東海道ルートガイド
鈴鹿峠

{右・寄}国道の側道・荒井谷(元坂下)一里塚跡(108)
国道1号に合流し右側の側道を行く。すぐ右には階段などが整備された山道の東海自然歩道が分岐し平行している。この付近の本来の東海道は国道敷設で削られ片山神社入口までの間には一里塚もあった。旧坂下宿とともに水害の土砂崩れで流されたとも伝わり元禄3年(1690)東海道分間絵図には右塚のみ描かれ榎1と記録されている。国道沿いをしばらく進み上りになる手前の国道反対側の極楽橋を渡ると墓地があり6地蔵や安政など江戸時代の年号が刻まれた古い墓碑群がある。上りのあとは下りとなりしばらく進む。右から東海自然歩道が再び国道に合流する地点の階段上には大正4年(1915)六字名号碑と古い五輪塔がある。
{右}片山神社入口・旧坂下宿
少し先で国道の側道から右の上り坂に分岐し山道に入る。入った少し先左に昭和48年建立の片山神社の社名石柱がある。石柱を過ぎると木々に囲まれた薄暗い道となる。この付近が旧坂下宿と伝わり古町とも呼ばれた。慶安3年(1650)豪雨による水害でここにあった旧宿場は壊滅し翌年に移転復興し新しい坂下宿が造られた。しばらく行くと左下に地蔵堂がありその先で小さな琴の橋を渡る。橋は藤原俊成が「鈴鹿川 桐の古木の 丸木橋 これもや琴の 音に通うらん」と詠んだ橋とされ鈴鹿川に架かる橋の橋板から天皇家の所蔵する和琴「鈴鹿」が作られた故事が由来。橋手前を右折した奥には自然石の宝永7年(1710)六字名号碑が斜面に埋もれている。橋を渡ると上りが急になり右にカーブしていく。
{左}片山神社(鈴鹿神社) 関町坂下636
しばらく行くと突き当たりにある。古くから三子山中央の峰にあったとされる延喜式記載の古社で永仁5年(1297)に現在地に移った。祭神は倭姫命で峠の悪鬼を退治した瀬織津姫命を鈴鹿権現として配祀。他に気吹戸主神など7柱。坂上田村麻呂が改心させた女山賊を鈴鹿御前として、壬申の乱で大海人皇子を助けた老翁を鈴鹿明神として祀ったとも伝わり明治以前は鈴鹿大権現、鈴鹿御前、鈴鹿大明神とも呼ばれた。木製鳥居奥の急な石段を登ると境内だが建物は平成14年に焼失以降再建されておらず万治元年(1658)灯籠、文化12年(1815)灯籠の竿部分、敷石、奥に小祠のみある。石段途中右には神馬が置かれた古い神楽殿、境内社。鳥居くぐった石段下左には文化2年と天保7年(1836)灯籠がある。
{左・寄}孝子万吉顕彰碑
神社前の突き当たりを左折し川を渡った右にある。大正3年(1914)建立で公爵・三条基弘題字、国学院大学講師・密山高陰書。安永4年(1775)生まれの万吉はこの近くに住んでいたが4歳で父を亡くし子供ながら峠越えの旅人の荷物を運ぶなどして僅かな駄賃をもらい病弱な母を養った。孝行ぶりが評判となり大坂城から江戸への帰りに峠を通った幕臣・石川忠房は万吉の家に立寄り褒美を与えた。やがて幕府も知るところとなり天明7年(1787)12歳の時に江戸に召しだされ幕府より白銀20枚が与えられその後は1日5合の米が支給された。母の没後は文政4年(1821)46歳で信楽代官・多羅尾鞆負に仕官し万延元年(1860)85歳で没した。万吉の孝行話は万吉存命中から本になり教科書にも取り上げられた。
灯籠坂
