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{左・寄}福生山能満寺 宝善院 [東寺真言宗] 平塚1-23-16 平塚信金のある交差点を左折しすぐ左折すると右にある。建久3年(1192)鎌倉に来た京都東寺の学問僧が開山。本尊は不動明王で出家した源実朝の妻の本覚尼が住んだ京都大通寺にあったもの。小田原北条氏最後の城主氏直は落城寸前に持仏の虚空蔵菩薩をこの寺に収めた。江戸時代には平塚宿本陣の菩提寺となり徳川家歴代将軍の位牌も祀っている。境内には宮本武蔵が身を隠していた東寺・観智院の瓦や元禄10年(1697)宝暦8年(1758)などの庚申塔、ぼた餅地蔵、幕末の文化人斉藤麗山の句碑、ふたたび大師像、横浜市電の線路敷石、境内社の須賀神社などがある。
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{左・寄}宝善院 石垣 宝善院の周りの塀には約150mにわたり石垣が積まれ四国88カ所霊場の本尊が刻まれた石板がはめ込まれている。また姫路城の石臼工法や安芸宮島のちぎり留め工法、裏側の水を逃がす樋門が石垣の一部に模されていたり隠し絵文字の石碑、シーサーなどもはめ込まれている。24時間音楽が流れている箇所もある。西側中央の釈尊の生涯が彫られた扉から本堂に通じる地下通路は四国88カ所霊場の本堂下の本物の砂が敷かれている。この寺院はかつてこの地に移り住んだ高句麗王族の古墳の上に創建されたため周囲より若干高い位置にある。山門前の通りは寺町通りと呼ばれ妙安寺[日蓮宗](平塚1-12-15)、阿弥陀寺[浄土宗]、教善寺[時宗](平塚3-13-11)がある。 |
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{左・寄}報恩山来迎院 阿弥陀寺[浄土宗]平塚3-5-23 平塚信金のある交差点の次の角を左折すると正面にある。弘治元年(1555)雲公上人の開山により府川出雲守吉種が開基した。本尊は阿弥陀如来像。境内に弘治3年(1557)と刻まれた開基府川氏の古い墓がある。本堂左の塔碑群中に昭和4年(1929)建立の平塚町大震災殉難者霊位供養碑がある。大正12年(1923)関東大震災の供養碑で勧進者32名の全員が女性。 |
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{右}西組問屋場跡 平塚4-2-1 旧東海道はやがて右に分岐する。分岐点の右側に蔵造り風の平塚市消防分団第一分団の建物がありその前に西組問屋場跡の説明板と石柱がある。平成4年150m離れた平塚の塚緑地で発掘調査が行われた際に「西町問屋場」と墨書された瀬戸・美濃系の香炉や灯明皿、碗、皿、すり鉢など問屋場で使用されていた思われる当時の事務用品の破片が多く出土した。 |
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{右・寄}松雲山 要法寺[日蓮宗]平塚4-10-10 西組問屋場跡を旧東海道に入らず右折していくと正面にある。元は鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知が平塚左衛門を名乗り住んでいた時の館で弘安5年(1282)日蓮上人が平塚に来臨するという七面大明神のお告げを受けた泰知は常陸の国に療養に行く途中の日蓮を自分の館に招いた。説法中には敷地内にあった平塚の塚の老松に紫雲が現れたという。泰知は館を寺となし日慈上人となり日蓮を開山として開基した。境内右の祠には250年以上前の住職日慶上人が建立した浄行菩薩があり像を洗いながら願をかける。本堂は昭和50年建築。本堂裏に稲荷大明神がある。
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{右・寄}平塚の塚 要法寺の隣にある平塚の塚緑地の中にある。一段高い玉垣で囲われた塚で「平塚」の地名の由来の塚。天安元年(857)桓武天皇の子孫である真砂子(政子・砂子)が旅の途中のこの地で逝去しここに埋葬された。真砂子は平氏の始祖である高望王(平高望)の姉(または妹)であったため平氏一族の墓ということで平塚(たいらつか)と呼ばれ後にひらつかとなった。また塚の上が平らになったから平塚という説もある。左には大正8年(1919)建立の紀州徳川第15代徳川頼倫侯爵題書、有吉忠一神奈川県知事(当時)撰文の石碑、昭和32年建立の石川貞雄平塚市長(当時)揮毫の石碑や手前に新しい高札風説明板もある。 |
