東海道ルートガイド
関宿

{左}落針観音堂(昼寝観音)
住宅街をしばらく進むと右が上り坂、左が下り坂の2叉路がありその左。入口右には享保6年(1721)「南無観世音菩薩」石碑、大正7年(1918)豊田多賀之助翁頌徳之碑。安置されている観音は昼寝をしていたため33観音霊場に入れてもらえなかったと伝わる。堂正面に掛かる享保2年(1717)鰐口(高さ32.7cm幅36.5cm最大厚12.2cm)は関宿の鋳物師半兵衛の作で「落針村観音堂寄進宗傳」と刻まれている。落針はこの付近の江戸時代の地名で古くは平家の落武者が住んだ里と伝わり明治8年(1875)野尻村と合併し布気村になり昭和29年(1954)亀山市布気町となった。池波正太郎の「鬼平犯科帳」にこの村出身の盗人「落針の彦蔵」が登場する。境内右には寛政12年(1800)など地蔵2体が安置された祠もある。
{左}「大正紀念道」石柱
2叉路は左の下り坂(観音坂)が東海道で左の緑フェンスに案内標示がある。坂を下りきると左から来る道に合流し合流点左には笠の部分が1部欠損した安政6年(1859)常夜燈と後ろの小さなプレハブ小屋の裏に大正4年(1915)建立「大正紀念道」石柱(高さ105cm)がある。左から合流する道が大正紀念道で毘沙門堂前の分岐で東海道と分岐しここで再合流している。常夜燈は落針の日原にあった「やけ八幡」のもの。
{左}見流山 清福寺 [真宗高田派] 布気町1464
合流した左に塀に囲まれた寺があり左折して大正紀念道を少し進んだ右に入口の鐘楼門がある。高田派10世真慧が寛正年間(1460-65)に下野国芳賀郡高田(現:栃木県芳賀郡二宮町)から伊勢に来た際に従って来た直弟子の信海が創建した。門右には昭和62年寺名石柱、本堂前に大正2年(1913)の自然石の灯籠がある。
分断された東海道
東海道は少し先で再び下りとなり県道565号線(旧国道1号)に出る。県道とその向こうのJR関西本線の線路の先に街道の続きが見えるが渡る手段がなく分断されている。県道を左折し左のレストランオスカー(布気町1451-2)先にある歩道橋で県道と線路を越え迂回する。歩道橋の石段を登る途中にも大正紀念道の合流点にあったのと同じ安政6年(1859)常夜燈がある。
太岡寺畷(だいこうじなわて)
東海道の続きは両側に桜並木がある直線の道となる。この付近は江戸時代は太岡寺村でこの道は太岡寺畷と呼ばれ18町(1.9km)に渡り松並木が続いており里謡に「わしが思いは太岡寺 ほかに木(気)はない 松(待つ)ばかり」と謡われた。松並木は明治になって枯れたため代わりに桜が植えられた。冬は鈴鹿山系からの木枯しが旅人を困らせ元禄3年(1690)膳所の酒落堂(現:戒琳庵)で芭蕉と門人たちが催した句会では野径の「から風の 太岡寺縄手 ふき透し」に対し乙州が「虫のこはるに 用叶へたき」と下の句を返している。しばらく進み右のJA鈴鹿亀山神辺支店(太岡寺町1294-2)向かいには「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」説明板、すぐ先の交差点を過ぎた左には昭和55年「史跡 大岡寺畷」白柱もある。
広重の絵パネル
左に鈴鹿川が沿うようになり神辺小学校(太岡寺町1310)を過ぎた少し先で国道25号(名阪国道)と東名阪自動車道の高架をくぐる。高架下の壁面に県内7宿場の広重の保永堂版53次の浮世絵が100倍に拡大されて描かれている。右壁に「東海道五十三次と歌川広重」説明1枚と桑名宿、四日市宿、石薬師宿の3枚、左壁に庄野宿、亀山宿、関宿、坂下宿の4枚。高架をくぐるとすぐ昭和8年(1933)竣工の太岡寺畷橋で桜川を渡りそのまま鈴鹿川沿いののどかな道を進む。桜並木はまばらになりしばらく進むと右の土手下に昭和62年建立の亀山市長・今井正郎揮毫の小野地区土地改良事業竣工記念碑がある。
