東海道ルートガイド
桑名宿

揖斐川(いびがわ)
宮宿から七里の渡しを渡ると伊勢国となり桑名宿に着く。桑名側の舟着場は揖斐川右岸に面しており岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山が水源で長さ121km流域面積1840平方km。舟着場の少し下流で長良川と合流し伊勢湾に注ぐ。揖斐川、長良川、木曽川の木曽3川は宝暦3年(1753)〜宝暦5年、明治20年(1887)〜明治44年など大規模な治水工事が行われ現在の姿なとなった。広重の桑名宿の絵は渡船が揖斐川から舟着場に入る様子を描いている。現在は舟着場跡と川の間には川口水門が設けられており平成15年の水門改築時には景観を考慮し高さを低くして周囲は石垣風に整備された。水門統合管理所も設置され上流の住吉水門、下流の三之丸水門と合わせ高潮を防ぐなど集中操作されている。
七里の渡し舟着場跡 桑名側
室町時代から栄えていた舟着場は江戸時代には桑名宿の入口で宿の中心だった。明治以降は上流の大垣との物資運搬船の発着場でもあったが鉄道開通などで次第に利用されなくなった。昭和33年県史跡に指定されたが翌年の伊勢湾台風後の防波堤建設などで旧観は大きく変化した。敷地には戦後に七ツ屋から移設した天保4年(1833)常夜燈があるが伊勢湾台風後の修復で上部は別の常夜燈を付け替えたため安政3年(1856)とある。鳥居もあり伊勢神宮の一之鳥居として天明年間(1781-89)に初めて建てられて以降、神宮遷宮ごとに建替えられている。他に数本の松、周辺地図付説明板、敷地外の道路脇には「桑名保勝會」と刻まれた「旧蹟 七里のわたし」石柱、矢印付の「東海道」石柱もある。
桑名宿   本陣2脇本陣4旅籠120家数2544人口8848[天保14年(1843)]
天照大神の子孫とされる豪族、桑名首(くわなのおびと)が開いたと伝わる土地で平安時代以降は桑名宗社を中心とした港町として発達し江戸時代には水陸の要衝、物資流通の中継地としてさらに発展した。桑名藩11万石の城下町で東海道では宮宿に次ぐ2番目に大きな宿場だったが元禄14年(1701)享保4年(1719)の大火、明治維新の桑名城破壊、昭和20年の空襲、昭和34年の伊勢湾台風で宿場の景観も失われた。「その手は桑名の焼蛤」とも言われた焼蛤が名物で膝栗毛にも登場している。現在、桑名宿の東海道はベージュのカラー舗装になっており矢印付の「東海道」石柱も所々に設置されている。
{右・寄}脇本陣「駿河屋」跡(現:料理旅館 山月) 桑名市船馬町32
舟着場跡の西隣。桑名宿の脇本陣4軒のうち最も格式の高い脇本陣とされた。敷地の一部は現在は明治38年(1905)創業の料理旅館山月となっている。戦争時に爆風で庭に飛んできたと言う桑名城の堀石を利用した昭和63年建立の小さな石碑が門前右にあり百五銀行頭取などをつとめた実業家・川喜田半泥子(政令)の揮毫で「勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」と刻まれている。有名な俗謡の一節で「銅の鳥居」は春日神社鳥居のこと。「二朱」は二朱判銀(一両の8分の1=800文)のことで江戸には一分(ニ朱の倍)の高級遊女もいたが二朱女郎と一朱女郎が主流の地方では二朱女郎は高価な方だった。駿河屋と舟着場の間の川沿いには舟番所や高札場もあった。
{右・寄}大塚本陣跡(現:料亭 船津屋) 船馬町30
山月の西隣で両軒の間に脇本陣「駿河屋」跡と一緒に説明された説明プレート石柱がある。桑名宿第一の本陣で裏庭から直接船に乗ることが出来たと言い明治元年(1868)には明治天皇の宿泊所ともなった。本陣廃止後は建物は売却され一部は法従寺(四日市市川北2-14-7)に移築された。跡地には明治8年(1875)船津屋が創業し現在も完全予約制の高級料亭として続いている。建物増築中の明治19年大工小屋からの出火で付近一帯が焼失、空襲でも建物を焼失し戦後に再建された。明治42年(1909)に講演の為、桑名に来て船津屋に泊まった泉鏡花はこの旅館をモデルにして小説「歌行燈」を書き翌年発表した。小説では「湊屋」となっている。蛤会席(昼13000円〜,夜18000円〜)奉仕料、税別。
