東海道ルートガイド
山科

{右}山科地蔵 京都府京都市山科区四ノ宮泉水町16
しばらく進み四ノ宮川を渡ると左に小祠があり斜め向かいに六角堂がある。保元2年(1157)疫病が流行したため後白河天皇が京の東海道への出入口にあたるこの地に伏見地蔵(法雲山浄妙院大善寺)の6地蔵の1つを分置したのが起こり。他に大阪街道に鳥羽地蔵(浄禅寺)山陰街道に桂地蔵(地蔵寺)周山街道に常盤地蔵(源光寺)鞍馬口街道に鞍馬口地蔵(上善寺)と京に通じる4街道の出入口にも地蔵を分置し奈良街道の伏見地蔵と合わせ京の守りとした。安置されている木造地蔵菩薩立像(高さ2.6m)は仁寿2年(852)小野篁が木幡山の1本の桜から刻んだ6地蔵のうちの1つ。山科廻地蔵、四ノ宮地蔵とも呼ばれ尊顔は100年に一度化粧直しされる。六角堂は平清盛が建立し西光法師が供養を行ったと言う。
{右}柳谷山 徳林庵 [臨済宗南禅寺派] 四ノ宮泉水町16
六角堂の後ろに山門がある。揚柳山十禅寺を創建した人康親王の菩提を弔うため子孫の南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)が天文19年(1550)隠居所として創建した。本尊は地蔵菩薩。宝永3年(1706)それまで地域住民により守られていた山科地蔵を地元の四宮善兵衛の願いで管理するようになった。山門前右(六角堂裏)に近年造られたわらべ地蔵(6地蔵)があり一番右は琵琶を持つ。28歳で失明した人康親王は琵琶の名手で芸能の神ともされる。さらに右(六角堂右奥)に室町時代に建立の人康親王・蝉丸塔供養塔もある。四ノ宮の地名は人康親王が第四の宮(仁明天皇の第4皇子)だったことや山科18郷内の4番目の神社である諸羽神社からなど諸説ある。
{右}「荷馬の井戸」飛脚遺跡・東海道茶店跡
徳林庵の前。牛や馬が水を飲んだ文政4年(1821)手水石、年不明の井戸枠がある。井戸枠には「京都大坂 名古屋金澤 奥州上州 宰領中」と飛脚が手形などに使用していた印(丸に通)がある。印は江戸定飛脚問屋が明治に創業した内国通運(現:日本通運)の社章に使用された。江戸時代には六角堂右前には茶店があり東海道を往来した飛脚は徳林庵境内で休憩した。茶店跡のの大日如来堂には飛脚が寄進した茶釜、文化10年(1813)の竈もある。茶釜には「京都三度宰領中」竈には「京順番定飛脚問屋中同宰領中」「江戸定飛脚問屋 嶋屋佐右衛門 京屋弥兵衛」とある。如来堂内には鎌倉時代の四尊石仏(高さ1.1m)行方不明となったが買った水屋の引出しに入り戻ってきたと伝わる不動明王画像もある。
{右}「伏見六ぢざう」道標
徳林庵前の「荷馬の井戸」と電話ボックスとの間にある。元禄16年(1703)建立で「伏見六ぢざう」「南無地蔵菩薩」とある。伏見地蔵と呼ばれる法雲山浄妙院大善寺[浄土宗](伏見区桃山町西町24)への道標で以前は手前の京阪電鉄京津線四宮駅前の通りとの交差点にあったとされる。建立者は付近に住んでいたとされる沢村道範でこの先の五条別れの道標も建立した。「伏見六ぢざう」道標左隣には建立年不明の「人康親王御墓」石柱もあり揚柳山十禅寺への道標となっている。
{右・寄}揚柳山 十禅寺 [本山修験宗] 四ノ宮泉水町17
道標の道を挟んだ左に大正元年(1912)寺名石柱があり右折し十禅寺道踏切で線路を渡るとある。貞観元年(859)28歳で失明した人康親王が山科のこの地に隠棲し出家、聖観世音菩薩を安置し開山した。度々の兵火で荒廃したが紅玉真慶が明暦元年(1655)再興。後光明天皇に譲位して出家していた明正天皇が夢告げにより本尊の聖観世音菩薩に帰依し堂宇を寄進。自身と父母(後水尾天皇と東福門院和子)の位牌も遺言で寺に安置した。聖護院門跡の末寺。境内右後ろの敷地に人康親王陵墓がある。人康親王像の他、不動明王、毘沙門天、阿弥陀如来などの像、最古と伝わる平家琵琶など宝物を多数所蔵。門前の灯籠は慶応3年(1867)。境内左に昭和6年(1931)「大峰登山三十三度供養碑」などの石碑
