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旧道分岐 ラーメン屋「街道や」(藤沢5-3-5)のすぐ先がY字路になっており県道43号は左にいくが旧東海道は右に行く。道なりに行くと左にカーブしすぐにもとの県道に合流し引地川にかかる引地橋を渡る。二級河川の引地川は古くは七曲りと言われ大きく蛇行していたため水害がたびたびあった。引地とは川の水によって土地が押し出されるという意味。引地橋は江戸時代には土橋だったが明治時代に入って鉄骨橋になった。 |
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{右}引地山 養命寺 [曹洞宗]城南4-10-35 橋を渡るとゆるい上り坂となり相鉄ローゼンを少し過ぎた向かい側にある。創建は定かではないが鎌倉時代に開かれ元亀元年(1570)宗賢院(大庭819)の3世曉堂和尚によって再興された。本尊の木造薬師如来坐像(像高90.5cm)はもとは別の寺の本尊で建久8年(1197)運慶の兄弟弟子の作とされ12年に一度寅年のみ公開される国指定重要文化財。本尊脇侍として南北朝期の作とされる日光、月光菩薩像、その周りの室町時代の作といわれる十二神将、格天井の慶応2年(1866)作の224面の天井絵も所蔵している。本堂左には貞享3年(1686)の庚申塔など石仏や石塔が並び本堂前には明和2年(1765)の銘がある手水石がある。藤沢七福神の布袋尊。 |
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{左}おしゃれ地蔵 養命寺少し先の向かいに祠がある。双体道祖神で女性の願い事は何でも叶えられるとされ御礼に白粉を塗るのが風習となり、おしゃれ地蔵、化粧地蔵という名前が付いた。 |
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{右}メルシャン 藤沢工場 城南4-9-1 おしゃれ地蔵の少し先の向かいに正門がある。大正9年 (1920)設立の大日本醸造株式会社が前身で大正12年には合成酒を製造する大和醸造株式会社となり昭和36年 (1961)に三楽酒造株式会社(現メルシャン)に吸収合併されその藤沢工場となった。ワイン、みりんなどを製造するほか商品開発研究所も置かれている。正門の左には身代わり地蔵と呼ばれる七面地蔵尊がある。工場建設時に街道で行き倒れた人々と思われる人骨が多数出土し、この地にあって霊を静めていたとされる榎の大木の代わりに安置された。東海道をはさんで向かいの羽鳥中学校あたりは江戸時代には大きな沼があった。
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{左}丸寿 羽鳥3-20-9 先の羽鳥交差点(Y字路)で左に進み次の交差点で県道43号は右折するが東海道は直進し県道44号に入る。その先にある和菓子屋丸寿は創業は戦後だがここから北1.2kmほどの地にあった大庭城にちなみ大庭城最中(1個140円)を売っている。北海道産小豆の餡を大庭城の形の皮に包んである明治神宮献上銘菓。大庭城は後に平家方に付いて頼朝と戦った大庭景親の居城で室町時代には太田道灌が本格的に築城し永正9年(1521)北条早雲に攻められたのち北条氏の支配に入ったが秀吉に北条氏が亡ぼされたあと廃城になった。跡地が昭和60年に城址公園として整備されている。 |
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{右}大山道道標(四谷不動) 四谷交差点で国道1号に突き当たる。左側の歩道(小道)を歩いていくとゆるやかに国道に合流する。国道の向かい側には大山道の分岐点があり道標2基と少し大山道に入ったところに石鳥居がある。道標は延宝4年(1676)江戸横山町講中が建立した不動明王が乗ったものが祠の下にありその左に平成17年に再建されたばかりの万治4年(1661)江戸浅草蔵前講中の銘が刻まれたものがある。鳥居は昭和34年に復元されたもので鼻の欠けた天狗の面が掲げられている。ここから大山までは6里(23.5km)でこのあたりは四谷(四屋)辻の立場があって参詣客で賑わっていた。現在も7月1日の大山開きには四谷町内会の年中行事として護摩供養が行われている。 |
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{右}辻堂一里塚跡(13) 羽鳥派出所前交差点を過ぎたところに標柱がある。ここの一里塚は左には榎、右には松が植えられていた。一里塚を過ぎると右側歩道にしばらく松並木が続く。 |