{右・寄}歌行燈句碑
船津屋入口左の塀に昭和31年建立の句碑と平成18年設置の説明板がある。劇作家・俳人の久保田万太郎は昭和14年(1939)船津屋に泊まり東宝映画(現:東宝)の依頼で泉鏡花の小説「歌行燈」を元に戯曲「歌行燈」を3ヶ月ほどで書き上げ船津屋主人の求めに応じて句を詠んだ。「歌行燈」の中で裏の川から這い上がってきたかわうそが灯を消すなどの悪さをするという話を元に詠んだもので線彫りが浅くほとんど読めないが万太郎の自筆で「かわをそに 火をぬすまれて あけやすき」とある。揖斐川上流の自然石を使用した句碑は名古屋出身の洋画家・杉本健吉のデザイン。戯曲「歌行燈」は昭和15年に明治座で初上演され昭和18年には成瀬巳喜男監督、花柳章太郎、山田五十鈴主演で映画化もされた。
{左}蟠龍櫓(水門統合管理所)
舟着場跡の川下側にある2層入母屋造の白壁の建物で入口に説明板がある。広重の桑名宿の絵にも描かれている蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)を推定復元し平成15年に建てられた。桑名城の隅櫓の1つである蟠龍櫓は幅6間(11m)奥行4間(7.3m)と大きな方で屋根上には蟠龍をかたどった瓦があり元禄14年(1701)天守閣焼失以降は51あった櫓の中でも代表的な建物だった。蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍(臥龍)のことで文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」に「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。」とある。建物の2階は展望室兼資料室となっており蟠龍瓦のレプリカ、桑名城の城下地図、浮世絵、歴史等も展示されている。9:30-15:00、月休、無料。
{左}舟会所跡・問屋場跡
舟着場跡から南に向って伸びる道が東海道で少し先の月極駐車場の金網柵前に2つが一緒に説明された説明プレート石柱があるが2つとも実際の明確な位置は不明。舟会所は渡し舟の手続きをし料金を払ったところ。少し先に進むと右から道が交差する路上中央部には平成2年に発見された通り井跡を示す「井」印の石がある。その先左の後藤商店(川口町33)、うどん屋川市(川口町32)、旅館初音(川口町30)が並ぶ付近は標示はないが桑名第ニの本陣である丹羽本陣があった場所で江戸末期の建物は204坪(670平方m)門構玄関付だった。
{左・寄}北大手橋
その先で左折するとある。 江戸時代は橋を渡ったところに北大手門があり南大手門とともに桑名城の出入口の1つだった。橋は新しくなっているが位置は当時のままで橋を渡ったところは現在も道が枡形になっている。橋の欄干には左に広重の隷書東海道、竪絵東海道、保永堂版東海道、右に広重の狂歌入東海道、月岡芳年の末廣五十三次、伊勢名所図会の桑名渡口といった桑名宿を描いた絵のタイルが並ぶ。
{左}通り井跡
少し進むと説明プレート石柱がある。石柱前の路上には「井」の字を刻んだ小さな石がはめ込まれている。桑名は揖斐川や地下水にも海水が混じり生活用水に利用できないため寛永3年(1626)道の下に埋めた筒に西の町屋川から引いた水が通された。道の中央に井戸のように正方形の木升で水を汲む場所を作り利用したため「通り井」と呼ばれ木升は大名行列の際には通行に支障をきたすため外され蓋が置かれたと言う。元禄年間(1688-1703)には宿内に15ヵ所あったとされいくつかは明治に入っても使われていた。昭和37年(1962)にこの場所での工事中に木升跡が発見され位置を示すため「井」石がはめ込まれた。平成2年には舟会所跡の近くでも工事中に発見され同じく「井」石がはめ込まれている。
{右}歌行燈 本店 江戸町10