小野橋
その先左に鈴鹿の名前の由来である鈴を着けた鹿のイラストが入った鈴鹿川の「河口より26km」標示があると少し先で鈴鹿川と小野川の合流点となり東海道はそのまま小野川に沿って進むようになる。しばらく進みJR関西本線の線路を小野踏切で渡ると小野川橋東詰交差点で国道1号に出る。東海道は左折し小野川を小野橋で渡るがその先で右に分岐するため先に交差点右にある歩道橋で国道を横断してから橋を渡る。橋を渡って少し先で国道から右に分岐する緩やかな上り道が東海道。分岐して少し先右に「東海道五十三次 関宿」の看板があり後ろには宿場見学者用の無料駐車場がある。駐車場内には「関宿総合観光案内図」、四阿もある。
{左}関の小萬のもたれ松
駐車場向かいに平成6年説明板があり幼松が1本ある。後ろに昭和6年(1936)建立「小万凭松」石碑。久留米藩士の剣術指南役・牧藤左衛門が同僚の小野元成に殺され妻は身重ながら仇討ちの旅に出て関宿の旅籠山田屋(現:会津屋)に宿泊し明和2年(1765)小萬を産んだ後に病没した。山田屋の養女として育てられ親の悲劇を知らされた小萬は15歳から3年程亀山藩家老・加毛寛斎の助力で城下の剣術師範・榊原権八郎の道場で修業し小林軍大夫と名を変えていた元成に天明3年(1783)亀山宿で偶然に会い仇を討った。この場所には当時亀山通いの小萬が人々のからかいを避けるために姿を隠してもたれたと伝えられる高さ12丈(36m)幹周1丈5尺(4.5m)の松があった。説明板横には常夜燈の残骸もある。
{右・寄}森井山 正念寺 [天台真盛宗] 関町小野224
ゆるやかな上りの道をしばらく進み左に防災機材庫がある角を過ぎた右の民家先にある細いコンクリート道を右折していくと正面にある。本尊は阿弥陀如来。近年に本堂を再建した。入口左に地蔵2体、庚申像1体の半浮彫の石仏3つが並ぶ。本堂左には大きな戦没者碑もある。鈴鹿郡88ヶ所霊場第15番。
{左}東の追分
しばらく行くと変形十字路左に分岐する道を跨いで木製鳥居がある。関宿には東入口に伊勢別街道との分岐「東の追分」、西入口に大和街道との分岐「西の追分」がありともに昭和57年県指定史跡になっている。東の追分を左折して進むと楠原、椋本、窪田を通って津で日永の追分から来る伊勢街道と合流し伊勢に向かう。京からの伊勢参りにはこの追分が利用された。鳥居は20年に1度の神宮遷宮の折に伊勢神宮の内宮宇治橋南詰の鳥居が移される。鳥居左に高札風説明板、その後ろの小高いところに石柱の上に切妻青銅屋根の木製火袋が乗った元文5年(1692)常夜燈がある。
{左}関一里塚跡(106)
鳥居左の小高い丘が一里塚の名残と伝わり鳥居をくぐり少し先左に小さな昭和48年建立「一里塚址」石柱が見える。石柱の奥には慶応元年(1965)手水石もある。元禄3年(1690)東海道分間絵図には右が榎2左が榎1と記録されている。広重の隷書版東海道の関宿は雪景色のこの場所の鳥居や一里塚、見附石垣を描いている。この先は道幅が狭まり西の追分まで1.8kmに渡って両側に連子格子の古い家並が今も残る関宿に入る。
関宿   本陣2脇本陣2旅籠42家数632人口1942[天保14年(1843)]
大化2年(646)で設置されたと言う日本3関の1つ鈴鹿関があった地とされ地名の由来にもなっている。天正11年(1583)関盛信によって町並の基礎が造られ江戸時代には亀山宿を敬遠した大名が宿泊したり伊勢別街道や大和街道が交差したこともあり賑わい繁栄した。宿場は木崎町、中町、新所町の3つの町で構成され現在も江戸末期〜明治中頃の古い建物が残っており昭和59年国重要伝統的建造物群保存地区に指定、昭和61年には日本の道100選にも選ばれている。江戸時代の特産物はこんにゃくと火縄。明治以降に周辺の村が合併してできた関町は坂下宿も擁し平成17年亀山市と合併した。
{右}白木屋(岩間家)
