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{左}旧元町橋跡 樹源寺を過ぎてしばらく行くと保土ヶ谷消防団第一分団第1−10班と書かれた倉庫があり、その横に案内柱がある。明治以前はここを今井川が横切っており元町橋があって橋を境にして元保土ヶ谷と元保土ヶ谷橋向と地名が分かれていた。東海道線の鉄道工事の際に川が流域変更され元町橋も現在の場所に移動した。 |
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元町ガード交差点 しばらく行くとT字路に出るので旧東海道はここで左折する。右折して東海道線のガード(元町ガード)をくぐると古東海道で慶安元年(1648)以前はここから芝生追分まで続いていたが詳しい道筋は定かではない。その頃は保土ヶ谷宿もこのあたりにあって新しい保土ヶ谷宿ができてから元町と呼ばれるようになった。 |
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{右}庚申塔&堅牢地神塔 左折して今井川に架かる元町橋を渡り元町橋ストアの前にある。庚申塔は明和2年(1765)堅牢地神塔は文政10年(1827)の建立。江戸末期にはこのあたりの民家の茅葺屋根に鳶尾(いちはつ)の花が咲く姿が評判になり明治初期にロシアのマキシモウィッチが紹介し海外まで知られ昭和30年代まで保土ヶ谷の名物だった。鳶尾はアヤメ科アヤメ属の多年草。 |
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権太坂入口 庚申塔から少し先に行くと右へ分岐する上り坂の道がありこれが旧東海道となる。東海道の道筋案内板もあり境木地蔵まで1.5kmとある。権太坂は東海道の難所の一つだった所で多くの浮世絵にも描かれている。名前の由来は「新編武蔵風土記稿」によると旅人が老人に坂道の名を聞いた時に自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたからとされている。また別説として万治2年(1659)坂の改修工事に当たった藤田権左衛門の名から「権左坂」と呼んでいたものが訛ったという説もある。 |
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{左}権太坂改修記念碑 権太坂を上り始めてすぐに小さな神社がありその前にある。昭和30年(1955)に平沼亮三横浜市長(当時)が1500坪の道路用地を寄贈し改修を行った際の記念碑でこの改修により昔ながらの難所ではなくなった。坂道は上り始めから光陵高校あたりまでを一番坂、境木までを二番坂と呼ばれ横浜横須賀道路の上を越えて約1km以上にわたって坂が続く。光陵高校の手前に権太坂の石柱と説明板がある。箱根駅伝で「花の二区」として全国的に知られる権太坂は明治17年(1884)に作られた新道の方で旧東海道ではない。 |
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{左・寄}投込塚跡 坂を上りきり境木中学校に突き当たったら東海道から外れ左折して200mほど行くと左側にある。四坪ほどの敷地に投込塚之跡の石碑を中心に宝永7年(1710)の庚申塔、天保9年(1838)の馬頭観音、石仏、石地蔵、卒塔婆などが並ぶ。権太坂がきつかったため道中行倒れた人馬を葬ったとされる場所で昭和36年(1961)の宅地造成時に大量の人骨や牛馬の骨が出土した。発掘された人骨は東福寺(戸塚区平戸町299)に埋葬され無量光仏碑が建立されている。 |
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{右}境木立場跡(現:若林家) 境木中学校の突き当りを右折して境木小学校の敷地を外れた先にある黒塀の屋敷。このあたりは数々の浮世絵にも描かれている境木立場があった所で現在屋敷を構える若林家も立場屋の屋号で茶屋を営んでいた。当時は立派な黒塗りの馬乗門や本陣さながらの建物を持ち大名も休憩に利用した。庭に明治元年10月明治天皇休息場所の立札がある。茶屋では牡丹餅(ぼた餅)が名物で手前の境木商店街の中にある和菓子屋栗山ではぼた餅(1箱\900)境木おじぞうさんもなか (1個\180) ごんた餅 (1個\170) 神奈川県指定銘菓品濃一里塚(1個\180)などのこの辺りにちなんだ和菓子を売っている。 |