すぐ先向かい。元は初代横井周二郎が明治10年(1877)「志満や」として創業したうどん店。泉鏡花の小説「歌行燈」は船津屋がモデルの「湊屋」の他に「饂飩屋」も舞台にして話が展開していくが「饂飩屋」のモデルがこの店と言われている。釜揚げうどん、天ぷら、時雨茶漬けをセットにしたメニューは明治43年(1910)小説「歌行燈」の刊行後に当時の主人が考案したメニューで名物料理「歌行燈」として受け継がれている。蛤御膳1869円焼蛤御膳2415円焼蛤単品1050円など蛤料理もある。11時-21時無休。三重県を中心に関東、海外にもうどんそば料理のチェーン店を展開しており「やじろべえ」「おちょぼ餃子」「鳥かぐら庵」「豆富料理のグルメダイニングゆう悠」などの形態の異なる飲食店も展開している。
{左}柿安 本店 江戸町36
その先の交差点の手前にある料亭。松阪牛や自社で飼育した柿安牛を使ったすき焼、しゃぶしゃぶ、山海の珍味を盛り込んだ日本料理が中心。津市の出身で柿などの果樹園を経営していた赤塚安次郎が明治4年(1871)現在の相川町に創業した牛鍋屋が起こりで2代目の金太郎が牧場経営、3代目の二三雄が料亭経営を始めた。松阪肉贅沢コース15000円など。11:30-21:00無休。昭和43年に法人化し現在はビュッフェレストラン、中華料理店、ハンバーグ店などを全国展開し平成18年からは海外進出もしている。飲食店経営の他に惣菜、精肉、しぐれ煮、和菓子、カレー、麺類などの製造販売もしており交差点を左折し多聞橋、舟入橋を渡り桑名城跡の敷地に入った右には本社ビル(吉之丸8)もある。
{左・寄}本多忠勝像(桑名城三之丸跡)
柿安本社ビル向かいの駐車場前にある。平成2年建立で立坂神社が所蔵する昭和41年市指定文化財の紙本淡彩本多忠勝画像を元に中川梵鐘が製作した。忠勝は慶長6年(1601)初代桑名藩主となると城の整備のほか城下町にも「慶長の町割」と呼ばれる大整備をした。付近は桑名城三之丸跡で駐車場奥の吉之丸コミュニティパーク(吉之丸7)は平成元年に造られた芝生広場で同年建立の伊勢湾台風30年碑、高潮堤防緊急嵩上事業竣工之碑もある。三之丸には藩主の居住する御殿もあったが明治初期に取壊され対面所と伝わる建物は浄泉坊の書院として移築された。三之丸跡には明治29年(1896)桑名紡績工場も建てられ明治40年三重紡績、大正3年(1914)東洋紡績となったが空襲で破壊された。
{左・寄}九華公園(桑名城本丸・二之丸跡)
忠勝像の向かいに公園の北入口(北門)がある。昭和3年(1928)本丸、二之丸跡の7.20haを整備し九華(きゅうか)公園となり桜、つつじ、花菖蒲の名所となっている。桑名城は鎌倉初期に桑名三郎行綱が築城したのが起こりとされ永正10年(1513)伊藤武左衛門が東城を築き信長に降伏後は滝川一益が支配し秀吉の時代には神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗など多くの武将が支配した。江戸初期に本多忠勝が建てた4層6重の天守閣は元禄14年(1701)焼失し以後再建なされなかった。揖斐川に沿って扇型に築城されており別名「扇城」とも呼ばれていた。「九華」は江戸時代から「くわな」とも読まれており中国には九華扇という扇もあることから扇城にかけて名付けられた。
{左・寄}鎮国守国神社(ちんこくしゅこくじんじゃ) 吉之丸9
公園内の本丸跡左にある。天明4年(1784)陸奥白河藩主松平定信が白河城(現:福島県白河市)内に久松松平家先祖の定綱(鎮国公)を祀ったのが起こり。文政6年(1823)定信の子・定永が藩主の時に桑名に転封となり神社も桑名城本丸に移され定信(守国公、楽翁公)も祀られるようになった。明治維新後に本丸の外に移されたが明治40年(1907)現在地に移転。参道左に昭和49年楽翁公歌碑、右に昭和60年神牛像。社殿左には境内社の九華招魂社、高神社、鎮国稲荷神社。社殿右奥の小山の上が天守閣跡で規模を縮小して再現された石垣の上に明治20年建立の戊辰殉難招魂碑がある。境内左に昭和9年(1934)築の宝物館があり「集古十種版木」「三宝類聚名義抄(蓮成院本)」など多くの文化財を所蔵。
{左・寄}辰巳櫓跡
