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{右・寄}長楽寺 [浄土宗] 酒匂5-2-12 大市場バス停すぐ先にある。本堂右に元禄7年(1694)の石地蔵。明治6年(1873)には酒匂小学校(酒匂5-15-3)の前身である崇広館第2支校が置かれた。寺の裏には稲荷社がある。 |
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{右・寄}九品山浄土院 上輩寺 [時宗] 酒匂2-44-27 酒匂県営住宅入口交差点の次を右折すると正面。永仁2年(1294)創建で本尊は阿弥陀如来。本堂前の市の天然記念物のイチョウ(目通幹囲5m高15m樹齢600年)は100本以上もある乳柱のうち1mを越えるものが20本以上もあり乳イチョウと呼ばれている。勝福寺(飯泉1143)、光円寺と並ぶ小田原三大イチョウの一つで昭和59年(1984)に神奈川名木100選に選ばれている。その裏に鎌倉様式の五輪塔3基もある。江戸時代末期から明治にかけて活躍した戯作者柳水亭種清(浮世絵師恋川笑山)が晩年の明治20年頃から亡くなるまで住職をしていた。 |
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{右・寄}酒匂山 南蔵寺 [真言宗東寺派] 酒匂2-44-35 上輩寺の奥にある。鎌倉に幽閉された護良親王が難波で祀ってほしいと観音像を村人に託したが像が酒匂に行きたいと告げたためこの寺へ安置したという伝説がある。酒匂は五十三次の宿場にはならなかったが足柄道と箱根道の分岐にあたり酒匂川の手前の休息地でもあるため古くから栄えていた。義経が壇ノ浦で生け捕った宗盛・清宗親子を鎌倉方に引き渡したのも酒匂の宿でこの時に義経には鎌倉入り禁止が伝えられた。酒匂の名は東国平定中の日本武尊が川に神酒を注ぎ龍神に祈念した際の匂いがいつまでも残ったことに由来する。 |
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{右}光明山無量院 大見寺 [浄土宗] 酒匂2-41-37 ドライブインおだわら観光の先にある。創建は天文3年(1534)頃で本尊は阿弥陀如来。本堂左の墓地内には北条時代に酒匂郷の小代官、江戸時代に名主と組頭を勤めた小嶋家の墓碑である宝篋印塔と五輪塔がある。徳治3年(1308)の宝篋印塔は市内の個人の墓のうち年代を明記した最古のもので天文21年(1552)の宝篋印塔と天正2年(1574)の五輪塔とともに市指定の重要文化財となっている。 |
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{右}旧川辺家邸宅 (現:児童養護施設ゆりかご園) 酒匂2-41-39 大見寺となりにある立派な門構えの邸宅。紀州出身の網元川辺家が1800年代に建築した屋敷で大名の休息場所である茶屋本陣としても利用された。母屋は入母屋造屋根瓦葺で広い玄関と大広間三室と賄部屋などがある。長屋門は入母屋造屋根銅板葺。庭に枯山水の跡、石の手水鉢などが残存する。裏庭には漁網や塩鰤、梅干などを保存する大谷石積の石倉が大正5年(1916)造られた。建物は関東大震災でも倒壊せず昭和13年(1938)社会福祉法人ゆりかご園の所有となっている。 |
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{左}酒匂不動院(酒匂不動尊) [真言宗大覚寺派] 酒匂3-8-18 旧川辺家邸宅の向かいにある。明治21年(1888)横浜野毛山の行者海老原得浄師が開山した成田山の小社。本尊は鎌慶作の不動明王座像。堂内左に井戸がある水行場があり酒匂水行堂(やる気不動の滝)と呼ばれている。境内右にある水掛不動は酒匂延命水と呼ばれる地下水が湧き1杯飲めば3年長生きると言われる。左の祠には幸せ地蔵と呼ばれる2体の地蔵尊を安置している。
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{左・寄}廣昌山 妙蓮寺 [日蓮宗] 酒匂3-6-29 50mほど先の文字だけの道祖神がある角を左折すると正面にある。 |
