東海道ルートガイド
逢坂峠

{右}関蝉丸神社(下社) 逢坂1-15-6
少し先。参道途中で京阪電鉄京津線の線路を蝉丸神社踏切で渡る。弘仁13年(822)小野岑守が逢坂の関の鎮守として上社とともに創建した関明神が起こり。祭神は豊玉姫命。後に蝉丸を合祀して関清水大名神蝉丸宮と呼ばれた。蝉丸は醍醐天皇の第4皇子と伝わり盲目のため宮中から退き逢坂山に庵を構え琵琶に没頭し名手となり音曲芸能の神として信仰されている。入口に大正2年(1913)「音曲藝道祖神」石柱、大正12年神社名石柱、イチョウなど。鳥居をくぐってすぐ右に昭和61年蝉丸の歌碑。右奥に文政13年(1830)手水石と井戸跡。その先右に紀貫之の歌碑と柵で仕切られた「関の清水」があるが水は涸れている。舞殿の陶製彩色狛犬は文政6年と文政元年神輿庫裏には延命地蔵尊の祠がある。
{右}関蝉丸神社 時雨燈籠
本殿左にある。横に平成3年説明立札。角の摩滅した六角燈籠(高さ2.57m)で最上部の宝珠と請花は後補だが鎌倉時代のものとされ昭和37年(1962)国重要文化財。六角形の基礎部分は単弁の蓮華座で竿の中ほどには蓮華と朱紋帯、簡素な六角形火袋には火口一箇所と小さな丸窓があり同型の灯籠は「蝉丸型」と呼ばれる。左には小祠があり左奥に平成6年建立の高浜虚子の孫・星野椿の句碑、右奥に平成7年建立の正岡子規の句碑もある。境内右の山道を少し登ると左に平成10年句碑、その先左に小野小町の歌碑があり小町塚と呼ばれる。近くには小野小町が晩年に住んだ庵があったとされる。他に神社境内には境内社として貴船神社、中臣稲荷神社、大神宮神社、関清水神社、天満宮がある。
{左}旧東海道線の跨道橋の遺構・京津線上関寺駅跡
少し先で京阪電鉄京津線の線路を上関寺国道踏切で渡る。踏切左に明治初期敷設のレンガ積の跨道橋遺構がある。旧:逢坂山ずい道を出た旧東海道線はここで東海道を跨ぎ現在の国道1号とほぼ同じルートで馬場停車場(現:JR膳所駅)に通じていた。踏切左右には大正元年(1912)京津線開業とともに設置され昭和46年に廃駅となった上関寺駅があった。渡る手前右が京都方面行きホーム跡、渡った左から国道下にかけてが浜大津行きホーム跡。旧東海道と旧東海道線が交差していたため京津線の交差工事が長引き開業時には敷設が間に合わず京都側からは手前の上関寺仮乗降場で降りて徒歩で100mほど歩いて上関寺駅から再び乗車して札の辻方面へ向かうという暫定利用が半年ほど続いていた。
{右}逢坂山 安養寺 [浄土真宗本願寺派] 逢坂1-18-11
踏切渡り少し先。貞観4年(862)智証大師が創建し天台宗で園城寺の山内別院だった。元亀2年(1571)焼失後に再建し明治5年(1872)改宗。所蔵する木造阿弥陀如来座像は行基作とされ明治38年(1905)国重要文化財。石段を数段登った山門前右に平成2年「逢坂」説明石柱、「蓮如上人舊跡」石柱、寺の説明立札がある。蓮如が彫ったという座像や蓮如の身代わりになったと言う「無礙光如来」名号石を所蔵。境内右の観音堂には立聞観音(高さ60cm)が安置され近くにあった蝉丸の庵に琵琶を立ち聞きしに行っていたと伝わる。観音像の脇の「立聞安養寺」扁額は伊達政宗の揮毫。堂左に石仏。山門入った左に池もある。他に境内には灯籠。大津33観音霊場第25番。ここから先は山間の国道となっていく。
{右}旧:逢坂山ずい道東口
少し先右の大谷加圧ポンプ場の先に「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」標柱があり道なりに奥に進むとトンネルがある。2つあるうち左側は明治11年(1878)着工し2年後に完成。全長664.8mでイギリス人の指導を受け初めて日本人の手により設計建設された。入口上に三条実美揮毫の「楽成頼功」銘板がある。昭和35年指定鉄道記念物。平成20年指定近代化産業遺産。右側(上り線)は復線化のため明治31年に増設された。大正10年(1921)現在の逢坂山トンネルを通る線路に変更され廃線となり現在の京阪電鉄大谷駅のすぐ北付近にあった西口は昭和38年開通の名神高速道路の建設時に埋立てられた。東口付近の内部は現在京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所になっている。