東海道は神社前の突き当たりを右折しUターンするように山道を登っていく。すぐ左には昭和40年「鈴鹿流薙刀術発祥之地」石柱がある。宮城県知事・高橋進太郎の揮毫で鈴鹿流薙刀術は江戸時代に家元が仙台藩に仕えたため現在も仙台で伝わる。その先左に延享元年(1744)文化11年(1814)享保2年(1717)安政6年(1859)の灯籠が並ぶ。昔は多くの灯籠が一定間隔に並び坂は灯籠坂と呼ばれていた。その先で昭和初期に敷かれた石畳が僅かに残る部分もあり道は何度かカーブする。この先の峠道は急勾配を短い距離で登るためカーブが多く「八町二十七曲がり」と呼ばれた。少し先で急に視界が開け上を走る国道1号(亀山方面車線)をくぐり急な石段を登る。
{左}芭蕉句碑
石段を登りきると国道と同じ高さになり小公園がある。公園内には昭和11年「天然記念物 鈴鹿山ノ鏡肌」石柱、ベンチ前には東海自然歩道案内図があり東海道は案内図左の緩やかな石段を登る。少し先に平成2年建立の丸形の句碑がある。貞享2年(1685)の句「ほっしんの 初(はじめ)にこゆる 鈴鹿山」で旅に出ようと思い立てばまず最初に鈴鹿の山を越えることになると言う意味。西行も「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠んでおり鈴鹿峠には古くから山賊が出没し峠越えには覚悟が必要だった。水銀商人が山賊に襲われた際に飼っていた蜂の大群を呪文を唱えて呼び撃退したという話や坂上田村麻呂が立烏帽子と言う女山賊の一味を捕らえたという伝承なども伝わる。
{左}馬の水飲場
少し左には鈴鹿峠の説明板がありその先にある。峠には往来する人馬のために水溜が置かれていたと言い平成4年に復元された。正面に説明石板が嵌め込まれたコンクリート製の貯水場で水をパイプで引いてある。しばらく行くとゆるやかな石段がなくなり普通の山道となる。
鈴鹿峠
しばらく行くと道が平らになり分岐がある場所に立札などがある。手前左の立札には中央に縦書きで「鈴鹿峠」とあり右に「高畑山」左上に「三重県 片山神社」左下に「滋賀県 土山町」が矢印で示されている。分岐道を挟んだ先には東海自然歩道の方向・距離標示の木柱、平成19年設置の鈴鹿峠の説明板がある。峠は三子山と高畑山の間にあり標高378mで仁和2年(886)阿須波道として道が開通すると一帯を鈴鹿峠、鈴鹿山と呼ぶようになった。それまでは伊勢から加太峠を越えて伊賀に出て都に向かう道(後の大和街道)を通っていた。東海道はまっすぐだが左折して少し進むと杉林の中に「田村神社舊跡」石柱がある。山賊を退治した坂上田村麻呂を祀った神社で明治40年(1907)片山神社に合祀された。
{左・寄}鏡岩
「田村神社舊跡」石柱からさらに「鏡岩」標識に従い林の中を進むと崖の突端にある。岩の前には昭和61年設置の白木柱と平成21年設置説明板がある。断層によってこすられ露出面に艶が出た鏡肌(スリッケンサイド)の岩で鏡面の大きさは縦2.3m横2m。現在は明治元年(1868)の山火事のため鏡面は失われて赤茶の岩肌になっている。昭和11年(1936)県指定天然記念物。峠に住む山賊一味が旅人を襲う際に街道を通る様子をこの岩に写して見張っていたと言う伝説から「鬼の姿見」とも呼ばれた。岩に登ると切立った崖の頂上にあるため眼下に坂下方面の国道が見渡せるが注意が必要。
{左}茶屋跡の地蔵
