎ500mほど進むと二宮町に入る。右の二宮斎場(二宮523-1)の前付近には少数だが松並木がある。さら500mほど進むと葛川にかかる昭和12年竣工の塩海橋を渡る。手前右に「塩海の名残り」と刻まれた木杭を模した石柱があり江戸時代にこの近くの浜で塩を精製していたことに由来している。二宮は江戸中期には間宿として発展したが戦災で史跡は殆ど消失した。町名は川匂神社が相模国二之宮であることに由来し昭和10年の町制施行で吾妻村から改称された。二宮町は日本で初めて落花生を栽培したところとしても知られている。
{右}守宮神社 二宮249
二宮の交差点を過ぎしばらく行くと大正6年(1917)の建立の石鳥居があり奥に社殿がある。創建は不明で祭神は大国主命。境内はすべり台などが置かれ子供広場となっている。
{右・寄}二宮駅
二宮駅入口交差点を右折するとロータリーがあり二宮駅南口に通じる。明治20年神奈川駅(現在廃止)〜国府津駅間の開通当時は無かったが伊達時らの尽力により明治35年(1902)開業した駅でロータリー中央の緑地に昭和26年建立の伊達時の彰徳碑がある。啓蒙思想家として福沢諭吉の影響を受け教育、交通網の整備等で二宮の発展に尽くした。同じ緑地のクスノキの横には昭和56年建立のうさぎを抱いた少女像「ガラスのうさぎ像」がある。昭和20年8月5日二宮駅で米軍機の機銃掃射を受けガラス職人の父を亡くした当時12歳だった高木敏子作の体験小説に由来するもの。3月の東京大空襲で母と2人の妹を失い家の焼け跡から見つかったガラスのうさぎを手に疎開する途中だった。
{右}吾妻神社鳥居
駅から700mほど先の吾妻神社入口交差点で国道から右へ分岐し梅沢街道とも呼ばれる旧道に入る。分岐点には「旧東海道の名残り」と刻まれた木杭を模した石柱がある。旧道に入り次の交差点に吾妻神社(山西1117)の石柱と石鳥居がある。神社は右折しJR線路を渡って吾妻山の山頂付近。東国平定中の日本武尊が海神の怒りにより走水の海(浦賀水道)を渡れず妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら身を投げ怒りを鎮めた。7日後に流れ着いた櫛を埋めた所が吾妻神社でこの辺りを埋沢(梅沢)と言い海岸は着物が流れ着いたため袖ヶ浦と言う。東国平定の帰り日本武尊が足柄峠で「あづまはや(ああわが妻よ)」と嘆いたことから関東地方を「東国(あづま)」神社も「吾妻(あづま)」と呼ばれるようになったという。
{右}ヤマニ醤油 山西838
旧道沿いにある創業天保13年(1842)の老舗醤油醸造所で入口左に大きな釜が置いてある。厳選した小麦と大豆と天然塩を用い木桶で醸造した丸大豆しょうゆや昆布しょうゆの他、味噌、ぽん酢、もろみ醤油を利用した焼肉のたれ、とんかつソースなども作っている。予約すれば平日の8:00〜17:00まで無料見学ができる。入口右の事務所内では販売もしている。丸大豆醤油「湘南育ち」(1L:997円)昆布醤油「湘南美人」(1L:577円)無添加醤油「風林火山」(1L:294円)など。
梅澤橋
ゆるやかな旧道の坂を下ると左に「梅澤橋」と書かれた石柱があるが下を流れる梅澤川は暗渠になっており上は道路で十字路になっている。橋を右折して20mほど行くと左に小さな観音堂(山西837)がある。江戸時代初期に小沢治部宗清が建立した小澤山小澤寺[真言宗]で明治17年道路拡張のため現地に移転した。安置されている十一面観世音菩薩は二ノ宮・大磯・平塚・秦野を巡る相模新西国33観音霊場第3番。堂の手前左にはかなり欠損した双子体道祖神もある。橋を左折すると袖ヶ浦の梅澤海岸、二宮漁港に通じている。橋を渡ると上り坂となる。
{右}梅澤山等覚院 (藤巻寺)[真言宗東寺派]山西793