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{右}境木地蔵(一心山良翁院境木延命地蔵尊) 若林家の隣。地蔵は鎌倉腰越の浜に漂着し漁師の夢枕に立ち江戸の方へ行きたいと告げ漁師たちが運んだがこの地まで来て動かなくなってここの村人たちが引き取り安置したら村が繁盛したという由来がある。お金が集まる、脚気に効果がある、大入道に化けて追いはぎを追い払った等の言い伝えもあり東海道の名物だった。地蔵堂は万治2年(1659)の建立。境内の手洗い鉢は金運にあやかろうと江戸吉原の人々が寄進したもの。境木は武蔵と相模の国境という意味で目印だった大きな欅「境木大欅」が境内にある。関東大震災までここに良翁寺という寺があり安永9年(1780)鋳造の梵鐘が明治元年から震災まで野毛山の「時の鐘」に使用されていた。現在は保土ヶ谷の見光寺が地蔵を管理している。 |
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{右}傍示杭 境木地蔵の前の歩道(広場)にある。平成17年建立。江戸時代にあったとされる国境の傍示杭(境杭)を 復元したもの。杭には「武相国 境之木」「これより武蔵国保土ヶ谷宿一里」「これより相模国戸塚宿一里九丁」とある。また台座の石には武蔵の国と相模の国の地図が彫られ日本橋は九里九丁とある。台座の周りには東海道の53宿場の名前も彫られている。歩道は広く整備されているが車道は車が多い。 |
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{左・寄}萩原代官屋敷道場跡 平戸3-54-1 焼餅坂の一本左側の脇道階段を下りすぐに右折、竹林を左に見て道なりに坂を下りていき下りきったら左折すると正面に瓦葺の武家門がある。萩原家は旗本杉浦越前守の代官を代々勤め幕末の当主・萩原行篤は嘉永4年(1851)に直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝を得て道場を開いた。道場には名剣客が数多く訪れ安政5年(1858)には近藤勇も立寄ったが将軍家定が死去したばかりで試合は禁止されていた。所蔵の剣客名には「八月御停止中に付試合無之候」と近藤の直筆が残されており門前の案内板にその写真が転写されている。現在16代当主が雑木・竹工房を営んでいる。
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焼餅坂 傍示杭のすぐ先の交差点で旧東海道は左に分岐し焼餅坂を下りていく。坂の傍らの茶屋で焼餅を売っていたのでこの名が付いた。坂の下り口のマンション(公団住宅)前に説明板と「左 旧東海道」「右 環状二号線」と刻まれた真新しい石道標がある。車は環状二号方面に流れていくので焼餅坂は交通量が少ない。坂の途中左に「旧東海道・焼餅坂」の標識もある。右側にはマンションが建ち並んでいる。 |
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谷宿坂 焼餅坂を下りきると小さな品平橋を渡る。昔は谷宿土橋(やしゅくどばし)と言い清らかな小川が流れていた。川に沿って左に分岐していく谷宿谷戸農道は国道1号線に通じている。橋を渡るとここから再び上り坂となり途中左手には東海道分間延絵図にも記載されている寛永10年(1633)の庚申塔がある。現在土手の中途半端な高さにあるのは昔は街道がこの高さにあったため。周辺には谷宿の里という集落があった。 |
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品濃一里塚(9) 谷宿坂を上りきると道の両側にある。両側の塚が現存している貴重な一里塚で昭和41年に県の史跡に指定された。通常は9m四方に塚を築き木を1本植えたがこの品濃一里塚は16.5m四方もあった。右側の塚は「品濃一里塚公園」となっていて公園から塚の頂上に行くことができる。左側の塚は民家につき立入禁止の札があるが一度東海道を京側へ進み最初の交差点を左折、すぐに左折すると「一里塚公園」があり裏から回り込んで半分を見ることができる。右側の塚はほぼ全体が当時のまま残されているが左側の塚はで一部削られてしまっている。一里塚公園には年号の不明瞭な庚申塔もある。右側が品濃村、左側が平戸村で東海道が2つの村の境になっていた。 |