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{右・寄}鏡山お初の墓 平塚の塚緑地の隣にある西仲町公園の奥に墓地があり入口正面に昭和10年建立の「義女松田多津顕彰碑 鏡山お初」と刻まれた碑と説明板がある。歌舞伎の「加賀見山旧錦絵」「鏡山お初」のモデルになった平塚宿の松田久兵衛の娘たつは荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中サ揄ェ本みつ女の許に奉公にあがっていたがみつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害したため主の自害した小脇差で仇を討ち後に賞せられて年寄となったと伝えられる。碑の左にある明和6年(1769)「安室貞心信女」の銘がある観世音の墓石がたつの墓であると伝えられている。 |
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{右・寄}春日神社 平塚4-18-1 西仲町公園の隣にある。古くは平塚山黒部宮の名で東海道から6〜7町海側にあった。創建は不明で源頼朝が勧請したあるいは高句麗滅亡後大磯に上陸した高麗王若光の一族が創り紡織を業とした渡来人の部族である呉部(くれべ)から黒部になったとも言われる。祭神は天児屋根命。建久3年(1192)頼朝が妻の安産祈願を相模国の主だった寺社で行った際にここにも神馬を奉納している。鎌倉時代に津波のため現在地に移転し元あった場所(黒部丘)には小さな社(黒部宮)が残る。江戸時代は平塚宿の鎮守となった。狛犬は天保14年(1843)梵鐘は昭和42年のもの。社殿右に春日稲荷、厳島、左に天満宮の境内社がある。左奥には弘化4年(1847)などの庚申塔や古い石祠が並ぶ。 |
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{左}平塚宿 京方見附跡 西組問屋場跡から旧東海道の細い道に分岐し高麗山を正面に見ながら住宅地を進むと300mほどで国道1号に突き当たる。左折し国道1号に合流し50mほど行くと古花水橋交差点の脇に昭和49年建立「従是東 東海道平塚宿」石碑と平成13年建立の京方見附の傍示杭がある。京方見附の正確な場所は戦災や区画整理により不明だが広重の平塚宿の絵はこの付近からの描写とされ杭の最頂部の小さな屋根も絵中の杭に似せて造られた。ここは昔の花水川にかかる古花水橋があった場所でもあり平塚と大礒の境とされてきた。宝永4年(1707)の富士山噴火で灰が大量に流れてきたため幕府の命を受けた浜松城主松平宗俊が新しく現在の花水川を掘ってから古い川は姿を消していった。 |
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{右}平成の一里塚 古花水橋交差点を渡ると大磯町に入りしばらく行くと花水川にかかる花水橋の手前に小さな公園がある。旧東海道に実際あった一里塚ではないが木が植えられ旅人たちの休憩所にもなった一里塚を参考に現代風に造られた休憩スペース。東海道400年記念の東海道ルネッサンス事業として平成13年に整備されたもので他にも愛知や三重に平成の一里塚が作られている。広重の平塚宿の絵と一里塚の説明板があり松も植えられ複数のベンチが置かれている。花水川は上流の金目川が渋田川、河内川と合流し相模湾に流れ込む川で古来から水面に映える桜の名所でもあり頼朝が花見に来た際に前夜の嵐で花が散り見ることが出来ず「花見ずの川」がいつしか「花水川」になったという説もある。 |
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{左}大磯八景の歌碑「花水橋の夕照」 平成の一里塚の向かいにある。「大磯八景の一 花水橋の夕照 高麗山に入るかと見えし夕日影 花水橋にはえて残れり 義之」と刻まれている。大磯八景は他に唐ヶ原の落雁、高麗寺の晩鐘、化粧坂の夜雨、照ヶ崎の帰帆、鴫立沢の秋月、小淘綾の晴嵐、富士山の慕雪(富士見橋)で明治28年(1895)大磯町第5代町長に就任した旅館百足屋主人宮代謙吉が明治40年頃八景を選び斎藤松州画伯に依頼して絵はがきとして出版したのが始まり。昭和12年(1937)に大磯小学校第2代校長朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれの場所に建立したが小淘綾の晴嵐だけ現存していない。現在の花水橋は下りが昭和59年上りが昭和63年の完成で全長114m。 |