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{右}神力山 法善寺 [日蓮宗] 酒匂2-38-33 少し行くと酒匂中学校の向かいにある。永享11年(1439)法善入道と称した中野禅門がこの地に真言宗の庵を結んだのが起こりで長禄3年(1459)伯父にあたる本法院日敬聖人が訪ねて来て日蓮宗に改宗、寺として開山した。本堂前左の祠に浄行菩薩があり横の墓地には歴代住職の墓がある。本堂軒下には昭和29年鋳造の鐘がある。 |
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{左・寄}真如山 妙善寺 酒匂3-1-22 保健センター入口交差点を左折していくと正面にある。交差点を右折していくと願力山大経寺[浄土宗]や酒匂神社があり鎌倉時代には酒匂神社から西側の保健センターの辺りに将軍宿泊地である浜辺御所があった。 |
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{左}榮柳山 本典寺 [日蓮宗] 酒匂3-1-17 その先の街道沿いに文政7年(1824)の題目石碑がありそこを左折するとある。妙善寺前の細い路地を進んでも行ける。門を入って左に昭和6年、昭和56年の題目石碑があり他にも元禄15年(1702)の石灯籠などの灯籠や石塔が置かれ本堂前には老木がある。 |
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{右}済度山 法船寺 [日蓮宗] 酒匂2-35-22 本典寺入口の斜め向かい。この地にもともと堂があり文永11年(1274)鎌倉より身延山に向かう日蓮上人が酒匂川の増水で足止めされた時に松が光り地蔵の化身の翁が現れ堂に泊まるようお手引きした。堂守飯山入道は日蓮から済度法船の法名を与えられ改宗し後に朗慶上人が法船寺として開山した。街道沿いに明治36年(1903)の題目石碑があり梅木と石灯籠が等間隔に並ぶ参道を通り抜け門を入ると左に稲荷社と日蓮像、お手引き地蔵尊を祀る地蔵堂がある。右には明治40年再建の正中元年(1324)没の朗慶上人の供養塔などの石碑群がある。本堂左には昭和53年造の鐘楼、その横の平成6年落成の総桧作りの五重塔は釈迦如来像を安置し高さ6.8mで日本で最も低い五重塔とされる。 |
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連歌橋 下菊川にかかる橋。古くはここから酒匂川の河川敷が始まっており頼朝と梶原景時が渡り始めたとき景時の馬が荒れて頼朝に波を蹴かけたので頼朝がにらみ返すと景時は「円子川ければぞ波はあがりける」と詠むと頼朝は機嫌を直し「かゝりあしくも人や見るらむ」と詠んだ連歌の場所とされる。円子川(まりこかわ)は酒匂川の古い名で蹴鞠の「まり」「ければ」「かかり」と重ねている。江戸時代には橋の手前左の現在のマクドナルド付近に間口7間(12.7m)奥行4間(7.2m)の川会所がありその向かいには渡河の掟が書かれた高札場があった。 |
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{右}酒匂川の渡し碑 さらに鬼柳配水路にかかる橋も渡ると酒匂川に出る。旧東海道はここから上流側に分岐するため右折して50mほど行くと鮨政の前の植込みに碑がある。江戸時代はここから対岸へ渡っていた。河川敷幅は5町20間(約580m)あり延宝2年(1674)江戸防衛の名目で船渡しが禁止されて以降明治4年(1871)まで人足による肩車または輦台渡しが行われた。また10月から3月の冬季渇水期には仮土橋も架けられていた。現在は国道1号が通る昭和48年築の酒匂橋で川を渡るしかない。欄干には小田原宿にちなむ絵の銅版がある。橋を渡り終えた所には河原に出る道がないのでそのままトヨタカローラを過ぎ細道を右折し戻ると対岸の渡し場付近の河岸に出る。 |
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{右}二宮金次郎顕彰碑 酒匂川の小田原側の土手にある石碑で昭和63年建立。金次郎は天明7年(1787)酒匂川の右岸の農村・栢山の裕福な農家に生まれたが川の氾濫などで家は没落、父母も相次いで亡くし親戚に預けられた。苦労の末24歳でもとの家を再興し26歳のとき藩家老・服部家の財政建直しを頼まれ5年で成功、文政元年(1818)小田原藩主大久保忠真が京都所司代から老中となり江戸に向かう途中、領内の他の働き者12人とともに32歳の金次郎を表彰した場所がこの辺りといわれる。このあと文政5年(1822)には武士の位を授けられ二宮尊徳となり小田原藩の飛び領地・桜町(栃木県二宮町)の財政再建を任され小田原を離れたが後に幕臣に取り立てられるなどして70歳で没するまでに全国615の村々を建直した。 |