東海道を少し進むと左にある。この付近は江戸時代には立場となっておりここには茶屋・鉄屋があった。嘉永3年(1850)頃の記録では鉄屋源太郎とあり他にも鉄屋の先に松葉屋儀右衛門、手前に伊勢屋喜兵衛、井筒屋弥兵衛、旧:田村神社を挟んで山崎屋と並んでおり旧:田村神社の向かいの街道右に本陣茶屋の堺屋五右衛門があった。茶屋ではぜんざい餅が売られ峠の名物だったと言う。山崎屋の付近には現在でも石垣が残る。
{左}県境石柱
杉林を抜けるとある。平成13年滋賀県土山町(現:甲賀市)が建立した。正面に「界」の下に「右 滋賀県 近江の国」「左 三重県 伊勢の国」と並び右面に「是より京まで 十七里」左面に「是より江戸まで 百九里」とある。ここで三重県鈴鹿市から滋賀県甲賀市となる。すぐ先左には昭和56年「東海道」石柱、2人の旅人のイラストの描かれた「歴史の道 東海道」の金属製立札「土山町山中」、東海自然歩道の方向・距離標示木柱と地図付案内板もある。県境石柱向かいの杉林と茶畑の間の小道を100mほど入った右の杉林の中には6地蔵や安政など江戸時代の年号が刻まれた古い墓石群もある。ここから先の東海道はしばらく左右に土山茶の茶畑が広がる舗装されていない車道を進む。
{右}万人講常夜燈 (鈴鹿峠路傍休憩地)
道が舗装道となると少し先にある。平成14年説明板もある。江戸中期に四国金刀比羅宮参りの講中が道中の安全を祈願して発願し山中村、坂下宿、甲賀谷の人々3千人の奉仕によって造られた。近くの高畑山天ヶ谷産の大きな自然石を使い傘の部分も一枚岩。高さ5.44m重さ38t。竿部分には「金毘羅大権現」「永代常夜燈」台座に「万人講」と彫られている。元は少し先にあったが鈴鹿トンネルの工事のために現在地に移設された。周辺は休憩所やトイレがある広場になっており東海道ネットワークの会が平成4年に植樹した若い松11本、東海自然歩道案内図もある。常夜燈から下りとなり道は左にカーブしていくが本来はまっすぐでここから先しばらくは国道1号(草津方面車線)敷設で東海道は消滅している。
国道に合流
左カーブして舗装道路を下って行くと右下に鈴鹿トンネルを抜けてくる国道1号(草津方面車線)が見え道はしばらく行くと右折し川を渡り国道に出て左折する。右折する手前に東海自然歩道の方向・距離標示木柱、「歴史の道 東海道」金属製立札「土山町山中」。国道に合流するあたりから先が本来の東海道。峠を越えるため分かれていた国道1号(亀山方面車線)も合流する。国道1号の左歩道を少し進むと左に少しふくらんでおりその先にある地下道で右歩道に渡る。この辺りの東海道は蛇行していたため随所に名残のふくらみや削られ消滅した部分がある。地下道から出て少し先の右歩道沿いに石鳥居と明治27年(1894)常夜燈。少し先で左にカーブする国道左の小高い山の斜面には「庚申」碑がある。
{左}熊野神社 甲賀市土山町山中194
しばらく進むと山中交差点左に石仏と卵型石塔が並んであり交差点過ぎた少し先に鳥居、大正13年(1924)神社名石柱、平成10年灯籠、鳥居くぐった右に明治43年(1910)「明治百年記念」石柱がある。境内は150m先で参道には平成年号の灯籠がたくさん並び途中右には寛延3年(1750)のものもある。山中城城主の山中氏が創建したと伝わる。社殿は新しく社殿左には境内社の稲荷神社、津島神社、愛宕神社もある。社殿左前に平成4年「敬神生活の綱領」碑。社殿右の小高い所に「山神」碑、「神武天皇遥拝所」石柱。社殿前灯籠は元禄2年(1689)狛犬は大正14年。他に天保9年(1838)灯籠。境内右には山中老人憩の家がある。しばらく国道を進み宮川橋を渡った少し先では右歩道が2度ほどふくらんでいる。