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{右}福寿観音 品濃一里塚を過ぎ環状2号線に合流する交通量の多い道を横断し進む。しばらく行くと環状2号線の向こう のダイエー東戸塚店(その先にJR東戸塚駅)に通じる道と交差する。その手前に福寿観音がある。歴史は浅く東戸塚駅(昭和55年開業)の敷地を無償提供し工事費のほとんどを負担した福原政二郎氏(新一ビル株式会社創業者)が駅周辺の開発に際し昭和57年建立したもの。東戸塚駅は民間(地元民)が作り国鉄に寄付するといういわゆる請願駅で昭和38年ごろからの地元の悲願だった。ダイエーに行くために環状2号線に架けられた陸橋も福寿歩道橋と言う。福原氏は東戸塚駅の西側にも平成2年に新戸塚観音堂を建立している。 |
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{右}シラカシ ダイエーからの道との交差を過ぎると住宅地になる。すぐに閉鎖された神社がありその脇にシラカシの大木が東海道に面している。横浜市指定銘木・古木。シラカシはブナ科の常緑樹。 |
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{左}平戸果樹の里(平戸農業専用地区) そのうちに「果樹もぎとりの里」の看板がある分岐に出るのでまっすぐ進む。ここから左側は平戸果樹の里と呼ばれ数軒の観光果樹園があり総面積8.8ヘクタールの中で梨、桃、葡萄、梅、柿、栗、蜜柑などが作られ直売されている他もぎ取りもできる。主産物の梨は通称「浜なし」と呼ばれ昭和60年神奈川の名産100選に選ばれ平成9年横浜ブランド農産物に認定されており樹上で十分に完熟させた大玉で糖度も高く人気があるがスーパー等には流通せず直販でしか手に入らない。他にも柿、葡萄が横浜ブランド「浜がき」「浜ぶどう」と呼ばれる。 |
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品濃坂 やがて目の前が開け左前方には平戸小学校が見える。すぐに左に分岐する道があるが旧東海道はまっすぐ坂(品濃坂)を下って行く。品濃坂は品野坂、信濃坂、科野坂とも表され品濃は「山麓の緩傾斜地」を意味している。ちょうど朝日が昇る方向に向いているので日向坂(ひむかいざか)とも呼ばれる。 |
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品濃橋(歩道橋) 坂を下り始めると車道は右にカーブし環状2号線に接続していくが途中左側の歩道橋につながる階段を降りる。これが旧東海道で橋の手前左には「品濃坂」と書かれた石碑があり旧東海道の地図が描かれた銅板が埋められている。元々ここも品濃坂の一部で対岸の道まで繋がっていたが環状2号線の工事で切り崩され分断された。昭和62年に架けられたこの歩道橋で環状2号線を渡る。 |
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品濃坂の続き 品濃橋を渡り左の階段を下りてすぐに右へ入る道が先ほど品濃坂の階段から見えた対岸の道。道に入るとすぐに二又路を左に分岐する。この辺りも下り坂(品濃坂)でかつては急で長い坂であったことがわかる。 |
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川上川沿いの道 品濃坂を下りきると平坦な道を進む。やがて川上川が右側に平行し住宅地の中の川沿いの道を進む。対岸に桜並木が植えられ春は桜の名所となる。やがて東戸塚駅入口交差点で国道1号線を横断し今度は左に平戸永谷川(柏尾川)を見て川沿いに進む。 |
