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{右}第六天宮 戸塚宿上方見附跡を過ぎると大坂の上り坂になりしばらく行くとある。境内左に嘉永7年(1854)建立の藤行(とうぎょう)翁之碑がある。上3分の1程度から亀裂が生じており昭和58年にボルトなどで修復された跡がある。手水石は天保11年(1840)のもの。さらに行くと坂の右手に小さな稲荷神社もある。 |
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{右}大坂の庚申塔群 少し行くと庚申塔が8基並んでいる。右より正徳4年(1714)享保3年(1718)元禄8年(1695)元禄6年(1693)延宝6年(1678)延宝5年(1677)元禄4年(1691)寛保3年(1743)。大坂は「佐野の馬 戸塚の坂で 二度ころび」と川柳に詠まれている場所で鎌倉の御家人佐野源左衛門がいざ鎌倉に行く時この坂で馬が息切れしてしまった故事に由来している。佐野源左衛門は謡曲「鉢の木」にも主人公として登場している。大坂下には木賃宿が数軒あり明治の中頃まで繁盛し坂上まで荷物運びを商売にしてる人もいた。 |
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戸塚松並木 大坂上の信号で左に分岐しさらに上っていくと国道1号バイパスと合流する。上りと下りの間の中央分離帯が樹木帯となっている。現在は松は少ないが江戸時代には戸塚並木という松並木だった。3代将軍家光の時代に日照りが続いたので歩行者のために街道に松が整備されていったのが始まりで江戸中期や末期には鬱蒼とした山林に成長し浮世絵などにも描かれている。少し行くと中央分離帯の中に50mほどの松並木に挟まれた小道がある。小さな案内板もあるが錆びていて読めない。 |
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{左}お軽勘平 戸塚山中道行(おかるかんぺいとつかさんちゅうみちゆき)の場碑 少し進み西横浜国際総合病院前バス停前に碑がある。歌舞伎や浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵の名場面で勘平が主君の刃傷沙汰が起こった時にお軽と逢引していたため江戸に居づらくなって二人でお軽の実家に逃避行する途中ここを通ったというもの。この辺りは当時山の中で昼なお暗く人目をはばかる二人のイメージに合ったための創作で実話ではなく実在のお軽は内蔵助の山科での愛妾。道行とは浄瑠璃で男女二人で旅することをさす。碑は昭和46年建立で当時の戸塚区観光協会長・伏見嘉平揮毫によるもの。 |
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{左}原宿一里塚(11) 原宿2-31-2 さらに行くと原宿第一歩道橋過ぎから下り坂となる。途中「寿々喜園一里山」という看板が出ている植木屋の敷地に案内板がある。塚の付近に茶店があったのでこのあたりが原宿と呼ばれるようになった。明治9年(1876)里程標の杭を建てる際に一里塚は取り払われた。 |
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{右}浅間神社 原宿一里塚の100mほど先の信号(浅間神社前)に参道入口がある。苔縄城主の北条氏が永禄年間(1558-69)に創建した原宿地区の鎮守社。祭神は木花之佐久夜姫命。参道入口右に貞享3年(1686)元禄6年(1693)享保12年(1727)の庚申塔3基がある。長い参道には横浜市の名木に指定された椎の木が並んでいるが大きな切株だけになっているのも多い。社殿の左には延宝8年(1680)の富士講碑や青面金剛がいなくて三猿だけが三角形に配置された延宝5年(1677)の庚申塔がある。鳥居は安永5年(1776)建造。また境内にはブランコや滑り台などの児童遊具もある。 |
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{右}大運寺 [浄土宗] 原宿3-9 浅間神社前の信号から200mほど行くとある。門には葵の紋。一心経一巻、雷獣肉附毛地蔵画などが寺宝。江戸時代には寺の前の街道沿いに立場や高札場があった。ここから原宿交差点を挟んで1kmほどは両側の建物を10mほど後退する工事をしており、渋滞の多い原宿交差点の立体交差化に向けた整備が進んでいる。東海道(国道1号)がアンダーパスする予定で平成20年完成予定。 |