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{左}善福寺 [浄土真宗本願寺派] 高麗1-7-7 花水橋を渡ってしばらくするとある。平塚入道と呼ばれた天台宗の僧、法求禅門が寛喜元年(1229)ごろ親鸞に帰依して改宗し了源となりこの地に庵を建てたのが起こり。本尊は木造阿弥陀如来立像で鎌倉時代の快慶に近い関係の作。鎌倉後期の作で国指定重要文化財の木像伝了源上人坐像も本堂にあるがこの像は唯善事件によって寺へもたらされた親鸞聖人像とも伝わる。了源は曽我十郎祐成と虎御前の子の祐若で河津三郎信之を名乗り源実朝に仕え平塚の庄を賜ったが天寿を全うできなかった父祖の因縁を憂い出家したとされ安貞元年(1227)平塚に開基し後に移転した乗誓寺(横須賀市東浦賀町1-77)では代々曽我氏が住職をしている。本堂左には縄文時代の横穴式古墳の岩山がある。 |
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{右・寄}鶏足山 慶覚院 [天台宗] 高麗2-9-48 高来神社入口交差点にある高来神社の鳥居をくぐりまっすぐ行くと参道右にある。高来神社の別当寺であった養老元年(717)行基創建の高麗寺の末寺として慶長18年(1613)に現在の大磯消防署より海側のあたりに建てられ明治15年の大火で消失し現在地へ移った。この場所は高麗寺の地蔵堂があった場所で高麗寺は江戸時代に東照宮も合祀していたため明治の神仏分離で徳川色が嫌われ廃寺となっていた。本尊は一木造りの千手観音像でもとは高麗寺の本尊。他に県重要文化財の建治4年(1278)銘のある木像地蔵菩薩坐像がある。所蔵していた寛永11年(1634)木造仁王像2体は平成12年の修復後大磯郷土資料館にて展示されている。参道右に閼伽(あか)井戸甘露水の塔の碑もある。 |
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{右・寄}高来神社 高麗2-9-47(たかくじんじゃ) 垂仁天皇(11代)の御代の創建、または神功皇后の三韓征伐ののち武内宿禰が三韓の神を移したものの一つ、あるいは高句麗からの渡来人の創建などの伝説がある古い神社。祭神は神皇産霊尊、邇々杵尊、神功皇后、応神天皇。かつては高麗山頂(大堂)にあり斉衛元年(854)右峰(東天照)に白山社、左峰(八俵山)に毘沙門社も建てられ三社権現と呼ばれた。明治元年に高麗神社と改称し現在地の高麗寺観音堂の跡地に下社を建て日清戦争後の明治30年に高来神社に改名した。境内左の忠魂碑の奥に枯死し空洞化しているスダジイの凹部にヤブニッケイが生育して一本の木になった名木シイニッケイがある。他に11体の木造神像を所蔵している。大磯八景の一つである高麗寺の晩鐘の歌碑もある。 |
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{右・寄}高麗山(こまやま) 標高168mの山で高来神社の裏から頂上まで登れる。天智7年(668)高句麗滅亡後その王族若光一族が大磯に渡来し山麓に住んだ。八俵山、大堂、東天照の三峰から成り大堂にあった高来神社の上社は現在は立札と礎石が残るのみ。永亭10年(1438)足利物氏の乱で上杉持房が陣を構え永正7年(1510)北条早雲が上杉顕定を討伐する際も陣が作られた。以降北条氏の狼煙台「伝えの城」とされ永禄3年(1560)北条氏康が上杉謙信の小田原侵攻で交戦した時の空掘跡が八俵山から大堂の間に残る。高麗山県民の森として整備され高来神社社殿右奥から女坂を登っていく道は関東ふれあいの道の一部で山の南側約10haはスダジイ、タブなど114科557種の植物が確認される県指定の天然記念物。 |
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{右}虚空蔵尊 高来神社入口交差点から少し進むと赤い屋根の祠と古地図入り説明板がある。江戸時代にはここに高麗寺領の境を示す寺料傍示杭と下馬標があった。家康を祀る東照宮も合祀していた高麗寺のある村内を通過する際はどの大名も下馬して敬意を表し静かに通過した。大磯町内にある古地図入り説明板は江戸時代の立札を彷彿させる縦60cm横90cmの木製で寛政年間の「東海道分間延絵図」を元にした地図と説明を掲示している。平成14年「東海道シンポジウム 大磯宿大会」を機に町内9箇所に設置された。他の設置場所は化粧坂一里塚跡、江戸見附跡、虎御石(穐葉神社横)、北組問屋場跡、小島本陣跡、南組問屋場跡、高札場跡、上方見附跡。 |