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{右}二ツ家稲荷神社 城南1-3-6 松並木が途切れると二ツ家公民館手前に二ツ家稲荷神社がある。創建時期は不明で延宝7年(1679)天明6年(1786)享和3年(1803)天保9年(1838)などに新築、再築の記録がある。祭神は保食神。明治になり一時期近くの民家の敷地に置かれるなど転々とし昭和18年には海軍に土地を接収されるなどして現在地に移転してきた。現在の社殿は平成8年の建築。街道沿いに寛文10年(1670)の庚申塔供養塔(高さ105cm)があり市の重要文化財に指定されている。周りには天明元年(1781)の双体道祖神などの石仏が置かれている。 |
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{左右}大山道、鎌倉道分岐 先を歩いて行くと大山街道入口交差点がありここからも右に大山道が分岐しており享和3年(1803)の奉巡礼西国坂東秩父供養塔と刻まれた石塔(写真)が置かれている。左からは鎌倉道が分岐しており寛保2年(1742)の石塔が置かれている。このあたりは立場茶屋として二軒の茶店があったことから二ツ家と呼ばれその後「二ツ谷」の地名になった。 |
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茅ヶ崎松並木 すぐに茅ヶ崎市に入り赤松町の松並木になる。ところどころ歩道が車道より高くなったり松だけ高くなったり歩道の真ん中に松が生えていたりする。松並木は茅ヶ崎駅までに他にも本村町三丁目(茅ヶ崎高校、東陶茅ヶ崎工場付近)茅ヶ崎2丁目(JR相模線線路を横断した後)を中心に整備されており中には推定樹齢400年幹周2.2mの松もある。茅ヶ崎高校手前には松並木を描いた広重の竪絵東海道「南湖の左富士」の浮世絵と案内板がある。 |
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{右}明治天皇御小休所址 しばらく歩くと東小和田バス停手前の民家の庭先にある。この先の東小和田交差点で東海道と交差しているのも鎌倉道で右は京都、左は辻堂駅前を通り鎌倉の極楽寺口へ通じる。 |
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{右}龍澤山龍徳院 上正寺 [浄土真宗本願寺派]小和田2-12-73 創建は不明だが付近にあった海圓院が起こりで文治年間(1185-1189)に当地に移された。鎌倉時代に親鸞に帰依し了智と号した佐々木高綱が一時住み浄土真宗に改め無上正覚寺として開基し後に略して上正寺となる。本尊は阿弥陀如来。宝永元年(1704)焼失後、鎌倉の寺堂を移して再建された。現在の本堂は平成15年新築。梵鐘は昭和42年の鋳造。山門を入った左にもとは上野の寛永寺にあった延宝9年(1681)4代将軍家綱供養のための石灯籠がある。市内には同様の将軍供養石燈籠が茅ヶ崎駅前交差点脇や海前寺などにもある。室町時代初期の聖徳太子立像や境内より発見された北朝の康永2年(1343)の板碑も所蔵している。萩原代官屋敷の萩原行篤の墓もある。 |
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{左}天応山神保寺 千手院 [高野山真言宗]代官町1-4 熊野神社の石柱があるファミリーマートさかまき小和田店の向かいにある。17世紀初め元栄和尚が開山し永宝8年(1680)に堅岸和尚が建立した。本尊は十一面千手観世音菩薩座像。関東大震災で本堂が倒壊し現在の本堂はその部材を使い再建された。境内右に閻魔像と十王像を祀る閻魔十王堂があり古くから信仰が篤く閻魔像は夏の大山参りの季節になると北に1.5kmほど離れた大山道沿い(現:新湘南バイパス付近)まで出張開帳していた。他に稲荷大明神や延宝7年(1678)延宝8年(1679)貞享2年(1685)元禄11年(1698)宝永5年(1708)宝暦6年(1756)などの石仏群がある。四国の88箇所遍路巡礼にならって藤沢、鎌倉、寒川、茅ヶ崎の88の寺院を霊場に定めた相模国準四国88箇所の第24番。 |
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{右・寄}山王山観音院 広徳寺(廣徳寺)[高野山真言宗]小和田1-17-5 熊野神社の石柱があるファミリーマートを右折し熊野神社に行く途中の左にある。本尊は千手千眼観世音菩薩。本堂前の弘法大師立像の台座四隅の敷石下には四国の砂が埋められており「四国八十八ヶ所お砂踏み」と称して順に巡ることができる。墓地北にある天保9年(1838)の馬頭観音は文字だけ記載された馬頭観音では市内最古。江戸時代にはこの付近は小高い丘で海まで見通すことができる格好の休憩所で茶屋が並んでいた。現在の菱沼バス停付近にあった田中屋という茶屋の粟牡丹餅が名物だったため牡丹餅立場と呼ばれた。他にも湯豆腐が名物だった。 |