{左}徳照山 念佛寺(念仏寺) [浄土宗] 逢坂1-19-24
すぐ先の逢坂一丁目交差点で左後方から国道1号が合流しここから国道1号(国道161号と共通区間)となる。この先は歩道が左側しかなく左には京阪電鉄京津線が沿う。交差点で左歩道に渡りすぐ先の念仏寺踏切で線路を渡ると石段があり登ると山門、境内がある。石段上左に延宝5年(1677)銘がある石柱。山門入ると民家のような本堂、庫裏がある。大津33観音霊場第26番。
{右}関蝉丸神社(上社) 
先を進んでいくと名神高速道路の高架をくぐり少し先。神社前に手押し式信号があり横断できる。山の斜面にあり道路に面して天明8年(1788)灯籠、昭和12年(1937)神社名石柱、石段がある。弘仁13年(822)小野岑守が逢坂の関の鎮守として下社とともに創建した関明神が起こり。祭神は猿田彦命。下社と同じく蝉丸を合祀しており関大名神蝉丸宮と呼ばれた。東海道名所図会や伊勢参宮名所図会には山頂近くまで石段が続く上社が描かれている。石段途中の赤鳥居は平成16年に台風15号で折れた。その先に昭和8年(1933)狛犬。さらに石段を登ると拝殿、左に神輿庫、拝殿右奥に嘉永4年(1851)手水石。さらに登ると昭和2年などの灯籠4基、さらに数段登ると本殿。本殿前に嘉永4年灯籠がある。
{右}逢坂山弘法大師堂
登り坂を少し行くとある。入口右に看板と昭和2年(1927)「弘法大師御舊蹟」石柱。堂前に寛政6年(1794)、昭和9年と灯籠がある。堂左には不動明王や石仏2体が安置された小堂。その左には大正12年(1923)「南無大師遍照金剛」石碑などの石碑石塔群。境内左に灯籠、井戸跡、石仏10の祠もある。向かいは京阪電鉄京津線が右にカーブし国道の下に潜る。少し先の石垣下に竿に「逢坂常夜燈」と刻まれた寛政6年建立の常夜燈があり土台を囲っている部分は江戸時代の東海道の敷石である車石が使われている。
{左}イラストタイル
少し先で左に逢坂山水車谷不動尊道が分岐すると国道は右カーブしていく。さらに行くと左の石垣の所々に付近の名物に因んだイラストタイル(正方形プレート)が埋め込まれている。まず米俵を積んだ車を引く牛が街道を行く姿が描かれた「車石」イラストと説明プレート、次に大津絵の「藤娘」、さらに先で東海自然歩道の逢坂山歩道橋をくぐると蝉丸の歌「これやこの ゆくも帰るも別れては 知るもしらぬも 逢坂の関」が入った関を通る旅人のイラストがある。道路脇が石垣になっているのは峠道が掘り下げられたからで、幕末時の工事では最も深いところで6mも掘下げられたと言われ、昭和7年(1932)の国道改修工事の際にも4mほど掘下げられ道幅も2倍の11mに拡張された。
{右}「逢坂山関址」碑
蝉丸イラストタイルのすぐ先の信号で横断歩道を渡った向かい。昭和7年(1932)自然石の石碑と竿に「逢坂常夜燈」と刻まれた寛政6年(1794)常夜燈がある。逢坂は義母である神功皇后に反乱した忍熊皇子を追った皇后配下・武内宿禰が皇子に出逢い敗った坂が由来と伝わる。奈良時代以前に小関越え間道を通っていた古東海道が平安時代に逢坂峠を通るようになると逢坂山は京都と近江を結ぶ交通の要衝となり弘仁元年(810)関寺(現:長安寺)付近に関が置かれた。平安京を守る施設として非常時には固関使が警固のため派遣されたと言い平安中期以降は美濃の不破、伊勢の鈴鹿と並ぶ3関の1つとされた。手前には大正11年(1922)貴田市兵衛翁碑がある。大谷町で林業などで地域振興に尽くした。
{右}逢坂の関記念公園