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{右}八幡神社 東町5-6-30 金次郎顕彰碑から200mほど行った松林の中にある鎌倉権五郎景政を祀る神社。境内右に新田義貞を祀った新田神社もあり首塚の向かいに明治以前まであった新田明神が近年復興されたもの。延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死した義貞の首を家臣の宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)が本国の上野国(群馬県)届ける途中、重病にかかりやむをえず義貞の首を埋葬し自分自身もこの地で亡くなったという。鳥居は昭和45年造。境内には網一色公民館や児童遊具もある。網一色は昔の村名で足利家の家臣一色氏の子孫がこの地に流れ着き荒れ地を開き住んだのが起こりで後に北条氏康が地獄網と呼ばれる網で魚を取る漁師を西国より呼んで住まわせてたことに由来する。 |
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{左・寄}新田義貞公首塚 旧東海道は城東高校前交差点で国道1号を横断し100mほど行って右折する。ここは酒匂川の渡しの小田原側の川会所があった場所で民家前に首塚への行き方案内図がある。旧東海道から外れ真っ直ぐ行き右折し一本海側の道を進んでいって突き当たりを右に入ったすべり台のある小さな公園の中に首塚がある。街道沿いにあった新田明神と首塚は地域の人々に尊信されていたが新田明神は明治初期に廃社、首塚も戦後荒廃していたが近年整備され昭和36年鈴木十郎市長(当時)書による記念碑も建立された。新田明神も現在八幡神社に復興されている。 |
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{右・寄}妙性山 常顕寺 [日蓮宗] 東町3-12-23 旧道を進むと常剱寺入口交差点で再び国道1号に合流する。交差点を右折するとすぐ左にあり入口には安永9年(1780)の題目石碑がある。常剣寺、常劔寺とも書く。れんげ幼稚園を併設。 |
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{右}稲荷山 呑海寺 [臨済宗大徳寺派]東町3-12-28 国道を少々進むとある。早雲寺を再建したことで知られる早雲寺17世菊径宗存により寛永初期に開山した。本堂左に稲荷社、右に地蔵菩薩石像が安置された祠がある。 |
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{左・寄}上杉竜若丸墓(上杉神社) 山王小学校入口信号を左折すると小学校前の左に祠があり中に竜若丸と6人の家臣を供養する7つの石塔がある。竜若丸は関東管領平井城主上杉憲政の嫡男で天文21年(1552)11歳の時に北条氏康の攻撃で落城し民家に家臣と隠れてたが乳母の兄弟の目加田新介が恩賞目当てで裏切り小田原に連れられ氏康家臣神尾治部右衛門に斬首された。この墓は幼い竜若丸に同情した近隣の人が供養のために建てたとされ実際の墓は最勝院(伊豆市宮上48)にある。父の憲政は落城後、越後の長尾景虎をたよりのちに景虎を養子にし上杉姓を与えたため系譜上は竜若丸と上杉謙信は義理の兄弟になる。裏切った目加田一族は恩賞どころか不義不忠の罪で処刑され斬首した治部右衛門もすぐに病死した。 |
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{左・寄}戎神社 上杉神社の向かいにある。壬申の乱で敗れ近江の国で自害したが実は尾張、伊豆、相模、上総と逃げのびたという落去伝説もある大友皇子(弘文天皇)を祀る。江戸時代に漁業が盛んだったこの辺りの村では寛保2年(1742)海の神として名高い蛭子命を祀る西宮神社を勧請、宝暦11年(1761)大久保忠共が社地を与え戎神社とした。以前は八幡神社にあったともされ八幡神社の松林を古くは戎の森とも呼んだ。 |