本丸跡右の堀沿い奥の小高いところ。本丸東南(辰巳)角にあった3重櫓で天守閣焼失後はその代わりでもあり慶応4年(1868)降伏の印とし焼き払われた。幕末の藩主松平定敬は実兄の会津藩主松平容保と共に幕府側の主要人物であったため維新後、城は徹底して破壊された。現在は大砲、ベンチが置かれている。手前の本丸西南の小高いところは神戸櫓跡で文禄年間(1592-96)城主・一柳直盛が移した伊勢神戸城(現:鈴鹿市)天守閣が残され江戸時代に櫓となったもの。現在はベンチがあるのみ。他に本丸跡には昭和51年建立桑名出身の水谷一楓歌碑、昭和17年「三重県指定史蹟桑名城跡」碑、明治23年(1890)森陳明忠魂碑「精忠苦節碑」。本丸跡奥は朝日丸跡で野球場(九華公園グランド)がある。
{右}春日神社鳥居
柿安本店前の横断歩道のない交差点を渡り少し行くとある。慶長7年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって奉納された木造の鳥居が大風により倒壊したため寛文7年(1667)藩主松平定重によって再建された。青銅製で町内の鋳物師の辻内善右衛門種次が造り慶長金で250両かかったと言う。高さ6.9m柱周57.5cm。「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」と謡われた鳥居でその威容を誇っていたが幾度も災害で破損。その度に現在の辻内鋳物鉄工(西別所40)である辻内家が修復してきた。昭和34年(1959)伊勢湾台風でも高潮により打上げられた荷物船が衝突し倒壊した。翌年修復されたが衝突傷は鳥居の柱部分に今も残りその説明文も柱に刻まれている。昭和40年指定県文化財。
{右}しるべ石
鳥居の左にある。明治18年(1885)建立で正面に「志類べ以志」と刻まれ左面に「たづぬるかた」右面に「おしゆるかた」と刻まれており倒壊を防ぐため鉄枠で補強されている。しるべ石は「迷い児石」とも呼ばれ人の集まる場所に建てて迷子や行方不明の人を捜すための掲示板の代わりをした。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼ると心当たりのある人が「おしゆるかた」面へその旨を記した紙を貼った。上部の凹んだ部分が紙を貼るスペース。古くは人の集まる所には多く設置されていたが現在も残っているものは少ない。
{右・寄}春日神社(桑名宗社) 本町46
鳥居をくぐり参道を行くと平成6年建立の山門(楼門)がありその奥が境内。天津彦根命、天久々斯比命を祭神とする桑名神社(三崎大明神)と天日別命を祭神とする中臣神社(春日大明神)を併せて桑名宗社と呼んだのが起こりで永仁4年(1296)奈良の春日大社から勧請した春日四柱神を中臣神社に合祀してから春日神社と呼ぶようになった。各建物は空襲で全て焼失後の再建。参道には文化3年(1806)、文化11年、大正3年(1914)、明治41年(1908)などの灯籠が並ぶ。狛犬は天保3年(1832)。社殿右に御分神社、東照宮、稲荷神社。山門左に説明プレート石柱、少し離れたところに広重の桑名宿の絵もある。山門前を右折した右には名物とらや饅頭を売る宝永元年(1704)創業のとらや老舗(本町54)がある。
{右・寄}春日神社 御膳水井
社殿前左にある。江戸中期より神供用として用いられていた井戸で明治元年(1868)9月25日明治天皇が桑名に滞在した際には水質の良いこの井戸水が御膳水として使われた。後に一般開放されたが昭和20年戦災で埋没し後に復元された。昭和47年指定市文化財。境内左には昭和40年建立山口誓子句碑「山車統べて 鎧皇后 立ち給ふ」、平成10年建立二川のぼる句碑「山車の燈に 夜は紅顔の 皇后よ」がある。境内左奥には境内社の母山神社があり参道右にはさざれ石がある。岐阜県の天然記念物にも指定されている伊吹山麓特産の石灰質角礫岩で国歌に歌われている石として昭和36年に小林宗一が発見し全国の神社などに奉納されておりここにある石も子孫により平成2年寄進されたもの。
{左}桑名城城壁