鳥居向かいの石垣の上に建っている連子格子の建物。屋号を白木屋と言い主に東の追分を基点に稼ぐ人足の常宿であった。文久3年(1863)将軍家茂の上洛の折に作成されたとされる宿内軒別書上帳には白木屋重太郎とある。人力車登場後は車夫の常宿となり常に20〜30台は客待ちしていたと言う。建物は江戸末期の築とされ膨れた屋根の「むくり屋根」が特徴。今でも関宿の380軒の建物のうち戦前のものが7割、江戸時代から明治時代のものが半分ある。木崎町には平屋や中2階の低い建物が多く2階壁面も真壁で簡素な造りとなっている。ここから先はゆるやかな上り坂となる。5軒先右には明治30年(1897)頃から大正初期まで筆の製造販売、昭和23年から食料品店となった筆長ストアーがある。
{左}長谷屋資料館(長谷川家) 木崎町1660
しばらく進むとある。江戸時代は旅籠(木賃宿)兼飲屋で戦後まで宿屋だった中2階建の建物を整備し平成13年私設の資料館として開館した。関町教育委員会認定まちなみ博物館第1号。文久3年(1863)の記録では長谷屋彦三郎。中は表側の2部屋を展示スペースとし土間や縁側なども復元している。「旅館 はせや伊三郎」「休泊 長谷屋伊三郎」「うどんそば 御支度所」看板、客用の食器、箱火鉢、屏風、箪笥などを展示し旅籠時代の道具類数百点を保管。表に掲げる看板は複製で江戸側には「はせや伊三郎」京側には「長谷屋伊三郎」とある。旅人が方向を間違えないためにひらがなと漢字を使い分けた。この先の関の戸も看板を同様に使い分けており街道ではこのルールが一般的だったと言う。
{左}木崎町いっぷく亭
少し先右に岩田油店本店があり連子格子の建物前には関郵便局前と同じ復元ポストがある。江戸時代の屋号は油久で文久3年(1863)の記録では油屋久五郎で長谷屋の隣にあった。その先左に関宿木崎町散策拠点施設の木崎町いっぷく亭がある。建物は明治中期の築で屋号を三国屋と称する木賃宿で通り土間に面して1列に3室が並び2階には座敷もあった。文久3年の記録には三国屋は記載されていない。土地ごと関町に寄贈され平成14年に散策拠点施設として修復整備された。9:00-16:30月休。関宿には他にも眺関亭地蔵院手前、西の追分手前に散策拠点施設・休憩施設がある。ここを過ぎると坂が少し急となる。
{右・寄}宝林寺 [真宗高田派] 関町木崎1416
少し先を右折すると正面にある。永禄9年(1566)開基。現本堂は6世観明が文化年間(1804-17)に再建した。山門左に石仏2体の祠。山門入った左に井戸と手水石がある。本堂左前に鬼瓦、右前に明治42年(1909)「日露戦役旅順閉塞紀念」石柱。境内には自然石の灯籠もある。
{右・寄}無量寿山 弘善寺 [曹洞宗] 関町木崎660
少し進むと角に「不動尊 弘善寺」石柱があり右折していくと左にある。本尊は不動明王で室町後期の作とされ元は加行山(現:関ヶ丘付近)に安置されていたもの。江戸中期は道中安全祈祷が盛んに行われ青竹にくくりつけられた旗(祈願旗)が街道の道端に並んだと言う。寺では平成8年よりこの祈願旗の復興に力を入れており境内には「南無 不動明王」旗が並んでいる。他に境内右に宝篋印塔、境内左に浮彫庚申像、手水石、自然石の灯籠、浮彫地蔵などがある。鈴鹿郡88ヶ所霊場第16番。弘善寺入口を過ぎると中町となる。宿の中心部の中町には間口が大きく少し高めの派手なデザインの建物が多い。
{左}江戸屋(浅原家)
弘善寺入口石柱の斜め向かい。屋号を江戸屋と称し米屋・材木屋などを営んでいた商家。文久3年(1863)の記録には江戸屋市兵衛とある。建物は障子の下張の文字から万延年間(1860-61)以前の築とされる。街道側は1階は連子格子、2階は塗籠壁と虫籠窓。明治以降に付いたという「ばったり」と呼ばれる上げ下げ出来る店棚もあり商品を並べたり客が腰掛けるなどした。出窓格子(出格子)や幕板、柱には馬つなぎの環金具などもある。幕板は軒下にあって霧除け、風雪除けの役割をした。