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{左}馬頭観音・道祖神 影取町225 原宿交差点を過ぎしばらくすると中央分離帯が再び樹木帯になる。ここから影取町までの1km弱は八丁並木と呼ばれた松並木だったところで昭和30年代までは2千本の松が茂っていた。現在の下り車線側が旧東海道になる。影取町第一歩道橋の手前に柵に囲まれた大きな馬頭観世音と道祖神がある。馬頭観世音は嘉永2年(1849)道祖神は明治6年(1873)の建立。 |
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{左}諏訪神社 影取町88 少し行くと藤沢バイパスの分岐に向け車線は分岐するが歩行者は左へ進みゆるやかな坂を上っていく。途中に諏訪神社がある。祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)。境内左に名木古木指定のクスノキがある。根元でつながっている2本の木で大きい方は直径1.5m、小さい方は80cmくらいである。境内右の手水鉢には諏訪神社の紋「梶の葉」が刻まれている。 |
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{左}羽太(はぶと)家 すぐに旧家の立派なかやぶき屋根の門がある。かつての影取村の名主だった羽太家でこの家の裏あたりには窪地が広がり畑や林が続いている。戦前まではこのあたりに池があったとされ影取池と呼ばれていた。大蛇が棲み旅人の影を呑んで生きていたという伝説もありこれが影取町の名の由来にもなっている。昔は羽太家に慶安3年(1650)に記された影取池に関する文書が残されていた。元文5年(1740)年の東海道駅路図にも「蛇の池、影取池」と記されている。 |
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{左}双体道祖神 藤沢バイパス出口交差点で国道1号から左へ分岐して県道30号線が旧東海道となる。歩行者は左側を歩いていれば自然に分岐する。しばらくすると左側の歩道は車道より1mほど高くなり車道との間には樹木が植えられた道になる。左側の高い歩道は杉山産業科学研究所の前から始まりそこに祠に安置された宝暦9年(1759)の双体道祖神がある。 |
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鉄砲宿 車道との間に並木が続く道を進むとすぐに鉄砲宿と呼ばれる場所を通る。影取池の大蛇を鉄砲で撃ちとった猟師が住んだ小屋があった所でバス停や信号名にその名が残っている。大蛇はもともと感応院近くにあった森家に飼われていたもので滝川を遡って池に住みついた。森家は小田原北条氏直属の職人衆で材木から板をつくる大鋸引(おがびき)の棟梁を務める藤沢の名家で江戸時代になってからは藤沢宿の問屋役・伝馬役も務めている。森家があったあたりがこの先の藤沢市大鋸(だいぎり)の地名の由来になっている。 |
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{右}旧東海道松並木跡碑 鉄砲宿を過ぎると藤沢市に入り今度は右側の歩道も車道より高くなり間に樹木が立ち並ぶ。緑ヶ丘と呼ばれるあたりで以前は松並木が茂っていたが1960年頃から松喰虫の被害で大半が枯れてしまって今は松は数本で他のいろいろな木や花が植えられている。並木が終わるあたりの緑ヶ丘バス停前に旧東海道松並木跡碑と昔の松並木のイラスト入りの案内板がある。平成4年に歩道の整備の記念として設置された。 |
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{右}遊行寺坂一里塚(12) 松並木跡碑を過ぎるとやがて遊行寺坂の下り坂になる。途中一里塚の標柱がある。当時は両側の塚とも榎が植えられていた。遊行寺坂は昔は急坂であったが2度掘り下げて緩やかになった。道場坂とも呼ばれ遊行寺が藤沢道場とも呼ばれていることに起因している。 |