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{右・寄}法性山 弘経寺 [日蓮宗] 東町3-9-32 すぐ先を右折し正面にある。正徳年間(1711-16)より以前に日授上人により創建。入口には宝暦10年(1760)の題目石碑がある。入って左には稲荷社、浄行菩薩がある。右には井戸跡がある。明治6年(1873)には山王小学校(東町2-9-1)の前身である崇広館第3支校が置かれた。 |
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{右}稲荷山 昌福院 [臨済宗大徳寺派] 東町3-10-20 弘経寺からすぐのところにある。早雲寺第2世大室宗硯の弟子喜安宗慶の開山で開基は道海居士。早雲寺末寺だったため天正18年(1590)北条氏の滅亡後は早雲寺とともに廃寺同然となり江戸時代に再建された。街道との間に大きな松が並び安政6年(1859)の六字名号碑や昭和3年(1928)の馬頭観音などの石碑や六地蔵が並ぶ。住職は呑海寺と兼務。 |
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{右・寄}月窓山 心光寺 [浄土宗] 小田原市東町1-25-35 心光寺入口信号を右折すると正面にある。入口右に文化14年(1817)の徳本上人名号碑がある。入って右に大きな松と鐘楼があり奥に薬師如来を安置する薬師堂がある。 |
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{右}松原山 道場院 [浄土宗] 東町1-30-30 鰻昇の向かいソエダ理美容室の先にある。鎌倉の光明寺の末寺。入口左に正徳5年(1715)の六字名号碑がある。 山王保育園を併設。 |
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{右}篠曲輪跡(ささくるわあと) 山王川に架かる山王橋を渡るとある川岸の石垣。北条氏時代の小田原は東西を酒匂川、早川に挟まれ南は海、北は箱根山という好立地に加え内郭(本丸・二の丸・三の丸)の周りに町全体を周囲約9Kmで囲む外郭があり全国屈指の規模を誇った。曲輪と呼ばれる石垣や堀が何重にもある防御構造は永禄年間(1558-69)ごろから構築が始まり上杉謙信、武田信玄に攻撃された経験も活かし強化され五代氏直の時、秀吉の攻撃がはじまる直前に完了した。ここもその曲輪一つで天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めで一番戦闘の激しかった場所と伝わる。山王川は江戸時代は芦子川と呼び山王橋は長18間幅3間の板橋で河原には刑場があった。 |
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{右}山王神社 浜町4-30-15 山王橋を渡ってすぐ。祭神は大山祇命、大山咋命、少彦名命。創建は不明だが永禄元年(1558)ごろには海岸の松林の中にあって天正18年(1590)小田原攻めで布陣した家康が毎日参詣していたと伝わる。慶長18年(1613)大波で崩壊しこの地に移転した。旧社地に昼間でも井戸底の水面に星が映ると有名だった星月夜ノ井戸があり一緒に移転しても現象は続き寛永元年(1624)朱子学者林羅山が訪れ星月夜の詩を詠んだ。現在も井戸は境内左にあり横に昭和52年建立の石井福太郎書による林羅山詩碑がある。他に旧山王原村の古地図、田中義一陸軍大将書の忠魂碑、男根石、昭和53年の青銅鳥居、平成8年の狛犬がある。社宝として文化4年(1807)造の神輿が保存されている。 |
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{右}大渕山 宗福寺 [曹洞宗] 浜町4-30-10 山王神社となりにある。門を入って右側に寛文7年(1667)正徳6年(1716)などの庚申塔3基や石塔が並びその奥に山王神社の分社がある。明治の神仏分離時に御神体を仮本堂に安置していたものを近年祠を建て稲荷社と白山妙理大権現を合祀し祀っている。山王橋を渡ってから道幅が広くなり小田原市街地へ入っていく。 |