梅澤橋からしばらく行くとある。天平13年(741)行基が再興した東光寺、天長年間の創建の神願寺が永禄4年(1561)兵火で焼失し天正3年(1575)等覚坊實雄が東光寺跡地に二寺を合わせて再興した。本尊は不動明王。薬師堂の前には樹齢400年高さ240cmの藤があり元和9年(1623)には徳川家光も藤花を見るため立ち寄り寛文年間(1661-1672)には仁和寺宮(承法親王)が訪れ藤巻寺の別号を贈った。町内最古の寛永8年(1631)の梵鐘(高さ101cm)は天平年間に行基が吾妻神社の別当として建立した千手院にあったもので江戸時代中期には廃寺になっていた。観音堂も元は千手院にあり宝暦5年(1755)に復元したもので安置される百番観音は二宮・大磯・平塚・秦野を巡る相模新西国33観音霊場第1番。
{左}山西の道祖神
しばらく行くと山西交差点で国道1号と合流する。合流地点に火の見櫓がありその下に寛政2年(1790)などの3体の双体道祖神と石塔などが並んでいる。
{右}梅沢一里塚跡(18)
国道1号線へ合流して500mほど先の川匂神社入口信号の手前で旧東海道は今度は左側に分岐する。分岐点には「旧東海道の名残り」と刻まれた木杭を模した石柱がある。旧道に入ってすぐに一里塚跡の碑がある。押切坂一里塚、二宮一里塚とも言われ右は高さ1丈2尺(3.6m)で欅が植えられ左は高さ1丈(3m)で榎が植えられ右には高札場もあった。ここから先は小田原と大磯の間宿でもあった梅沢の立場があった所で川勾神社の東海道沿いの門前町として古くから賑わっていた。
{右・寄}茶屋の薬師堂
一里塚のすぐ先にある川匂歩道橋で国道を渡るとある。明治の神仏分離以前は相模国二之宮・川勾神社(山西2122)の本地仏だった江戸時代の作の薬師如来坐像(高さ261.5cm)を安置する。堂の前右には大きな三界萬霊塔や元禄8年(1695)の庚申塔、昭和10年(1935)の文字のみの道祖神など多数の石仏、石塔が並び砂場や遊具もあり子供の遊び場にもなっている。ここから1kmほど北にあり第11代垂仁天皇の御代に磯長国の国宰・阿屋葉造が勅命を奉じて創建した川匂神社は日本武尊や源義家も東征の折り祈願しておりその後も源頼朝、小田原北条氏、徳川家による寄進、造改築もされ現在の社殿は昭和7年造営に着手し戦争で中断しながら昭和26年に完成したもの。
{左}松屋本陣の跡
閑静な住宅地のゆるやかな坂道を登っていくと登りきったあたりの民家の庭に標柱がある。梅沢の立場の茶屋本陣があった場所で大名などの休憩に使われた。天保12年(1841)正月に焼失するまでの間取は間口7間半(13.5m)奥行き15間(27.3m)の112坪の規模を持ち街道に面した側は白壁塀に囲まれ一段奥まった所に屋根付き御門と敷台付き玄関があった。さらに進むと右に椿森稲荷の祠があり押切坂の急な下り坂となる。下る手前右に宝暦2年(1752)の双体道祖神(高さ50cm)があり坂を下り切ると国道1号に合流する。
押切橋
国道1号線に合流するとすぐ中村川にかかる押切橋を渡る。江戸時代はこの橋から先は通常3間(5.5m)だった東海道の道幅が小田原宿まで5間(9m)と広くなっていた。中村川は押切川とも言い中井町を水源とし藤沢川を合わせ相模湾にそそいでいる。長さ10.3�厠�域面積23.81平方km。橋を渡ると小田原市に入り150mほどで今度は塔台川にかかる塔台橋を渡る。その橋の手前右には大きな石屋根の付いた双体道祖神がある。塔台橋を渡ると再び二宮町に入り上り坂となり100mほど進むとまた小田原市に入るという複雑な土地区画になっている。
{右}浅間神社 前川586
坂を登りきった所を右折すると正面にある。祭神は木花咲耶姫命。宝永4年(1707)の富士山の噴火で火山岩1個が落下し近隣の者がこれを発見し納めたと言われる。境内右に明和5年(1768)の庚申塔、文化4年(1807)の金比羅権現、明治20年などの双体道祖神や文字だけの道祖神など石塔群がある。境内左には震災復興記念碑がある。坊山から引水している井戸もあり昭和30年頃までこの辺りの人々はこの水で生活していた。狛犬は昭和15年(1940)のもの。社殿の裏は児童公園で敷地右には町屋公民館がある。
{右}車坂の説明板
浅間神社を過ぎると除々に車坂の下り坂になる。東前川信号の少し先に「史蹟 車坂」と書かれた木杭とこの付近で詠まれた歌の説明板がある。太田道灌の「平安紀行」では前文に「車坂という里にてゆう立しきりに降りそえば」とあり「鳴神の声もしきりに車坂 とどろかしふるゆふ立の空」と詠んでいる。また源実朝は「浜辺なる前川瀬を逝く水の 早くも今日の暮れにけるかも」と詠み「十六夜日記」を書いた北林禅尼(阿仏尼)も「浦路行くこころぼそさを浪間より 出でて知らする有明の月」と詠んでいる。