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{右・寄}熊野神社 小和田2-3-66 広徳寺からさらに行くとある。創立年代は不詳だが平安時代末期と伝えられる。境内入口の鐘楼と鐘は昭和30年に奉納されたもので平和の鐘と呼ばれる。鳥居右には正徳4年(1714)享保3年(1718)など庚申塔5基が並んでいる。本殿右の境内社姥母神社の横に江戸時代の公家が詠んだとされる高さ70cmの歌碑「相模なる小和田が浦の姥島は誰を待つやらひとり寝をする」がある。姥島とは江戸時代の格好の漁場だった烏帽子岩のことで伊豆の漁師とのたびたびの領有争いにもこの歌を証拠に茅ヶ崎のものとされてきた。他に稲荷神社、厳島神社などの境内社や多くの石碑、石塔がある。
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{右・寄}東松山 海前寺 [曹洞宗] 本村4-21-34 茅ヶ崎高校を過ぎしばらく行き米山豆腐店手前を右折していくと正面にある。天正19年(1591)創建。門の両脇に仁王の石像がある。門前左にある石燈籠は徳川秀忠供養のため慶安4年(1651)久留米藩主有馬忠頼が増上寺に奉献したもの。本堂前の両側にも宝暦11年(1761)9代将軍家重供養の石燈籠があり右が安志藩主小笠原長逵、左が須坂藩主堀直寛が増上寺に奉献したもの。延宝〜天和年間(1673-1684)には茅ヶ崎村領主で旗本の丸毛権之丞の菩提寺となった。墓地には戦後のボクシング界で拳聖と呼ばれたピストン堀口(堀口恒男)の墓があり墓碑には「拳闘こそ我が命」と刻まれ横の顕彰碑の撰文は芥川賞作家井上靖によるもの。 |
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{右・寄}車地蔵&佐々木卯之助供養碑 海前寺の門前から左に行き寺の敷地が途切れる角にある。祠の中に5体並んでいる地蔵のうちの1体が車地蔵であるとされ、裏切られた恋人の家に放火し捕らえられた村娘が処刑されたのち車を引くような「ギー、ギー」という音が夜中に響くようになったため地蔵を建て供養したところ音がなくなったと伝えられる。その右横の供養碑はもとは青ヶ島にあった佐々木卯之助の墓標。幕府が享保13年(1728)相模川河口から藤沢片瀬海岸一帯に創設した砲術訓練所の大筒役(責任者)になった佐々木は貧しい農民の敷地内での耕作を黙認し天保6年(1836)流罪となり明治9年(1876)青ヶ島で死去した。鉄砲通り(東海岸北5-15-20付近)には明治31年(1898)農民たちが建立した記念碑もある。 |
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{右・寄}八王子神社 本村4-13-40 本村一丁目歩道橋手前を右折していくと正面にある。祭神は天照大神の五男三女の八神。創建は不明だが鎌倉幕府以前とされる。古くは八王子権現と称され円蔵寺が別当だったが明治に分離し八王子神社と改称した。鎌倉後期には新田義貞が鎌倉攻めの際に祈願し幕府崩壊後の建武2年(1335)社殿を改修した。境内に関東大震災で倒壊した鳥居の一部が置かれ現在の社殿は震災後の昭和2年に境内の松を伐採して建築したもの。別当時代の名残の梵鐘は元禄15年(1702)鋳造のものを昭和30年に復元した。鐘楼の前に延宝8年(1680)などの庚申塔3基と安永5年(1776) の双体道祖神がある。狛犬は昭和12年(1937)のもの。社殿左には八坂神社、稲荷神社、天満宮などの境内社もある。 |
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{左}茅ヶ崎一里塚(14) 道路下を通るJR相模線を渡りサティを過ぎ少し行くと一里塚交差点の脇にある。以前は両側にあり右には榎、左には松が植えられていたが道路拡張等のため右側はなくなり左だけが残っている。現在は石垣で囲まれた小山に松、榎、桜が2本づつ植えられ説明が書かれた石碑と「一里塚」の石柱が置かれている。この先少し行くと茅ヶ崎駅前交差点があり横断歩道も歩道橋もないため歩行者と自転車は地下道を通る。 |
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{右}石灯籠3基 茅ヶ崎1-1-1(茅ヶ崎市役所敷地内) 茅ヶ崎駅前交差点地下道の茅ヶ崎市役所側出口を出てすぐの緑地内に石灯籠が3基ある。中央のものは延宝9年(1681)4代将軍家綱の供養に黒羽藩主大関増栄が奉献したもの。両側は天明6年(1786)10代将軍家治供養に長府藩主毛利匡芳(右)と臼杵藩主稲葉弘通(左)が奉献した。江戸時代に将軍の供養のため諸国の大名が徳川家の菩提寺に奉献した灯籠は寛永寺に数百基、増上寺に約千基あったが震災、戦災等でほとんどが崩壊し残ったものは戦後復興の援助者や近隣の寺院に配布された。この3基は大八木家が寛永寺から譲られた10基の内の3基で他にも大八木家や上正寺、小和田公民館(美住町6-20)にも置かれている。増上寺のものは市内には海前寺や龍前院(浜之郷356)にある。 |