{左}清浄山 十楽寺 [浄土宗] 土山町山中351
左の国土交通省土山スノーステーションを過ぎた先に「山神」石祠がありしばらく行くとある。文明18年(1486)寂照が創建。元は天台宗で後に改宗した。いずれも市指定文化財の阿弥陀如来座像、十一面観音立像、摩耶夫人立像を所蔵する。入口手前左に手水石と寛文4年(1664)六字名号碑。昭和41年寺名石柱から山門までの間の右に天保3年(1832)灯籠、平成4年水子地蔵がある。境内右に昭和48年梵鐘がある鐘楼。本堂右に昭和32年忠霊之碑。国道の向かいには小公園の一本松緑地があり松と自然石の常夜燈、石ベンチがある。寺を過ぎるとすぐ左には甲賀市コミュニティバスの十楽寺バス停がある。
{左}山中城址
バス停とその先の熊谷鈑金工業(山中433)の間の草地に昭和51年石柱がある。嘉禄2年(1226)鈴鹿峠の山賊を退治した橘俊信が鎌倉幕府より山中村地頭に任じられ地名から山中氏を名乗りこの地に住んだ。橘氏は平安歌人・橘義清の子孫で峠で公卿勅使を警護する鈴鹿警固役をつとめていた。後に山中氏は橘氏の本家があった神宮領柏木御廚内(現:水口町)に移り山中城は支城となった。戦国時代には六角氏に仕え甲賀53家の1つとして付近を支配したが六角氏没落後の天正13年(1585)秀吉に従い城は廃城となった。近くに大門、堀内、同心屋敷などの地名が残る。山中氏直系は関ヶ原直前には家康側として討死したが分家が多く子孫は江戸時代は旗本として続いた。草地には小さな「山上」碑もある。
{右}山中地区公園
熊谷鈑金工業を過ぎると西出橋で山中川を渡り少し先で東海道は国道1号から右に分岐する。すぐ先の小さな小田川橋で山中川を渡ると右に小公園がある。入口右には鈴鹿馬子唄の1番「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」を刻んだ石碑がある。天候の変わりやすいこの地域を詠んだもので特に土山は雨が多かった。「あいの土山」の意味は「相の」「間の」「藍の」「鮎の」などの諸説がある。車道との分離帯には広重の人物東海道の土山宿の浮世絵が嵌め込まれた石碑、「歴史の道 東海道」金属製立札「土山町山中」がある。その先に「東海道鈴鹿 山中」石碑、自然石の常夜燈。公園の向かいは駐車スペースになっており「あいの土山案内図」や石ベンチがある。
{右}地蔵堂
公園の先で十字路を渡るとゆるやかな下りとなりしばらく進むとある。堂の中に風化した石仏が安置されており堂前には嘉永6年(1853)「地蔵大菩薩」常夜燈がある。堂隣にはブランコ、すべり台などの遊具もある。
{左}第二名神滋賀県起工の地碑
しばらく進むと新名神高速道路の高架をくぐり少し先で東海道は国道1号に出る。その手前にモニュメントがある。平成7年12月18日に当時は第二名神高速道路と仮称していた新名神高速道路の滋賀県での最初の工事(土山橋下り線の橋梁下部工工事)がここで着工したことを記念して滋賀県土山町(現:甲賀市)により建てられた。前に説明碑もあるが文字は風化しており読めない。同じ場所には「一里塚緑地」と刻まれた自然石もある。
{右}山中一里塚公園 山中一里塚(109)