{右}大山道道標&秋葉山常夜灯
車坂を下りきりしばらく行くと八百屋の角にある。ここから大山道や秋葉山への道が分岐していく。大きく派手な大山道道標は天保5年(1834)建立で黄色く彩色された不動明王を乗せており「従是大山道」と刻まれている。秋葉山常夜灯は文化11年(1814)のもの。奥には平成2年建立の石の祠も並んでいる。
{右}道祖神
小田原宿の土産として旅人に重宝された小田原梅干の丸福食品(前川430)の斜め向かいに滝沢建築工房の看板が出ている民家がありその前に坂下道祖神と呼ばれる双体道祖神(写真)がある。その先右JA前羽支店の前には近戸神社(前川1431)の石柱があるが神社はJRを越えて400mほど北にある。さらに200mほど進んだ右の中宿公民館玄関に風化が激しい寺前道祖神と呼ばれる双体道祖神がある。さらに400mほど先の西前川信号の右側に大西道祖神と呼ばれる双体道祖神がある。その先右の石井石材店(国府津4-5-44)の手前の小さな路地を右折すると左に加藤清正の石像があり横には古い石塔群と明治初期に海岸へ流れついた木造清正像を安置する清正公堂がある。
{右・寄}国府津駅
石井石材店を過ぎると左側の建物がなくなり西湘バイパス越しに海を見ながら進む。ゆるやかな上り坂になって坂を登り切った所の国府津駅前交差点を右折すると国府津駅。明治20年(1887)開業で翌年に現在の東華軒の創業者が竹の皮に包んだ握り飯2つとたくあんを5銭で販売しこれが東海道線の駅弁第1号となった。明治22年国府津〜静岡間が開通した当時は現在の御殿場線のルートで国府津が小田原の中心駅として賑わった。昭和9年(1934)丹那トンネルが開通し東海道線が熱海経由に変更されると中心が小田原駅に移り賑わいが衰退した。コンクリート4階建ての駅舎は昭和45年(1971)の建築。駅前には昭和62年建立の開業100周年記念碑もある。
{左}勧堂(すすめどう)跡
国府津駅前交差点を渡り明治21年創業の旅館国府津館を過ぎると商店街でゆるやかな下り坂となり酒屋鈴木屋の先の民家前に碑がある。しばしば国府津に立寄って布教していた親鸞上人が安貞2年(1228)に布教道場として真楽寺の一角に建てた堂の跡。貞永元年(1232)に常陸の国から京都へ帰る途中立寄った際には人々が親鸞を引き留めその後7年間真楽寺に住んだ。堂は小田原北条氏の時代に兵火を避けて現在の富士市蓼原のあたりに移され天正年間(1573-1592)に更に沼津に移り同名の勧山信楽院真楽寺(沼津市末広町170)となっている。
{右}勧山信楽院 真楽寺 [真宗大谷派] 国府津3-2-22
国府津保育園前信号少し先の大衆食堂喜楽の先を右折するとある。もとは聖徳太子の由縁により創建された天台宗の寺だったが親鸞上人が国府津で布教した際に住職性順が帰依し嘉禄2年(1226)親鸞を開基として改宗した。本尊は阿弥陀如来で親鸞自作の木像も所蔵している。境内右に親鸞が指先で字を書いたという2mほどの帰命石を安置する帰命堂がある。境内左奥の菩提樹(高さ12〜16m幹周6.5m)は親鸞の手植えの記録もあるが樹齢370年ほどしかなく火災等で植え継がれたと推定され根元から5株に分かれている。
{右・寄}海向山遍照院 光明寺 [時宗] 国府津1082
少し進み鮮魚「魚伊佐」の先の角を右折し幅一間ほどの細い道を地下道で線路をくぐってまっすぐ行くとある。元は真言宗の寺だったが永仁5年(1297)時宗二祖である真教上人により改宗した。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には東海道沿いにあり明治14年(1881)には寺内に国府津小学校(国府津2485)の前身である崇広館国府津分校が設置された。熱海線(現:東海道線)などの鉄道敷設で境内地が削減され昭和34年に現在地に移転した。門の前右に万治3年(1660)の六字名号碑がある。