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{左}茅ヶ崎山 円蔵寺 [高野山真言宗]十間坂1-3-39 茅ヶ崎警察署の先に裏門がある。本尊は薬師如来で厄除秘鍵大師も祀る。正門を入って右には大きな護国忠魂碑と乃木希典大将の像があり周りに「二〇三高地血染めの岩片」「水師営のなつめの木」「元招魂社鳥居片」など日露戦争ゆかりのものがある。このあたりの東海道は十間坂と言い今は平地だが昔は高山と呼ばれた高地で火の見やぐらがあり富士山や箱根、江ノ島、鎌倉など十の景色を見渡せるため十景坂とも呼ばれていた。 |
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{右}第六天神社 十間坂3-17-18 十間坂2丁目信号を過ぎ十間坂歩道橋の手前にある。創建は不明だが元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの時焼失の記録がある。淤母陀琉命と阿夜訶志古泥命を祀り山岡鉄舟が寄進した掛軸も社宝として所蔵されている。社殿左に欅造りの八坂神社がありもとは神社の西にあったが明治中頃に合祀された。社殿右に元禄2年(1689)寛政12年(1800)の庚申塔2基と文政3年(1820)の双体道祖神、顔がペイントされた自然石が頭部に置かれた地蔵数体などの石塔、石仏が並ぶ。灯籠は文化9年(1812)狛犬は昭和8年(1933)のもの。年末に行なわれる歳の市(だるま市)や2月の節分祭が盛大に行われる。境内右には幼稚園が併設されている。 |
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{左・寄}御霊山 西運寺[浄土宗]南湖2-9-34 SHONAN AUTOMOBILE BUISINESS SCHOOLの手前を左折し鳥井戸踏切で東海道線を渡ると左にある。安土桃山時代に疫病が流行した時に建てられた庵が起こりで慶長元年(1596)寺になった。戦前後は「南湖のお十夜」として有名で十夜法要の時期にはガマの油売り、バナナのたたき売りなど露店が並びサーカスや芝居などの見世物小屋も開かれ賑わっていた。いつからか寺に移されてきた大正7年(1918)建立の南湖力丸の供養碑が本堂左にある。歌舞伎「白浪五人男」の南郷力丸のモデルで南湖の生まれの力丸は江戸に出て悪事を繰り返し御用となり鈴ヶ森刑場で打ち首となった。供養碑の右には力丸地蔵と呼ばれる地蔵もある。 |
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{左・寄}御霊神社 南湖2-9-10 西運寺の前の道を進み突き当たりを左折すると左に赤い丸ポストと鳥居がある。あるいは西運寺の境内から本堂右の小道(砂利道)を道なりに行くと社殿前に直接出る。草創は定かではないが西運寺の毘沙門堂が前身で治承年間(1177-1182)に頼朝の家臣大庭景義(懐島景能)がこの堂に鎌倉武士の武勇のあこがれで死後も御霊大明神として崇められていた鎌倉権五郎景正を祀った。建久9年(1198)相模川の怨霊事件で頼朝が死んでから義経の霊も合祀している。西運寺が別当だったが明治の神仏分離で独立、今の社殿は昭和4年建築のもの。社殿左には稲荷神社もあり右には鳥井戸自治会館がある。 |
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{左}南湖の左富士之碑 右に大きくカーブし千の川にかかる鳥井戸橋を渡ったところに案内板とともにある。平成6年建立。東海道で左に富士山が見える場所はここと吉原宿近くの2カ所が有名。広重も東海道五十三次名所絵図(竪絵東海道)の藤沢宿として描いている。橋の欄干は山をイメージしておりすぐ隣にかかる石原橋の欄干の柵には松に富士山のレリーフがはめ込んである。橋の手前の辺りは江戸時代は茶屋町と呼ばれ南湖立場があり平塚・藤沢両宿の間宿として賑わっていた。相模川が増水した際は道止めになった旅人があふれかえり大名向けの本陣(松屋)と脇本陣(江戸屋)もあった。 |
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{右}鶴嶺八幡宮参道入口 南湖の左富士之碑の向かいにある。鳥井戸橋の名はこの赤い大鳥居が由来。鶴嶺八幡宮は約1km先で参道には松並木が420間(約764m)続く。現在の鶴嶺小学校にあった別当常光寺の江戸初期の住職朝恵上人が荒廃していた神社を再興した際に植えたもの。神社にほど近い参道左の女護ヶ石の隣に寛文9年(1669)の朝恵の墓碑と歌人広野三郎と鴫立庵18世芳如が朝恵を称えて詠んだ昭和31年建立の歌碑がある。太鼓橋から両側に並ぶ石灯籠42基も朝恵を称え平成14年に建立。参道から出土した木製鳥居は茅ヶ崎市文化資料館(中海岸2-2-18)に展示され古い石鳥居も西行の歌碑が刻まれた資料館の門柱になっている。参道中ほど右には寛政7年(1795)市内最古の馬頭観音(47cm)がある。 |