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{右}小田原城址江戸口見附跡 やがて歩道橋があり横の新宿公民館前に木柱と説明板と奥に大きな松の老木と小さな祠がある。ここから外郭に囲まれた 城内に入るため直進できないよう北条氏の時代に枡形門が設けられ山王口の見附と言われており江戸時代に東海道が整備された時に江戸口見附となった。説明板には大正期初期の写真もあり両側に土塁の名残があるものの道はほぽまっすぐに直されている。公民館手前の砂利道を右折し突き当たったら左折し道なりにいくと蓮上院の裏に北条氏時代の外郭土塁が残っており説明板がある。その先には土塁の一部が戦争の爆撃でえぐられている箇所もあり同様に説明板がある。 |
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{右}一里塚跡(20) 歩道橋を渡った反対側の空地に昭和33年建立の「江戸口見附並一里塚址」石碑と説明板がある。一里塚は当初は街道の両側にあったが大波のため江戸口見附の外南側一つになり高6尺5寸(197cm)幅5間(9m)木は最初榎だったが松に変わった。 このあたりは新宿と言い以前は南寄りにあった古東海道が城の入口がここになったことによって道筋が変わりできた新町で藩主帰城の時の出迎場であったほか藩役所などへ出向く村人達が泊る宿屋である郷宿や茶店があり小田原提灯職人の家などもあった。 |
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{左・寄}北条稲荷 一里塚の横の道を左折しすぐ右折すぐ左折で正面にある。元亀2年(1571)死去の北条氏康の死因を老狐の祟りと考えた子の氏政が城内に祠を建て崇めたのが始まりで1580年頃当地に移された。境内右に蛙に似た自然石(蛙石)があり城内の庭にあったものが移されたと言われるが災害でも動かないため地下岩盤の先端とも言われる。小田原に異変があるときには必ず鳴声を発し小田原落城の際は盛んに鳴いたと言われる。また雨も降らないのに石が濡れるとも伝わる。稲荷は昭和26年の一帯の火事で焼失し昭和30年再建された。この時天皇皇后より見舞金を戴いたため裏の万年公園(古新宿児童遊園)は恩賜記念として作られた。ここの前を通る道が以前の古東海道である。 |
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小田原宿 本陣4脇本陣4旅籠95家数1542人口5404[天保14年(1843)] 江戸から初めての城下町であり箱根の山越えを控えた大宿場として栄えた。宿内は道幅5間(9m)長さ東西20町56間(2.3km)で本陣、脇本陣合せて8軒は53次の中で最多。海にに面し漁業が盛んで鰹、鯵、鮑、鰤、烏賊など多くの海産物がとれ「鰹のたたき」「烏賊の塩辛」「かまぼこ」など名産物が生まれた。かまぼこは鈴廣、山上蒲鉾、いせかね、山一、杉兼など創業100年を越える店が多い。梅干は北条氏の時よりの名物で美濃屋、ちん理う、田中屋などが有名。文化3年(1806)までは飯盛女を置かなかった。現在の町には旧町名の案内が刻まれた石柱が至る所に整備されている。 |
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{左}丸う田代(かまぼこ伝統館) 浜町3-6-13 新宿の交差点を左折し国道1号から分岐し蹴上げ坂を登るのが旧東海道ですぐに右折し蒲鉾屋が並ぶ商店街を通る。敵が直進できないようわざと街道を直角に曲げた名残。しばらく行くと明治初期創業の丸う田代があり店内右の一角にかまぼこ伝統館として蒲鉾造り絵巻や原料魚の模型、つけ包丁などの道具、細工蒲鉾などを展示している。予約により細工蒲鉾の実演見学やちくわやさつま揚げを作る体験も可能。8:00-20:00、無休、無料。小田原の産業文化の学習のために設置されたミニ博物館「街かど博物館」の一つで蒲鉾を扱った街かど博物館は他にかまぼこ博物館もある。
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{左}古清水旅館 本町3-5-25 慶長年間(1696-1615)創業で江戸時代は小清水と呼ばれていた旅籠小清水屋伊兵衛だった。隣地の大清水と呼ばれた清水金左衛門本陣の流れもひいており館内には本陣の資料が展示されている。現在の建物は戦後のもの。日帰り入浴700円。向かい(幸繁割烹)には米屋三右衛門脇本陣があった。手前の青物町交差点近くには小田原宿に2軒あった問屋場の一つ「下の問屋場」があり上の問屋場と10日交替で業務を行っていた。 |