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赤関橋 国道1号線に一瞬合流し赤関橋を渡る。平戸永谷川(柏尾川)は江戸時代にはこのあたりでは赤関川、永谷川と呼ばれ赤関橋は天保年間の「新編相模国風土記稿」によると長さ5間(9m)幅3間(5.5m)の土橋だった。平成16年〜18年まで改架と周辺の護岸工事中。赤関橋を渡ったらすぐ左に分岐する細い道が旧東海道(写真)。250mほど行くと再び国道1号に合流する。 |
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{左・寄}王子神社 柏尾町939 国道1号をしばらく歩き左側「かっぱ寿司」手前の小道を道なりに進んでいくと左に鳥居がある。南北朝時の後醍醐天皇(南朝)の第一皇子護良親王は征夷大将軍として活躍したが建武2年(1335)鎌倉で北朝の足利直義の家臣、淵辺義博に暗殺されさらし首となった。夜中に側近が首を奪い返し戸塚の南朝方の豪族斎藤氏に救いを求め首を近くの井戸で洗い清めこの神社の本殿の下に葬ったとのこと。境内にはほかに柏尾で最も古い神社「子の神社(ねのかみしゃ)」伊勢神宮外宮の末社「お伊勢の宮」穴守稲荷の末社「柏尾稲荷社」などの境内社がある。鳥居前には「下馬」の立札と御料馬控処がある。 |
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{左・寄}東谷山聖徳院 成正寺 [浄土真宗本願寺派] 柏尾町1221 王子神社前の小道を少し戻り右に分岐する細いあぜ道を行くと寺の裏手に出る。本尊は阿弥陀如来。境内には大正6年建立の馬頭観音碑や薬師堂がある。
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{右・寄}大山前不動・大山道道標 国道を進むと不動坂交差点手前30mで右に分岐していく細い道が大山道で道幅は昔の東海道と同じく現在もその幅で残っている。この道を少し行くと右に祠があり大正までここにあった大山・阿夫利神社の一の鳥居の額と不動坂の名の由来である正徳3年(1713)建立の不動明王が座した道標が祀られている。周りに寛文10年(1670)享保12年(1727)明治5年(1872)の三基の道標や元治2年(1865)の灯篭、延宝8年(1680)や昭和期の庚申塔がある。これらはそれぞれ別の場所から集められた。寛文10年の道標は五太夫橋にあったもので「為五處橋供養」と刻まれ橋供養塔も兼ねていた。大山へは和泉町、長後、伊勢原を通る現在の県道戸塚・伊勢原線に若干の違いはあるがほぼ合致している。 |
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{左}益田家のモチの木 大山道分岐のすぐ先の向かいにある。昭和56年に県指定天然記念物になり昭和59年には「かながわの名木100選」にも選ばれている樹齢約300年の巨木。3本にも見えるが2本で両方とも雌株。奥の方が大きく樹高19m目通り(目の高さの回り)3.2m根回り4.9m、手前は樹高18m目通り2.4m根回り3.1m。常緑樹のモチの木は通常高さ3〜8mで樹皮から「鳥もち」を作る。 |
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不動坂交差点 少し先で不動坂の三叉路となる。国道1号は国道1号バイパスと国道1号に分岐し、さらに旧東海道も別に分岐していく。右から国道1号バイパス、国道1号、1段高い旧東海道となる。国道1号バイパス(戸塚バイパス)は昭和28年吉田茂首相(当時)が大磯の自宅と東京を往復してた際、国道1号線の戸塚駅前の開かずの踏切を嫌って作らせたバイパスで別名ワンマン道路と呼ばれる。海蔵院の近くにある和菓子屋「吉田屋」(戸塚町3960)ではそれにちなんで「ワンマン道最中」という菓子を売っている。(全国菓子大博覧会金賞受賞1個140円) |
