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{左・寄}岡部町 茶畑 坂下延命地蔵尊から先の東海道は木和田川の右岸に沿ったまま国道反対側の県道208号に合流するはずが道は国道敷設により消滅している。国道の反対側に渡るためには地蔵尊からトンネル側に少し戻った坂下歩道橋で渡るかそのまま国道の左側歩道を進み最初の信号の廻沢口交差点で廻沢口歩道橋を渡り迂回する。国道の左側歩道を行くと左には茶畑が続く。室町時代には既に茶の栽培をしていたという岡部町は今も玉露、てん茶、かぶせ茶、煎茶などの高級茶を栽培しており特に北部の朝比奈地区は宇治(京都)八女(福岡)と並び玉露の三大産地。廻沢口歩道橋を渡りすぐ右の上り坂で国道から分岐するとすぐに県道208号に合流し平坦な県道を進んでいくと左に岡部川が沿うようになる。 |
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{左}岡部宿案内板 左に沿っていた岡部川が一旦離れコスモ石油(岡部町岡部1548-1)を過ぎると国道1号(岡部バイパス)から分岐してきた幹線道路に合流する。再び岡部川を左に見て少し行くと高札型の案内板がある。岡部宿のあらまし、当時の宿場の様子の説明の他、東海道分間延絵図、同じ地域を平成12年に空撮した写真もある。この付近には江戸から48番目の岡部一里塚もあった。文化3年(1806)東海道分間延絵図には描かれてないが宝暦2年(1752)新版東海道分間絵図では街道左側のみ、元禄3年(1690)の東海道分間絵図では川の向こう側に榎1本ずつ植えられた塚が2つあったとあり岡部川の流路により街道が変わり一里塚が移動したり消滅した。少し先左には「岡部宿」と書かれた木の看板もある。 |
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{右}十石坂観音堂 すぐ先の石段を20段程上がった崖上にある。明治に廃寺となった最林寺の観音堂が残されたもので名前の由来は徳川家より与えられた扶持米が十石だったためと伝わる。入母屋造の瓦葺で町文化財。内陣、外陣の境には江戸末期の技巧による格子があり外陣の天井には近年復元された極彩色の絵もある。堂内の2基の厨子は中央が江戸末期作の彩色宮殿形厨子で屋根は入母屋造柿葺、右が江戸中期以降作、黒漆塗りで屋根は宝形造板葺。厨子内には千手観音菩薩立像や西行座像がある。堂右には文政3年(1820)万霊塔を中心に宝暦、明和など約50の墓石、石塔、石仏があり左奥のは漢学者で駿河地誌の岡部宿付近の編者である河野蓀園の墓碑で碑文の撰文、書は地誌を編纂した山梨稲川。 |
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{右}枡形跡 少し行くと左から道が合流する場所の向かいに説明プレート石柱がある。岡部宿江戸側の枡形は道路を整備する際に真っ直ぐに改修され現在は跡形もない。説明プレートには東海道分間延絵図の当該地部分も転写されている。ここから岡部宿でしばらく先右には古い常夜燈と祠がある。さらに進むと道は左へカーブしていくが旧東海道は右(直進)の細道へ分岐する。分岐点には旧東海道の方向表示もある。 |
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岡部宿 本陣2脇本陣2旅籠27家数487人口2322[天保14年(1843)] 文治元年(1185)にはあったという古い宿で頼朝の家臣岡部小次郎泰綱が開いたと言われる。江戸時代の宿場としては他より1年遅れて慶長7年(1602)指定された。小さな宿場のため旅籠も少なく大名の宿泊時には夜具も隣宿から借りるほどだったが往来する人々を相手にした茶屋・駕籠屋などは多かった。名物は豆腐とシダ細工。豆腐は鎌倉時代からの名物で東海道膝栗毛にも「豆腐なる おかべの宿につきてけり 足にできたる 豆をつぶして」と詠まれている。シダ細工は花籠や盆などで明治には海外にも輸出された。現在は大規模の交通から離れている為に静かな町並みとなっている。 |