向かいに「山中一里塚公園」石柱があり小公園となっている。旧:土山町内の3箇所(山中、土山大野市場)の一里塚は規模はどれも高さ2.5m円周12mだったと伝わるがいずれも現存しない。山中一里塚は本来は少し南側にあったとされ元禄3年(1690)東海道分間絵図には左右とも塚はあるが木は記録されていない。公園の入口右には昭和58年から平成2年にかけて行われた山中地区圃場整備の竣功記念碑、自然石の常夜燈、「歴史の道 東海道」金属製立札「土山町山中」がある。公園奥には文部大臣小杉隆揮毫の平成9年建立「鈴鹿馬子唄之碑」と「馬と人」をデザインした石造モニュメント(馬子唄の像)もある。公園内には屋根付ベンチもある。
{右}櫟野観音道(大原道)道標
公園内の屋根付ベンチ左に道標と平成15年設置の説明立札がある。正面に「いちゐのくわんおん道」とあり右面に刻まれた句「盡十方(つくすとも) 世にはえゆきや 大悲心」は常明寺15世の松堂慧喬(虚白)が福生山櫟野寺[天台宗](甲賀町櫟野1377)の本尊十一面観音の慈悲を詠んだもの。すぐ先の国道付近は古くは東海道が右へ、山道の櫟野(いちいの)観音道が左へ分岐する場所で道標はその分岐にあった。観音道は現在の県道129号線沿いの旧:神村(甲賀町神)や県道131号線沿いの旧:櫟野村(甲賀町櫟野)に至り大原道とも呼ばれていた。
消滅した東海道
横断歩道がないが国道を横断すると反対側には2本の道があり左が櫟野観音道の名残で右が東海道。しかしこの先の東海道は草竹コンクリート工業滋賀工場の敷地となっており道は途中で工場建物となり消滅している。本来は右にゆるやかにカーブしながら工場内を抜け再び国道と交差していた。交差した先の国道右側も現在は湖国興業(土山町猪鼻23-3)採石場の敷地となり切り崩され消滅している。山中一里塚公園からは国道を通るしかなく猪鼻交差点まで進み右折すぐの2叉路を右に進み少し先の2叉路を採石場に入らず左にカーブしすぐ先を左折するところから東海道の続きとなる。ここからは道路が土色にカラー舗装されている。
{右・寄}火頭古(ひずこ)神社 土山町猪鼻163
左折して東海道の続きに入るとろを入らずに直進し県道507号を進み少し先で山中川を昭和50年竣工の山中川橋で渡った右。近くの黒川集落にあった八王子明神を貞享年間(1684-87)に勧請したのが起こりとされ八王子明神、大宮大明神と称し明治初期に現在地の地名から火頭古神社となった。祭神は国狭槌命。本殿には稲荷神社、浅間神社も配祀。一間社流造で檜皮葺屋根の本殿は建築面積1.35平方mで小規模ながらも細かい彫刻があり江戸中期の作とされ平成18年国登録有形文化財で現在は平成17年築の覆屋の中に納められている。鳥居は大正13年(1924)鳥居前灯籠は昭和7年(1932)。手水石は大正13年。社殿前の石段下の灯籠は宝暦12年(1762)。社務所裏の山の斜面には「山神」碑。
{右}醫王山 浄福寺 [臨済宗東福寺派] 土山町猪鼻111
東海道の続きを少し行くと左に平成20年「東海道 猪鼻村」石碑があり猪鼻集落に入り少し進むと寺がある。天正年間(1573-1592)洞成禅照が創建した。本尊は薬師如来座像で伝教大師の作で近江源氏の佐々木氏の守仏と伝わる。境内右には平成8年梵鐘がある鐘楼。塀の右前に平成20年設置の寺の説明板、大正2年(1913)「甲賀四国厄除大師霊場」石柱。塀の左前には平成20年設置「猪鼻村」説明板、俳号を子葉と号した赤穂浪士・大高源吾(源五)が旅の途中で猪鼻を通った時に詠んだ「いの花や 早稲のもまるゝ 山おろし」句碑がある。句碑は平成7年に国道1号沿いに建立されたが平成21年1月の環境整備工事で現在地に移転した。この先で東海道は一時的に往時の雰囲気の道幅となる。