{右・寄}円光寺 [真宗大谷派] 四ノ宮泉水町25
少し東海道を進むと角に昭和12年(1937)建立の寺名石柱があり右折し円光寺道踏切で線路を渡ると右にある。敷地的には揚柳山十禅寺の西隣だが東海道まで戻らないと行けない。山門は長屋門。境内右に蔡華堂がある。他は本堂、庫裏のみ。
{右}諸羽神社 四ノ宮中在寺町17
すぐ先の東海道沿いに明治16年(1883)社名石柱、説明立札、鳥居がある。右折し諸羽神社踏切で京阪電鉄京津線を渡りその先でJRの線路をくぐると正面。参道右に昭和47年「この附近人康親王山荘跡」石柱もある。貞観4年(862)天兒屋根命、天太玉命を祀り両羽大明神と称したのが起こり。永正年間(1504-20)に八幡宮、若宮八幡宮、伊弉諾尊、素戔嗚尊を合祀し諸羽神社とした。応仁の乱などの大火で焼失し現在の社殿は明和5年(1768)築。本殿左奥に元は人康親王の山荘にあり琵琶を弾く際に座ったという琵琶石がある。琵琶石の右には「岩坐(いわくら)」と呼ばれる岩もある。その右に天満宮、稲荷社。本殿左に明治37年(1904)鳥居。灯籠は天和2年(1682)平成4年など。狛犬は明治44年など。
{左}毘沙門尊天道標
少し先右に小祠、さらに先左のルビー美容室(竹鼻外田町4-1)前左にも小祠。少し先左のアパート「アヴァンセ林」前に文政5年(1822)建立の「毘沙門尊天 是ヨリ 北江八町」道標がある。毘沙門堂[天台宗](安朱稲荷山町18)は護法山安国院出雲寺とも称し右折し1kmほど先。大宝3年(703)行基が出雲路(現:上京区上御霊竪町付近)に創建したのが起こり。本尊は伝教大師作の毘沙門天像。天正年間(1573-92)に堂宇が全焼。江戸幕府から寺領を与えられた現在地に天海僧正と弟子の公海が数十年かけて復興し寛文5年(1665)本堂、唐門、仁王門などが完成した。天台宗京都5門跡の1つで毘沙門堂門跡とも呼ばれる。共に重要文化財である洞院公定日記、注大般涅槃経巻第十四、篆隷文体を所蔵する。
{右}九品山 来迎寺 [浄土宗西山禅林寺派] 安朱北屋敷9
しばらく行くとある。嘉禄3年(1227)浄土宗西山派の祖である西山国師(證空)が現在地よりも北の山麓に創建したのが起こり。元亀元年(1570)信長に背いた浅井長政の兵により焼失し寛永8年(1631)再興されたが享保元年(1716)の火災で鉦と長い数珠だけを残し本尊の阿弥陀如来などを含め全焼。翌年に現在地に再建され享保5年現本尊の阿弥陀如来像が寄進された。昭和44年に本堂建物を再建し安朱保育園を開園。1階が保育園、2階が本堂になっている。山門入った右に稲荷の小祠がある。寺名石柱は平成11年の建立。永観堂禅林寺(左京区永観堂町48)の末寺。
{右}「東海道」石柱 安朱北屋敷町12
少し先のマンション「エスタシオン・デ・山科三品」前にある。昭和23年に三品英造が建立した石柱(高さ122cm)で右面に「京三条はし迄 一里半」左面に「大津札の辻まで一里半」とある。石柱の後ろには車石とその説明板もある。この場所には平成17年まで義士餅、良雄最中、大石最中などの忠臣蔵関係の名物菓子を売る三品菓舗があった。石柱左後ろのマンションの入口壁に菓子屋の古看板、昭和33年「京五鍛冶三品派の歴」説明板がある。三品家のは京五鍛冶の1人である丹波守吉道を先祖とする三品派の刀鍛冶の家系であり江戸時代は大阪、江戸に住み直道、兼道、兼光などと称していた。
{右}山科駅前交差点 山科駅入口
