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{左}増田平四郎翁碑 手前左に昭和37年建立の交通安全祈願の地蔵がある広沼橋で昭和放水路を渡ると左に富士市の標柱があり土手を左に入ったところに明治31年建立の碑、翁の石像、明治23年建立の女鹿塚新田の碑がある。昭和放水路は増田平四郎が明治2年(1869)に完成させ同年に高波で崩壊したスイホシと呼ばれる全長505m幅7mの大排水路の跡地を昭和18年(1943)に再掘削したもの。天保7年(1836)平四郎は浮島沼の干拓を計画し韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ籠訴すること6度を経て発案から27年目の慶応元年(1867)に身延山久遠寺の資金援助を受け着工、女鹿塚新田開拓の基礎となった。平四郎の墓は妙泉寺(青野487)にあり宝物資料館に資料も保管されている。 |
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{左}沼田新田一里塚跡(33) 少し先の柏原保育園入口を過ぎたところに東海道400年祭にあわせて整備された平成13年の碑や庭石、木などがある。 |
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{右}春耕道しるべ第一号 先に進むと明治42年(1909)建立の碑がある。ここから北に向かう細い道がありここを起点として旧吉永村農民の仁藤春耕が明治39年(1906)から5年をかけ吉永村、今泉村の北部を経て十里木、印野、須走に至る十里木街道などの道沿いに自費で約120基の道しるべを建てた。碑には中央に「富士沼の景色見渡す愛鷹の 山の木陰に駒ぞいさめる」と刻まれ右下に「須津村役場一里、吉永村役場31町」その周りに富士山や旅人、葦と小舟、釣り人などの線画が刻まれている。 |
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{右}米之宮神社 富士市田中新田211 すぐ先の田中町の信号にある。田中町公会堂と赤い鳥居の淡島神社との間を進むと奥にある。手水石は昭和15年、灯籠は4基あり2基は皇紀2600年の昭和15年(1940)。右奥にはブランコなどの遊具もある。境内のクロガネモチ、エノキ、ムクノキなどは富士市の保存樹林。田中新田の鎮守で田中新田は延宝6年(1678)武蔵国鳴子の武士、田中権左衛門が開拓し文化13年(1816)の年貢取立て帳によると家の数11軒で人口は50人。左隣には淡島神社があるがこちらは住所的には檜新田に入り鳥居横には単体浮彫道祖神がある。 |
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{右}愛鷹神社(あしたか) 檜新田161 桧町歩道橋をくぐってすぐ。境内右には単体浮彫道祖神、灯籠1基、小祠、ブランコ、鉄棒がある。社殿前の灯籠は昭和40年。社殿後ろの両側にも小祠がある。境内のエノキ、クスノキ、クロガネモチが富士市の保存樹林になっている。檜新田の鎮守で檜新田は江戸時代初期に船津新田を開発した三井氏の一族10人程が移住してきたのが始まり。天明年間(1781-89)の村高は18石余で家数は12軒人口は53人。この付近一帯は三新田遺跡と呼ばれる平安時代の集落跡で昭和56年(1981)富士市が学術調査し多くの住居跡を発見したが現在は埋め戻されている。このあたりにあったとされる柏原宿跡とも推定される。 |
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{右}庚申堂 ひのき交差点から先の県道380号は高架になり右へそれて東海道線を横断して行くが東海道は交差点を左へ入って県道170号線に分岐する。歩道は大きく左に迂回して周り込んでおり周りこんだところに富士市の標柱もあるが周り込まずに直進する旧道の名残も残っている。分岐してずっと歩いて行くと庚申堂があり堂の左に秋葉山と刻まれた石塔や庚申塔など5基の石仏・石塔が並んでいる。右には水準点もある。その先にはドラえもんやピカチュウの石像が置いてある大石石材店がありバス停も石屋前という名前になっている。 |