{右}御馳走場跡
少し先の角の小さな広場に正面に「東海道関宿」側面に「御馳走場」と刻まれた石柱がある。大名、公卿、高僧が宿場を通行する際に宿役人や宿の亭主が行列を送迎する場所で享保19年(1734)に造られた。関宿には他にも東西の宿入口の見附土居内側に御馳走場があった。大名行列は御馳走場で毛槍振り立てて行列を整え本陣まで進んだ。奥には高札風説明板、平成元年に「歴史をいかした街並み30選」に選ばれた手づくり郷土賞の受賞碑がある。
{左}開雲楼(現:ウジイ製紐(株)・雲林院(うじい)家)&松鶴楼(現:遊快亭魚青物店・坂口家)
御馳走場の向かいに2軒並んである。ともに関宿を代表する元:芸妓置屋の建物。文久3年(1863)のの記録には蛭子屋五兵衛、田村屋治郎兵衛とある。開雲楼(関町中町540)は表の竪繁格子や紅殻(べんがら)塗りの鴨居や柱、2階の手摺や格子窓のデザインなどにその面影が残る。松鶴楼(関町中町538)は現在は食料品店となっており所有する坂口家には秀吉が文禄3年(1594)実施した検地の小崎村検地帳が所蔵されている。関宿は一大歓楽地で旅籠42軒のほか芸妓置屋2軒、酒食店が99軒あった。飯盛女は100人以上いたとされ「関は千軒 女郎屋は沽券 女郎屋なくては 関たたん」と古謡で謡われた。
{右・寄}大井家
向かいの角を右折し御馳走場の敷地を過ぎた右。江戸時代は天保元年(1830)没の初代から4代目まで代々玄庵と名乗り医者だった。明治から西洋医学を学び種痘などを行い5代目の頃に博愛堂医院、6代目の頃に大井医院となって眼科、内科、産科など地域医療を行い昭和50年頃まで続いた。「本草綱目」などの医学書や江戸末期の往診用の駕籠、医療機器の1部が現存する。
{右・寄}木崎町の山車倉
そのまま大井家の前を過ぎ進むと右にある赤い建物。関神社の祭礼で使用される山車が格納されている。最盛期には氏子各町で計16基の山車があり現在は木崎町、大裏(北裏)町、中町三番町中町四番町の4基が現存し全て平成3年市指定文化財。祭は同年指定無形文化財にもなっている。木崎町には江戸時代は2基の山車があり各町の山車を神社に曳き込む際の先達を交互につとめていたが明治期に1つになった。現在の山車は大正2年(1913)頃に水口町から購入したものと伝わり現存4基中最大で囃手が座る囃場の上に天場が乗る2層露天式構造。周囲を飾る紅提灯は神社の神紋「五七の桐」の図柄で見送り幕は「風景」と「蝦蟇仙人」の2種類があり「蝦蟇仙人」の方を用いると雨が降るとされる。
{右・寄}中町四番町の山車倉
向かいの青い建物。山車は普段は関まちなみ資料館に展示されている。下場、内柱、欄間彫刻は白木造、外柱、高欄は黒漆塗で彫刻が多く金色も使われた豪華な造りで下場を除き組立式で分解が可能。周囲の紅提灯は四番町の「四」を図案化し見送り幕は平成7年新調で綴織の「波と弁財天」。関神社の祭礼は元禄年間(1688-1703)から伝わり毎年7月下旬の土日に行われる。「関の曳山」と呼ばれる山車の曳き回しが行われ祭囃子を奏でながら山車を狭い路地の家々の軒先ぎりぎりに曳き回すため「精一杯」という意味の「関の山」という言葉の語源になった。中町は街道沿いに京側から一番町〜六番町、街道を北に入った大裏(北裏)、南に入った南裏から構成され江戸時代は各1基ずつの山車があった。
{右・寄}関神社 関町木崎675