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{左}化粧坂公園 化粧坂交差点の手前にある。入って左側の植え込みの中に「化粧坂の物語」碑がある。平安、鎌倉期にはこのあたりが大磯の中心であり歓楽地で大磯一の美女虎御前も住んでいた。子供がいなかった藤原実基(通称山下長者)が虎池弁財天に願をかけて40歳を過ぎて授かった娘で安政元年(1175)寅の月、寅の日、寅の刻に生まれたので三寅御前と名付けられのちに虎御前と呼ばれた。仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎祐成と恋仲となり兄弟の命日の頃には虎御前の涙雨が振るとされ虎ヶ雨という。広重の大磯宿も虎ヶ雨が降る大磯を描いている。虎御前の生誕地である山下長者屋敷跡(平塚市山下)には空壕や土塁も残されている。 |
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{左}虎御前の化粧井戸 大磯64 化粧坂交差点で国道1号線から右に分岐する。緩やかな上り坂の化粧坂に入り少し進むと井戸と説明板がある。虎御前が朝夕にこの井戸水で毎日化粧をしていたことから名付けられた。歌舞音曲に優れていた虎御前は有力者の宴席に招かれることも多く曽我兄弟の仇敵工藤裕経に関する情報収集などもした。曽我十郎祐成の死後19歳の若さで出家して尼となり長野の善光寺をはじめ全国の霊場を行脚し兄弟の最後の地では「露とのみ消えにしあとを来て見れば 尾花がすえに秋風ぞ吹く」と詠んだ。晩年に現在の延台寺や高麗山のケヤキの広場などに庵を結び嘉禄3年(1227)に亡くなり兄弟の最後の地であった富士方面を望める高麗山の一峰である八俵山の南斜面に葬られたと伝わる。 |
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{右}化粧坂一里塚跡(16) 井戸から少し行くと化粧坂の途中に古地図入り説明板がある。高さ1.8m程の塚には海側には榎が山側には栴檀が植えられた。このあたりは松並木となっているが江戸時代からのものは1本だけで他は植樹されて整備されたもの。大磯町内には他にも江戸見附付近と大磯中学校前付近に松並木がある。坂をさらに登っていくと右には広重の大磯の浮世絵看板がありさらに行くと大磯八景の歌碑もある。「大磯八景の一 化粧坂の夜雨 雨の夜は静けかりけり 化粧坂松の雫の音ばかりして 義之」 |
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東海道線横断地下道 化粧坂を上りきり旧街道はJR東海道線に突き当たる。歩行者用の横断地下道を通って東海道線を横断する。 |
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{右}江戸見附跡 御料傍示杭 越えると緩やかな下り坂で再び松並木が続く。途中に江戸見附跡の古地図入り説明板が立っている。高さ約1.6mの石垣の上に竹矢来が組まれていた。ここから加宿である東小磯村の先にある上方見附までは29町半(約3.2km)。江戸時代にはここの手前に高さ2mほどの御料傍示杭もあって大磯宿北組のはずれを示していた。 |
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大磯宿 本陣3脇本陣0旅籠66家数676人口3056[天保14年(1843)] 天保7年(1836)頃の天保の飢饉や大火災で被害を受け財政難になり天保14年に江戸湾防備政策もあって小田原藩へ編入された。大磯〜小田原近辺は道祖神が多く傍らには球体や立方体などの石も置かれている。旅人の供養塔や墓が道路改修などで道祖神の周りに移されたもの。町内各地で1月14日に行なわれる道祖神の火祭り「左義長」は平成9年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。他にもセエトバライ(サイトバライ)、ドンドヤキとも言われ海岸で正月の松飾で組んだ塔を燃やしその火でダンゴを焼き食べると風邪を引かないと言われる。屋形を引き廻すヤンナゴッコという儀式も行なわれる。 |
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{左}神明神社 大磯978 三沢橋東交差点で国道1号と合流して小さな三沢橋を渡ってしばらく行くと大磯駅入口交差点手前にある。創建は不明だがもとは紅葉山(大磯駅の北)にあり江戸時代に何度か移転後現在地に移された。祭神は天照大神。現在の社殿は昭和5年(1930)再建。明治元年(1868)明治天皇が東京行幸で小島本陣に宿泊した際に内侍所御羽車(三種の神器の一つ八咫鏡が乗った神輿)が置かれた。それを記念して昭和3年大磯研究会会長鈴木梅四郎が朝倉敬之揮毫により建立した碑が境内右にある。また朝倉敬之の直筆の「高来神社由来」の屏風を社宝として所蔵している。 |