{右・寄}梅花山 安楽院 [真言宗東寺派] 国府津1762
光明寺前から線路沿いに坂を降りていくとある。天長10年(833)弘法大師の高弟である杲隣大徳により梅花山泉涌寺として開基された。本尊は不動明王。菅原神社の別当寺であり明治の神仏分離令で分かれた。境内には山号の通り梅の木がある。ここの裏手にある山との境目が丹沢山地南から相模湾岸に至る神縄・国府津−松田断層と呼ばれるプレートの境で長い年月をかけて伊豆半島が本州にぶつかって潜り込んでいく場所になっている。
{右・寄}菅原神社 国府津1752
安楽院となり。正暦5年(994)海岸に漂着した貴人を助けた村人の夢に数日後この貴人が現れ菅原道真を祀るように告げたことから村に古くからある諏訪社の場所に祠を建てたのが起こりといわれる。明治35年全焼し明治42年に近隣の浅間社、神明社、日枝社なども合祀し再建した。境内右に平成7年建立童謡「通りゃんせ」の発祥の地碑、曽我兄弟が警護が厳しい仇討ちの相手を岩陰に隠れて見過ごしたという隠石と大正15年建立の碑、明治40年乃木希典書の忠魂碑、ムクノキの老木(目通幹囲5.1m樹高16m)、大正6年道真公の歌碑がある。社殿前には撫で牛と金網に囲まれた狛牛、社殿左に昭和56年建立の筆塚。狛犬もあり大正6年造、鳥居は昭和57年と大正13年造。境内社は諏訪社、稲荷社。
{左}釼持山 法秀寺 [日蓮宗]国府津2-9-4
旧東海道に戻りゆるやかな下り坂をしばらく行くと寺の駐車場がありその奥にある。永禄7年(1564)釼持大蔵(法号法秀)が深く法華経を信仰し別邸を寄進し永昌院日運上人を開山として開基した。入って左には稲荷社がある。法秀寺の少し先の左には個人でやっている加藤ばら苑(国府津2-9-1)があり約200坪の敷地に350種のバラがある。
親木橋
すぐに森戸川にかかる昭和38年竣工の親木橋を渡る。街道左側の川岸には松が数本あり渡ると西湘バイパスの国府津インター入口が交差する親木橋の交差点で左側には横断歩道はなく歩道橋がある。歩道橋に登ると右斜め前に富士山が見え江戸時代には川は富士見川とも呼ばれていた。明治28年(1895)大鳥圭介が清国から帰国後、親木橋近くに別荘を建てたが津波で倒壊しその後駅向こうの山裾(国府津2064)に移転した。国府津駅の山側には他にも大隈重信、7代目森村市左衛門(日本ゴルフ協会初代会長)、諸戸精太(山林王諸戸清六の次男)、加藤泰秋(伊予大洲藩主・子爵)、名取和作(富士電機初代社長)などが別荘を構えていた。
{左}小八幡一里塚跡(19) 東海道松並木
橋を渡ってしばらくすると大きな松が所々にある。ガスト、KFCを過ぎ小八幡3丁目信号の歩道脇の左側に一里塚の案内板がある。江戸時代には高さ2間(3.6m)で松が植えられていたが現在その姿はない。案内板の先には一里塚という名のバス停がある。一里塚跡を過ぎると松並木はいったんなくなる。
{右}八幡山神明院 三寶寺[浄土宗] 小八幡2-12-26
宮の前信号の先すぐにある。芝増上寺の末寺で開創は嘉慶年間(1387-8)廣譽如海あるいは明徳元年(1390)廣譽真阿大和尚と伝わる。明治期に荒廃し戦時中は無人にもなったが昭和55年頃より本堂(阿弥陀堂)花御堂(釈迦堂)ギャラリーなどが整備された。奥本尊に阿弥陀如来立像(2尺6寸)本尊に近年制作された阿弥陀如来座像(2尺5寸)を安置。釈迦堂には釈迦誕生仏があり屋根には仏陀の眼がある。本堂右に安政4年(1857)唯願上人の六字名号碑、昭和62年造の音調129Hz、重量200貫、外口2尺8寸の鐘楼。弘法大師の書と伝わる紺紙金泥利剣名號を所蔵。樹齢400年の銀杏2本がある。
{左}海水総合研究所 酒匂4-13-20
左手にあるマカロニ市場(レストラン)あたりから両側に本格的な松並木が続き少し行くとある。旧専売公社の製塩試験場で現在は財団法人塩事業センター(本部東京)の研究部門として製塩技術、塩および海水資源の利用、塩の品質に関する研究や塩の品質検査を行っている。向かいには酒匂小学校があり少し先の右側小田原市消防分団第17分団の角に年号不明の文字だけの道祖神がある。