碑のすぐ先。平安時代の関所をイメージした木製門柱や柵に囲まれた休憩施設。大津市が検問所跡地(約500平方m)に約3400万円かけて整備し平成21年完成。「逢坂の関」説明板、石ベンチ、逢坂常夜燈の複製、車石、毛槍を模した街灯がある。トイレ建物の壁には周辺案内地図や車石、大津算盤、大津針、大津絵などが紹介された説明板がある。出口右には百人一首で逢坂の関が詠まれた和歌3首(清少納言三条右大臣蝉丸)の歌碑(自然石)が並ぶ。公園前の歩道には大津絵「鬼の念仏」、長安寺石造大宝塔、牛車をデザインしたタイルもある。東海道は公園に沿って国道1号から右に分岐し下りとなる。すぐ先左では潜っていた京阪電鉄京津線が地上に出てくる。その横には石仏小祠もある。
{左}かねよ 大谷町23-15
少し先。明治5年(1872)創業の鰻料理店で道路左が本館(料亭)で右がレストラン。「うなぎ日本一」看板は詩人・野口雨情が箸紙に「うなぎ料理は逢坂山にひびくかねよが日本一」と書き残したことによる。駐車スペース後ろに広重の大津宿の絵、「鬼の念仏 又平小屋」説明立札がある。立札背後の建物が荒木村重の子で異端の絵師と言われた岩佐又兵衛(通称:吃の又平)の居宅跡。立札右の建物の間からは100年以上前の信楽焼の鬼の念仏像が見える。800坪(2645平方m)の庭には百人一首の三条右大臣に詠まれた実葛がある。他に逢坂の関閂石、荷車が乗った車石東海道道標「右 大津」もある。鰻丼にだし巻き卵が乗った錦糸丼(1,730円)が有名。11時-20時、本店木休、レストラン火休。
{右}蝉丸神社 大谷町23-11
少し先にある。3つめの蝉丸神社で今度は分社。天慶9年(946)蝉丸を祭神として創建され蝉丸明神祠と呼ばれた。万治3年(1660)現社殿建立時に関蝉丸神社上社下社の祭神である猿田彦命と豊玉姫命も勧請し合祀した。入口には蝉丸の歌「これやこの ゆくもかへるもわかれては 志るもしらぬも あふさか乃せき」が刻まれた昭和58年神社由緒碑、昭和15年(1940)神社社名石柱、イチョウの大木、日清戦争の戦没者碑。石段下に元文4年(1739)灯籠と昭和10年狛犬。急な石段を登ると正面に神輿庫、右折すると社殿。本殿前灯籠は嘉永3年(1850)。本殿手前右に車石。本殿右に境内社の皇大神宮社(伊勢天照光大神宮)があり明治12年(1879)の鉄道工事の際に移されてきたもの。
{右}車石復元公園
神社入口右に2mほど車石が敷き詰められており平成7年説明板がある。文化2年(1805)大津八丁(札の辻)から三条大橋までの約3里(12km)の東海道に花崗岩に溝を刻んだ切石が敷き詰められた。物資輸送用の牛馬車の通行を楽にするためで石に刻んだ溝がレールの役目を果たした。車輪の幅が統一されていたため京都の心学者・脇坂義堂が発案し近江商人・中井源左衛門が1万両を出資した。江戸時代は街道での牛馬車使用は禁じられていたが琵琶湖の水運と京都を結ぶこの区間は米などの物資輸送量が増大したため江戸後期には使用が認められ安永8年(1778)には牛車の通行が年間15894輌もあった。車道と人道は分かれており京に向って右側が車道で午前午後で一方通行を分けていた。
{左}「元祖走井餅本家」石柱 大谷町23-6
少し先左の民家前に「左 伏見奈良街道」「右 京三條みち」道標があり隣の民家前に昭和32年(1957)石柱がある。明和元年(1764)井口市郎右衛門正勝が走井茶屋で売り始めたという走井餅は付近の茶屋に広がり東海道名物となった。走井の名水と近江の米でつきあげた餅で細長い形は水しぶきの一滴一滴を表している。平安時代の刀鍛冶・宗近が走井の水で鍛えた名刀を象ったともされこの餅を食べれば道中剣難を免れるとも言われて賑わった。明治になり街道の通行が減ると茶屋は姿を消し井口本家の餅屋も昭和初期に廃業した。現在は走り井餅本家(横木1-3-3)、大津風月堂(平津1-2-11)、子孫である走井餅老舗(京都府八幡市八幡高坊19)など複数の店が製造し販売している。
{左}京阪京津線大谷駅 大谷町23-5