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{右・寄}大磯駅 海内第一避暑地の碑 大磯駅入口交差点を右折し道なりに行くと大磯駅。途中左の民家にはアワビの殻をはめ込んだ塀があり療養地大磯でアワビが結核の薬として使われた名残。駅は明治20年開業で新橋まで42銭8厘だった。駅前左のロータリーにある海内第一避暑地の碑は明治41年(1907)日本新聞社が行った人気投票「避暑地百選」において大磯が2位の伊豆・修善寺に大差をつけて1位となった記念に野邨素介男爵が揮毫し建てられた。同じ場所に町制施行100周年の平成元年に町在住の彫刻家眞板雅文が制作したモニュメント「大樹」もある。駅の西南方向には三菱財閥岩崎家の長女澤田美喜が旧岩崎家別荘地に昭和23年(1948)創設した聖ステパノ学園(エリザベスサンダースホーム)がある。 |
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{右・寄}大運寺 [浄土宗]大磯1004 大磯駅入口交差点を進み「花吹雪」「こゆるぎの里」など大磯銘菓を売る船橋屋織江(大磯1035)の先の角を右折し塀に囲まれた道を進むと正面にある。増上寺の末寺で秀誉上人が元和年間(1615-1624)に開山した。本尊阿弥陀如来坐像は首が近江国の良弁、胴体が下野国の恵心によって平安末期に作られ元禄2年(1689)に合わされたもの。現在の本堂は平成12年建築。門前左には安永2年(1773)の六字名号碑がある。元海援隊で衆議院初代議長の中島信行夫妻、昭和初期の歴史画家安田靫彦、大磯町初代町長中川良知など大磯の名士の墓がある。毎年10月下旬の浄土宗の法要お十夜では門前に屋台などが立ち並ぶ。明治後期から戦後にかけて門前には芝居小屋大磯座があり賑わった。 |
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{左}穐葉神社 穐葉神社入口交差点脇にある。宝暦12年(1762)1月19日大磯宿に大火災があり宿場のほとんどが焼失したため遠州秋葉山より秋葉大権現を勧請し翌年大運寺境内に社を建立し宿場の安全を祈願した。明治の神仏分離で大磯駅前の梅浦家別荘内に移り秋葉神社と改称し大正7年(1918)現在地に移された。御祭神は火防の神である火之迦具土大神。延台寺の入口にあるため鳥居横には延台寺にある霊石「虎御石」の古地図入り説明板が立っている。 |
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{左・寄}宮経山 延台寺 [日蓮宗] 大磯1054 穐葉神社の手前を左折すると正面にある。慶長4年(1599)川崎次郎右衛門が身延山第19代法雲院日道上人を開山として開基した。鎌倉時代に虎御前(法虎庵妙恵尼)が庵を結んだ跡地と伝えられる。江戸〜明治間に三度焼失し明治35年以降仮堂だったが昭和57年復興した。門を入り正面の平成16年築の法虎庵曽我堂には長さ2尺3寸の細長く扁平な虎御石があり美男ならば持ち上げられるという。もとは虎御前が生まれた時に枕元にあった小さな石で御前の成長とともに石も成長し恋仲の十郎が御前の家で刺客に襲われたとき身代わりに斬られたので身代り石とも言う。境内には日道上人建立の虎御前供養塔、虎御前の父が願をかけた虎池弁財天の御神石、御前が恋成就を祈願した龍神祠などもある。 |
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{右}北組問屋場跡 セブンイレブン大磯中央店隣にある中南信用金庫専用の駐車場前に古地図入り説明板がある。大磯宿の問屋場は北本町、南本町に一カ所ずつあり地福寺の門前通りを境として北組と南組に分かれそれぞれに問屋年寄1人、帳付4人、人足指2人、馬指2人が置かれ交互に役を勤めていた。北組問屋場は間口3間半(6.3m)だった。駐車場内には稲荷神社もある。 |
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{左}福聚山 妙輪寺 [日蓮宗] 大磯1582 NTT向かいを左折したところに妙輪寺がある。平安時代に最澄が開基したとされ鎌倉時代に日蓮宗に改宗した。最澄の作と伝わる毘沙門天像を所蔵し「大磯毘沙門天」として近隣に知られている。門を入っていくと左に稲荷神社がある。本堂右前には病の箇所をたわしでこすれば病が癒えるといわれている浄行菩薩がある。その奥には平成15年建立の日蓮大聖人像がある。 |