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{右・寄}長生院(ちょうしょういん)(小栗堂) 一里塚の先メモリアルガーデン藤沢の向かいの脇道を登って行くとある。遊行寺の塔頭で本尊は平安時代後期作の高さ52.5cmの木造阿弥陀如来坐像。本堂内左には小野篁作の閻魔像もある。本堂裏に小栗満重と十勇士、照手姫の墓、その間に愛馬鬼鹿毛の墓(馬頭観音)がある。常陸国小栗城主満重、助重父子と十勇士(家臣)は応永30年(1423)幕府の足利持氏に敗れ三河に落ちのびる途中泊まった藤沢の横山大膳の館で毒殺されかけ家臣は殺されるが父子は下働き照手姫に助けられ数年後国元に戻り大膳に復讐する。満重の死後、助重は父と十勇家臣の墓をこの地に建て照手は長生尼となりここで余生を過ごした。複数の案内板が境内にあり小栗判官が満重か助重か一致していない。 |
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{左・寄}諏訪神社 大鋸3-7-2 街道左手に諏訪神社の石段がある。その昔時宗の宗祖一遍上人が信州でお札配り中に現れたという諏訪明神を遊行寺を創建した時宗四代目の呑海(どんかい)が建武2年(1335)に勧請したもの。元旦には遊行上人が神社に参拝し参詣者にお札を配り8月の例大祭では神輿の宮入は遊行寺で行われる。社殿の左には四神剣展示館、右には太子堂、道祖神、祖霊神や藤沢七福神の大黒天を祀る大黒天社がある。藤沢七福神は他に感応院(寿老人)常光寺(福禄寿)白旗神社(毘沙門天)養命寺(布袋尊)皇大神宮(恵比寿・鵠沼神明2-11-5)龍口寺(毘沙門天・片瀬3-13-37)江島神社(弁財天・江の島2-3-8)で毘沙門天が2つある八福神で構成されている。 |
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{右}藤沢宿 江戸口見附跡 少し坂を下ると歩道に標柱がある。ここから12丁17間(1339m)が藤沢宿の宿内となる。 |
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藤沢宿 本陣1脇本陣1旅籠45家数919人口4089[天保14年(1843)] 遊行寺の門前町と江ノ島弁財天参拝の足場として発展した。藤沢の地名は「淵や沢が多く淵沢(ふちさわ)から」「三島明神を守っていた頼朝の家臣・藤沢次郎清親の名から」「藤がたくさんあった」など諸説がある。 |
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{右}遊行寺 敵御方(てきみかた)供養塔 坂の途中に遊行寺東門がある。遊行寺は正式には「藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)と言い呑海が正中2年(1325)に遊行(全国行脚の布教)した引退後の住まいとして開山。開基は俣野五郎景久。東門を入って左側に柵で囲まれた国指定史跡の供養塔がある。大きく「南無阿弥陀仏」と彫られている。応永23年(1416)上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対し反乱した時に15代尊恵(そんね)上人が敵味方の区別なく負傷者を収容して治療し戦死者を平等に弔い応永25年供養塔を建てた。両軍の死者を一箇所に弔った日本で最古のもの。 |
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{右}遊行寺 本堂 西富1-8-1 遊行寺は永正10年(1513)に戦火で全焼。その後はは再建されることなく慶長6年(1601)に藤沢宿が定められた後の慶長12年(1607)94年ぶりに再建され時宗の総本山として発展した。本尊は高さ184cmの阿弥陀如来座像で慈覚大師の作。本堂は木造としては東海道随一で昭和12年(1937)建造。前の広場には大イチョウがあり雄株で高さ16m幅6.83m樹齢300〜700年で天然記念物に指定されている。かつては高さ31mもあったが昭和57年の台風で上部が折損した。本堂左前には延文元年(1356)鋳造の高さ167cm口径92cmの梵鐘がある。永正10年(1513)小田原北条氏に陣鐘とし摂取されその後は足柄の寿昌寺にあったが寛永3年(1626)返還された。 |
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{右}遊行寺 中雀門 境内の左側の社務所入口の右にある。安政5年(1859)建立で境内の建物の中では最古の建築物。明治13年(1880)の大火でも残り関東大震災では倒壊したが焼失は免れそのまま建て直した。向唐門づくりで高さ6m幅3.7mで正面に菊の御紋が刻まれている。社務所の庭には元禄期の幕府の記録にもある放生池があり生類憐れみの令により江戸の金魚や鯉が集められたとされ現在は絶滅危惧の藤沢メダカが放生されている。境内左側手前にある宝物館には重要文化財の「紙本着色後醍醐天皇御像」「紙本着色一向上人像」などの寺宝を収蔵。日曜祝日と行事日の10時〜16時に開館。大人400円子供200円。 |