山車倉を過ぎさらに進んだ正面。鎌倉時代に関実忠が紀伊から熊野本宮大社を勧請したのが起こりで江戸時代は熊野三所権現、明治時代は熊野皇大神社と呼ばれ明治42年(1909)に笛吹大神社、大井神社、片山神社、白石神社などを合祀し関神社となった。主祭神は天照大御神で伊邪那美命、大山祇神、火之迦具土命、菅原道真、応神天皇など32柱を配祀。入口の明治37年(1904)日露戦役記念の鳥居前の灯籠は平成12年と万延元年(1860)。鳥居くぐって石段を上ると右に文政元年(1818)自然石の灯籠、左に元文4年(1739)熊野三所権現の石柱。昭和12年(1937)狛犬を過ぎさらに石段を上ると寛文8年(1668)鳥居。社殿前に平成19年の狛犬や灯籠。境内の梛(なぎ)の木は熊野に縁があるとされる。
{右}百五銀行関支店 関町木崎588
松鶴楼から東海道を少し進むとある。古い建物ではないが町並に配慮した古風なデザインの建物で1階は連子格子、2階は白壁に虫籠窓があり「百五銀行」看板も筆書風になっている。建物は県が主催する平成9年度さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞した。百五銀行は明治11年(1878)に第百五国立銀行として創業した三重県中心の地方銀行。銀行の手前向かいにはすや酒店(関町中町526)、銀行向かいには嶋屋たばこ店がある。ともに江戸時代から続いており文久3年(1863)の記録には酢屋重兵衛、嶋屋清次とある。
{左}山石(岩間家) 関町中町521
斜め向かい。モーニングセット、ランチ、各種定食、丼物、うどん、会席メニュー、子供向けなど幅広いメニューがある和洋レストラン。昭和61年に修理された建物は江戸末期の築で明治〜大正にかけては料亭だった建物を買取ったもので1階屋根上の両端には龍と唐獅子の漆喰彫刻がある。8時-21時、第3火休。漆喰彫刻は子孫繁栄、家運長久、厄除けなどを願ったもので他にも関町には長徳寺の先の民家に鯉の滝昇り、亀、鶴の漆喰彫刻が現存する。同じ目的で細工瓦を施された建物もあり斜め向かいのギャラリー&カフェ而今禾(関町中町596)の屋根には虎の細工瓦がある。
{右・寄}清浄山 延命寺 [浄土真宗本願寺派] 関町木崎620
すぐ先の十字路を右折すると正面。元は真言宗だったが嘉禎元年(1235)親鸞聖人が通った際に当時の住職が帰依し次の代になって改宗した。境内右に「親鸞聖人御舊跡」石塔がある。山門は江戸中期築とされる川北本陣の門を明治5年(1872)に移築したもので平成6年市指定文化財。昭和56年に屋根修理、平成11年に解体修理された。境内は他には本堂、庫裏のみ。入口十字路を左折するとJR関駅に通じ十字路には左に「東江戸」と「西京都」が矢印で表示された石碑、右に関町関宿の地図付説明碑もある。
{右・寄}河上山 瑞光寺 [曹洞宗] 関町木崎799
十字路から少し進み次の角を右折すると正面。応安4年/建徳2年(1371)宗真が開基。元は小野川上流にあったが元亀年間(1570-73)に兵火で焼失し関盛信がこの地に再興した。本尊は釈迦如来。神戸村の末寺・永明寺も同時期に焼失したが行基作とされる本尊・観世音菩薩は救出され再興した瑞光寺に安置された。天正8年(1580)家康と幼なじみの豊屋永隆が中興開山し家康も天正10年(1582)本能寺の変後に岡崎に帰る際や天正14年の上洛の際に立寄った。上洛時には庭の柿を食べ喜んだと言い後に「権現柿」と呼ばれたとされ昭和53年市史跡に指定。本堂右前には柿の木がある。境内右に鐘楼。その前や境内左に五輪塔などの石塔石碑群。境内左の堂左前に鬼瓦。鈴鹿郡88ヶ所霊場第17番。
{右}桶重(おけじゅう)(服部家) 関町中町474-1
寺入口から1軒挟んだ隣。服部家が明治15年(1882)に創業した桶屋で現在も木曽サワラや杉、槙などを使い鮨桶や花桶、風呂桶、樽などを手作りしている。建物は幕末の頃の築で元々職人用の建物ではなく前面の摺上戸、見世の間、中の間境の千本障子など典型的な町家の造りとなっている。1階屋根の端瓦は細工瓦で「器」の字をデザインしたもの。昭和63年に建替修理が行われた。重要伝統的建造物群保存法により同じ外観を保つ建替であれば国から補助金が出るため関町では年数軒の建替が行われている。隣にはむくり屋根が特徴の民家、斜め向かいには鶴屋と同じく縁取りされた虫籠窓がある民家がある。