少し先。左に平成9年開業の京都市営地下鉄東西線山科駅の5番入口がある。右折して行くと左に大正元年(1912)毘沙門道駅として開業した京阪電鉄京阪山科駅がありそのまま踏切を渡ると大正10年(1921)開業のJR山科駅がある。踏切を渡った右には明治42年(1909)建立の「本願寺 山科兩別院」道標(高さ164cm)もあり下部に「是よりひだりへ六丁」とある。東本願寺山科別院長福寺[真宗大谷派](竹鼻サイカシ町13-17)と本願寺山科別院舞楽寺[浄土真宗本願寺派](東野狐薮町2)への道標。明治12年(1879)最初に京都〜大津間の鉄道が開通した際は山科駅は現在地にはなく京都から現在の奈良線を通って南下し現在の名神高速道路とほぼ同ルートで北上していたため小野蚊ケ瀬町にあった。
{右}明治天皇御遺跡(奴茶屋跡) 安朱桟敷町23
交差点を渡ったホテルブライトンシティ京都山科(RACTOビルA棟)前にある。手前の植込みに平成12年「旧東海道」石柱(高さ102cm)がありその先の植込みに「明治天皇御遺跡」石柱(高さ118cm)と左に金属説明板。明治元年(1868)、明治2年、明治11年にここにあった茶店・奴茶屋で休憩した。茶店は楠木正成の曾孫・若丸を守り山科に逃れた片岡丑兵衛が文安4年(1447)に開いたとされる。平成6年までは料理旅館として大きな建物があり山科駅前再開発で平成10年オープンしたRACTOビルA棟2階に日本料理店として入居したが平成21年に閉店。江戸時代は14代将軍家茂、諸大名、皇女和宮などが立寄ったとされ元禄4年(1691)ケンペルの「江戸参府旅行日記」にも「京から一里の奴茶屋」と書かれた。
{右}「吉祥山安祥寺」道標
しばらく進んだ駐車場の角にある。寺[高野山真言宗](御陵平林町22)は右折して京阪電鉄JRの線路を渡り400m先正面。嘉祥元年(848)文徳天皇の母・藤原順子が開基、恵運が開山。本尊は11面観音。現在の山科駅を中心に広大な寺域を有したが応仁の乱で焼失。江戸時代に残った寺宝を安置し再建したが何度かの火災で規模を縮小。天明7年(1787)刊「拾遺都名所図会」に描かれている多宝塔も明治39年(1906)焼失した。現在は文化14年(1817)築の本堂、明和9年(1772)築の地蔵堂、安永2年(1773)築の大師堂(開山堂)が残る。非公開寺院。所有する木造五智如来座像は明治43年(1910)国重要文化財で京都国立博物館に保管。手前や線路北の地名「安朱」は安祥寺と朱雀の地名が合わさったもの。
{右・寄}京都お箸の文化資料館 御陵天徳町29-23
少し先で安祥寺川を大津畑橋で渡るが川の手前を右折し少し先で左の小さな橋を渡るとある。製造卸を経営する井津明楽が平成8年70歳の記念に開館。館長は息子の守進。1階と2階が展示室で国内外の箸、箸置、箸箱450点や箸の歴史、製作過程などの説明パネルを展示。210cmの吉野杉割箸、天皇家使用箸、螺鈿細工の若狭塗箸、銀を象嵌した漆塗箸箱、大正頃の爪楊枝を内蔵した割箸、中国の銀箸や竹箸、韓国の割箸、タイ、ベトナム、モンゴル、チベット、ネパールの箸などもある。箸と全く関係ない絵画も展示されており明楽の趣味であるトリミングでカレンダーの絵を切り抜いたもの。箸の手作り体験、カレンダーの切抜き教室、食文化関連の講演などのイベントも行われる。10-16時、火休、無料。
{右}愛宕常夜燈 御陵鳥ノ向町24
川を渡り少し先。表具師の看板がかかる福永日進堂の前に安政3年(1856)建立の石柱型の常夜燈がある。大宝年間(701-04)の創建とされる愛宕神社(右京区嵯峨愛宕町1)は古くから火伏せの神として信仰され各地で講中が組織され常夜燈が建てられた。神社は愛宕山(標高924m)の山頂にあり「3歳までに子供を愛宕山に登らせると一生火事に遭わない」とも伝わる。京都の殆どの家の台所には「阿多古祀符火迺要慎」の火伏札が貼られている。愛宕信仰は江戸中期に修験者によって各地に広められ現在は全国に約900の愛宕神社がある。手前向かいには1階格子とばったり、2階虫籠窓がある民家があり前には石仏2体の小祠がある。この先も所々格子の家がある。