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{左}明治天皇宮ノ前行在所址(清水本陣跡) 古清水旅館となりに碑と説明板がある。清水金左衛門本陣があった場所で天保期には現在の山田呉服店のあたりまでの410坪の敷地に間口18間242坪の建坪で尾張徳川や薩摩島津、肥後細川、安芸浅野、近江井伊、備前池田、伊勢藤堂、土佐山内などの諸大名が宿泊した。明治元年(1868)東幸の際を含め5回明治天皇が宿泊しており明治天皇聖跡小田原保存会が昭和15年敷地の一部を買収し案内板と高さ2.73mの近衛文麿書「明治天皇小田原行在所趾」石碑を立て緑地として整備した。なりわい交流館に本陣の見取図が展示されている。 |
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{右・寄}松原神社 本町2-10-16 斜め向かいの小道を右折すると正面。草創は久安年間(1145-50)で祭神は日本武尊、素盞鳴尊、宇迦之御魂神。もとは漁師の氏神で鶴の森明神と言ったが北条氏綱のころ海中から出現した十一面観音を祀って松原大明神となって以降歴代城主から小田原宿の総鎮守として庇護を受け貞享3年(1686)大久保忠朝が藩主になった頃から盛大な祭礼が始まった。明治2年(1869)に松原神社と改称。往時は海岸に近く境内にはその名残の松の大木がある。境内左に明治元年の明治天皇行幸の際の内侍所奉安所跡碑があり西郷従徳書で昭和14年建立。狛犬は大正15年と昭和34年。境内社は左に手置社、右に稲荷社、八幡社などがある。社殿下は貸しガレージになっている。 |
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{左・寄}山田呉服店(染め織り館)本町3-5-23 宮ノ前行在所址の一軒挟んで隣。創業120年以上の老舗呉服店で店内右に絹織物をつくる工程が詳しく解説されているほか染物の型紙などが展示されている。9:30-18:30、日曜休、無料。小田原の産業文化の学習のために市内16の店舗や工場の一角に設置されたミニ博物館「街かど博物館」の一つで他にも近くには陶彩ぎゃらりぃ(浜町3-1-44)ひもの工房(浜町3-8-4)かつおぶし博物館(本町3-2-12)があり小田原駅周辺にも和菓子伝統館、倭紙茶舗、工芸菓子展示館、漆・器ギャラリーがある。東海道沿いにも他にかまぼこ伝統館、薬博物館、梅万資料館、とうふ工房がある。 本町の交差点で右から来る国道1号が合流し急に道幅が広がる。 |
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{左}小田原宿なりわい交流館 本町3-6-23 国道との合流地点にある。江戸時代は住吉屋吉衛門と呼ばれた旅籠で角地にあったので「角吉」と呼ばれていた。大正時代はブリ漁などに使われる魚網の問屋で震災で倒壊し昭和7年に再建された建物を再整備し平成13年になりわい交流館としてオープンした。1階は古い宿場地図などが貼られ無料のお休み処となっておりお茶の無料提供と観光案内など、2階はイベント会場として利用されており毎月第2,4日曜日には小田原提灯製作体験も行われる。10:00-18:00、無料。このあたりは宿場の中心で交差点の対角には高札場があり城主専用の入口である浜手門口もあった。旧東海道はこのまままっすぐ進む。隣には豆大福が有名な昭和10年創業の和菓子屋伊勢屋がある。 |
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{右・寄}龍殊山 徳常院 [曹洞宗] 本町3-13-11 本町交差点から30mほどの道を左折し100mほど行くと右にある。本堂右の別棟二階に片足を下げる延命地蔵尊とも呼ばれる露座の大仏がある。総身5mの青銅製で正徳3年(1713)神田の鋳物師が作り箱根芦ノ湖畔の賽の河原に安置されていたが明治2年の廃仏稀釈のあと東京の古物商に売り渡され運搬途中この地で動かなくなり像に触れると発熱する者が続出したため徳常院の世話人たちや町の有志が65両で商人から買い戻し寺に安置した。火あぶりとなった八百屋お七の恋人で吉祥寺の小姓吉三郎がお七を弔うために作ったという伝説もあり別名吉三地蔵とも言う。門を入って右に稲荷社がある。 |