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{右・寄}笠懸松・西住墓 分岐点には笠懸松の説明板もあり旧道に入りすぐ右の標示を右折していくと右に登り口と案内板、ベンチがある。登り口には竹杖が置いてあり階段を登っていくと頂上に松が植えられ根元に西住墓と伝えられる古い石塔、平成11年建立の句碑、ベンチ、花壇、付近の案内板などがある。小さいものも含め3本ある松は2代目で初代は昭和49年頃に枯れ切株が残っている。旅の途中の天竜川で乱暴者を懲らしめた弟子の西住を西行は僧にあるまじき行為として破門し形見として笠と筆跡を渡したが西住は密かに西行を追い保延3年(1137)岡部で病に倒れ形見の笠に辞世の句を書き残し没した。後年この地にあった堂に立ち寄った西行が戸に掛けられた笠を見て西住の死を知り追悼の句を詠んだ。 |
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{右・寄}三星寺 少し先の変則十字路で左折するのが東海道だが右折するとある。境内左に地蔵の祠、戦没者慰霊碑、無縁塔がある。境内にはブランコや鉄棒もある。東海道は変則十字路を左折するとすぐに平成元年竣工の岡部橋(長さ17.66m幅6m)で岡部川を渡る。 |
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{右}功徳山 専称寺 [浄土宗] 志太郡岡部町岡部663 川を渡るとある。文禄4年(1595)称蓮社専誉順賀が開山。山門入ると正面に「岡部の一ト火灸」として有名な灸の治療所がある。何箇所も小さな灸をせず背中の一箇所だけ大きな灸をする灸で江戸初期にキリシタンを改宗させるため諸国を行脚した幡随意上人がここにも立寄り住職に伝授した。鎌倉前期の作とされる木造不動尊立像(高54cm)と江戸の柑本南浦が享保11年(1726)最林寺(現:十石坂観音堂)に奉納した木造西行座像(高50cm)を所蔵し共に町文化財。他にも祐天上人御名号、幡随意上人御名号各一幅も所蔵。山門の左にある別の入口が旧山門跡で平成12建立の寺名石柱がある。旧山門跡から入って右の祠には多くの石仏、本堂前を過ぎて奥の正面には弘化5年(1848)の三界万霊塔もある。 |
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{左}大旅籠柏屋(かしばや)跡 岡部817 少し先で再び県道に合流したところにある。本陣の内野家から分家した山内家が営む大旅籠で天保5年(1834)大火で焼失し天保7年に再建された建物を岡部町が買い上げ改修し歴史資料館としている。母屋は木造2階建の間口9間(16m)で2階の2部屋の上の展示室は屋根裏を改修したもの。江戸時代の旅人の人形も置かれ各部屋には寸劇の台詞が流れている。入口(帳場)前には駕籠もある。天保年間以降は旅籠と質屋を兼業しており2つの質蔵が現在は和風レストラン「一祥庵」ギャラリー「なまこ壁」になっている。他に敷地には体験工房「夢の路」物産館「かしばや」庭に水琴窟もある。平成10年国有形文化財登録、平成12年開館、平成13年度県都市景観賞最優秀賞受賞。9時-17時、300円、月休。 |
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{左}岡部宿本陣址 少し先の岡部北信号の横に昭和47年建立の標柱がある。この場所にあった本陣は元は今川家臣だった内野家が元禄3年(1690)からつとめていた。敷地は間口15間(27.3m)奥行29間(52.7m)で建坪174坪(574平方m)玄関門構付き。代々「九」の字を名前に入れていた内野家は現在も続いており建物は明治になって建替えられたが敷地内には非公開だが井戸、庭園、上洛時に立寄った14代将軍家茂が社号を与えた将軍稲荷が残されている。明治天皇も休息した。本陣跡のすぐ隣は常夜燈や水車、すべり台もある平成17年(町制50年記念)完成の岡部宿公園がある。もう一軒の仁藤本陣は向かいにあった。 |
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{左}本町問屋場跡 理容マスダ手前の民家前に説明プレート石柱がある。岡部宿には岡部本町の本町問屋場と加宿の内谷町の加宿問屋場の2箇所があり毎月1日から18日まで本町問屋場が問屋業を行なっていた。本町問屋場の手前と向かいには脇本陣が1軒ずつあった。本町は文政3年(1820)と天保5年(1834)に大火事があった。この先東海道は造り酒屋初亀醸造(岡部744)の先の火の見櫓手前で県道から左へ分岐し県道と並行する古い町並みの残った旧道へ入る。分岐してすぐ右には夢舞台道標岡部町 岡部宿がある。 |