{右}弘誓山 當麻寺(当麻寺) [浄土宗西山禅林寺派] 御陵鳥ノ向町29
少し先にある。天福2年(1234)浄土宗西山派の祖である西山国師(證空)が創建した。火災で焼失後の天明3年(1783)に再建。山門に「文化財指定 丈六阿弥陀如来安置」看板がある。本尊の木造阿弥陀如来座像は平安末期から鎌倉初期の作で府指定文化財。恵心僧都作とも伝わり山科大仏とも呼ばれ高さ2.7mの寄木造で保存状態が良い。他に當麻曼荼羅を所蔵。境内に多宝塔、やすらぎ観音(聖観音石像)、灯籠がある。山門前左の寺名石柱は昭和49年。永観堂禅林寺(左京区永観堂町48)の末寺。
{左}五条別れの道標
少し先に宝永4年(1703)道標(高さ155cm)と平成17年鉄柱がある。清水山と六条山の間を抜け古くから京都五条と山科を結んでいた渋谷(しぶたに)街道へ向かう道でここを左折し途中で南西に進み渋谷街道に合流していた。渋谷を通る道は「しるたに(滑谷、汁谷)越え」とも呼ばれ水はけが悪く滑りやすい道だったとされる。道標は沢村道範の建立で正面に「右ハ 三条通」左面に「左ハ 五条橋」の下に「ひがしにし 六条 大佛」と「今ぐまきよ水」が並びその下に「道」とあり昭和62年市登録文化財。「ひがしにし」は東本願寺西本願寺、「大佛」は方広寺の大仏、「今ぐま」は今熊野観音寺、「きよ水」は清水寺のこと。この先の東海道は緩やかに右カーブし下りとなり左カーブした右に黒塀の民家など古い建物が並ぶ。
{左}陵ヶ岡みどりの径
しばらく進み三条通り(府道143号線)との交差点を右折し50mでJRの高架をくぐる。少し先の交差点左に冠木門がある公園がある。平成9年市営地下鉄東西線開業時に地下鉄に乗り入れとなったため廃止された京阪電鉄京津線の地上区間の軌道跡を平成14年に整備した緑道公園。公園は250m先の旧:御陵駅跡まで続きその先で再び三条通りに合流しておりその先の軌道跡は車道拡幅に利用された。現在京阪線は冠木門手前向かいのセブンイレブン京都三条御陵店(御陵別所町6-12)裏付近から地下に潜っている。冠木門右に石仏3の祠。公園内は線路跡が遊歩道になっており枕木が等間隔で埋められている。途中に遊具もあり出口の旧:御陵駅跡には駅ホームを模した屋根(休憩所)も設置されている。
{右}天智天皇陵 御陵上御廟野町52
すぐ先。鏡山の南麓に位置し山科陵、御廟野古墳とも呼ばれる。付近の地名・御陵(みささぎ)はここが由来となっている。大化の改新の中心人物である中大兄皇子は大津近江宮への遷都後の668年に即位し天智天皇となったが672年に46歳で崩御したとされ病死説、暗殺説の他に山科の山中に行幸したが戻らず行方不明になったとも伝わる。墓陵の構造は上八角下方墳で上八角部は対辺間42m、下方部は一辺70m。参道を350mほど直進すると二重の玉垣や植込みに囲まれた鳥居がある。街道沿いの少し先の別の入口左には石造日時計の碑がある。天智天皇が作った漏刻(水時計)が日本の時報の始まりとなったことに因み昭和13年(1938)京都時計商組合が創立20周年事業として建立した。
日ノ岡峠 御陵(日ノ岡)一里塚(125)
少し先左の理容店・志佐の先の細道を左折し三条通りから分岐するのが東海道。少し先で陵ヶ岡みどりの径と交差した左に石仏4体の祠、すぐ先右の民家石垣などに車石。少し先の変形十字路で小クランクがありすぐ先左の民家前にも車石。さらに先の左が開けた場所に出ると畑やその先左の民家の縁石にも車石が数個使用されている。その先で道が上りとなる付近に最後の一里塚となる御陵一里塚があった。元禄3年(1690)東海道分間絵図には左に榎1本右に榎2本と記録されている。しばらく進むと左の地名は日ノ岡ホッパラ町となる。急坂の日ノ岡峠を削った際に土砂をこの付近に捨てた(ホッパラかした)のが由来と言う。日ノ岡の地名は三方が山で東側だけが開かれていることに由来するとされる。