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{右}小島本陣跡 大磯1023 NTT前を過ぎ隣の蕎麦処古伊勢屋前に古地図入り説明板がある。NTTとの境には昭和43年建立の石柱もある。小島本陣は享和3年(1803)には建坪246坪で文久2年(1862)の小島才三郎の代には間口14間奥行28間と記録されている。明治元年の明治天皇の東京行幸で昼食と宿泊の場所にもなった。大磯宿には本陣が3軒存在し現在は小島本陣跡のほか尾上本陣跡が確認できる。残る石井本陣は現在のホテル大内館(大磯1083)の付近にあったとされ享和3年の記録では建坪235坪だったが天保7年(1836)の火災で3本陣の焼失した以降記録がなく廃業したと伝わる。 |
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{右・寄}船着山円如院 地福寺 [東寺真言宗] 大磯1135 古伊勢屋の先を右折していくと正面にある。承和4年(837)の創建で江戸時代初期に宥養が中興開山した。木造弘法大師坐像は天文11年(1542)仏師但馬の作。所蔵する地福寺文書2通は永禄2年(1559)と天正17年(1589)の小田原北条氏のもので北条家に保護されていたことがわかる。境内左に晩年を大磯で過ごした島崎藤村夫妻の墓があり墓碑は建築家谷口吉郎の設計。20本以上の梅の古木が茂り墓地の上にも2本の梅が左右から屋根を作っている。門を入って左には地福寺の末寺だった旧円城院の無縁仏を万霊塔として祀っている。明治期には隣に町役場、郡役所があったが明治24年(1891)年の大火で焼失した。 |
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{右}尾上本陣跡 大磯小学校発祥之地 大磯1133-1 中南信用金庫本店前に大磯小学校開校100周年の昭和48年建立の石柱がある。片面に「尾上本陣跡」片面に「大磯小学校発祥之地」と刻まれている。尾上本陣は元和6年(1620)尾上市右衛門が開いた大磯宿最初の宿。それ以前は御嶽神社(東小磯1006)前を通る鎌倉道が古東海道を兼ねており尾上本陣が出来てから東海道側に人が往来するようになり大磯宿が形成されっていった。享和3年(1803)の記録では建坪238坪だった。大磯小学校(現在地:東小磯3)は文久元年(1861)小野懐之が尾上本陣の敷地を借りて開いた塾を発祥とし明治6年(1873)小学校として開校した。 |
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{右}新杵 大磯1107 照ヶ崎海岸入口交差点にある明治24年創業の和菓子屋。白い蒸し饅頭の虎子饅頭(1個100円)や皮に黒糖を使用した焼饅頭の西行饅頭(1個110円)などの大磯銘菓が名物。北海道産最高級小豆で作る餡は口あたりが良く島崎藤村や吉田茂も好んだともいう。道路の向かい側(交差点の左側角)には大正4年建立の大磯照ヶ崎海水浴場の石柱がある。海水浴場は明治18年(1885)に開設。当時の海水浴は潮の流れが強い地形が適当とされ最初は小田原が候補だったが町民の理解が得られずこの地に開かれ日本最初の海水浴場となった。明治20年横浜〜国府津間の鉄道開通で政財界の有力者の別荘が多く建てられたこともあり賑った。 |
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{左・寄}松本先生謝恩碑(日本最初の海水浴場発祥地) 大磯1398照ヶ崎プール横 石柱がある場所を左折し200mほど進み西湘バイパスを歩道橋で渡るとプール横に高さ6mほどの碑がある。横には日本最初の海水浴場発祥地の木抗もある。将軍家茂、慶喜の主治医をつとめ維新後に初代陸軍軍医総監となった松本順(明治4年以前は良順)は海軍伝習所でオランダ人医師ポンペ・ファン・メーデルフォルトに学んだ時に海水浴を知り旅館百足屋主人宮代謙吉らと協力しこの地に海水浴場を開設した。その後大震災による海岸隆起、港やバイパスの整備で今は大磯港を挟んだ東側に海水浴場がある。松本先生謝恩碑は昭和4年(1929)建立で題字は犬養毅、裏の碑文は鈴木梅四郎書。前には大磯八景の歌碑「漁火の 照ヶ崎つづく見ゆ いかり舟や今帰るらん」もある。 |
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{右}新島襄先生終焉の地 大磯1104 照ヶ崎海岸入口交差点で旧東海道は国道から左に分岐する。国道と旧東海道の間の三角地帯に碑と説明板があり国道側から入る。早稲田の大隈重信、慶応の福沢諭吉と並ぶ明治の三大教育家、同志社の新島襄は百足屋旅館の貸別荘・愛松園で明治23年(1890)47歳の生涯を閉じた。その百足屋の玄関がこの辺りとされる。天保14年(1843)安中藩士の子として江戸・神田に生まれ元治元年(1864)21歳で函館から渡米後キリスト教徒となった新島襄は明治7年(1874)帰国し父母の住む安中で伝道し一年後京都で同志社英学校を設立、さらに同志社大学設立を目指し東西奔走中病にかかり静養のためこの地に来ていた。故郷の碓氷の石を用いた碑は昭和15年建立で門下生の徳富蘇峰の揮毫。 |