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{左・寄}護良親王の首洗井戸 不動坂から分岐ししばらく行くと秋元眼科医院手前の小道に「歴史の小径」の石標がありそこを入って道なりに200mほど行くと住宅街の道路と道路の間の空地にある。王子神社に葬る前にここで首を洗い清めたとされる。その際に4本の杭を打って祭壇と成し供養した跡地として昭和62年建立の四つ杭跡の碑もある。このあたりの昔の地名は「よつぐひ」と言い鎌倉から山を四つ越えた「四つ越え」からきたという説とこの四つ杭からきた説がある。ここからさらに小道を300m行くと小さな空地に護良親王の馬が葬られたという場所があり馬頭観世音がある。馬頭観世音から少し北に行くと成正寺正面の道に出る。 |
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{右}斎藤家・鎌倉ハム発祥の地 旧東海道を進むとレンガ造りの蔵と立派な門構えの家がある。明治10年(1877)英国人ウイリアム・カーティスがこの付近に牧場を作りハム製造を始めた時の使用人斎藤角次が明治14年(1881)この地で日本人によるハム製造を開始、一躍全国的に有名になった。レンガ造りの倉庫はハムの冷蔵に使われていたもので横浜の赤レンガ倉庫と同じ明治20年代に建造されたもの。壁の厚さが1mもあり関東大震災にも耐えた丈夫な作りで今でも自家用貯蔵庫として使用されている。ハムは今でも手造りで少量作られている。隣に親戚の肉のさいとう柏尾町店がある。鎌倉ハムは現在多くの企業がその名を用いてハム製造を行っている。(参考 1 2 3 4) |
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五太夫橋(ごだゆうばし) しばらく行くとT字路になるので右折し舞岡入口交差点で左折し国道1号に合流する。すぐに舞岡川にかかる五太夫橋を渡る。由来は小田原北条氏の重臣石巻五太夫(康敬)から来ている。康敬は天正18年(1590)当主氏直の代わりに秀吉に弁明するため上洛するが捕らえられ同年7月の小田原落城後、家康預かりとなり現在の泉区中田町に蟄居させられた。関東総奉行本多正信の仲立ちにより国替えで江戸へ移ってきた家康とこの橋のあたりで会見した康敬は中田村の領主に取り立てられ以後家康の家臣として東海道の整備などで功績を残した。当時の橋は長さ3間半だった。昔あった橋供養塔は大山道道標を兼ねてたため大山前不動に移されている。現在の橋は昭和54年(1979)に架けられた。 |
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{左}宝蔵院 [真言宗大覚寺派] 吉田町935 国道1号を歩いていくとある。平安時代初期に弘法大師が現在の戸塚税務署辺りに建立したのが起こり。天文16年(1547)に高野山より来た僧・朝興が東峰山 光圓寺として中興した。寛永9年(1632)現在の戸塚駅東口駅前に移転し本尊に不動明王を祀り戸塚不動として有名となり昭和18年に現在地に移転した。現在の本堂は昭和50年の建造。本堂右前にある大日如来石像は創建時に祀られていたもの。その横には文政元年(1818)の徳本上人名号碑、天保15年(1844)の馬頭観音がある。本堂左奥には地蔵堂、手前に慈母観音、右には昭和53年建立の日本舞踊などに使われた扇を供養する扇塚がある。門前には文政4年(1821)の「南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれた木食観正碑がある。 |
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{右}戸塚宿江戸方見附 吉田町879 ダイエー戸塚店の隣のフォルクス脇に石碑と説明板がある。石碑は昭和37年に建立。ここから戸塚宿。 |
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戸塚宿 本陣2脇本陣3旅籠75家数613人口2906[天保14年(1843)] 日本橋から5つ目の宿場町で成立は隣宿である保土ヶ谷宿・藤沢宿に比べ若干遅く慶長9年(1604)。江戸〜小田原間の中間にあたり「権太坂」と「大坂」の難所に挟まれていたため休憩や宿泊客で賑わった。「お江戸日本橋七つ立ち」して一般的な旅人が最初に泊まる所がこの戸塚宿であり東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんも1日目はここに宿泊した。また大山道・鎌倉往還との分岐点であり参拝客でもにぎわっていた。宿内は20丁19間(約3.5km)中心は戸塚宿消防署付近。 |