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{左・寄}感応院(三島山瑞光寺)[高野山真言宗]大鋸2-6-8 東海道に戻り遊行寺信号の次の路地を左折すると正面にある。創建は遊行寺より古い建保6年(1218)で開基は鎌倉幕府三代将軍源実朝で開山は道教。本尊は智証大師作の不動明王立像で実朝の寄進。本堂内には藤沢七福神の寿老人や木造弘法大師像もある。嘉貞2年(1235)北条の乱で焼け退廃したが応永5年(1398)阿闍梨幸海を中興開山とし再建、慶長14年(1609)には幕府から檀林所に指定された。門を入って右の梵鐘は享保18年(1733)鋳造。境内中央に大きな弘法大師立像がある。右奥の三島大明神はさらに古い建久4年(1193)源頼朝が狩の厄除けに勧請した境内社で社殿の土台は回転が可能。左奥にも境内社、秋葉神社がある。相模国準四国八十八箇所の第1番札所。 |
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藤沢広小路 藤沢橋の手前イイジマ薬局を右に折れるのが東海道。右折していくとT字路に突き当たり右の空地に古地図付の「日本三大広小路」の案内板があり上野広小路、名古屋広小路とともに藤沢広小路が紹介されている。イイジマ薬局を右折、50mほどでT字路を左折、また50mほどで遊行寺橋を渡って右折するカギ型の路地で藤沢宿の3曲がりとして有名だった。広小路は火除地を意味し火災から人家を守り被災者の避難場所として利用されるべく吉宗の時代から主要社寺などの門前に整備された。別名大鋸広小路とも呼ばれた。 |
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{右・寄}遊行寺総門 板割浅太郎の墓 広小路の案内板のあるT字路を右折すると正面にある。総門とは禅寺の表門のこと。日本三大黒門の一つに数えられる冠木門(かぶきもん)で冠木とは柱の頂上より少し下に横木がある門をいう。門をくぐってすぐ左手の墓地の突当りに「貞松院住職列成和尚」の墓があり横に「板割浅太郎の墓」の案内板がある。浅太郎は国定忠治の子分で後に僧となって遊行寺の塔頭の貞松院住職となり明治13年(1880)遊行寺火災後の再建に奔走した。門の先は「いろは坂」と呼ばれる四十八段のゆるやかな石段が本堂前の広場まで続き途中には塔頭の真浄院、真徳寺がある。 |
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遊行寺橋 広小路の案内板のあるT字路を左折していくと境川に出て赤い欄干と擬宝珠の遊行寺橋を渡る。江戸時代は大鋸橋(おおぎりばし)喜久奈橋 (きくなばし)と呼び天保年間の記録で長さ12間半(22.7m)の板橋だった。境川もこの頃は音なし川と呼んでいた。橋を渡った右手には高札場が左手には江ノ島弁財天の一番目の大鳥居と江の島道道標があり江の島道の起点となっていた。広重の藤沢宿の絵に描かれている場所で橋を渡って遊行寺側に向かって描いている。 |
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{左}藤沢橋自動車排出ガス測定局 遊行寺橋を渡った交差点の左にある。旧東海道に面しているため景観を考慮して作られた江戸時代風の建物。交通の要所として自動車の排出ガスの主成分窒素酸化物や浮遊粒子状物質などの測定を行っている。建物の前にある立看板には「東海道藤沢宿昔話のある町 仲久保町、藤籠町」とある。下流すぐに架かっている藤沢橋は関東大震災以降になって初めて架けられたもの。東海道はこの交差点を右折し国道467号に合流する。 |
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{右}桔梗屋(現:桔梗屋洋紙株式会社 藤沢支店) 藤沢1-1-9 国道467号沿いにある江戸時代から続く洋紙問屋。文久2年(1862)建築の商品蔵や明治43年建築の店蔵が残る。店蔵とは道に面して店舗を兼ねた蔵。遊行寺から白旗神社にかけての一帯は旅籠が多かったが明治に入り商家が多くなり蔵が建てられた。近くに他にも明治元年から肥料商を営む関次商店(本町4-5-20)や明治天皇行在所にもなった昔の呉服商稲元屋(寺田家)の土蔵など現在でも約40の蔵が点在している。 |