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{右}南組問屋場跡 新島襄先生終焉の地がある三角地帯の旧道側に電話ボックスがありその前に古地図入り説明板がある。人員は北組問屋場と交代で勤務しこちらの間口は5間(9m)あった。ここから100mほどの短い距離だが国道1号を離れ旧道を進む。右側には明治39年(1906)創業の真壁豆腐がある。吉田茂が好み日米講和会議で渡米する時も持参したいと言ったというエピソードもある。さらに行くと明治11年(1878)創業の井上蒲鉾もある。小さな神社の祠がある駐車場は昭和初期には撞球場(ビリヤード場)があった。 |
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{右}高札場跡 さざれ石交差点にて再び国道1号と合流し国道の右側をしばらく行くと「さざれ石バス停」がありその先の民家の塀に古地図入り説明板がある。高さ3m幅5mの高札場があった。「さざれ石」とは明治中期に華道家元の井上寿が考案し松本順が命名したお菓子の名でこの付近の砂浜に多い丸い小石に似ており海水浴のお土産としてそれを売る店が賑わったことから地名として残った。 |
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{左}湘南発祥の地大磯の碑 大磯1292 高札場の少し先の反対側「レストランはやし亭」の前に石碑と説明板がある。この先にある鴫立沢は西行法師が東国行脚のときに「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮」と詠んだ地で寛文4年(1664)外郎でも有名な鎌倉時代から続く小田原の薬屋の子孫崇雪が西行を慕い鴫立沢の畔に五つの如来像(五智如来)を祀り西行寺を作る目的で草庵を結んだ際に「看盡湘南清絶地」と刻んだ鴫立沢の標石を建てた。中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南と言い大磯をこの絶景の地になぞらえたと言われこれが湘南の呼び名の発祥となった。現在標石のレプリカが鴫立庵にあり本物は塩害を避けるため大磯町郷土資料館の庭にある。五智如来の石像は鴫立庵にある。 |
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{左}鴫立庵 大磯1289 碑のすぐ先にある。街道から少し降り鴫立沢にかかる石橋を渡ると門がある。崇雪が建てた草庵は寺にはならず元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵して俳諧道場とし鴫立庵と名付け第一世庵主となった。今日残る建物の大部分を建立し旦那寺を地福寺とするなど庵規を定め多くの俳人を集めた。敷地内の法虎堂には虎御前の木像、円位堂には等身大の西行像、観音堂には孫文の持仏だった観音像がある。起伏のある庭には樹齢400年以上の欅が茂り西行歌碑、芭蕉句碑など多数の歌碑、句碑と庵主の墓碑などがある。大磯八景の一つである鴫立沢の秋月の歌碑もある。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の1つとして今でも句会が開かれる。9:00-16:00、入場料100円。 |
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{左・寄}小陶綾ノ浜(こゆるぎの浜) 鴫立沢の河口から旧吉田茂邸まで広がる浜。「ゆるぎ」とは波の動揺を表す。昔はよろぎ(余呂伎、余綾)とも書かれ国府津までの海岸一帯も広く指し万葉集には「相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも」と詠まれ古今和歌集など他の歌集にも登場する。大磯町と二宮町は相模国余綾郡と呼ばれた頃もある。大磯八景の1つにも選ばれたが「小松原けむる緑に打ちはれて見渡し遠く小余綾の浦」を刻む歌碑は現存しない。現在の浜は投げ釣りのメッカと呼ばれ昭和24年から白キス釣り大会が毎年行われている。 |