少し先で左の建物がなくなると堀(三之丸堀)が現われ説明板がある。説明板の左には四阿もあり堀の向こう側には城壁(石垣)が見える。揖斐川に面する川口水門から南大手橋までの約500mに城壁が現存し昭和40年市指定史跡となっている。石は自然石をそのまま積んだ野面はぎ、平面部の角だけ叩き加工して積んだ打込はぎの2方法によって積まれており刻印を刻んだ積石も多くある。明治維新で桑名城が取壊された後、ここ以外の石垣の多くは廻船問屋・稲葉三右衛門による明治6年(1873)から11年に及ぶ四日市港の大規模な改修工事の資材となった。
{左}歴史を語る公園
すぐ隣に日本橋を模した小さな橋があり堀に沿って東海道との間にある小公園。江戸時代は堀に面したこの付近は食料品や日用品などを荷揚げする船着場だった。東海道を挟んで右側には米問屋、青果商、油商などが軒を並べ堀に面して家並が片側にしかないため片町と呼び昭和30年代頃までは青果市場もあった。公園内は日本橋から三条大橋まで東海道五十三次を表わした遊歩道になっており日本橋の次は「沼津 原」の石柱と富士山を模した石造物。その先には城壁についての平成13年設置の説明板、四阿、公園の説明板もある。続いて「宮 桑名」石柱と熱田神宮を模した鳥居、桑名宿の説明板。次は「関 亀山」石柱と冠木門。南大手橋の横が三条大橋となっている。
{左・寄}南大手橋
東海道はT字路になり右折するが左に行くと堀を渡る南大手橋がある。歴史を語る公園の三条大橋も左隣にある。江戸時代には橋は少し北側にあり橋を渡ると右折、左折する枡形の先に南大手門があって北大手門とともに桑名城の出入口の1つだった。戦前までは橋の右側の現在は内堀公園になっているところも堀だった。堀は公園のL字になっている部分でT字となって京町見附立教小学校(吉之丸22-4)の敷地までも続いていたが終戦後に埋め立てられた。
{右}桑名市石取会館  京町16
右折して少し行くとある。昭和2年(1927)四日市銀行(現:三重銀行)桑名支店として建てられた市内に現存する希少な戦前建築で戦後は桑名信用金庫本店、京町支店として使用されたが平成3年に市に寄贈され翌年に石取祭を紹介する施設となった。平成19年リニューアル。祭の説明パネル、ビデオ上映や江戸末期作の祭車(山車)を展示。9時-17時(入館16:30)月休、無料。毎年8月春日神社の石取祭は江戸初期に町屋川の石を神社に奉納した神事が起こりで平成19年指定国重要無形民俗文化財。奉納目的は社地修理説や流鏑馬馬場修理説などがある。町内会毎に大太鼓1張と鉦を4-6個持つ祭車を持ちそれが集まって練り歩き音がうるさいことから「日本一やかましい祭」「天下の奇祭」とも言われる。
{左}桑名市博物館 京町37-1
少し先の京町交差点にある。百五銀行桑名支店の旧建物を利用し昭和46年(1971)桑名市立文化美術館として始まり後に増改築され昭和60年に県内初の市立博物館として開館。松平定信、桑名藩、萬古焼、天皇宸筆、茶道、絵画、文学などの資料約5千点を所蔵し展示する。1階には企画展示室、市民ギャラリー、2階には常設展示室、文献資料室、2階ベランダには桑名城桑名別院本統寺[真宗大谷派](北寺町47)の鬼瓦がある。9時-17時(入館16:30)月休、無料。建物外の植え込みには「右 京いせ道 左 江戸道」道標と説明立札もある。「右」の下には浮彫の指矢印がある。近鉄名古屋線益生駅近くの民家の納屋から発見され東海道と濃州街道(員弁街道)の分岐点にあったとされるが正確な位置は不明。
{右}毘沙門堂
京町交差点で県道613号線(京町通り)を渡ると少し先に赤いブロック塀に囲まれた小堂がある。創建時期は不明。寛永12年(1635)から慶安4年(1651)まで藩主だった松平定綱が伝教大師が延暦年間(782-805)に京都の北に毘沙門天を安置して都の守護としたことに習い三重郡菰野町の福王山(標高591m)に移したが再び現在地にも建立された。福王山の中腹にある福王神社(菰野町田口2404)には飛鳥時代に聖徳太子が開基したと伝わる毘沙門堂があり別説としてこれが定綱が移した堂とも伝わっている。江戸時代には福王山は桑名藩領で藩の御用林があり山番所に山代官が置かれ保護されたため現在も杉の大木が多く残り国有林となっている。山麓の原野は藩主の狩場でもあった。
{右}郷方(ごうかた)役所跡(現:京町公園)