すぐ先左にある京阪電鉄京津線の駅。大正元年(1912)古川町(現:京都市営地下鉄東西線東山駅)〜札ノ辻を結ぶ京津電気軌道の駅として開業した。明治12年(1879)東海道本線の京都〜大谷間開通時より大正10年までは大谷停留所が付近にあったため乗換駅としても利用された。路線が急勾配しているためホーム全体も傾斜しておりベンチの脚も長さが左右異なる。駅前には昭和57年建立「大谷町」茶色標柱、向かいの角には「逢坂山関址碑」説明付き付近案内地図。駅を過ぎしばらく行くと線路横の民家に突き当たり東海道が分断する。手前の歩道橋か大谷下手踏切で線路を渡り国道1号を少し進むと東海道の続きとなる。国道右側に歩道はなく線路が沿い少し先からその右に名神高速道路も平行する。
{左}「大津算盤の始祖・片岡庄兵衛」説明柱 大谷町27-11
しばらく行くと民家前に平成15年建立の説明石柱がある。庄兵衛は慶長17年(1612)長崎奉行・長谷川左兵衛藤広に付いて長崎に行った際に明国人から算盤を入手し持ち帰って改良しながら製造を始め少し先の一里塚付近(旧:今一里町)で店を構えたと言う。後に小島庄兵衛、木屋安兵衛、昆布屋定治郎らも製造を始め付近には大津算盤の店が多く並んだ。大津算盤は軸が細く釘も鋲も接着剤も使わずに丈夫に組上げているのが特徴。算盤店は全て明治期に途絶え片岡家も明治20年代に廃業、この地には昭和初期まで子孫が住んでいた。小島家に残る製作道具や宝永2年(1705)美濃屋理兵衛作の現存算盤は昭和54年市指定文化財。石柱の前には車石4つが固められ後ろには荷車の車輪もある。
{左}瑞米山 月心寺 [臨済宗系単立] 大谷町27-9
1軒置いた隣にある。江戸時代は走井餅を売る走井茶屋があった場所で大正3年(1914)頃に日本画家・橋本関雪が別邸とし没後の昭和21年(1946)に関雪を開基、村上独潭を開山1世とし寺となった。本尊は童形聖徳太子像。2世・村瀬明道尼が作るごま豆腐を始めとする精進料理でも有名でNHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」で野際陽子演じる桜井泉恵尼のモデルとなった。寺の敷地内には室町時代の絵師・相阿弥の作と伝わる池泉回遊式庭園、走井から掘り出された薬師如来が奉られた薬師堂、運慶作と伝わる百歳の小野小町像を安置する小町百歳堂がある。小町百歳堂後ろに芭蕉句碑、他に庭園には高浜虚子句碑伊藤柏翠句碑、十三重石塔、樹齢600年の紅葉、十文字に溝のある車石もある。
{左}走井の名水
月心寺の前庭にある。「月心寺」軒行燈がある街道沿いの木戸を入ったすぐ右。説明立札もある。「走井」は湧き水で勢いよくあふれて走ると言う意味。古くから有名で日本武尊の異母弟である成務天皇が西暦84年に誕生した際には産湯に用いられた水とも伝わる。枕草子第168段には「走り井は、逢坂なるがおかしきなり。」と記され他にも藤原清輔「走井の かけひの水の すずしさに越えもやられず 逢坂の関」など多くの詩歌にも詠まれた。広重の大津宿の絵にも描かれている。前庭には自由に入れるが奥の境内拝観は事前連絡が必要。寺の外周の石垣は膳所城から移築したと伝わる。少し先の街道から塀中には「明治天皇駐蹕之處」石柱が見える。明治元年(1868)9月20日、明治2年3月7日に訪れた。
{左}一里丁・大谷町道標
少し進み小さな川を渡るとある。年不明で自然石(高さ1.15m)に「右 一里丁」「左 大谷町」と並んで刻まれている。この付近には大谷(走井)一里塚があったが標示などはない。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左に塚はなく右塚に榎が2本あったと記録されている。天保14年(1843)東海道宿村大概帳には大津宿から京までに一里塚は御陵村の1箇所とあり大谷一里塚はないものとなっている。地名はこの辺りは江戸時代は大津百町の今一里町と元(本)一里町であり明治7年(1874)から昭和26年(1951)までは一里町と言った。向かい付近の京阪電鉄京津線の信号に「一里町」標識がある。すぐ先左の石段上には月心寺の別門がある。先をしばらく進むと国道1号と京津線は右カーブし名神高速道路を潜る。