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姿見橋(すがたみばし) 旧道に入った少し先に用水路にかかる平成14年竣工の小さな橋があり右に説明プレート石柱がある。歌人である小野小町は絶世の美女としても有名で晩年に東国へ下る途中にこの橋に立ち止まって夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたがふと目を橋の下の水面に落とすとそこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。後に宿場の人たちがこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けた。 |
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{左・寄}佐護神社 道が右にカーブすると左に石段が見える。石段下には昭和6年(1931)の灯籠があり鳥居は無い。立石神社(内谷2519)の神輿の保管場所の守護として古くから祀られており石段の頂上に昭和11年(1936)造の神輿を置く倉庫がある。石段の途中左にあるのが昭和50年に神神社(三輪1290)から拝領し移転した社殿で天照皇大神、秋葉大権現も祀られている。「おしゃもっつぁん」とも呼ばれ由来は農耕の神、測量の神、安産の神と諸説がある。 |
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{右}高札場跡 少し先に駐車場があり弘法大師堂の木札がかかる建物の間に説明プレート石柱がある。弘法大師堂の軒下には「非常板」と書かれた鉄板が小さな屋根の下に吊り下げられておりこの辺りの民家によく見られる。 |
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{左・寄}見珠山 正應院 [日蓮宗] 内谷264-2 高札場跡の斜め向かい。大正7年(1918)頃に曹洞宗から改宗した佐藤政十が見珠道場を開き大正13年久遠寺81世日布により得度し政薩院日勇となって現地に堂宇を建立し開基となった。昭和15年に日勇の子、正應院日龍が伊豆韮山の大成山本立寺の塔頭で永正3年(1506)江川英盛が建立した正應院を移し山号を見珠山と改め開山となった。本堂は昭和44年建立。それまでは客殿が本堂だった。和様素木造りの多宝塔は開基日勇の第50回忌に発願され昭和54年建立された。多宝塔横には浄行菩薩もある。総欅唐様造りの山門は昭和57年に建立。
山門を入って右に宝暦11年(1761)など3基の石塔と古い狛犬が前に置かれた堂がある。山門手前左には桜とその下に昭和47年の題目碑がある。
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{左}木喰五行菩薩の説明石柱 旧東海道は左の勝山輪店(内谷178)の先で県道と合流しそうになるが合流せずに左へ急カーブしていき村松商店先の角に説明プレート石柱がある。享保3年(1718)山梨に産まれた五行は元文4年(1739)21歳で真言宗の仏門に入り宝暦12年(1762)木喰観梅上人により木喰戒を授かった。56歳で千体造仏を発願し諸国を遊行し寛政12年(1800)6月から2ヶ月間は岡部に滞在し6体(光泰寺、梅林院、十輪寺に2体ずつ)の仏像を彫り上げた。肉体の盛り上がりを強調した荒彫りが特徴。光泰寺の木造聖徳太子立像(高111cm)は表情が微笑みのため微笑仏と呼ばれ現存する太子像では唯一の立像。光泰寺(内谷424)はこの角を左折し右折、左折、右折で柳沢神社の前を通り左折すると左にあり1kmほど先。 |
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{左}加宿問屋場跡 小林製畳店(内谷61-1)の向かいの民家に説明プレート石柱がある。岡部宿は当初川原町、本町、横町で構成されていたが寛永12年(1635)参勤交代が始まると隣接する内谷村が加宿となり内谷町にも問屋場が設置された。毎月1日から18日まで本町問屋場、毎月19日から末日まで加宿問屋場が問屋業を行なっていた。 |