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{右・寄}弁慶塚 鶴嶺八幡宮参道入口の赤鳥居から参道に入ってすぐ左に弁慶塚と刻まれた石碑(道標)がありその向かいのアパートみどり荘の裏手の一角に塚と説明板がある。建久9年(1198)相模川に架けられた橋の落成式に参列した源頼朝が翌年死去したのは落成式の帰りにこの付近を通ったとき義経、弁慶らの亡霊が現れ落馬したのが原因と噂されたため後年里人たちが亡霊を慰めるために義経を御霊神社に祀り弁慶はここに塚を建て供養した。現存する塚は昭和57年(1982)地元有志が復元したもの。この頼朝が参列したとされる橋の橋脚は旧相模川橋脚として現存している。 |
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{右・寄}鶴嶺八幡宮 浜之郷462 祭神は應神天皇、仁徳天皇、佐塚大神。長元3年(1030)源頼義が東征のとき現在の本社宮(矢畑142)に石清水八幡を勧請し後に子の義家がこの地に移した。治承年間(1177-1181)頼朝が鎌倉へ移したが元社として存続し建久2年(1191)大庭景義により大改修され一時期は大仏殿や三重塔もあった。手前のかながわ名木100選の大イチョウ(高さ29m幹周9m)は前九年の役(1051)で父の助勢に向かう途中の義家が植えたもので元は別の幹だった4,5本がくっついたもの。社殿左には淡島神社、鉾宮神社、右には稲荷神社と頼義が植えたとされる槙の古株がある。菅原道真を祀る鶴嶺天満宮も合祀している。
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{左}神明神社 下町屋1-6-19 鳥井戸橋から国道1号を進んでいくと下町屋自治会館と同じ敷地内にある。祭神は天照大神と大山咋命。創建時は不明だが江戸時代の記録に神明社として残っている。以前は平安時代の陰陽師である安倍晴明が掘ったといわれる井戸があったが昭和10年代の初めの国道拡幅時に姿を消した。境内左には嘉永2年(1849)高さ117cmの厄神大神の石碑があり正面に「厄神大権化」左面に「天下泰平 国土安穏」と刻まれている。その隣の祠の中には明和7年(1770)の双体道祖神や文化13年(1816)などの石仏が安置されている。 |
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{左}でかまん菓子舗 下町屋1-6-5 小出川を渡る下町屋橋が近くなり道がゆるやかな登り坂になってくるとある。現代の東海道の名物まんじゅうを作る和菓子屋。昭和26年から作り始めた特大饅頭は「でかまん」として人気となりついに店名も「ちぐさ菓子舗」から「でかまん菓子舗」になった。サイズは95mm×75mmのものから320×220mmのものまで6種類あり、値段は150円、300円、700円、1500円、2500円、3500円。小判のような形で中には甘味をおさえたこし餡がたっぷりと詰まっている。 |
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{左}旧相模川橋脚 橋の手前左の緑地の中に橋脚がある。この一帯は水田だったが大正12年(1923)および13年の大地震によって7本の杭が地上に出て来た。ヒノキの丸材で最大のものは周囲2mもあり歴史学者沼田頼輔博士の鑑定の結果建久9年(1198)稲毛三郎重義が亡き妻(頼朝の妻政子の妹)のために相模川に架け開通式の橋供養(落成式)では頼朝が渡り初めをした橋の橋脚だと判明した。橋の幅は4間(7m)と予想され当時としては大橋であった。大正15年国指定史跡になり保存池が作られ後に地中にある3本も確認された。平成13年より腐朽を防ぐため保存整備事業が進められ橋脚はコンクリート筒に入れられ見えなくなるため平成19年までには出現時の景観が再現できる複製を設置する予定。 |
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{右}妙厳山 上国寺 [日蓮宗]今宿488 下町屋橋を渡りしばらく行くと今宿の信号の先にある。鎌倉時代の14世紀後半に大乗院日経上人が開いたとされる。本堂には永正11年(1514)作の木造日蓮坐像(高さ32cm)があり全国の日蓮像の中でも古い方に属す。市内には信隆寺や常顕寺(萩園1441)も同年代の木造日蓮坐像を所蔵している。 |