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{右}天文堀碑 石屋からしばらく先に昭和3年(1928)建立の碑と平成6年設置の説明板がある。天文堀は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫である高橋勇吉(1806-1866)が自分の田畑などを売り払って工事費にあて天保7年(1836)から嘉永3年(1850)の14年間の歳月をかけて造った排水路で勇吉が天文の知識に優れていたことから人々が天文堀と呼んだ。このあたりは水はけが悪く海から塩水が逆流して度々作物を枯らす湿地帯だったため堀が完成した後は三新田(大野・檜・田中)の80haに及ぶ水田に長く重宝された。現在は土地改良や道路などで開発が進み天文堀は姿を消した。 |
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元吉原 左奥にある元吉原小学校を過ぎると今井3丁目に入り目の前に製紙工場の大きな煙突が見えてくる。この辺が元吉原で慶長6年(1601)東海道整備時の吉原宿はここにあった。寛永16年(1639)の高潮で跡形も無く流されてしまい約2km先の中吉原に移ったが延宝8年(1680)にそこもやられ天和2年(1682)にさらに北の新吉原に移った。吉原は水に恵まれていたため江戸時代から製紙が盛んで製紙産業の町として発展してきた。現在の富士市も富士山の豊富な地下水を利用する製紙・パルプ工場が富士川河口の低湿地帯を埋め立てた大正中期から急増し全国有数の産地になった。この辺は常夜燈も多い。 |
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{左}香具山 妙法寺 [日蓮宗]今井2-7-1 しばらく行くと立場旅館の向かいにある。田子の浦に漂着した聖徳太子作の木造毘沙門天像を祀り富士登山前に水垢離をする修験者道場だった堂が起源で寛永4年(1627)日深が寺を創建し元禄の頃に隠居した久遠寺31世一圓院日脱が中興開山した。石段上左に銭洗い池、右にお身拭い毘沙門天、境内には極彩色の中国様式香炉場を始めインド、チベット、日本風の建物が混在し左奥の朱色の祠に毘沙門天の沓石という大石、その奥に洞窟七福神堂(拝観300円)がある。鳥居もあり階段横には大正13年(1924)の狛虎。鐘楼の鐘は昭和27年。2月の鈴川だるま市は高崎・少林寺、調布・深大寺と並び日本三大だるま市の一つ。明治7年(1874)元吉原小学校(今井3-4-2)の前身の香久舎が置かれた。 |
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{左・寄}木之元神社 鈴川東町1-29 東海道線の線路に突き当たる少し手前左の小道の角に昭和35年の秋葉山常夜燈があり左折していくと階段がある。霊亀元年(715)玄コムが建てた行住寺の守護社として奈良の畝尾都多本神社を分霊して造られた。祭神は泣澤女命。階段を昇り昭和57年の鳥居をくぐって右にムクロジの巨木がある。社殿の右奥にはベンチがあり富士山がよく見える。その後ろには明治39年(1906)の日露戦争紀念碑。狛犬は昭和8年(1933)。社殿の左には伏見稲荷もあり右には文字のみの庚申塔や秋葉山塔、左には子安大明神の祠やクスノキの大木もある。クスノキの左には単体道祖神と昭和57年の拝殿竣工記念碑もある。 |
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鉄道により分断される東海道 東海道線の線路に突き当たると道は線路沿いに左に曲がり吉原駅南口に向かうが本来の東海道は線路の向こう側の神山時計店のあたりに続く。線路を渡る手段がないため少し手前右の富士市の標柱がある二叉路まで戻り居酒屋の隠家万福(鈴川東町1-14)横を右折し鈴川踏切で東海道線を渡って迂回する。渡って日本製紙富士工場鈴川(今井4-1-1)の塀に沿って道なりに左へ曲がりしばらく行くと神山時計店前に出る。 |
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河合橋 吉原駅北口交差点を過ぎしばらく進むと沼川に架かる河合橋を渡る。江戸以前の東海道は吉原湊から富士川まで渡船だったため江戸初期に初めて架けられた。手前左に天明3年(1783)の馬頭観音がある。橋を渡ると東海道は東海道線から次第に離れ大昭和紙工産業(依田橋61-1)に沿って二叉路を左に進むと途中に松が1本と旧東海道標示、富士市の標柱(地図付)がある。やがて吉原駅入口交差点で国道139号線に合流し150mほど先の国道1号バイパスと東海道新幹線の高架をくぐる前のホンダプリモ富士(依田橋770-1)の横で右に分岐し県道171号線に入る。高架をくぐり小野田石材を左に見て進むと道は右にカーブしていく。 |