{左}関まちなみ資料館(旧:別所家) 関町中町482
少し先。昭和60年に別所家より関町が買取り3年ががりで整備し昭和63年に資料館として開館した。文久3年(1863)の記録には別所屋勝次郎とある。現存建物と同じ間取も記載されており文政8年(1825)の「真弓火事類焼図」には類焼したとあることからその間の築とされる。関宿の一般建物と異なり庇を腕木で出さず2階を3尺(3cm)後退させているのが特徴で連子格子も他は明治以降の設置が殆どだが築当初からあった。中は1階には道具類が展示され受付裏の部屋奥の箱階段から2階に上がると本陣に関する展示、百六里亭(旧:橋爪家)発掘展示などがある。敷地奥の土蔵では関宿や鈴鹿峠の地形の模型、町並保存事業前後の比較写真を展示。玉屋歴史資料館と共通300円、9:00-16:30、月休。
{右}鶴屋脇本陣(現:波多野家)
斜め向かい。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた関宿を代表する旅籠で西尾吉兵衛が営み江戸後期には脇本陣をつとめた。建物は2階の千鳥破風と黒く縁取りされた虫籠窓が特徴。明治に入ってから一時は郵便取扱所となっていた。文久3年(1863)の記録では関宿には鶴屋脇本陣の他に萩野庄兵衛(市右衛門)の萩屋脇本陣福蔵寺入口手前に原太兵衛の蔦屋脇本陣があった。
{右}問屋場跡&中町三番町山車倉
鶴屋の砂利道を挟んだ隣。平成17年建立の「東海道関宿 問屋場跡」石柱とその後ろに山車倉がある。山車倉は1部がガラス張になっており中が見れる。山車は嘉永年間(1848-53)に改修されたもので「昇龍・降龍」図柄の見送り幕も同じ頃の作と伝わる。最上層の天障子は電線が邪魔になったため撤去されていたが平成14年の大修理で復元された。白木造で天場高蘭下には龍の彫刻があり周囲の紅提灯は三番町の「三」の字を図案化している。
{左}岩木屋(吉澤家)
向かいにある。文久3年(1863)の記録には岩木屋利兵衛とある。明治から大正にかけ酒造業を営み銘柄は「岩泉」と言った。他に味噌、醤油醸造も昭和27年(1952)までしており昭和28年からは醸造をやめて味噌、醤油の小売となり昭和45年廃業。建物は明治17年(1884)築で昭和63年に修理された。1階には連子格子があり2階は塗籠で格子窓、屋根はむくり屋根になっている。
{右}川北本陣跡
斜め向かい。問屋場の隣。普通の民家となっており 敷地端のブロック塀前に昭和49年建立の「川北本陣跡」石柱がある。代々久左衛門を名乗り寛永年間(1624-43)から明治までつとめ問屋役も兼務していた。元禄11年(1698)と13年には浅野内匠頭も泊まった。江戸後期の規模は間口19間半(35m)奥行50間半(91m)総建坪395坪(1300平方m)。現在建物は残っていないが門は延命寺に移築されている。関宿の本陣は川北、伊藤本陣の他に江戸前期には中町ニ番町に滝本陣もあった。広重は保永堂版や狂歌入東海道の関宿の絵として本陣を題材に描いている。隣には土産、喫茶店が入居する町並文化センター(関町中町463-3)がありその前には木目調の自動販売機がある。
{左}百六里庭・眺関亭 関町中町372
町並文化センター向かい。平成9年に住民参加型のワークショップを通じて設計された小公園で翌年に完成し江戸から関宿まで百六里あることから命名された。文久3年(1863)の記録には橋爪屋十兵衛とあり安政6年(1859)築の建物は平成3年に取壊された。公園造成前に発掘調査が行われ陶器などの出土品は関まちなみ資料館に展示されている。公園内には四阿、ベンチ、遊具、発掘された建物礎石、昔と同位置に復元された井戸がある。街道に面して1階に玄関、連子格子、ばったり、庇下に幕板、2階に虫籠窓を備えた町家風の建物があり階段を上がると展望台・眺関亭となっており町並が一望できる。無料、8-17時、無休。前には地図付観光名所案内、平成17年建立「東海道 関宿」石柱もある。