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{右}蒔田本陣跡 藤沢1-3-4 「ラーメンすゞノや」前に標柱がある。当主は代々蒔田源右衛門を名乗り延亨2年(1745)から明治3年(1870)まで本陣を務めた。蒔田家の墓所は妙善寺にある。また標柱はないが向かいには和田七郎右衛門の脇本陣があって嘉永4年(1851)の火災で消失した後は再建されなかった。もう一つ脇本陣は手前の近藤眼科(本町1-3-36)付近にあり柏谷半右衛門が当主を務めていた。 |
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{右}坂戸町問屋場跡 藤沢市南消防署本町出張所の前に標柱がある。藤沢宿にはもう一つ脇本陣柏谷半右衛門家の手前に大久保町問屋場があった。 |
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{左・寄}八王山摂取院 常光寺[浄土宗] 本町4-5-21 坂戸町問屋場跡の先を左折すると正面にある。元亀3年(1572)光誉上人が鎌倉扇ヶ谷阿弥陀堂にあった阿弥陀如来立像(99cm)を本尊として移し開山。門前左には藤沢警察署発祥の地碑がある。明治5年(1872)羅卒屯所が敷地内に置かれたのが起こりでのちに警察署となり昭和39年に本鵠沼4-1の現在地に移転した。本堂左に市指定文化財の万治2年(1659)寛文9年(1669)の大きな笠塔婆型の庚申塔2基がある。境内左の墓地奥に浮世絵などの日本文化を欧米に紹介した詩人であり英文学者の野口米次郎の墓があり墓碑は息子で彫刻家のイサム・ノグチの作。藤沢七福神の福禄寿で普段は本堂右の寺務所に祀られ正月のみ公開される。 |
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{左・寄}常光寺 カヤの木 常光寺の境内や裏山の一帯2400坪(7900平方m)は大木が茂り市指定天然記念物となっており左の墓地内にかながわ名木100選の高さ25m幹周5.3m樹齢300年のカヤの木がある。他にも本堂前の参道両脇のクスノキ(高さ20m幹周3m樹齢100年)をはじめタブノキ、イチョウ、エノキ、ムクノキ、ケヤキ、クロマツ、シラカシなど多数の樹木がある。裏山の旧八王子権現社跡地の一角の庚申塔群の中には弁慶を供養したといわれる弁慶塚がある。白旗神社の義経と併せて八王子権現社に祀られていたとされる。 |
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{右・寄}長藤山 妙善寺[日蓮宗]藤沢1-5-3 市民病院入口交差点の一つ手前の石柱がある路地を入り正面に山門がある。創建時期不明の愛染堂真蔵院[真言宗]が前身。文永8年(1271)佐渡に流される途中立ち寄った日蓮に住職長藤法印(比丘)が帰依し日聞の名を与えられ日蓮宗の寺として開山した鎌倉比企ヶ谷妙本寺の末寺。境内左にある正宗稲荷大明神は刀鍛治の正宗の由縁のある神社で延暦21年(802)伝教大師の自作と伝わる木像がある。寺の北東隣から藤沢公民館のあたりまでは寛永11年(1634)家光上洛の宿所として86間(156m)×39間(71m)の御殿が建てられた場所で一度使用しただけで天和3年(1683)に廃止、解体された。
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{左}白王山般若院 荘厳寺 (しょうげんじ)[高野山真言宗]本町4-6-12 市民病院入口交差点の1つ先の路地に案内表示があり左折して正面。元暦元年(1184)覚憲による開基で藤沢宿では最古だが後に荒廃し嘉禎元年(1235)応量坊覚盛が感応院の末寺として中興した。元文元年(1736)火災で焼失、延享4年(1747)白旗神社の別当寺として神社内に場所を移して再建され源義経の位牌が安置された。現存する位牌は天保3年(1832)に宥全上人が作ったもの。明治8年(1875)元々あった場所(現地)に戻された。本尊は不動明王。境内左に文政2年(1819)の木食観正碑がある。 |