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{左}左富士神社(悪王子神社) 依田橋町10-19 しばらく行くとある。以前は悪王子神社と言い昭和になってから改称した。境内左にある義堤記碑は延宝8年(1680)の大津波の時、高台のため近隣住民の避難場所となったこの地を後に郡長の渡辺藩(しげる)が盛土してさらに高くし災害に備えたと伝える碑。本殿左に伊豆型道祖神がある。境内右に子安大明神の祠。鳥居は大正6年(1917)。境内には他に灯籠4基、溶岩石の上に乗った狛犬3体、鉄棒、ブランコ、すべり台などもある。向かいの影嶋酒店(依田橋町9-45)では広重の浮世絵入りの地酒「左富士」や「東海道五十三次」が売られている。神社の手前に寛永後期から延宝8年まで中吉原宿の東木戸がありその頃の東海道は神社手前から西に進んでいた。依田橋村には依田橋一里塚もあった。 |
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{左}名勝 左富士 左の金子商会手前に庚申塔の祠がありすぐ先の交差点手前で左前方の日清紡富士工場(依田橋町7-34)の後に富士山が見える。東海道の左側に富士山が見える有名な左富士で他には茅ヶ崎の南湖の左富士がある。交差点を渡ると左に左富士ポケットパークがあり説明板、松が2本(1本は江戸のもの)、夢舞台道標左富士がある。広重はこの左富士を吉原宿として描きその浮世絵が大きく彫られた平成15年建立の碑もある。広重の道中日記には「左富士京師より下れば右に見え江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり。」と記されている。このあとバス停左富士を過ぎたところにも平成4年日清紡富士工場が建てた左富士の白い角柱がある。 |
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{左}馬頭観世音の祠 旧道は左にカーブして右富士に戻りしばらく行くと新橋バス停を過ぎたあたり左に依田橋郵便局とセブンイレブン富士市依田橋店がありその間の前に馬頭観音が安置された祠がある。祠の右には明治39年(1906)「馬頭観世音菩薩」と刻まれた碑、左には大正10年(1921)の題目碑もあり題目碑の碑面にも「馬頭観世音菩薩」「左富士」が刻まれている。 |
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{右}平家越の碑 新橋製紙の先で道が二手に分かれるが左へ行くのが東海道で分岐点正面に碑がある。治承4年(1180)富士川と浮島沼の間に陣取り源氏と対峙した平惟盛を総大将とする平家の大軍が飛び立った幾万の水鳥の羽音を敵襲と思い込み一戦も交えず敗走したという富士川の合戦を記念する碑で今泉村青年団によって大正13年(1924)に建立された。富士川は東に6kmも離れているが平安時代の富士川はいくつもに分流しこの辺りにも流れていて現在は和田川が流れている。碑の前に他から移設された昭和3年(1928)など石柱の道標3基が置かれている。左富士の碑と同じく絵を浮き彫りにした平成16年建立の碑もある。左に分岐するとすぐ昭和62年竣工の平家越え橋(長さ19.530m幅10.2m)で和田川を渡る。 |
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{左・寄}山神社 (依田原山神社) ジャトコ一地区工場(吉原宝町1-1)を過ぎた交差点を渡って左折ししばらくして右折すると右にある。祭神は大山祗神。鳥居、灯籠は昭和11年(1936)、社殿前の灯籠は左が享保8年(1723)で竿が八角形、右が天保5年(1834)の秋葉山常夜燈。狛犬は昭和9年。境内右にブランコ、すべり台、ジャングルジム、鉄棒などもある。吉原祇園祭(おてんのさま)は250年前から行なわれ山神社を含め天神社、八幡神社、八坂神社(吉原1-5-17)、木之元神社(中央町2-14-1)の宿内5社の合同祭で近年に今泉八幡神社(今泉1-13-44)も加わり21台の山車、屋台を引回し20万人の観光客を集める富士市最大の祭となっている。 |
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{右}東木戸跡 ジャトコ一地区工場(吉原宝町1-1)を過ぎた交差点を渡って真っ直ぐ行くと岳南商店街に入り少し先の東京電力駐車場前に富士市の標柱がある。富士市内には「見よう歩こう富士市の東海道」の統一標柱があり茶色の柱の側面に前後の観光ポイント、上部に地図がある。ここから吉原宿で西木戸までの長さは約11町(約1.2km)で奥行き平均30間(約54.6m)面積13町3反9畝(約13.3ha)の町が広がっていた。江戸時代付近には宿の米倉があった。街道沿いには寛政2年(1790)建立の一字一石経王塔もあったが現在は富士市立博物館屋外(広見公園)に移されている。 |