{右・寄}光明山 摂取院(攝取院) [浄土宗系単立] 追分町10-1
潜って少し先左の大津警察署藤尾交番(追分町1-30)前で東海道は国道から左に分岐し滋賀県道・京都府道共通の35号線に入るが交番前の歩道橋で国道を渡り追分踏切で線路を渡ると右に石段がある。石段下に昔から湧き水があり斜面には不動明王石像がある。天正2年(1574)道春が創建。山門前右に「不許入酒肉山門」石柱があり側面に寺名が刻まれている。山門入って右に追分道標2代目があり2つに折れたものが修復されている。他に水子地蔵、48石仏群、石仏の小祠3などもある。
{右}長松山 佛立寺(仏立寺) [本門佛立宗] 追分町1-9
県府道35号線に入ると少し先左に小さな大日如来堂があり少し先。安政5年(1857)日扇(長松清風)が開いた本門佛立講(現:本門佛立宗)に翌年入信した酒造家・小野山勘兵衛が文久2年(1862)に親戚の米問屋・御牧卯兵衛が提供した茶畑に法華堂を建て道場としたのが起こりで明治12年(1879)佛立寺となった。勘兵衛は胃に難病を抱えていたが日扇により快気したため入信したとされ道場は本門佛立講の最初の道場、勘兵衛は初代講元となった。本堂左前の慶応2年(1866)大灯籠は日扇がデザインしたとされる。本堂左に平成4年日扇銅像、佛立会館。本堂は昭和2年(1927)築で平成13年屋根改修し旧鬼瓦が本堂右前にある。他に境内には大正2年(1913)日扇聖人碑、今大路御旧邸、題目石柱など
{右}髭茶屋追分(伏見道追分)
少し先で左側だけ京都市山科区八軒屋敷町、髭茶屋屋敷町となる。道は上りとなり右は崖となり視界が開ける。上りが終わり少し先に2叉路があり中央に石柱2基と「京都→」「←宇治」標識などがある。左に進む県府道35号は伏見や宇治へ向かう伏見道で大坂道、京街道、奈良街道とも呼ばれ伏見、淀、枚方、守口の4宿を通って大阪京橋へ続く東海道五十七次への道でもある。 石柱の1つ(高さ144cm)は正面「みきハ京みち」左面「ひだりハふしミみち」右面「柳緑花紅」とあり昭和29年(1954)に複製された3代目。初代は安土城考古博物館野外展示され2代目は摂取院にある。もう1つの小さい石柱は正面に「蓮如上人」側面に「是より十町」とあり明和3年(1766)建立。江戸時代ここには高札場もあった。
{右}「追分町」説明標柱
追分から先は緩やかな下り坂となり再び両側とも大津市に戻る。少し進むと追分町自治会館前に昭和57年建立の茶色の標柱がある。東海道と伏見道の分岐点であったこの付近から逢坂の関にかけては江戸時代には土産物を売る商店、茶店、人家が並び賑わっていた。「走井餅」「大津算盤」「大津絵」「大津針」などが名産品で隷書版東海道の大津で広重は大津絵を売る店を描いている。他に追分から牛尾山にかけて棲息するコガネムシ「ミドリセンチコガネ」も特産として有名だった。 街道沿いには髭茶屋町、南・北追分町の3か町があり髭茶屋町は髭づらの老人の茶店があったことが由来。
{右}放光山 閑栖寺  [真宗大谷派] 横木1-2-2
少し先。出家し西向と名乗った美濃出身の武士が本願寺10世証如から阿弥陀如来絵像を賜り天文23年(1554)道場を開き実相庵と称したのが起こり。寛永16年(1639)2世空心が東本願寺13世宣如から木造阿弥陀如来像を賜り閑栖寺となった。元禄12年(1699)追分の大火で焼失し享保7年(1722)にかけて再建。この付近は古くは園城寺の寺領で境内左には寺領境界を示す「従是西寺門領」石柱もあり園城寺再興の祖・智証大師座像も所蔵。山門は元文3年(1738)修復された太鼓櫓楼門で門前左に昭和57年寺名石柱、門前右に車石と説明立札、左面「西 京三條」右面「東 逢坂関」と刻まれた「東海道」石柱もある。山門入って左右にも車石。他に境内には灯籠、井戸跡、鬼瓦など。古い「大津絵」も所蔵。
{右}旧藤尾小学校跡地