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{左・寄}身立山 妙秀寺 [日蓮宗]吉田町1034 元町交差点の1つ先の路地を左に入るとある。鎌倉の妙厳山本覚寺の末寺に当たり妙秀禅尼を開基、身立院日修を開山として延文元年(1356)創建。本尊は本尊は釈迦如来で高さ34.2cmの日蓮大聖人折伏像もある。山門は閉ざされているが右側に回ると別の入口があり入って正面に「左かまくらみち」の石柱がある。広重の絵に描かれている道標で上半分は欠けているが延宝2年(1674)建立とされる。なぜここに移されたのかはあまり知られていない。浮世絵では「道」が実物では「みち」となっている。境内には他に寺子屋師匠日玲の筆子塚がある。 |
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{左}戸塚一里塚跡 (10) 国道沿いの歩道に金属プレートの案内板がある。ここの両側にあった一里塚は道路拡張時に跡形もなく削られた。 |
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吉田大橋 一里塚跡を過ぎてしばらくすると柏尾川にかかる吉田大橋を渡る。かつては吉田橋あるいは高島橋とも呼ばれており広重の絵に出てくる「吉田橋」。長さ8間(約14m)の大きな橋であった。絵に描かれている店「こめや」があった場所である橋の手前左に平成元年設置の広重の絵が描かれた案内板がある。こめやは米の商いのほか東海道と鎌倉道の分岐点という地の利を活かし旅人に軽食などを出す茶屋を営んでいた。絵にも描かれている「左かまくら道」の道標は妙秀寺にある。橋は昭和61年に改架し橋の両側欄干に4枚の浮世絵のプレートや大名行列が持つ毛槍を模した街灯が付いている。 |
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{右・寄}八王子道道標と道祖神 橋を渡り川沿いに続く道(八王子道)を右折して20mほど行くと左にある。宝暦12年(1762)の道標に大きく「淡島大明神」「退魔山大善寺」小さく「上矢部 道十丁」と彫られている。横には「虚空蔵菩薩 ほしのや 八王子道」とある。淡島大明神は大善寺(上矢部町106)の裏山にある神社。ほしのやは星谷寺(座間市入谷3-3583)の星の谷観音のこと。道標の隣の道祖神は天保12年(1841)のもの。 |
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{右・寄}大島山宝林院 善了寺 [浄土真宗本願寺派]矢部町125 吉田大橋を渡りしばらくして横浜矢部郵便局の先に入口がある。古くは泉区の正法寺(和泉町5291)の地にあり真言宗だったが天福元年(1233)江戸麻布・善福寺の了海の弟子、了全が浄土真宗に改めた。その後武田信玄の家臣大久保信唯が顕如上人の法弟となり了唯を名乗り現在地に移した。慶応3年(1866)火災で正徳2年鋳造の梵鐘を残し全焼し明治2年に再建。モダンな白壁の本堂は昭和20年の建造。本堂前に親鸞上人像がある。裏の高台の林は明治9年作られた小学校、明充学舎の跡地で自由民権運動の結社友文会が演説会を行った。また昭和8年から17年まで柏尾川の反対側(現:日立製作所)に戸塚競馬場がありこの寺の付近に厩舎があった。
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{右・寄}山王祠の遺構 戸塚町5132 戸塚駅東口入口信号を過ぎ太田商店の手前を右折、矢部町内会館を過ぎ飯沼鍼灸治療院の案内に従い左折していくと右手の治療院の前にある。北東の方角は鬼が出入りする方角として鬼門とされ戸塚宿の江戸側がちょうど北東なので鬼門よけとして承応年間(1652-55)に祠が建てられた。当初は宿場街の北側の山王山と呼ばれる小高い丘の頂上にあったが丘は宅地化で削られた。手前の手水鉢は安政2年(1855)のもので「本宿食売旅籠屋中」とあり宿場の商売繁盛を願い寄進されたと考えられる。 |