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{左}枡形跡 やがて通りに突き当たり向かいの文具店の寒玉堂(内谷629-5)前に枡形跡の説明石柱がある。岡部宿はここまでとなる。こちらは東枡形跡と違い枡形の名残が残っており旧東海道は右折しすぐの岡部役場前交差点を左折し県道208号を進む。 |
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{右}五智如来公園 岡部役場前バス停の前にあり入口に常夜燈と冠木門がある。奥の祠には町文化財の五智如来石像が新旧5体ずつ並ぶ。右から釈迦如来、阿門如来、大日如来、宝生如来、阿弥陀如来で2組とも地元産の三輪石(安山岩質凝灰岩)を使っている。1組は廃寺となった誓願寺のもので宝永2年(1705)棚倉藩から藤枝の田中藩主となった内藤紀伊守弌信の家老脇田次郎左衛門正明が寄進した。弌信の姫は口が不自由だったが誓願寺の本尊阿弥陀如来に参拝すると治ったので弌信が寺に田畑を、正明が五智如来を寄進した。もう1組は明治の中頃に鬼島の森川重蔵と静岡市寺町の藤田権三郎が造ったもの。祠の左には寛永6年(1629)三界万霊有無二縁塔を中心に約60基の古い墓石、石塔、石仏が並ぶ。 |
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{右}岡部松並木 県道208号は少し先で県道81号と合流(重複)ししばらく歩いていくと歩道上にある。松は大小合わせて50本ほどあるが大きいのは数本しかない。並木が始まる場所と終わる場所に藤枝ライオンズクラブから黒松13本が贈られたという平成8年設置の木杭がある。松並木を過ぎて少し先の右側歩道の植え込みにはキノコ型をした常夜燈もある。横には「これより東海道 岡部宿」と刻まれた平成11年設置の石碑もあり江戸側からは後ろ向きに設置されている。その先の内谷新田交差点を渡ると国道1号藤枝バイパスの高架をくぐる。 |
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{右}岩村藩傍示杭「従是西巖村領 横内」 高架をくぐると右側の歩道は一旦車道から分岐するように右に進み回り込んできた県道81号の車道と再び合流する。合流地点に平成12年設置の木抗がある。横内村は文禄3年(1594)に秀吉家臣池田孫次郎輝利が河川を改修し開村し江戸初期は天領で宝永年間(1704-10)から田中藩領となったが享保20年(1735)から明治は岩村藩領だった。岩村藩は美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とする松平家3万石で享保20年松平乗賢が老中に出世したのを期に駿河国15ヶ村に5千石分の飛領地が加増され横内村に陣屋が置かれた。横内村は石高470石の農村で多くの職人も住み現在の通りの民家には東海道400年記念で職名が書かれた屋号風の木札が掛けられている。ここから藤枝市に入る。 |
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{左}西了山 慈眼寺[曹洞宗] 藤枝市横内179 しばらく進むとある。慶長4年(1599)龍谷秀泉が開基、常楽院(藤枝市高田424)6世学翁宗参が開山。本尊は阿弥陀如来坐像。境内入って左に宝暦11年(1761)没の岩村藩横内陣屋3代目代官田中清太夫の墓地に建立された代官地蔵と岩村藩士の墓9基がある。本堂左に千葉県佐倉の義民の宗吾(惣五郎)の霊を祀った宗吾霊堂が隣接。明治38年(1905)侠客の塚本角蔵が佐倉を訪れ分霊をもらい別の場所に祀っていたが明治41年移された。境内左には角蔵の墓もある。 愛知県半田市の石地蔵を分霊し大正11年(1922)造った抱き地蔵も所蔵し駿河一国百地蔵第20番。
門左には享保9年(1724)南無観世音菩薩(文字)碑などの石仏石塔、右には安永2(1773)文字庚申塔。門少し先に木屋根の常夜燈。