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{左}明治天皇本町行在所跡(片岡本陣跡) 本町3-12-3 少し行き山室電機のあたりが福住屋兵助脇本陣があった場所でその斜め向かいのエネオスのあたりに島屋太郎兵衛脇本陣があった。マンション「レアージュ小田原本町」横は片岡永左衛門本陣があった場所で少し奥に行在所跡の案内板と石碑がある。間口10間半で伊予松平、岡山、岐阜、三重などの諸大名の常宿となっており明和元年(1764)には将軍家治の就任祝賀のための朝鮮通信史を迎えている。文化2年(1805)火災により焼失し建て替えた記録もある。明治11年(1878)明治天皇が北陸・東海御巡幸途中に宿泊し明治天皇聖跡小田原町保存会が昭和12年土地の一部を買取し昭和14年高さ2mの平沼騏一郎書「明治天皇聖蹟」石碑を建立した。 |
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{左}小伊勢屋 本町3-12-26 本町行在所跡の隣。江戸初期から旅籠を営み創業400年といわれる。現在は旅籠茶屋と称して旅館、宴会、忌中払、法要、結婚式など多目的に営業している。隣の料理茶屋古い勢は和風料理専門の食事処。各800円でランチサービスも行っている。この裏のあたりの海岸は御幸の浜と呼ばれ明治6年(1873)明治天皇皇后がおそろいで地引網を見物した場所。それ以前は小田原海岸、袖ヶ浜等と呼ばれていた。現在は沖合に人工リーフも設置され海水浴場として賑わっている。 |
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{左}盛月堂総本舗 本町3-12-22 明治17年(1884)創業の和菓子店。小田原の名産である梅を使った和菓子が多く求肥でくるんだ餡を梅酢に漬けたしその葉でさらに包んだ甘ずっぱい甘露梅(12個840円)や梅ようかん(450円〜)や青梅の甘露煮を使った梅しずか(180円)などがある。他に栗が1個入った栗最中や栗大福(各120円)二の丸最中(160円)も好評。営業時間10時-18時。このあたりから御幸の浜交差点手前にかけてが久保田甚四郎本陣があった場所で紀伊徳川、筑前黒田、長門毛利、阿波蜂須賀、佐賀鍋島、福井松平、久留米有馬などの大名が宿泊した。交差点渡ったあたりには小田原宿に2軒あった問屋場の一つ「上の問屋場」があり下の問屋場と10日交替で業務を行っていた。問屋場向かいには虎屋三四郎脇本陣があった。 |
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{左}済生堂薬局小西本店(薬博物館) 本町4-2-48 間中病院を過ぎてまもなくある。寛永10年(1633年)創業の老舗の薬種商。瓦葺寄棟造の主屋の前面に銅板葺の下屋を付した建物は関東大震災で倒壊した明治のものを大正年間に復元した国登録有形文化財。中には薬の棚の百味箪笥や薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など薬関係の品が展示されている。百味箪笥には今もモグサやハトムギ、センナなどが整理され使用されている。小田原産業を紹介する街かど博物館の一つ。8:30-21:00、日曜日定休、無料。 |
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{右}ういろう 本町1-13-17 斜め向かいにある八棟造の建物で北条早雲に招かれた京都外郎家の子孫宇野藤右衛門定治の住居として大永3年(1523)建てられ関東大震災などの倒壊を経て平成10年に新築。京都外郎家は元の礼部員外郎を勤めていた陳宗敬の子宗奇が故国に伝わる薬の霊宝丹を製造販売したのが始まりで天皇より透頂香の名を賜ったが人々には外郎と呼ばれた。銀色小粒で胃腸や喉の痛み、船酔いに効き亨保年間(1716-36)2代目市川団十郎は歌舞伎18番外郎売を創作。接待用の自家製菓子も明治から有名になり現在は菓子を中心に販売。平成17年店奥の明治18年築の蔵を利用して外郎博物館を開設。
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{左}メガネスーパー本社 本町4-2-39 ういろうの向かいにある。昭和46年(1973)小田原市に有限会社ニュー湘南眼鏡としてスタートし3年後にメガネスーパーとしての一号店を埼玉県大宮市にオープン、現在も全国展開を続ける業界第2位のメガネ店チェーンの本社。平成18年より箱根駅伝の往路の小田原中継所が鈴廣前からここに変更になった。江戸時代にはこのあたりに清水彦十郎本陣があり出雲松平、伊予加藤、津和野亀井、大垣戸田などの大名が宿泊した。