少し先にある公園。郷方役所は桑名藩に属する村々を管理する役所のこと。明治になり廃止された後は明治7年(1874)から桑名病院として利用され明治9年の伊勢暴動で地租改正に反対する農民たちにより建物が破壊されたため明治11年西洋館造で再建された。病院が移転後には跡地は桑名町役場となり大正5年(1916)に建物を新築し昭和12年(1937)市制施行後は市役所となったが昭和20年戦災で焼失した。公園内には「桑名市制施行時市役所跡」碑がある。昭和62年市制施行50周年を記念し埋められたタイムカプセル碑もあり2037年に開封される。公園の先にある川は外郭堀の跡で現在架かっている京橋は明治以降に架けられたもので江戸時代には橋はなかった。
{右}京町見附跡
公園前の電話ボックス横に説明プレート石柱がある。江戸時代には郷方役所の前に京町門があり門の手前左には藩の役人が旅人を看視する番所(見附)があった。東海道はここで門をくぐってすぐ川(外郭堀)の手前を左折しすぐに左折、右折するというUターンして南へ進むルートになっていたが現在は道が消滅している。手前に戻って毘沙門堂前を左折しよつや通りを少し進むと東海道の続きとなるためその先はよつや通りを進む。このような四角形の三辺を周るような曲がった道はこのあとも吉津屋見附七曲見附にもあった。
{右}石市商会 吉津屋町18
よつや通りをしばらく行くとある。江戸初期から続く石屋。代々根来市蔵を名乗り安永の伊勢神宮常夜燈も手がけた。根来氏の先祖は戦国時代に一乗山根来寺[新義真言宗](和歌山県岩出市根来2286)を本拠として信長、秀吉に抵抗した僧兵(根来衆)とされ秀吉に征伐され逃れた一部が和泉国の石切場で石工(根来石工)となった。初代市蔵は和泉国黒田村(現:大阪府阪南市黒田町)から元和6年(1620)に桑名へ移住してきたと言う。現在は墓石、灯籠、記念碑、建築石材などを扱っている。8時-19時無休。桑名には江戸時代には石長という石屋もあった。少し先の向かいには寛政4年(1752)創業の寝具店の帯屋(吉津屋町56)がある。吉津屋町には他に仏壇屋も多くある。
{左}「京いせ道 江戸道」道標
少し先の喫茶まる香(吉津屋町46)の向かいにある。新しい石に「右 京いせ道 左 江戸道」と刻まれ「右」の下に浮彫の指矢印があり桑名市博物館横の道標から複製したもの。こちらの側面には「捨てる神あれば 拾う神あり」「勢州桑名東海道筋」などとも刻まれている。東海道はすぐ先の天保12年(1841)創業の廣房打刃物店(鍛冶町54)が左にある交差点でカラー舗装が終わり県道504号線を渡る。廣房打刃物店は江戸時代は刀匠だったが明治の廃刀令以降は包丁、鋏の製造へと転業した。蛤やアサリなどの二枚貝を開く道具「かながい」も売っている。
{右}吉津屋(よつや)見附跡
しばらく行くと駐車場角に説明プレート石柱、付近の地図、説明立札がある。ここを右折すると吉津屋門があり門の手前左に藩の役人が旅人を看視する番所(見附)があった。この付近は現在は鍛冶町だが江戸時代以前は七つ屋と呼ばれており江戸初期に吉津屋町の1部となって後に鍛冶を業とする人が多く住むようになったため吉津屋町から分離して鍛冶町となった。門の先は江戸時代以降も七ツ屋(七津屋)と呼ばれ吉津屋門は別名を鍛冶町門とも七ツ屋門とも呼ばれた。東海道は門をくぐるとすぐ左折、すぐ左折とUターンするように進むルートになっており現在も道は残っていて各曲り角には矢印付きの「東海道」石柱もある。
{右}貝増商店 本店 鍛冶町20
見附跡を右折し左折した所にある。大正元年(1912)創業で桑名名物の佃煮「時雨煮」を販売。赤須賀漁港(桑名港)に隣接して支店・工場も持ち地元産の蛤、アサリ、赤貝などを加工している。志ぐれ蛤100g1300円、志ぐれあさり100g350円。8:30-18:30、無休。海水と淡水が混じる木曽3川の河口にある桑名は江戸時代から蛤の名産地で土産用に日持ちさせるため煮しめたのが時雨煮の起こり。始め煮蛤と称し毎年時雨どき(10月)に造られ各務支考が時雨蛤と名付けたと言われる。他にも桑名には新之助貝新貝新水谷新左衛門貝新新七商店貝新水谷新九郎、貝繁、貝藤などの時雨煮を販売する店が多い。蛤は昭和46年の3千tを最高に平成15年は20tと獲量が激減し現在は高級品となっている。