{左}旅籠中屋跡
少し先の民家前庭に平成4年建立「旅籠中屋跡」石柱、その奥に昭和6年(1931)建立「明治天皇聖蹟」石柱、左に昭和10年建立の前:滋賀県師範学校教論・田中乕三郎書による説明碑がある。民家の玄関先には「猪鼻村 中屋武助」の屋号札も掲示されている。明治天皇は明治元年(1868)、明治2年、明治13年ここにあった森武右衛門宅を訪れた。 少し先向かいの民家には「近江屋」屋号札がある。猪鼻は江戸時代は猪鼻村で立場があり草鞋や名物の草餅、強飯などを売る50数軒の店が並んでいた。他に農業、製茶、林業なども行われていた。
{左・寄}金比羅神社
道なりに集落の中をしばらく進むと坂を上り再び国道1号に出て右折する。手前左には平成20年建立の「東海道 猪鼻村」石碑もある。国道に出た左斜め向かいの山の中腹に神社が見える。石段を登ると木鳥居と小さな社殿、手水石のみがある。
{左・寄}蟹塚
国道をしばらく進むと東海道は本来は国道から左に分岐していたが消滅しているためそのまま国道を行く。途中から左下に見える平行する道のさらに左にあったのが東海道。しばらく進み左下から来る道と合流したら戻るようにその道に入り少し進むと「蟹塚」矢印標示があり右折して山道に入っていくと玉垣に囲まれた五輪塔、昭和57年建立「蟹塚」石碑、平成16年設置の説明立札がある。平安時代に鈴鹿峠に3mもの巨大な蟹が出て旅人を苦しませていた。それを聞いた恵心僧都が天台宗の往生要集を唱えると蟹は随喜の涙を流し甲羅が8つに砕け散り僧都は砕けた甲羅を埋めて塚を建てた。東海道名所図会では蟹を山賊として討伐された山賊を葬ったものとしている。
{右}榎島(江ノ島)神社
蟹塚に行く道と国道が合流した交差点で国道から右に分岐して坂を下りるのが東海道の続き。分岐右に付近の地図があり坂を下りると神社がある。白川神社の末社で境内奥には「白川神社御旅所」石柱もある。石柱左には井戸跡と享和元年(1801)手水石。右には祠が2つあり小さい方には風化した石仏、石、木像が安置されている。地元では大きい祠を田村社、小さい祠を蟹社と呼び坂上田村麻呂が山賊を退治した故事から田村社は坂上田村麻呂を祀り蟹社は退治された山賊を祀るとされる。祠の前の灯籠は安永8年(1779)文化7年(1810)文政8年(1825)。鳥居左には石仏2基と手前にあったのと同様の付近の地図がある。入口には椎の古木2本(樹齢400年)、境内右にはシーソーなどの遊具もある。
{右}蟹坂古戦場跡
しばらく進み高尾金属工業本社工場(土山町南土山41)建物の間の道を通って高架下をくぐり右折すると道が広くなり昭和57年石柱、平成7年説明立札がある。天文11年(1542)伊勢国から鈴鹿峠を越えて近江国に侵入した悪徒53人を山中城城主・山中秀国が召し取ったところ伊勢国司・北畠氏は木造具国が率いる1万2千を近江に進撃させた。近江守護・六角定頼は高島(高嶋)高賢が率いる援軍5千を送り蟹坂周辺で近江軍と伊勢軍が戦った。戦いは地の利を得た秀国ら近江軍が勝ち伊勢軍は参陣した桑名十兵衛、神戸丹後守、飯高三河守、仁木左馬允ら北伊勢の城主など2千3百人が討ち取られた。右には平成元年蟹坂地区圃場整備の竣功記念碑、前にはベンチもある。すぐ先の2叉路は左へ行く。