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吉原宿 本陣2脇本陣3旅籠60家数653人口2832[天保14年(1843)] 元吉原宿から津波や高潮の被害により中吉原宿、新吉原宿へ2回移転した。現在地の新吉原へは延宝8年(1680)の大津波の被害で天和2年(1682)移転し天神社を鬼門にあたる場所に置き中吉原宿時代を規準にして民家や寺地を定め他の神社や寺院も中吉原から移転した。家の材木には富士山の風損木を利用した。最盛期は本陣2軒脇本陣4軒に100軒以上の旅籠屋があり東海道有数の宿場町として栄え宿の石高は百一石余。明治22年(1889)町村制施行により吉原町になった宿場は昭和23年吉原市になり昭和41年(1966)に(旧)富士市、富士郡鷹岡町の2市1町が合併して現在の富士市となった。 |
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{左・寄}青陽山 陽徳寺 [臨済宗妙心寺派]吉原1-4 岳南鉄道吉原本町駅手前の道を左折するとある。元吉原宿時代から吉原宿とともに再三移転してきた寺で現在は瑞龍山法雲寺(今泉5-6-48)が管理している。本尊は等身大の木造地蔵尊像で青野村(現:沼津市青野)の光明庵に安置されていたが洪水で浮島沼に流され元吉原宿に漂着したもの。 新吉原に移り寺町に眼病が流行った時に願をかけると治り地蔵の目に目やにがついていたので身代わり地蔵と呼ばれるようになった。入口左に文政6年(1823)徳本六字名号碑、右に寛政5年(1793)積善供養塔。境内右には鐘楼、左には六地蔵の他に2体の地蔵、大正3年(1914)の法界塔、本堂右には文字に3猿が彫られた庚申塔、左奥の祠の中には閻魔像ある。地蔵尊祭の日には地獄極楽図も公開される。 |
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{左}岳南鉄道 吉原本町駅 陽徳寺入口となり。岳南鉄道は吉原駅から岳南江尾までを結ぶ単線で戦前に敷設された日産工場の専用鉄道を一部利用し戦後に開通した。吉原本町駅は昭和24年(1949)年開業。 ここから3つ目の比奈駅は日本最古の物語「竹取物語」の発祥の地とされ竹採姫の3文字が刻まれた竹採塚を中心に遊歩道が整備された竹採公園がある。踏切を渡った先左の東京電力の前に吉原宿の案内板がある。 |
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{右・寄}天神社 (吉原天神社・天満宮) 吉原3-1 少し先の交差点を渡ると吉原商店街(虹いろーど)に入り少し先のスルガ銀行富士吉原支店(吉原2-10-23)先を右折すると正面。天香具山(鈴川や今井地区の砂丘地帯)に見付宿があった鎌倉時代に創建され宿の総鎮守として祀られた。江戸時代になってからも元吉原宿の守り神として宿の移転と共に移された。祭神は天神社として創建された当初は瓊瓊杵尊だけだったが寛永4年(1627)菅原道真を祀り天満宮とも呼ばれるようになり後に木花咲耶姫命、木之元神も合祀された。鳥居は元治元年(1864)灯籠は大正11年(1922)と社殿前に嘉永6年(1853)。社殿左に平成10年の道真像、右に昭和43年の石の玉がある。境内左に僧形道祖神、右に慶応2年(1866)の常夜燈。境内左には鉄棒もある。 |
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{左}野口祖右衛門脇本陣跡(現:ノグチカメラ)吉原2-11-4 天神社入口の少し先に歩道のタイルとしてプレートが埋められている。江戸時代は脇本陣だった野口家は現在はカメラ屋として続いている。吉原宿の本陣、脇本陣などは商店街の歩道に図画レリーフの金属プレートを埋め込んでその跡地を示している。 |
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{左}明治天皇御小休所跡 少し先の駐車場の角に石碑がある。明治元年明治天皇が休憩した高砂館があった場所で碑には「明治天皇御小休所 東海道吉原 高砂館跡」とある。この先の交差点より東海道は県道22号になる。少し先右のコンドウ薬局(吉原2-8-21)前に下本陣と呼ばれた長谷川八郎兵衛本陣(敷地570坪建坪259.5坪)跡、すぐ先左のおもちゃのキムラ(吉原2-13-7)前に杉山平左衛門脇本陣(四つ目屋)跡、少し先右のJOY FASHION前に鈴木伊兵衛脇本陣(扇屋)跡、その横のメガネのヤナセ(吉原2-7-2)前に本宿問屋場跡の歩道プレートがある。下本陣は富士市立博物館(伝法66-2)に復元模型がある。 |