七ツ屋枡形跡
貝増商店前を過ぎて左折し少し行くと道路が少し左にふくらむようになっている。ここは江戸時代には左にずれる小さな枡形になっておりその先で東海道は堀を七ツ屋橋で渡っていた。現在は堀も橋もなく橋手前左にあった天保4年(1833)常夜燈も戦後に七里の渡し舟着場跡に移された。吉津屋門から東海道の左側も堀となっており平成12年にはここの左の民家敷地奥から堀の石垣の基礎部分も発見された。東海道は七ツ屋橋を渡って右折しており現在はおもちゃ屋いもや本店(新町99)がある角がその曲がり角で矢印付き「東海道」石柱もある。右折後は寺や神社が並ぶ寺町通りとなり本多忠勝が慶長の町割を行った際に寺院が集められた。
{右}四宝山 教宗寺 [浄土真宗本願寺派] 新町35
右折しばらく行くとある。明応2年(1493)法盛寺の末寺として創建され戦後現在地に移された。本尊は阿弥陀如来。境内には本堂、庫裏、明治19年(1886)手水石のみで本堂は愛知県海部郡八開村(現:愛西市)から移築したもの。明治9年に光明寺法盛寺で始まった浄土真宗本願寺派の僧侶養成学校である五瀬教校は後にこの地に教室、講堂、寄宿舎などが建てられ明治33年(1900)には三重仏教中学校となった。明治35年に彦根の金亀仏教中学校へ吸収合併され第三仏教中学校となり後に京都に移り現在は龍谷大学付属平安中学校・高等学校となっている。ここの跡地には明治37年から同じく本願寺派の九華育児院が設置されていた。
{右・寄}瑠璃山医王院 光明寺  [西山浄土宗] 新町50
すぐ先の十字路を右折すると左。元は春日神社の近くにあり神社の別当寺だったが慶長の町割で現在地に移転した。江戸時代には街道に面して山門があったが戦災後に敷地は縮小し現在は脇道から境内に入る。本堂はガラスの扉がある普通の民家のような建物。桑名西国33観音霊場第7番。入口右にある地蔵菩薩座像石仏は寛政2年(1790)に起きた七里の渡しの海難事故の供養として七里の渡し舟着場近くに建立されたもので桑名24地蔵霊場第6番となっている。
{左・寄}法盛寺 [浄土真宗本願寺派] 萱町93
十字路を左折し法盛寺前交差点で県道613号線を渡り右折して県道沿いを行くと門。開基は忠円房で元は三河国矢作にあり天台宗で柳堂阿弥陀寺と称したが嘉禎元年(1235)親鸞が立寄った際に改宗し応仁2年(1468)桑名に移り慶長の町割で現在地へ移った。江戸初期の13世寂然は本願寺12世准如の嫡孫だったため寺格が上がり幕末には尾張、美濃、伊勢に末寺が200以上あった。境内も4千坪あり18間(33m)四方の本堂や塔頭5寺があったが戦災で焼失。明治8年(1875)西本願寺桑名別院となり「桑名坊舎柳堂」と呼ばれている。本尊の阿弥陀如来立像は歯があり「歯吹如来」とも呼ばれ堪慶作とされ両足裏に仏足紋もあり昭和47年市指定文化財。現本堂は平成16年築で教会風の椅子席となっている。
{左・寄}菅原神社
県道613号線をさらに進み法盛寺を過ぎると県道の向かいにある。祭神は菅原道真。創建は古く全国百天神の1つに数えられるとも伝わる。江戸時代には最勝寺の南隣にあった。境内左に自然石の臥牛石があり宝暦年間(1751-63)にこの地出身の大坂堂島の商人から寄進されたもの。鳥居は昭和58年。右の灯籠は宝暦10年(1760)、左の灯籠は新しい。
{左・寄}安國山 楊柳寺 [曹洞宗] 新屋敷79
神社向かいを左折していくと左に通用門。法盛寺の裏。山門は東海道から遠い側にある。大海人皇子(後の天武天皇)の妻の讃良皇女(後の持統天皇)が壬申の乱(672)の際に逗留した行宮跡に嘉吉年間(1441-43)建立されたと伝わるが寺は度々移転している。本堂軒先の昭和36年市指定文化財の元禄11年(1698)銅鐘(総高87.9cm口外径47cm)にも「持統帝」の文字がある。建物は戦災で焼失し昭和24年再建。桑名西国33観音霊場第5番。山門入った右にある「不許葷酒入山門」石柱は元禄10年建立とされ北勢地方唯一のもの。通用門入って左に梅花聖観音を安置する観音堂があり三重梅花百観音札所第50番。横の「菩薩堂」石碑を挟んで救咳地蔵を安置する地蔵堂があり桑名24地蔵霊場第5番。