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{右}横内いっぷく処 ゆるい坂をのぼり朝比奈川に出るとある小さな休憩スペース。巨大松明のような横内あげんだいとその下に横内歴史案内板(地図)、木製ベンチがある。手前の横内町内会館(老人憩いの家)前には平成6年建立の横内開村400年記念の碑もある。歴史案内板の裏側には赤い屋根の祠が2つあり1つには年号不明の川除地蔵(橋場町地蔵尊)、もう1つには馬頭観音と松今勇軍馬之墓の石柱が安置されている。朝比奈川は岡部町三ツ野を水源とし焼津市越後島で瀬戸川と合流する全長25.5km流域面積92.2平方m。横内橋は江戸時代は長さ32間(58.2m)幅3間(5.5m)の板橋で洪水で橋が流されると川会所が設置され蓮台越しが行なわれた。現在は昭和36年竣工の横内橋を渡る。 |
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仮宿のスラローム 横内橋を渡り土手を左右に少し入った所にもそれぞれ川除地蔵の祠があり左は緑屋根の祠で右は赤屋根の祠で橋向地蔵尊(子授地蔵)とも呼ばれる。しばらく進むと十字路の右に「仮宿區入口」と刻まれた小さな石柱がある。その先は車のスピードを抑えるため道が連続スラロームになっており少し松並木もある。国道1号と県道81号との六叉路の仮宿交差点に出る手前左には「従是西巖村領 横内」と対をなす岩村藩傍示杭「従是東巖村領 横内」がありここまでが岩村藩領と示している。六叉路では対角線上の道が東海道で渡ってすぐ左には笠を広げたような一本松がある。このあたりの地名の仮宿(かりやど)は家康の鷹狩の際の狩宿が由来という。 |
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{左}田中藩領傍示石「従是西田中領」 松のすぐ先に傍示石と平成13年設置の説明石板がある。田中藩領と岩村藩領との境界である法の橋付近にあった傍示の複製で原本は西益津中学校(田中1-7-1)正門脇にある。享保15年(1730)から幕末までの田中藩主である本多氏の5代正意が領内の藪崎彦八郎に命じ文字を書かせ長楽寺町の石材屋に彫らせた。明治4年(1871)撤去され水守の菊川晋一氏宅で靴脱ぎの台石となっていたが昭和25年頃田中城跡の西益津中学校に移された。この先すぐに法の橋で法の川を渡るが橋名は4隅とも欠損していて確認できない。田中藩は歴代藩主がさらに大きな国に転封されたり幕府の要職に登用されることが多く田中城は浜松城などと共に出世城と呼ばれた。 |
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{左}鬼島一里塚跡 (49) 橋を渡り少し行くと葉梨川が左に沿うようになり一旦国道1号に合流しすぐの中古車販売のシルエット自動車販売を過ぎたら左へ分岐し県道208号に入る。右には松が点在ししばらく行くとアパート「エムロードA」の前に平成元年建立の「史跡一里塚跡」の木杭がある。杭の側面には「東海道 百二十六里塚 江戸から四十七番目」と記されているが山中新田一里塚の前の25里目と本市場一里塚の後の35里目が欠番となっているため通番としては江戸から49里目。 |
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{右}東海道・御成街道道標 旧東海道は昭和36年竣工の八幡橋で葉梨川を渡り川に沿うように右折する。橋を渡った右には大正10年(1921)建立の「東海道」「御成街道」と刻まれた道標があり裏には地蔵の祠もある。橋を渡って左方向にまっすぐ進む道は田中城の平嶋口(平島木戸)に通じる道で慶長13年(1608)頃までは平嶋口が城の正門だった。藤枝宿が整備され宿内から大手口(松原木戸)に行く道が作られ大手口が正門になったが駿府にいた家康は田中城に行く際にこの道を使ったため御成道と呼ばれその後も御成街道として名が残った。幕末の絵図には橋から木戸まで16町10間(1.7km)とある。家康は天和2年(1616)1月に鷹狩で田中城を訪れた際に夕食に食べた鯛の天ぷらで体調を崩し駿府に帰っても治らず4月に没した。 |
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{左}旧東海道・鬼島の建場碑 しばらく行くと左のスーパークリーニング美洗館鬼島店(鬼島38)の斜め向かいに秋葉神社跡の小さな新しい石柱がありその少し先に碑がある。平成17年に設置されたもので碑には膝栗毛の藤枝付近の一節が引用されている。碑の後ろには木造の新しい常夜燈もある。その裏の建物の壁には広重の隷書版東海道の藤枝の絵が飾られこの辺りで書かれたという説明文も掲示されている。この辺りの左周辺の住宅地には古来は竹藪が広がっていた。天正3年(1575)田中城を攻めた家康に竹藪の所有者小柳津源六が竹を旗竿として献上し勝利したため勝退藪と名が付いた。家康はその後も関ヶ原や大阪で縁起をかついでここの竹を使用し江戸時代には藪は免税地となり藩主から管理費も払われたという。 |