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戸塚駅踏切 やがて戸塚駅横の踏切を渡る。開かずの踏切として有名で国道1号バイパス建設のきっかけにもなった。2013年までの戸塚駅前地区の区画整理事業として高架化される予定になっている。踏切を渡り左に少し入ったところにある酒屋の松本屋は戸塚宿ができた頃は旅籠だった。現在は古い黒塗りの蔵が東海道側に面している。 |
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{右}中屋菓子舗 商店街の中にある。嘉永2年(1849)創業から5代続く和菓子老舗。江戸時代は茶屋で季節により当時の焼きだんごや焼きまんじゅうも売っている。 |
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{右・寄}清源院(南向山長林寺)[浄土宗] 戸塚町4907 晃和通信(携帯ショップ)手前を右折すると入口。元は建久年間(1190-99)に安達藤九郎盛長の一族、長林氏が建立した獅子王山長円寺。家康の元側室で代官の彦坂元正に預けられ岡津(現:横浜市)の草庵に閑居していたお万の方が元和2年(1617)病の家康を見舞いに駿府城に行き拝領した歯吹阿弥陀如来を本尊とし小石川伝通院白誉聞悦を開山として元和6年開基した。裏山に安政15年(1858)建立のお万の方火葬跡碑もある。境内右に芭蕉句碑「世の人の見付けぬ花や軒の栗」。境内左の駐車場脇の心中句碑「井にうかふ番いの果や秋の蝶」は寺の井戸で心中した戸塚の薬屋大島屋の息子清三郎(18)と伊勢屋の飯盛女ヤマ(16)慰霊のため当院22世躍誉上人が文久3年(1863)に建てたもの。 |
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{右}丁子家 戸塚町4080 商店街の中にある蕎麦屋老舗。江戸時代からの旅籠で先の角を右折して回り込むと旅館の入口があり現在も和室7部屋の旅館としても営業している。永禄3年(1560)桶狭間の戦いがあった頃この地に住み始め米屋などの商売をしていたが旅籠となり江戸後期に蕎麦屋と質屋も兼業した。寛政10年(1798)に「ふさ」という女を雇ったときの「飯盛女年季請状」(誓約書)が保存されている。戸塚宿に75軒あったという旅籠のなかで残っている旅館はここだけ。 |
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{左}茶碗屋 丁子家を過ぎたあたりから戸塚郵便局あたりまでの一帯は戸塚中央商店街となっている。長後街道への分岐する交差点の左に呉服屋の茶碗屋がある。尾張の瀬戸物師が江戸時代に戸塚に住み着き旅籠を営んだのが最初で14代続いている。明治2年から洋装・呉服屋に転業。ここから分岐する長後街道は別名が多く明治までは伊勢原街道、以降は横浜伊勢原街道線、厚木街道と呼ばれ明治期には「繭の道」、昭和10年代は「工員道路」、終戦後は「マッカーサー街道」とも呼ばれた。 |
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{右}澤邊本陣跡 戸塚町4142 戸塚宿には内田本陣が現在の戸塚郵便局のあたり、澤邊本陣が戸塚消防署の手前にあった。澤邊本陣跡には本陣跡碑(鉄柱)と明治天皇戸塚行在所石碑があり行在所碑は海軍大将・有馬良橘の揮毫。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者で澤邊氏は代々九郎右衛門を襲名し明治時代は自宅を開放して寺子屋を開くなど学問にも力を入れていた。澤邊本陣の両側には脇本陣があり2軒の本陣の中間の左手には問屋場があったが建物は全て関東大震災で焼失した。 |
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{右・寄}羽黒神社 戸塚町4143 澤邊本陣跡の横の道を入っていった奥にあり澤邊氏が建てたと伝えられている。社殿左に元禄5年(1692)の庚申塔と3猿の彫られた道祖神がある。灯篭は天保元年(1830)、手水石は享保16年(1731)のもの。 |