{左}亀の水不動尊(木食遺蹟 梅香庵址)
しばらく坂を上って行くと民家横の空地にある。享保10年(1725)鳥辺山安祥院[浄土宗](東山区遊行前町560)を再建した正禅が享保21年から3年がかりで難所だった峠道を60間(1.1m)掘り下げるなどの改修工事を行い峠道の管理所と旅人の休憩所としてこの地に梅香庵(木食寺)を建立した。旅人に振舞う井戸水は石水鉢に落とす口が亀の形の石だったことから「亀の水」と呼ばれた。現在も水道水で亀の水が再現されているが江戸時代に水を受けていた石水鉢は現在は東京の椿山荘庭園にある。奥には石造不動尊が安置。手前の民家脇に「木食遺蹟 梅香庵址」説明板がありその奥の隅には宝暦2年(1752)石竃ある。正禅は元文6年(1741)養阿と改名し宝暦13年(1763)この地で76歳で没した。
{左}花山稲荷道道標&妙見道道標
すぐ先で左後方から細い道が合流する角の電柱の陰に2本並んである。左の小さな方が「右 かさんいなり道」(高さ90cm)右の大きな方が「右 明見道」(高さ116cm)。ここを左折し南に進むと花山稲荷神社(西野山欠ノ上町65)や護法山妙見寺[日蓮宗](大塚南溝町3)に向かう。神社は延喜3年(903)醍醐天皇の勅命で創建されたとされ祭神は宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神。境内には三条小鍛治宗近が名刀「小狐丸」を鍛えた場所とされる「稲荷塚」や大石良雄が寄進した鳥居、断食石、血判石がある。妙見寺は延暦13年(794)平安京遷都の際に都の四方に安置された妙見菩薩の1つとされ江戸時代は眼病の御利益でがあるとして有名で本島知辰(月堂)の月堂見聞集にも紹介されている。
{左}大乗寺 [法華宗本門流] 北花山大峰町38-1
少し先に平成8年寺名石柱がある。左折して登っていくと境内。江戸中期に戒禅比丘隆韶が内野(現:上京区南西部)に創建。2世以降は尼寺として続き数代後に改宗し大本山本能寺[中京区下本能寺前町522]の末寺となった。昭和後期に現在地に移転したが荒廃し平成4年から再興整備された。「酔芙蓉の寺」看板もあり9月中旬〜10月中旬は境内の1300本の酔芙蓉が咲き酔芙蓉祭も行われる。山門前右に題目石柱。山門入って左に水子地蔵尊、左奥に日蓮、源宗于、光孝天皇などの歌碑、さらに奥に行くと平成15年建立の酔芙蓉観音像。他に多宝塔(無縁塔)など。詩吟、華道、扇舞など文化教室も行われている。
{左・寄}頂後山 光照寺 [浄土宗] 北花山山田町57
少し先右の京都市上下水道局新山科浄水場導水トンネル第二接合井の斜め向かいに駐車場とゆるやかな石段があり少し登った左に「圓光大師舊跡」石柱がある。登りきると本堂横に出て左に行くと善光寺如来石仏の石祠と石仏5体がある。他は庭、墓地のみ。元は行基が開いた草庵があった場所とされ寿永2年(1183)木曽義仲が入洛し洛中が戦乱に巻や込まれた際に金戒光明寺(左京区黒谷町121)にいた法然がここに避難したと伝わる。後に光照が寺として創建した。法然自作と伝わる法然上人像と法然の母の手紙を貼ったという文張地蔵尊を所蔵する。
{右}小さな堂
少し先にある石仏1体が安置された小祠。向かいは光照寺境内への別の登り口となっている。この先も左右に小祠が点在する。少し先右には新しい同型の民家が6軒続き向かいには石仏3体が安置された小祠もある。新しい民家が途切れるところで峠の登り道が終了する。少しずつ下り始めた左には横に石仏3体が並ぶ小祠があり中には木造阿弥陀如来座像が安置されている。少し先右に石仏1体の小祠もある。
{右}「旧東海道」石柱