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{右・寄}泉流山 唯称寺 吉原3-6-10 メガネのヤナセを右に入ると正面。慶長18年(1613)元吉原宿に創建され宿とともに移転した。中吉原宿にあった時に3世住職の夢に河童が現れ増水で和田川を流れてきた馬鍬が住処の入口を塞ぎ出れないと言うので住職が行って取り除いたところ礼に茶壺を貰ったという伝説がありこの時の馬鍬と茶壺が寺宝として保管されている。平成12年に改築された本堂の屋根には巴蓋として河童をデザインした瓦も載っている。墓地には幕臣原権次郎の三男として生まれ脇本陣扇屋鈴木家の婿養子になり幕末、明治と問屋役として采配を振るい晩年には画家として名声を博した鈴木伊兵衛(香峰)の墓がある。 |
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{左}長さん小路 (正式名:いかりや長介氏市民感謝状受賞記念通り) 少し先で左に分岐する小路。昭和19年(1944)に疎開後、工場の仲間とバンド活動を始め吉原のダンスホールで演奏するなどデビューまでの16年間を富士市で過ごし死後の平成16年富士市初の市民感謝状が贈られたこと記念し翌年の1周忌を機に命名された。入口の柱の名称板の題字は長男碇矢浩一氏の筆。すぐ先左に江戸時代のこの辺りの名物だった「山川志ろ酒」の復刻品を売るイチカワ酒店。その斜め向かいのパチンコ富士見会館吉原店(吉原2-5-2)前には上本陣と呼ばれた神尾六左衛門本陣(敷地630坪建坪204坪)跡、向かいの和菓子(栗饅頭)の南岳堂(吉原2-3-24)前には矢部清兵衛脇本陣(銭屋)跡の歩道プレートがある。 |
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{左}鯛屋旅館 吉原2-3-21 南岳堂から5軒ほど隣にあり前に旅籠跡の歩道プレートがある。天和2年(1682)創業の旅籠鯛屋與三郎で清水次郎長や山岡鉄舟も常宿にしていた。玄関を入ると山岡鉄舟自筆礼や神尾本陣から譲り受けた大名の宿礼、身延山参拝指定旅館札が掛かっている。お食事処「吉原本宿」としても営業しており1階には天保6年(甲午)本陣の図面など宿場の資料展示や土産販売もしている。部屋は一人用和室(4.5畳)が大半で素泊まり3450円〜。梅と高麗人参のエキスを含んだ梅風呂の湯もある。少し先向かいに宿場小まんじゅう、富士の白酒まんじゅうを売る老舗和菓子屋きよせ(吉原2-4-6)がある。
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{右}東海道吉原宿の木杭 東海道は静岡銀行吉原支店(吉原4-1-16)のある交差点を左折するがその角に杭、銀行の壁に宿の説明板がある。杭には蒲原宿3里、京都90里、原宿3里と書かれている。交差点を直進する道は大宮(現:富士宮市)に向かう大宮街道で分岐点には明治23年(1890)道路改修記念に正面に「東海道 静岡へ十里半」右側面に「大宮道 大宮へ二里半」と刻んだ道標が建てられたが現在は富士市立博物館屋外(広見公園)に移されている。大宮街道に入りすぐ右の横地洋傘店(吉原4-2-2)前には加宿問屋場跡の歩道プレートがある。正徳4年(1714)吉原宿は交通量が増えたので隣の伝法村を加宿として問屋場を新設し月の20日は本宿で月末の10日間は加宿が担当するようになった。 |
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{左}吉原山 妙祥寺 [日蓮宗] 中央町1-9-58 交差点を左折ししばらく行くと十字路があり正面に題目碑と富士市の標柱がある。東海道は右折するが直進していくと昭和60年竣工の赤い橋があり渡ると境内となる。入口左に明治16年(1883)の題目塔、右に弘安5年(1282)大正3年(1914)の題目塔がある。本堂右には大きな日蓮像、左には稲荷神社、向かいには大きな瓦や歴代住職の墓がある。その両脇にある灯籠は貞享3年(1686)。昭和26年の鐘のある鐘楼の周りには慶長13年(1608)宝永4年(1707)正徳元年(1711)などの古い墓碑群がある。 |
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{左・寄}芙蓉山 立安寺 [曹洞宗]中央町2-4-31 妙祥寺の題目碑を右折し150mほど先を左折すると正面にある。門を入るとすぐ左に文化4年(1807)の三界万霊塔と六地蔵がある。明和9年(1772)には成立していたという富士横道観音霊場の23番札所。街道から左折する手前の道を右折すると木の元公園、その奥に木之元神社(中央町2-14-1)もある。 |