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{右}妙厳山 信隆寺 [日蓮宗]今宿841 産業道路入口交差点の手前にある。武田勝頼の家臣武田信就が天正10年(1582)の天目山の戦いで敗れた後ここまで逃れ先祖菩提のために剃髪し信隆院日閑と号し寛永元年(1624)正中山法華経寺より善立院日竟上人を開山として招き開基した。空襲で全焼したが再建され現在の本堂は平成10年に新築された。戦災で焼け残った永禄7年(1564)作の木造日蓮坐像(42.2cm)や創建時に造られたとされる寛永元年と刻まれた鰐口を所蔵している。日蓮坐像はもとは江戸時代まで近くにあった仏国寺に安置されていたもの。境内右には稲荷神社、左には日蓮大聖人の銅像がある。
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{右}道祖神 産業道路入口交差点を過ぎしばらく行くと青銅の屋根の小さな祠にかなり風化した年号不明の双体道祖神がある。さらに先に進むと赤い屋根の祠(写真)の中に年号不明の双体道祖神と明治15年の銘がある字だけ刻まれた道祖神がある。 |
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馬入橋 橋の手前で平塚市に入り昭和55年竣工の約500mの長い橋を渡る。前方が高麗山、右正面に富士山、右側に大山を含む丹沢山系、左側に相模湾の河口が見える。江戸時代には橋はなく渡し船で渡っていた。下を流れる相模川は馬入川とも呼ばれ源頼朝の馬が川の中に飛び込んで水死したしたという故事が由来。旧相模川橋脚の出現で相模川は頼朝の時代には小出川のあたりを流れていたとされる。 |
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{右}馬入の渡し跡 ホテルサンライフガーデンの結婚式場グランドビクトリア湘南の教会前に碑とタブノキの巨木がある。慶長6年(1601)平塚宿の設置とともに始まった渡しには御召船、役船、馬船、平田船、小船が使用されていた。旅人が主に乗った平田船は船底が平らで大きいものは長さ7間(12.7m)幅9尺(2.7m)あった。渡し付近にはタブノキが生えており平田船とともに広重の「狂歌入り東海道」の戸塚(馬入橋渡船)に描かれている。教会を挟んで反対側の河原にはこの絵が入った説明板もある。レンガ造りの教会は1877年ビクトリア王朝時代に英国スコットランド北アイルシャー州アービン市に造られたドレッグホーンチャペルという名の教会で解体される所をホテルが買取り平成11年に移築した。 |
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{右}明治天皇馬入御小休所趾 榎木町9-41 ホテルサンライフガーデン入口左側に石碑がある。明治6年(1873)と明治11年に明治天皇が休憩した杉山家の屋敷跡で明治6年は皇后も一緒だった。杉山家は幕末に相模川の舟行を利用して石油と砂糖の大問屋(現:杉山商事)となり石垣に囲まれた大邸宅を建て「石垣」が屋敷の代名詞だった。明治15年(1882)には杉山泰助が江陽銀行(のちに横浜銀行の前身と合併)を屋敷内に創設した。碑は政治家金子堅太郎の揮毫で昭和15年泰助の孫久吉が建立した。江戸時代には馬入村の川会所(渡し舟の役所)があった場所で川名主3人川年寄3人船頭は昼夜を問わず16人が詰め近くに川高札もあった。
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{右・寄}神戸山 馬入院 蓮光寺 [高野山真言宗]榎木町9-9 工業団地入口交差点を右折すると右に山門がある。秀賢により江戸初期に開山した。本尊は聖観世音菩薩で相模新西国33観音霊場の第18番。高麗門様式の山門は高野山江戸在番所(現:高野山東京別院)から拝領したもので昔は南側にあった。境内左奥には持ち上げ地蔵(複製)があり願いを念じて持ち上げ軽いと感じれば叶うとされる。元の地蔵は馬入地区の信者の家にあったもので明治12年(1879)上野の浄名院(台東区上野桜木2-6)の妙運大和尚が八万四千体の地蔵を発願したものの一つ。浄名院にもうかがい地蔵の名で同様のものがある。工業団地入口交差点の角にある明治40年創業の弘栄堂では持ち上げ地蔵に因んだ馬入力餅や丁髷塚に因んだちょんまげ最中を売っている。 |
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{左}馬入の一里塚跡(15) 馬入交差点の手前に説明板がある。跡形もないがこの付近にあったとされ平成16年に説明板が設置された。 |
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{右・寄}丁髷塚 一里塚跡の説明板から馬入交差点を横断して少し戻ったヘアーサロンエンジェルの脇道を入っていくと蓮光寺の墓地に出る。その入口右に丁髷塚の碑と説明板がある。天保9年(1838)国府祭から帰還途中の平塚八幡宮の御輿をかつぐ馬入村の若者たち16名は一之宮寒川神社の御輿をかつぐ若者たちと喧嘩になり相手の御輿を馬入川に投げ込んでしまい打首の裁きを受けたが処刑の日に代官江川太郎左衛門の温情により丁髷を斬るだけで済まされた。その丁髷を埋めたところがこの塚で昭和32年に戸川貞雄平塚市長(当時)の揮毫により碑が建てられた。 馬入交差点で旧東海道は国道1号線から左に分岐し平塚市中心部へ向かう。 |