{左・寄}坂手山大通院 最勝寺 [浄土真宗本願寺派] 萱町88
県道613号線をさらに進むと法盛寺南隣にある。菅原神社の斜め向かい。元は長島町下坂手村にあり真言宗だったが永仁年間(1293-98)教祐の時に本願寺3世覚如に帰依して改宗し西勝寺と称した。元亀元年(1570)から始まった長島一向一揆や石山合戦の後に12世教誓が堺の遍乗寺に移り甥の丹羽定宣が了誓となって13世となった。寛永年間(1624-43)に現在地に移転し最勝寺となった。戦災で焼失し再建。境内入って左に昭和38年築のコンクリート造の本堂、右に石垣に隠れて「覚如上人御遺跡地」石柱がある。正保2年(1645)作の「親篇聖人御絵伝」を所蔵する。
{右}泡洲崎(あわすざき)八幡社
光明寺に入る十字路を渡ると少し先。この付近は古くは町屋川の中洲で泡洲崎と称し少し北西の一色町に古くから鎮守として祀られていた。祭神は誉田別命。慶長の町割で川の流れが変わると光明寺の北に移転、明治41年(1908)春日神社に合祀されたが昭和25年新町の氏神として分祀され現在地に再建された。境内右に合祀されてた間に旧地に置かれていた大正7年(1918)建立の「泡洲崎八幡社舊蹟」石柱がある。鳥居は平成14年、灯籠は大正13年など。鳥居左には天保13年(1842)新町北端に建立され戦後に移された道標「右 きゃう いせみち 左 ふなばみち」がある。町屋川、大山田川、揖斐川に囲まれた桑名には他にも加良洲崎(からすざき)、自凝洲崎(おのころすざき)と称する中洲があった。
{右}鎮照山凝念院 光徳寺 [浄土宗] 新町58
隣。入口右に「圓光大師遺跡」石柱。古くは泡洲崎念仏道場と称し明治7年(1874)日進小学校(新屋敷126)の前身である進善学校も置かれた。明治10年の火災や戦災で焼失し再建。墓地には船馬町の商人で元文元年(1736)萬古焼(万古焼)を創始した沼波弄山の墓があり昭和12年県指定史跡。他に江戸中期に大坂の市岡新田を開発した市岡宗栄、大正昭和期の萬古焼陶工・初代加賀月華の墓もある。境内左に稲荷社、井戸跡、文政13年(1830)六字名号碑。本堂左に鬼瓦、地蔵銅像。本堂前の灯籠は天保12年(1841)。境内には市内では一番早く咲く彼岸桜や岐阜県本巣市根尾から分植した薄墨桜もある。桑名市戦没者過去帳も所蔵。桑名西国33観音霊場第8番、9番。桑名24地蔵霊場第7番。
{右}仏光山(佛光山)九品院 十念寺 [浄土宗] 伝馬町53
少し先。天智天皇(在位661-671)の勅願によって朝明郡切畑村(現:三重郡菰野町)に創建され天平宝字年間(757-65)に行基が興隆し天台宗で朝明寺と称した。後に田光村に移転し嘉禄年間(1225-27)浄土宗第3祖の良忠の弟子となった誉阿弥が毎朝東に向かって十念を称えると白光が東から差したことから仏光山十念寺として誉阿弥が開山し室町時代に桑名に移った。田光村の跡地には十念山九品寺(菰野町田光1487)が建立された。大永元年(1521)には現在の桑名城本丸の位置にありその後転々とし慶長の町割で現在地に移った。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には七堂伽藍や塔頭3院があったが戦災で焼失。現本堂は平成16年築。山門を入った右に鐘楼。境内右の七福神殿に七福神を祀る。
{右・寄}森陣明(つらあき)翁墓所
十念寺裏の道を挟んだ向かいの墓地に入って右に石碑がありその右奥に墓石がある。昭和41年市指定史跡。陳明は戊辰戦争で降伏した桑名藩の代表として切腹した藩士。函館では森常吉と変名し新撰組隊士としても戦った。法号は智勇院殿清誉忠誠義剣居士。石碑には辞世「うれしさよ つくすまことの あらわれて 君にかわれる 死出の旅立」も刻まれている。墓石の揮毫は藩主松平定敬、墓誌撰文は高松徳重、書は江間政発。十念寺の東海道側入口入って右に墓所の写真付説明板と山門前右に昭和8年(1933)「桑名藩義士森陣明翁墓所」石柱もある。寺は他に昭和32年県指定文化財の祭礼屏風絵図(江戸初期)、共に昭和35年市指定文化財の曼陀羅絵図(鎌倉時代)と涅槃絵図(室町初期)も所蔵。