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{左}翠渓荘(旧徳川義禮邸) 東小磯213-1 鴫立庵からしばらく行くと街道沿いに立派な門があり参道のよう並木道が続いている。尾張徳川家18代当主で貴族院議員の徳川義禮侯爵が明治に建てたもので当時は152.53坪あった。戦後になって金属加工機械の株式会社アマダが買い取り自社の受注接待用、福利厚生施設に使用し空いていれば料亭・食事処として一般の利用もできる。明治期には東には山内豊景邸、西に山県有朋邸、陸奥宗光邸、大隈重信邸、鍋島直大邸(現:大磯プレイス)、伊藤博文邸(現:滄浪閣)、西園寺公望邸、池田成彬邸、清水満之助邸(現:大磯松韻)、伊達宗陳邸、梨本宮守正邸など名士の邸宅や別荘が並んでいた。 |
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{右}大乗山 妙昌寺 [日蓮宗]東小磯137 翠渓荘の少し先の向かい側。室町時代に大乗院日征上人により創建。もとは御嶽神社(東小磯1006)の東隣にあったが寛永14年(1637)頃の火災で東海道沿いの現在地に移転した。明治31年(1898)に焼失するが明治39年に長龍寺(伊勢原市高森1102)の古木堂を買取り移築改修して本堂とした。大震災で軽改修後、昭和54年に大改修され現在に至る。本堂前には旧本堂や山門の瓦が置かれている。門を入り左に浄行菩薩、富士見稲荷、鬼子母神堂が並ぶ。 |
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{右・寄}旧島崎藤村邸 東小磯88-9 大磯町消防団第3分団の手前を右折しすぐ右折、十字路を左折していくと公園の前にある。竹垣で囲まれ綺麗に手入れされた庭や広い縁側を持つ平屋の純和式邸宅で「静の草屋」と呼ばれた。もとは大正から昭和初期に別荘等に使用する貸家として建築されたもので藤村が昭和16年満70歳の時に借り気に入って後に購入した。約2年をここで過ごし昭和18年「東方の門」執筆中に頭痛を訴え倒れ「涼しい風だね」という言葉を残し永眠した。墓地は地福寺にある。後に大磯町の名誉町民にも選ばれ出身地の木曽郡山口村、青年期を過ごした小諸市は大磯町と姉妹都市になっている。9:00〜16:00、入場無料。 |
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{左}大磯宿上方見附跡 東小磯156 大磯中前交差点手前のガストの前が松が植えられた土手になっており古地図入り説明板がある。両側にあった高さ1.6mほどの石垣のうち左側の石垣は説明板の位置より若干江戸寄りの位置にあって隣には村の境を示す御料傍示杭もあった。交差点を渡った右側のギャラリー大磯の隣には年号不明の高さ132cmもある庚申塔と道祖神、赤い祠跡がある。 |
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東海道松並木 大磯中学前交差点から国道1号の下り車線側と中央分離帯に数百mほど松並木が続く。約400年前に街道の改修のときに植えられたもので幕府や藩主により保護されてきた。樹種はクロマツで最も太いもので胸高幹周が4m以上ある。松並木が終わるころにあるマンション「大磯プレイス」の前に樹脂で固めた切り株がある。樹齢217年のもので平成6年にマツクイムシ被害で切倒されたが年輪の表面に内側から順に年代と主な出来事が記入され記念保存されている。 |
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{右}宇賀神社 西小磯11 滄浪閣前交差点の手前にある。創建は養老元年(717)以前と言われる古い神社で祭神は大食津姫命。相模国府祭にやってくる神輿は宇賀神社の前を遠ざけて通ったという記録がある。国道側にある石鳥居から社殿までの間にいくつもの鳥居が並んでいる。滄浪閣前交差点の中央分離帯には文字の道祖神や積み石がある。 |
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{左}滄浪閣(旧伊藤博文邸)西小磯85 滄浪閣前交差点にある大磯プリンスホテル別館の結婚式場&北京料理店。入口前に碑がある。伊藤博文は明治20年ころ現在の横浜市金沢区に夏島の別荘を建て後に小田原御幸ヶ浜に滄浪閣という名の別荘を建てた。小田原と東京を往復しているうちに大磯が気に入り小田原の別荘を売却し明治29年(1896)この地に新しい滄浪閣を建て本籍も移して大磯町民となった。建物は関東大震災で倒壊後復元。明治の元勲を祀った五賢堂(三条実美、岩倉具視、大久保利道、木戸孝允、伊藤博文)もあったが昭和35年に西園寺公望、吉田茂も加え七賢堂として旧吉田邸に移設された。大磯駅から大磯中学校に通じる道は明治36年(1905)初代韓国統監となった伊藤に因み統監道と呼ばれる。 |
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