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{右・寄}海蔵院 [臨済宗円覚寺派]戸塚町4213 少し行くと海蔵院への小道がある。山門の左には文政4年(1821)の「遍照金剛」と刻まれた木食観正碑がある。山門上部には左甚五郎作と伝えられている龍の彫刻がある。本尊は釈迦如来で堂内には薬師如来、聖観音菩薩、十一面観音菩薩、もちあがり地蔵が安置されている。山門を入ってすぐ左に寛政5年(1795)の俳人志行の墓がある。 |
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{右}八坂神社(牛頭天王社)戸塚町4289 しばらく行くとある。元亀3年(1572)に郷の庄司内田兵庫源正親が牛頭天王社を勧請し草創。その後荒廃し御神体も土中に埋もれたが元禄元年(1688)掘り起こされ再興された。境内に文政10年(1827)再建された御神体再現記念碑がある。明治になり八坂社、昭和7年に八坂神社と改称した。毎年7月14日に行われる「お札まき」は横浜市指定無形文化財。女装した男が輪になって踊ってうちわで札を撒き人々はこれを拾って帰り家の戸口や神棚に貼って厄霊除けとする。江戸時代中期、江戸や大阪で盛んに行われていたがやがて消滅し現在は戸塚宿にだけ伝え残されいる。入口右側に昭和38年建立の明治天皇東幸史蹟碑がある。安政2年(1855)の庚申塔もある。 |
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{左・寄}かまくら道道標 八坂神社前交差点のファミリーマート前あたりに江戸時代には戸塚宿の高札場があり、そこから「かまくら道(浦賀道)」が分岐していた。交差点から左折していく道で手前左側には道標があった。現在道標は左折して少し行った先の日立製作所正門前左(戸塚区役所入口交差点)に移されている。宝永7年(1711)のもので側面には南無阿弥陀仏と彫られている。かまくら道は二里九丁(8.8km)の道のりで上倉田、長沼、笠間、大船、北鎌倉を通り鶴岡八幡宮まで続く。吉田大橋の手前から分岐していたかまくら道とも上倉田で合流する。 |
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{右}富塚(とつか)八幡宮 戸塚町3828 八坂神社前交差点を過ぎて少し行くとある。前九年の役で源頼義、義家父子が奥州に下る途中当地に露営した時、夢に戦の神である誉田別命(応神天皇=八幡神)及び富属(とづき)彦命の神託を蒙り戦功をたてることができたのに感謝して延久4年(1072)社殿を造り両祭神を祀り勧請した。本殿は天保14年(1843)、拝殿は昭和9年の建築。神輿も天保14年のもので平成12年に大修理が行われた。境内石段下左には嘉永2年(1849)建立で平成12年に新しく再建した芭蕉の句碑「鎌倉をいきて出けむはつ松魚(かつお)」がある。 |
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{右・寄}富塚の碑 富塚八幡宮の本殿左にある稲荷神社の裏から富塚と呼ばれる富属彦命の古墳を登っていくと頂上付近にある。昭和47年に富塚八幡宮900年を記念して建立したもの。この富塚と呼ばれる前方後円墳が戸塚宿の地名の起こりだと言われる。他の説ではある武士が十人の賊を退治し塚に埋めたから十塚→戸塚となったとも言われる。登り口の稲荷神社の周りには寛文12年(1672)をはじめ元禄元年(1688)、宝永4(1707)、正徳2年(1712)、正徳4年、享保元年(1716)、元文3年(1738)などたくさんの庚申塔がある。 |
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戸塚宿上方見附跡 戸塚町2995 富塚八幡宮から少し行ったところの道の両側にある。左側はファミレス「サイゼリヤ」の前にあり石垣が積まれ松が植えてあり案内柱と浮世絵が描かれた案内板などがある。右側は民家の横に同じく石垣が積まれ紅葉が植えられており案内柱が建てられている。この先は権太坂にひけをとらない登り坂の難所「大坂」になる。 |
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