しばらく下るとランプ道の塀前に平成4年の藤尾小学校(茶戸町10-1)百周年記念に建立された石柱(高さ120cm)がある。明治8年(1875)古関学校がこの地に創立され明治19年(1886)6月に大津第二教場、10月に簡易科藤尾小学校となった。明治25年(1892)小学校令改正で大津藤尾尋常小学校となり後に現在地に移転した。手前には石仏4体が安置された上横木町地蔵尊の祠もある。横木の地名は秀吉が方広寺[天台宗](京都市東山区茶屋町527-2)の大仏を建造する際に大きな石を運搬するため街道一面に丸太を横たえて通りやすくしたことに由来すると伝わる。
{右・寄}井筒八ッ橋本舗 追分工場店 横木1-3-3
すぐ先右の歩道橋で国道161号バイパスを越え右折して児童公園前を通り道なりに進み石段を下りると国道1号線沿いにある。文化2年(1805)京都四條南座前で井筒茶屋として創業した井筒八ッ橋本舗が平成6年平安建都1200年記念としてオープンした工場兼直販店舗。関連会社走り井餅本家の本店も兼ねている。八ッ橋の工場見学、試食もでき昔の製造工程を人形で展示。大津絵、大津針、日本最古の算盤など追分周辺の歴史資料も展示されている。入口右には「日本そろばん発祥の地」石柱、「大津絵発祥の地」石柱、「追分」説明立札もある。国道側の別の入口右には走井の名水イメージした井戸もある。走り井餅(5個450円)つぶあん入り生八ッ橋「夕子」(10個530円〜)9時-18時無休。
{左}牛尾観音道標
歩道橋から少し先左に道が分岐する角にある。側溝に殆ど埋まっており「牛尾山」の下に「観」の字がわずかに見える。牛尾観音は東南2kmほどにある牛尾山法厳寺[本山修験宗](京都市山科区音羽南谷1)のことで垂仁天皇の時代に創建され音羽山清水寺[北法相宗]の発祥地とされる。本尊の11面千手千眼観世音菩薩像は奈良時代の作で天智天皇の持仏だったとされる。現在は修験道場として年に数回一般向けの滝行なども開催している。すぐ先左に紅殻格子の民家がある。その隣には黒い板壁と白壁の蔵があり蔵の壁には「煌めき大津賞 都市景観部門受賞」のプレートがある。
東海道分断
少し行くと国道1号にぶつかり東海道は分断されている。手前右の歩道橋で国道を横断し迂回する。横断し終わって国道沿いを左に進み少し先の魚喜いゝだの前の2叉路を右に進むのが東海道の続き。鮮魚仕出店・魚喜いゝだ(横木1-10-29)前の塀に「旧東海道マップ」、右の電柱上に「旧東海道」表示がある。2叉路を右に少し進んだ魚喜いゝだ横の植込みには車石と説明立札がある。少し先右の民家前の縁石にも車石が使用されている。
{右}三井寺観音道分岐
少し先のスーパーフレスコ四ノ宮店(横木1-11-3)手前の角。文政5年(1822)大きな道標(高さ219cm)と明治36年(1903)常夜燈がある。道標は正面に「三井寺観音道」左面に「小関越」右面に「願諸来者入重玄門」と刻まれ定飛脚問屋が建てたもの。右に分岐していくのが小関越えの三井寺観音道(旧北陸道)。古くは東海道、東山道、北陸道はこのルートを通り平安時代に逢坂の関ができる以前の関所も小関峠にあった。東海道、東山道が逢坂を越えるようになっても北陸道は現在地で分岐し西近江路(北国海道)札の辻で分岐するようになってからは三井寺(園城寺)への近道や間道として利用された。芭蕉も野ざらし紀行で伏見から大津に向かう途中に小関峠付近で「山路来て 何やらゆかし 菫草」と詠んだ。
{右・寄}逢西山 善福寺 [真宗大谷派] 横木1-13-8
少し先に昭和44年建立の寺名石柱があり右折していくと右にある。創建時期は不明で本尊は阿弥陀如来。山門前左に灯籠と平成20年寺名石柱がある。山門入って正面の庫裏前に親鸞銅像、左の本堂前に灯籠もある。東海道を少し進むと左に「京都市」標示があり小さな川を渡ると京都府京都市山科区となる。しばらく進み右に木戸脇屋酒店四ノ宮店(京都市山科区四ノ宮堂ノ後町17)がある十字路を右折すると正面が京阪電鉄京津線四宮駅。