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{右・寄}平塚八幡宮 鳥居 平塚駅前交差点を右折し宮の前交差点を渡った左側にある。赤い大鳥居は昭和49年建立で内側には大正11年(1922)の石製狛犬がある。隣の車祈祷場にも赤鳥居がある。社殿前の青銅の鳥居は明和2年(1765)本誉還真上人の寄進で東海道沿いに建てられたもので万延元年(1860)に再建された。その内側の青銅の狛犬は昭和6年(1931)作で戦争に供出したものを昭和46年(1971)に高岡市で鋳造し再建した。神社の敷地一帯は昭和31年開設された八幡山公園になっており広場や平和の慰霊塔、戦災復興事業完成記念碑がある。かながわの美林50選や平塚八景の一つにも選ばれている。 |
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{右・寄}平塚八幡宮 浅間町1-6 仁徳天皇の御世に創建され古くは鶴峯山八幡宮と言われ誉田別尊、神功皇后、武内宿禰を祀る。建久3年(1192)源頼朝が妻の懐妊祝いに神馬を奉納した。弘治2年(1566)北条氏康が陣所を置いたため武田信玄によって焼かれ慶長年間(1596-1615)に家康によって再建された。明治6年社名を八幡神社とし昭和53年平塚八幡宮に改称。社殿右には神名社、若宮社、諏訪社などの境内社があり左には幼稚園がある。毎年9月には境内に何百ものぼんぼりが灯るぼんぼりまつりが行なわれる。
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湘南スターモール商店街 平塚駅付近の旧東海道沿いに集積する商店が集まっており古くからの商店が多く平成7年にそれまであった4商店会を統合し振興組合として法人化した。ここ平塚の七夕まつりは仙台と愛知県一宮と並んで日本三大七夕祭りとされる。もとは空襲からの復興を祝う昭和25年(1950)の復興祭がもとになり翌年から七夕まつりとして毎年実施されるようになった。七夕祭りの竹飾りにも対応できる商店街の2階仕様のアーケードも昭和63年に整備された。 |
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{左・寄}お菊塚 平塚駅前交差点から三つ目の信号を左に入り長崎屋の先を右折、すぐ左折すると右側の紅谷町公園内にある。怪談「番町皿屋敷」のモデルとなったお菊は平塚宿の役人真壁源右衛門の娘で江戸の旗本青山主膳に奉公していた元文5年(1740)24歳の時に求愛を断られた家来の逆恨みで家宝の皿の紛失の疑いをかけられ殺されてしまう。馬入の渡しで遺体を引き渡された父は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と詠みこの地にあった真壁家菩提の晴雲寺に埋葬したが刑死人の例にならい墓標は建てず栴檀の木だけを植えた。戦災で一帯が焼失した後の区画整理で晴雲寺は立野町6-5に移転しお菊の遺骨も掘り起こされ真壁家墓地に納められている。この地には昭和27年(1952)に碑が建てられた。 |
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{左}平塚宿江戸口見附 商店街を抜け進むと平塚市民センター手前の駐車場の一角にある。明治初期の写真を元に平成13年に復元されたもので長さ3.6m幅1.5m高さ1.6m。石垣を積み上に芝を張り竹矢来を組んでいる。以前は道の両側にあり見附の外を棒端といい「従是西 江川太郎左衛門 御代官所 東海道平塚宿」と書いた標柱などが建っていた。ここから上方見附までは9町5間(1.5km)で本宿と呼ばれていた。江戸見附があったこのあたりは現在見附町という地名になっている。 |
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平塚宿 本陣1脇本陣1旅籠54家数443人口2114[天保14年(1843)] 小田原北条氏の築城で発展した町で相模川を利用した物資の集散地として栄えていたが宿場としては次の大磯宿まで27町(3km)と東海道宿場間では2番目に短く小規模の宿場だった。素通りして大磯宿まで行こうとする旅人をなんとか泊まらせようと留女が客引を盛んに行い高麗山を指して「あの山頂を越えぬと大磯には行けぬ」と嘘をついて強引に泊めたという話もある。規模が小さい上に参勤交代による通行量増大で伝馬負担が重くなり困窮したため慶安4年(1651)には平塚八幡宮の門前集落も新宿として加宿された。宿場模型や資料が平塚市博物館(浅間町12-41)に展示されている。 |