アパート「CASA75」の先の民家横の空地の少し奥まったところにある。昭和63年建立(高さ95cm)。背後には三条通り(府道143号線)を行く車が見え手前の石段を降りると三条通りにも出られる。日ノ岡峠の東海道は梅香庵を建立した正禅が峠を改修した後も文化2年(1805)車石敷設工事、嘉永2年(1849)改修工事、明治8年(1875)〜10年(1877)大津街道・日ノ岡峠改修工事(車石撤去)などで整備が行われてきた。少し先左の日ノ岡西部町内会集会所前には石仏2体が安置された小祠、さらに先左の民家前にも石仏2体の小祠。坂を下りきると再び三条通りに合流する。合流点右の民家敷地には朱色の小祠がある。
{左}車石広場
合流して少し先の路肩にある。車道拡幅工事完成記念として平成16年に造られた。車道拡幅に利用されたのは平成9年市営地下鉄東西線開業時に地下鉄に乗り入れとなったため廃止された京阪電鉄京津線の地上区間の軌道跡。この付近の三条通りは4車線となり歩道も整備されている。広場には俵を乗せた荷車を模したベンチや車輪を模したイスがある。ベンチやイスの土台、広場の敷石、平成16年設置の説明碑前には車石が使用されている。この先はゆるやかな上りとなる。斜め向かいの歩道の石垣にも車石が所々使用され「旧舗石 車石」と刻まれた石碑も嵌められている。少し先右に小祠、さらに先右の石垣に「泰平萬民」「王護」などが刻まれた石碑の破片も嵌められている。
{左}粟田口処刑場跡
少し先の信号手前の石垣上にある。明治28年(1895)6字名号碑、大正元年(1912)京津電気鉄道が建立した萬霊供養塔がある。正確な場所は定かではないがこの付近には京都最大の処刑場があったとされ平安京遷都以来1万5千人が処刑された。昭和6年(1931)から行われた国道工事の際にこの付近で多数の人骨が発掘されたと言う。近辺には供養塔も多く存在したが江戸時代以前の供養塔は明治の廃仏毀釈で破壊され道路や石垣に転用された。京都市日ノ岡地域包括支援センター(日ノ岡朝田町50-7)横の敷地には享保2年(1717)正禅が刑場に建立した6字名号碑や昭和15年建立の題目塔がある。名号碑は破壊された下半分を補修再建し題目塔は古い供養塔の破片や車石を土台としている。
{左}修路碑
少し先右の山よし東山店(日ノ岡一切経谷町6)向かい。九条山バス停(左)少し手前。明治10年(1877)建立の道路改修の記念碑(高さ180cm)で題字は太政大臣・三条実美、撰文は府知事・槇村正直、書は府役人・中村勤。明治8年から京都府により滋賀県境〜三条大橋間の大津街道・日ノ岡峠道路改修が行われた。峠道を中心とする1里19町51間(6km)で最も高い地点では1丈1尺4寸(3.5m)低くしたと言う。車石もその際にほとんど撤去された。工事の中心となったのはマサチューセッツ工科大学への土木技術留学から明治7年に帰国したばかりの本間英一郎で明治13年に工部省鉄道局に出仕して以降は敦賀線、直江津線、碓氷線など各地の鉄道敷設に従事した。
{左}「日岡峠人馬道」石柱
少し先の九条山信号手前右に大きな石仏立像やたくさんの小石仏を安置した地蔵堂。その先に九条山バス停(右)がありすぐ先で東山ドライブウェイの花鳥橋をくぐって左の石垣上を見ると畑の中に高さ2.3mの石柱がある。梅香庵を建立した正禅が享保21年(1736)建立した石柱で近年発掘された。この付近の東海道は牛車が通る道と人馬が通る道が分けられていたため人馬が通る道を示した。東山ドライブウェイは三条通りと国道1号(五条通り)を結ぶパイパスで昭和34年(1959)開通。途中で分岐すると青蓮院将軍塚大日堂や東山山頂公園展望台に通じる。将軍塚は桓武天皇が平安京の造営時に都の守り神として高さ8尺(2.4m)の将軍土像を造り埋めたと伝わる場所。花鳥橋をくぐると東海道は下りとなる。