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{右}青山八幡神社鳥居 少し先に青銅製の大鳥居と昭和4年(1929)常夜燈がある。神社は鳥居をくぐり葉梨川を昭和38年竣工の渡御橋で渡り国道1号を渡った正面。祭神は誉田別命、玉依姫命、息長足姫命。前九年の役で奥州に向かう源頼義・義家が立寄り付近の地形が京都の石清水八幡宮に似ていたため分霊を勧請し創建。源氏が5里ごとに創建した5里八幡の1つでもある。豊臣、徳川から庇護を受け歴代田中城主の酒井、西田、本多氏も神器等を寄進した。境内地5113坪(16867平方m)。国道を渡った所の昭和52年の鳥居も青銅製で右には天保14年(1843)灯籠がある。境内には里宮、力石、井戸跡、平成9年の万葉歌碑などがあり社殿は山上にある。本殿は昭和61年に再建。登口右に安政2年(1855)灯籠や御神木がある。 |
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{右}須賀神社 水守17 少し先に大きな楠が目立つ神社がある。本殿は江戸後期の築で一間社流造の柿葺。大楠は県指定天然記念物の御神木で指定時の昭和33年当時で樹高23.7m目通10.9m根廻り15.2m枝張東西21.2m南北27.9m。木の手前には秋葉神社の祠がある。境内には他に左に大正12年(1923)建立の陸軍大将川村景明揮毫の忠魂碑、昭和30年県知事斎藤寿夫揮毫の盡忠之碑がある。灯籠は右に昭和3年(1928)、左に天保6年(1835)。 |
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{右・寄}護国山 本行寺 [日蓮宗] 水守11-3 須賀神社の裏にある。本堂の左奥から裏にかけて昭和47年などの題目碑がある。途中には本山2世中興開山の梢月院妙雄法尼(昭和61年没)の墓もある。 |
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{右}池巖山 全居寺・鐙ヶ渕(あぶみがふち)観音堂 [曹洞宗] 水守16 須賀神社の隣にある。開山は嶺山全鷲大和尚。本堂右に洗心童子(お掃除小僧)、左に地蔵が2体ありその脇の石段を登ると観音堂があり登りきる手前右に昭和8年(1933)と昭和13年の馬頭観音がある。堂は山之堂とも呼ばれ蛇柳如意輪観世音菩薩を安置し梅花観音霊場にもなっている。西の葉梨川付近に柳の大木があり触れた者は浄土往生の志を覚え川に身を投げるという人取り柳と恐れられていたがある僧が切倒し仏像を彫り本尊にしたという。本尊には恵心僧都作とされる胎内仏があり子宝、安産の祈願所にもなった。堂前には明治15年(1882)などの双体道祖神が3基あり堂左奥には貞享4年(1687)元文3年(1738)宝暦3年(1753)石造如意輪観音像や明和3年(1766)文字庚申塔などがある。 |
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{右}鐙ヶ渕近くの道標 旧東海道は観音堂に沿って右にカーブしていき昔の鐙ヶ渕の形に添うような松並木の残る逆S字の道を行く。鐙ヶ渕は昔の葉梨川が今より蛇行しており鐙の形をした渕になっていたためそう呼ばれた。家康が戦勝祈願の為、愛用の鐙を沈めたとも言い東海道膝栗毛では「ここもとは 鞍のあぶみが 渕なれば 踏んまたがりて 通られもせず」と詠まれている。水守交差点の手前で県道を斜めに横断すると右路肩に大正3年(1914)の小さな道標がある。「是ヨリ橋ヲ渡リ 右川ニ沿ヒ八幡橋ニ通 左山ニ沿ヒ下薮田ニ至ル」刻まれている。道はそのまましずてつストア水守店を左に見て少し松が残る道を進み国道1号を斜めに横切るがここには横断歩道がない。 |
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