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{左・寄}法谷山祥瑞院 永勝寺 [浄土真宗本願寺派]本町4-4-15 JA手前の小道を左折して道なりに歩いていくと左側にある。親鸞上人が一時逗留していたという由緒ある鎌倉の一向堂が享禄年間(1528-32)の戦乱で焼けてしまい後に真海がこの地で再興したのが起こり。本尊阿弥陀如来座像。境内すぐ左に飯盛女の39基の墓がコの字形に取り巻いており多くの墓石は宝暦11年から享和元年まで(1761-1801)のもので飯盛女の戒名と「施主小松屋源蔵」の文字が刻まれている。小松屋は本町郵便局の隣「らーめん湘や(本町1-4-25)」にあり他にも藤沢宿では49軒の旅籠のうち27軒で飯盛女を2名づつ雇っていた。本堂左には太子堂があり聖徳太子像は親鸞上人の作と伝わる。 |
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{右・寄}伝源義経首洗井戸 マンション「藤沢本町パーク・ホームズ」前に案内柱があり脇の細い道を入っていくと小さな児童公園の一角に井戸と首塚の碑、説明板がある。文冶5年(1189)源義経の首を洗ったとされる井戸。首実検ののち片瀬の海岸に捨てられたが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着し里人がすくい上げ井戸で清めた。金色の亀に背負われて来たという伝承もある。首塚の碑は大正時代の建立で弁慶と4人の家来(亀井六郎重清、伊勢三郎義盛、片岡八郎弘経、駿河次郎清重)の名字も刻まれている。 |
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{右・寄}白旗神社 藤沢2-4-7 藤沢宿の中心だった白旗交差点を右折していくとある。建久9年(1198)相模国一の宮である寒川神社の分霊を勧請したのが起こり。文治5年(1189)奥州で敗死した義経の首がこの地に葬られたことから宝治3年(1249)より義経も祀るようになった。白旗は源氏の旗印を指す。本殿に向かう石段の途中左側に源義経公鎮霊碑、本殿右側には弁慶の力石がある。石段下右の駐車場、社務所そばには藤沢七福神の毘沙門天を祀る毘沙門堂、沸騰したお湯に笹の葉を浸し参詣者の頭上に散らしかけると無病息災で過ごせるという神事芸能・湯立神楽の説明板がある。社務所前に義経藤と名付けられた藤棚があり奥には弁慶藤もある。弁慶藤の前には文化2年(1805)建立の芭蕉の句碑「草臥て宿かる比や藤の花」。 |
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{右・寄}白旗神社 石塔群 白旗神社の本殿に向かう石段下左にある。寛文5年(1665)を中心とした庚申塔は他にも享保、文政、天保(1830-1844)まで幅広い年代のものが見られる。一番奥には馬頭観音がある。手前には江の島道標もある。江ノ島弁財天を信仰していた杉山検校(1610-1694)が元禄2年(1689)頃に建てたとされる48基の道標の一つで「一切衆生」「二世安楽」「ゑのしま道」と刻まれている。48基のうち10基が現存しており他に藤沢橋から藤沢駅に向かって100mほど行ったY字路や藤沢市役所、江ノ島弁財天社殿前などにも置かれている。杉山検校は本名杉山和一と言い鍼医で綱吉の侍医でもあった。 |
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伊勢山橋 白旗交差点で国道467号は右折してしまうので直進する県道43号線に入り進む。やがて小田急江ノ島線を越える架橋(伊勢山橋)を渡る。手前の路地を右に入ると昭和4年(1929)開業の藤沢本町駅がある。 |
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{左}風早山高松院 真源寺 [浄土宗]本町3-17-19 17世紀中に願誉秀故上人が開山した常光寺の末寺。本尊は阿弥陀如来立像。文政3年(1820)にこの寺から出火した火災は南風により白旗神社や荘厳寺までの一帯も類焼した。境内左に寛政9年(1797)遊行寺の諦如上人の書による無縁塔、文久3年(1863)の二十三夜塔がある。現在の本堂、社務所は平成17年に再築。 |
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{右}京側見附跡 しばらく進むと中華料理店「玉佳」の前に標柱がある。 |
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