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{左}欄干橋ちん里う(梅万資料館) 本町4-2-37 メガネスーパーとなり。明治2年(1869)創業。梅干は北条早雲が薬効と日もちの良さに目をつけ城内や士族屋敷に植えさせた頃に始まり小田原の名物になっており店内には明治初期に漬けた古い梅干や梅干の種など関連資料を展示している。黒焼きや烏梅などの珍しい食材の展示販売や種を使って小物を作ったり梅の実のとれる時期には梅を漬ける体験もできる。小田原産業を紹介する街かど博物館の一つ。9:00-18:00、無休、無料。 |
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{右・寄}箱根口門跡 箱根口交差点を右折し少し行った右にある枡形門石垣の一部でさらに先左の小田原スポーツ会館前に箱根口周辺遺構の説明板がある。小田原城三の丸の南側入口だった箱根口の周辺は延宝年間(1673-80)に大改修が行われている。右手の三の丸小学校は文政5年(1822)城主大久保忠真が創設した藩校集成館の跡で日新館、幸学校、啓蒙学校など名を変え本町小、城内小となり平成4年に2校が統合し三の丸小となった。その先は城趾公園の入口で左には御感の藤と呼ばれるかながわ名木100選の藤棚がある。樹齢200年で最初は藩主愛玩の鉢植えだったが明治の末には唐人町の民家にあって御用邸に向かう当時皇太子だった大正天皇が感嘆し名物となり大正11年(1922)ここに移植した。 |
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{右・寄}小田原城址公園 箱根口より城趾公園に入ると幕府御用の宇治茶を江戸へ運ぶ御茶壺道中が宿泊したことに由来する御茶壺橋と御茶壺曲輪跡がある。さらに進むと左に出土品や剥製を展示する郷土文化館(無料)がありさらに先右には市の天然記念物の巨木イヌマキ(目通り幹周4.9m樹高20m)がある。城址には明治34年(1901)御用邸が建てられたが震災後の昭和3年(1928)市に払い下げられ昭和35年(1960)天守閣、昭和46年常磐木門、平成9年に銅門が復元されるなど整備され現在は国指定史跡になっている。他に小田原城歴史見聞館(300円)や常盤木門の内部を利用した美術館の小田原城ミューゼ(800円)、動物園(無料)、子供遊園地、図書館、弓道場、近代文学の先駆者北村透谷の碑などがある。 |
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{右・寄}小田原城趾・天守閣 土肥一族の小早川氏が現在の小田原高校辺りに館を築き応永23年(1416)大森頼明が、明応4年(1495)北条早雲が奪った。北条5代のうちに拡張が続き天正18年(1590)秀吉の攻撃で落城し家康の支配下になり江戸時代を迎え大久保氏、阿部氏、稲葉氏そして再び大久保氏を城主とした。寛永10年(1633)と元禄16年(1703)の大地震で大破したが再建。明治3年(1870)廃城となり天守閣など主な建物は解体された。昭和35年築の現在の本瓦葺き3重4階鉄筋コンクリート造の天守閣内は最上階に展望室と下階に美術品や武具を展示し一般400円。近くにある城の歴史を映像で紹介する小田原城歴史見聞館との共通券は600円。両方とも9時-17時、年末年始休館。 |
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{右・寄}報徳二宮神社 城内8-10 箱根口から左に行くとある。明治27年(1894)二宮尊徳を祭神として創建。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築した。拝殿礎石は天保の大飢饉の際、尊徳が城内の米蔵を開き領内一人も餓死者を出さなかったというその米蔵の礎石。境内左のブロンズの二宮金次郎像は昭和3年(1928)昭和天皇即位記念に全国の小学校へ約千体制作されたが戦時供出でこの一体が残存するのみでメートル法普及直後の制作のため高さは1mちょうど。境内右には小峯曲輪北堀の遺構がある。鳥居は昭和8年の青銅、大正15年の石製など。狛犬は大正5年。隣接してレストランなどの報徳会館、近くに報徳博物館がある。 ![]() |
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