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{右}今井山了善院 大運寺 [浄土宗]中央町3-6-21 少し行くと門柱と入った左に単体道祖神がある。永徳元年(1381)乗蓮社大誉上人元阿了善が元吉原に了善寺として創建した。寛永年間に全焼し相州瀬戸島の僧故極上人が再建し大運寺として再開山したが数年後に津波で壊滅、その後は吉原宿とともに移転した。本尊は阿弥陀如来坐像。大正6年(1917)本堂新築、平成5年に本堂と山門改修、平成10年客殿、庫裡を新築。本堂前に地蔵や明治18年(1885)三界万霊塔。本堂裏手に平成10年改築された子育稲荷がある。吉原に病が流行した時に住職の夢に伏見稲荷の狐が現れ境内に祀ったところ治まったと伝わりその際に狐が渡した金の火箸1本を所蔵。
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{右}西木戸跡 住宅地を抜け小潤井川にかかる昭和27年竣工の志けん橋の手前右の枡屋酒店(中央町3-8-11)に富士市の標柱がある。吉原宿の京側の入口となる。小潤井川は潤井川の支流で田子の浦港に注ぎ下流に少し行くと川沿いに桜が植えられ桜の名所になっている。橋を渡ると東海道(県道22号)は錦町北交差点で国道139号に合流する。反対側に渡りラーメンスポット天地人(永田町1-62)の駐車場を斜めに横切るように行くのが本来の東海道。 |
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{右}東海道跡の碑 駐車場を通過すると富士市役所前を通る青葉通りに出る。東海道が横切っている箇所の緑地帯に御影石の碑(高70cm幅104cm厚27cm)と説明碑、小さな松がある。昭和41年富士、吉原、鷹岡の二市一町が合併して現富士市となりこの周辺が中心市街地として依田原新田区画整理事業により整備された際に旧東海道はこの地で分断されたため平成13年東海道400年祭時に跡地として整備された。碑の前には近年南方350mの青島町より発掘された旧東海道の石橋の細長い石2つが砂利に表面だけ出し埋められている。青葉通りの先に道は続いているが渡れないので左の錦町交差点を迂回する。交差点脇に木製の説明板、渡った所には富士市の標柱がある。 |
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{左}磔八幡宮 錦町交差点を渡って右の富士車輌(永田町1-1)と吉田写真館(永田町1-135)の間の道が旧東海道の続き。しばらく進むと駐車場横に参道入口がある。延宝8年(1680)大津波で青嶋村(青島村)は被害を受け幕府は翌年に検地を実施しようとしたが名主川口市郎兵衛は飢えに苦しむ村民を見かねこれを拒んだだめ捕らえられ江戸に送られ磔刑にされた。村人は市郎兵衛の霊をこの地に古くからあった八幡宮に合祀した。社殿の中には富士市出身の漫画家望月あきらの描いた「川口市郎兵衛検地を拒むの図」の絵もある。社殿横には宝永6(1709)3猿、文化9年(1812)文字の庚申塔などの石塔群。参道入口にも天明3年(1783)の文字庚申塔がある。参道から水路を越えた民家の塀前に文字だけの道祖神がある。 |
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富安橋 (旧三度橋) かっぱ寿司の先で五叉路の青島交差点に出る。県道396号線富士由比線(旧国道1号)と県道353号田子浦港富士インター線が交差しているが旧東海道は小林木工所を左に見る右から二本目の県道396号を進む。150mほど先を右折し2本目の道を左折し富安橋で潤井川を渡る。ここは角ごとに「旧東海道順路」の矢印標示板が設置されている。富安橋は正徳元年(1711)第8回朝鮮通信使の通行に際して仮橋が架けられ後に江戸と京、大阪を1カ月に3度往復していた飛脚問屋「三度屋」が42両の資金を出して願い出て三度橋として架け替えられた。昭和9年(1934)に鉄筋コンクリートの橋となり富安橋と改名し昭和63年には右側に歩行者用の橋も掛けられた。橋を渡った左に単体道祖神もある。 |