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{右}江戸城の井戸枠&垣石(平塚の里歌碑) 見附町15-1 平塚市民センター玄関ドア左の通路を入って中庭にある。昭和32年の平塚市市制施行25周年に東京都から贈られたもので当初は見附台体育館(現:見附台公園広場)に置かれたが昭和37年に市民センターが出来た際に移設された。垣石には戸川貞雄市長(当時)の書により文明12年(1480)の太田道灌の歌日記「平安紀行」から「哀れてふたが世のしるし朽ちはててかたみもみえぬ平塚の里」の歌と説明が銅板に刻まれ埋められている。道灌は京都に行く途中この地に立ち寄ったがここで没した三浦遠江入道定可のことを誰も知らないのを嘆き詠んだと言われる。 |
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{右・寄}平塚小学校跡のクスノキ 見附町30-2 市民センターの先にあるの見附台緑地の大木。明治7年(1874)海宝寺(幸町26-21)に崇善館第一支校(現在の港小学校)薬師院(平塚3-14-18)に崇善館第二支校が設置され平塚の小学校教育が始まる。第二支校は明治13年(1880)この地に移転し平塚小学校(現在は崇善小学校)となった。クスノキは日清戦争講和記念に中野健明県知事より各学校に配布された種子が発芽したもので観察対象だったためか明治28年(1895)年3月28日に種を蒔き6月15日に双葉が出たという正確な記録が残っている。幹周囲5.4m主幹3.6m高さ13m。隣接する崇善公民館は昭和25年建築の市議事堂で左の事務所棟は戦前に海軍が建て戦後は小学校の理科室に利用されていた。現在小学校は浅間町4-3に移転している。 |
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{右}脇本陣跡 しばらく行くと茅沼酒店の前に石柱と説明板がある。脇本陣は享和年間(1801-03)の記録では西組問屋場の先にあったが天保年間(1830-44)にはこの地になっていて山本安兵衛が建坪73坪の規模で営んでいたとの記録がある。平塚市博物館(浅間町12-41)には山本脇本陣の間取り図面が展示されている。平塚市は戦時中は第二海軍航空廠、第二海軍火薬廠、横須賀海軍工廠平塚分工場、日本国際航空工業など軍需工場が集中した都市だったため昭和20年7月16日B29爆撃機132機による大空襲を受け市域の60%近くが焼失した。そのため宿場の建物は何も残ってないが昭和40年建立の加藤一太郎市長(当時)揮毫の石柱と平成13年旧東海道400周年を機に設置された説明板が整備されている。 |
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{右}高札場跡 平塚2-30-5 平塚本宿郵便局を過ぎしばらく行くと山口屋茶舗前に石柱と説明板がある。高札場の大きさは長さ2間半(5m)横1間(1.8m)高さ1丈1尺(3m)だった。脇本陣、高札場、東組問屋場のあたりは二十四軒町と呼ばれていたところで慶安4年の新宿の加宿後にそれまで新宿に住んでいた民家のうち24軒がここに移り住んだことに由来する。2軒手前の大正5年創業の和菓子屋安栄堂(平塚2-30-3)では創業時から「平塚宿本陣(1個160円)」「平塚最中(1個140円)」を作っている。 |
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{左}東組問屋場跡 平塚1-10-5 高札場の向かいの京湘ハカリ前にに石柱と説明板がある。平塚宿には西組と東組の2つの問屋場がありこちらは慶安4年の新宿の加宿以降に新設されたもの。平塚宿の宿役人は問屋3名、年寄6名、帳付11名、馬指6名、人足指6名で構成され交代で東組問屋場、西組問屋場に問屋1名、年寄1名、帳付3名、馬指2名、人足指2名ずつ詰めていた。 |
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{右}加藤本陣跡 平塚2-31-9 神奈川銀行平塚支店の前に案内柱と説明の入った石碑がある。家康の三河以来の家来だった加藤・成瀬の両家が本陣家を任され加藤家は以降ずっと平塚で宿場行政に尽くした。当主は代々加藤七郎兵衛を名乗り歴代当主の墓は宝善院にある。敷地面積は間口16間半(30m)奥行38間(69m)と600坪以上あったが門と玄関付き総ケヤキ造りの屋敷の建坪は天保14年(1843)当時163坪と他宿の本陣より小さかった。平塚市博物館に間取り図面が展示されている。14代将軍家茂が文久3年(1863)元治2年(1865)の2回、明治天皇も明治元年の東京行幸と翌年の遷都の際に休憩している。昭和47年建立の石碑は加藤一太郎市長(当時)の題字揮毫、半田剛神奈川相互銀行社長(当時)の撰文による。 |
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