{左}伊藤本陣跡(現:松井電気) 関町中町376-1
3軒先。敷地端の建物前に昭和49年建立の「伊藤本陣阯」石柱がある。代々平兵衛を名乗り江戸初期から明治までつとめた。江戸後期の規模は間口11間1尺8寸(20m)総建坪269坪(880平方m)。現在電気店の店舗になっている建物は本陣主屋の1部で大名宿泊時は道具搬入場にもなったミセ部分とされこの西側に唐破風造の檜皮葺の表門があり奥へ続いていた。松井電気は大正時代の創業で電気工事や家電製品の販売、修理などを行っている。
{右}橋爪屋(橋爪家)
斜め向かいにある妻入むくり屋根の建物。元は平入だったが明治時代に改装された。橋爪家は関西で修行した初代・貞利(休意)が寛文年間(1661-72)から両替商を営み代々市郎兵衛を名乗った。「大阪の豪商・鴻池家と並ぶ豪商」と称されるほどになり真宗高田派本山専修寺の現存する山門は元禄6年(1693)に橋爪家が寄進した金を元に建てられたと言う。元禄7年には江戸にも店を持ち元禄13年地蔵院本堂建立時にも資金を用立てたり江戸に出開帳して資金集めすることを勧めるなど協力している。亀山藩には江戸時代を通じて金を貸し財政難を支えた。文久3年(1863)の記録には橋爪屋一郎兵衛とあり江戸末期には芸妓の置屋でも成功し明治から大正にかけては味噌、醤油の販売を行っていた。
{右}辰己屋(現:旅人宿石垣屋) 関町中町445 
隣にある2棟。享和2年(1803)生まれの初代石垣杢平が朝明郡保々村(現:四日市市)より来て関宿に住み2代目杢平が幕末から肥料商を始め後に米穀の販売等を手掛けるようになった。3代目杢米には子がなく大正8年(1919)保明と志津を夫婦養子として4代目を継がせ2人は戦前に名古屋の医学生・石原敏夫を長女・さだ子の婿養子とした。敏夫は戦後に自宅の1部を改装し医院を開業し昭和末期まで続き、さだ子は歌人として多くの歌を残した。建物は明治24年(1891)築とされ平成19年から関宿遊学舎・石垣美術館として期間限定で美術展を開催していたが平成21年から左側の建物は素泊専門の宿・石垣屋となっている。敷地には中庭や茶室もあり肥料商時代の看板なども残されている。
{右}旅籠玉屋歴史資料館(旧:村山家) 関町中町444
その隣。平成5年に村山家より町が買取り3年がかりで整備し平成9年に資料館として開館した。関宿を代表する旅籠で昭和初期から30年代までは洋品店だった。街道に面した主屋は慶応元年(1865)築の木造2階建で2階の塗籠壁が高く屋号に因む如意宝珠をかたどった中央の虫籠窓が特徴的。中は土間左の板の間と座敷、2階が一般客の客室で土間右の2室とその2階が家族や奉公人の住居だった。庶民の宿と旅籠建築をテーマとした展示をしており1入口には人形の番頭さんが座り2階には布団も敷かれ食器も並べられるなど旅籠風景を再現している。玉屋に伝わる食器、道具類や旅に関係する資料展示、映像コーナーもある。関まちなみ資料館と共通300円、9:00-16:30、月休。
{右}玉屋 土蔵
玉屋の主屋の奥には武士が泊まったとされる離れ6室がありその先の中庭を抜けると左に納屋(非公開)、正面に土蔵がある。主屋、離れ、納屋、土蔵の4棟は平成6年市文化財にも指定されている。土蔵は元文4年(1739)築で1階は浮世絵、掛軸等の美術品、2階は玉屋関連資料の展示をしている。企画展などに使用している離れには12代主人作の欄間彫刻がある上等座敷もある。玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた旅籠で創業年は不明だが寛政12年(1800)宿場絵図には代々名乗った理右衛門の名が記されている。文久3年(1863)の記録には玉屋利右衛門とある。広重は行書版東海道の関宿の絵として旅籠を題材に描いており構図は玉屋の間取に似ている。