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{右}袂の塞神 (たもとのさえのかみ) 橋を渡ると川原宿といわれる地域になり小さな川が左に現れる所に明治40年(1907)の洪水で流された建物の跡を示す題目碑「御宝灯流失之碑」と石の角柱がある。しばらく行くと笏を持ち頭巾を被った僧行形道祖神(高さ88cm幅70cm)があり袂の塞神と呼ばれている。塞神とは集落の守るため入口に祀られた道祖神で蓼原と塔の木の集落の境にあるため蓼原単体道祖神とも呼ばれる。年号は不明だが江戸後期の作と推定されている。旧吉原地域では全部で188基の道祖神がありそのうち単体道祖神は86基ある。僧行の単体道祖神は殆どが伊豆方面に集中しているため伊豆型道祖神と呼ばれている。 |
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{右・寄}山神社 蓼原1717-1 塔の木交差点を越えしばらく行くと山神社バス停の手前を右折すると正面。 昭和5年(1930)の鳥居、平成4年の手水石がある。社殿右側に地の神と彫られた石塔と双体道祖神と見られる石像が祀られている。 境内左は塔の木公会堂。 |
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{左}間宿・本市場碑 本市場432-1 富士総合庁舎(本市場441-1)を過ぎ隣の富士フィランセの敷地に沿って歩いていくと小さなスペースに説明碑と榎があり「右かんばら宿」「左よしはら宿」の石柱がある。本市場は吉原宿と蒲原宿の間宿で多くの茶屋が立ち並び名物は白酒、葱雑炊、肥後ずいきだった。白酒は甘酒で山を流れる川の水も白く泡立っていることから山川志ろ酒と名付けられ広重の行書東海道では山川志ろ酒の看板をかかげる茶屋が描かれている。肥後ずいきは肥後が本場ではあったが原料の蓮芋が駿河産の方が良質と言う事で江戸後期には本場ものを凌ぐほど有名になった。間宿には通常旅籠はないが富士川が渡れない時もあったためここには旅籠屋が何軒かあった。説明碑には当時の住居地図や浮世絵も描かれている。 |
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{左}鶴芝の碑 少し行くと民家の前に碑と説明板がある。高さ2m程の碑は鶴の茶屋と呼ばれる茶屋に文政3年(1820)建てられたもので正面に京都の画家蘆洲が描いた一羽の鶴が線刻され上に江戸の学者亀田鵬斎の詩文がある。当時ここから見る富士山は中腹の芝生のように見えるところに鶴が舞い亀が遊ぶように見える絶景で鶴芝・亀芝と呼ばれた。隣には富士市の標柱もあり当時の間宿本市場の絵地図が書かれている。江戸から来た旅人はこの辺りを過ぎると富士山は振り返って見る事になる。 |
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旧東海道跡地の石標 やがて幹線道路に出る。東海道はまっすぐ続くが横断歩道がなく中央分離帯の植え込みに「迂回してください」の立札と石標がある。横断のためには左右どちらかの信号へ迂回して横断歩道を渡る。迂回路を示した地図も設置されている。 |
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{右・寄}瘡守稲荷神社 迂回を右から行くと本市場区公会堂の前の横断歩道を渡ることになり公会堂の横に小さな神社がある。江戸の笠森稲荷に行く途中の武士がこの付近で倒れ村人が白い小石を敷きつめた上に寝かすと治り無事稲荷参りを終えて帰る途中の武士が村人への礼として笠森稲荷から持ち帰った分霊を祀ったのが始まりという。小祠の前に白い小石が沢山あり昭和の初めごろまではイボが出来た人がここから石を借りてこするとイボが取れると言われ取れた者は浜で白い石を拾ってきて二つにして返す風習があった。今では病気平癒、家内安全、進学などの祈願にも白い石が利用されている。江戸時代は幹線道路の位置にあったが道路建設のため移された。鳥居の左には単体僧形道祖神もある。 |
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{右}米宮山 法源寺 [浄土宗] 本市場町1040 幹線道路を渡るとすぐ寺の入口がある。山門前には天保14年(1843)六字名号碑、入って左には和順観音がある。本堂の右には昭和53年熊沢月台の法要を記念して建てられた佐佐木信綱の歌碑「これの世はげにも夢のごとし然れどもうつつにも君が残ししあとは」がある。その横には平成13年建立の宗歌「月影」の歌碑、六地蔵や無縁仏塔がある。灯籠は昭和8年(1933)。明和9年(1772)には成立していたという富士横道観音霊場の26番札所。 |
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