{右}佐野屋(萩野脇本陣跡) 関町中町504-1
向かい。江戸時代は萩野庄兵衛(市右衛門)の萩屋脇本陣だった。天明3年(1783)ここから出火し付近を類焼する火事が起こっている。江戸後期築とされる脇本陣の門は福蔵寺に裏門として移築され現存している。現在の佐野屋は新聞店で「新聞販賣所」や取扱新聞名の筆書風木製看板も掲げられている。建物は昭和62年に修理されており建物前にはばったり、庇上には恵比須と大黒の顔をデザインした扇型の瓦細工がある。
{左}関の戸本舗 深川屋(服部家) 関町中町387
隣。玉屋斜め向かい。和菓子老舗で初代・服部保重が考案した餅菓子「関の戸」(15個入850円)が有名。赤小豆の漉餅を白い求肥皮で包みその上に阿波産の和三盆をまぶしてあり鈴鹿の山々の白雪になぞらえたとされる。創業年は不明だが寛永19年(1642)初代から2代目への財産譲帳が現存する。文久3年(1863)の記録には深川屋吉右衛門とある。天保2年(1831)朝廷への献上品の中では最上級とされる従二位陸奥大掾(むつだいじょう)の名を賜わった。献上する際に使用した総螺鈿の荷担箱や専属の担ぎ人が使用した前垂れも現存する。建物は萩野脇本陣火災で類焼後の天明4年(1784)築で平成4年に修理された。瓦屋根付の庵看板は江戸側が「関の戸」京側が「関能戸」とある。9時-18時、木休。
{右}関郵便局 関町中町428-6
斜め向かい。玉屋隣。白壁の町屋風に建築された建物。天正20年(1592)ここにあった間口11間(20m)の建物に家康が休息したため御茶屋御殿と呼ばれるようになり江戸初期には仮本陣や代官陣屋が置かれた。後に亀山藩の番所となり明治以降に関警察署、関町役場を経て郵便局となった。文久3年(1863)の記録には「水溜」となっている。前の道沿いには郵政資料館所蔵の日本初の郵便ポストを金属製で模したものが現役ポストとして置かれている。明治4年(1871)郵便創業時に東京12箇所、京都5箇所、大阪8箇所のほか東海道の各宿駅に設置された日本初のポストは江戸時代の目安箱に似た角型の木製で「書状集箱」と呼ばれていた。ポスト横には説明立札、その下には関町道路元標もある。
{右}高札場
郵便局の左前に平成16年に復元された高札場と説明板がある。高札場は江戸時代はこの地にあった建物のほぼ中央前の街道に面して枡形状の土塀に囲まれてあり明治10年(1877)には完全に撤去された。規模は寛政年間(1789-1800)「御分間絵図御用 宿方明細書上帳 関宿」に高さ2間4尺2寸(4.9m)長さ3間2尺5寸(6.21m)幅1間2尺(2.42m)とあり天保14年(1843)東海道宿村大概帳には関宿の高札場には8枚の高札が掲げられていたとあり復元に際してもこれらを元にして行われた。
{左}伊勢茶 かねき(伊藤彦市商店) 関町中町390
高札向かい。深川屋の駐車場を挟んだ隣。慶応元年(1865)三重県産の茶(伊勢茶)の卸売問屋として創業。現在も加工、ブレンド、焙煎等を主屋裏の「ほいろ場」(製茶作業場)で行い販売している。三重県は茶葉の栽培面積、生産量、生産額が静岡、鹿児島に次ぐ全国3位で「かぶせ茶」の生産量は1位。アイスクリーム用などの加工用原料茶のシェアも全国1位となっている。関周辺では幕末に村上政右衛門や伊藤本陣の伊藤平兵衛が大々的に茶栽培を始めて以降広がっていった。建物は創業頃の築とされ1階は白壁、2階は黒壁。1階右は茶農家が持ち込む茶をその場で計量したカウンターの名残で現在は古い製茶道具などをディスプレイ展示している。8時-19時、日祝休。